| 日付 | 2024年02月20日 |
| 参加者 | ANNE、エーデルワイス、雪割草、アカシア、ハル、コゲラ、ルパン、さららん、Wind24、ニャニャンガ、きなこみみ、花散里、マリオネット、しじみ71個分 |
| テーマ | 忘れること、忘れないこと |
読んだ本:
原題:TROLLINA E PERLA by Donatella Ziliotto, 1984
ドナテッラ・ヅィリオット/作 長野 徹/訳 北澤平祐/絵
岩波書店
2022.12
〈版元語録〉川辺のアシ原にすんでいる「野暮らし族」の長老たちは、生まれたてのお姫さまを、都会生まれの金髪の赤ちゃんとこっそり取り替えてしまいます。ふたりの女の子はすくすく成長し、周りの人たちがおどろくような才能を発揮しますが……。個性豊かなキャラクターたちが活躍する、ユーモアあふれる現代のおとぎ話。
昼田弥子/作 光用千春/絵
アリス館
2022.12
〈版元語録〉友達の家に向かうとちゅう、迷子になった樹。声をかけたのは、「エツコ先生」と呼ばれる認知症のおばあさんで…。エツコさんと5人の小学生の、少し不思議で幸せに満ちた「記憶」をめぐる連作短編集。
トロリーナとペルラ
原題:TROLLINA E PERLA by Donatella Ziliotto, 1984
ドナテッラ・ヅィリオット/作 長野 徹/訳 北澤平祐/絵
岩波書店
2022.12
〈版元語録〉川辺のアシ原にすんでいる「野暮らし族」の長老たちは、生まれたてのお姫さまを、都会生まれの金髪の赤ちゃんとこっそり取り替えてしまいます。ふたりの女の子はすくすく成長し、周りの人たちがおどろくような才能を発揮しますが……。個性豊かなキャラクターたちが活躍する、ユーモアあふれる現代のおとぎ話。
ANNE:いわゆる「取り替え子」がテーマのお話でしたが、ちょっと珍しいストーリーだったと思います。川のほとりに暮らす人々のことを表す「野暮らし族」という名称になかなかなじめず、物語の世界に入るのに少し時間がかかりました。まったくタイプの違う二人のお姫様の対比はとてもおもしろかったのですが、結末で二人がすんなりと入れ替わり、元々の社会で暮らしていく過程がとてもあっさりと描かれていて、ちょっと物足りない感じがしました。「野暮らし族」の人たちの暮らしぶりが、「借りぐらしのアリエッティ」の世界観に近いような気もしました。
エーデルワイス:表紙を見た瞬間に、見覚えがありました。挿絵の北澤平祐氏は、絵本や挿絵で見かけていました。今回の絵は日本的なイメージで、合わない感じがしました。優しい内容なのになかなか入り込めなくて、しばらく読み進めてようやくおもしろさがわかってきました。「日本製の義足」(p102)の言葉に日本は技術が高いのだと、誇らしく思いました。
雪割草:楽しく読みました。果物で首飾りを作るなど、子どもがやってみたい、わくわくする夢を描いているのがよかったです。もちろんお話がおもしろくなければ読みませんが、子どもの本では社会的な価値観も大事にした方がよいと思います。たとえば、トロリーナとペルラそれぞれが、野暮らし族と都会暮らしの人たちの性質を生まれながら引き継いでいて、それが好みにまで反映されていたり、読み書きを習得する能力はペルラの方が優れていたりと、こんなに環境に影響されず育つかな、一つの種族で均一になるのかなという疑問をもちました。野暮らし族も人間として描かれているので、ともすると差別的とまでは言わないけれど、偏った見方を助長してしまう恐れがあると思います。「取り替え子」の話ということですが、元の家族に戻って幸せというエンディングは、多様な家族のあり方が受け入れられている現在の価値観にも、合わないと感じました。
アカシア:出てすぐ読んだのですが、イタリアの児童文学に慣れていないせいか、あまり心に残りませんでした。今回読み直す時間がなかったので、皆さんの発言をうかがって思い出しているところです。何かあったら、あとでまた感想を言わせてください。
ハル:なんかこう、お話がふわふわしていて、タッポとかツィットとか、似たような名前も次々に出てきて、途中で、いま誰の話だっけ? とわからなくなってしまいました。いろいろと示唆に富んだお話だとは思うのですが、その割に「インディアンごっこをするふりをして、しばりつけてしまおう」(p47)といったような言葉はそのまま残っているから、後半の精神疾患の人たちが登場する場面も、そのままコメディとして扱っている感じがして、いまこの本を刊行するのはちょっと勇気がいるなというか、思い切ったなーという感じがしました。生きとし生けるもの、すべての命は尊いですが、だからといって、ゴキブリをかわいがってみたり、鳥に「虫をつかまえようとするのはよしなさい」(p40)といってみたり、自然の摂理や何かを犠牲にして生きていくことを否定するのは、生命の否定なんじゃないかと思います。まぁ、それは個人的な意見としても、原書は四半世紀以上も前に発表された作品だということですが、今もまったく古びない、とは言えないんじゃないかなと思います。アップデートされていない点に目がいってしまいました。
コゲラ:チェンジリングの伝承をベースにした物語ですね。モーリス・センダックの『まどのそとのそのまたむこう』(現在は『父さんが帰る日まで』アーサー・ビナード訳 偕成社)もそうで、大江健三郎が小説『取り替え子』(講談社文庫)の最終章「終章 モーリス・センダックの絵本」で同作とチェンジリングについて書いており、かなり前に読んだのに今でも胸に残っています。
それはともかく、歴史的には「取り替え子」は、障がいを持って生まれた赤ちゃんをそのように思ってしまった、あるいは処遇してしまったというような痛ましい側面もあるようですが、この『トロリーナとぺルラ』は、とにかく楽しくて、私が子どもだったら、時間を忘れて読みふけってしまうのではないかと思いました。翻訳の力もあると思いますが、野暮らし族の暮らし方が、とても魅力的です。作者の豊かな想像力が素晴らしい! ただ、取り替えられた赤ちゃんが、それぞれの親たちの属性を持っているのが不思議でしたが、寓話ということですから、これはOKなのかも。
気になった点が、二つだけあります。野暮らし族はトロルだといっていますが、髪や肌が黒いところから、どこかロマの人たちを思わせるところがあって、そういう暮らし方や考え方が違う人たちでも、排斥したり、戦ったりしないで自分たちの仲間に入れてあげようよという寓意はいいのですが、どこか白人の「上から目線」で書かれているような気がしました。二つめは、精神科病院から追い出される人たちのくだりで、訳者あとがきによると当時のイタリアで話題を呼んだ解放医療のことをいっているとのことですが、日本の子どもたちには理解できないのでは?
ルパン:スミマセン、わたしはまったくおもしろくなかったです。半分くらい読んだところで、これは寓話か風刺のつもりなんだろうな、ということに気づきましたが、それでも、何が言いたいのかよくわからないまま終わりました。あとがきによると、初版は1984年の作品ですよね。40年前。お姫さまは白い肌で金髪がいい、とか、今の時代にこれを出版する意味って、どこにあるんだろうと思います。批判精神があるのだとは思いますが、大人には理解できでも、子どもにはどうなのかな。ヨーロッパの「取り替え子」の民間伝承も、日本の子どもは知らないし、ひっかかるところの多い作品でした。
さららん:読み始めてすぐに、子どもの頃の愛読書『カテリーナのふしぎな旅』(エルサ・モランテ作/画 安藤美紀夫訳 学研)を思い出しました。段ボールの家に住むカテリーナとそのお人形が主人公の、とりとめない物語なのですが、それと共通するイタリアの空気を感じました。
『トロリーナとペルナ』は、社会風刺を含む寓話をどう受け止めるか、評価が分かれるところだと思います。最初に気になったのは、野暮らし族が「さらさらした金髪」のお姫様をほしがっていたところで、これでいいのかなあ?と思いました。野暮らし族のお姫様になったペルラは、赤ん坊のとき取り替えられた人間の子どもですが、プードルをほしがったり、字を書いたり、前の世界のことを知っているのが私も不思議でした。野暮らし族が保健所の犬小屋でプードルを見つける場面で、「処分されるだの、殺されるだの、そんな話はでたらめさ。そんなひどいことをする人間なんていないよ」(p28)というセリフが出てきます。かなりきつい皮肉で、読者の年齢によって解釈に差が出てくるところ。ヨーロッパでは、子どもの頃からこうやって風刺の伝統に鍛えられているんでしょうか。ちなみに呼称が話の中でいきなり変わると、ついていくのが大変です。(対象年齢層の子どもたちには、なおさらです)。「アルバ夫人」「フィオリーナ女王」が、途中で急に「お母さん」に変わったので、イメージが混乱しました。同じ建物を指しているのに「古い町の古びたマンション」(p32)が「都会のマンション」(p100)なのも同様です。犬の話やサーカスの話、精神病院の話など、いろんな要素が盛り込まれているのに、全体がからまりあって大きく動き出さないところが少し残念でした。
Wind24:イタリアを舞台にし、「取り替え子」をモチーフにしたお話です。ヨーロッパには妖精やトロルが自分の子と人間の子を取り替える昔話が多くありますが、イタリアのお話は初めてでした。イギリスの昔話では人間対トロルの対決で緊迫感がありスリル満点の場合もありますが、国民性の違いでしょうか、内容も印象も随分ちがうなぁと思いました。
人間の子ぺルラとトロルの子トロリーナが取り替えられますが、成長とともにもともと持っている性質や考え方が色濃くでてきて、お互い環境に馴染めないところなどおもしろかったです。随所にユーモアがあり風刺が効いているところも、クスクスニヤニヤしながら楽しく読み進めました。おしまいに「取り替え子」だとわかり、それぞれ元の鞘に納まりますが、その後も交流があったり、元の生活を懐かしんだり、身に着いた習慣が出てきたりするのがおかしかったです。日本の子どもたちには「取り替え子」の概念がないのでお話に入りにくいところがあるかもしれません。
ニャニャンガ:「取り替え子」の話ではあるものの、表紙や挿絵を含め、大らかでゆるい感じがおもしろかったです。トロリーナとぺルラそれぞれが、環境がちがうのに自分が生まれもった特性を持ちつづけているのは少し不思議な感じがしました。野暮らし族たちはぺルラの影響で近代化された生活になじんで幸せだったのでしょうか。
きなこみみ:私は、どうも風変りな物語に惹かれる傾向があって、この物語のわけのわからなさというか、頭を揺さぶってくる感じに、なんだろうと興味を惹かれたんです。この物語の趣向は、ファンタジーによくある「取り替え子」なんですが、妖精と人間の物語というよりは、人種やルッキズムへの眼差しが強い仕上がりで、それもまたわかりやすい図式というより、ちょっと痛いところ、ギリギリのところを突いてくる感じに、価値観が翻弄されます。
アメリカやイギリスの、良き児童文学という感じとは異質なんですね。まず、野暮らし族の暮らしって、ごみを拾ってたりして、どう考えてもあまりいい感じではないのですけど、彼らの拾っているのは人間が出しているもので、それを知らん顔してきれいに暮らしているつもりって、なんだろうね、とも思えたりする。先進国と言われる国に住んでいる人が出した大量のプラゴミを引き受けているのは、違う国の人たちだったりすることを思い出してしまうんです。
ところが、当の野暮らし族があこがれているのは、金髪のほっそりした人間で、その価値観はどこで刷り込まれているんだろうね、と思ったり。野暮らし族の人たちの美的感覚は、人間と違うらしいのに、金髪への憧れは変わらないのは変だと思うんですけど、翻って考えると、私たち日本人が読むおしゃれな雑誌の広告、ファッションや美容のそれには、北欧系の風貌の人たちが溢れているわけで、そんなことも思い出してチクリとします。巷には、整形の広告がガンガン溢れていて、鼻ぺちゃ丸顔をどうすっきりさせるか、という圧力にも満ち溢れているのは、実は変なことだけど、見過ごしてしまったりする。p22で、ぺルラが、グレイのプードルをほしいというところがありますけれど、純血種や、決まった毛色の動物がもてはやされたりすることと、優性思想って、どこか繋がってるのかもしれない。人間ならそんなことおかしいと当然思うのに、猫や犬なら、この種類で、この毛並みの子がほしい、って平気で言っちゃうのは、どうなんだろう、とか。こつん、こつん、とぶつかる要素が多くて、心にざらっと触れてくる。このあいだ、『哀れなるものたち』という映画を見てきて、子どもの奔放さというか、モノの見方が照らし出すものに翻弄され、刺激的な内容にこれまた頭を揺さぶられてきたのです。こういう、わかりにくいというか、一味違った物語も、あってもよいかも、と思って、この物語を皆様がどうお読みになるか聞いてみたかったのです。
花散里:イタリアには子どもを取り替えてしまうという寓話が多いと、長野徹さんが「訳者あとがき」に書かれており、イタリアの寓話を日本の子どもたちへ伝える、という児童文学なのかと思いながら、読みました。「野暮らし族」の色黒、ぽっちゃり、小さい子と金髪で色白、ほっそりした子。赤ちゃんの時に取り替えられて、それぞれの世界で成長していく二人の女の子が、周りに登場するユニークなキャラクターたちとともに描かれています。楽しく読める物語だとは思いましたが、装丁、文字の大きさなど中級向けに作られていることから考えると、登場人物に似たような名前が、けっこう多く出てくることや、ラストは元の家族に戻るということが、すんなり子どもたちに受け入れられるのかと疑問に感じました。「取り替え子」についてなど、設定が分かりにくく、大人は背景が理解できるから入っていけるところはあると思いますが、子どもたちはどう読むのでしょうか。物語全体を通して、引っかかるところが多かったので、日本の小学校中級の子どもたちには読みにくいのではないかと感じました。
マリオネット:金髪で色の白い人がいいとされていて、対する野暮らし族は、肌が黒めで髪がちぢれていて、という前提を読んで、今の時代にフィットしていない気がするけど大丈夫かしら?と心配になりました。読み進めると、野暮らし族がとても魅力的に描かれているし、エピソードもおもしろいのですが、やっぱり喉に刺さった小骨のように、最後まで引っかかりました。昔に書かれた本は、もちろんそのまま味わい深い古典として存在していてほしいんですけど、あえて今、わざわざ翻訳する必要がある本なのかあ、と。もっとも、あとがきを読むと、翻訳の長野さんの並々ならぬ思いは、伝わってきました。あと、文中のイラストはほんわかしていていいんですけど、装丁のインパクトが弱いと思いました。特に背表紙。図書館の棚の同じ場所を3回探してやっと見つけました。2年前の本なのに、背表紙が色あせて見えますよね。もったいないなと思いました。
しじみ71個分:最初、読んでみて、色黒で背が低くて、ぽっちゃりという身体的特徴のある「野暮らし族」の人たちについての表現がこれでいいんだろか、なんでこんなふうにわざわざ書いているのかと引っかかりました。「あとがき」を読んで、トロリーナというのは、トロルの女の子のことだったのかと、やっと分かって得心した感じです。都会生まれの子は、アシ原の暮らしの中でたくましく育って行くし、動物の声が聞けるトロルの子は都会に感化されていきますが、取り替えられたことでお互いの暮らしに影響を受けていくさまを描いているのはとてもユニークだと思いました。イタリアらしくて、とてもおもしろいなと思ったのが、精神病院から入院していた人がみんな出てくるところです。その人たちが、ペルラの教育によって都会化していった野暮らし族のかわりに、新しい野暮らし族になって自由に生きていくというオチは、実際に、1980年代に精神病院を解体して、地域コミュニティで受入れを進めていったイタリアの実際の話を元にしているのだと思いましたが、ある意味、きついブラックユーモアにも読めました。
野暮らし族の外見的特徴の描き方や、見た目のために子どもを取り替えてしまうというところも、あまり日本では見ない、不思議な、おもしろい話だと思いました。ただ、読んでいる間は、トロルという前提が頭に浮かばなかったので、野暮らし族については、違う文化を生きる人たちというよりは、いろいろできない人たち、汚い人たちという描写にも読めてしまったので、もしかしたら原作そのものがそういうスレスレの危険性を孕んでいたのかもしれませんが、もうちょっと訳に工夫があれば、現代的になったのかもしれないなとも想像しました。内容は社会風刺がピリリと効いていて、とてもイタリアらしいのだけど、挿絵のせいか、どうにもイタリアっぽさをあまり感じられないところもあって、どう考えて読んだらいいのか分からない本でした。そういう意味で、とてもユニークでおもしろかったです。
(2024年02月の「子どもの本で言いたい放題」より)
エツコさん
昼田弥子/作 光用千春/絵
アリス館
2022.12
〈版元語録〉友達の家に向かうとちゅう、迷子になった樹。声をかけたのは、「エツコ先生」と呼ばれる認知症のおばあさんで…。エツコさんと5人の小学生の、少し不思議で幸せに満ちた「記憶」をめぐる連作短編集。
Wind24 : 短い章立てで、エツコさんと関わりを持つ人たちとの交流が描かれていて読みやすかったです。エツコさんにはそんな意図がなくても、出会った子どもたちが幸せな気持ちになり、前向きな行動や考えを持っていきます。エツコマジックと言ってもいいでしょうか。読み進めていくと、エツコさんが認知症であることが分かっていきますが、自分が自分でなくなる、どこにいるかもわからなくなってしまうなど、認知症の症状がリアルに書かれています。きっと寂しいし、怖い思いをする状態にあるのでしょう。またそんなエツコさんを不安の中にいながらも支え続ける娘の有子さん や孫の真名ちゃんの気持ちも、ていねいに描かれていると思いました。
さららん:認知症のエツコさん自身の体験を内側から描くと同時に、子どもたちの見るエツコさんを外側からもふんわりと描いています。ファンタジーではないのに、どこかファンタジックな感じのする作品ですね。例えば1章では、エツコさんのあとを歩いているうちに、この章の主人公、樹(たつき)の時空はふっとワープしてしまいます。ただ描写が粗いように思えるところもあり、それを読者が想像を広げるための間としてとらえるべきか、迷うところでした。あまり細かいことまで書かないで想像にまかせる、マンガっぽい文章なのでしょうか。「明里がなんとなくいってみたら、日菜はオバケでもみたような顔をしてかたまった」(p64)など、見えたものを書いている印象がありました。2章の中の「でも、まあ、宿題は火みたいにあぶなくないから、だいじょうぶかな」(p43)というセリフが、大人の私には言葉足らずのように思えましたが、子どもにとっては自然な日本語なのかも。3章の中で、航平の夢の中に出てくる男の人(エツコさんの亡くなった夫さん)と、あとで出てくる「メガネをかけた男の人」(p75)は同一人物なのか別人なのか、初めのうちわかりづらく、ぜいたくをいえば描写で少し補っておいてほしかったです。p189で、真名がおばあちゃん(エツコさん)との最初の思い出は忘れていても、「ひょっとして、このあったかい気持ちが、わたしの人生で最初の記憶なのかな」と感じる場面、懐かしい温かさとして思い出すところがとても好きです。認知症であっても、なくても、ありのままに人を受け入れることを伝える、気持ちのよい終わり方でした。
ルパン:しばらく前に読んだので、細かいところは忘れてしまったんですが、エツコさんは小学校の先生だったんですよね。退職した教員はいちばん認知症になりやすいんだそうです。そこはリアルだなあ、と思いました。
コゲラ:申し訳ないのですが、今回のテーマをすっかり忘れ(忘れること、忘れないことがテーマだったのに!)、まっさらな状態で読みはじめたので、とても難しい本でした。最初の「迷子」では樹という男の子が引っ越し先で道に迷い、認知症だといわれているエツコさんに従って歩いているうちに、前に住んでいた町の公園や、けんか別れした友だちのアパートが目の前に現れる……これはもう、超能力とまでは言わないまでも、エツコさんの不思議な力を扱った物語に違いないと、しょっぱなからミスリードされたわけです。でも、つぎの章の「雨やどり」では、小学校の教師だった記憶の中にいるエツコさんが、妹に算数を教えるのを、語り手の明里が見守っているうちに、エツ子さんが若い教師の姿に戻っていくというもので、認知症でなくても昔のことを生き生きと語っている人を見ていると、そのころの姿がまぶたに浮かんでくるということはよくあるので、不思議とかファンタジーとか言えるようなものではない。「ん?」と思いました。ところが、次の「お守り」では、エツコさんのお守りを拾った航平が、お守りに入っている写真を見てもいないのに、写真そのもののエツコさんの亡き夫が夢に現れる。やっぱり、これは不思議な話なのかなと思いつつ、「きいろい山」を読みました。これは、この本のなかではとても良くできている話で、友だちもおらず、父親に暴力をふるわれているユウトの心情が胸に迫りましたし、公園に落ちていたオオノさんを思わせるオオカミのぬいぐるみを、エツ子さんに「お友だちでしょ」といわれたことがキイとなって、ショックを受けたために抜けおちていた記憶がよみがえるというストーリーも感動的です(いささかセンチメンタルではありますが)。でも、大人の目から見ると、これってけっこう怖い話ではないのかな。ユウトが俳句と口にしたとたんに、山頭火の句が出てくるオオノさん。山頭火のことを良く知っているわけではないのですが、たしか幼いころに自死をとげた母親を目撃し、弟も同様に死を選び、自身もそういう衝動にかられることがあったと読んだことがあります。もし雨が降らず、ユウトが親も知らないまま一緒に山に行ったら……などと、余計なことを考えてしまいました。そして、最後の「エツコさん」と「記憶」の章になって、やっと「忘れること、忘れないこと」がテーマの作品だと気づいたわけです。というわけで、私にとってはテーマや内容以前に、物語の作り方、組み立て方について考えさせられた本でした。中村さんの家から男の人が出てくる場面で、私も野坂さんと同じように、ちょっと迷いましたが、野坂さんのマンガみたいな文章という言葉を聞いて、なるほどと思いました。
ハル:5章のp154あたり、窓辺のイスにすわってじっとしている夕暮れに、だんだん霧がかかっていくように過去と現在があいまいになって、その霧がだんだん晴れていって「自分のりんかくをとりもどす」(p157)、といった描写に真に迫っているものを感じ、リアルに想像できて怖くなりました。でも、認知症でなくても、いまも誰しもが何かを忘れたり、記憶にふたをしたり、書き換えたりしながら生きているのだから、何も怖がることはない、寂しがることもない、とも思わせてくれる力のある作品です。ただ、読みながら、これは児童文学なのかな? という思いも……。純文学的というか、大人だから味わえる本なんじゃないかなぁと思ったり、子どもに向けた書き方ではないのかなと思ったり。まだ、どこかそう思う気持ちもあるのですが、認知症になったおばあちゃんが、いろんなことを忘れてしまうことと、私たち(子どもたち)が小さい頃の記憶をなくしていることと、何がかわるんだろう、というところにお話をもってきたことで、児童書として成立したのかなぁ……。なんて。よくわかっていませんが。
アカシア:ファンタジーではなくリアリスティック・フィクションなんだけど、なんか不思議な空間に入り込んじゃう体験を描いていますね。『メアリー・ポピンズ』みたいに大人がそこへ連れていくのではなく、認知症のエツコさんをきっかけにして子どもはそこへ入り込んでいく。「お守り」では、全然会ったこともない人の夢を見ますが、現実ではありえないですよね。この本では現実と不思議な世界の境はどうなっているのでしょう。わざとあいまいにしているのかもしれません。「きいろいやま」はユウトの日記の1ページが白紙になる。それがどういうことなのか、意味がよくわかりませんでした。空白にした理由はどこにあったんでしょう。エツコさんは認知症で、現実の世界から抜け出してしまうことがあるけれど、エツコさんだけでなく、だれにでもそういうことってあるよね、という書き方には、とても好感が持てました。それから、作品の中にエツコさんの元先生らしさのようなものがちゃんと描かれているので、リアルに人物が立ち上がってきました。本書では、認知症を気の毒な人という視点で見るのではなく、周りの人たちもあたたかく見ているのがすてきでした。
雪割草:この作品を読んで、昔、中学生の頃に読んだ『わたしを置いていかないで』(I・スコーテ作 今井冬美訳 金の星社)を思い出しました。細かいことは覚えていないのですが、心に残っている1冊で、主人公の女の子が、アルツハイマー病の父親への喪失感を抱えながら、少しずつ前を向いていく話だったと思います。今回の作品は割と軽く、ユーモアがあり、周りの人もエツコさんが好きであたたかく見守っていて、認知症へのこういう描き方もいいなと思いました。視点が章ごとに変わるせいか、全体としてふわっとした印象になってしまっているように感じ、もう少し全体を貫くものがあってもよかったように感じました。私も、なぜ「きいろいやま」の章を入れたのか、その意図がよくわかりませんでした。「忘れること」について、認知症や幼児期健忘とならべて、ショックで忘れてしまうことの例でしょうか。それでも子どもにとっては、そう身近には起きない衝撃的な出来事に感じます。汚れたぬいぐるみもよくわかりませんでした。
エーデルワイス:とても読みやすかったです。私の文庫で小学4年生の女の子が、「認知症」についての授業を受けたことを話してくれました。老人施設の職員と教師が寸劇をして認知症について分かりやすく説明したそうです。小学校でも認知症について学ぶようになったのですね。この作品は認知症を扱った文学的作品だと思いました。「きいろいやま」が話題でしたが、私は6編どれも印象的でした。p98の、航平が真名ちゃんの家にいった場面で、「中村さんが」と航平が言っているのですが、エツコさんのことなのかと思い、読み返すうちに、真名ちゃんのことを言っているのだと気づきました。そのところが分かりにくいと思いました。
ANNE:リアルな物語の中に空想の世界が入ってくるのですが、これはファンタジーということではなく、子どもの心のなかに確かに存在する世界を表しているのですね。6つの短編中、「きいろいやま」はお父さんのDVが背景にあり、読んでいてつらかったです。認知症のエツコさんを、町の人々があたたかく見守っている様子にほっこりしました。エツコさんはきっとすてきな先生だったのでしょうね。
マリオネット:とても余韻が残る本でした。1章が謎めいていて若干つかみづらいですが、徐々に、認知症のエツコさんがクローズアップされていきます。エツコさんの側から見た世界と、孫から見たエツコさん、そして外部の人から見たエツコさん、とさまざまな角度からストーリーができているところがとてもいいと思いました。「忘れる」ということが、認知症の人だけではなくて、子どもにだってあること、そして忘れていても、それはちゃんとあったことなのだ、とわかる――そのあたりのメッセージが素敵だと思いました。なお、1章にタコが出てきますけど、同じ作者の『あさって町のフミオくん』(ブロンズ新社)にもタコが出てきたんですよね。タコが作者にとっては大切なアイテムなのでしょうか。
しじみ71個分:この本を読み終わって、「やられたなー、いい本だなー」と思いました。これまで自分が読んだ、認知症の高齢者と子どもとの触れ合いを描いた作品には、あきらめというか、寂しさを感じる悲しい作品が多くて、失われゆくものに対する気持ちが中心の話になりがちだなと感じていたところがあります。でも、この作品は、エツコさんがそれまでに生きてきた人生や元気だったときの人となりが、認知症になった後も、町の人の対応や、出会った子どもたちの反応などから読み取れます。エツコさんが学校の先生時代にどんなにまじめで優しいいい先生だったかが、それぞれのエピソードの端々から感じられました。以前にお医者さんの話を聞きましたが、認知症になったから不幸なのではなく、認知症になってもその人の尊厳が大事にされていれば、幸福な人生の最後を迎えることもできるのだそうです。介護が辛いのも、元気だった頃の家族や周囲との関係性が、病気になった後の日々を方向付けるのだということで、読みながら、そのお話を思い出しました。
町の人たちは、お世話になったエツコさんのことをよく覚えています。たとえ老いていっても人の尊厳が大事にされているという、物語の端々に滲む優しさに、ぐっと来てしまいました。エツコさんは娘にも娘の夫にも、亡くなった夫にも、孫にも愛されていて、温かな愛情がすみずみまで描かれているところがとてもいいと思いました。また、非常におもしろいと思ったのは、物語の構造がとても凝っていて、章ごとに、小学生の子どもたちがエツコさんに出会って、道に迷う、現実と非現実のあわいが曖昧になってくる、時間が逆行するなど、認知症の症状として言われるような状況を、小学生たちが逆転して体験し、そこから心の中に引っかかっていたことを思い出すというところでした。「あんみつ」の章以外、エツコさんはきっかけづくりの媒介者の役割を果たしていて、子どもたちがエツコさんの体験を追体験することで、自分の心と対話するという形になっています。とても素晴らしい着眼点だと思い、うなりました。また、この本の中では、「きいろいやま」が気に入っています。父親から殴られているユウトくんが、唯一、友情を感じるのがオオノさんなんですね。自分以外の人がそのオオノさんを「不審者」扱いすることで、どれほどユウトくんは傷ついたかを思うと泣けてきます。ずっと、お話に出てくる「ぬいぐるみ」は一体なんだろうと思って考えていましたが、犬にも見える、オオカミにも見えるボロボロのそれは、オオノさんの象徴、ユウトから見るオオノさんと、ほかの人が見るオオノさんだったのかもしれないですね。ボロボロで見捨てられたぬいぐるみを、エツコさんが「ともだちでしょう?」とユウトに一所懸命に手渡そうとしたことで、ユウトはオオノさんを友だちだと思っていたことを自覚し、オオノさんの死を受けとめられるようになります。オオノさんと山にいくはずだった日の日記が白紙になって読めないという表現は、ちょっと分かりにくかったかもしれないけれど、ショックのあまり記憶障害を起こしたり、認知を無意識に拒否したりしたのかもしれないなとも思いました。哀しさをはらんだいいお話だったと思います。最後の「記憶」の章では、孫の真名の「忘れてしまったとしても、経験したことはなくならない」という言葉にはまた泣かされそうになりました。著者が、四日市のメリーゴーランドの増田さんが主宰する「童話塾」出身と知り、ますますやられたなぁと感服した次第です。私にとってはとてもおもしろい作品でした。私は表紙の絵もわりと好きです。
花散里:認知症のエツ子さんと6章それぞれに登場する子どもたちの物語が、表紙絵、目次の文字、挿絵、裏表紙の絵とも重なり、どの章も全然、入り込めず、関心を持って読めませんでした。認知症ということをどのようにして文学として子どもたちに伝えていくか。登場人物が入れ替わっていくなかで、どのような表現でエツコさん(章によって「中村さん」という表現になり)を取り上げていくのか、ということ、さらに文体の問題、会話形式で、「—」、「……」が多用されていることなどが気にかかり、児童文学として作品を創っていくということ自体、欠けているのではないかと感じました。本書を読んで、改めて外国の児童文学と比較して、日本の児童文学をどのように手渡していくのかを考えました。
きなこみみ:認知症のエツコさんを中心に物語が展開するんですが、エツコさんという一人の老人を、さまざまな距離感で描いてあることに惹かれました。ここ数年、認知症をテーマにした物語は増えていると思いますが、どちらかというと、認知症の人を、こんな風に理解しましょう、みたいな教科書的なスタンスが多いように思います。でも、この物語に登場する人たちは、エツコさんへの距離をことさらに詰めようとはしていなくて、ひとりの人間のなかに、様々な記憶や時間軸が積み重なっていること、ランダムに自分のなかの、様々な時間があふれてくる瞬間の不思議さを、ごく自然に受け入れて描いてあることに、しみじみとしました。私にも認知症の母がいて、日々イライラしたり、振り回されてしまったりするわけですが、それでもここまでが認知症で、ここからがそうではない、という線引きなどできない感じが常にしています。
記憶や時間軸が入れ替わったり、失われたりするのは、老人だけではない。例えば、ひとつめの「迷子」も、ずっと引っ越しのときの友だちとのいざこざが忘れられなくて、あの日の友だちの冷たい眼差しが心にひっかかったまま、胸にしこりを抱えていた樹という少年にとって、その痛みの記憶は結び目のように消化できないものとして詰まってる。それが、公園、というきっかけで噴き出すんです。また、皆さんもおっしゃっていますが、印象的なのが「きいろいやま」で、家庭で、理解しあえない父親と暮らす寂しさや居場所を抱えたユウトにとって、ホームレスのオオノさんとの時間はとても大切なものだった。でも、そのオオノさんが死んでしまったことを、多分ユウトは受け入れられなかった。だから、その記憶を消してしまったんです。人間は、消したい記憶を、心の奥底にぎゅっと隠してしまうことがある。でも、つらい記憶は消化できずに、また蘇る。それが、この日記の文字が失われたり、現れたりする秘密に関係してるんじゃないかなと。勝手に日記を読んだりする両親のいやらしさにうんざりしますが、p123で、父親が「おれがなぐったのも、まあ、わるかった」と言うんですけど、どういう経緯で、だれを殴ったのか、はっきりとは書かれていない。ユウトを殴ったと思うのですが、もしかしたら、二人で出かけようとしたときに、オオノさんを殴ったりしたのかも、と深読みしたりしました。公園に横たわっていたぬいぐるみ、ぼろぼろのぬいぐるみが、傷ついたユウトの心のようで、やはり居場所がなくて死んでしまったオオノさんのようで、とても切ない。そのぬいぐるみを、そっとぬぐって綺麗にするエツコさんのいたわりや、優しさが、柔らかい光になって見える味わい深い短編だと思います。最後の「記憶」で、真名がエツコさんとパンを食べながら、胸の奥がポカポカしてくるシーンがあるんですが、「きいろいやま」の、ぬいぐるみのシーンとここは、呼応している、繋がっているように思います。エツコさんのいたわりや優しさが、この短編集のなかで貫かれていることへの回答なのかな、と。派手なところはないんですけど、日常のなかに埋もれている記憶を、そっと掬い取るような味わいを堪能しました。
ニャニャンガ:みなさんのお話を伺ううちに、こんなにいろいろ意見が分かれるとはと、興味深かったです。『エツコさん』は、子どもの本の店主さんにすすめられたのですが、読めば読むほど作品に引き込まれました。認知症のためにいろいろ忘れてしまうエツコさんを軸に、心に小さな棘がささった子どもたちのお話は、ほほえましいような悲しいような……子どもたちに読んでほしいと強く思いました。エツコさんが忘れても、子どもたちの思い出のなかに、エツコさんとの思い出が引き継がれていくのだろうと思います。
何人かの方が気になった読みにくさに関してですが、日本語としては正しくない部分もありますが、物語の語り手の子どもそれぞれの視点なのでそういうものとして、読みづらさは感じませんでした。
とくに好きなのは「きいろいやま」で、白紙に見えた日記帳に文字が見えたときはドキドキしました。オオノさんがいい人でよかったです。あまりにショックな出来事に記憶を封印していたのだろうと思います。カバーをめくると、クリームパンとあんパンが描いてあるのが個人的にはツボでした。このクリームとあんパンは、最後の物語とリンクしているのでじんとします。
さららん:お話に絵がすごく合っていると思いました。この絵が苦手な方も多かったようですが、私はこの絵が、物語の魅力をいっそう引き出しているように感じました。
アカシア:「きいろいやま」の日記が白紙になるところは、ニャニャンガさん、きなこみみさん、しじみ71個分さんのご意見を聞いて、ああ、なるほどと納得がいきました。ほかの方がどう読んだかを聞くと、自分では気づかなかったところがわかって、読みを深めることができるので、この会はありがたいです。
(2024年02月の「子どもの本で言いたい放題」より)