ねむりねずみ:いい本でしたね。絵も含めて、かわいらしい感じ。ブルーイッシュという言葉がキーになってますよね。ドリーニーが青いからブルーイッシュなんだ、という場面があって、そのあとお母さんのせりふで「ブラックとジューイッシュを合わせた言葉」がというのがわかるという順番に、ちょっとだまされたような気がした。そんなに読みごたえがあるとか、感心してしまうというほどの本ではないけれど、主人公の女の子がかわいくて、何かやりたいけれど、戸惑ったりもするところが、いかにもその年頃。全体にこじんまりしたイメージだったけど。あと、いろんな子が出てくるじゃないですか。いろいろな民族の人がいて、多様ななかで育っていく感じがアメリカだな、ニューヨークだな、いいな、と感じました。
最後の終わり方も、いろいろ書いたノートを本人にあげるのが、ほんわかしていい。場面としてはみんなで帽子をかぶるところが一番よかった。似合わないと思う子もいたりするんだけれど、みんないっせいに帽子をぱっとかぶるとお花畑のようにはなやぐというのがいい。

きょん:まず文体があまり自分としては好きになれなかった。多民族の世界があって、自分の生い立ちや背景があって作られた話だろうと思うのだけれど、それが淡々と語られていて、すべてを言いきれていない感じがした。よかったのは、最後、帽子をかぶるところだけ。なんか物足りなかった。

アカシア:私は一番最初に原書の表紙を見て、読んでみたいと思った本です。アメリカ版の表紙絵はディロン夫妻が書いていて、3人の肌の色の違う女の子が、みんな帽子をかぶっている。この話は3人の肌の色の違いが一つの意味をもってるんじゃないかしら。日本版にもこの絵を使ってほしかった。日本語版の絵も絵としてはいいと思うけど、物語としての意味を考えると原著の表紙のほうがいい。ブルーイッシュという、ブラック(黒人)とジューイッシュ(ユダヤ人)の混血っていう、それ自体が差別的な言葉を敢えて使ってますけど、それを超えたところに成立する人間の関係が、日本語版の表紙だと見えてこないのが、残念。

きょん:そう、私が物足りなかったのは、そういうテーマ性が埋もれてしまっているところ。

カーコ:好きなお話でした。ハミルトンは『雪あらしの町』(掛川恭子/訳、岩波書店)しか読んだことがないのだけれど、あれも肌の色や路上生活者をめぐる問題がでてきたから、人種やそういった社会のマージンにいる人々の問題をこの作家は追いかけているのかなと思って読みました。でも、日本の読者には、こういうユダヤ人に対する微妙な感情は推測できなくて、わからないかもしれませんね。この主人公って11歳ですよね。だけど、文章を読むと主人公たちがもっとおとなっぽい感じがしました。なのに、この表紙のイラスト。私には文章とイラストのイメージがしっくりきませんでした。特にヒスパニックのトゥリなんて違うかなって。装丁が大人っぽいのは、本としては大人向けに作ってあるから?

何人か:子ども向けでしょう?

カーコ:文章でもう一つ気がついたのは、三人称だけどすごく一人称っぽいですよね。ときどき混乱してしまった。地の文の中に、主人公の思ったことが、いきなり入ってくるところが多くて。

アサギ:このごろそんな書き方は多いわよ。視点を変えていくっていうのかしら。そんなに新しい手法っていうのでもないけど、最近多いみたい。

:どんな作品も好きになろうと思って読む努力をしているんですけど、今回の本の中ではこの作品がいちばん印象がうすかった。すっと読んじゃうと、ただ病気の子と、最後友情で仲良くなりましたというだけになってしまいそう。翻訳ものを大人になって読むと、子どもの生活を描きながら、むこうの生活がほの見えてきますよね。たとえば、アパートの入り口のドアにも鍵があって、ドアマンのおじさんがそれをあけてくれて、子どもが一人でアパートの外に出ると父親がとても心配するような環境があるとか、ドリーニーたちは、学区で区切られているんじゃなくて、こんなふうな自由な学校に通えるんだなとか、そういう場所があるのを知るのっておもしろいですね。あと、やっぱり表紙のこと。こないだみなさんがのれなかった『ハルーンとお話の海』も原書と表紙を変えていて、原書の表紙のほうがずっとよかったというのがありましたが、これもそうでしょうか。プルマンの作品もそうだけど、宗教が身近にある人だとすっと読めるのでしょうか。このお話のように多民族や宗教が混じった中で暮らしている子どもなら、ずっと違和感がなく読めるのでは。

アサギ:そう、日本の子どもにとって宗教は大きな壁ね。

:宗教がテーマになってくると難しくて、脳天気に読めないですよね。