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『おき去りにされた猫』
C・アドラー/作 足沢良子/訳
金の星社
1985
原題:THE CAT THAT WAS LEFT BEHIND by C.S.Adler,1981

版元語録:小さいころに母と別れ、他人の家庭を転々として育った少年、チャド。13歳の彼は、夏の間ソレニック家にあずけられるが…。猫をめぐるふれあいの中で、新しい家庭にうちとけ、成長していく少年の物語。

:この夏、知り合いのお母さんが、行方不明になって、しばらくその子どもたちをあずかっていたの。彼らひとりひとりの毎日は、こんなもんじゃなかった。この本には、リアリティがまったく感じられなかったわ。こんなに静かに受け止められないはず。私は、あずかった子どもたちの感情の起伏の凄まじさにたじろいだんです。こんなふうに大人の世界を受け止めるはずはない。その子たちに、この本は読ませられない。

:私は子どもの本を読み始めて間もない頃、読んだんです。これ、課題図書だったのよね。子どもが里子に出され、転々としている姿に、感動してしまって……。子どもがこんなふうに猫と自分を重ね合わせて生きていて、家族に入れたり入れなかったり、だんだん気持ちがかわっていく様子に、泣けてきた。だから、「変則的な家族」というテーマがあがったとき、この本だ! と推薦したのね。主人公が自分の力を出していけることになって、本当によかった。つぎに生きていく場所が見つかってほっとした。

ねむりねずみ:淡々としてましたね。訳も物語も。それはそれで、おもしろく読んだんだけど、なんか里親家族がいい人過ぎて、かえってへそ曲がりに、主人公を働かせるせこいおばさんがほんとうはどんな人だったのかと、そっちのほうが気になりました。ちょっとできすぎかなって思う。まったく駄目だとは思わないし、お母さんと一緒になることをただただ祈るところからは一歩抜け出すから、そういう意味では成長の物語なんだろうけれど、どうもいい人ばっかりというのがねえ。猫に自分の思いを重ねることもとてもよくわかるんだけど。なんかなあ、こういうのが古いっていう感じなのかと思った。

愁童:ぼくも、たしかに古いと思うけど、3冊の中ではいちばん安心して読めた。これで幸せになれるかどうかは関係ないと思うんだよね。一つの虚構の世界が気持ちよく終わったなってことでいいんじゃないか。猫の勝手な習性をきちんとおさえていて、ラストの連れて行こうとして逃げられるシーンなど、少年の生き方に重ねた暗喩じゃないかな、なんて思った。

アカシア:この当時(81年)だと、こういう書き方もあるのかな。でも、70年代の『ガラスの家族』(キャサリン・パターソン作 岡本浜江訳 偕成社)ではもうすでに、「いい子」を離れた子ども像が書かれていたんだけどな。これは、とってもいい子で、とってもいい家族にめぐり合えたという、稀に見る幸運な話で、ひとつの作品としては完成されているかもしれないけど、実際にこういう状況にある子が読んだら、ばかにされていると感じるんじゃないかしら。『メイおばちゃんの庭』(C・ライラント作 斎藤倫子訳 あかね書房)の主人公は、同じような境遇で里親をたらいまわしにされるんだけど、こっちはお母さんにあったかく育てられた記憶があるのよね。その記憶がないと、児童心理学的にも、こんなにいい子にはなれないはず。リアリティは確かにないわね。

愁童:書き手はさ、こういうおとぎ話風なメッセージにしてもいいんじゃないかな。子どもが楽しんでくれれば。

アカシア:おとぎ話ふうに読めばいいってこと? でも、実際に大変な境遇におかれた子は増えているわけだし、社会もそういう子どもを理解する必要が増してるわけだから、リアリティのない「いい子」が書かれるっていうのは問題だと思うな。やっぱりこういう物語でリアリティのあるものって、何らかのかたちで自分が関わった人しか書けないと思う。そうじゃないと嘘くさい。

:実際に子どもがこういう状況だったら、なかなかこういう本は読まないでしょうね。

トチ:幸せな子どもが読む本よね。『銀の馬車』(C・アドラー/作 足沢良子/訳 金の星社)なんかも。ストーリーのもっていきかたはうまいから。

きょん:私はこの本、好きでした。たまたま置き去りにされていなくても、心理的に置き去りされている子どももいるじゃないですか。この子は、ひとりぼっちになった自分を、最終的に肯定的に受け入れることによって、これから生きていく姿勢を手に入れる。それがハッピーエンドだと思う。自立するということがハッピーエンド。里親がいい人たちだというのも、甘いかもしれないけど、読んでいて安心感を抱かせる。リアルではないかもしれないけど、作家が書きたかったのは、少年の心の自立だったんじゃないかな。

ねむりねずみ:でも、自立するにしても、あんまり葛藤がなかった。こんなに簡単に心がひらいていくかな? そこが腑におちない。

愁童:それは、読み手の想像力の問題じゃないかな。

ねむりねずみ:内面の、という意味じゃなくて、外部の人との葛藤という意味なんですけどね。里親に心を開くのに、こんなに衝突なしに開けるのか、という。

きょん:淡々と書かれていても、私は葛藤を感じましたが。

カーコ:アイディアがいいとか構成がいいとか、最近は技巧的なお話に注目が集まる傾向にあると思うんですけど、その中で正攻法でまっすぐに描かれていて、古いのかもしれないけど私は好きでした。昔の『小公女』とか『フランダースの犬』みたいに、筋がはっきりして完結した終わり方、幸せな終わり方はほっとするじゃないですか。私は、リアリティがないとは思いませんでした。まわりの人間とのかかわりで少年の心が変化していくようすがよく描かれていると思った。どなりあう言葉をそのまま書くのがリアリティというわけではないし。会話の部分に、英米の作品だということを感じましたね。ここまで、日本人ははっきりと言葉であらわさないから。いいなあと思う文章がはしばしばあった。たとえば38ページの、チャドがポリーに「どうしてあんなに本を読むんだい?」ときくと、「本の中の人は現実の人よりもっと、本当のことがわかると思うのよ」と答えるところとか、201ページの「だれかを愛するように教え、そのあとおき去りにしてしまうなんて、ひどいことだ。」などの一文は、じーんときました。翻訳では、作品全体の雰囲気の作り方がうまいなあと思いました。

紙魚:この物語は、冒頭から、少年の気持ちを映し出したような湿りけのある陰鬱な空気におされたんですけど、森に入っていくにしても、その情景描写が、少年の心とすごく重なるんですよね。そのていねいな積み重ねが、物語をいっそう奥深いものにさせていたと思います。おもしろく読めました。