日付 2002年3月28日
参加者 トチ、ねむりねずみ、ペガサス、アカシア、羊、裕、もぷしー、
すあま、ブラックペッパー、アサギ、ウガ、紙魚
テーマ 最近出版された気になる本

読んだ本:

『ルート225 』
藤野千夜/作   理論社   2002.01

<版元語録>芥川賞受賞後第一作/私と弟が迷い込んだのは、微妙なズレのパラレルワールド!?/変わらない日常、だけど誰かのいない世界/同時代のせつないくらいのリアルさを、軽やかにつかみとる/著者初の書き下ろし長編


『辺境のオオカミ 』
ローズマリ・サトクリフ/作 猪熊葉子/訳   岩波書店   2002.01
FRONTIER WOLF by Rosemary Sutcliff, 1980(イギリス)
<版元語録>ローマ帝国のさいはてに、〈オオカミ〉と呼ばれる者たちがいた。/ローマ軍の青年指揮官とブリテンの氏族との、友情と憎悪、出会いと別れ——『第九軍団のワシ』『銀の枝』『ともしびをかかげて』につづくローマンブリテン・シリーズの完結編


『ラモーナ、八歳になる 』
ベバリイ・クリアリー/作 アラン・ティーグリーン/絵 松岡享子/訳   学研   2001-12
RAMONA QUIMBY, AGE8 by Beverly Cleary, 1981(アメリカ)
<版元語録>小学校3年生の人生もそんなに楽ではありません。ゆでたまご事件をおこしたり、先生に、見せびらかしやさんで、やっかいな子だと言われたり…。「ゆかいなヘンリーくん」シリーズの作者が贈る、愛すべき女の子の物語。


『ルート225』

藤野千夜/作
理論社
2002.01

ねむりねずみ:『ぶらんこ乗り』(いしいしんじ作 理論社)と似てるなあって思いました。最初の一人称のしゃべり方で、ガガガってひっかかっちゃった。今風というのはこういうのかもしれないけれど、好きじゃない。とりとめがなくて、宙に放り投げられたような感じで。今を生きていくっていうのはこういう感じなんだろう、うまくそれが出てるな、とは思うけれど、書いてどうなるんだろうとも思った。両親がいなくても何となく生きていけちゃうという感じが今風なんだろうな。弟がいじめられているとか問題はあるのに、なんだか迫ってくるところがない。物書きとしてはすごく力があるのだろうけれど・・・。

ペガサス:はーっ(ため息)。3分の2くらいまではおもしろく読んだのね。現代に生きる子どもたちが、実態のない生活観というのをもっているというのを書きたかったのかなと思う。猫の死体を車がひいたんだけど両親に問いただしても答えは得られない、吉牛(牛丼の「吉野家」)の前に戻ろうとするんだけど戻れないというあたり、今の暮らしの中には、なんかへんだぞと思う瞬間があって、そういう雰囲気を書きたかったのかな。自分が本当に感じたことと、実際に起こったことのずれを書くために、最初のエピソードを出したのかも。ただ、そうなのかなと思うことはあっても、そうなんだよねと思うところはなかった。今の子の、何をしてもうざったいという感じはよく書けてる。小道具も今のもので、固有名詞をちりばめているから、今の子たちにはすっと読めるようになっている。切れ切れの感覚はよく書けてるけど、羅列にとどまっている。途中でABA´と3つの世界が出てきて、どう差があるのかなと考えて読むんだけど、クマノイさんみたいに差がある人もいれば、塾の先生みたいに差がない人物像もある。だから、混乱してしまうときもあった。結局3つの世界をどうやって決着をつけるのかな、ということになるけど、はたして辻褄の合う決着が得られたのか? でも、わけがわからなくてもいいのかな、というふうには思いました。今の子の追体験をした物語だと思います。

アカシア:作者は、性同一性障害を抱えた人ですよね。世間のスタンダードと自分のスタンダードのずれを、ふつうの人より感じていて、それを書きたかったんじゃないかな? 全編を通じて、不安定な感じが読者にも伝わってくる。それに、3つの世界の差があるのは、お父さんとお母さんとクマノイさんだけなんですよね。お父さんとお母さんが死んでいるんだ、と解釈すると、この作品の構造はすっきりわかるような気がしました。両親が亡くなっていると考えると、主人公の頭の中でだんだん想像の世界が薄れていって現実を受け入れる方向に進んでいくんだってことが、わかるでしょ。

ペガサス:そっか、だから写真にうすく写るんだ。

トチ:最後の1行を読んだら、それがわかって悲しくなったけれど、たしかにわかりにくいよね。

アカシア:会話は、今の中学生の会話になっているんだと思うんだけど、p117のダイゴの「失敬だなァ」っていうのは使わないよなと思いました。あと、この子たちが通っている私立の学校は、学生帽をかぶらなければならないくらい校則が厳しいとすれば、ナイキのスニーカーなんか通学に履けないんじゃないのかな? リアリティということでは、そのあたりひっかかったんだけど。題名の『ルート225』って、どういう意味? 国道は出てくるけど。

:私はね、うそー、なんでこれで終わるのかよー、と思いました。でも、子どもの本を読むのは能力がいるんじゃないか、もう私は読めない体質になったんじゃないかとも感じました。会話にいちいちひっかかったりして、読みづらかった。両親が死んだとは思っていなかったので、それを聞いたらストンときちゃった。でも、気持ちがおさまらないので、芥川賞をとった『夏の約束』(藤野千夜作 講談社)を読んだら、そっちは現実逃避の話ではなくて、私たちはこっち側しか見えてないんだけど、向こう側も見えるっていう中間の感覚を書いてるのかなと思いました。p280の「この世界の東京じゃなくてもとの世界の東京のことだけど、どちらにしろ離れてしまうと、その境界はじょじょにあいまいになって、今ではどっちも同じように、ぼんやりとなつかしい場所のような気もする。」という部分を読んだときは、その感覚がわかるような気がした。

もぷしー:この本は、理屈や常識でわかろうとして読んじゃいけないんだなと思いました。最後には元の世界に戻ってくるんだろうと思いながら読んだら、肩すかしをくらいました。そもそも、二人の姉弟に、現実に戻りたいという切迫した気持ちがないような気がする。基本的には、現実に戻ろうとしていると思うんだけど、なんで戻りたいのかは書かれてない。テレカがなくなれば、それはそれであって、本当に戻らなくちゃいけない切迫感はない。今の現実を本当は受け入れたくなくて、考えないようにしていたら、ほかの世界に行ってしまった話なのかなと思いました。弟のダイゴも、自分と世間とのずれを感じてるんだけど、いじめでもなんでも、なかったことにしようとバリアをはっているうちに、現実とか本当のことへのこだわりがなくなってきてしまったんじゃないかな。この話の、パラレルワールドの世界は、二人が現実のところからずれてしまって、でも真実の世界もうっすらと見えているようすを描いているのかと思いました。

紙魚:私は、なにしろ会話がうまいなあと惚れ惚れしました。先月『海に帰る日』(小池潤作 理論社)を読んだときは、こんな言い方するかな? なんてところが、ところどころあったけど、この人の会話には、そういうところがひとつもない。単に語尾なんかの問題ではなくて、ディテールはもちろん、やり取りや間合いが小気味いい。実際の会話って、説明とかどんどんとばして、お互いがわかっていれば飛躍していきますよね。でも、小説ってついつい説明過多になっちゃう。でも、これほんとに、そうそう、そうなのよーって、リズムが心地よかったです。物語としては、これまでの藤野さんの作品の方がおもしろかったけど、『ぶらんこ乗り』みたいに、筋を追うだけが必ずしも本じゃないとも思います。そういった意味では、成功していると思う。

すあま:『ルート225』のタイトルは、数学の√(ルート)だということに読んだ後で気づいた。章タイトルにある「ルート169」、13歳からはじまっていて、最後は「ルート225」で15歳、という意味がわかったら、この本についてはもう気がすんだ。会話の感じは、テンポもいいし、ちょっと前でいうと、吉本ばななというところかな。最後どうなるかを知りたくて読んでいったけど、女の子の気持ちに深みがなくて、気持ちにそえなかった。悩みもさらっとしているし、違う世界に行っても解決するわけでもない。必死さも今一つ伝わってこない。

:テーマは「ずれ」だなと思ったんですよね。現実とのずれ、両親とのずれ、ずれのモチーフをいろいろなところにもってきていて、究極的なずれは、あの世とこの世だったんだなと気づいたんですね。ただ、私はリアリティが感じられなかった。不安定さにリアリティがなくて、感覚的な部分と構成が合致しなくて、外枠と内容物がうまくかみあっていない。ふりまわされて疲れました。会話が物語をつくっているようには見えるけど、物語がおもしろくない。タイトルは、すあまさんの説明をきいて納得しました。

ブラックペッパー:不思議感あふれる作品でした。「理解されること」を重要視していないのかな。わからない人にはわかってもらわなくてもいいというのも、それはそれで好きになることはあるけど、この物語の場合は、どういう仕掛けだったのか知りたくて読んでたのに、私は両親が死んでしまったとは思わなかったので、結局どういうことだったのかわからなくてザンネン。でも、全体の空気は、とってもよかった。たいへんな事態なのにさめさめだったり、会話なんかも今の時代の人はまさにこういう感じ。このあいだの『海に帰る日』は無理してる感じがあったけど、これはナチュラル。藤野さんは、こういうの上手だなあ。このユルーイ感じ、好き。

トチ:わたしも会話はうまいなあと思いました。こういう会話が書ける人って、耳がいい作家だと思う。ただ、これだけのページを費やして書く内容かなあという気もしました。それに、たとえば『吉牛』とか今時の言葉をたくさん使っているけれど、こういう言葉って、あっという間に古くなってしまうのよね。子どもの本はベストセラーよりロングセラーってよくいわれるでしょ。作者は別に子どもの本って意識して書いていない、読みつがれていってほしいなんて思っていないのかもしれないけれど。『ぶらんこ乗り』もそうだったけれど、このごろの理論社の創作ものには、「別に分からなければ分からなくてもいいですよ。好きな人だけ読んでくれればいいですよ」って言われているような気になってしまうんだけど……。

アカシア:以前理論社を創立した小宮山量平さんのお話をうかがったことがあるんだけど、彼は、理論社は必ずしも完璧に仕上がった作品ばかりでなく、これは見所があるとか、この作家は将来性があるっていう視点で本を出版するんだって、おっしゃってましたよ。

ねむりねずみ:すみません、さっき開口一番さんざん批判しておいて寝返るみたいで気が引けるんですが、さっきの、この作品は両親が死んじゃったことを受け入れようとしている子どもの話だというご意見で、目から鱗が落ちました。そう思って見直すと、すべてがあるべきところに見事にはまるんですね。見事にはまるし、作品としての迫力もすごい。非常に近しい人の死を受け入れられずに、すべての事柄を薄い膜を通してしか感じられないでいる人間から見たこの世という感じがよく書けている。この長さがあって、しかも構造もなんだかがたがたしているからこそ、そういう人間の気持ちがきちっと表現できている。そういう意味で必然的。短編ではこういう風には表現できないと思います。野心的だし、なかなかない作品。もっとも、読むほうは疲れるけれど。

ペガサス:ビニール傘を広げるときの感覚とか、ありきたりの日常の描写が、すごくうまいよね。ただね、男の子っていうものを、手にびっしり毛がはえてくるとかって表現するところは、ちょっとげっとなっちゃった。

:私も、性同一性障害を抱えた作家だというのを聞いて、描こうとしていることがわかったような気がしました。

紙魚:いやいや。そういうところを知らなかったとしても、この作品世界はわかると思いますよ。

(2002年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


『辺境のオオカミ』

ローズマリ・サトクリフ/作 猪熊葉子/訳
岩波書店
2002.01

:これまでの猪熊先生の訳は非常に読みにくかったけれど、ずいぶんこなれてきたように感じましたね。3部作の続きだからと4作目も出したんだろうけど、やはり古いですね。訳文だけじゃなくて、アル—ジョン、暗喩、象徴性を使って、読者を成長させようとしているんだろうけど、今の読者にはこのスタイルはもう無理だと思う。サトクリフは、運命の不条理に立ち向かっていかなければならないという重いテーマを掲げてる。主人公をとりまく登場人物も不条理を抱いている。だから、啓示の瞬間をあたえるんですね。欲しても自分の力で得られないときに、啓示の瞬間をあたえて、道がひらけるという展開なんだけれども、物語からいくと、単に唐突にうつるんじゃないかな。ある人生観をもっていない読者にとっては、納得がいき辻褄が合うという運びになっていないんじゃないかと思いました。男の世界を書きながらも女を入れていくんだけど、今の中高生には、この男の世界は響かないと思うし、サトクリフが手渡したい読者とつながっていないんじゃないかと思いました。

紙魚:なにしろ読みにくかった。私はこれは修行だと思って読んだくらいです。おもしろいのはどこなんだろう?って考えながら読んで、なかなか見つからないので、不安になったくらい。長老に会いに行くところはちょっとわくわくしたんだけど、あとは読み進むのがつらかったです。もう、自分は、こういうものが読めない新しい世代なのかも、と思ってしまった。でも、読者が子どもっていうことを考えると、とくに子どもの頃って、本を理解できないと本が悪いのではなく自分が悪いと思ってしまう。そういう気持ちにさせてしまったら悲しいな。

もぷしー:私も、難しいというのと、全体の重い印象で、入っていけなかった。

:私は、こういう物語は割合好きなんですよ。だけどね、私が知っている限りの子どものなかでは、この本を薦めたい子はいないなと思って、これは私が読む本だな、と決めました。私はおもしろく読んだんですよ。長老にあいさつに行くところとか、クーノリンクスとの付き合いが深まって砦を守っていくところなんか、おもしろく読んだ。映画を観るように、情景を頭の中でつくりだしていくのは、おもしろかった。映画『ベンハ—』を観たときの感じで。まあ、これはひいき目もあるんですけどね。

アカシア:歴史小説って、日本の子どもに手渡すのが難しいな、といつも思うのね。これは4世紀くらいの話で、私たち日本人は、ローマ帝国については習うけど、そのとき辺境がどんなだったかは世界史でも習わない。だから舞台を思い浮かべるのが難しくて、日本の子どもたちには状況がよくわからないと思うんです。ストーリーの中心は、主人公がローマ帝国からつかわされて、族長の息子と仲良くなるんだけど、仲良くなった人を殺さなければならない運命になってしまう、というところかと思うんだけど、それがうまく浮かび上がらない。ストーリーそのものがドラマティックじゃないのかもしれないけど、日本語版の作り方にも問題があるかもしれない。編集者の手が全然入っていないように思える。翻訳者は物語の世界に入りこんでいるから客観的な目で見れば不足だったり、おかしかったりという点も当然出てきます。それを指摘して読みやすくしていったり、ある場合には日本の読者にもわかるように補足したりするのが、編集者の役目でしょ。
たとえばp57「わしは軍団をあげて怒りを示したんだ。おしまいな」って、「おしまいな」というのはどういう意味? 誤植? p98「族長は入り日の向こうに行くらしいな」ってあるけど、この表現で死をほのめかしているのは、今の子どもにはわからないと思う。「フィナンは正しかった」「そしてクーノリクスはそれを知っていたのだ」っていうところも、よくわからない。しかも、「『おれたちのおやじさんだ!』足が地面につくかつかないうちに彼は喘ぎながらいった」ってあるけど、「死んだのはおれたちの親父だ」っていうことがちゃんとわかるように訳してほしかった。原文でも、状況がとんでいたり、説明的な部分は省いてあったりするんでしょうけど、そのままだと日本の読者には物語の流れがわかりにくくなっちゃう。p156の「ご指摘になりましたように、カステッルムの砦と第三部隊とはわたくしの指揮下にございます。司令長官殿がわたくしを解任なさろうと思われるのでしたら、ここで、司令官としての決断を下さねばなりません。それが誤っていたということが証拠だてられましたら、その後でご処分ください。」っていう部分も、p238「『〜後方から襲いかかる。もしも奴らの馬を逃すことができればもっといい.』森林地帯での戦闘は馬上では不可能だったから、敵にとっても味方にとっても好都合なのだった」という部分も、状況がつかみにくかった。p239の、兵士が矢を放つ状況もわかりにくい。p250には、「隠れ家」という言葉がはじめて出てくるんだけど、これが何を示しているのかとまどってしまう。最後の方は、もうわからなくてもいいや、と思って読んでました。裕さんは、ほかのサトクリフの作品より訳がいいとおっしゃってましたが、私はサトクリフの本の中では、いちばんわかりにくいと思いました。

ウガ:ぼくも、こんなに読みにくい本はたぶん初めてだと思う。しかも斜めに読んでも、筋がわかってしまう。これは小学生上級と書かれているのに、注釈もないのでびっくりした。『ルート225』を読んだときと、まったく別の方向の違和感を感じました。

すあま:私は、サトクリフの作品の中で自分が好きだったのはローマンブリテンものではなくて、『太陽の戦士』(猪熊葉子訳 岩波書店) とかその他のものだったことにあらためて気づいた。図書館員の友だちに聞いても、この作品は評判がいまひとつ。原書で読んだ人は、原書の方がおもしろかったと言っていた。急いで読んだので、わかりにくいところはすっとばして読んだんだけど、私は伏線をはっていたものが後で出てきたりするのが好きなので、そういう部分はおもしろかった。最後の読後感もよく、救いがあるのがいいんですよね。でも、主人公が、自分で復讐するわけでもないし、少年から大人へ成長する物語でもない。作者が書こうと思っているものが、もともとおもしろいものではないのでは? 本人の葛藤も、他の本ほど描かれていないし、友情が生まれるところも、目と目が合うぐらいで、あまり物語がないですよね。あまりにも絆が簡単にできすぎる。主人公の大変さや悩みが感じられないのが物足りなかった。

ペガサス:私はサトクリフはものすごく好きだったんですね。『運命の騎士』(猪熊葉子訳 岩波書店)や『太陽の戦士』とかおもしろくて、訳も気にならずに読んでました。歴史的舞台はわからなくても、物語がおもしろければ読める。これまでのものがおもしろかったのは、初めから主人公に同化して読めるし、これまでの作品の主人公は、何かハンディや劣等感があったりして、それを克服して自分のアイデンティティを確立するという成長物語というところが読者にもついて行きやすかったんだけど、この『辺境のオオカミ』は、主人公がどうしたいのかがわからない。たとえば、『運命の騎士』の冒頭は「名前はランダル〜」と始まって、すぐにランダルのことがわかって、ひきずられていく。だけど、この作品は、主人公のことがなかなかわからない。かなり読まないと、頭がいいのか悪いのか、前向きなのか後ろ向きなのか、わからない。唯一この主人公の人間性を感じたのは、若い兵士が内緒で猫を飼っていて、その猫にミルクを与える方法を教えるところ、あそこはすごく人間的で、この主人公に心を寄せることができる。でもそれ以外には、そういうところが少ない。挿絵もないし注釈もない。ひじょうに難しい。この本は、難しいけど、サトクリフがお好きな人だけお読みなさい、と言っている気がする。

ブラックペッパー:1か月くらいたったドイツパンのような本でした。持ったときずっしり重くて、かたくて、キャラウェイシードなんかが入ってていい匂いがするから食べたいなと思うんだけど、食べてみたら堅すぎてあごが痛くなっちゃったという感じ。読み始めて、すぐわかんなくなっちゃって、あら、と思ってまた最初から読みはじめても、ちょっと中断すると、またすぐわからなくなって、最初の方結局4回くらい読んだんだけど、p76までしか読めなかった。ふつう、わからなくても力技で読んじゃうんだけど、軽薄なのに慣れた読者にとってこの本はムズカシイ。藤野さんのは空気だけでおいしいという感じなんだけど、こちらはしっかり噛まないとわからないという本。

トチ:文体が問題なのかしら?

ペガサス:感覚的にわかるっていうろところが一切ないもの。

トチ:ストーリーがおもしろくないっていうことかしらね。

ねむりねずみ:私はすごく懐かしい感じで読みました。このところ、一人称で感覚的なものばかり読んでいたから、こういう情景描写を積み重ねていくのは久しぶりでクラシックな印象。でも、最初のページで日本語にひっかかって、p30くらいまで行って、しょうがない、もう引っかかるのはやめようと決めてからですね、どんどん読み進めたのは。情景描写自体はすごいなって思うんだけど、いかんせん日本語に引っかかったものだから・・・。前半はほとんど事件らしい事件もなくてちょっとだれたけれど、撤退しなくちゃというあたりからスリリングになり、後半は懐かしの時代物という感じ、映画を見ているような感じで読めました。たぶん、生きていくこと自体が大変で、うろうろと悩んでいられない人間達の活劇の爽快さみたいなものなんだろうけれど。でも一方で、後半に出てくる「自分の命を犠牲にしてでも全体のために奉仕する」なんていう動きは、今の私たちにはぴんとこないなあと思ったり。それと、ハドリアヌスの城壁(イングランド北部にローマ教皇ハドリアヌスが設けた城壁)や舞台となったあたりを知っていると、今の風景とここに書かれている風景をダブらせてタイムトリップする楽しさがあるけれど、日本の子どもにはそういう楽しみ方はできない。そういう意味で、読者となるのはどういう人たちなんだろう? 今の社会状況の中で、活劇のおもしろさを出すにはどういうドラマ作りをすればいいんだろう? と、ふと考えちゃった。カニグズバーグの『クローディアの秘密』(松永ふみ子訳 岩波書店)なんかはすかっとしているけれど。

アカシア:この作品にあらわれている価値観って、男性支配社会の価値観そのままだと思うんだけど。

ねむりねずみ:そうなんですよね。このドラマだって、要するに勝手に侵略してきた連中が撤退しているというだけの話だし。

アカシア:男の潔さだとか、決断とか、昔ながらのものを持ってきているという気もしましたね。

:サトクリフの帝国主義的な価値観も古いですよね。

トチ:過去の物語を書くと、嘘になりやすいし、今の人たちに受けいられないというのもあるし。

ねむりねずみ:地元民を主人公にすれば、そのあたりは変わるのかな。

トチ:やっぱり1ページ目の「膝に頬杖をついて頭を抱えている」っていう描写でつまづいた。「色の浅黒い若者」がアレクシオス・フラビウス・アクイラと同一人物だとわかりにくかったし、物語にも入り込めない。歴史ものを日本で出すときには、登場人物の紹介くらいはあってもよかったと思う。ほかにも百人隊長とかいろいろ混乱してきちゃって、おとなでも難しいのに子どもにはもっとわからないんじゃない。

アカシア:後書きでもローマンブリテン4部作はこれで完結と言っているんだけど、オビ以外その4部作が何をさすのか書いてないのも不親切ね。オビはなくなったり、図書館ではとっちゃったりするでしょ。それに、できればシリーズの他の巻のあらすじくらいは書いておいてほしかった。

:たしかに、そこはほんとに不親切ね。

トチ:初めてローマンブリテンものを手に取る人は、きっと読者として想定されていなかったのね。

(2002年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


『ラモーナ、八歳になる』

ベバリイ・クリアリー/作 アラン・ティーグリーン/絵 松岡享子/訳
学研
2001-12

すあま:この作者はこんなに時間をかけてシリーズを書いていたのだと驚きました。主人公も、ヘンリー君からラモーナに変わっていき、時代に合わせて書いているんですよね。お父さんが失業しているとか。ラモーナにくっついて読めたので、おもしろかった。8歳の子どもの失敗とか、ひとつひとつのエピソードが、なつかしいような、自分の当時の気持ちがよみがえるような思いで読めました。今の子が読んでもおもしろいんじゃないかな。ラモーナがいらいらしたり、悲しかったりしている気持ちもよくわかった。ラモーナが預けられている先で、どうしようもない子ウィラジーンの相手をするけれど、ラモーナ自身もそうだったことが読者にわかるとおもしろい。ラモーナがはちゃめちゃだった小さい頃がなつかしい気がする。

ペガサス:私も「ヘンリーくん」シリーズが好きで、子どもの気持ちをよく書いているって毎回感心する。『ビーザスといたずらラモ—ナ』(ベバリイ・クリアリー作 松岡享子訳 学研)では、ラモ—ナがはちゃめちゃで、極端に書かれていて、すごくおもしろかった。それに比べるとラモーナも少し小粒になってしまったのかな。昔は、『ビーザスといたずらラモ—ナ』は3、4年生によく読まれたけど、今の子どもたちには、これでも字が小さくて、読めないのかな。でも、絵も昔のほうがいいのよね。今回は、ビーザスの気持ちが出てこなかったのも物足りなかったし、これだけ読んで、ラモ—ナが魅力的にうつるかどうかは心配。それから、お母さんの言葉づかいで、「帰ってらしたわ」「車なしではやっていけませんもの」などの言い方は、今は言わないことばだよね。

ブラックペッパー:私は「ヘンリーくん」シリーズは、ぽつぽつとしか読んでこなかったんですけど、この本はとってもよかったです。トラブルはあっても幸せな感じが底にずっと流れていて、安心感がある。p7の「ラモ−ナは、だれに対しても——自分に対してもですが——正確さを要求する年齢に達していました」というフレーズが好き。アメリカンテイストもいいし、ラモ—ナのそのときどきの気持ちもわかるので、「そうそう、こういうのが好きなのよね」と思いながら読みました。でも、これ、小粒になったという感じなんですか?

すあま:日常生活をていねいに書いてはいるんだけど、前の作品ではもっとはちゃめちゃな事件が起こってたよね。

ねむりねずみ:悲しいことも嬉しいことも全部、ああ、あったあったと思いながら読みました。根底に、子どもらしく育っている子の安心感ていうのか、安定感がある。そのほんわりした感じが心地いいんですね。最後に、家族が喧嘩した後に見ず知らずのおじいさんがご馳走してくれるなんていうのも、あり得ない話ではあるけれど、やっぱりなんとなく心和んでいいよね、という感じ。今時の子どもを描いた本って、シリアスな社会問題の暗い影が覆いかぶさっていたりするんだけど、読者を元気にしてくれるこういう本っていいなあ。これからを生きていく子どもたちにとって、こういう本がほんとうに大事だと思う。今回の3冊の中では、文章もいちばんぴったり来て、楽しく読めました。

アサギ:ラモ—ナと同じ年頃の子が読んでも、共感すると思うほのぼのとしたいい本ね。現実よりも美化されているとは思うけど、こういうのはいいと思う。全体のトーンはいいのだけれど、ただ訳語はイージーだと思ったわ。たとえば、p6の「お姉さんは実際以上に年上であるかのように」って、8歳の子が読む文章かなと思うし、p7の「正確さを要求する年齢」っていうのも、8歳の子がぜったいに言わない言い回し。

ブラックペッパー:8歳の子が自分で言う言葉ににそういうボキャブラリーはないと思うけど、小さいときってそんな気持ちがたしかにあった。それを言語化して代弁してもらったという喜びがあるんじゃない。

トチ:しかも、わざわざかたい言葉を使ったユーモアなのよね。

すあま:私も、わざわざ大げさに書いているんだと思った。訳が下手で直訳にしているのではなく、雰囲気を伝えるために、わざとこういう表現にしているのでは。

アカシア:私は、この本の読者対象は8歳よりも、もうちょっと上なんだと思う。松岡さんは、小さい子どもたちとしょっちゅう接しているから、そのへんのことはよくわかって訳していると思うな。

アサギ:私はね、p57の「片目のすみから」っていう表現も気になったんだけど、そんなことできるかしら。

アカシア:松岡さんの訳は、全部子どもにわかるようにするっていうより、わからないところは飛ばして読んで、後で「これどういうこと」って大人にきいてもいい、っていうスタンスなんじゃないかしら。ちょっと難しい言葉がわざと入っている。でも、それがユーモアにもつながっている。

紙魚:私もとっても気分よく読みました。さっきブラックペッパーさんが指摘した「ラモ−ナは、だれに対しても——自分に対してもですが——正確さを要求する年齢に達していました」っていうところが、私もいちばん好き。たとえば、小さいときって年齢きかれたりして、隣の姉が「もうすぐ5歳です」とか勝手に答えちゃったりすると、「ちがう! まだ4歳だもん!」なんて、へんなところに妙にこだわったりして、逐一そんな感じだった。大人になると、まーだいたいそんな感じって、許容量が大きくなるけど、子どものときの、あの正確さを忘れないでいる作者はいいなあと思いました。p12の新しい消しゴムの描写とか、p24のその消しゴムがなくなっちゃったときのラモ—ナの気分、p161の「ラモ—ナはもう章のついた本が読めるのですから」なんていうところもいいですよね。なんといっても、p74のホェーリー先生の「見せびらかし屋」「やっかいな子」という言葉に傷つくラモ—ナの気持ちなんて、本当にこちらまで痛くなるくらい。子どものときの感覚をきっちりと持っているか、子どもをじっくりと見ている人だと思いました。

もぷしー:大人になると、問題を解決をしないことに慣れていきますよね。でも、小さいラモ—ナは、ひとつひとつ確認しながらクリアしていく。ラモ—ナが成長しているというのがわかって、気持ちいい作品だと思いました。吐いちゃったりして、先生に悪く言われたのを、大きくとらえているのもいい。子どものときに持つ感覚がきちんと再現されていて、子ども読者も共感しやすいと思う。

トチ:ここはいかにもアメリカ的ね。

:私も「ヘンリーくん」シリーズが好きだったんですが、今回も、この8歳の子の気持ちになれました。「見せびらかし屋」で「やっかいな子」と言われて、つらくなる気持ちがよくわかって、しかも病気になって、ただ、お母さんがやさしくしてくれるのはうれしくて。どの場面にも、気持ちをよせて読むことができました。たいへんなことがあっても、安心できる、子どもに向いた物語はいいなあと思いましたね。物語がおもしろいから、訳は気にならなかったです。前にね、図書館で乱丁本をみつけて貸し出し記録を見てみたら、ずらーりと名前が書かれてあって、何人もの子が読んだ本だったんですね。そのとき、ああ、子どもの力ってすごいなと思ったんだけど、そのときの原点にたちかえったような気分です。

アカシア:これまでのラモ—ナ・シリーズは、ああ自分もそうだったなあと思えて、ラモーナに同化しながら読んでたんですけど、今回は、ラモ—ナはなんて自己中心的なんだ、と思っちゃった。以前の作品でビーザスがラモ—ナにあんなに我慢してたのに、この作品でビーザスと同じ立場になったラモ—ナは、ウィラジーンにとってもいらいらしてる。先生の言葉だって、よく考えればわかることなのにね。子どもって、とっても自己中心的な存在なのよね。そこが、とってもうまく書けてるし、だからこそ、その自己中心的なラモ—ナを包みこんでいるお父さんとお母さんの偉さに、今回は感動しちゃった。親たるものこうでなくちゃ、と遅まきながら思いました。それからクリアリーという人は、3年生くらいまで文字が読めなかったらしいのね。学校でつまらない本ばかり読まされてたのが、風邪で休んでいたときに、おもしろいと思える本に出会って、突然読めるようになったんだって。この本の中にも、つまらない本への言及があって、なるほどと思った。つまらない本を子どもにあたえても、読めるようにも、本好きにもならないのよね。

アサギ:作者が子どもの気持ちをわかっているってみなさん言ったけど、ほんとうにそうね。私はこれを読んで親として反省するところがあったわ。下の子が3年生のときに、誕生日会に呼ばれたことがあるのよ。20人以上招待されてたの。そのときの招待状に、「プレゼントは持ってこないように」とはっきり書いてあったもんだから、私、うのみにして子どもに何も持たせなかったのね。そしたら、うちの子以外、全員がプレゼント持ってきたんですって。それを聞いたとき、私は「呆れた! 20人からプレゼントをもらうなんて、第一その子にとってよくないのに」と思ったのだけど、これを読んで、うちの子はやはり傷ついただろうなって、今さらのようにかわいそうに思いました。

ウガ:ぼくも傷つきやすい子だったので、子どものとき読んでたら、ショックでたちなおれないっていうのが、よくわかったと思います。卵が割れちゃうところなんかきっと。つまらない本への言及もありましたが、子どものときって、読まなければいけないっている義務感もあったんですよね。

アカシア:私なんて、子どもに生卵持たせちゃう可能性あるなー。

ペガサス:ラモ—ナは、大人は理不尽なことをするってこと、わかってるのよね。

(2002年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)