日付 | 2007年11月22日 |
参加者 | ネズ、みっけ、紙魚、アカシア、げた、サンシャイン |
テーマ | うちのクラスのあの子 |
読んだ本:
原題:JOEY PIGZA SWALLOWED THE KEY by Jack Gantos, 1998
ジャック・ギャントス/著 前沢秋枝/訳
徳間書店
2007.08
版元語録:ジョーイは小学4年生の男の子。いつも考えるより先に行動をしてしまい、騒ぎをおこします。悪気はないのに…個性豊かな少年の内面を描く。
原題:THE TULIP TOUCH by Anne Fine
アン・ファイン/著 灰島かり/訳
評論社
2004.11
オビ語録:生まれつき邪悪な人間なんて、いない!/少女の心の闇を救う手立てはあるか?/英国で熱い議論を巻き起こした問題作、ついに翻訳出版! *ウィットブレッド賞受賞
佐藤州男/著 長谷川集平/絵
文研出版
1986.06
版元語録:新ちゃんは小学5年生。この春から幼なじみの剛と同じ学校に通うことになった。四肢性マヒという障害のためリハビリをしていたのだ。
ぼく、カギをのんじゃった!
原題:JOEY PIGZA SWALLOWED THE KEY by Jack Gantos, 1998
ジャック・ギャントス/著 前沢秋枝/訳
徳間書店
2007.08
版元語録:ジョーイは小学4年生の男の子。いつも考えるより先に行動をしてしまい、騒ぎをおこします。悪気はないのに…個性豊かな少年の内面を描く。
ネズ:この本は、出版されてすぐに原書で読みました。内容はおもしろいし、作者の意気込みも感じられていいなと思いましたけど、2つほど問題があると思ったのを覚えています。ひとつは、ADHDの子どもを薬で治療しているという点。文中では、ADHDという言葉を意識的に出さないようにしていますが、後書きにもあるように、この子は明らかにそうですよね。ちょうど同じころ、ADHDの子どもがいるクラスを持っている、小学校教師の話を聞く機会があったのですが、日本では(当時はということですけど)、医療に頼らずに、ありのままに育てたいという親が多くて、学校側が病院に行くことをすすめても、かえって反発されるということでした。治療の内容や、程度の問題もあると思うけれど、日本とアメリカとの医療に対する考え方の違いもあるし、もし日本で翻訳出版ということになると、どうやってクリアしていくか難しいなと思った記憶があります。第2巻では、薬がさらに重要なファクターになってくるし……。それと、主人公のおばちゃんやお父さんも、非常にハイになりやすい性格に描かれているし、お母さんもエキセントリックなところがある。だから、ADHDが遺伝するものだとか、環境によるものだとか、単純に思われてしまうのでは……という危惧も感じました。障碍や病気を扱った本って、とても難しいから、皮肉でもなんでもなく、徳間書店は勇気があるなと思いました。
でも、女の子の鼻先を切ってしまう場面は、ちょっとね。どぎつい印象を与えるし、この女の子にとっては大変なことなのに、さらっとしすぎていない?
みっけ:ADHDの原因については遺伝という説とか、いろいろと説があるみたいだけれど……。『夜中に犬に起こった奇妙な事件』(マーク・ハッドン/著 小尾芙佐/訳 早川書房)はアスペルガー症候群の男の子が主人公の一人称だし、E.R.フランクの短編集『天国にいちばん近い場所』の中にもADHDの男の子が主人公で一人称で書かれた話が出てくるんですが、この本を読んでいて一番気になったのは、主人公が3年生でしかも一人称でここまで説明できるだろうか、という点でした。ほかの2作品では、そのあたりにあまり違和感がなかったのですが……。ふーん、なるほどなあと思いながら読み進みはしたものの、そこはひっかかりましたね。最後に作者があとがきに書いているように、まわりにこういう子たちがいるにも関わらず、そういう子たちの物語がなかったというのはなるほどなあと思うのだけれど、私のなかで今ひとつ納得できませんでした。この子自身はいい子なんですけれどね。
紙魚:ADHDはこういう子だという書き方ではなく、こんな子どもがいるという個人の個性からアプローチしている書いているのはいいと思いました。とくに、本文中にADHDという言葉は1回も出てこないのですよね。やはりこういう言葉は強いので、ADHDという言葉が1度出てしまうと、ADHDを読むというようになってしまうのですが、そう陥らずに最後まで読めました。ただ訳者は、あとがきで「ADHDという障害」という言葉をつかっています。こういうところの表現は難しいですね。実際に子どもたちはどう読むのかなと気になりました。それから、全体として散漫な感じがしたのですが、それが、この子の性質・性格によるものなのか、物語が散漫なのかは、わかりません。
げた:私は、ADHDという病気自体をよく知らないんですけどね。主人公の男の子の特異な行動は、先天的なものだけでなく、環境という後天的な影響があったわけですよね。かなりひどいことをおばちゃんにされていたんだから、そういうことが資質を高めたかもしれないとは考えられませんか?
みっけ:ADHDも自閉症も、脳の一部の問題とされていますよね。お母さんが妊娠中に麻薬をすると、率が高まるとアメリカでは言われています。
サンシャイン:お酒を飲んで妊娠した場合は、酩酊児とも言われるそうですね。
ネズ:エジソンもそうだったっていうじゃない。
げた:この病気のことを知らないと、突然変わった行動が出てくるのには、ついて行きづらいんじゃないかな。鼻を切ってしまうのも、ちょっとずれていたらと思うと怖いしね。こういう子どもたちの本を読んだ、まわりの子どもたちは、どう思うんだろう? この病気についての理解と思いやりが深まるのかどうかは疑問だな。
アカシア:この本については「よくぞ訳してくれた」という手紙も来ているそうですよ。ただ、薬さえ飲めば大丈夫と受け取られかねないですね。
みっけ:学校に行かせないで育てられれば、それはそれでいいのだけれど。そういうわけにはいかないとなると、集団の中で過ごすために薬の力も借りよう、ということなのでしょうね。とにかく集団として教員が見ていけるようなレベルにまで、ぎりぎり症状を抑えようという感じではないかしら。薬を飲むか飲まないか、ではなくて、集団の中である程度はみ出さないでいられるようにしておいて、ほかの子との交わりの中で成長していくという感じではないかと思いますけど。
アカシア:いろいろなケースがあるのでしょうが、この子が集団の中にいたらほかの子を傷づける可能性もあるわけだから、先生はたいへん。
みっけ:ここに書かれているような行動をとる子がクラスにいたとすると、担任としては、一時も気が休まらないんじゃないかな。
紙魚:何かやってしまったあとに割合けろっとしているのは、この子の個性なのか、それともADHDの特徴なのか、作者はどの程度、そのあたりを意識して書いているのでしょう?
アカシア:ここまでの症状が出ると病気だから何らかの治療をしたほうがいいのかもしれませんが、今は、ちょっとほかの子と違うと、自閉症とか多動児とか、いろいろな名前をつけて障碍だということにされてしまうような気もします。学校では、ADHDっていう言葉を使うのかな?
サンシャイン:ADHDとまでは言わなくても、「多動性がある」という言葉は、よく使いますね。幼稚園に入る前からゲームを野放図にやらせているとそうなるとか。
アカシア:鼻を切られてしまった女の子については、読者の子どもも心配すると思うんですが、その後どうなったかは書かれてませんね。
みっけ:この作品は、複眼にした方がよかったんじゃないかな。説明的な部分も、ほかの人の視点が入ってくれば、無理なく収まったんじゃないかしら。
アカシア:一人称でも、できなくはないと思うけど。
サンシャイン:私は、カバー袖に書かれているあらすじを先に読んでしまったので、支援センターに行くことを前提として読んでしまったんですね。だから、支援センターに行って初めて救われる話なのかなと思ってしまいました。
アカシア:この子は、変わったおばあちゃんと暮らしていたので、必要な情報がなかったんですよね。情報がなくて困っている人たちに、手をさしのべる物語とも考えられるわね。
紙魚:こういう子どもたちのことを考えてもらおうとする真面目に姿勢は、伝わってきますよね。
ネズ:自分の子どものころのことを思い出すと、今だったら「ADHDだから、病院に相談に行ったら?」と教師にすすめられるような人は、たくさんいたんじゃないかな? 落ち着きが無かったり暴れたりするのが、その子の個性かどうかっていう線引きは難しいわね。
アカシア:その子がハチャメチャなだけならいいいけど、他人に危害が及ぶかもしれないとなると問題ですよね。アメリカには専門の人がいるから、こうした場合アドバイスできるんですね。日本にも、適切なアドバイスができる専門家がいるんでしょうか?
サンシャイン:となると、これはアメリカならではの物語として読んだほうがいいのかもしれないですね。
アカシア:一度レッテルを貼られたら、特殊な施設に入れられてしまうだけだと怖いですね。この作品の中では、クラスの中で手に余ると判断されたら支援センターへ行って、そこでその子にあった訓練を受けてまたクラスに戻ってくるということになってますけど、それでうまくいったら、いいですね。
みっけ:特別なクラスに入れて、そのまま戻って来られない、というのはよくないですよね。その点この本では、行ったり来たりできているけれど。
アカシア:今の日本にはまだないのでしょうが、こういう形があるというのは、その本を読んでわかりました。
ネズ:大人が読んだ方がいいっていう本なのかな。
(「子どもの本で言いたい放題」2007年11月の記録)
チューリップ・タッチ
原題:THE TULIP TOUCH by Anne Fine
アン・ファイン/著 灰島かり/訳
評論社
2004.11
オビ語録:生まれつき邪悪な人間なんて、いない!/少女の心の闇を救う手立てはあるか?/英国で熱い議論を巻き起こした問題作、ついに翻訳出版! *ウィットブレッド賞受賞
げた:こわくなりました。どうしていいかわからなくなりました。というのは、チューリップがこうなったのは、彼女の父親のせいですものね。一方、ナタリーのお父さんは、私は自分自身の立場に置き換えて読んでしまいました。もし、自分がナタリーの父親だったら、どうするんだろうとね。彼のナタリーへの接し方は普通なのかなと思いましたね。いずれにしても、こういう子どもに接したことがないので、突き刺されるようにこわかったです。
紙魚:帯に「邪悪な人間なんて、いない」と書かれているので、最初からそういう人物の物語を読むつもりで読んでしまいました。私には、ナタリーがチューリップにひかれていく過程はつかみにくかったです。ただ、ひたひたとおそろしさがつのっていく書き手の力はすごいです。ただ、年齢の低い人にすすめたいとは思いにくい本です。
みっけ:すごく強烈で、ぐいぐい引き込まれたけれど、どうやら私はチューリップの方に感情移入しちゃったらしく、ナタリーがなんとも嫌で、大人も非力で、なんか嫌な気分が残りました。確かにナタリーはああするしかなかったわけだけれど、それでもあるところからすっと離れていくじゃないですか。突然離れて行かれる方はたまらないよなあって、そう思っちゃった。アン・ファイン自身がぜひ書きたいと思っていたと、訳者後書きにあったし、たしかにそれだけの力のこもったよく書けた作品だけれど、これを子どもに向けて出してどうするの?と思っちゃった。大人が読め!っていう感じですね。ナタリーにこれ以上何かを要求するのも無理だし、ナタリーのお父さんたちがチューリップに気をつかっているのもわかるし、本当に痛々しかったです。
ネズ:この本は、大変な傑作だと私は思っています。作者は本気で書いているし、訳者も本気で訳している。すごいなと思ったのは、麦畑の場面。最初に、黄金色に輝く麦畑の中に、女の子が子猫を抱いて立っているというルノアールの絵のような、美しい光景が出てくる。それが、後半、なぜこの子が、このとき子猫を抱いていたのかということが分かったとたんに、それまで読者の心の中にあった泰西名画のような場面が一気にモノクロの、陰惨な場面に変わるのよね。見事だなあと思いました。それから、ナタリーが、チューリップを敬遠するようになるころから、チューリップがナタリーの中で生きはじめてくるというか、だんだんチューリップのモノローグなのか、ナタリーのなのかわからなくなり、ひとりの人間の中でふたつの人格がせめぎあっているようなサスペンスを感じました。
この本が出たときは、イギリスでも子どもに読ませるべき本かどうかという議論があったと聞きました。よく児童文学は「子どもについて」書いた文学ではなく、「子どものために」書いた文学だって言われるわよね。この「ために」というのは、子どもが読むためにという意味だけど、アン・ファインはこの作品を「子どもが読むために」というより、「子どもの味方になって、子どもを擁護するために」書いたような気もします。何度も読みたくなるような楽しい作品じゃないけれど英国の児童文学の質というか、レベルに圧倒される作品だし、ぜひ大勢のひとに読んでもらいたいと思う。
みっけ:大人に読ませるという感じは、確かにしましたね。
アカシア:私もすごい作品だなと思いました。それに私は、大人だけじゃなく、この作品を必要としている子どもも確実にいると思います。ナタリーのように、悪魔的な魅力をもった者にどうしようもなく惹かれてしまうことって、子どもにもあるじゃないですか。それにチューリップのように、否応なくこうなってしまう子だっている。そして今の時代の親は、特に児童文学に描かれる親はそうですが、あんまり子どもの力にはなれなくなっている。ナタリーの親は普通の良心をもちながらも、チューリップに対しては中途半端な善意を持ってしまいますが、そういうのも自分も含めてよくある大人だと思います。そんななかでナタリーはどうしたらいいかわからなくなるわけですけど、アン・ファインがすごいのは、結論をあたえるのではなく、いっしょに考えていくところ。いっしょに悩んでいるところ。
『新ちゃんがないた』のような本も必要だと思いますが、大きな違いは『新ちゃんがないた』は、正解を作者が用意していて、ちゃんと読めばその正解にたどりつく。逆に言うと、その正解にしかたどりつかない、とも言える。それに比べ、この作品は、もっといろいろなところへ考えが広がっていく。読者の中に考える種として残って、のちのちまたさらに枝を広げていくかもしれない。
作品のリアリティについては、ナタリーがチューリップにひかれていく気持ちや、だんだん重荷になっていく気持ちは、とてもていねいに描かれていると思います。もちろん低年齢の子どもには向かないと思いますが、中学生以上の子どもにはぜひ読んでもらいたいと思います。
サンシャイン:チューリップのような人が、とりついてきて、はなれられなくなるというのは、自分にも経験があります。ホテルの火事の場面もすごいですね。
アカシア:徹底的にリアルよね。
ネズ:ホテルで働いている人たちの描写もリアル。
サンシャイン:チューリップには、ヨーロッパの魔女のイメージも重ねあわされているような気がします。それからチューリップの激しい言葉に、まわりの大人たちが驚くというのも、イギリスの階級的な空気??この言葉はこの階級の人は絶対に人前では言わないとか??が反映しているのでしょうね。翻訳されるとわかりにくくなってしまいますが。
アカシア:最後の一文「チューリップを狂わせたのは、あたしだと。」というのは、原文と照らし合わせてみると、ずいぶん強い感じがしますが、どうなんでしょう。
ネズ:「あたしにも罪がある」くらいじゃ弱いと、訳者が思ったんでしょうね。
アカシア:ハッピーエンドになりようがないわけですけど、現実世界をリアルに描くとこうなるしかないんでしょうね。
(「子どもの本で言いたい放題」2007年11月の記録)
新ちゃんがないた!
佐藤州男/著 長谷川集平/絵
文研出版
1986.06
版元語録:新ちゃんは小学5年生。この春から幼なじみの剛と同じ学校に通うことになった。四肢性マヒという障害のためリハビリをしていたのだ。
げた:個人的な話なんですが、友達に、この新ちゃんと同じような子がいたんです。40歳くらいで亡くなったから、どちらかというとこのお話に出てくる先輩みたいな子かな。どんどん筋力が落ちて、最後は目だけで反応していて。小学校には同級で入学したんですけど、やっぱり新ちゃんみたいに途中でしばらく施設に行ったんですが、それでもよくならなくて、戻ってきました。そういう記憶がよみがえってきて、あの頃のことをいろいろ思い出しました。障碍がある子も同じように生きているんだよ、ということをわかってもらうには、いい本だと思いました。
みっけ:お話そのものの展開は、一種予定調和的というか、問題もすべてすらすらと解決されてしまうので、そういう意味のインパクトは少ないけれど、新ちゃんの描写の細かいところが、とてもリアルでいいなあと思いました。トイレで苦労する話とか、足を引きずってズボンが破けてしまう話とか、そういったことがぐぐっと迫ってくる気がしました。20年以上前の作品だからというのもあるかもしれませんが、新ちゃんの親友である語り手が、なんというか熱くて元気で明るくて、全体にトーンが明るいのもいいなあと思いました。
ネズ:作者も同じ障碍を持っているということを知って、だからこういう作品が書けたのだと納得しました。具体的に新ちゃんが困っているというトイレの場面など、この作者だからこんなにリアルに書けたんでしょうね。『チューリップ・タッチ』のような作品は難しくてわからないという子どもたちも、こういう作品なら素直に理解できるんじゃないかしら。でも、主人公も新ちゃんも、ちょっとばかりいい子すぎるのでは? あと、タイトルがねえ……。
サンシャイン:乙武さんみたいに、障碍のある子も一緒と、アピールしている本だと思います。すごく楽観的な本で、子どもは結構感激したりするんじゃないかな。ただ毒がなさ過ぎるとも言えます。悪い話じゃないんだけども、登場人物がいい子すぎる。乱暴な感じの子が、夏休みに本を2回も読んじゃったりして。そこがちょっと気になりました。筆者自身がその病をかかえているので、そうありたいという祈りが込められているのでしょう。
アカシア:障碍についてきちんと伝わるように書くというのは、難しいことですよね。この作品は、作者も同じように苦労されているから伝わる力を持っているわけですが、へたすると、障碍があっても必死で頑張れば一人前になれる、という結論になってしまう。でも、頑張りたくても頑張れない人だっているんじゃないですか。最近、病院の職員が迷惑な入院患者を公園に捨てたっていう事件がありましたよね。新ちゃんや乙武さんは、頑張っているし迷惑もかけないからいいけど、そうじゃない人は捨てられてもしょうがないんだ、みたいになってしまうとまずい。
こういう立場から書いた本は少ないから。そういう意味では貴重ですね。頑張るという点も、作者の理想が、新ちゃんやお兄ちゃんに投影されているのかもしれませんね。
(「子どもの本で言いたい放題」2007年11月の記録)