原題:IN THE MOUTH OF THE WOLF by Michael Morpurgo, 2018
マイケル・モーパーゴ/作 バルー/絵 杉田七重/訳
あかね書房
2019.04
<版元語録>弟の戦死をきっかけに、戦うことを決めたフランシス。厳しい訓練を受け、ナチスドイツに占領されたフランスへ向かうが…。イギリスの児童文学作家、モーパーゴが、叔父フランシス・カマルツの生涯を描いた物語。
ルパン:これはノンフィクションなので、事実の迫力はやはりすごいな、と思いました。一番食いついて読んだのは登場人物のプロフィールです。
アンヌ:モーパーゴは私の苦手な作家で、いつも感動の波にうまく乗れません。今回は主人公が平和主義者で徴兵拒否者として農場にいられたのに、なぜ戦争に行ったのか、ということばかり考えてしまいました。戦中の日本では考えられない権利ですよね。それなのに、戦死した弟の復讐ではないにしろ、遺志をついで戦争に行き、人を殺したくないと言いながらも対独協力者のフランスの民兵は殺してしまう。老後は英雄としてフランスの村に迎えられているけれど、主人公のプロフィールを読むと、実人生では戦争に行ったことを悔やんでいたのではないかとも思えます。そこが書かれていないようで、何か物足りない感じがしました。
マリンゴ:モーパーゴの本の多くは、語り手と著者が近くて本人の体験が投影されている印象を受けます。実際は違うんですけれど。でも、今回は本当に自分の親族の話なんですね。いつもよりさらに、リアリティを感じました。登場人物のプロフィールが巻末にありますし。ただ、実際の話だからこそ、普段より登場人物が多いし、実在の人物だからキャラ立てがしづらいせいか、人物像が立ち上がってこない人が何人かいたように思います。ところで、レジスタンス、スパイ活動をやった人は、何かの戦いで華々しく活躍した人と違って、戦後に報われないのだなぁ、と感じました。デンマークの少年たちのレジスタンスを描いた『ナチスに挑戦した少年たち』(フィリップ・フーズ著 金原瑞人訳 小学館)のことを思い出しました。なお、1つ誤植と思われる個所を見つけました。p104の6行目「合った」は、正しくは「会った」ではないかと。
西山:表紙のこれ、オオカミの顔なんですね。子ども時代の父親と弟のピーターと3人で森をハイキングしたときのエピソードから来ていますよね。オオカミが来たら戦って追い払うのだといつも棒を持っていたというピーター。「ぼく」は「戦う必要なんてない、ふりかえって正面から堂々とむきあい、手をパンパンと打ち鳴らしてやれば、逃げていく」(p17)と。この2つの考え方が、その後ファシズムとの戦いに自ら飛び込んでいったピーターと、兵役免除審査局へ行って平和主義を貫こうとした「ぼく」という対照的な行動につながるわけですが、結局、「ぼく」は非戦を貫けなかったわけです、叔父が背負ったその生き方をモーパーゴも背負って、それが作品に通底しているのかなと思いました。今までの作品をふりかえらせるような作品だと思います。兵役拒否という制度の存在を子どもに知らせるのも意味がある作品だと思います。レジスタンスの過酷さを読むに付け、抵抗の闘争が冒険の延長のようだった『ナチスに挑戦した少年たち』はのんきだったなあと改めて思い返しました。それと、ヨーロッパでのナチスへの市民の抵抗の規模を垣間見て、作品からは離れるのですが、オリンピック会場で旭日旗なんてひらめかせたら、ヨーロッパの人々に「ナチスと組んでいたファシズム国家日本」という記憶を呼び覚まさずにはおかないだろうと思いました。あと、クリスティーンの最期が悲しすぎる・・・・・・。p96でレジスタンスにおける女性たちが「無名の勇者」で「こういった女性たちを讃える勲章はない」と書いていることとで、モーパーゴがクリスティーンに深く心を寄せ、苦い記憶として継承しているのだと思いました。
ルパン:クリスティーンの最期は本当に切ないですよね。そこがノンフィクションのつらいところ、重いところ、ということでしょうか。
まめじか:まず、いいなと思ったのは、インドから来た移民の女の子が出てくるなど、時代とともに変わっていく村の様子が描かれていることです。モーパーゴは細部にまで心を配る作家ですね。女性に光を当てているのはいいのですが、その人たちも戦っていたわけで、それを考えると複雑な気持ちになりました。読者がいろいろ感じて、考えればいいのでしょうけど。
アンヌ:ドイツでも反ナチスの本は多く翻訳されていますか?
まめじか:はい、英米文学児童文学にはホロコーストものが多いし、英語からの翻訳はドイツではメジャーなのでドイツ児童文学賞の青少年審査員賞にもよくノミネートされていますよ。ジョン・ボインの『縞模様のパジャマの少年』(千葉茂樹訳 岩波書店)とか『ヒトラーと暮らした少年』(原田勝訳 あすなろ書房)とか。マークース・ズーサックの『本泥棒』(入江真佐子訳 早川書房)は同賞をとっていますし。
しじみ71個分:モーパーゴの物語はいつも比較的短いですが、この作品も短い物語の中で、90歳のおじいさんが自分の人生を振りかえるという形式になっていて、語られる内容は大変に壮絶なので驚きました。おじいさんが寝床でしゃべる話を孫が聞くような淡々とした語り口ですが、平和主義の人が教練を受け、命をかけて軍事スパイになるという、とてもハードな内容ですね。でも、オブラートがかかっているように、読み終えた後の印象が割とソフトです。一人の男の一人称語りで、戦時中に関わった様々な人々の人生を描きつつ、それを通じて戦争の時代を描いていて、うまいなぁ、手慣れているなぁ、と感じます。まさに老練という感じですが、読んでいて、物語の中身よりもその印象が先に立ってしまうなとは思いました。それから、私は、大変にお恥ずかしいことに、原題まで考えが及ばなかったので、表紙の白い顔をキツネだと思ってしまって、なんでキツネの顔が表紙に描いてあるんだろうと思っていました・・・・・・。オオカミなんですよね。
ルパン:原題のほうが、手に取りたくなりますよね。
鏡文字:150ページ程度と短めで挿絵もとても多いけれど、内容はYAといってもいいような作品です。読書対象をどのあたりに設定しているのかが、本の作りから少しわかりづらい気がしました。ノンフィクションなので、正直なところ、内容についてあれこれ言ってもしかたがないかなと思う一方、もしも、児童書としてでなく、一般向けのものとして書かれたらどうだったのだろうか、そのほうが読み応えがあるものになったのでは、という思いがぬぐえませんでした。クリスティーンとの関係など、人間ドラマや心のひだのようなものをもっと知りたかったです。回想形式なので淡々としていますが、さすがに手練れというか構成などはよくできている、とは思いました。スパイというものをどう捉えるか、レジスタンスとしての暴力をどう考えるか、悩ましい問題で、『ナチスに挑戦した少年たち』のときも思いましたが、自分の中でも明確な答えが出せていません。結局暴力なのか、という割り切れなさがどうしても残ってしまいます。ただ、『ナチスに挑戦した少年たち』は、当事者が子どもでしたが、こちらは大人の行動なので、より緊迫感や切実さがありました。とはいえ、また反ナチスか、という思いもあって、欧州は、多かれ少なかれ、ナチスを台頭させたことへの後ろめたさがある分、「絶対悪」ナチスに対置する物語(創作という意味でなく)は作りやすいのではないかと思ってしまい、いつももやっとします。
しじみ71個分:軍事スパイとして殺し、殺されという凄惨な経験をした人が、終戦後には学校の先生になるわけですよね。自分のおじいさんという、とても身近な存在の人が、戦争中の暴力に加担していたのを知るのは、考えると非常に重くて深いことなので、そういう意味で、自分たちの身に置きかえて考えてみるきっかけとして読むのはおもしろいとは思います。
ルパン:そのわりには葛藤の部分が描かれてないような。
サマー:表紙の絵が動物の怖そうな顔なのに、タイトルがふわっとしていてマッチしていないような気がします。内容としては、言葉としてしか知らなかった「レジスタンス」がどういう活動をしていたのか、武器や食料などの荷物をどんなふうに投下していたのかがわかって、大人としては興味深かったです。ただ、これを日本の子どもたちが読んで、背景が理解できるのか疑問です。日本の子どもたちのどの年代に向けているのか? ヨーロッパの子どもたちなら、歴史教育で勉強しているでしょうから、背景がわかるのでしょうけど。
ルパン:子どものころドーデの『最後の授業』を読んだのですが、時代背景などまったくわからないなりに、強い印象を受けました。後年、世界史やほかの小説などで「アルザス・ロレーヌ」という言葉を聞いたときに、小説のイメージがまざまざと浮かび、歴史も物語もリアルに迫ってきました。歴史を知らなくても物語の持つ力が強ければちゃんと心に残るのだと思います。それにしても、今90代の、戦争の生き証人がひとりもいなくなる時代がすぐそこに迫っていますよね。10年後、20年後、世界大戦を知っている人間がひとりもいなくなったときが怖いです。その時代に向けてこういうものはできるだけ残していかなければ、と思います。
ハリネズミ:それぞれの章がべつの人に向けて書かれていますね。最初の「フランシス」は自分の紹介ですが、「子ども時代のイギリス」はお父さんに宛てたメッセージ、「スター街道まっしぐら」はピーターに宛てたメッセージ、それ以降も妻のナン、ハリー、オーギュスト、クリスティーン、ポールと、それぞれフランシスが深くかかわった人を思い出してその人に対して何か言うという形を取りつつ、そのなかで彼がやってきたことや彼が考えていたことを浮かびあがらせる。それがまずうまいなと思いました。それに、ただ出来事を紹介するのではなく、p44やp71など想いをところどころにはさんで物語に深みを持たせています。この作品にどの程度フィクションが含まれているのかはわからないのですが、この本にも戦争に反対するというモーパーゴのポリシーが通奏低音のように流れていると思います。「心を凍らせないと戦場には出ていけない」という言葉があったと思いますが、フランシスは軍事スパイとして戦場に出て行く。そして戦争が終わったとき、日常生活に戻るのに苦労します。ナンのおかげで自分はなんとか日常の暮らしに戻ることができますが、とても勇気のある、戦場で大活躍していたクリスティーンというワルシャワ生まれの女性は、平穏な日常には戻れないという姿も描いています。それでも、このテロリストをカッコいいと思う子どもも出て来るかもしれません。訳し方もあるけど、自分の叔父の生涯というノンフィクションにしばられている部分もあるかもしれません。
表紙の絵は原題に即しているので、日本語の書名にはちょっとしっくりしませんね。あと星空の絵が何度も出てきますが、そううまい絵でもないので、どうして繰り返し同じ絵が出てくるのかな、と思いました。ドイツでは小学生にも戦争で何をしたかを教えているという話を聞きますが、日本の子どもはほとんど教わっていません。なので、この本を読んでも日本の子どもにはピンと来ないところが多いかもしれません。でも、だから出版しないでいいのかと言ったら、それは違う。ちょっと違和感をおぼえたのは、p11でパンジャブ州からの転校生の女の子が、カウラは大切な人を呼ぶときにつける敬称だと言うんですね。アジアの子が自分の名前を言うときにこうは言わないような気がして原文を見たら、カウラはプリンセスという意味だとなっていたので、親がこの子につけてくれた名前がこうだったということなのかな、と。ただ、アマゾンでは最初の部分しか読めないので、実際がどうなのかはわかりません。
しじみ71個分:p144で戦争から帰ってきて、主人公が戦争の後遺症に悩まされ苦しんだことや、妻のナンのサポートでやっと日常生活に復帰できたということが植物の比喩を通して短く語られますが、表現が非常に抽象的なので、それがどれほど大変なことだったのかが想像しにくいです。これを読んでその大変さが分かる子どもがどれほどいるかなぁ、という疑問を感じますね。
ハリネズミ:語りのうまさには感心しますが、日本の子どもがこの作品からどれほどのものを読み取れるかは、もう少し説明がないとわかりにくいかも。まあ、手渡す人にかかっているかもしれませんね。
ルパン:クリスティーンはどうしてもとの生活にもどれなかったのでしょうか。
西山:クリスティーンの母国ポーランドは「新たにソ連が占領して」「帰る国はなく」(p144)なってましたから。
ハル:私は、長く生きて、一緒に生きたひとがみんな先に逝ってしまうというのはこんなにも切ないものなんだなぁと、童謡の『赤とんぼ』のような感覚で、しんみりひたってしまいました。幼いころ、弟に冷たくあたってしまったことへの後悔とか、レジスタンスの太陽だった、今は亡き女性についての思いとか、後から振り返れば、あのときああすることもできたんじゃないか、こうすればよかったんじゃないかって思うけど、仕方ないよね、みんなそのときを精一杯に生きていたんだから・・・・・・なんて、戦争の場面すら、若かりし日々の1ページのように読んでしまって、これでよかったんだろうか、と読後に思いました。これ、日本語版のタイトルが『たいせつなひとへ』だからっていうのもあるんじゃないかなぁと思います。原題の“IN THE MOUTH OF THE WOLF”(章タイトルに「オオカミの口の中」がありました)に近いものだったら、また違った入り方で読めたのかも。でも、『オオカミの口の中』というタイトルだったら、私はちょっと手に取らなそうだし・・・・・・難しいところです。あと、「兵役免除審査局」で、なぜ自分は軍服を着て戦場で戦うつもりはないのかを説明し、それが認められたところがとても印象的でした。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ネズミ(メール参加):そつのない語りでさらさらと読めましたが、モーパーゴの作品の中でとびきりよいとは思いませんでした。冒頭のフランスの場面で「フランシス・カマルツ大佐殿」とありますが、p.64は少尉なので、どこで大佐になったのかと疑問に思い、なぜ、人生の終わりにフランスにいたのかは、プロフィールを読むまでわからず、やや消化不良でした。
(2019年9月の「子どもの本で言いたい放題」