カテゴリー: 子どもの本で言いたい放題

2000年06月 テーマ:主人公は15歳

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『2000年06月 テーマ:主人公は15歳』
日付 2000年6月22日
参加者 愁童、ウォンバット、ねねこ、ひるね、オカリナ、
流、N、モモンガ、裕
テーマ 主人公は15歳

読んだ本:

バーバラ・ワースパ『クレージー・バニラ』
『クレージー・バニラ』
原題:CRAZY VANILLA by Barbara Wersba, 1986(アメリカ)
バーバラ・ワースバ/作 斉藤健一/訳
徳間書店
1994.11

<版元語録>家族とも心が通わず、友だちもいない、孤独な14歳の少年タイラー。野鳥の写真を撮ることだけを救いにする毎日だったが、恵まれない境遇にもめげずに大きな夢を着実に追う少女ミッツィに出会ってから、タイラーは変わっていった…。ロングアイランドの大自然を背景に、思春期の少年の揺れ動く心とそのきらめきを見事にすくい取った感動的な小説。
長崎夏海『トゥインクル』
『トゥインクル』
長崎夏海/著 杉田比呂美/画
小峰書店
1999.06

<版元語録>ひょんなことから知り合いになった、澄人と幼稚園児の美月。母子家庭に育った澄人は、同じ境遇の美月の心に自分と同じ心のすき間があることに気付く…。揺れ動く少年、少女の心を綴った6つの短編を収録。 *日本児童文学者協会協会賞
藤野千夜『少年と少女のポルカ』
『少年と少女のポルカ』
藤野千夜/著
ベネッセコーポレーション(講談社文庫も)
1999.03

<版元語録>オトコが好きな男、オンナになろうとする男、電車に乗れない女の子の物語。ナニカが過剰だとも欠乏しているともいえる20世紀末の高校生の心のうちを描く、トランスセクシュアルな作家のデビュー作。第14回「海燕」新人文学賞受賞作「午後の時間割」を併録。
陳丹燕『一人っ子たちのつぶやき』
『一人っ子たちのつぶやき』
原題:(中国)
陳丹燕/著 中由美子/訳
てらいんく
1999.05

<版元語録>2003年に中国は、なぜ一人っ子政策をやめるのか。孤独な小さな手が古い国をゆすぶったから? 日本とそっくりな少子化の道。「透明なわたし」と嘆く声。しかし、なお前向きに未来をつかもうとする一人っ子たち。中国、ドイツで異例のベストセラー。

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ダンデライオン

メルヴィン・バージェス『ダンデライオン』
『ダンデライオン』
メルヴィン・バージェス/著 池田真紀子/訳
東京創元社
2000.02

愁童:これは、おもしろかった。すいすい読めたね。レベルの高い作品だと思う。でも、今回の「家出」というテーマでとりあげるのは違和感があるな。家出するシーンから始まるんだけど、「家出」そのものというよりは、そこに端を発したディープな世界を描いた物語だからね。だけど、この作品をフィクションとして世に問うっていうのは、どういうことなんだろう? とっても現実感があって、よく描けていると思うけど、これだったら、ルポを読んだ方がいいんじゃないかって気がするんだ。どうも読後感がよくなくて。おもしろくてレベルの高い作品だけど、「これをどう評価するか」ということになると、迷うよね。いいのか悪いのか、よくわからない。大人が文学として楽しむのはいいけど、あえて子どもに読ませたい内容ではないからね。何かストンと落ち着かないものがあってさ。最初の3分の1くらいで、もう結末も想像がついちゃうし。あと、文体なんだけど、一人称で章ごとに話者がころころ変わるから、こんがらがるね。原文は、どうなんだろう。もっと識別しやすくなってるのかな? それにしても、16歳から失業保険がもらえるなんて、イギリスはすごい国だねえ。

モモンガ:私はこの本、図書館で借りられなくて、昨日買ったの。だから、まだ途中なんだけど、おもしろく読める本ね。とくに女の子が生き生きと、よく描けていると思う。これは、書店では一般書、大人向けの文学の棚においてあったんだけど、作者は、だれに向けて、だれに読んでもらいたいと思って書いたのかなあ。

ねねこ:私も、やっと昨日借りられたの。まだ30ページしか読んでないから、ちょっとコメントは無理みたい。

ひるね:これは、ガーディアンとカーネギーのW受賞作品なのよね。そのころ、私ちょうどイギリスに滞在していたんだけど、普通の先生や図書館員たちは、この作品の受賞に眉をひそめてた。こんなに暗いものを、あえて子どもに勧めることはないのにって。そういうこともあって読みそびれてたんだけど、今回読んでみたら、おもしろかったわ。そして、痛ましかった・・・。バージェスの作品に出てくる子どもたちは、みんな普通の子なのね。そういう子が、泥沼にはまっていく様子が、よくわかった。キャラクターが、実にはっきりと描かれているし、登場する大人もステレオタイプじゃなくて、いいわあ。あと「家出」と「ドラッグ」って、全然関係ないように思ってたけど、実は、密接な関係にあったということに気がついたの。家出した子がドラッグと出会ってしまうのって、道ばたの石ころでつまずくようなアクシデントではないのね。当然のことだったんだって、はじめて気づいた。家出するのもドラッグにはまるのも、動機はいっしょなのよ。両方とも「ここから脱出したい、逃避したい」というところから始まるわけでしょ。この作品、若い人はどんなふうに読むのかしら。バージェスファンの子は、あまりのひどい状況に「もうやめてよ」と、思いながら読んだって言ってたたけど。たしかにひどい状況なんだけど、ラストのジェンマの選択には、希望が感じられて、よかった。
バージェスって、一見冷たくて、つきはなした描き方をするんだけど、最後まで読むと、何かあったかいものが感じられるのね。人間、まちがえちゃうこともあるけど、まちがえたら軌道修正しながら、生きていけばいいんだよっていうような。あとタイトルなんだけど、この本、原題は
Junk なのよね。私は、日本語のタイトルは『ダンデライオン』でよかったと思うけど、もしバージェスが知ったら、嫌だと思うかもね。あますぎるって言うと思う。全体に、訳がとてもよかった。この人の訳、『シズコズドーター』(キョウコ・モリ著、青山出版社、1995)は、いまひとつだったけど、今回はよかった。あれは作品としては、おもしろかったんだけどね。そういえば、『シズコズドーター』はアメリカではYAの棚に置かれてるのに、日本では、大人の外国文学の棚に置いてあるわね。あと、どうしてこの本、あとがきが訳者じゃないのかしら。そんなに特別なことが書いてあるわけでもないのに。

ウーテ:私はこの本読めなかったんだけど、なぜかタイトルだけはよくおぼえてたの。書評で見かけたのかしら。たくさんとりあげられてた? 今ここで見せてもらってたんだけど、ちょっとびっくりしちゃった。「〜なのよ」とか「〜だわ」という口調! 今の女の子って、こんなふうにしゃべらないでしょ。これは抵抗あるなあ。リアリティがないと思う。

オカリナ:でも、これは子どもの本ではなくて大人の本として出版されているから。大人の本では符牒になっちゃってるからね、こういう口調。子どもの本の方がそういうところ、神経を使ってるんじゃない?

ウーテ:翻訳専門語っていうの、あるわよね。それにしても、この会話はキレイすぎる。30年前の言葉じゃないの?

ねねこ:たしかに本の中にしかない言葉って、存在すると思う。今現実には、ほとんど使わない言い方。幼い女の子が一人称で「〜だわ」を多用するファンタジーなんか、時代は確実に変わっていると思う。

ひるね:先月もいったけど、キムタクのドラマ「ビューティフルライフ」の会話は、リアリティがあって、そのへん、とても上手だったわよ。

オカリナ:私、今日は資料をいろいろ用意してたのに、忘れてきちゃった。原本とかバージェスのインタビューとか、みんなに見せようと思ってたのにな。私も、この作品おもしろかった。救いがなくて、暗い気持ちになったけどね。ウチも上の子が裏街道系だから、こういう思考ってすごくよくわかるの。主人公の二人は、14歳の男の子と女の子なんだけど、男の子は性格的に弱いって設定なのよね。彼の明るい未来が感じられないまま、物語は終わってしまう。ヘロイン中毒は脱出したけど、メタドン中毒のままで、ジ・エンド。女の子の方はすっかり立ち直って、希望のもてるラストになってるんだけど。
私は、タイトルは『ジャンク』のままの方がよかったと思うんだ。日本には今、ヘロインってそんなに入ってきてないけど、安心していられる状況ではないでしょ。日本の子どもたちにとっても、そのうち麻薬は人ごとじゃなくなると思うのね。不安や不満をいっぱい抱えてるティーンエイジャーにとって、ヘロインとかLSDって大きな誘惑になると思うから。それでね、この本の登場人物タールやジェンマに共感できるような子たちにぜひ読んでもらいたい本なのに、『ダンデライオン』っていうタイトルでは、そういう子は、手にとらないと思うの。裏街道系の10代には、アピールしないタイトルじゃない? だから、ちょっと残念。アメリカ版はJunk ではなくて、Smackというタイトルだった。あと、最初に登場人物紹介があるけど、これが中途半端でよくなかった。だって、たとえば「リチャード=アナーキスト」って書いてあるんだけど、読んでいくと必ずしもそうじゃないのよね。

ひるね:登場人物の紹介が最初にあるのって、大人のミステリー本の作り方よね。

オカリナ:図書館の人なんかに、人物紹介があった方が子どもにはわかりやすくていいって言われたんだけど、紹介文を工夫してほしい。前もいったけど、私は今「現代児童文学における家族像の変遷」というテーマで考えてるの。「家族」っていう単位に、求心力がなくなってきて、バラバラになっちゃってるでしょ。何かで読んだけど、今、イギリスの家庭の3分の1は、血のつながってない子どもを育ててるんだってね。親が親として機能しない、というかちゃんと親の責任を果
たせない人が、親になっちゃってる時代よね。この物語では、ジェンマの家庭はまあ普通だけど、しいていえば親が過干渉。タールのところは、典型的な暴力父とアル中母。それで家を出て、自分の居場所を探しにいくわけだけど・・・。今の家庭に希望がもてなくて、外に出て新たな自分の家族を探すっていう物語は、たくさんあるよね。『ジュニア・ブラウンの惑星』(ヴァジニア・ハミルトン著 掛川恭子訳 岩波書店)とか、スピネッリの『クレージー・マギーの伝説』(菊島伊久栄訳 偕成社)とかね。もう、これって文学の中だけの問題じゃなくなってきてる。今の子どもたちにとって、身近な、切実な問題になってきてるんだよね。

ウーテ:だからといって、この作品、若い子が共感できるかしら?

オカリナ:表面的ではない、ひとつの体験ができると思うな。まあ、疑似体験だけどね。

ウォンバット:私はリアルに疑似体験しすぎて、読んでるうちに身体に変調をきたしちゃった。なんだか気持ち悪くなっちゃって。ヤクの禁断症状がいっぱい出てくるからじゃないかと思うんだけど。具合悪くなりながらも、早く続きが知りたくてばーっと読んじゃった。おもしろかったな。イギリスのダークな部分を強く感じた。やっぱりパンクの本場イギリスはちがうなあと思ったね。音楽でも、日本やアメリカのパンクロックって、形だけっていうか、あまっちょろい雰囲気があるけど、イギリスのパンクは「魂の叫び」って感じ。やっぱり歴史のある国は、抑圧に反発するパワーがたくさん必要なのかなあ。「スクワッター」っていえばね、4〜5年前、姉と自由ヶ丘かどこかを散歩してて、ここしばらくだれも使ってませんって感じのビルの前を通りかかったことがあったの。それで私が「こんなに栄えている場所に、突然荒れ果てたビルがあるのって不気味だね」っていったら、姉が「イギリスだったら、こういうビルなんて、占拠されちゃうんだから」って言いだして、私はそのときスクワッターって知らなかったから、「えっなにそれ。こわーい」とかなんとかいったんだけど、そのときの会話を思い出した。これのことだったのねえ。だけど、ここに出てくるスクワッターってよくわかんないな。ポリシーがありそうで、なさそう。
あと、さっき登場人物紹介の話があったけど、私は人物紹介はなくてよかったと思うな。こういうところにパンクって書いてあるのも、ヘンな感じ。あんまり有効な情報とは思えないし。ま、それはいいとして、彼らがずぶずぶ泥沼にはまっていく様子が、とってもよく描けてると思った。14歳とか15歳って、いちばん危険な年頃よね。なんだかわけもなく、不満があるというか、なんでもないことなのに、無性に腹が立ったりして。そういうイライラ感を、なつかしく思い出しましたね。

ウンポコ:ぼくはねえ・・・こういう本って苦手なんだなあ。なんとか半分くらい読んだけどさ。登場人物のだれにも共感できないんだよ。ドキュメンタリーを読むような興味だけで、なんとかここまできたけど、全部読むのは苦痛だね、たいへん。こういう「単なるスケッチ」みたいな作品は、好きじゃないの。角田光代の『学校の青空』(河出書房新社)にも、同じことを感じたんだけど、切り取り方の問題だと思うんだよ。ぼくは作者のメッセージを、しっかり感じたいタイプなんだよね。だから、作者の姿勢が見えてこないのは、どうもだめだ。

愁童:この本のメッセージって、なんなんだろう?

ひるね:「麻薬は怖い」というだけではないと思うのよ。何かを大々的にばーんと掲げているわけではないんだけど・・・。さっき「救いがない」っていう話があったけど、最後の方に出てくる、タールのお父さんとジェンマとのふれあいが、唯一、救いといえば救いよね。

ウーテ:話は変わるけど、ティーンエイジャーが自分たちのことを書くっていう作品もあるでしょ。この作品はそうではなくて、大人がティーンエイジャーを描いているわけだけど。今まさに渦中にある若者が執筆するのと、大人になった作者が10代のころを振り返って執筆するのって、何か違いがあるのかしら? やっぱり大人になってから書くと、そこに評価や追憶が加わるのかなあ。私の目下の関心は、それだわ。ねえ、みなさんはどう思う?

(2000年05月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


クローディアの秘密

カニグズバーグ『クローディアの秘密』
『クローディアの秘密』
E.L.カニグズバーグ/作 松永ふみ子/訳 
岩波書店(岩波少年文庫2077)
1969.10

オカリナ:これは、もう評価の定まった作品だけど、「家出」をテーマにするなら、はずせない作品よね。でも、メルヴィン・バージェスの『ダンデライオン』とは、主人公の階層もちがうし……。まあ、ひとつの自分探しの物語だけど、私は何度読んでも、強い印象をあまり受けないの。どうしてかな?

ウーテ:私は、この作品は3回くらい読んだけど、なんといっても家出する先がメトロポリタン美術館だというのが斬新で、わくわくするわね。家出って、子どものとき、みんな憧れるものでしょう。どうしてこの作品が名作といわれてるのか、その秘密について今日は考えてみたいと思ってるんだけど。

ひるね:以前に読んだときも思ったんだけど、やっぱりキャラクターの作り方が、うまいのよね。フランクワイラー夫人もクローディアもジェイミーも、どのキャラクターも生き生きしてる。とってもよく描けていると思う。ただし、フランクワイラー夫人の弁護士が、実はクローディアのおじいさんだったというオチは、ちょっとやりすぎ、というか筆がすべっちゃったという感もあるけどね。だって、クローディアは大冒険をしたつもりだったけど、結局安全な範囲内で動いていたということになっちゃうわけでしょ。でも、名作といわれるだけのことはあるわね。アメリカでの出版が1967年だから、もう30年以上も前の作品だけど、今読んでも楽しめるもの。

ねねこ:この作品は「家出」というより「冒険」の物語よね。私には家出は一人でするものという思い込みがあるの。そこで味わう孤独感や浮遊感こそが、家出の醍醐味、大切な部分だと思うから。クローディアの場合、悲壮感はあまりないし、弟を連れていくってことで、どこか家のにおいをひきずり、安心感に包まれている感じがする。私も子どものころよく家出したんだけど、そうねえ、1年に2回はしてたかな。姉といっしょの時と一人の時では、緊張感がまったく違った。あのころは「ここじゃないどこかへ行きたい」という気持ちが、いつもどこかにあったのよねえ。

モモンガ:私は、この作品、初めて読んだときの印象が、ものすごく強烈だったの。今読んでも、やっぱりいいなと思う。今でも名作を紹介するブックリストなんかを作るときには、必ず入れる作品。新しい新しいと思ってたけど、もう30年も前の作品になっちゃったのねえ。『ダンデライオン』とちがって、クローディアには、何か大きな不幸があるわけじゃない。この作品は、一言でいえば「アイデンティティの確立」ってことになるんだけど、家出して自分の力で何かをやりとげる、内面的な何かを得るっていう物語。さっきの『ダンデライオン』と比較してみると、『ダンデライオン』には「何かを得る」って手応えが感じられないのよね。あと、最初に出てくるフランクワイラー夫人の手紙の意味が、あとになってわかるっていうからくりも、とても新鮮だった。クローディアの冒険がおもしろいものだから、最初の手紙のことはすっかり忘れて読み進んでしまうんだけど、最後になってはじめからすべて仕組まれていたことがわかり、やられたっていう驚きがあって。今はそういう凝った趣向の作品もいろいろあるけど、あのころはまだそんなになかったでしょ。

ねねこ:印象に残る場面、視覚的にぱっと目に蘇ってくる場面がたくさんあるわね。

愁童:とてもよくできてるよね。さすが名作といわれるだけのことはあるね。この作品の魅力は、知的なおもしろさだと思う。「知」の部分がとっても綿密。だけど、少しばかり「知」偏重かもしれない。というのは、「情」の部分に、ちょっと物足りなさを感じるんだよな。できすぎというか、作られすぎで、意外性が感じられないっていうか……。

ウンポコ:ぼくはこの作品、タイトルは知ってたけど、読んでなかったの。今回読む機会があって、本当によかった! とってもおもしろかった。もうねぇ、かなり好きな作品。クローディアもジェイミーも、とってもいい子なの。一所懸命でさ。アグレッシブなんだよね。そんな彼らがいじらしくて……。おじさんは、いとおしくなってしまったぞ。彼らといっしょにメトロポリタン美術館に潜んでるような気持ちになった。疑似体験できたね。ぼくもずっと、早く家を出たいと思ってた子どもだったんだよ。それで大学に受かったときに、やっと波風立てず、合法的に家を出られることになって、ひとりで東京に出てきたんだけど、そのときの喜びとか解放感というのを、なつかしく思い出した。それは家出ではなかったけど、でも家から離れる、ある種、家を捨てるということでは同じだからね。ぼくは、この本、多くの人に薦めたい! しかけもうまいし、ストーリーもとてもいいと思うから。

ウォンバット:私はこの本大好きで、小学校4年生のときに出会って以来、何十回もくりかえし読んでて、もうすっかり自分の血となり肉と・・・それも脳とか心臓とかのだいじな部分になっちゃってる本だから、論じるっていうのは難しいなあ。あんまり好きすぎて、分析できない。映画や音楽、恋人もだけど、あまりにも好きなものって、そうならない? この本を好きな理由でいちばんに思い浮かぶのは、クローディアのキャラクターかな。オール5でいちばん上の子で、しかも女の子だからって不公平が多すぎると思ってる・・・そのくらいはだれでも書きそうだけど、それだけではないの。遠足に行っても、虫がいっぱいいたり、カップケーキのお砂糖がとけたりするのが不愉快だとか、お母さんたちに「私たち家出するけど、FBIを呼ばないで」って手紙を送るときに、もう1通投函するんだけど、それがコーンフレークスメーカーの懸賞。こんなときに! 全然うわついてないのよね。細かいことなんだけど、こういうことで彼女の性格が、とてもよくわかる。おかげでクローディアの姿は、輪郭だけじゃなく頭のてっぺんからつまさきまで、つぶさに目に浮かぶようになってくる。とってもリアリティがあるのよね。この本に出会う前に読んでいた本の主人公は、「いかにも本の中の人」という感じで、身近に感じられることってなかったような気がする。クローディアは私が、近しく感じた最初の主人公かも。それでね、クローディアの家出の計画が、実に具体的で用意周到。もう、あったまいい! やっるぅーって感じ。あと、ジェイミーの台詞も好き。読み返すたびに、うれしくなっちゃう。「家出にいく」とか「ちぇっ、ぼろっちいの」とかね。「ぼろっちい」って、今だったら「さえねぇー」とか「超カッコわりぃ」っていうとこだろうけど。たしかにこの物語は「家出」というより「冒険」の物語だと思う。だからこそ「家出にいく」っていう台詞もあるわけで、全然悲壮感がない。「家から逃げる」んじゃなくて「私の価値を思い知らせてやる」ための行動だから。こういう威勢のよさ、プライドの高さも、私好み。今気づいたけど、この本とあとの3冊との大きな違いは、それかなあ。あとの3冊は「家から逃げる」ための行動なわけでしょ。それこそが、ほんとの家出なんだけど。

モモンガ:表面的には、クローディアって家出する必然性のなさそうな子に見えるけど、そういう子だって、実は心の中には、いろいろなものを抱えてるのよね。

ウォンバット:そうそう、そうなの! そういうことをわかってくれてるってのがウレシイ。優等生とか、何も問題がないとされてる、いわゆる普通の子だって、不満を表に出してないだけであって、何も感じてないってわけではないのよ。

ウンポコ:この物語には、ちゃんとわかってくれて、見守ってくれる大人がいるから、安心感があるね。

オカリナ:『テオの家出』に出てくるパパフンフンとかね。両親ではなくて他人なんだけど、支えてくれる大人がちゃんと存在していて、受け止めてくれるって、いいよね。

(2000年05月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


テオの家出

ヘルトリング『テオの家出』
『テオの家出』
ペーター・ヘルトリング/作 平野卿子/訳 浜田洋子/絵
文研出版
1990.09

モモンガ:これは『クローディアの秘密』と『ダンデライオン』の、ちょうど中間に位置する作品かしら。全体に暗い感じはするけど、味方になってくれる大人がいてくれて、そのパパフンフンとテオの心の結びつきが、とってもいい。これからテオが何かを見つけるっていう安心感、将来の希望が感じられた。

ひるね:私も、おもしろかった。テオの心情の移り変わりが、とても自然に描かれてるわね。パパフンフンだけではなく、途中で出会う人びとが印象的。ケマルとか、店番をしている女の子とかね。深刻になりすぎないで、ユーモアをまじえて描いているところがいいと思う。読んでくうちに、パパフンフンに惹かれていくのよね。テオの成長の過程も、きちんと見えるし。先代の三遊亭金馬の「藪入り」ってあるじゃない? 私、大好きなんだけど、家族から離れることで子どもが目覚ましく成長していくところなんか、あれみたいだと思った。メルヴィン・バージェスの『ダンデライオン』のジェンマより、テオの方がよっぽど自分で選択してると思うし、これから先しっかり生きていけそう。明るさを感じるわ。でも、これはテオが10歳だったからであって、もしもっと年齢が上だったとしたら、こんなふうにはいかなかったんじゃないかしらね。テオの両親が離婚しちゃったのにも、どきっとさせられたわ。あまく流されていないっていうのかな。
この作品も『ダンデライオン』も、作者の社会を見る目、子どもを見る目が、しっかりしてる。真実を誠実に伝えようという姿勢が伝わってくる。主人公だけでなく大人の描き方にしても、それを感じた。パパフンフンに家族のことをたずねたら、「いない」とすぐにきっぱり答えた、というところがあるでしょ。この1行だけで、パパフンフンのそれまでの人生が、よくわかる。それとか「学校ではヒョーキンもののテオが、家に帰ると変わってしまう」っていうところなんかも、作者はきちんと見てるんだなあと思った。今、ティーンエイジャーの犯罪が社会問題になってるけど、犯人の少年についてまわりの大人は「彼がこんなことをするなんて信じられない。ヒョーキンで明るい子だったのに」なんて、簡単に発言したりするでしょ。親も先生も、子どもに対して無関心で、表面的なことしか見てない大人が多いんじゃないかと思う。だって実際には「ヒョーキン=明るい」ということには、ならないのにね。ヒョーキンを「演じてる」ってことだってあるから・・・。誤解だよね。そういうところ、ヘルトリングはちゃんとわかってるんだなあと思ったな。

ねねこ:今回の4冊の中で、心情的にはこの作品がいちばん自分の家出に近いと思った。テオは自分が死んで、両親が嘆き悲しんでるときのことを想像したりするでしょ。これなんて私もよくやったし、その気持ちはよくわかる。子どもの無力感みたいなものが、よく描けていると思う。テオみたいな、苛酷な状況にあったとき、子どもに何ができるの? って考えてみると、どうしようもないのよね。結局、子どもには何もできないわけじゃない? 子どもは、どんな状況でも受け入れるしかない。そういう厳しさが、とてもよく描けていると思った。子どもの内面の深みとか、そのつきつめ方が『クローディアの秘密』とは全然違う。どんなに苛酷な状況だったとしても、がまんしなくちゃいけない期間ってあるでしょ。子どもは、その時代をなんとかやりすごす術というのを、身につけなくてはいけないのよね。

愁童:ぼくはこの本を読んで、「なんで本を読むのか」というか「本を読む原点」みたいなものを、思い出した。読んでよかったと思える本。やっぱりパパフンフンに会えるっていう体験・・・人生の先輩、尊敬できる先輩に会えるというのかな。疑似体験だけど、それが楽しめるから、本を読むんだと思うんだよ。今回の4冊の中では、いちばん安心して読めた。

ウォンバット:私も、おもしろかった。やっぱりパパフンフンが好き。風貌もふくめて、とっても魅力が感じられた。全体的なトーンは、グレーではじまりグレーでおわるって感じなんだけど、暗すぎないし、嘘っぽくないと思うな。

オカリナ:テオみたいな、こういう状況だからこそ、家出するのよね。閉塞状況がとてもよく描けていると思った。「ここじゃないどこか」に行きたくて、転々とするわけだけど、そこで起こる出会いのひとつひとつについて、もうあとひと筆でも、あったらもっとよかったのにと思った。そこが、ちょっと物足りなかった。残念。それに絵も・・・暗すぎると思うんだけど。

ウォンバット:同感。

愁童:ぼくは好きな絵じゃないけど、効果的な絵だと思ったよ。

ウンポコ:ぼくは、この絵、好きだな。とくにパパフンフンがテオを抱きしめるところ(p180)なんて、いいなあ。成功してると思うよ。他の絵描きさんでは、この雰囲気を出すの、難しいんじゃない? 物語もよかったよ。ぼく、ヘルトリング好きなの。『おばあちゃん』(上田真而子訳 偕成社)と『ヨーンじいちゃん』(上田真而子訳 偕成社)が、とくに好き。ヘルトリングは大人を描くのが、うまいと思うんだよね。子どもは残念ながら、自分で家族を選べないわけだけど、パパフンフンみたいな大人もいるんだよっていうのは、子どもを勇気づけると思う。テオみたいな子どもに対する応援歌になってるんじゃないかなあ。エレベーターで出くわす「安ものの香水の女」も、いかにもいそうな感じ。現実には、好き嫌いに関わらず、こういう人に会っちゃうことってあるだろ? いかにもありそうなことなんだけど、こういうことまで書く人、日本の作家にはいないよね。現実には、こういう人ともうまくやっていかなくちゃいけないのにね。

ねねこ:ねえ、親ってなんなんだろうね。

ウンポコ:どんな親であれ、子どもは親に対して満足できないもんだと思うよ。それにしても、ヘルトリングって「この人こそ、少年の物語を書く人」っていう気がする。健全な作家姿勢を感じるね。メッセージも、しっかり伝わってくるし。

オカリナ:私も、ヘルトリングって誠実な人だと思う。最近の彼の作品は、ちょっと暗いものが多いんだけど、社会状況が悪くなってるから、しかたないって部分はあるんじゃない? こんな世の中で、嘘っぽくなく、つくりものっぽくないものを書こうとしたら、どうしたって暗くなっちゃう。そらぞらしいことの書けない、まじめな人だから、現実を書こうとすれば、暗くなってあたりまえ。

ウーテ:これは1977年の作品だから、まだパパフンフンが存在してたんだけど、今はパパフンフンみたいな人って、いなくなっちゃったでしょ。このごろのヘルトリング作品に、温かさが感じられなくなったのは、ヘルトリングが変わったのではなく、社会が変わったんだと思う。ヘルトリングの生い立ちは、悲劇的なのよね。彼は1933年生まれで、お父さんは弁護士だったんだけど、ちょうどヒットラーの全盛のときでしょ。アンチ・ヒットラーだったお父さんは収容所に送られて亡くなり、お母さんは、その後やってきたソ連兵に子どもたちの目の前でレイプされて、自殺。結局、孤児になってしまったのね。そんなふうに小さいときに家族を失ってしまったから、「家族」というものに対する憧れとか思い入れが、人一倍強いんじゃないかしら。もともとは詩でデビューした、大人向けのものを書く作家だったのよ。それが、自分に子どもが生まれてみたら、子どもに読ませたい本がない、だったら自分で書こうって、子どもの本の世界に足を踏み入れた人なのよね。とっても良心的で、適当なことなんて書けない人。詩人だから、「行間で勝負!」という感じで、言葉が少ないのね。だから、翻訳はとても難しいと思う。詩人的な要素のある人の作品は、難しいものよね、翻訳するのが。反対に、ネストリンガーなんかはとっても饒舌だから、訳しやすいと思うけど。

ねねこ:「無口な男ほど理解しにくい」ってのと、一緒よぉ。

愁童:『ダンデライオン』に出てくる煙草屋さんって、ちょっとパパフンフンと似た存在なんだけど、ジェンマやタールに対してもっと冷たいし、まるっきり無責任だよね。彼のような存在に対する扱い方が、ヘルトリングとバージェスでは全然違う。作家の姿勢の違いを痛感するところだね。やっぱり子ども読者を意識してる作家だったら、作品のどこかに明るさがなくっちゃね。いろいろとつらいことはあるだろうけど、がんばって生きていけよっていうようなさ。

オカリナ:絵空ごとになっちゃいけないわけだから、良心的であろうとすればするほど、時代とともに作品は暗くなっちゃうんじゃないかな。

ウーテ:フィクションには普遍性が必要だから、難しいわよね。ノンフィクションだったら、ちょっとくらいヘンでも「事実です」ってことで、すんじゃうけど、フィクションは、そうはいかないから。ヘルトリングって、ほんとにまじめないい人なのよ。

愁童:テオが街の子に会って元気づけられるっていうところ、あったね。あそこもあったかい感じがして、よかったな。一方『ダンデライオン』は、街の子に会って落ち込んでいくんだよ。この違いも大きい。

ひるね:『ダンデライオン』と『テオの家出』では、主人公の年齢による差もあると思うわ。テオがタールの年だったら、またちがったでしょうね。

ウンポコ:翻訳者が苦労して訳してくれたおかげで、日本の子どももこのすばらしい作品を読むことができるんだ。ぼくは、日本の子どもを代表して、訳者にお礼をいいたい気持ちだよ。

(2000年05月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ざしきわらし一郎太の修学旅行

柏葉幸子『ざしきわらし一郎太の修学旅行』
『ざしきわらし一郎太の修学旅行』
柏葉幸子/作 岡本順/絵
あかね書房
1999.06

ねねこ:これは、柏葉さんの作品としては、できがあんまりよくない。この作品が、今年の青少年読書感想文全国コンクールの課題図書になってしまうっていうのは残念。憂えるべき、日本児童文学の現状。

オカリナ:ざしきわらしを現代にいかそうとしているのはいいと思うけど、いかんせん作品としての完成度が高くない。

ねねこ:柏葉さんって、読者対象が高い方が文章が上手だと思う。

オカリナ:これはリアリティがなさすぎ。お母さんがすぐにあたふたするとか、ざしきわらしを誘拐するところとか・・・。

ねねこ:自分の世界に、自分ひとりだけワーッて入っていっちゃって、説明不足になってるんじゃないかな。それじゃ読者はついていけなくなるから、筆を足したり、少し客観的に描写しないといけないんだけどね。男性像、女性像も、ちょっと古いとこあるのよねえ。それに、単身赴任中のお父さんの住んでるとこへ行くのは「家出」じゃなくて、「家移り」。だって、どっちも自分の家じゃん。

ウンポコ:ぼくも滅入っちゃったな。ざしきわらしに、ちっとも魅力がないんだもん。柏葉さんって、いい作品がいっぱいあると思ってたけどな。今、忘れられかけてるざしきわらしを、現代にいかそうというのは、とてもいいことだと思うんだけど・・・。

ねねこ:柏葉さんの永遠のテーマなんだよね、ざしきわらしって。ざしきわらしの話、たくさん書いているもの。柏葉さん、最近ちょっとマンネリぎみかもしれない。日本の作家って、ともすると起承転結にこだわりすぎるように思うんだけど、それが物語をつまらなくさせてるんじゃない? 『霧のむこうのふしぎな町』(講談社 青い鳥文庫にも)には、日本ばなれしたのびやかなおもしろさがあったのに、残念。

オカリナ:なんていっても、これが課題図書っていうのは、どうなの?「いじめに立ち向かう」っていう点で評価されたのかもしれないけど、それは、この作品の中ではただの図式でしかないのに。

ウンポコ:登場するざしきわらしが、ざしきわらしとしての魅力をちゃんと備えていれば、ちょっとくらいストーリーが破綻してたって、問題ないんだよ。この作品は、ざしきわらしがもってるはずのミステリアスな魅力が失われちゃってる! なんだか今日は、さえない終わり方になっちゃったなあ。

(2000年05月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


2000年05月 テーマ:家出

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『2000年05月 テーマ:家出』
日付 2000年5月18日
参加者 ウンポコ、愁童、ねねこ、ウォンバット、ひるね、
オカリナ、ウーテ、モモンガ
テーマ 家出

読んだ本:

メルヴィン・バージェス『ダンデライオン』
『ダンデライオン』
原題:JUNK by Melvin Burgess, 1996(イギリス)
メルヴィン・バージェス/著 池田真紀子/訳
東京創元社
2000.02

<版元語録>見知らぬ都会へ家出してきた十四歳の少年と少女はアナーキストを名乗る青年たちに拾われストリートの知恵を学びながら、占拠された空家で暮らすことに。時あたかもパンク時代。見るものすべてが新しい―だがドラッグの陥穽が二人を待っていた。繊細な筆致と冷静な人間観察が描き出す、悲しい青春のかたち。全英の話題をさらった、衝撃の物語。カーネギー賞・ガーディアン賞受賞作。
カニグズバーグ『クローディアの秘密』
『クローディアの秘密』
原題:FROM THE MIXED-UP FILES OF MRS.BASIL E.FRANKWEILER by E.L.Konigsburg 1967(アメリカ)
E.L.カニグズバーグ/作 松永ふみ子/訳 
岩波書店(岩波少年文庫2077)
1969.10

<版元語録>少女クローディアは,弟をさそって家出をします.ゆくさきはニューヨークのメトロポリタン美術館.2人は,ミケランジェロ作とされる天使の像にひきつけられ,その謎を解こうとします.
ヘルトリング『テオの家出』
『テオの家出』
原題:THEO HAUT AB by Peter Hartling 1977(ドイツ)
ペーター・ヘルトリング/作 平野卿子/訳 浜田洋子/絵
文研出版
1990.09

<版元語録>「どうしたんです、テオ?どこかぐあいでも悪いんですか?」「別に。」テオの声はすこしふるえた。先生は、ぼくのようすがおかしいのに気がついたんだ。なのに、お父さんたちときたら…。終業のベルがなった。さあ! 行くぞ!校庭でひと息ついてから、テオは表通りへでていった。すべてはこれからはじまる!
柏葉幸子『ざしきわらし一郎太の修学旅行』
『ざしきわらし一郎太の修学旅行』
柏葉幸子/作 岡本順/絵
あかね書房
1999.06

*課題図書 <版元語録>「オラ、ざしきわらしだ。」その子は、まじめな顔でうなずきます。「ほんとかよ?」。家出をしてきた資と、修学旅行に出されたざしきわらしの一郎太に、ふしぎな友情が生まれます…。空想のつばさで、たのしい読み物の世界へ。

(さらに…)

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魔女からの贈り物

ジェニー・ニモ『魔女からの贈り物』
『魔女からの贈り物』
ジェニー・ニモ/作 ポール・ハワード/絵 佐藤見果夢/訳
評論社
2000.02

モモンガ:対象年齢ということを考えると、今回の5冊の中では、この本がいちばん3〜4年生にぴったり。怖い話好きの子によさそうな本。でも、こういう場で言うべきことがあんまりないな。結末に期待を持たせてるわりには、思ったほど盛り上がらなかったし。でも、現実的な妹と、魔女の存在を信じている男の子のやりとりは、とてもおもしろかったし、時計がカチコチいう音を効果的に使っていて、うまいなと思う。雰囲気を楽しむ、軽く読めるお話っていうことでいいんじゃない? では次、推薦者の愁童さんどうぞ。

愁童:そういわれると、ちょっと照れるな。『ハリーポッターと賢者の石』(J.K.ローリング著 松岡佑子訳 静山社)を読んで、魔法の世界が、あまりにアニメチックというか、おもしろいけど軽っぽいので、最近の他のイギリス人の書くものはどうかなということがあったのと、日本人の書くものとの違いは何かな、と思ったんだよね。それは、生活感覚に根ざしてるかどうかってことじゃないかと思うんだけど。まあそんなわけで、ちょっと考えてみたくなったわけだ。魔女について。この本を読んで、やっぱりnative の子どもの心の根っこには、今でも生きた魔女が、ちゃんと存在してるんだなと思ったね。この本が、作品として特別優れているというわけじゃないんだけどさ。でも、今回読んでよかったなと思うのは、たとえば、始まりをちょっと読んでみると、「たまらなく寒い日でした。息がこおるほど風が冷たく、空をまっ黒な雲が、野生の馬の形にちぎれて、流れていきます。」となってるんだけど、もうこの3行だけで醸し出されるものがあるでしょ。磨きぬかれた、とてもいい文章だと思う。『冬のおはなし』とくらべたら、それはもう全然違う。書き手の姿勢、skill、執念……そういったものをひっくるめた作家修行の結実の高さを感じるね。強烈な印象はないけど、でも上質な物語だと思う。

ウォンバット:同感。うまいと思う。その場面場面の雰囲気がとてもよく伝わってくる。でも、私も、とくに言いたいことはないなあ。おもしろいけど、どうってことない。魔女とか、そういう恐ろしくて不思議なものの涙が水晶に変わるというのも、どこかでそういうお話を見たような気がして、新鮮味はないし。

ウンポコ:そう? この本が5冊の中でとびぬけてよかったよ。登場人物の形象化が、とてもよくできている。ちょっとずつしか書いてないけど、人物像がとてもよくわかる。物語性も、一級品だね。あえて難点をあげるとしたら、本づくり。イラストの製版にバラつきがあるのが、どうも気になって。きれいに出ているところもあるけど、線がとんじゃってるところがある。ほら(と、ぱらぱら本をめくる)31ページとかさ、50ページ。

ウォンバット:ほんと。章の最初のページのイラストが、とくにひどいみたい。

ウンポコ:それから、改行が少なくて、息苦しいね。原文がそうなのかもしれないけど、3〜4年生向けだし、ちょっと考えたほうがよかったと思う。もうひとついいたいのは、タイトル。これ、原題はThe Witch’s Tears でしょ。『魔女の贈り物』とするより、原題どおり『魔女の涙』のほうがよかった。

モモンガ:そういえば『わすれられないおくりもの』(スーザン・バーレイ作  小川仁央訳 評論社)っていうのも、あったわね。

オカリナ:私も、タイトルは原題をいかしたほうがよかったと思う。「贈り物」だと、それだけで魔女が「いい人」って最初からわかっちゃうから。あと「オークじいさん」が出てくるんだけど、日本語で「オークじいさん」といってしまうと、ニュアンスが伝わらないでしょ。「オークじいさん」も「魔女」も、伝統的な妖怪のたぐいで、super natural な存在。そして、お互い疎ましく思ってて・・・ということが前提としてあるんだと思うけどね。でも、全体的には、ちゃんとできてるいいお話だと思う。

ひるね:うまい作者よね。好感のもてる作品が多いけど、ちょっとパンチが足りないって印象。『おおかみウルフは名コック』(安藤紀子訳 デイヴィド・ウィン・ミルフォード絵 偕成社)も、そんな感じだった。だけど、この本はよかった! まず、土に根ざした魔女の存在がよく描けているでしょ。現実と幻想のはざまにある魔女を、とてもうまく表現してると思う。子どものすぐ近くにいる、あやしい存在というのかしら。日本の作家が魔女を描くと、日常とかけはなれたハイカラなものとして描くことが多いでしょ。だから、あやしさ、こわさが感じられない。山婆でさえハイカラな魔女みたいに書いちゃうことがあるわけだから。坂東真砂子の『死国』(マガジンハウス)などは、土に根ざした世界だと思うけど、児童文学でもそういう世界を書いてもらいたい。それから、この作品はスリルがあるでしょ。やっぱり3〜4年生には、スリリングな話か、げらげら笑える話のどっちかでないと、ウケないと思うのね。ずいぶん前に、小さい子たちに読み聞かせしたことがあって、そのとき思ったことなんだけど、やっぱり大人と子どものうけとめ方はちがうでしょ。『たろうのおでかけ』(村山桂子作 堀内誠一絵 福音館書店)みたいな大人には単純な話でも、子どもは、「どうなっちゃうんだろう」って、すっごくハラハラしながら聞いているのね。

ウンポコ:五感を使って描いてるよね、この作者は。時計の「チクタクチクタク」という音とか、8章に出てくる「におい」。「洗濯して干してあるおばあさんの洋服から不思議なかおりがたちのぼってきて、台所のにおいを変えてしまいました。ほのかにオレンジマーマレードのかおりがしていた部屋の中は今、松林とせんじぐすりのようなにおいでいっぱいです」っていうところとかね。

モモンガ:私もその場面、うまいなーと思った! 描写が具体的で、イメージがくっきりと浮かんでくるよね。

ウンポコ:説明文と描写文の違いなんだよ。上手な人が書くと、描写文になるんだ。それから、魔女が泣くシーン。ネコのハラムとスカラムばあさんが再会するシーンで、「涙を流す」とは書いていなくて、「チリンチリンと音をたて、床の上にころがっていきます」となっているんだけどさ、本当にうまいよね。大体ぼくは、書き出しがつまんないと、読みたくないタチなの。この作品は、書き出しもイイね! 何か起こりそうだぞって予兆を感じさせる。非常に高く評価をしたい。パチパチパチ(拍手)。

オカリナ:なんだか今日は冴えてるわね。

ウンポコ:2か月休んじゃったから、リキはいってる。今日の俺は、ひとあじちがうぜ。

(2000年4月の「子どもの本で言いたい放題」記録)


冬のおはなし

松居スーザン『冬のおはなし』
『冬のおはなし』
松居スーザン/作 山内ふじ江/絵
ポプラ社
2000.01

オカリナ:この作品、私はいいと思えませんでした。自分で創りあげた雰囲気に、一緒になって酔っちゃってるみたい。とくに気になったのは、いちばんはじめのお話「カシワの葉」。どうしても日本語でひっかかる。たとえば「雪ひら」っていう言葉が出てきますけど、今の日本語では、落ちてくる雪のことを、「雪ひら」とはいわないでしょ。現代日本語で「ゆきひら」といったら鍋のこと。確かに雰囲気はなんとなくわかって、使いたくなる言葉なのかもしれないけど、日本人だったら使いたくても使えない。作者が外国人だから使ってもいいと思われてるとしたら、あんまりいいことじゃないと思う。それからp20ページに「ありがとう、こころやさしい友よ」ってあるんだけど、昔の子どもの本でこういう翻訳ってあったけど、今はないよね、こういう言い方。それから「お話なら、いくらでも語ってあげようとも」とかオオハクチョウのお話が終わったところで、キツネが、「(お話)まだ、とまらないで」っていうのとか、ヘンじゃない? 「お話がとまる」って日本語。まあ、作者は外国人だから仕方ないとしても、本づくりにかかわる人たちはその辺気をつけて、アドバイスしないといけないよね。前に、松居さんの本にかかわった人から、彼女はイメージで文章を書いているから「どういうシチュエーションですか?」って具体的にきかれると困ってしまうっていう話を聞いたことがあるの。あんまりリアリティを考えずに、なんとなくのイメージを文章にしてるのかな? 私は、もう途中で読めなくなった。だって、キツネとウサギが仲よくすりゃいいってもんじゃないでしょ。松居さん、せっかく北海道に住んでるんだから、自然をきちんと見つめて描いてほしかったなあ。

ウンポコ:松居さんは善意の人なのね。善意の人が観念で書いてるって感じ。カシワの葉っぱが最後まで落ちないっていうところなんかは、よく観察してるなと思うけど、キツネとウサギの同席は不自然。読者は、やさしいあまい世界にだまされちゃいかんと思う。救いは絵だね。山内ふじ江さんの絵は好き。うまいね。絵を見て、この本を好きになろうなろうと努力したけど、やっぱり好きになれなかった。

ウォンバット:私もおもしろく読めなかった。どうも松居スーザンさんの作品ってよさがわからないの。日本語を母国語としない人がこれだけの文章を書くのはすごいと思うけど、毒にも薬にもならない感じ。ただただ平和な世界でさ。登場する動物は、キツネもウサギもただ名前だけで、どんな生態の動物なのかとか、どんな性格のキツネなのかとか、いっさい物語には関係ないみたいで。

ひるね:みんな同じで、ただ名札が違うだけなのよね。

ウォンバット:そうそう。中に出てくるお話も、おもしろい? なんだかいつも同じような話だけど。詩もすばらしいの? どうも、よさがわからない。

愁童:今江祥智さんが、昔よくいってたよ。「歌入り観音経なんてヤメロ」って。物語の中に気楽に詩なんて入れるもんじゃないって、すっごい馬鹿にしてた。ぼくも読むのに苦労して、結局半分でヤメた。若い女の人がはじめて書く作品に、こういうのが多いんだよな。そこらへんを読者ターゲットにして、こういう本が出るのかな? 編集者の間に、こういう作品を敬遠する雰囲気があったように思うけど、最近は違うのかな? 日本児童文学の戦後50年はどこへいってしまったのかと、さみしい気持ちになった。さっきも言ったけど、『魔女からの贈り物』と比べると、書き手の姿勢がまるっきり違うよね。何が言いたいのか、さっぱりわからない。ムードばかりで、とらえどころがなくて。自然描写が乏しいし、白鳥が飛ぶときの描写なんかも、ちょっとねえ……。

モモンガ:私は、なんとも、たらんたらんとしたところが、嫌だった。松居さんは、たしかに善意の人だと思うのね。自然を愛し、動物を愛し、お話を愛し、ご自分の世界をていねいにていねいに創っていらっしゃるのはわかるんだけど、こっちに迫ってこないから「どうぞご勝手に」って感じなの。松居さんの本って、他のもみんな似たような感じだし。3つめのお話「キツネの色ガラス」に、赤いガラスのかけらを目にあてて、「赤ちゃんのとき、まるくなって、おかあさんに体をぴったりくっつけて、目をとじると、こころの中が、こういう色になっていたような気がするな」っていうところがあるんだけど、そんな感覚、子どもにわかるかしら。見た目は子ども向けにつくってるけど、子どもにはわからない感覚じゃないかな。動物たちのセリフがどれもおもしろくない。「カシワの葉」でオオハクチョウに「ありがとう、こころやさしい友よ」っていわれて、キツネが「こおりついた白い国から、はるばるとんできた、けなげな友よ」と思わず言ってしまいましたってところ、ここはおもしろいと思ったけど。

ひるね:でも実際には、「けなげ」なんて言葉が言えるわけないわ。だって、このキツネは子どもって設定でしょ。

モモンガ:登場人物が動物だからカムフラージュされて、まだ許せるけど、これが人間だったら、おかしくて耐えられないと思わない?

ひるね:『十一月の扉』(高楼方子著、リブリオ出版)の中の童話みたい。

愁童:これだったら、ビデオやゲームのほうがいいんじゃない? もっとおもしろいもの、いっぱいあるでしょ。

ねねこ:いったい何を書きたかったのかしら。「童話もどき」って感じがするけど。

オカリナ:読み通した人は少ないのね。

ウォンバット:あら、今日は私、貴重な存在。

ひるね:キツネとはどういうものか、ウサギとはどういうものかということをちゃんとおさえていないと、だめよね。食うか食われるかの生存競争をしなければ生きていけない動物たちを、血の通う存在と思って書いてはいないみたいね。動物たちをこんなふうに描くのは失礼だと思う。

(2000年04月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


バイバイわたしのおうち

ジャクリーン・ウィルソン『バイバイわたしのおうち』
『バイバイわたしのおうち』
ジャクリーン・ウィルソン/著 小竹由美子/訳 ニック・シャラット/絵 
偕成社
2000.03

モモンガ:今日の5冊の中で、子どもがいちばん楽しんで読むのは、この本だと思う。主人公はかわいそうな状況なんだけど、どこかしらいいところに目を向けようという姿勢が、とてもいいと思った。作者が、主人公アンディーに温かい目を向けていて、どこかいいところがあると信じて、描いてる。登場人物が、大人も子どももみんなリアル。それで、アンディーにとって嫌な人も、根っから悪い人ではなくて、いやいやながらも認めずにはいられない、いいところがあるんだよってことを、ちゃんと描いているのよね。この先アンディーは、それぞれの人と接点を見つけて、うまくやっていけそう。「せつない」だけで終わらず、これからうまくやっていけると思えるところが、前向きでよかった。

愁童:ほんと、アンディーはだいじょうぶそうだね。明るさを感じるよ。ぼくの今回のイチオシは、これだな。「離婚もの」はたくさんあるけど、大人の論理が背景にあって、そこに子どもを引き寄せていくというパターンが、多いと思うんだよね。その点、この本は完全に子どもの視点から描いている。難しいテーマだけど、小学校3〜4年生が読みやすい文章だね。訳文も、こなれてる。すごい事件があるわけじゃないんだけど、人間像がさらりと上手に描けてる。とくにお父さん方の新しい家族になったふたごのゼンとクリスタルなんて、いい味出してると思った。子どもは被害者だけど、離婚については「いい」とも「悪い」ともいってない。「与えられた運命をいかに乗り越えていくか」というのが大事だってことをきちんとおさえている。だけどこの本、訳はいいんだけど、あとがきがねぇ・・・。作品を解説しちゃってるんだけど、ちょっとズレてるんじゃないの? タイトルも『バイバイわたしのおうち』じゃなくて、原題The Suitcase Kid をいかしたほうがよかったと思う。というより、全然意味がちがうでしょう。この訳者はストーリーを理解してないのかな。わかっていたら、このタイトルはなかったと思うなあ。

オカリナ:たしかに。意味がまるっきり変わっちゃってますね。バイバイするのは最初の設定であって、これはそこからの物語なんだから。ちょっと皮肉っぽいおもしろさもなくなっちゃってるし。

ウォンバット:私もそう思う。でもまあ、タイトルはおいとくとして、全体としては、とてもおもしろかったよ。章タイトルが、ABCになってて、AはAndy アンディーとかDは Dadお父さんとか、うまくハマってるのもいい。そして、最後の章はZZoeゾウイで「ABCみたいにかんたんなことです。ほんとですよ」ときれいにしめくくられる。うまいよね。お父さんとお母さんが離婚して、それぞれ新しいパートナーをみつけてて、そこを主人公アンディーが1週間交代でいったりきたりするわけだけど、お父さんとお母さんが、それぞれの新しいパートナーについて、お互いケチョンケチョンにいうのが、おっかしい! ひどい悪口なんだけど、明るくからっとしてて憎めない。アンディーは気の毒な状況だけど、でも全体に陰湿な感じがないから、かわいそうという気持ちにならないし、読んでて楽しくてイイ。

ウンポコ:時間ぎれで途中までしか読めなかった。

ひるね:読むの、やめたの?

ウンポコ:時間が足りなかっただけ。ぼくは電車の中で読むことが多いんだけど、この本、表紙がちょっと恥ずかしくてさ。

ウォンバット:ピンク色で目立つし、カワイイもんね。

ウンポコ:なんかまわりの人に「ヘンなおじさんっ」と思われたら嫌だなと思ってさ、パッと開いて、なるべく表紙が他の人に見えないように気を使って読んだの。途中までだったけど、主人公に寄り添って読めるね。くわの実の登場の仕方も、とてもうまいと思った。ちょっと気になったのは、目次。野暮ったくて損してると思うな。

ウォンバット:そうかなあ。私はこの目次、いいと思うけど。

オカリナ:私は、ジャクリーン・ウィルソン好きなの。彼女の描く子どもはたいてい、貧乏とか離婚とか、何か問題を抱えてることが多いんだけど、どの作品も明るいのよね。主人公が問題を乗り越えて生きていけるということを感じさせてくれる。本好きな子はもちろん、本を読まない子もドタバタっぽいところがエンタテイメントとして楽しめそうじゃない? 本を読む子も読まない子も、どっちもおもしろく読める。だから私、とても好きな作家なんです! このところ児童文学に見られる家族像を考えながら本読んでるんだけど、子どもには安心できる場所が必要だと思うのね。何か問題があったとしても「だいじょうぶ」と思える場所が。だけど、それを家庭に求めるのは無理になってきてる。今は「大草原の小さな家」みたいには、いかなくなってるわけじゃない? 両親の離婚とか再婚とかがすごく増えていて、昔ながらの「古きよき家庭」は崩壊しちゃってるからね。そうなって、「子どもが安心できる場所をどこに求めるか」ということを現代の作家は描いているんだと思うの。ジャクリーン・ウィルソンもそのひとり。この作品でも、親は悪い人ではないんだけど、役に立たないわけでしょ。親が子どもを包みこむ存在ではなくなってる。で、どうするかというと、まわりのいろんな人から少しずつそういうものをもらって、安心をとりもどすわけ。アンディーが遊びにいく、くわの木のある家の老夫婦とかね。それとか、最初は義母・義父とうまくいかないんだけど、義理の兄弟とはだんだんうまくいくようになって、とくにグレアムとは仲よくなって、大切な存在になる。それも一方通行ではなくて、子ども同士が少しずつそういうことを提供しあっている。この作品では、結局のところ助けになるのは義理のきょうだい。そんなふうに説明はしていないんだけど、この作品はそういう新しい関係、子ども同士が「安心」を提供しあえる新しい関係を描いているんじゃないかな。

モモンガ:そうね。くどくど説明はしてないんだけどね。挿絵もまんがっぽい絵なのに、ひとりひとりがどんな人なのか、そして、それぞれの関係が変化していく様子が、よくわかる。人間が、実によく描けているのよね。

オカリナ:「いろんなことがあるけど、この先だってなんとかやっていけるよ。だいじょうぶだよ」っていうまなざしが、あったかいよね。松居さんとの作品とはちがう温かさがある。この作品、今日の私のイチオシ!

ひるね:私も、これイチオシ。この作品は、何年か前にイギリスで買って読んで、すごくよかったの。なかなか翻訳が出版されないなと思ってたんだけど。いうなれば、「子どもへの応援歌」よね。気の毒な状況なんだけど、「かわいそう」という言葉は出てこない。彼女の短編で「お父さんとうりふたつ」というのがあるんだけど、それもすごくいい話だった。イギリスでとても人気のある作家だし、これからも注目していきたいわね。

(2000年04月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


徳利長屋の怪〜名探偵夢水清志郎事件ノート外伝

はやみねかおる『徳利長屋の怪』
『徳利長屋の怪〜名探偵夢水清志郎事件ノート外伝』
はやみねかおる/著 村田四郎/絵 
講談社青い鳥文庫
1999.11

オカリナ:私はこの本、読みはじめたはいいけど、途中で放棄しちゃった。で、これじゃイカン! ともう一度チャレンジするために買ったのよ。なのに、時間ぎれになってしまった。これ、オビによると55万部だって! すごいわね。そんなに売れているとは知らなかった。登場人物はステレオタイプだし、言葉づかいがヘンだと思う人もいるかもしれないけど、文章のリズムはいいと思う。翻訳の人って自分もふくめてだけど、なかなかここまでできないから、文体について、とてもいい勉強になった。でも、やっぱりご都合主義だし、どうしてもついていけないとこはあるな。だけど、そんなに子どもに読まれてるっていうのなら、こういうのもアリでいいと思う。

ウンポコ:どうしてここまで売れてるんだろって考えてみたんだけど、ぼくは、文体の勝利だと思うな。ところどころ作者のモノローグがはさみこまれてるんだけど、これがイイ。テレビの「ちびまる子ちゃん」といっしょでさ、ポッポッと別の視点からのおしゃべりみたいなものが出てくると、親しみやすいし。これが子どもにウケているんじゃない? 著者紹介によるとこの人、現役の学校の先生でしょ。だから、今の子どもが何をおもしろがるか、ちゃんと知ってるんだな。推理に破綻があるのなんか知っちゃいねえ、これがオモシロイんだってなもんで。まあウォンバットさんの言葉を借りれば「毒にも薬にもならない」かもしれないけど、でも、おもしろければ、こういうのもいいんじゃない? エンタテイメントとして楽しむ気軽さってのも、またいいもんだと思うよ。

ウォンバット:私は、いいもんだとは思えなかった。「これが今、人気のある本だよ」と言われれば、なるほどという感じ。だけど、時代考証がめちゃくちゃなのを、はじめに豪語しちゃってるのが、どうもねえ・・・。「たまに、あれ? と思うようなことが書いてあるかもしれませんが、『まっ、いいか!』と、大きな心でみのがしてください」と、この本の「まえがき」にあたる「なかがきの続き」でいってるんだけど、こういうのって許されるものなの? 私、以前に某歴史雑誌の編集部でアルバイトしていたことがあって、そこでキョーレツな歴史オタクをいっぱい見てしまったから、感覚がちとヘンになってるとこがあるんだけど、これで通ってしまう世界があることに、まず驚いた。歴史を専門にしてる人が読んだら、怒ると思うよ。だって「時代考証のにがてな作者より」となっているのよ。だったら、わざわざ時代モノに手を出さなくてもいいのに。この人、別
に江戸時代を書きたかったわけではないのね、きっと。現代ではないどこかの場所を舞台にしたい、でも1から自分で世界を創造するのはカッタルイから、江戸時代にしとこってだけみたい。カップラーメンのCMで、永瀬正敏が歴史的名場面に登場してラーメン食べるっていうのあるけど、あれを思い出した。時代は雰囲気だけって感じ。歴史を知っててくずして描くのならいいけど、きちんと知らないのに、知ってることだけを適当に使うのは無責任だし、ルーズすぎると思う。まあこういう作品に誠意を求めるのが、おかしいのかもしれないけど。文体も、子どもには魅力的なのかもしれないけど、私は嫌だな。俗っぽいんだもん。「どうも、亜衣(あい)です」っていわれてもねえ・・・困る。エヘヘっとなっちゃう。それに語り手の亜衣は三つ子の設定で、妹の名前は「真衣(まい)」と「美衣(みい)」、お母さんは「羽衣(うい)」ということなんだけど、こういうセンス、私はおもしろいと思えない。

ウンポコ:えっ? なになに?

ウォンバット:だから、お母さんがwe で子どもたちが、I my me なの。

ウンポコ:えっ? そういうことだったの?! はじめて知った。

ウォンバット:だけど、これ三つ子の必然性って全然ないのよ。だって、真衣と美衣はたいして働いてない。シリーズだから、前の巻では活躍したのかな? あとね、絵も好きじゃない。名探偵夢水清志郎がキタナすぎる。黒眼鏡っておかしくない? 容姿が汚くてぐうたらだけど、実は頭がキレるっていうヒーロー像も古くさいよ。格好がよくないけどいい仕事をするというのは、男の憧れの一種なんだろうけど。ほら「美味しんぼ」の山岡士郎みたいなヤツ。今、これがウケてる理由というのは、文体ではなくて、「子どもは謎ときが好きだから」じゃないかと思うな。「名探偵コナン」なんて、ものすごい人気じゃない? あれは、あなどれないよ。ロシア語が出てきたりなんかして、すごく高度な内容でびっくりしちゃった。

愁童:いやあ「名探偵コナン」は、なかなかやるんだよ。この本の謎解きと比べたら、かなり本格的だもの。ぼくは、この本の魅力は謎解きではないと思う。

ウンポコ:うんうん。

愁童:「江戸城を消す」なんていうから、どんなすごいことをするのかと思ったら、ただ絵を書いて回転させるだけなんて、あまりにお粗末な子どもだましの方法じゃねぇか。謎解きに魅力はないよ。昔の講談本なんかと比べて、ほんとにお粗末だよね。この程度のものしかないなんて、今の子どもは不幸だと思う。せっかく活字を読むのなら、「名探偵コナン」以上のものを読んでほしいと思う。やっぱり文体じゃないの? この本の魅力はさ。なんていうかなあ、オタクっぽくないというのかな。エンタティメントを幅広く考えれば、こういうのもアリかなと思うよ。『冬のおはなし』を読むのなら、だんぜんこっちを読むほうがいいと思う。

モモンガ:この本の位置づけの問題よね。漫画を読むのと同じ感覚で、軽いノリで読める楽しい本として、それはそれでいいと思う。私はNHKの「お江戸でござる」を思い出した。江戸のシチュエーションを使ったコメディだけど、あれの子ども版という感じ。あの番組、すごく人気があるのよ。

ウンポコ:あれって、まったく無責任なんだよ。

モモンガ:でも、それはそれでいいんじゃない? 深い感動はないんだけど、ちょっとこう気軽に読めておもしろいじゃんって感じのもので。今の子どものテンポにあってると思う。だから私、否定はしない。今の読まれ方というのは、きっと友達同士で「もう読んだ?」とか、「これ、おもしろいよ」なんていいながら、貸し借りしたりしてるんだと思うけど、そういうところから入っていって、これをとっかかりに文学の道に進んでいく子が出てくるといいなと思うから。それはそれで、いいことだと思わない?

ひるね:私もそう思う。個人的には好きよ、この本。内容はともかく、こういう読まれ方をするって現象はうれしい。前に氷室冴子の『なんて素敵にジャパネスク』(集英社)にハマったことがあるんだけど、これもなかなかおもしろかった。王朝ものなんだけどね。あと赤川次郎とかね、そういうのと同じだと思う。でもその反面、違う本でこのくらい読まれるのがあればいいとも思う。だってね、日本の子どもが赤川次郎を読んでるあいだに、イギリスの子たちが読んでるのは、ロアルド・ダールよ。そう考えると、日本の子どもたちはかわいそうだと思うわ。

ウンポコ:本にはそれぞれ、いろいろな役割があっていい。今の子どもたちってさ、実は楽しくないんだと思うんだよ。明るい未来なんて感じないでしょ。この本は無責任に軽く読めて、楽しい気持ちになれるんじゃないの? きっと心を通わせられるんだと思う。

ひるね:勝海舟なんかを笑いとばしちゃうのは、小気味いいと思うわ。

モモンガ:教科書に出てくるような人を、おちょくっておもしろがるのって子どもは好きよね。前にダウンタウンの番組で時代劇の格好してギャグをやるのがあったけど、うちの子、大好きだったもの。

ひるね:青い鳥文庫だからね、これでいいのよ。『ハリー・ポッターと賢者の石』も青い鳥で出すべきだったんじゃないの? もっといい訳で。

(2000年04月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ぬい針だんなとまち針おくさん

土橋悦子作 長新太絵『ぬい針だんなとまち針おくさん』
『ぬい針だんなとまち針おくさん』
土橋悦子/作 長新太/絵
福音館書店
1999.06

ウンポコ:ぼくは、福音館書店のこのシリーズ(創作童話シリーズ)、とってもいいと思ってるの。高楼方子さんの『みどりいろのたね』も、このシリーズでしょ。ページをめくるおもしろさをねらった本づくりが、いつもうまくいってるんだよ。だけど、この作品はよくなかった。おもしろくない。何がおもしろいのか、わからん。発想が古いよ。「奇想天外なおもしろさ」方面にいってほしいと思うんだけど、いってくれない。絵も全然ダメ。「困った」「弱った」としか、いいようがない。

ウォンバット:えー?! そう? 私は、すごくおもしろかったけど。私、今日のラインナップの中では『バイバイわたしのおうち』と、この作品がよかったんだけど、ウンポコさんにそんなに言われるんじゃ、この本をイチオシにしちゃおう。まず、もう見返しから笑っちゃった。これ、おもしろくない? あといちばんおかしかったのは、ぬい針だんなが無事にもどってきた場面。「ぬい針だんなとまち針おくさんがもどると、針ばこの中はよろこびで大さわぎになりました。ふたりがいなかったので、しごとにならなかったのです」っていうところ。まわりの人たち、心配してるようで、実は妙にさめてるの。笑った笑った。ぬい針とまち針の表情もおもしろいし、さすが長新太!

愁童:そうかなあ。ぼくは、いいとは思えない。たとえばここに出てくるハサミ、ふつうのハサミじゃなくて、にぎりバサミでなくちゃいけないんじゃない? ヘンだよ、糸を切るハサミなのに。それにさあ、まず題材が古いよ。今の子どもには無理じゃない? このストーリー。まち針を見たことのある子なんて、そういないでしょ。今はなんだってミシンだから、「縫い目がきれい」なんてわからないだろうし。フェミニズムの人から見たら、女性の生き方としてまち針おくさんの描き方について、いろいろ言いたい人、いるんじゃない? 主体性がないでしょ。「あんなに、ぬい目のきれいな人は、めったにいないよ」と思っては、ほれぼれとながめるのでしたとは、なんと古くさい。旧態依然としたまち針とぬい針なんて。作家にも、その時代をヴィヴィッドに生きている感性が必要だと思う。書くのなら時代を意識した上で書くべき。土橋さんは持論として、「幼年童話に思想はいらない。簡潔な文章でリズミカルであればいい」っていってるけど、「今」を意識する必要はあると思うよ。たしかにうまいし、手慣れた作品だいうことは認めるけどさ。

ひるね:気持ちよく読めるけど、すぐ忘れちゃいそうな本。やっぱり「文は人なり」「作品は人なり」だから、幼年童話でも、その人の時代とのかかわり方が明確にあらわれるのよね。

愁童:「生きた感性」で書かれるべきだよ。

モモンガ:土橋さんの作品だからこそ、欲を言いたくなってしまうってところはあるわね。ストーリーテリングの名手が物語の執筆を手がけるって、外国でもよくあるじゃない? だから土橋さんもついにここまできたかって、すごく楽しみにしてたのね。期待してた分、実は私もちょっとがっかりした。ぬい針とまち針自体に古さは感じなかったけどね。今でもどこの家庭にも針箱はあるし、子どもにも身近なものだと思うから。それをこういうふうに描くというのは、おもしろいわね。うっかり足をすべらせたぬい針だんなが次の日になっても帰ってこなくて、「まち針おくさんは、しんぱいのあまり、ますますほそくなりました」とか、ドアと床のすきまを通り抜けようとして、じまんのピンクの真珠でできた頭がじゃまになるところなんかは、とてもおもしろかったから、そういうエピソードがもっとたくさんあればよかったと思う。まち針おくさんをもっともっと活躍させてほしかった。ネコや掃除機にだんなのいそうな場所を教えてもらったり、バッタの葉っぱに便乗させてもらったりというのではなくて、人の手を借りずに、一人でもっとがんばってほしかった。その辺は残念。

オカリナ:ここに向かう電車のなかで読み返したんだけど・・・。たしかに古いタイプの夫婦の在り方よね。作者は、ちゃんとこういうお母さんをやってるんだな、と感心したの。

ひるね:あっ! 今、たいへんなことに気づいちゃった!

一同:なになに?

ひるね:あのね、針山っていうのは一夫多妻制なのよ。だって縫い針は1本でいいけど、まち針1本じゃ、縫えっこないもの。

ほぼ全員:ほんとだ!

ウォンバット:そうよお。私、最初からそう思って読んだ。だからナンセンスとしておもしろいんじゃないの?

ひるね:どうせなら、役割を入れ替えて「一妻多夫制」にしちゃったら、もっとおもしろかったかも。

モモンガ:それは新しいかもね。絵もねえ、いいんだけど・・・。でも長さんの絵はもう見なれてるから、新鮮味がなかった。「またこの絵か」って感じは否めない。はじめてこの絵を見る子どもはいいかもしれないけど。

ウンポコ:長さん、ノッてなかったんじゃないの? これはあんまりよくないね。猫の絵なんか、親切に教えてくれるというところなのに、とっても意地悪そうな顔に描いてある。

ひるね:破天荒なナンセンスだったら、長さんももっと力を発揮できたのに。残念ね。夫婦を描いたものでも、イギリス昔話の「お酢だんな」なんてとてもおもしろいナンセンスなんだけど、そこまでいかなくても、翔んでるところがあったらおもしろかったのに。『冬のおはなし』もそうだけど、いい人ばっかり出てきちゃうでしょ。『ふらいぱんじいさん』(神沢利子作 堀内誠一絵 あかね書房)のようなインパクトの強さが必要だと思う。お話を聞かせるときの効果やテクニックをよく心得てる人だから、うまいなと思うところは多々あるけど、登場人物に、もう少し個性がある人、思いを託せる人が一人でも、というか「ひと品」でもあれば、もっと違ったと思うのよ。ところで、読み聞かせって、難しいわよね。

ウンポコ:音読してみると、いろんな発見があるんだよ。この作品も音読してみたけど、どうもイメージがわきにくかった。とくに、どうしても許せないと思ったのは、床とドアのすきまを通
り抜けようとするところかな。「足からはいってみたり」「右をむいたり」「左にうごいたり」と3ページもめくらせておいて、「さんざんくろうして、やっと、戸だなの中に入ることができました」ですませてしまってるところ。これでは、子ども読者は納得しないよ。「どうなるんだろう?」と思って読んでるのに「さんざんくろうして」だけじゃ、この3場面はなんだったんだあ! っていいたくなるでしょ。

モモンガ:さんざん苦労したから、頭がちょこっと欠けてしまいましたっていうなら、おもしろいのにね。ストーリーテリングのときにはとてもいい作品でも、本にするときには、構成を考え直さないとまずかったんじゃないかな。

ウンポコ:まち針おくさんが、掃除機のゴミの袋を「ふみやぶる」っていう表現があるんだけど、針は細い一本足なんだから、踏み破れないよね。

愁童:頭がまだ外にあるのに、だんなのゴミの袋の中で光っているのが、なぜ見えるんだろう……とか。

モモンガ:絵本と物語の橋渡し的存在のこういう本こそ大切なのに、ちょっと残念ね。対象年齢がこのくらいのもので、何かいいものが出てきてほしいわ。

ひるね:私たちでつくっちゃおうか?「一妻多夫制」の『まち針だんなとぬい針おくさん』。たくさんの「まち針男」を従えた「ぬい針おくさん」の話。すきまを通り抜けたあと、「まち針男」の自慢の頭がちょこっと欠けちゃう……。

一同:いいかもね!

(2000年04月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


2000年04月 テーマ:小学校中学年向きの本を読む

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『2000年04月 テーマ:小学校中学年向きの本を読む』

 

日付 2000年4月20日
参加者 ウンポコ、愁童、ねねこ、ウォンバット、ひるね、
オカリナ、モモンガ
テーマ 小学校中学年向きの本を読む

読んだ本:

ジェニー・ニモ『魔女からの贈り物』
『魔女からの贈り物』
原題:THE WITCHE'S TEARS by Jenny Nimmo, 1996(イギリス)
ジェニー・ニモ/作 ポール・ハワード/絵 佐藤見果夢/訳
評論社
2000.02

<版元語録>吹雪のあれくるう夜、貧しいテオの家に黒ずくめの不気味なおばあさんがやってきた。その時から、なんだか妙なことばかりおこるような気がして…。魔女が流した涙は水晶に変わる―?!魔女と幸運の黒ネコとテオ一家の吹雪の夜のすてきなファンタジー。
松居スーザン『冬のおはなし』
『冬のおはなし』
松居スーザン/作 山内ふじ江/絵
ポプラ社
2000.01

<版元語録>光と影のもよう、風と雪と赤い木の芽、それからたくさんの小さな足あとが、みんな、冬のお話をそっと語ってくれます。ゆかいなお話や、ちょっと悲しいお話や、胸をときめかせるようなお話。松居スーザンが歌いかなでる森の童話集10作。
ジャクリーン・ウィルソン『バイバイわたしのおうち』
『バイバイわたしのおうち』
原題:THE SUITCASE KID by Jacqueline Wilson, 1992(イギリス)
ジャクリーン・ウィルソン/著 小竹由美子/訳 ニック・シャラット/絵 
偕成社
2000.03

<版元語録>お母さんとお父さんが別れることになったとき、二人は、わたしをどうしたらいいかわからなかった。わたしは、お母さんの家とお父さんの家を一週間ごとにいったりきたりすることになった。もういちど、お母さんとお父さんの三人でくらせる日を夢みながら―。親の離婚と再婚で失った“自分の家”を求めつづける少女の物語。イギリスの子どもたちが審査員になって選ぶ「チルドレンズ・ブック賞」受賞作。
はやみねかおる『徳利長屋の怪』
『徳利長屋の怪〜名探偵夢水清志郎事件ノート外伝』
はやみねかおる/著 村田四郎/絵 
講談社青い鳥文庫
1999.11

<版元語録>花見客の見守るなかで予告どおりに盗みを成功させた怪盗九印の正体をつきとめ、れーちの話の謎をあっさり解いた清志郎左右衛門が、幕府軍と新政府軍の戦から江戸を守るために、すごいことを考えた。江戸城を消す…。そんなことができるのだろうか。勝海舟や西郷隆盛を相手に名探偵の頭脳がさえる。名探偵夢水清志郎事件ノート外伝・大江戸編下巻、はじまりはじまり。面白すぎる。
土橋悦子作 長新太絵『ぬい針だんなとまち針おくさん』
『ぬい針だんなとまち針おくさん』
土橋悦子/作 長新太/絵
福音館書店
1999.06

版元語録:小さな針箱に住む針の夫婦の物語。テーブルから落ちたぬい針だんなを探しに,まち針おくさんは果敢に家をでます。愉快な絵童話。

(さらに…)

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人魚の島で

シンシア・ライラント『人魚の島で』
『人魚の島で』
シンシア・ライラント/作 竹下文子/訳 ささめやゆき/絵
偕成社
1999.07

ひるね:美しい本ね。さびしい感じがするけど、読みおわったあとに幸福感がある。同じ著者の『ヴァン・ゴッホ・カフェ』(中村妙子訳 偕成社)も、お天気雨のような明るいさびしさが感じられて、幻想と現実のはざまにあるようなところが好きだった。この作品は訳も、すばらしいわね。竹下文子さんを訳者に選んだのは、大成功だと思う。「ライラントは、このごろ神の世界に近づいている」とか。最近の絵本も、天国にいく前にみんなが暮らす村を描いた話らしいけど、信仰が一種の明るさになってるのかしら。でも、私としてはあんまり神さまに近づいてほしくない。ただ明るいだけになっちゃったら、心配。

ねねこ:静かな時の流れを感じるいい文章よね。小品という感じで・・・ううん、悪くはないんだけど、すごーく惹かれるということもなくって。あんまり深読みしなくていい物語なのかな。ね、この話はつまるところ、アンナがダニエルを守ったってことなのかしら?

ひるね:考え方によっては、ダニエルが島から出ていかないようにしたっていうことにもなるわね。

ねねこ:新人賞の応募作品なんかに、こういう話ってよくあるよね。おじいさんと孫息子の二人暮らしで島に住んでて・・・とかね。大学生とか20代の女性が書くものに多いパターン。

ひるね:小道具に鍵が出てくるのとか、ひとつまちがえば陳腐になりそうだけど、そうなってないところが、いいわね。

オカリナ:全体がありそうなお話になってて、最後のところ、箱づめの犬が出てくるところだけ現実にはありえない出来事になってるのよね。いろいろ象徴的・寓意的に解釈できるんだろうけど、分析しはじめるとなんだかつまんないね。そのままにしといたほうがいい。

ねねこ:分析しないで、ただ味わっておけばいいんじゃない。安房直子の世界ではなくて、あまんきみこ的世界だと思う。感想が言いにくい。

愁童:好みの物語のはずなんだけど、あんまり心に残らなかった。なんでだろ? 文章が悪いわけじゃないけど、文脈から訴えるパワーが不足してるんじゃないかと考えたんだけど。翻訳がいまいちしっくりいってないんじゃないだろうか。だって、日本語がちょっとわかりにくいよね。「人魚の名前は知っているけれど、その謎は謎のままだろう」というとことか、意味がよくわかんない。雰囲気はいいんだけど、きれいなだけっていうかさ。アタマでは俺向きの話だぞ、それにウンポコさんも喜んだだろうななんて思ったんだけどさ……。

ひるね:愁童さんが求める水準まで到達してなかったということかしら?

ウォンバット:私は、こういうの好き。淡々としててロマンチックで、不思議な出来事がおこる物語。あんまり強烈な印象はないんだけど、ぽわっとあったかい感じ。『自分にあてた手紙』(フローレンス・セイヴォス著 末松氷海子訳 偕成社)みたい。小道具が素敵。人魚のくしとか、おでこに白いダイヤのもようがついたラッコとか俗っぽくなりそうだけど、そうならないようにうまくできてる。絵も好き。「人魚の名前は知ってるけど、謎は謎のまま」というあたりも、別に気にならなかった。たしかに日本語として、わからないといえば、わからないんだけど。この物語全体が、ダニエル自身本当にあったことなのかなと思うような夢みたいな出来事だし、どうして人魚が自分の前にあらわれたのかは、本当のところわからないわけだから、「謎のまま」でいいんじゃない? それから、嵐のあとたくさんの死を目撃して、その3年前の自分の両親の死をうけいれられるようになるというのも、納得できる。

オカリナ:おじいさんも死んじゃったあと、ふだんつきあいのない村人たちが、いざとなったら助けてくれるところとか、あったかいよね。

ねねこ:そういえば、神の世界に近づいてるって言ってたけど、海も空も動物たちもみんな生命の循環を感じさせるものだね。

オカリナ:ところで、この本は、一体だれが読むんだろうね。読者対象は、何歳くらいなんだろう? だって小学生から読めるようにつくってるけど、小学生や中学生が対象ではないように思う。若い女の人や、おじさんたちが読むのかしら。ひとつの雰囲気を提出することを目的としてるのなら、それはうまくいってると思う。寓話みたいなことだと思うんだけど、淡々とロマンチックな世界そのものを描いているのよね。普通なら、まるっきり孤独な人生を送るはずだった少年の人生の扉が、広い世界にひらかれていくというところは、とてもおもしろいと思ったんだけど。

愁童:一つの雰囲気をとらえるのが目的というのであれば、これでいいと思うよ。

ねねこ:新人は、おおむね多弁すぎるのね。これだけささっと書けば、ボロはでない。

オカリナ:甘いだけじゃなくて、その先に何かあるんじゃないかと思うんだけど、書いてないからね。

ねねこ:立原えりかの世界を思い出した。彼女の世界にも、ちょっとわからないところがあるから。

ひるね:うまいといえば、うまい。

オカリナ:だけど、愁童さんが「もどかしい」というのも、わかる。

愁童:イメージが、いまひとつわいてこないんだよ。

ねねこ:挿絵はなくてもよかったんじゃない? ささめやさんの良さがあまり出てなかった。全体に軽すぎて。

オカリナ:愁童さんを「大人」としたら、大人にとってはこの絵はじゃまになるよね。

愁童:この作品を読んで、「童話とはこういうものだ」と思われたら、困るなあ。

 

(2000年3月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


十一月の扉

高楼方子『十一月の扉』
『十一月の扉』
高楼方子/作 
リブリオ出版
1999.09

ひるね:これは、読むのに苦労した。後半は、もうとばしとばし。英国ファンタジー好きというか・・・。そういう人向けなのかしらね。需要があって供給があるわけだから、読む人がいるんだったらいいとも思うけど、ときどき文章がわからなくなるところがあるの。土曜日に始まったのに、知らないあいだに日曜日になっちゃってたり。文章を、もっと磨いてほしい。やさしい言葉とむずかしい言葉が無造作に出てくるんだもの。絵本や幼年童話はいいものを書いている作家なのに、長編となると、またちがうんだなと思ったわ。それに、登場人物がどうも好きになれなかったの。女の人ばかりなんだけど、みんな似てるし。描きわけようとしてるのは、わかるんだけどね。とくに嫌だったのは、主人公のお母さん。働きもせず、近所づきあいもせず、ビデオ三昧していたくせに、引っ越して、ちょっとインテリの女性と知り合ったとたんに豹変したりして、ヤな女! インターネットで、誰かが「10代の女の子が、大人の女の人もいろいろ考えているのを知って成長していく話」って書いているのを見たけど、「どこが?」と思っちゃった。

ねねこ:登場人物に、温度が感じられないのよね。女たちにリアリティがないの。頭の中で状況だけつくってて、生きている人たちの体温が伝わってこない。読んでいくうちに、だんだん嫌な気分になってきちゃった。主人公の爽子も気持ち悪い。15歳なのに、おばさんたちの自己肯定的な井戸端会議も嫌にならないなんてヘンじゃない? 気色わるいよ。どうしてみんなこの作品を褒めちぎるんだろ? 力作とかいって。

ひるね:力作っていうのは、厚さのことじゃないの?

ねねこ:たしかにボリュームはあるけど……(厚さ2.5センチ、336ページ)。爽子って、すごーく作りあげたいい子、数十年前の少女って感じ。

愁童:困りますね、こういう作品は。日本の児童文学の衰退の象徴! 「11月の扉をあけると、そこには荒涼たる児童文学の冬の世界がひろがっていた」ってなところかな。どうして、文章がうまいとは思えないのに、評判いいのかねえ。「何ということもない素振りで、電話のお礼を閑さんにのべて部屋に戻った爽子は」なんて出てくるんだけど、お礼をのべるって、何ということもない素振りでできるの?なんて、毒舌吐きたくなる。それに、爽子は中学生なのに「お礼をのべる」なんて表現されちゃっていいの?「こうべをたれる」とかさ、古い言葉が突然出てきたりして、新しい言葉と古い言葉が混在していて、バランスがとれていない。どうもこの作者、さわやかな人じゃなさそうな感じ。「学校をさぼったら、いい点をとっても、いい成績はもらえない」なんて発言、うちの近所のヤなおばさん連中みたいな物言い。日本語の問題点も多々あるよ。「ちょっと憮然とせずにはいられない」なんて出てくるんだけど、「憮然とする」って言葉、おわかりいただいてないんじゃない? それに「解放されてるなあ」なんて言うか? 「なにものかがやってくる」って「なにもの」って見てんじゃねーか? とか。耿介がノートを見つけてくれたいきさつだって、妙だよ。お母さんに自転車の乗り方を教えるなんて、健全な中学生男子のやることかあ? まったくシュークリームみたいな、つくりものなんだよ。もう気持ち悪い。じんましんが出るほど、気持ち悪い。

ひるね:地に足がついていないとか、体温が感じられないと批判されるのを予想しているのか、言い訳してるところもいっぱい出てくるわね。朝ごはんの場面とか。「今日は洋風だけど、和風のときもあるのよ」、なんて。「十一月の扉の向こうでは、みんな品よくみごとにふるまいました」となってるけど、私、実は登場人物がみんな死人でしたっていうオチかと思いながら読んでいたわ。

ウォンバット:「月刊こどもの本」(2000年4月号、児童図書出版協会)の「私の新刊」のコーナーで、高楼さんがこの本について語っているんだけど、なんだか言い訳と開き直りに思えちゃって。「結局、これは三十年前の中学生の物語だ。だが、マスコミがどんなに中学生の変貌ぶりを叫ぼうとも、こういう少女は常にいるものなのさとうそぶきながら、今の物語として書いてみた」なんて。

ねねこ:『時計坂の家』(リブリオ出版)のほうが、作家としての一所懸命さが感じられた。こういう作品が評判になるって、よくないよね。ちゃんと批評もしないと、作家のためにもならないんじゃないかな。

愁童:幸せですよね。文章にはひっかかるけど、お話はつまずくところが全然なくて、すいすい進んじゃって。

ウォンバット:私は乙女チック好きから抜け出せない質だから、すてきな洋館とかね、設定はいいなと思うところが、あったの。しかーし! 中に出てくるお話は許せん! ないほうがよかったと思う。だってまるっきり真似でしょう。『たのしい川べ』(ケネス・グレーアム著、岩波書店)や『クマのプーさん』(A.A.ミルン著、岩波書店)の影響を受けているというのはいいけれど、そこで自分を瀘過して、新しい世界を構築しなくちゃだめだと思う。真似だったら、オリジナルを読んだほうがいいでしょ。とくにロビンソンの手紙は、ひどい。「ち」と「さ」をまちがえてる手紙なんだけど、これ「ぼくてす。こぷたてす」のパロディでしょ。これは「プーさん」に対する冒涜だわ。このあたりで、もう心底嫌になって「ドードー森の話」は飛ばして読んでしまった。

オカリナ:高楼さんの作品は好きなのも結構あるし、この作品も世の評判はとてもいいんですけど、私は楽しめませんでした。不幸なというか、作者にとって不本意な形で出版されちゃった本なのかな。改行の処理もばらばらだったりするから、編集の人がちゃんと見たりしてないのかも。「週刊新刊全点案内」(1998.1.6日号〜1999.3.30日号、図書館流通センター)に連載していたのをまとめたものなんでしょ。毎回締切に追われて書いていて、手を入れるひまもなく1冊にされちゃったとか。この「ドードー森の話」は自分が小さい頃に書いた話なのかしら? もしそうなら、高楼さんのファンの人には、ああ、この作家は、こういうところからスタートしたのかっていう興味はわくと思うんだけど、肝腎の物語自体はあまりおもしろくない。もう一つ気になったのは、恋愛の部分なんだけど、耿介との疑似恋愛はまったく外側のかっこよさを問題にしてるだけ。『スロットルペニー殺人事件』の舞台になっている100年前の時代ならいざ知らず、こんなんでいいのかな。

ねねこ:この作品自体が、高楼さんにとっての「ドードー森ノート」なんじゃないの?

オカリナ:作家が「人間」と向き合ってないように思います。耿介にかぎらず、登場人物みんなに言えることだけど、おたがいのつき合い方が表面的なのね。「共生」を描くというのなら『レモネードを作ろう』(バージニア・ユウワー・ウルフ著 こだまともこ訳 徳間書店)みたいに、ちゃんと衝突して、それからつき合い方を探っていったりするところを書いてほしかった。

ひるね:ファンのためだけに書いてるって感じ。

ねねこ:「品がいい」をやたら強調してるのがハナにつく。

オカリナ&ひるね:登場人物が生きている人として感じられない。死んだ人はみんないい人っていうけど、死人じゃないかぎり、こんなのありえないな!

愁童:大人が、いかにこの世代、中学生に無関心かってことだよ。

オカリナ:現実は、もっともっとキビシイものなのに。

愁童:『ビート・キッズ』(風野潮著、講談社)のほうがずっと健康的。

ねねこ:『ことしの秋』(伊沢由美子著、講談社)の対極かも。

ひるね:でも、『十一月の扉』のほうが好きっていう子もきっといるわよ。大人の本なら葛藤がありそうな設定なのに、なあんにもないのよね。

ねねこ:理想の世界を描いたんじゃないの? 葛藤の部分は何ひとつ描かれてないんだけど、葛藤がなければ成長もないよ。

ひるね:キロコちゃんの話もどうかと思ったけど。どっちもリアリティがない。絵本には、けっこういいものがあるのにね。

オカリナ:やっぱり、ぶつかりあいを描いてこそ、作家だと思うけどな。

ねねこ:『ココの詩』(リブリオ出版)のときも思ったことだけど、形でいく人なのかな。

愁童:このごろの児童文学作家は、趣味的な世界に走る人が多いね。梨木香歩とかさ。

ねねこ:しかも、ちょっとかたよってる。柏葉幸子は「プーさん」や「マザーグース」や宮沢賢治や、いろんなものを読んでいて、それが自分の土着のものとうまくミックスされて、独自の雰囲気をかもし出していると思うけど。

愁童:そんな中で、森絵都は今の時代を意識してて、そこでチャレンジしていこうという心意気が感じられる。ちょっと違うよ。

ひるね:この作品を読んで「児童文学とはこういうものか」と思われたら、嫌だな。

愁童:登場人物をもっときちんと描いてほしい。

オカリナ:おままごとの世界みたい。でも、そこがいいんでしょうか。

(2000年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


スロットルペニー殺人事件

ロジャー・J・グリーン『スロットルペニー殺人事件』
『スロットルペニー殺人事件』
ロジャー・J.グリーン/著 宮下嶺夫/訳
評論社
1998.03

ウォンバット:私はものすごく怖かった。前半は表現がくどくどしてて、盛り上げようとしすぎの観アリだけど、でもひたひたと迫りくる恐怖を感じた。ジェシーがスロットルペニーの罪をノートに書きつけているところ、彼女はそうしなくては耐えられないくらい苛酷な毎日を送ってたんだと思うんだけど、私も同じような秘密のノートを書いているから、どうも他人とは思えなくて、もうジェシーの気持ちになりきって読んだのね。「罪の本」は、私にとっては、このうえなく恐ろしい小道具。ふとんの中で本を読むのが私の至福の時間なんだけど、この本を眠る前に読んでたら、怖い夢を見てしまった。それからは、電車の中で読むようにしたの。

ひるね:私も、読んだあと怖い夢をみた! 自分が殺人を犯す夢、昔からよくみるんだけど……。

ウォンバット:犯人は、エマ・ブリッドンが手を洗うところですぐわかったから、あとはもうジョンが助けに来るのか来ないのかだけが心配で……。ジェシーへの愛というより「良心が勝つのか」「自分かわいさが勝つのか」ということだと思うんだけど、もうどきどきしちゃった。

愁童:重苦しい雰囲気がよく描けている。重苦しい時代の雰囲気というのかな。登場人物も、くどいくらいにしっかり描きこんでいるし。謎ときは、途中でわかっちゃうんだけど、犯人を推理することに主眼をおいてるわけではないんだよね。

オカリナ:この話は犯人捜しではなくて、サスペンスなのね。

愁童:今のイギリスにも残ってる労働者階級と上流階級の差を単純化して、わかりやすくしてる。よく考えられていると思うね。でもさ、これハンサム・ジャックも冤罪だったわけでしょ。走っていった牧師も刑の執行には間に合わなくて、結局証拠の手紙を破るんだけど、読者はこれをどう解釈するか、問われてると思う。まあジェシーが助かったからいいような気もして、破って捨てられちゃっても、ぼくはそんなにくやしくなかったんだけどさ。読者に対する挑戦かな。死刑廃止を訴えているとも、とれるよね。

オカリナ:この作家は死刑反対を訴えてるかどうかは定かでないけど、死刑に疑いをもってることは、たしかだよね。

愁童:それとも、人が人を裁くのは、簡単なことではないという暗喩なのか。

オカリナ:現世で人が一人もう死んでるわけだから、それで十分だっていうことじゃない? 牧師だからさ。

ウォンバット:死刑になったのは一人だけど、みんな罪の意識に苛まれて苦しむでしょ。ジェシーもジョンもエマ・ブリッドンも。ハンサム・ジャックだって酔って暴れたりしてて、もし死刑にならなかったとしても、この先以前のように戻れるとは思えない。だからみんな責めは負ってるんじゃない?

ひるね:みんな気の毒よね、たいへんな思いして。スロットルペニーは、最初に死んじゃって一番楽だったかも。

愁童:考えはじめると、アタマが痛くなるよ。でもさ、真犯人がわかるようにちゃんと計算されてるところがすごいよね。

ひるね:少年少女も容赦なく死刑にされる19世紀ならではの物語。とてもおもしろかった! 設定も登場人物もしっかりできてる。私は、死刑廃止を訴えたのではなくて、純粋にエンターテイメントとして書いたんだと思うな。でも、これだけのものを読めるなんて、イギリスの子はいいわね。でもどうして訳文を「ですます調」にしたのかしら。読んでて、かったるかった。原文は19世紀調の迫力あるものだったでしょうに。基本的に小学校高学年以上のものは、「ですます調」でないほうが、いいと思う。途中から自分で「だ調」に翻訳しながら読むようにしたら、すごくよくなった。The Times Educational Supplementには「時代の雰囲気をよく伝えている。働いて働いて、それでも貧しさや苦しみから逃れられないという当時の子どもたちの暮らしを、今の子どもたちも知ることができる。この本の教訓は『大人は頼りにならない』ということ。11〜15歳くらいの子どもたちの共感を得ることができるだろう」と書いてある。それにしても、冤罪で死刑になるジャックは気の毒ね。後味が悪い。最後は子どもが助かるっていうところが、やっぱり児童文学。

オカリナ:この本、表紙がこわい。この表紙では自分から手にとることはなかったと思う。こういう機会でもなければ読まなかった本だけど、読んで本当によかった。なんといっても、人物像がしっかり描けている。私は、上流階級と労働者階級という区別とは思わなかったんだけど。上流階級の中にもいろんな人がいて、たとえば自分の名誉のために裁判を利用しようとする人なんかも出てくるでしょ。そういう個々をきちんと描いていると思うから。「良心がささやく」というのは、宗教がある国だからこそよね。日本では成立しにくいテーマ。ジャックの死も、逆にリアル。あの看守のミセス・サッグも、すごいよね。「たぶん、いまから百年後、1985年には、少女たちは、少年たちの言うことを、いまほどは信用しなくなっているだろう・・・」って、ジョンをにらみつけたりしてるの。『十一月の扉』とは、なんたる違い! 百年後の物語であるはずの『十一月の扉』の女の子は、いまだに夢のような疑似恋愛なんてしてるんだもん。人物の描き方の対比という意味で、『十一月の扉』と一緒に読む価値あったね。

(2000年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ウメ子

阿川佐和子『ウメ子』
『ウメ子』
阿川佐和子/著
小学館
1999.01

ねねこ:のどかな幼年時代を回顧的に描くってジャンル、あるよねえ。今村葦子の『かがりちゃん』(講談社)とかさ。そういうものをだれに向けて書き、そしてだれに読ませるべきか悩むなあ。これもその一種だと思うけど、後半がおもしろくない。予定調和的で。今年の坪田譲治賞がこの作品かと思うとね……大人と子どもとが共有できる、という選考基準の坪田賞も苦しんでるんだなと思う。

ウォンバット:おもしろい話だけど、大人向けだね。ちょっとうすっぺらで非現実的。だって幼稚園児が、こんな手紙書ける? ひとりで1時間も読書できる?

ひるね:たしかに幼稚園の子どもでは、ありえないわね。手紙や本もそうだけど、なんといっても、意識の持続が小学校3〜4年生のものでしょう、これは。不自然さを感じる。

ウォンバット:そうね。能力は大人のまま回顧して、幼稚園児を演じてるって感じ。物足りなさは否めない。でも阿川佐和子って2世だし、タレントみたいな人かと思ってたんだけど、案外ちゃんとしてるから、見直しちゃった。「ちびまる子ちゃん」みたいなおもしろさがある。きょうだいの関係なんて、とてもよく描けていると思う。手を引っ張ってもらったあとは、お返しに水くんであげたり、背中をさすってあげたり、やさしくしてあげないといけない、とかね。こういうきょうだいの機微ってあるよね。でも、ちょっと変わった転入生であるウメ子が、サーカスの家の子だったって設定は古い。昔「悪いことすると、サーカスに売られちゃうよ」っていわれてた世代の人らしい設定。

ひるね:ノスタルジーを描きたいっていうのは、わかるんだけど。同世代の人のノスタルジーをそそる本なんだろうね。

ねねこ:でも、時代がちょっとよくわからない。テレビはあんまり出てこないでしょ。紙芝居がもう珍しくなってる時代なのに。わざとぼかしてるのかしら。ノスタルジー本はノスタルジー本として、成立する意味はあるのかな?

ひるね:読みたいって人がいて売れるから、いいんじゃないの?

ねねこ:これは、やっぱり阿川佐和子で成立してる本なんだろうね。無名の人がこれを書いても、本にはならないでしょ。

ひるね:まあ、いい気持ちで読めるけど。群ようこの『膝小僧の神様』(新潮社)なんかは、もっとぴりっとしてたわね。『ウメ子』は、書きたいものがあって書いたって感じがしない。「これを書きたいのよ!」ってものが、感じられないのよ。ウメ子のお父さんが家を出た理由なんかも、うそっぽい。大人の体臭が感じられない。

(2000年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


2000年03月 テーマ:このごろ気になる本

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『2000年03月 テーマ:このごろ気になる本』
日付 2000年3月23日
参加者 愁童、ねねこ、ウォンバット、ひるね、オカリナ
テーマ このごろ気になる本

読んだ本:

シンシア・ライラント『人魚の島で』
『人魚の島で』
原題:THE ISLANDER by Cynthia Reliant, 1999(アメリカ)
シンシア・ライラント/作 竹下文子/訳 ささめやゆき/絵
偕成社
1999.07

<版元語録>ぼくが人魚に会ったのは子どものときだ。浜べでひろった人魚のくしを手に待っていると、人魚はすぐそこまで近づいてきて、ぼくの名を呼んだ。「ダニエル。」島に暮らす孤独な少年は、人魚からもらった古い小さな鍵に守られて、大人になっていく。ニューベリー賞作家がおくる海の物語。
高楼方子『十一月の扉』
『十一月の扉』
高楼方子/作 
リブリオ出版
1999.09

<版元語録>北の街。季節は十一月。「十一月荘」で暮らし始めた爽子の二か月間を、「十一月荘」を取り巻く人々とのふれあいと、淡い恋を通して丹念に描くビルドゥングスロマン。一冊の魅力的なノートを手に入れた爽子は、その日々のなかで、「十一月荘」の人々に想を得た、『ドードー森の物語』を書き上げる。物語のなかのもう一つの物語―。それらの響きあいのなかで展開する、豊かな日常の世界。高楼方子長編読み物第三弾。小学校高学年から大人まで。 *産経児童出版文化賞フジテレビ賞
ロジャー・J・グリーン『スロットルペニー殺人事件』
『スロットルペニー殺人事件』
原題:THE THROTTLEPENNY MURDER by Roger J. Green, 1989(イギリス)
ロジャー・J.グリーン/著 宮下嶺夫/訳
評論社
1998.03

<版元語録>1885年のイギリス、雇主を殺した罪で13歳の少女ジェニーは死刑を宣告される。同級生の少年への愛だけを支えにした彼女は、有罪なのか。死刑の恐怖、罪の意味とは何かを問いかける、力強い物語。
阿川佐和子『ウメ子』
『ウメ子』
阿川佐和子/著
小学館
1999.01

*坪田譲治賞 <版元語録>彼女は変わっている、普通の子とちょっと違う。初めて会った日からそう思っていた。そんなウメ子の強烈な個性に惹かれていく、わたし…。少女のさわやかな友情と冒険をノスタルジックに描く。著者が自らの幼年時代の想いを重ねて綴る、初の小説。

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ハリー・ポッターと賢者の石

ローリング『ハリー・ポッターと賢者の石』
『ハリー・ポッターと賢者の石』
J.K.ローリング/著 松岡佑子/訳 ダン・シュレンジャー/絵
静山社
1999.12

(『黄金の羅針盤』を参照)


黄金の羅針盤

フィリップ・プルマン『黄金の羅針盤』
『黄金の羅針盤』 ライラの冒険シリーズ1

フィリップ・プルマン/著 大久保寛/訳 エリック・ローマン/絵
新潮社
1999.11

注:時々勘違いをなさって怒りのメールを下さる方があるので、バオバブより一言申し上げます。『ハリー・ポッターと賢者の石』については、「つまらなくて最後まで読めなかった」一人を除き、ほかの参加者は最後までこの本を読み通したうえで感想や意見を述べています。「続きが読みたくない」と言っている「続き」は続編のことです。

 

:この2冊(『ハリー・ポッター』と『黄金の羅針盤』)は同時期に日本で発売されたファンタジーで、どちらもいろいろな意味で話題になってる本だけど、とても対照的な作品だと思うの。だから、2冊を比較しながら話を進めることにしない?

一同:賛成!

モモンガ:私は『ハリー・ポッターと賢者の石』は、期待ほどじゃなかったな。あちこちで、絶賛する記事を見ていたから、とても楽しみにしてたんだけど。日常生活の中に魔法があるってやっぱりおもしろいことだし、ハリーが魔法学校に入学するまでのあたり、導入部分はとても魅力的だと思ったの。でも、学校生活のドタバタで、ダレちゃって。なんだか主人公に魅力がないのよね。ハリーは欲のない純粋な子で、そんな性格が鼻につくこともあって、いじめられちゃうわけだけど、そういうのって大昔からあるパターンでしょ。ハリー自身には成長もないし、深みを感じられるキャラクターじゃないし。いうなれば、アニメの世界よね。ハグリットの存在も陳腐な感じ。体が大きくてちょっと怖そうなんだけど、実は心やさしい愛すべき人物っていかにもディズニーが好きそうなキャラクター。そのままディズニー映画に出てきそう。『ハリー・ポッター』がアニメとしたら、『黄金の羅針盤』は実写 ね。物語世界に奥行きがあるの。人物の描き方にしても全然違うでしょう。主人公ライラは欠点もあるんだけど、子どもらしくて生き生きしてる。ダイモンの存在も、とてもおもしろい。ダイモンは、守護天使のような存在なんだけど、それが動物の姿をしていて子どものうちは変身できるのに、大人になると姿が定まってしまうとか、人間の性格と動物の性格は密接な関係にあって、動物の姿はその人の性格を表すことにもなるんだけど、みんなが自分の望む姿のダイモンを手にいれられるわけではないとか、とてもよくできてておもしろかった。ひとつの状況を説明する場合の文章の表現がうまいので、出来事だけを追っていくのではなく、文章の表現を楽しむ喜びがある。『黄金の羅針盤』は3部作だということだけど、ぜひ続編が読みたい作品。『ハリー・ポッター』は、もう続編を読まなくてもいいかな。

ウォンバット:私は、どっちもイマイチだった。『黄金の羅針盤』はスケールが大きくて壮大なファンタジーだなあと思うけど、物語には最後まで入りこめなかった。なんだか、ダイモンの大切さが伝わってこなくて。動物の姿をしていて変身するなんて、たしかにおもしろいんだけどねえ。全体的におどろおどろしくて、暗い雰囲気なのもあんまり好きになれなかった理由かな。寒々しいんだもん。あと、ライラは大学の寮で本当の両親を知らずに育ってて、物語が進んでいくにつれて、自分の両親が誰なのか、そして彼らがいろいろな意味で対立していることを知るわけだけど、そういうことに対する葛藤がまるっきりないのも不自然な感じ。父母とか家族から解き放たれた存在なのかもしれないけど、でも、少しは何か感じそうなもんじゃない? 『ハリー・ポッター』は、つまらなくて最後まで読めなかった。誤植も多いし、ルビの不統一とかそんなことばかり気になっちゃって。

パブロ:誤植、ホント多いよねー。読みながらイライラした。23刷なのに、全然直してないんだね。書体をいろいろ変えてるのも、うるさくて嫌だな。

ウォンバット:そうそう! なんだか、おしつけがましいの!

ひるね:編集者は、そういうことが気になるのね。ねえ、ところでどこまで読んだの?

ウォンバット:魔法学校に入学するあたりかな。それまではなんとか我慢して読んでたんだけど、やっぱり学校生活に入ったら、おもしろくなくて、力つきたって感じ。総括してみると、「久しぶりに厚い本を読んだなあ」っていう印象。だって『黄金の羅針盤』は528ページ、厚さ 3.5センチ。『ハリー・ポッター』は 464ページ、厚さ3センチよ!

:この2冊は、系統も読者層もまるっきりちがう作品よね。『ハリー・ポッター』は、さっきも話が出たけれど、アニメ的。主人公や、それをとりまく人のキャラクターの描写が弱くて、みんな、まさにディズニーキャラクター・タイプ。派手な小道具を使ってチャンバラをしてるだけで、「スターウォーズ・エピソード1」みたい。ファンタジーのおもしろさに徹しているだけ。作者が物語にふみこんでなくて、ファンタジーがアイディアの一部でしかないの。だから結果的にドタバタで終わっちゃってるんじゃない? アイディアはいいのに、残念だわ。なにか伝えたいこと・・・たとえば主人公の成長とかね、そういうことを伝えるためにファンタジーという形式を選んだというのがイギリスの伝統的なファンタジーだと思うんだけど、そういうのとは根本的に違うと思う。
いっぽう『黄金の羅針盤』は、イギリスの伝統的ファンタジーの流れをくんだ作品。伝統的なもののなかに、現代的なものをうまく織り込んでて、イギリスファンタジーの良さを感じる。プルマンは、イギリスの伝統的ファンタジーをよく理解していて、あえてそれを壊そうとしてるんだと思う。そうそう、彼は「壊す」ことを意識してるポストモダンの作家。最新情報では、この作品は3部作じゃなくて4部作にする予定らしいんだけど4作目で「壊す」ために、3作目まではしっかりした世界を構築したいって言ってた。彼の意識は児童文学作家というより、大人向けの作品を書いている作家と同じ。描写力もたしかで、ていねいに描き込んでいるから、作品が長くなるわけだわーと思うけど、オックスフォードのハイテーブルのおごそかな感じとか、とてもよく伝わってくる。そこにミステリーもうまく使っているから、読者はぐいぐいひきこまれるよね。ところで、この本の帯、強烈じゃない?

ひるね:表1側は「『指輪物語』『ナルニア国物語』『はてしない物語』に熱中したすべての人に」ってコピーが入ってて、背は「今世紀最大の冒険ファンタジー」となってるんだけど、これ、プルマンが知ったら怒っちゃうと思うわ。だって、彼ははっきり『ナルニア』を批判しているのに、その『ナルニア』といっしょにされてるなんてねえ。日本語が読めなくてよかったね。

ねねこ:私は『ハリー・ポッターと賢者の石』しか読めなかったけど、楽しめなかった。緊張感が持続していかなくて。作者が何を目的に、というか、何を解決しようとしているのか、わからなかった。思索、哲学の深みがないし、人間造形にも魅力が感じられない。この作品を楽しめる人が確実にいるらしいというのは、どういうこと? って考えこんじゃった。深いものを表現するための装置としてのファンタジーではないという気がするのよね。どこかに重いメッセージを求めてしまう、自分の読書姿勢がまちがっているのかな、なんて悩んじゃいました。柏葉幸子さんの世界と近いけど、彼女のほうが、もうちょっとこだわりのあるテーマが見え隠れしてると思う。エンターテイメントと思って割り切れれば、いいんだろうけど。それにしても、朝日新聞はどうしてあんなにほめるのかしら。何回もとりあげたりして、ちょっと異常よね。あの「天声人語」(2000.2.13)は、ひどかったね。

一同:ほんとほんと!

オカリナ:でもさ、そろそろ批判が出てくるころなんじゃないの? 『ハリー・ポッターと賢者の石』も『黄金の羅針盤』も同時期にイギリスで出版されて、どこの出版社もねらってたんだけど、版権がすごーく高くて、結局2冊とも子どもの本専門ではない出版社から、一般向けに出版されたわけでしょ。それで『ハリー・ポッター』は宣伝も上手で、メディアも利用してブームになったのね。マスコミの功罪は、大きいよね。私は『ハリー・ポッター』は、「本嫌いの子にも本好きになってもらう」ところに出版の意義があると思うの。英語圏でもドイツでも、そういう読まれ方して、それで大きな話題になったのよね。ドタバタだっていいじゃない!? おもしろければ。その本その本で、果たすべき役割が違ってていいと思うから。でもねえ、この本づくりでは、その魅力も伝わらないよ。本嫌いが本好きになるような本づくりをしてほしかった。このブームも裏を返せば、ファンタジー慣れしていないおじさんたちが、喜んでるってことじゃないの? だって、物語は、伝統的イギリスファンタジーからしたら「なにこれ?」って感じでしょ。これだったら『ズッコケ三人組』(那須正幹著、ポプラ社)のほうがおもしろいと思うもの。要素があれば、ひっぱっていけるのに、もったいないよね。ほんと残念。
『黄金の羅針盤』は、表紙を見て期待しました。そして、読みました。でも、私はちょっとがっかり・・・。理知的な作家だから、実に緻密に世界が構築されてて、こことここがこうつながってなんて、整合性はすばらしいけれど、作品してはおもしろいと思えなかった。プルマンがオックスフォードや教会に敵対してて、C.S.ルイスを批判してるのは、作品からもよくわかるけど、これなら「ナルニア国物語」(岩波書店)のほうが、おもしろいと思う。頭は惹きつけられるけど、心は惹きつけられないっていうのかな。ポストモダンの作家だっていうことだけど、なんかていねいに訳しすぎてて、それにも惹きつけられなかったのよね。ポストモダンも、作者の意識としてはいいけど、子どもには魅力ないんじゃない? 父母の人物像も人間としての造形が感じられなくて「どうして?」って感じ。これじゃ、ゲームのキャラじゃない? ダイモンとか白熊はおもしろかったけど。白熊のイメージは、スーザン・プライスの『ゴースト・ドラム』(ベネッセ)あたりからきてるのかな。

:そういえば、イギリスでは教育制度の改革があって、エリート向けじゃない小説が必要とされてるって、何かで読んだわ。『ハリー・ポッター』は、そういう意味でも出現を待たれていた作品なのかも。

モモンガ:さっき、ハリーが魔法学校に入るまではおもしろいけど、その後はおもしろくないって言ったけど、イギリスの子にとってはおもしろいらしいわよ。学校の寮の雰囲気とか、懐かしいんだって。でも、大人が必要以上にもてはやすのは、おかしいよね。

パブロ:そうだよ。どうして大人が『ハリー・ポッター』をもてはやすんだろう。ぼくは、続きはもう全然読みたくないな。俗悪なもので何かを乗り越えるってこともあるから、それもまたいいし、それに、誤植とかあれだけの読みづらさを「仕掛けてる」のに、読み終える人がいるってのは、読書力の回復といえるかもしれない。キャラクターの造形が弱いのも、読むほうにしてみれば気楽だし、小道具には駄菓子屋っぽい楽しみもある。ドタバタだってちょっとずつ仕掛けてるから、小刻みな刺激が心地よいってこともあるだろうし、そんな欠点がそのまま受け入れられて、ポピュラリティーにつながっているのかもしれんけど。こんなにもてはやすに値するもんかねえ。寮でのできごとも、みみっちいよね。なんだか不思議なことが起こりそうな感じがしないんだよ。ハリーもヤなやつだし。あと、重箱のスミになっちゃうけど、小道具にも責任をもってほしい。だいたいクィディッチってゲーム、納得いかないよな。見てておもしろいワケ? と、きいてみたい。9と4分の3番線にしても、見かけ倒し。あちらの世界とこちらの世界をつなぐ大切なところなのに、あれはないよねー。
『黄金の羅針盤』はおもしろかったな。続きが読みたい。でも、実は父母だったとかさ、屈折が多くて気持ちがくしゃくしゃとなるよね。ダイモンは、変化していたのがいつしか一つの姿に定まるってことだけど、「成長」と「大人になること」の両面を描いてるのかなと思った。ちょっと露骨な感じがするけど、それもまた快く読める。「幼さに自覚的になることが成長だ」って谷川俊太郎が言ってたのが、印象的だったんだけど、でもそれは、おもしろさとはまた別の問題。それにしても、「寒い」物語だね。しんしんと身体が冷えてる感じがよく描けてる。

ひるね:ほんと、この冷たさはなんなんでしょうね。まさにプルマン・ワールドというべき作品。翻訳はたいへんだったと思うわ。彼は劇画、漫画好きなのよね。そういうものから影響を受けてるでしょう。この前の作品Ruby in the Smokeとか Clockwork(『時計はとまらない』偕成社)もよかった。ロジャーはいい子なのに、死んじゃって気の毒。もうちょっとなんとかできなかったのかって気もするけど。プルマン自身、『ハリー・ポッター』ほど売れないのを残念に思ってると思うな。『ハリー・ポッター』も、そろそろ反論が出はじめたみたいよ。フェミニストの中には、男の子ばかり活躍するって怒ってる人もいる。女の子の描き方がステレオタイプだって。ハーマイオニーも魅力がないし、他の女の子は、たとえばトロルが出てきたときも、かくれて涙をこぼしてるだけとかね。その点プルマンは『黄金の羅針盤』の主人公の女の子ライラも魅力的だし、前の3作もみんな女の子が主人公で気持ちがいい。『ハリー・ポッター』がなんで売れてるのか考えてみたんだけど、理由6つほど思いあたったの。ジェットコースターのようなストーリー展開、ステレオタイプで、わかりやすいキャラクター、トロルとか、おなじみのものが登場する、作者ローリングが劇的に現れたこと、言葉遊びのおもしろさ(日本語版では、それは生かされてないけど)、静山社ストーリー(夫の死で意気消沈してたところ、この作品に出会って感動。ローリングに直接アタックして、小さな出版社なのに版権を獲得したという美談)という6つ。
私は、原書を98年の夏の終わりか、秋のはじめごろに読んだのね。訳者の松岡佑子さんより早かったと思う。3冊3ポンドかなにかで、セールだったのよ。それで買ったんだけど、おもしろくて一気に読んじゃったの。で、もう一度読まなきゃなと思ったんだけど、2度読む気にはならなかった。トールキンの『ホビットの冒険』(岩波書店)とか、ル・グウィンの『ゲド戦記』(岩波書店)は、いいなあと思うところがあって、また読みたいなっていう気持ちになるんだけど、『ハリー・ポッター』には、そういう気持ちはわいてこなかった。たとえば『ゲド戦記』には、いくつも印象的な文章が出てきて、それぞれの1行こそが『ゲド戦記』の生命というか、とても大切な部分でしょ。この1行が読みたくて、もう1度読みたいなって気持ちになる。でもね、『ハリー・ポッター』には、「この1行」がないの。「おもしろさの質」について考えさせられた。「おもしろければ、それでいいの?」と思うのよね。『ハリー・ポッター』を出版する意味って、私もオカリナさんと同じで、「本嫌いの子を本好きにする」だと思うんだけど、それが現実にはうまくいっているのかどうかというところに、今、興味があるな。日本のマスコミは、こぞってたいへんな持ち上げようだったけど、そろそろ目をさましてほしいな。だって『ハリー・ポッター』よりおもしろいファンタジーって、たくさんあると思わない? この本のファンタジーは、借りものなのよ。絶賛はもういいから、「日本の児童文学にどんなインパクトを与えたのか」「子どもに確実に手渡されているかどうか」を、追及してほしい。この本、日本では大人向けに出版されたわけだけど、私はそのことに憤りを感じているの。もともとは子ども向けの本なんだから。こないだの「天声人語」(2000.2.13)だって、「名訳である」なんてやたらに持ち上げて宣伝に一役買うようなことはしないで、もっとちがう面をとりあげてほしかった。

愁童:さっきも出たけど、天声人語はほんとひどかったね。全然読まないで書いてるんじゃないの?

ひるね:『ハリー・ポッター』の翻訳は、いろんな人がつつきまわしてるのがよくないと思う。明らかに一人の人が一貫して訳してないから、ふつう翻訳って後半のほうがよくなるものなのに、この本は後半がいいかげん。『黄金の羅針盤』の訳も、子どもの会話に「彼」「彼女」なんて出てきて、子どもがそんなふうに話すかしらなんて初めのうち思ったけど、聞きづらくても味わいがある方言といっしょで、物語世界に入りこんでいくうちに、ごつごつした訳がだんだん気にならなくなったもの。

愁童:ぼくは『黄金の羅針盤』は読んでないんだけど、『ハリー・ポッター』の翻訳はたしかにいいとは思えなかった。『ハリー・ポッター』は、猫が地図を見てるとか導入はよかったから、これはおもしろそうだぞと思ったんだけど、読んでみたら詐欺みたいなもんだったね。これはさ、「創作」というより「構成・編集」。今まで読んできたファンタジーの集大成って感じ。イメージをつくる喜びが全然ない。こういうのが今の若い人には喜ばれるのかな。インターネットなんか見てても、小学校の先生で30代の女の人が、こないだここで読んだ『穴』(ルイス・サッカー著 幸田敦子訳 講談社)について書いてて「うまい。とってもおもしろかった」って推薦してたんだけど、その同じ人が「『ハリー・ポッター』はスゴイ!ここ10年で一番おもしろい作品だった」って大絶賛なんだよ。今の30代にはウケるのかなあ。

ウォンバット:私、30代だけど、ウケませんでしたよ。

愁童:まあ、人によるってことだろうけどさ。この作品はきれいなCGみたいなもので、油絵のような奥行きはないけど、CGのほうが好きって人もいるってことじゃない?

(2000年02月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


イスカンダルと伝説の庭園

ジョアン・マニュエル・ジズベルト『イスカンダルと伝説の庭園』
『イスカンダルと伝説の庭園』
ジョアン・マヌエル・ジズベルト/著 アルベルト・ウルディアレス/挿絵 宇野和美/訳
徳間書店
1999.12

モモンガ:さっと読めておもしろかった。コメントするような要素はあんまりないんだけど。アラビア風の設定とか、異国情緒たっぷりのところが魅力的。すばらしいものをつくっても、上には上があったっていうのがいいよね。同じように芸術の世界を描いたロベルト・ピウミーニの『光草(ストラリスコ)』(長野徹訳 小峰書店)を思い出した。権力に対する飽くなき欲望もよく描かれている。大人があとから意味をくっつける必要はない作品。

ウォンバット:私は、絢爛豪華な庭のようすに、宝箱をみせられたような、美しいものを見せてもらったっていう喜びが感じられて、好きな作品でした。今回の4冊は、私にとって読むこと自体が修行のような苦しい本が多かったから、この本で、久しぶりにわくわくする読書の楽しみを思い出したわ。

:日本語版は、読者の対象年齢を低く設定してるでしょ。本のつくりが。この本のテーマは、飽くなき芸術への探求心が最後には勝つっていう美学だと思うんだけど、そういことを小学生に理解できるかっていうことに疑問を感じました。作者自身はどういうことを意図したんだろう? 美か権力か、どちらをとることが人間にとって幸せなんだろうね。ジズベルトの作品は『アドリア海の奇跡』(宇野和美訳 徳間書店)も読んだけど、おもしろかった。ちょっと難をあげれば、私にはこの庭の良さがわからなかった。絢爛豪華すぎて、すばらしいものがごちゃごちゃとありすぎちゃって。秘密の画策にしても、種明かしされたら、ガクッと拍子ぬけしちゃう。それから翻訳の問題だけど、希代の詩人が自分のことを「ぼく」っていうのもそぐわない感じ。

ウォンバット:私は、古風な表現もおごそかな感じを加えるスパイスで、わざと使ってるのかと思ったから、別に嫌じゃなかったな。

:まあ、徳間書店らしい本よね。あとフェミニストの立場から言わせてもらえば、女をとっかえひっかえ慰みものにするなんて、「それはないでしょう」と言いたい。

ねねこ:私は、寓話的な意味で、おもしろかった。美味しい一品料理をいただいたような、美しい手工芸品のようなうれしさがある。でも、この世界が理解できるのは、やっぱり中学生以上かなあ。小学生を読者対象とするのは、ちょっと無理があるように思う。それと、すばらしいといわれている詩が、私にはいいとは思えなくて、がっかりした。予言者のお伴の男の子ハシブが活きてないのは残念だったし、結末もちょっと肩すかしというか、もうひとつ工夫が足りない感じがした。庭園そのものを一つの罠にしてしまうとか、いろいろおもしろくできそうなのに惜しいね。全体としては、アラビアの雰囲気を楽しむ、よくできたファンタジーという感じ。

オカリナ:よかったんだけど、私も特別言うことないなあ。期待はずれの超大作2作と比べると、この作品は「佳作」って感じ。こうなるだろうなと思ったことが、その通りちゃんとおさまる安心感がある。あと、西洋の庭は日本の庭とは空間を生かすか、埋めるかという点で根本的にちがうのね。

ウォンバット:やっぱりガウディの国スペインの作品だから、庭のイメージがまた独特なのかも。

ひるね:私も庭の描写には、わくわくした。あれもある、これもあるって贅をつくした庭を想像したりするのって好きなの。お人形遊びのような喜びってあるじゃない。

ウォンバット:そうそう!

ひるね:この作品は、たしかに「佳作」だと思うな。一番おもしろいなと思ったのは、スペインではこういう作品を児童文学として、子どもに手渡すんだなあということ。芸術を中心にすえた作品て、児童文学にはあんまりないでしょ。芸術至上主義の国民性なのかしら。この本『光草』みたいな装丁にしたら、もっとよかったかも。

愁童:『光草』のほうが、こういう場所で話題にするにはおもしろいよね。『イスカンダルと伝説の庭園』は、定石にはまったおもしろさで、ひっかかりがないから、なにを話題にしていいか、困っちゃうな。一休さんみたいな、ひとつの知恵比べの話でしょう。おもしろいけど、とりたててわーわー議論できる本ではないと思うな。

(2000年02月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ビート・キッズII

風野潮『ビート・キッズ2』
『ビート・キッズII』
風野潮/著
講談社
1999.10

ひるね:達者な大阪弁の作品よね。登場人物のキャラクターがステレオタイプで「じゃりんこチエ」と同じ世界。とくに、お母さんは美しくてか弱くて、すぐ病気になっちゃうんだけど、女性の作家がどうしてこういう母親を描くのかしら? 七生は、養子だからっていうことで悩むんだけど、これって一種の差別だと思う。「養子である」という事実を必要以上に深刻に描くのは、どうも気にいらないのよ。それから、音楽をテーマにしてるんだけど、音楽の楽しさが伝わってこなかった。彼らが一所懸命になっている、ビートの追求のおもしろさが伝わってこないの。この作品がもしも大阪弁じゃなくて東京弁で描かれていたら、つまらなくてとても読めなかったと思うな。

オカリナ:私、前回欠席だったからバツとして、日本の作品を決めなさいっていうことになって、この本は議論を呼ぶ本だからおもしろいかなと思って選びました。『ビート・キッズⅡ』ではいろんな賞をとってて(第38回講談社児童文学新人賞、第36回野間児童文芸新人賞、第9回椋鳩十児童文学賞を受賞)賛否両論ある本だから。今回図書館で借りようとしたら、区の全館で貸出中だったの。そんなに人気があるのかとびっくりしちゃった。大阪弁がおもしろくて、ノリでわーっと読めた。『ハリー・ポッター』と同じで、登場人物はステレオタイプ。七生って、絶対いるはずないキャラクターなんだけど、そういうことを深く考えないで、決まりごとのなかにどっぷりつかって進んでいけばついていける。でもさ、この年齢の男の子がジャズバンドとブラバンとを両方好きでやるなんて、私のまわりを見てるかぎりではありっこないと思う。そこはリアリティがないような気がしたな。

ねねこ:本を読まない子に本を読ませるための1冊としては、いいと思うんだけど・・・。今、評価が、混乱をきわめる代表的な本。この本を「新しい」とか「おもしろい」っていう人は、かなり古い人だとは思う。おもしろさのかなりの部分が大阪弁に頼ってる。べつに、それが悪いことではないし、それも一つの芸だとは思うけど。ただ、生活苦のために高校をやめるなんて、今どきピンとこないし、CDも知らない中学生がいるのかなとか、ちょっと不自然な設定はあった。だけど、本を読んだことのない中学生からファンレターがびしびし届くらしいよ。

オカリナ:中学生が手にとりやすいように、装丁とか本づくりに工夫があって、定価も安いし(1100円)、『ハリー・ポッター』よりずっと良心的ね。

ねねこ:たしかに、そういう努力はしてるけど、それだけでいいのかって気持ちもある。それだけじゃなく、漫画にはできないことをやってやろうじゃないか、ぐらいの意気込みはほしいよね。こういう本が売れると、自分がおもしろいと思うものをつくっても売れないんじゃないかって、少し心配になってきちゃった。

ウォンバット:ツッコミどころが多すぎる作品! あとがきによると作者は漫画も描いてたそうで、『ビート・キッズⅡ』の扉の絵もみずから描いてるんだけど、この顔まるっきり吉田秋生のマネ。それで、主人公の名前が英二ときたら、もう『バナナフィッシュ』でしょ。とすると、七生はアッシュそのものやん。天才で美形で、冷酷なところがあって、家庭環境が複雑で、人に言いたくないダークな出生で……。初めにそう思っちゃったもんだから、もう意地悪な気持ちから挽回できなかった。この作品は、漫画のセリフからト書きから絵まで、全部を本の体裁で文章化して、物語のような形にしてるだけなんだよね。だから物語の楽しみである、「心を働かせる」スキってもんが、全然ないの。全部が全部この語り口で埋めつくされてて、空白がない。漫画だったら、きっとこの作品も嫌じゃないと思うんだけどな。文学に夢をもちすぎてるのかなあ、私。この文体だから、関東人にはなじみにくいってこともあるんだろうけど。こーゆーイントネーションで読まないと、ついていくのがたいへんだし、それがスムーズにできない私は、疎外感を感じてしまった。

モモンガ:私も、大阪弁って一字一句一所懸命読まないと入ってこないから、すごく疲れた。でも、日本の創作って最近はヒネこびたものが多い中で、明るくて元気の出る作品だと思った。変なうっとうしさがないのが、この本の特徴。でも、やっぱり登場人物はステレオタイプだし、中学生に薦めたときに、「おもしろかった!」とは言われるだろうけど、それ以上の感想は聞けないと思う。英二が語るという形式にしたことで、必要なこともむだなことも、べらべらべらべらしゃべってるって感じなんだけど、英二が憎めないキャラクターだから、「マ、いっか」と思わせられちゃうところが、成功のカギだと思う。ストーリーも、いきなり浪速節になったりするんだけど、それもすべてキャラで許せちゃう。

愁童:ケチをつけはじめればいろいろあるけど、最終的に今の子どもたちにはいい作品。標準語だったら、許せないと思うけど。ブラバンとかクラブ活動で癒されるってこともあるだろうし、一つの完結した楽しい世界を楽しめばいいんじゃない? 本好きになるためにはこういうプロセスも必要だと思って、まあ、こまかいこといわずに、楽しんでよ。

(2000年02月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


2000年02月 テーマ:話題の超大作ファンタジー2作+α

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『2000年02月 テーマ:話題の超大作ファンタジー2作+α』
日付 2000年2月24日
参加者 愁童、ねねこ、ウォンバット、ひるね、オカリナ、裕、
モモンガ、パブロ
テーマ 話題の超大作ファンタジー2作+α

読んだ本:

ローリング『ハリー・ポッターと賢者の石』
『ハリー・ポッターと賢者の石』
原題:HARRY POTTER AND THE PHILOSOPHER'S STONE by J.K. Rowling, 1997(イギリス)
J.K.ローリング/著 松岡佑子/訳 ダン・シュレンジャー/絵
静山社
1999.12

<版元語録>9と3/4番線から魔法学校行きの汽車がでる。ハリーをまちうけていたのは夢と冒険,友情,そして生い立ちをめぐるミステリー。
フィリップ・プルマン『黄金の羅針盤』
『黄金の羅針盤』 ライラの冒険シリーズ1

原題:GOLDEN COMPASS by Philip Pullman, 1996(イギリス)
フィリップ・プルマン/著 大久保寛/訳 エリック・ローマン/絵
新潮社
1999.11

<版元語録>両親を事故で亡くし、オックスフォード大学寮に暮らすライラは、明るく活発な少女。連れ去られた友だちと、監禁されてしまった北極探検家のおじを救うべく、ライラは黄金の羅針盤をもって北極に旅立つ…。カーネギー賞受賞作。 *ガーディアン賞も受賞
ジョアン・マニュエル・ジズベルト『イスカンダルと伝説の庭園』
『イスカンダルと伝説の庭園』
原題:El arquitecto y el emperador de Arabia by Joan Manuel Gisbert(スペイン)
ジョアン・マヌエル・ジズベルト/著 アルベルト・ウルディアレス/挿絵 宇野和美/訳
徳間書店
1999.12

<版元語録>「贅の限りを尽くし、この世の美の粋を集めた庭をつくってほしい」という王の依頼を受けた、天才建築師イスカンダル。しかし、力のすべてをそそぎこんだ庭園が完成したとき、王とイスカンダルの間に起こったことは…? 権力では縛ることのできない魂の自由と想像力の素晴らしさを描いた、スペイン生まれの美しいファンタジー。
風野潮『ビート・キッズ2』
『ビート・キッズII』
風野潮/著
講談社
1999.10

<版元語録>野間児童文芸新人賞,椋鳩十児童文学賞に輝く「ビート・キッズ」続編。高校2年生になった横山英二を描く「青春ロック編」です。 *講談社児童文学新人賞も受賞

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青い図書カード

ジェリー・スピネッリ『青い図書カード』
『青い図書カード』
ジェリー・スピネッリ/著 菊島伊久枝/訳 いよりあきこ/挿画
偕成社
1999.10

:よくできている話だと思いました。ひとつのテーマでつながった連作短編っていう意味では、『不思議を売る男』(偕成社)『種をまく人』(あすなろ書房)と同じ系列よね。この本は、不思議な図書カードがもたらす4つの物語だけど、大人がアクセスできない子どもの内面をうまく表現してる。短編だからこそ描けた世界だと思う。4編(「マングース」「ブレンダ」「ソンスレイ」「エイプリル」)の中でとくによかったのは「マングース」と「ブレンダ」かな。「ブレンダ」はテレビ中毒の女の子の、ちょっと病的なところもコミカルでおもしろいし、本を読みましょうっていうメッセージもわかる。うちの息子にも、ぜひ読ませたい。そういえば、私スピネッリってドイツ人だと思ってた、ずっと。この本読んで初めて知ったけど、アメリカ人だったのね。

ウーテ:名前から考えると、ドイツ系なんじゃないかしら。それと、メッセージ性が強いから、ドイツっぽい感じがしたのかも。

一同:メッセージ性、強いよねー。

愁童:そうだね。メッセージ性は強いけど、おもしろかった。4編の中では「ブレンダ」が、ちょっと残念かな。

ひるね:ところで「図書カード」っていう言葉、ちょっと違わない? あんまりなじみがないよね。「ライブラリーカード」といえば、カッコいいけれど……。原題は The Library Card で「青い」とはいってないんだけど、どうして「青い」とつけたのかな。アメリカでは青いのが一般的とか?

一同:そうかなあ。(といいながら、自分の貸出カードの色を各自チェック。青の人もあり)

:本文に「青い」って出てくるからタイトルにも持ってきたんじゃない?

モモンガ:それより「図書カード」っていうと、図書館の貸出カードじゃなくて、本を買うためのプリペイドカードの方を思い出さない?

一同:そうだね。

ひるね:とにかくメッセージが強烈よね。意志的なものを感じさせる文学。この本の担当編集者は「ソンスレイ」がイチオシだって。ほろりとさせられますっていってました。「ソンスレイ」には思い出の本が出てくるんだけど、日本ではそういうのってあまりないわね。外国では映画でも、共通の体験として「本」が登場するっていうの、よくあるけど。あと前作『クレイジー・マギーの伝説』『ヒーローなんてぶっとばせ』と比べて翻訳がいちだんとよくなってると思う。とくに男の子の会話が生き生きしてる。

ウォンバット:私は「マングース」と「ブレンダ」がよかったです。とくに「マングース」。図書カードがきっかけで、「知識」というものに目覚めていく様子がとてもいいと思う。こういう目の前がぱあーっとひらけていく感じって現実にあると思うし。最後の場面、取り残されたウィーゼルがかわいそうなんだけど、そういう寂しさもまたいいし、彼は彼でこれを乗り越えて元気でやっていけそうなバイタリティーをもってると思うから。「ブレンダ」もメッセージは強烈だけど、テレビ中毒のコミカルな描写なんかはおもしろかったな。でも、あんまりメッセージばかりが勝っちゃうとつまらなくなっちゃうから、そのあたりのバランスが問題かもしれない。

ウーテ:私は「ソンスレイ」は、何かが欠けているような気がして嫌でした。このごろのヘルトリングもそうなんだけど、苛酷な現実を包む、何かこう温かいものが欠けてると思う。私がヘルトリングから心が離れた理由は、まさにそれなの。以前の彼の描くものには温かさがあったのに、このごろの作品はなんだか寒々として無残な感じなのね。たぶん彼自身に余裕がなくなったからだと思うんだけど。それと同じようなものを「ソンスレイ」にも感じました。いちばんよかったのは「マングース」。終わり方もいいし、少年の心がよく描けていると思う。作者の言いたかったことは「マングース」だけで充分言い切ってるんじゃない? ほかの作品はなくてもいいくらい。

ウンポコ:ぼくも「何かが足りない」っていうのに同感。『クレイジー・マギーの伝説』『ヒーローなんてぶっとばせ』のときにも思ったんだけど、どうも気持ちが愉快にならないんだよね。子どもの内面を描こうとしているのはわかるんだけど、クリアリーなんかとくらべると、スピネッリの作品は「もう1度読みたい」っていう気持ちにならないの。どうも人間性が、ぼくとはすれちがうみたい。理屈じゃない、何かふわっと包みこむものが足りないんだよね。あと、この本は、挿絵がどうも。「物」はいいけど、人物は出さないほうがよかったと思うなあ。表紙もイマイチ。他の本に紛れちゃう表紙だね。前作と比べても同じ作者のものとしての統一感がないから、損だよね。

モモンガ:私もスピネッリって、どうも読みにくいのよね。どんどん進めないの。

:叙述的なところと心情とが、パッパッと切り替わるからじゃない?

モモンガ:そうかもしれない。大人っぽい書き方で、これが今のものなのかな、とも思うんだけど。図書カードをひとつの窓口として使ってるという良さはあるけど、4つの物語がばらばらだから、もっと関連性があってもよかったと思う。「ブレンダ」は冷たくて、ナマの子どもじゃない感じ。なんだかあんまりメッセージがわかりすぎるとつまんない。

 

(2000年01月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ひねり屋

ジェリー・スピネッリ『ひねり屋』
『ひねり屋』
ジェリー・スピネッリ/著 千葉茂樹/訳
理論社
1999-09

ひるね:どうしてこんな残酷な話にしたのかしらねえ。両親が救い主というのは、とてもアメリカ的な感じ。イギリスだったら、こうはいかないでしょう。アメリカ映画とイギリス映画の違いみたいなもので、アメリカものはどこか甘いのよね。スピネッリというのは、家庭的な人なんだなーと思いました。『青い図書カード』と同じく、メッセージが強く伝わるけれど、2度は読みたくない本でした。

ウーテ:私は、積極的に嫌だったの。少し読んで、自分の意志でもう読むのをやめました。だって楽しくない読書に意味があるの?

:私は、視点を上手に使っていて、うまいと思いました。作者との距離をうまく操作する巧妙さがある。これもまた、ドイツ的な感じ。『きみ去りしのち』とは対照的なクールさがある。ドロシーをいじめるところなんかも、子どもの意識を上手にひろってるし。子どもの成長の一過程をきちんと描いてると思う。

愁童:いいか悪いか、判断に迷うなあ、この本は。『クレイジー・マギーの伝説』(偕成社)もそうだけど、スピネッリはわざと異様な状況をつくって、主人公自身が越えなくてはいけないハードルを設けるんだよね。頭がいい、うまい作家だと思うけど・・・。でも、脇が甘いところも気になるなあ。救い主が両親っていうとこ、ドロシーとの関係が都合よすぎるところなんかね。少年が大人になるプロセスで、親を疎ましく思っていたのに、ぶつかってみたら案外よくしてくれたなんてことも、あるにはあると思うけどね。

モモンガ:今まで読んだスピネッリの4冊のうちで、私はこの本がいちばん読みやすかった。でもねー、変わった本だと思うけど、子どもにはあえて薦めないな。全体としては、どうも後味が悪くて、すかっとしないの。子ども時代に読める本は限られているんだから、あえてこの本を読まなくてもいいって感じ。だって、5歳のときに読む本、10歳のときに読む本っていうふうに考えたら、そのとき読める本てとっても少ないでしょ。そう思うとねえ・・・。だってあんなにいじめられてたドロシーが、なにごともなかったように主人公を許して仲良くなっちゃうなんて物足りないし、両親に関しても、温かい両親だっていうことはわかるけど、お父さんとの関わり方がどうも納得できないのね。おもちゃの兵隊のエピソードも中途半端でしょ。父と子のふれあいを、もう少しきちっとおさえてほしかった。ハトの飼い方とか、首をかしげるハトのかわいらしいしぐさとか、ククーって鳴く様子なんかは、みんなうれしく読むだろうし、子どもを惹きつけると思うんだけどね。

ウーテ:一昨年の直木賞を受賞した桐野夏生の『OUT』を読んだときに思ったことなんだけど、『OUT』は作品としては、とてもよくできていておもしろいし、バーッと読んだんだけど、後味が悪くて、不毛な感じにもう耐えられなかったのね。それで、ストーリーが上手ということ以外に、こういう本を読む意味があるんだろうかと思っちゃったの。そしたら新聞で、賞の審査委員長が『OUT』を評して「おもしろければいいってもんじゃないと、吐き捨てるように言った」という記事を読んで、我が意を得たり! だったんだけど。だって「書いてドースル、読んでドースル」って感じじゃない? 通過儀礼を描くにしても、なにもこんな異様な状況をつくりださなくても、別の状況でも描けるわけでしょ。

モモンガ:大人のものならいいけど、子どもにあえてこういうものを読ませなくてもいいよね。

ひるね:でも、アメリカには実際にこういう町もあるのかもよ。

一同:(しーん)

ひるね:だって、ほら、作者の住むところの近くで実際このフェスティバルが行われているのかもしれないし、それだったらあんまり抵抗ないのかも。

ウォンバット:小さいときからこのお祭りを見ていたら、たしかに抵抗ないのかも。私はこの本を読みはじめたとき、現代の話じゃないと思ったのね。あまりにも設定が強烈だから、昔の話かと思って。ローラ・インガルス・ワイルダーの「大草原の小さな家」シリーズにでてくる博覧会のような、地域のお楽しみ会なのかなと思って読み進めていったら、現代の話だったからびっくりしました。あと、この本は装丁がカッコイイですね(装丁:坂川事務所)。とても目立つし、黄色と黒が印象的。大人向けの本みたい。内容は、みなさんのおっしゃるとおりなんだけど、『ひねり屋』ってタイトルはいいと思う。

: Wringerっていうのは「ひねる人」って意味でしょ。首をひねって鳩を殺す人っていうだけじゃなくて、「ひねくれもの」って意味もあるんじゃない? 彼はこの町では、ひねり屋になりたくない「ひねくれもの」なワケだからさ。

(2000年01月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


きみ去りしのち

志水辰夫『きみ去りしのち』
『きみ去りしのち』
志水辰夫/著
光文社(光文社文庫)
1995.06

:感覚的にダメだった。気持ち悪くて。なんだか嘘っぽくて、男のいやらしさがそこここに出ている感じ。ギュンター・グラスの『ブリキの太鼓』を思い出しちゃった。大人になってから子ども時代を回顧して書くという系統のものだから、根本的に違うでしょう、子ども向けのものとは。大人向けのものと子ども向けのものの違いを再確認しました。4つの物語が収められた短編集(「きみ去りしのち」「Too Young 」「センチメンタル・ジャーニー」「煙が目にしみる」)だけど、とくに「Too Young 」は現実的じゃなくて、いかにも男の人が書いたものという感じ。

ウンポコ:「Too Young 」は、たしかにリアリティがないね。看護婦さんの弟がちょろっと出てくるんだけど、それがどこにもつながっていかないから、なんのために登場したのかよくわからない。「きみ去りしのち」も、子どもが描けていない。主人公の男の子は小学校高学年っていう設定だけど、それにしては幼稚すぎるよ。女の子もだけど・・・。この作家、子どもいない人だなと思ったね。今現在を生きている、ナマの子どもを知らないんじゃない? 志水辰夫は、サスペンスもののうまい作家だから、「読ませるなー」と思うところは多々あるんだけどねえ。

愁童:そうだね、うまいと思うけど・・・でも、設定がうまくないんだよ。「きみ去りしのち」は、子どもが語る形式にしたところに無理があると思う。「煙が目にしみる」も、大学生が主人公なんだけど、大学生ってこんなに幼稚なものかなあと疑問を感じた。だって大学生にもなって、こんなに鈍感なわけないんじゃない? それにしても、心のひだをひっくり返してルーペでのぞくような小説は、どうも好みじゃないんだな。

ひるね:なんだかレトロ調よね。文章そのものが、男の子の口調ではないですね。女性の描き方も、外見が美しいとか醜いとか表面的なことばかりで、それもお母さんや看護婦さんなど美しい人は心も美しく描かれているのに対して、主人公に意地悪をする役の紀美子なんて、外見も気の毒なくらい醜く描かれているでしょ。おとぎ話といっしょよね、キレイな人は心もキレイって。「きみ去りしのち」でも、叔母さんがお父さんを奪っていったというのなら、なにか具体的なエピソードが必要でしょう。ただ「この人は、いつも人のものをほしがるんだから」っていうだけでは、納得がいかない。最後の1行にリアリティがないのは、そのせいだと思う。きちんと説明しないで、あいまいに表現することで、終わらせようとしているのよね。説明がなくてもわかる読者にはいいけれど、わからない人には、物語が成立しない。それでもいいっていうスタンス。

ウンポコ:要するに、「女の人は不可解で美しいものだ」ということを書きたがる男の作家ということかな。

ウーテ:私も、物語が上手だってことは認めるわ。上手か下手かといったら上手。でも気にくわないの。この作者「なにさま系」の人なのよ。自分だけが一段高いところにいて、人を判断するタイプの人。「きみ去りしのち」の華やかで美しい3姉妹のからみなんて、よく描けていると思うけど、いかにも「男が描く女」という感じ。だいたい、細部が時代錯誤じゃない? ひとりよがりで不気味だし、へんなセンチメンタリズムがあって、虫が好かない小説でした。

ウォンバット:私も、好きになれませんでした。登場人物がみんな、美しい人を陰からそっとのぞくだけで、何か行動を起こすわけでもなく、美人の傍観者である自分に酔っている。ただ見ているだけでわかったような気になっている自己満足小説。スタンダードナンバーからタイトルをとっているようだけど、内容とタイトルのつながりがわからないし、歌との関係もちっともわからなかった。

ウーテ:これでは、有名な歌の題名をタイトルにもってくる意味ないわよねえ。

(2000年01月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


自分にあてた手紙〜カメのポシェの長い旅

フローレンス・セイヴォス『自分にあてた手紙』
『自分にあてた手紙〜カメのポシェの長い旅』
フローランス・セイヴォス/作 クロード・ポンティ/絵 末松氷海子/訳
偕成社
1999.10

モモンガ:とてもよかったです。共感するところが多かった。低学年でも読めるような体裁についてはいいか悪いか判断がわかれるところだと思うけど、でも「気分の持ちようは、自分が操るしかないんだ」ってことは、子どもも知ったほうがいいと思うなあ。落ちこんだときって、自分がなんとかしなければ、立ち直れないでしょ。自分で嘘の手紙を書くとか、「今日はもうおしまいにして寝ましょう」っていう感覚も、よくわかる。女性の一面
をよく表していると思う。あと、お母さんがたずねてくる場面で、本当はとても悲しい気持ちなのに、泣きついたりしないで、「元気よ」っていうあたりもとても好き。

ウンポコ:ぼくも、好感をもったね。自分の孤独をあてはめながら読むとしたら、小学校高学年くらいから読めるかな。主人公がカメっていうのも、カメの「哲学する動物」というイメージとの重なりぐあいがぴったり。自分で自分に書く手紙というのも新鮮だった。

ウォンバット:私も、今日の4冊の中でこの本がいちばん好き。もう、とってもとってもよかった! 大切な彼プースが死んでしまって、ポシェは悲しくて落ちこんじゃうんだけど、絶望的な気持ちを受け入れて、自分自身でなんとかしていこうとする気持ちがけなげで、胸を打たれました。悲しい設定なんだけど、本人は「いかに悲しいか」ということを訴えているわけじゃないし、文章も淡々としていて冷静だから、おしつけがましさがない。ポシェが書く手紙もとてもいい。はじまりの「大好きなプースへ」というところだけで、もうどーっと涙がでてしまいました。人の心に直接響くのって、案外原始的なことで、しかけとか飾りは必要ないのかもなあと実感しました。それから「頭に石がゴツン!」とか、ユーモアがきいているのもいいと思う。

ウーテ:水をさすようで悪いんですけど、私は好きになれなかった。自分で手紙を書くっていうのはよかったけれど、ファンタジーのレベルが統一されていないのが気になって。擬人化が中途半端なんだもの。2本足で歩いているのに、マロニエでできた葉っぱを日傘にしたりするのは、ヘンじゃない? ふつうの日傘でいいのに。そうかと思えば、パイを焼いたりなんかして、統一されてないのよ。小さなことといえばそうなんだけれど、ひとつ気になりはじめると、もう全体が気にいらなくなっちゃって……。アバウトなんだもの。安っぽく思えてきてしまう。タイトルもよくないと思う。原題
Pochee なんだから、『かめのポシェ』でよかったのにね。

ひるね:こういうアバウトさが「フランス」っていう感じで、私は好き。最後もそうよね。最後にポシェの孫がでてくるんだけど、ということは、プースが死んだあとだれかと再婚したってことでしょ。そういうふうになんの説明もなく、ぱっと時がとんで別
の人と結婚してたことがわかるっていうのも、お国柄という感じ。だって、ほかの国のもの、たとえばバーバラ・クーニーの『ルピナスさん』がもし結婚して、夫が死んでしまったら、そのあと一生ひとりで、亡き夫の小さな写
真を暖炉の上に飾って暮らすと思うのよ。この作品はいわば歌みたいなもの、シャンソンのようなものだと思うのね。だから、こういうのもアリでいいと思う。

愁童:これは「カメ版『女の一生』」だね。生きていればいいこともあるさと、元気が出る本。その孫のことなんかも、あっけらかんとしてるよね。はじめは『葉っぱのフレディ』と同じ路線かと思って先入観があったんだけど、一味ちがってた。文章がよくて、読後感がとてもいい。今、「癒し」って流行っているけれど、ぼくはどうも「癒し」って好きじゃないんだよ。なんだか他人まかせな感じがして。この本も「癒し系」とかいわないほうがいいと思うな。


2000年01月 テーマ:このごろのよかった本 気になる本

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『2000年01月 テーマ:このごろのよかった本 気になる本』
日付 2000年1月27日
参加者 ウンポコ、愁童、ウォンバット、ひるね、裕、ウーテ、モモンガ
テーマ このごろのよかった本 気になる本

読んだ本:

ジェリー・スピネッリ『青い図書カード』
『青い図書カード』
原題:THE LIBRARY CARD by Jerry Spinelli, 1997 (アメリカ)
ジェリー・スピネッリ/著 菊島伊久枝/訳 いよりあきこ/挿画
偕成社
1999.10

<版元語録>どこからか舞いこんできた一枚の青いカード。町一番のワルガキ二人、テレビづけになった少女、母親の愛に飢えた少年が見つけた愛の証、恋人に裏切られたパンク少女と、さびしい女の子。一枚の図書カードがひきおこす、小さな小さな四つのドラマ。
ジェリー・スピネッリ『ひねり屋』
『ひねり屋』
原題:WRINGER by Jerry Spinelli, 1997(アメリカ)
ジェリー・スピネッリ/著 千葉茂樹/訳
理論社
1999-09

*98年度ニューベリーオナー <版元語録>毎年「鳩の日」には、大量の鳩が解き放たれ、そして銃で撃ち落とされる。地面に落ちた鳩は「ひねり屋」と呼ばれる少年たちによって回収される―。殺戮の対象である鳩を愛した少年パーマーの孤立無縁の戦いと成長の物語。
志水辰夫『きみ去りしのち』
『きみ去りしのち』
志水辰夫/著
光文社(光文社文庫)
1995.06

※ 児童書ではないが、子どもに関連して読むことにした。 <版元語録>小学生から中、高、大学生を主人公とする透逸な作品4編。ミステリアスに物語が展開するなかで、それぞれの年代特有の感情の起伏、心象風景を丁寧に描き、抒情的でせつない。少年が大人に脱皮するときの、憧れ、思慕、屈折、真摯さ、惨めさ、哀しさ…。過剰なる情熱は過剰なる喪失感をもたらすものなのか。読後、余韻に浸りたくなる。
フローレンス・セイヴォス『自分にあてた手紙』
『自分にあてた手紙〜カメのポシェの長い旅』
原題:Pochée by Florence Seyvos, 1997 (フランス)
フローランス・セイヴォス/作 クロード・ポンティ/絵 末松氷海子/訳
偕成社
1999.10

<版元語録>ある日とつぜんにこの世でいちばんたいせつな人を失ったとしたら、あなたはどうしますか。最愛の夫を失ったカメのポシェは、手紙を書くことを思いつきました-。最愛の人との別れのあと、自分自身を取りもどしていく物語。

(さらに…)

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