カテゴリー: 子どもの本で言いたい放題

2002年10月 テーマ:変則的な家族

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『2002年10月 テーマ:変則的な家族』
日付 2002年10月31日
参加者 ペガサス、羊、裕、ねむりねずみ、アカシア、カーコ、紙魚、きょん、トチ、愁童
テーマ 変則的な家族

読んだ本:

『それぞれのかいだん』
原題:STEP BY WICKED STEP by Anne Fine,1995
アン・ファイン/作 灰島かり/訳
評論社
2000

版元語録:嵐の夜、不気味な屋敷で一夜をすごすことになった5人の少年少女。彼らはそれぞれ自分の抱える家族の問題を語り出す。悩みあがきながらも現実をしっかり見つめ、熱くクールに成長する五人の物語。
『おき去りにされた猫』
原題:THE CAT THAT WAS LEFT BEHIND by C.S.Adler,1981
C・アドラー/作 足沢良子/訳
金の星社
1985

版元語録:小さいころに母と別れ、他人の家庭を転々として育った少年、チャド。13歳の彼は、夏の間ソレニック家にあずけられるが…。猫をめぐるふれあいの中で、新しい家庭にうちとけ、成長していく少年の物語。
『おばあちゃんはハーレーにのって』
原題:GRANNY THE PAG by Nina Bawden,1995
ニーナ・ボーデン/作 こだまともこ/訳
偕成社
2002

版元語録:皮ジャンパーでハーレーをぶっ飛ばすおばあちゃんの愛情につつまれてくらす少女、キャットの「家族ってなに?」

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ブルーイッシュ

『ブルーイッシュ』
ヴァージニア・ハミルトン/作 片岡しのぶ/訳
あすなろ書房
2002

ねむりねずみ:いい本でしたね。絵も含めて、かわいらしい感じ。ブルーイッシュという言葉がキーになってますよね。ドリーニーが青いからブルーイッシュなんだ、という場面があって、そのあとお母さんのせりふで「ブラックとジューイッシュを合わせた言葉」がというのがわかるという順番に、ちょっとだまされたような気がした。そんなに読みごたえがあるとか、感心してしまうというほどの本ではないけれど、主人公の女の子がかわいくて、何かやりたいけれど、戸惑ったりもするところが、いかにもその年頃。全体にこじんまりしたイメージだったけど。あと、いろんな子が出てくるじゃないですか。いろいろな民族の人がいて、多様ななかで育っていく感じがアメリカだな、ニューヨークだな、いいな、と感じました。
最後の終わり方も、いろいろ書いたノートを本人にあげるのが、ほんわかしていい。場面としてはみんなで帽子をかぶるところが一番よかった。似合わないと思う子もいたりするんだけれど、みんないっせいに帽子をぱっとかぶるとお花畑のようにはなやぐというのがいい。

きょん:まず文体があまり自分としては好きになれなかった。多民族の世界があって、自分の生い立ちや背景があって作られた話だろうと思うのだけれど、それが淡々と語られていて、すべてを言いきれていない感じがした。よかったのは、最後、帽子をかぶるところだけ。なんか物足りなかった。

アカシア:私は一番最初に原書の表紙を見て、読んでみたいと思った本です。アメリカ版の表紙絵はディロン夫妻が書いていて、3人の肌の色の違う女の子が、みんな帽子をかぶっている。この話は3人の肌の色の違いが一つの意味をもってるんじゃないかしら。日本版にもこの絵を使ってほしかった。日本語版の絵も絵としてはいいと思うけど、物語としての意味を考えると原著の表紙のほうがいい。ブルーイッシュという、ブラック(黒人)とジューイッシュ(ユダヤ人)の混血っていう、それ自体が差別的な言葉を敢えて使ってますけど、それを超えたところに成立する人間の関係が、日本語版の表紙だと見えてこないのが、残念。

きょん:そう、私が物足りなかったのは、そういうテーマ性が埋もれてしまっているところ。

カーコ:好きなお話でした。ハミルトンは『雪あらしの町』(掛川恭子/訳、岩波書店)しか読んだことがないのだけれど、あれも肌の色や路上生活者をめぐる問題がでてきたから、人種やそういった社会のマージンにいる人々の問題をこの作家は追いかけているのかなと思って読みました。でも、日本の読者には、こういうユダヤ人に対する微妙な感情は推測できなくて、わからないかもしれませんね。この主人公って11歳ですよね。だけど、文章を読むと主人公たちがもっとおとなっぽい感じがしました。なのに、この表紙のイラスト。私には文章とイラストのイメージがしっくりきませんでした。特にヒスパニックのトゥリなんて違うかなって。装丁が大人っぽいのは、本としては大人向けに作ってあるから?

何人か:子ども向けでしょう?

カーコ:文章でもう一つ気がついたのは、三人称だけどすごく一人称っぽいですよね。ときどき混乱してしまった。地の文の中に、主人公の思ったことが、いきなり入ってくるところが多くて。

アサギ:このごろそんな書き方は多いわよ。視点を変えていくっていうのかしら。そんなに新しい手法っていうのでもないけど、最近多いみたい。

:どんな作品も好きになろうと思って読む努力をしているんですけど、今回の本の中ではこの作品がいちばん印象がうすかった。すっと読んじゃうと、ただ病気の子と、最後友情で仲良くなりましたというだけになってしまいそう。翻訳ものを大人になって読むと、子どもの生活を描きながら、むこうの生活がほの見えてきますよね。たとえば、アパートの入り口のドアにも鍵があって、ドアマンのおじさんがそれをあけてくれて、子どもが一人でアパートの外に出ると父親がとても心配するような環境があるとか、ドリーニーたちは、学区で区切られているんじゃなくて、こんなふうな自由な学校に通えるんだなとか、そういう場所があるのを知るのっておもしろいですね。あと、やっぱり表紙のこと。こないだみなさんがのれなかった『ハルーンとお話の海』も原書と表紙を変えていて、原書の表紙のほうがずっとよかったというのがありましたが、これもそうでしょうか。プルマンの作品もそうだけど、宗教が身近にある人だとすっと読めるのでしょうか。このお話のように多民族や宗教が混じった中で暮らしている子どもなら、ずっと違和感がなく読めるのでは。

アサギ:そう、日本の子どもにとって宗教は大きな壁ね。

:宗教がテーマになってくると難しくて、脳天気に読めないですよね。


トラベリングパンツ

『トラベリングパンツ』
アン・ブラッシェアーズ/作 大嶌双恵/訳
理論社
2002

アサギ:これは結構おもしろく読んだんですけど、19カ国に訳されていると聞くと、逆にそれほどかな、と思った。

アカシア:映画化の話があって、あちこちで翻訳されたのかも。

アサギ:思いつきというか、アイデアがいいというか、次々といろんな話が出てきて、人間の書き分けもできているけど、先が読めてしまうところがある。たとえば、ティビーとベイリー。知り合ったところで、敵対してつっぱねるけど、嫌い嫌いと言いながらきっとあとでお友達になるパターンなんだろうなと思ったし、カルメンがお父さんに会いに行くところも、きっとお父さんには新しい女の人がいるなと思ったら、そのとおり。それとレーナとコストスの出会いもやっぱりで、予定調和というか、意外性がなくて物足りなかった。お手軽なストーリー展開だれど、それでも飽きずに読めたというのは、作品として感じがいいってことなのかしら。構成力もすぐれてますよね。母親同士は友情がうすれていくけれど、娘たちは魔法のパンツで結ばれている、だれがはいてもぴったりはけてしまうパンツ。

ねむりねずみ:3冊の中では一番すらすらと読めた。いきのいい女の子が4人出てきてて明るい。最初のところで、ジーンズをはいたらみんなにぴったりきちゃうというのが、「これは物語なんですよ、フィクションの世界なんですよ」という約束ごとのようで、仕掛けとしてうまいなと思った。誓いの言葉をいうところも、いかにもこの年頃の子が好きそうだし。4人がそれぞれいろんな問題を持ち、それぞれ違ったキャラクターで、そのあいだをジーンズがつなぎながら夏休みが展開していく。ころころ変わっていくのを、「ふんふんふん。なるほど、なるほど、おもしろいねえ」と読み進んだ。
確かに予定調和的な話だけど、後ろのほうになってくると、ティビーが友達の死という喪失を受け入れる場面が強く印象に残りました。ビデオで映画を作るというのもおもしろい。なにしろおもしろさですらすら読めちゃった。よくできてるな、カルメンが自分の内面をお父さんにやっとぶちまけるとか、ティビーが喪失をうけいれたりするところも、ちゃんとうまくできているな、よかったよかったと読み終わった。最後のところで、レーナがブリジッドを心配してとんでいくんだけど、ブリジッドのほうは話すことがなくなるというのも、なるほどそういうことはある、と納得。ともかく、これはこの年代の女の子のお伽噺だと思う。予定調和的な軽さだけど、同世代の子にすれば、「そうだよね。そう、そう」と入れ込んで読める。

きょん:理論社のこのタイプの本はおもしろいから、すごく期待して手に取ったんですよね。表紙もお金がかかってて。

アカシア:そうそう、透明のジーンズが印刷してあるすてきなしおりがついてるでしょ? これもお金かけてるよね。

一同:ええーっ、そんなの入ってた?

アカシア:わたしのには入ってたよ。当たり外れがあるのかな?

きょん:トラベリングパンツという名まえもいいじゃないですか。主人公の女の子みんなにぴったりする御守りみたいなパンツでしょ。でも読み始めたらつまんなくて、途中でやめてしまいました。でも、同世代の子だったら、面白く読めるのかな。コバルトブックスみたいに。アイデアも面白いし、設定も面白いから、ストーリー自体ももうちょっとわくわくさせてくれたらよかったのにな。

アカシア:私は、けっこうおもしろかった。学生なんかと本を読んでると、とにかく『トムは真夜中の庭で』(フィリパ・ピアス/著 高杉一郎/訳 岩波書店)よりハリポタの方が面白いという子が多いんですからね。そういう子たちには、この手の作品も受けるだろうな、と思いました。「文学」だと思って読むと、いかにもお手軽なストーリー展開だと批判も出るけど、子どもにとっては、自分が結末を想像できるっていうのも読書の楽しみの一つなんじゃない? 文学っていうことを考えると、たとえば一つのきっかけでいろいろな子どもが物語を語っていくという設定でも、アン・ファインの『それぞれのかいだん』(灰島かり/訳 評論社)のほうがずっとよくできているとは思うけど。

ねむりねずみ:この本は作りもおしゃれだよね。題名がカタカナだし。

アカシア:前は、書名をカタカナにすると地方ではあんまり売れないよ、なんて言われたけど、今は違うのね。

きょん:ネットでみると、この本にはダーッとコメントがはいっているんですよね。同世代の子たちの書き込みがすごく多い。4人の主人公に自分を投影して読んでるなという感じ。

アサギ:でも、あの爪の長い女店員がベイリーのことを話すエピソードなんか、ベタすぎると思うけどなあ。

アカシア:イギリスで読書運動をやってるマーガレット・ミークは、「ハリーポッター」を読んだ子が次にプルマンにいくと行ってハリポタも評価してるそうですけど、一般的にいって、お手軽なエンタテイメント読書が、次には文学を読むようになるんでしょうか?

きょん:本を好きになるっていうのは、小さい頃からたくさん本を読んだりしてきた積み重ねがあってのことでしょう?

:「ハリーポッター」を読んだ子が、ほかの本にいくというのはあるみたい。

アカシア:でも、「ダレンシャン」どまりってことはないの?

カーコ:私は4人の女の子が魔法のパンツで結ばれて、バトンタッチしながら話が進んでいくという構成がおもしろいなと思いました。人物がかわるところに顔のイラストが入っていたり、手紙で次につないであったり。それに、この世代の女の子を応援しているような書き方ですよね。読んでいると、この4人のうちのだれかに親近感をおぼえたりする。私の場合は、ティビーがおもしろかった。

:本屋さんで見て、まず「わー、きれいだ」と思いました。この年頃の子は、わくわくして読むんじゃないかな。でも、小道具としてジーンズをはくっていうのが、女の子のベタベタした友情っていうのか、一部始終手紙で伝えて「友達よね」って確認するみたいなのが、個人的には受け入れにくかった。4人が親友っていうお話は少ないですよね。2人っていうのはあるけど。でも、儀式とか、それぞれに「私の気持ちよー」みたいに手紙を書くっていうところは、もういいっていう感じ。手紙の場面にくるといらいらした。

アカシア:こんなふうに友だちをつくることができる人は、文学なんか読まないかも。でも、私はそんなにベタベタした関係とも思わなかったのね。お互いの個性は認めているし、それぞれ違うし。

:でも、「はじめて夏休みをばらばらにすごすなんて」ってことは、いつも夏休みはいっしょに過ごすってこと? こういうのが私はいやだった。でもまあ、そんなふうなことを感じながらも最後まですらすらすらすらと読めた。だから、15歳くらいの子は、どの子にもなって、それぞれの持っている感じを自分の中に感じながら読めるんじゃないかなって思いました。

アカシア:予定調和的なのも、大衆路線的なおもしろさなんじゃない? 橋田寿賀子のドラマみたいに。

:これは文学じゃなくて読みものですね。子どもの本のなかにも、文学、読みものとかいろいろあっていいのではないでしょうか。


樹上のゆりかご

『樹上のゆりかご』
荻原規子/作
理論社
2002

アサギ:私ね、これだめだったの。半分も読めなかった。だめと思ったら、最後まで我慢して読むのは時間がもったいない。でもね、こないだも『インストール』(綿矢りさ/著、河出書房新社)っていうのを読んだんだけど、この作品が作品としてだめなのか、書いてる世界が自分の嗜好に合わないのか、どっちだろう、って思うわけ。『インストール』はひきこもりの話で、普通の高校の風景を描いているんだけど、私こういうタイプのはだめなのかも。とにかく、好きでないっていうのか。

ねむりねずみ:すあまさんが、この本を選んだとき、「私は都立高校だったからおもしろかったけど」って言ってたでしょ。私、おそらくこの高校の卒業生なので、クラス分けから、行事から、先生の名前までわかる。私自身もこの学校に入ったときに、なんだこりゃって思った覚えがあるから、この人がその感じを書きたかった気持ちはすごくわかる。これって、30年くらい前でしょ?

アサギ:設定は今よね。現実の高校生とどこまでダブるのかわからないけど。

ねむりねずみ:でも、回想ものですよね。だから、「樹上のゆりかご」っていう感じもよくわかる。

アサギ:この題名、どうなのかしら。図書館で、「じゅじょうの」っていっても、「えっ」て何度も聞き返された。

ねむりねずみ:ともかく、私は、そうそう、こうだったなあ、と「卒業生の同窓会」的に読んじゃったところがあって、あまり突き放して判断できてない。で、作者が何を書きたかったかというと、「名前のない顔のないもの」について書きたかったんだろうと思うのね。そのために、有理を登場させ、事件を起こし……。でも、無理があるんですよ。有理の登場も、木に竹をついだような妙なことになっていて。この人は今の子を描くとかそういうんじゃなくて、自分の高校時代を書きたかったんでしょうね。ミステリーとからめて。

アサギ:私も都立高校だったけど、女子が多かったから全然違う。

きょん:私も都立高校で、むかし女子校だったところだけど、学風としては立川ととても似ている。そうした実体験とは別に、私は学園ものが好きだから、これもおもしろかった。でも作者は、違和感のある「名前のない顔のないもの」を書きたかったのだろうけれど、それは失敗している。その正体を作品の中で具現化できなかったので、読者も消化不良になってしまう。でもね、3冊比べて、お話の筆力という点を考えると、私はこの本がいちばん質が高いという気がしました。今の高校生だって、こんなふうじゃないんでしょうか? 私が高校のときは、学園祭とかもりあがって、結局みんな浪人しないと大学に行けなくなってしまうっていう、そんな世界だったけど。

アカシア:私はね、荻原さんのファンタジー3部作(『空色勾玉』『白鳥異伝』『薄紅天女』)は好きなんですけど、『これは王国のかぎ』やこの作品はだめだったんです。文章がうまいとは思えないの。でも、その辺は、読者の私との相性の問題かもしれませんね。だけど、『トラベリングパンツ』と同じ読者層がこれを読めるのかしら? 荻原さんにはファンの固定層がいるから売れてはいるんでしょうけど。

きょん:違和感の正体が具現化されていたら、読めたんじゃないかな。

カーコ:作品としての質が高いというのは、私も思った。だけど、どれだけの高校生がこれをおもしろいと思って読むのかは疑問だった。確かに高校生くらいのときは背伸びをして知ったかぶりをしたがるというのもあるけど、オスカー・ワイルドのサロメときいて、「あの、ビアズレーの悪魔っぽい挿し絵のつく」なんてすぐ答えるような高校生っているかしら、って思ってしまった。それに、「名前のない顔のないもの」というのが、結局最後までよくわからなかったし、有理さんはすごく病的で、高校生がここまでするかって感じだったし。

ねむりねずみ:作者が「名前のない顔のないもの」を描ききれていないから、有理さんを登場させないといけなくなったんじゃないかな? 顔のないものが何なのかが立体的にいろんな側面から伝わってこないから、しょうがない、有理さんを出した。でも、有理さんの行動のモチベーションはあくまでも私的なものでしょう。だから無理が出ちゃう。

きょん:きっと、「名前のない顔のないもの」の正体をはっきりさせてくれれば、男社会の中の女の人とか、共感する人はもっといるんじゃないかな。

:私は地方の県立高校だったけど、この空気はとても似てるんですよね。中学まではそこそこだったのに、高校になったら、こんな順位とったことないやというような成績をとって、高校の世界からちょっと身を引いて傍観者的になっているっていう子ですよね、この子は。でも、忙しいんですね、都立高校って。こんな次から次に行事があるんですね。みなさんもおっしゃってたように、「名前のない顔のないもの」というのが、ぜんぜん前に出てこなくて、この女の子の恋愛というかストーカーみたいなので終わってしまって、なんなんだろうって思いました。パンにかみそりを入れるのも、キャンバスを燃やすのも、みんなこの女の子がやったんでしょ? でも、この女の子が壊したくてやったんですか? 最後まで、今一つ納得がいかない本でしたね。ほんとこれ、今の子じゃないよ、携帯電話とっちゃったら。私、この最初の「中村夢乃、鳴海…」って名前が並んでいるのを見ただけでもうだめ。わざとらしいっていうか。

アカシア:今はこれが普通の名前なんじゃない? もっとも私はこの作品の文章全体に違和感があるんだけど。

カーコ:でも、それってこの作家の文章がそれだけはっきりあるってことですよね。

アカシア:ここに書かれてるのって、もしかしてすごいエリート意識じゃない?

全員:そうそう。

アカシア:それも、ちょうど高校生くらいのエリート意識よね? 普通だったら思い出したも恥ずかしいようなものだけど、どうしてわざわざ書くのかな?

ねむりねずみ:それで、作者はそのエリート意識をつきはなしきれていないんじゃないかな? それにしても、自分にとってすごく思い入れのあることを書くっていうのは、難しいですね。中にいた人間の雰囲気はすごく再現されているんだけど、それで終わっちゃってる。


2002年09月 テーマ:少女たちの友情

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『2002年09月 テーマ:少女たちの友情』
日付 2002年9月26日
参加者 アカシア、アサギ、羊、ねむりねずみ、きょん、カーコ
テーマ 少女たちの友情

読んだ本:

『ブルーイッシュ』
原題:BLUISH by Virginia Hamilton,1999
ヴァージニア・ハミルトン/作 片岡しのぶ/訳
あすなろ書房
2002

版元語録:自由な教育方針の学校に転入してきたばかりのドリーニー。学校の雰囲気には戸惑っちゃうし、友達と呼べるのはまだテュリだけだけど、1人、気になる女の子が…。ニューヨークに生きる女の子達のシンプルな友情の物語。
『トラベリングパンツ』
原題:THE SISTERHOOD OF THE TRAVELING PANTS by Ann Brashares, 2001
アン・ブラッシェアーズ/作 大嶌双恵/訳
理論社
2002

版元語録:仲良し4人組の少女たちが16歳を目前に初めて別々にすごす夏休み。一本のジーンズが4人の間を「旅して」まわる。誰がはいてもぴったりフィットする不思議なジーンズをめぐる、温かくも哀しい4つのラブストーリー。
『樹上のゆりかご』
荻原規子/作
理論社
2002

版元語録:元男子校としての気風が色濃く残る都立辰川高校に入学した上田ヒロミは、女子を疎外する居心地の悪さを学校生活の中で感じるようになっていた。そんな折り、合唱コンクールで指揮をした美しい女生徒の出現をきっかけに、校内で次々と事件が起きだし……。青春の残酷さと、伸びやかさを描く学園小説。

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未来のたね〜これからの科学、これからの人間

『未来のたね〜これからの科学、これからの人間』
アイリック・ニュート/作 猪苗代英徳/訳
NHK出版
2001

トチ:『世界のたね』の続編ね。厚い本でたいへんと思ったのだけど、読み出すとおもしろかったわ。考え方のバランスがとれている本でしたね。現在と未来、いいことと悪いことのバランスが取れてる。入門書としては、よい本だと思います。この中でおもしろいと思った事柄については、また別の方面につながっていくだろうし、子どものための知識本としては優れていると思う。大人が読んでも知らない知識もあったりして、1冊私もほしいなと思ったくらい。たとえば、昆虫ロボットが夜中にシーツを集めにくるなんてところは、ユーモアがあったわね。私が子どものころは、お正月の特大号の子ども欄に必ず未来の予想図なるものがあって、ビルの上に縦横に高速道路がはりめぐらされて、ロボットが大活躍している漫画が出ていたの。今の子どもたちはどんな未来予想図を描いているのかしらと、この本を読んで考えさせられました。それから、「農業イコール健全なもの」と漠然と思っていたけれど、農業とは自然との戦い、いってみれば反自然だという個所を読んで、目がさめたような気がしました。

ペガサス:この著者が、子どもに向けて語るという姿勢をきちっと持っているということがいいと思いました。問いかけてくるので、読者の子どもに考えさせていく。論の展開もわかりやすくて、「○○というのは簡単にいえば、〜ことだ」とまず言ってから入っていくので、とらえやすい。関心がもてるテーマを見つけられれば、テレビや新聞を読んで、またひろがっていく機会になると思う。こういうものは、その後同時多発テロが起こったりして、どんどん内容が古くなっていくんだけど、最後に作者からのメッセージがあって、自分で自分の本の価値を言っているのがおもしろかった。この時点に生きた人間がどういう未来を描いたのかというところが、いいのだってね。

紙魚:ふだん、自分の知識を体系づける機会はないのだけど、こういう本を読むと、ぱらぱらとした知識が折りたたまれていいものだなと思った。こういう本って、日本のものはなかなか見当たらないですよね。作家の世界観がそのまま出るし。なかなか自分からは読まない本なんだけど、読んでみるとおもしろい。

アサギ:ただ、本のつくりが読みづらい印象をうけました。

すあま:注を読むリズムがつかめないんですよね。かといって、割注でも難しいだろうし。前半は、警告するような内容で、後半はSFっぽい夢のある話へとつながっていく。私の知識がないこともあり、この人が考えたことなのか、他の科学者が考えたものなのか、区別できないところがありました。

トチ:けっこう子どもの方が、こういう科学ものを読みなれているのかもね。

すあま:いずれ内容が古くなるというのを作者はわかっていて、この本に書かれている作者の予測が実際はどうだったのかを後から読むほうがおもしろいんだよ、と言っているところが、うまいなあと感心しました。また、SFを書くなら、『2001年宇宙の旅』(アーサー・C・クラーク/著 伊藤典夫/訳 ハヤカワ文庫)みたいに年号を入れないほうがいいというのにも、なるほどと思いました。副題の「これからの科学、これからの人間」というのは、ちょっとカタイので、手にとりにくいですよね。

アカシア:『ソフィーの世界』(ヨースタイン・ゴルデル/著 池田香代子/訳 日本放送出版協会)と同じように、これは原著がノルウェーですよね。ノルウェーの人って、こういうふうに世界を読み解くのがうまいのかしらね。日本人には子ども向けのこういうのは、なかなか書けないのかも。私が子どもの頃は、科学はすばらしくて未来は夢のようだと信じていたけれど、今はそういう時代ではない。で、子どもにどういう未来像を渡すことができるのかわからないでいたんだけど、そうか、こういうふうに書けばいいんだなって感心しました。「ウイルスは生命体ではなく、メカニックな生き物」なんていうことは、全然知らなくて、えっそうなのと驚いたり。ただね、「ナノマシン」なんかは、わずかなマイナス面しか書かれていないんだけど、本当はもっと問題があるんだろうな、と思ったりもしました。宇宙ステーションだって、作るといろんなところにいろんな影響が出ていくんだろうな、と。未来のシナリオが、3バーション用意されているのは、おもしろかった。

ねむりねずみ:表紙見て中を開いて、教科書みたいだなと思いました。文章は読みやすいんだけど。科学技術の発達とか暗い面とか未来について萎縮せずに書かれているのはなるほどと思いました。これからの人類のシナリオのどれを選ぶかは一人一人の主体性にかかっているというあたりは、賢者クラブといわれていたローマクラブを引き継いでいろいろな警鐘を鳴らしているブダペストクラブの人と同じ姿勢。ただ、最近その手の物を続けて読んだので、またか、という感じもしちゃった。物語という感じでもないし、どういう場面でどういう人たちに読まれるのかわからない。あんまり魅力を感じなかったです。

すあま:おとなが紹介しながら子どもに渡さないといけない本ですよね。

ねむりねずみ:たしかに、おとなは今までの歴史などについての知識の重みで悲観的になってしまいがちだけれど、子どもはそのマイナスがないぶん元気がある。だから、未来は君たちにまかされているんだよと提示するのは大事ですよね。

すあま:「NHKスペシャル」とかでとりあげて、番組がつくれそうですよね。やっぱり、ノルウェーって冬は夜が長いから、こういうことをじっくりと考えるんでしょうね。

トチ:科学においても、文学をはじめ文化芸術においても、北欧って日本にはまだまだ紹介しつくされていないものがどっさりある宝庫かもしれないわね。


こっちみんなよ!

『こっちみんなよ!』
千石正一/文・写真
集英社
2000

:私はこういうの、ページを開けないくらい苦手なんです……。よっぽど好きな人でないと、こういう表情の写真は撮れないのはわかるのだけど、気持ちがしっかりしてる時でないと、気味悪くて……。

アサギ:私も爬虫類が好きじゃないのだけど、おもしろかった。また、写真がセリフと合っているのよねー。特にタイトルの「こっちみんなよ!」というのが秀逸。きっと、子どもは好きよね。犬や猫は哺乳類だから表情があるのはわかるけど、爬虫類もこんなに表情が豊かなのね。それほど写真が優れているってことでしょうね。

アカシア:千石さんて、ほんとに詳しくて、この本は千石さんじゃなければ作れない本だったと思います。爬虫類って好きじゃない人が多いんだろうけど、この本は気持ち悪いと思わせないで、親しみを感じさせる。

トチ:でも、どんなにかわいいカエルでも、体のねばねばしているのは毒なんだって。だから、カエルに触ったら必ず手を洗わなくちゃいけないって、別の研究者が言ってたわよ。

すあま:最初タイトルだけ見たとき、「こっち みんな(皆)よ!」だと思っちゃったんです。こういう本は、下手をすると作者の意図がみえみえでつまらなくなる場合があるけど、これはうまくいっていると思います。解説も特になく、図鑑じゃないとはっきり言っているところがいいのかな。研究者ということですが、写真家としても腕がいい。職場でみんなに見せたら、人によっておもしろがるところが違った。一人で見ていてもおもしろいけど、みんなで一緒に眺めてもおもしろい。素直に楽しめました。

アサギ:爬虫類ってこんなにおもしろいって思わせるきっかけを作ってるっていう点では、かなり意義あるわよね。

ペガサス:これだけたくさん撮っている専門家だからこそ、遊んでみたかったのかもね。言葉は、ちょっと人間が勝手につけたと思えなくもないところもあったんだけど。まあ、おもしろかったことはおもしろかった。写真をつかった本で、たとえば、この『猫の手』(坂東寛司/写真 ネスコ)っていう本は、猫の手だけを写した写真集なんだけど、私はむしろ勝手なセリフがつかないこっちのほうが好き。これだって、猫の好きな人しか見ないけどね。『こっちみんなよ!』は、『ふゆめがっしょうだん』(冨成忠夫・茂木透/写真 長新太/文 福音館書店)なんかと似てるけど、セリフはちょっと大人っぽいわよね。

トチ: 私は小さいときは「虫めずる姫君」というあだながついていたほどの虫好きで(姫君の部分は?でしたけど)、もちろんカエル、イモリ、ヤモリの類も大好き。だからかもしれないけれど、このセリフはもちろん本人(本動物)が言っているわけじゃないし、本人の気持ちとはまるで逆かもしれない・・・そこがちょっとひっかかったし、なんだかかわいそうな気がした。

ペガサス:私もけっこう虫とか好きだったわ。私は中学のころ生物クラブに入っていて、実験材料とかを大学にもらいにいくと、研究室の箱の中にいっぱいヒキガエルが入っていて、それを手づかみで取ったりした。カエルは全然平気。だから私もトチさんと同じように、勝手なことを書いて、という気もした。

アカシア:でも、虫が好きなんていうのは、ペガサスさんの世代で終わりだと思うな。今の人たちは、もう犬とか猫とかペットじゃない動物は駄目な人がほとんどよ。そういう子たちには、この辺から入ってもらうのがいいんじゃない?

紙魚:そうですか。私は、小さい頃も今も、動物とか昆虫ものとかけっこう好きなんですけど、この本はちょっと物足りない感じでした。わーおもしろいなあっていう気分だけじゃなくて、もっと生態とかを深く知りたくなる本のほうが好きです。セリフひとことだけでは、満足できませんでした。

ねむりねずみ:私は買いたい派です。確かにセリフは後付けなんだけど、ほんとうに虫が好きな人は虫を虫とも思っていないだろうから。これをいっしょに読んで笑いたい人の顔がすぐに浮かびました。
(この後、各人の幼少時代の昆虫話が続く、続く、続く……)


ネモの不思議な教科書

『ネモの不思議な教科書』
ニコル・バシャラン&ドミニク・シモネ/作 永田千奈/訳
角川春樹事務所
2000

ねむりねずみ:うまい設定だなって感心しました。学問体系をそっくり丸ごと提示するのに、何もかも忘れちゃって感情すら忘れちゃった子どもという設定を考えついたのはうまい。お説教にもなってないし。これは、学者と雑誌の編集者の二人で書いているけど、物語としてへーそうなんだと納得できるのもよかった。最後、音楽で記憶が戻りますよね。物語としても読ませるけど、歴史とか人間の営みを作者がどうとらえているかがもろに出てるところが面白かった。音楽を、人間の言葉にならないところに訴えものと捉えているんだなと納得しました。最初の設定がきいて、議会でこの子が変なことをやっちゃうのも自然にうつるし、かなり感心して読みました。「夏休み中の子どもたちに大評判の一冊」というのもうなずけますね。あちらのノンフィクションを翻訳で出すのって、結構難しいと思うんですが、その点でも、フランスの本を訳すときの配慮を感じました。

:染色家で実際に記憶をなくされた方がいらっしゃいますよね。ごはんの食べ方も言葉も家族の顔も忘れちゃっているの。その方のことを思い出しました。気に入らなかったのは、テレビの取材という設定。この子が全部なくしてしまって、それをとり戻す話なんだけど、だからこそ浮かんでくる質問があったりして、その純粋さにうたれました。ネモがいとおしく思えた。

紙魚:記憶をなくすというというのにはリアリティは持てなかったです。もしも本当に記憶をなくしたら、こんなあっさりではすまされないはず。ただ、物語としては読みやすかったので、これは世界を読み解くための設定だと割り切れました。今回、『未来のたね』と『ネモの不思議な教科書』の2冊を読んで、巨視的な視野を持つということの大切さを感じました。なかなか日本では、歴史でも数学でも大枠で見る訓練をしないので、こういう本は生まれにくいですよね。

ペガサス:私も設定はうまいなとは思ったんだけど、途中の大人と子どもの会話が作為的でつまらなかったのね。こう続くと辟易しちゃう。さっき、羊さんはこのネモがピュアとおっしゃっていたけど、私には大人にとっての純粋な子ども像を押しつけられたように感じた。

アカシア:私は両方読む時間がなかったので、少しずつ最初の方を読んで『未来のたね』の方を読もうと決めたのね。こっちを読まなかったのは、ネモと女の子が出てくるあたりが、中途半端な作り事に思えたから。もう少し物語としてもきちんと書かれていれば、違っていたかも。

ねむりねずみ:私はともかく努力を買っちゃう。こういうのって味気ない知識ものになりがちで、物語にまとめるのはかなり難しいから。

トチ:ヨーロッパの歴史を調べるのなら、『ヨーロッパの歴史—欧州共通教科書』(フレレデリック・ドルーシュ/総合編集、木村尚三郎/監修、花上克己/訳、東京書籍)がいちばん便利。ヨーロッパの青少年のためにドイツ、イギリス、デンマークなど12カ国の歴史家が共同執筆したもので、1992年にEU加盟国で同時出版された分厚い本だけれど。それはともかく、この本には、よく言われる「子どもは未完成な大人」というフランス人の子ども観があらわれているのかしら?

ねむりねずみ:でも、そんなには教え込む姿勢が強いわけでもないですよ。おじさんもそう大人じゃないし。

トチ:日本には『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎/著 岩波文庫・ポプラ社)っていうのがあるわよね。

すあま:日本でこの手のもの、といったときに未だに『君たちはどう生きるか』が出るっていうことは、その後すぐれた新しい本が出ていないということなんでしょうか?


2002年07月 テーマ:ノンフィクション

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『2002年07月 テーマ:ノンフィクション』
日付 2002年7月25日
参加者 ペガサス、アカシア、トチ、すあま、紙魚、羊、アサギ、ねむりねずみ
テーマ ノンフィクション

読んだ本:

『未来のたね〜これからの科学、これからの人間』
原題:FREMTIDEN by Eirik Newth,1999
アイリック・ニュート/作 猪苗代英徳/訳
NHK出版
2001

ソデ語録:人口爆発、環境汚染、食糧不足によって、人間は近い将来絶滅する。そんな予測もいまや無謀な考えではない。現代人は、地球の未来に責任がある。科学は未来を救うことができるだろうか? 大きな可能性を秘めた科学の力を正しく発展させて、環境を保護し、美しい地球を未来に残すことが、現代人の使命だ。その使い方を誤れば、一挙に地球滅亡へと進むことも考えられる。ミクロの科学技術から宇宙開発まで、現代の最先端科学をわかりやすく解説し、これからの人間の生活がどうなるのか、あらゆる可能性を探ってみる。子どもが読んでも、おとなが読んでも、楽しくためになる科学読みもの。
『こっちみんなよ!』
千石正一/文・写真
集英社
2000

著者のはじめの言葉:爬虫類だの両生類は無表情で何を考えているんだかわからない、とよくいわれる。しかし無口だがこれらの動物もしゃべらないわけではない。ずっとじっくりつき合っているとときおり話している現場に出くわすことがある。これはそういう現場を集めてみて、人間のことばに翻訳してみたものである。
『ネモの不思議な教科書』
原題:LE LIVRE DE NEMO by Nicole Bacharan & Dominique Simonnet,1997
ニコル・バシャラン&ドミニク・シモネ/作 永田千奈/訳
角川春樹事務所
2000

ソデ語録:ネモは、あなたたちの兄弟のような存在です。この不思議な星で、少しでも人間らしく生きるために大切なことを、あなたたちに伝えたくてこの本を書きました。——ニコル&ドミニク

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人食い〜クラウス・コルドン短編集

クラウス・コルドン『人食い』
『人食い〜クラウス・コルドン短編集』
クラウス・コルドン/作 松沢あさか/訳 いよりあきこ/絵
さ・え・ら書房
2002.01

アカシア:短いのも長いのも、書きこんだのもそうでないのも、いろんな話があるわね。子どもの人生の場面を切りとっていくという意味では、鋭い短編集。個別に言うと、「クラゲ」で、マヌエルがいじめられていて、インゴがそばからみていて悩むんだけど、最後ちょっと臭い台詞を言って仲良くなるところは、紋切り型のような気がしたな。「一輪車のピエロ」は、とってもよくできた、好きな話でしたね。最後の「クラスのできごと」は、「ひとのことは<みにくいアヒルの子>なんていうけどさ、子どものうちはみんなアヒルかもね」という言葉が、どういうニュアンスかわかりにくかった。訳は、全体として今の子どもの会話風にしたほうが面白くなったように思います。

紙魚:装丁からして、ちょっと入りにくい本でした。タイトルも、センセーショナルな『人食い』なんていうものだし。こうして読む機会がなければ、なかなか手にとらない本です。読んでみれと、どの話も暗い影がありながら、ふーむと心をゆらされる部分があったりして、なかなかよかったです。ただ、本のつくりが、こうも突き放した感じなので、もったいないと思いました。作家と読者がもっと近づく装丁だとよかったのに。タイトル、ハシラの入り方なんかも、かなり気になりました。

ペガサス:短編集としては好きな本。全体として共通カラーがあって、まとまった印象をうける。主人公の子どもたちが、親をなくしていたり、障害のある妹をかかえていたり、貧しかったり、彼らの日常は胸を痛めるのだけど、別の方向から光があたって、ささやかな幸せがもたらされるというのが描かれている。希望がもてるといったことを描いているのがよくて、それが全体のトーンにつながっているのかなと思った。

アカシア:ただ、ピアスとはちがって、コルドンは、かなりつきはなしていると思うのよね。ピアスの短篇では、人間と人間の関係があったかく描かれているんだけど、「人食い」に登場する人間たちはどこかさみしいし、喪失感を訴えてくるような印象。

ペガサス:コルドンは、あったかいというよりは、別の方向から光があたるという感じ。児童文学のありきたりな子ども像というのではなく、あるところでは大人よりさめている。「飛んでみたいか?」なんて、お父さんのうえをいっちゃってるじゃない。大人より大人びているよね。「窓をあけて」も、今までよくあるパターンは、受け入れられなくて反発するというのがあるんだけど、あの子は、自分でのりこえて窓をあけたわけじゃない。

アカシア:アン・ファインなんかには、そういう子がよく出てくる。大人より一段上に立って状況を判断できるような子どもがね。今の社会って、大人が子どもっぽくなるのに比べて、子どもは早くから大人になることを強いられてるのかも。子どもは受難の時代だね。

カーコ:好きな作品じゃないんだけど、問題を投げかけてくれるタイプの作品だなと思いました。さまざまな切りとり方で、いろんな人生を見せてくれる。出てくる家族も、移民であったり孤児であったり、両親と子どもというような古典的な家族像にはあてはまらなくて、どこか社会から疎外されがちな人々が描かれていて。それぞれの短編の終わり方も、希望を持たせるような終わり方と救いのないものが半々。
ひとつ気づかされたのは名前のむずかしさ。ドイツ語の名前はなじみがないから、男か女かわからないまま途中まで読んで混乱してしまうことがあった。訳すときに、男の子か女の子かを最初にさりげなく示唆するようなことが必要かも。それに、ここに出てくる名前の中には、ドイツ人の読者が読めばパッとドイツ人じゃないなとか、ギリシャ系だなとかわかるのかもしれないけど、日本人にはわからないものも多い。そういう見えない意味や文化っていうのは、どうやって出せばいいんでしょうね。
訳のことをいえば、10歳の子が「父が」って言うのは違和感をおぼえました。全体として子どもが大人びている印象だった。それと文体についてですけど、現在形が続くのは意図的なのかな。原文で、過去のことを現在形で書いてあるからなのかもしれませんけど、この本では少しひっかかりました。

アカシア:原文が現在形で書かれているとすれば、そこには作者の意図があるんだろうから、やっぱりできるだけ現在形で訳したほうがいいんじゃないかな。

ももたろう:そもそも装丁から手に取りたくない感じ。子どもは、この『人食い』ってタイトルで読みたくなるのかな。きっと子どもが持つタイトルからの本への期待と、書かれているものは違ってしまうと思う。内容的には、子どもの不安定な気持ちの状態が細かく書かれている感じで、いろんな意味でばらばらっとした感触。イメージがつかみにくいですね。まるでモザイクみたいな印象でした。それに私たちの生活と匂いが違う。私は最初からとまどいがあった、これを子どもが読んだら、どこから入っていくのか読み込めないうちに終わってしまうのでは。表面的ではなくて内面的な子どもの姿が描かれていて、胸につんとくるようだった。そうそう、前から思ってたんですけど、短編って訳す時は訳者はどんな感じなんですか。

アカシア:短いから簡単ってわけじゃなくて、長編以上にちゃんと理解していないと訳せないんじゃない? 表面的に読んだだけじゃだめだしね。それから『人食い』っていう書名は、原書どおりなんだろうけど、ドイツ語ではもっとイメージがはっきりしてる言葉なんじゃないのかな。日本で「人さらい」って言えば、一定のイメージがあるみたいに。

ももたろう:そういえば、短編は出版社に売り込むのが、難しいですよね。

アカシア:でも今は朝の十分間読書なんかに使うのに便利だからって、需要があるんじゃない?

ペガサス:さ・え・ら書房といえば、『ミイラになったブタ』っていうとてもいいノンフィクションがあるけど、内容的には本当におもしろいのに装丁が硬い。さ・え・らは、装丁で損してる本が多いね。

ももたろう:装丁は大事ですよね。だいたいそこが最初の決め手だし。さ・え・らの「やさしい科学の本」のシリ−ズ、『カルメヤキはなぜふくらむ』の本とかは、おもしろかったんですけど……。やはり、さ・え・らは見た目が硬い本が多いですよね。

ペガサス:もうちょっと中学生が手にとるような装丁にすればよいのにね。

(2002年06月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


8つの物語〜思い出の子どもたち

フィリッパ・ピアス『8つの物語』
『8つの物語〜思い出の子どもたち』
フィリッパ・ピアス/作 片岡しのぶ/訳
あすなろ書房
2002.05

ペガサス:さすがピアスだけあって、情景もよくうかぶ。これば子どもを描いているんだけど、まわりの老人の方がとても印象的に残る。「ロープ」は入りにくかったし、描写によくわからないところがあった。部分的にうまいところもあるんだけど、3冊の中でいちばん印象がうすかった。

紙魚:ピアスの他の作品もそうですが、とってもていねいな印象をうけました。情景や感情の描写がたんねんに重ねられているので、物語のイメージがきちんと浮かびあがります。どの物語も、読み終わったあとに、ふしぎとあったかい心持ちになるというのも、すごい。きっと、ピアス自身が、子どもにも大人にも、そういう目線を持っているからなのでしょう。

ももたろう:子どもの頃の記憶を、大人になってもう一度堀り起こして書いた作品という感じがしました。書き方は子どもの視点なんだけど、何だか上から見下ろしている感じ。「チェンバレン夫人の里帰り」は、個人的に面白かったです、意外性もあったし。こういう作品を子どもはどういうふうに読むのかな。どちらかというと成長した人が、「あの時はこうだったよねえ」というイメージをもちながら読む作品なんじゃないかなあ。

アカシア:私は「ロープ」の子どもの気持ちもよくもわかって最初からひきこまれた。子どもの頃まわりの世界に対してもっていた感触がよみがえる短篇集。私は、けっこう生きづらい子ども時代を送ったんだけど、その頃こんな本があれば、もっと心を寄せて読むことができたのになあ、と思う。小学校の4年生とか5年生とかで、こういう本を読みたかったな。

カーコ:私も小さい頃読んだ日本の作家の作品は、出てくる子が妙に優等生的な気がして、だめだった。それで海外の作品にとびつくというところがあったかな。

アカシア:ピアスの短篇は、読み直すと、そのたびに味わいが深くなる。たぶんそれは、人間に対する作者のあったかさから来てるんだと思う。「夏の朝」なんかも、人生のある瞬間の感覚がちゃんと伝わってくる。おばあさんと子どものつながりも、ピアスのテーマの一つだと思うけど、彼女の書くおばあさんっていいよね。

カーコ:ひとりひとりの、その人だけが大切にしているものを描き出している気がしました。「まつぼっくり」のまつぼっくりも、「巣守りたまご」のネックレスも、ほかの人にはわからないけれど、その子にとっては特別な意味を持つとてもだいじなもの。「ナツメグ」の名前もそう。物とか物事がもつ個人的な意味が浮かび上がっていて、おもしろかった。「スポット」のおばあさんは、この話ばかりしてるんだろうなとか。

アカシア:「夏の朝」で、ニッキーがスモモの木の根元においたクレヨンを、難民の女の子が持ってってくれるでしょ。これがピアスなのよね。コルドンだったら、女の子はクレヨンを持っていかない。持っていかないってことで見えてくるものを書く。でも、ピアスは、人と人とがいろんな形でつながっていくということを書いてるんだよね。

ペガサス:そうね。主人公は、最初おじいちゃんちにいるのは気が進まないけど、3日間だけだから、つきあってやろうと思うわけじゃない。でも、物事がわかってくると、おじいちゃん、おばあちゃんへの態度がかわっていく。二人の会話とか物音が聞こえてくるというのをきちんと書いてて、伝わってくるよね。おばあちゃんが誕生日に何か買ってくれるといったから、とりあえず無難なクレヨンって言っておくわけじゃない。でも、それが最後ああいう形になってきいてくる。うまいよね。

アカシア:最後は、あのクレヨンだったらきっとすごい絵がかけるから、「そしたら『楽しいな』って思ってね!」って、ニッキーが女の子に心の中で呼びかけるのね。そこも、いいんだな。

ペガサス:この話の冒頭だったら、そうならなかったのよね。3日間を過ごしたからこそ、というのが、うまいよね。

カーコ:短編って、起承転結の妙で読ませる感じで、人物の描写については長編のようには深く切りこんでこないように思うんだけど、ピアスはそのへんが細かく描かれているなと思いました。コルドンは、はぐらかされてしまう感じだった。

ペガサス:コルドンは、読者に投げかけているとは思うけど。

ももたろう:ピアスのほうが、作者の中でテ−マや素材を消化して作品を書いてるのかなあ。

アカシア:というより、ピアスとコルドンでは、アプローチの仕方とか現実の切り取り方が違うんだと思う。

(2002年06月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


声が聞こえたで始まる七つのミステリー

小森香折『声が聞こえたで始まる七つのミステリー』
『声が聞こえたで始まる七つのミステリー』
小森香折/作
アリス館
2002.04

ももたろう:割合、面白かったです。作者の工夫が見えるし、最後のどんでんがえしなんか、「やるなっ!」という感じでした。日本の子どもたちには、こういう作品が身近でいいのかな。でもそれなりに面白くは読めるけど、深い印象とか、とんと響くものはなかった。

ペガサス:最初、これはなんてアリス館ぽくない本だろうと思ったのね。装丁もそうだし、タイトルもおもしろそうだなと思わせる。短編集としてうまく作ってる。「声が聞こえた」でまとめているのがいい。たとえば、時間を変化させているものもあるし、空間をいかしているのもある。じつは犬だったとか、座敷わらしだとか、逆転が生じるものもある。それぞれちがう手法をとっているのは、変化があっておもしろい。文章が短いのも印象が残っていい。さっと読めるし、読み終わったあと、しゃれたものを読んだ感じがする。

紙魚:『人食い』とは対象的に、本づくりのイメージがきちんと伝わってくる本でした。だから、手にとって、とても気持ちよかった。なんだか新しい本づくりに挑戦しているという感じもして、編集者の意気ごみみたいなものが、熱く感じられました。テキストも、非常にていねい。迷子になることもないし、ちょっとわかりにくくなりそうな部分も、きちんと舵取りしてくれて、安心して、でもちょっとどきどきさせて、巧みにおもしろがらせてくれた本です。

アカシア:ぴっしりきまって、まとまって、しかもよくわかるという短編ばかり。読んで気持ちがいいわね。この作者の前の作品より、ずっといい。編集者の適切なアドバイスも、きっとあったんでしょうね。

カーコ:3冊のなかでは、いちばん本づくりというのを感じさせられる1冊でした。「七つのミステリー」という枠の中で、今の子どもの身近な状況で展開しながら、昔の日本の児童文学のようなべたべたした感じがなく、それぞれにおもしろく読めました。小学生のときに『学校の怪談』を読んでいた、こわい話が好きな子どもたちには、こういうちょっとこわそうな話っていいきっかけになるかも。題名にも、それぞれひとひねりあるんですよね。

ペガサス:編集者のアドバイスもあるんだろうけど、作者も読者を楽しませようとしているのが感じられたわ。いい本よね。

(2002年06月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


2002年06月 テーマ:最近の短篇集

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『2002年06月 テーマ:最近の短篇集』
日付 2002年6月27日
参加者 ペガサス、アカシア、カーコ、紙魚、ももたろう
テーマ 最近の短篇集

読んだ本:

クラウス・コルドン『人食い』
『人食い〜クラウス・コルドン短編集』
原題:DER MENSCHENFRESSER by Klaus Kordon, 1997(ドイツ)
クラウス・コルドン/作 松沢あさか/訳 いよりあきこ/絵
さ・え・ら書房
2002.01

<版元語録>ドイツ児童文学の旗手コルドンの短編集。戦争の傷痕を背負う片腕の男と少年の束の間のふれあいを描いた表題作など、いずれも「愛のための小さな勇気」をテーマにした12編を収録。
フィリッパ・ピアス『8つの物語』
『8つの物語〜思い出の子どもたち』
原題:THE ROPE AND OTHER STORIES by Philippa Pearce, 1976, 1980,1986, 1989, 2000(イギリス)
フィリッパ・ピアス/作 片岡しのぶ/訳
あすなろ書房
2002.05

<版元語録>祖父母の家で過ごす休暇の、ちょっとした居心地悪さ。思い出の品に対する、自分だけの小さなこだわり…。誰もが覚えのある、子供時代の微妙な心の動きを、さわやかに描いた短編集。
小森香折『声が聞こえたで始まる七つのミステリー』
『声が聞こえたで始まる七つのミステリー』
小森香折/作
アリス館
2002.04

<版元語録>7つのミステリーの冒頭の一行が全て、「声が聞こえた」で始まる。場面・発想・登場人物など、見事に味わいの違う作品を揃え、短編の面白さを十二分に味わえる一冊。

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ハルーンとお話の海

サルマン・ラシュディ『ハルーンとお話の海』
『ハルーンとお話の海』
サルマン・ラシュディ/作 青山南/訳
国書刊行会
2002.01

愁童:一応全部読みましたが、全く我が世界に関係ないというか、共感がわかなかった。縁なき衆生という感じ。作者の思いはわかるんだけれども……。日本の子どもにダジャレめいた言葉づかいでダラダラ書かれても、しょうがないんじゃないか、という感じ。

:太字で書いてある部分は、原書ではどうなっているのかしら?

ねむりねずみ:原書ではイタリック体になっています。

アカシア:私は、この本は、イメージはおもしろいと思うけれど、こういう言葉遊びの文章は、日本の子どもには伝わらないと思う。翻訳もむずかしい。訳者が工夫してダジャレ風に訳しているところも、私はあんまり面白くなかった。ルイス・キャロルのアリスだって、日本の子どもにはわかりにくいじゃない? もともとは著者が自分の息子という特定の読者のために書いているものだとすると、よけい日本の子どもには難しいと思うんだけど。

:私は、最初から最後までおもしろく読みました。最初は淡々としてるけれども、水の精が出てくるところ、2932をフクザツーというのや、ブスでどうしようもないお姫様とか、馬鹿馬鹿しいところもおもしろかった。名前もおもしろいし、最後まで笑いながら読めた。だんだんお話の海がにごってくるというのは、文学の衰退を感じさせた。また、子どもも親に対して幸せであることを願っている、というところもよかった。

:私は1800円出して買って、損した。雰囲気的には、スティーヴン・キングの『ドラゴンの眼』に似ているけれど、また少し違って、『フィネガンス・ウェイク』的なところもある。「語る」こととは何か、ということを語っているわけで、子どもには無理だし、第一、この翻訳で読ませるのも無理があるわね。原作にはそれなりの意味があるとは思うけど、子どもに読ませる物語としては、翻訳の路線が間違っていると思う。子どもにむかって、行きつ戻りつしながら、「語る」ということを語っているんだけれど、ひとつの物語としては、飛んでしまっているわけです。

トチ:「飛んでいる」という意味が、よくわからないのだけれど……

アカシア:飛んでいるというより、ゴチャゴチャしていて、ラシュディの他の作品と違う。

:しっかりとプロットの構築がされていない、ということでしょ?

トチ:私はすごくおもしろかった。54ページまでは、たしかになかなか話に入っていけなかったけれど、主人公の男の子がバスルームでとんでもないものに出会う場面から、俄然おもしろくなりました。夜中に、自分の慣れ親しんでいるはずのバスルームや台所でとんでもないことが起こるというのは、子どもにとって本当にわくわくする物語で、私もタイトルは忘れたけれど、こういう場面が出てくる物語を子どものころ読んで、楽しかったのを覚えているわ。この物語は、いくつもの層が重なり合ってできていて、子どもの目でストーリーを追って読めばそれはそれで楽しいし、大人の目で読むと、あんなにアンハッピーな境遇にいたラシュディがこんなにハッピーな話を書いたということに感動する。小さいころにこの話を読んで楽しんだ子どもが大人になって読み返すと、昔は気づかなかった深い意味に気づく、そういう本だと思います。私自身も、また読み返してみたいと思いました。
訳については、みなさんのおっしゃるとおり、おそらく原文で字体を変えている部分をそのままゴチックにしているのでしょうが、字面が汚くて読みにくかった。作者が字体を変えている意味を訳者が汲みとって、それを訳文に生かすべきだと思うのだけれど。でも、訳者はさぞ楽しんで訳したことでしょうね。人名や地名も苦しみつつ、楽しみつつ訳している様子がうかがえました。ハリポタのロシア語訳が出たときに「人名や地名のおもしろさも魅力のひとつなのに、露語訳は英語をそのままロシア語の綴りに置き換えただけで、原作の魅力が半減している」と批評されたけれど、邦訳もそうですよね。少なくともハリポタの訳者より青山南さんのほうが何倍も丁寧に訳しているし、努力していると思う。不発に終わっているところもあるけれどね。

ねむりねずみ:原作が出た時に読んだけど、半分まででパスしてしまった。構造がわかって、それで満足、という感じだったみたい。雑誌 Books for Keeps (2000年3月号) に著者のインタビュー記事が出ていて、そこに2000年にイギリスで出版された愛蔵版の表紙と挿し絵が出ていた。これを見ると、楽しいイラストがたくさんあって、日本語版より魅力的。この本は、ドタバタがおもしろいと思う。イメージが、コラージュを見ているみたいに非現実的で、そういう世界が持つおもしろさがあると思う。表には出てきていないけれど、物語に対する作者の価値観がわかるのもおもしろかった。荒唐無稽な感じは、ロアルド・ダールの『チョコレート工場の秘密』がイギリスで映画化されたときの、やたらぴかぴかきらきらしていて、すべてが非現実的なおもちゃみたいに感じたのとよく似ている。

すあま:私はあまりおもしろくなかった。途中で挫折して、また読み始めたけれど、結局最後まで読めなかった。音楽でいえば現代音楽といった感じかな。だいたい言葉遊びで生きている話っていうのは、翻訳されておもしろいものにはあまり出会ったことがないですね。それにゴチック体がうるさくて、一生懸命はいりこもうとして読んでいる時に気が散ってしまい、だんだん頭が混乱して、ついていけなくなった。イラストがあるともっとよかったかも。

ももたろう:私も最後まで読めなかった。すごくテンポが早く、登場人物が次々に出てきて、ついていけなかった。気持ちがはぐらかされてしまう、というか、お話が上滑りしている感じで、自分の心にストンと落ちてこない。やはりゴチック体には邪魔されてしまった。3分の1くらいゴチックで、すごくうるさいページもある。旅に出るところまではスローなのでまだついていけるが、そのあとはどうも……。今の子どもたちは、エキサイティングに感じて読むのかしら?

ねむりねずみ:漫画のなかでも、ラフな描き方というのがあるでしょう? 走っている足を描かずに、砂煙だけを描くとか。そういうドタバタの面白さだと思うけれど。

アサギ:私も愁童さんと全く同じ感想で、途中でわからなくなって、しょっちゅう前に戻ったり……。翻訳としては訳しにくいものだと思ったけど、ゴチックにする意味は私も全く理解できないわね。アルファベットの字体を変えるのと、日本語をゴチックにするのとでは全く意味が違うので、危険だと思う。一応最後まで読んだけど、最後まで読んだ本当の理由は、最後まで読めばこのゴチックの意味がわかるのかと思ったからなの! たとえばゴチックの部分だけつなげたら、別の文章ができるとか……。

一同:あー、それだったらおもしろいのにねー!

アサギ:でも、結局最後まで読んでもわからなかったわ。お話もおもしろくなかった。「語る」ということについての哲学はあると思ったけど。カタカナがたくさん出てくるのも、字づらとして汚くなりがちよね。視覚的にディスターブされて、はいっていけなかった。でも、とてもおもしろかった、と言う人がいるってことは、本の読み方って本当に人それぞれってことよね。子どもは何歳くらいから読むのかしら?

トチ:著者も、いろいろなレベルで読んでほしい、と言っているわね。

:大人向きに解説してくれている部分はあるけど、子どもにはわからないと思う。

愁童:この本には、送り手側の熱意の欠如をものすごく感じるな。これを本当に今の子どもに読ませたいと思うのだったら、もっとわかるように努力すべきだよ。作者のネームバリューに乗っかって出してるだけみたいな気がする。

トチ:たしかに、編集者と訳者には子どもに読ませたいという熱意は欠如しているかもしれないわね。でも、作者には絶対にあったと思う。作者のその熱意を編集者と訳者は汲み取れなかったのか、それとも無視したのか……

アカシア:物語について語っている部分も確かにあるけれど、余計な部分もたくさんあって、その部分がおもしろいと思えるかどうかは、読み手の感性に会うかどうか、ということだよね。作者というより、訳者の感性と合わないとだめっていうことかも。

ねむりねずみ:原文では、冒頭がもっと物語る人の語り口調になっているんだけど、訳文はその感じが出ていないというのはあるかもしれない。民話などによくある荒唐無稽なものでも、語り手の口を経ることによって、すっと聞き手にはいってくることがあるけど、これは訳文がそこまで達していないのかな。冒頭の部分なんか、日本語としてはやるなあ、うまいなあって思ったんだけど。

トチ:そういわれてみれば、青山さんの得意のニューヨークものみたいな感じね。

:インドの子どもたちにとっては、魚とか鳥とか、いろんなメタファーがもっと身近なのかもしれないわね。

アサギ:荒唐無稽な話でも、その中に整合性があるものは、本来私は好きなんだけどな。

アカシア:アリスだって、原文で読まなければ絶対に伝わらないものがあるじゃない、これもそういう類の話なんじゃない?

:こういうジャンルの翻訳ものの難しさなのかしらね。

愁童:お父さんがお話できなくなるのは、結局お話の海が汚れているからだ、みたいなこと言われても日本の子どもは困っちゃう。

トチ:んー……もっと重層的意味を持っているんじゃないかしら?

:もっと深いところが侵されてきているからで、原因はいろいろあって、だからおもしろかった。

アサギ:読み手の感性に合えば、本当におもしろいでしょうね。

ももたろう:もともと子どもに語ったものなので、楽しみながら語ったものに後から思想がついてきたのかな?

:いやもっとシリアスで、お父さんどうして語ることをやめないの? という問いかけに答えたものでしょ。

(2002年05月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


愛のひだりがわ

筒井康隆『愛のひだりがわ』
『愛のひだりがわ』
筒井康隆/作
岩波書店
2002.01

ペガサス:かなり期待して読み始めました。最初のうちはリアリズムの話かと思っていたら、次々に変なことがおこって、だんだんウソっぽくなってきた。あとでこの本に関する作者のコメントを読んだら、「近未来」が舞台、と書いてあったけど、あまり近未来という感じもしないのよね。妙に昔っぽい情景などもあって。各章に、登場人物の名前をつけて、次々にいろいろな人が出てくるという構成はおもしろいと思うけど、物語全体としてはちっともうまくまとまっていない。犬姫さまになって、野犬を引き連れていくところなんかはおもしろいから、もっとそれを中心にするとかしたらよかったのに。それからすごく嫌だったのは、いとも簡単に人や犬を殺すシーンが全編を通してたくさん出てくること。しかもみんな、殺すということにさほど罪悪感をもっていないでしょ。こういうものは、どうしても子どもに薦める気になれないわね。

トチ:筒井康隆の作品は好きで片っぱしから読んだので、期待して読んだんだけど……。本というものは、作者の声が聞こえてくるものなのに、この作品からは全然聞こえてこなかった。近未来ということにつながるかもしれないけど、J文学風の香りがしたわね。

アサギ:たとえばどんな?

トチ:藤野千夜とか、『ぶらんこ乗り』(いしいしんじ作)とか。実感がしない世界というのかな。それから、女の子の言葉づかいが、おじいさんみたいだと思った。

一同:そうそう、古臭いよねー。

トチ:いちばんびっくりしたのはね、次郎が死ぬ時、歌子さんと一緒に主人公も泣きながら、「次郎が死んだだけでこんなに悲しいのだから、もっと親しいひとが死んだらどんなに悲しいことだろう……」なんて書いてるところ。だって、この子、前にお母さんが死んでるじゃない。作者はそのことを忘れちゃったとしか思えない。もうびっくりしたわ、ずいぶんいい加減よねえ。

:タイトルには何か抽象的な意味があるのかと思ったら、何のことはない、単に愛ちゃんの左側。たまたまこの著者のドタバタの短編集『近所迷惑』と同時に読んだので、『愛のひだりがわ』もショートショートのおもしろさとして読めば、すごくおかしいんじゃないかと思った。ショートショートのドタバタこそがこの人の持ち味だから。作者は、子どものJ文学というジャンルに挑戦したんじゃないかな。まじめな人だから、何かテーマを設定しなければいけないと考えて、「大人の世界への反逆」をテーマにしたのでは? そのテーマと、読者へのサービス精神で書いたものじゃないかと思う。だから筒井ファンにとっては、新しい試みをしたというところでおもしろいわけね。

:おもしろく読みました。前半は近未来みたいなのに、えらくやぼったい横丁が出てきたりするのもおもしろかった。皆がエゴに走って、自分たちのことは自分たちで守ろうという社会が絶対に興らないとはいえない、と感じた。主人公は、殴られたら殴ればいいわ、というように妙に淡々としているところがあるが、志津恵さんが男を捨てて出るときのセリフを聞いて、なんてやさしい人だと思うところなどに、主人公が少しずつ成長していることがわかる。

アカシア:そこはちょっと苦しくない?

:作者は志津恵さんや愛ちゃんみたいな女性が好みなんだな、と思う。

ペガサス:それは確かにあるね。

:野犬の女王になるところあたりまではおもしろいんだけど、3年たったところからは急速にまとまらなくなった感じはした。書き急いでいるみたいで。だいたいサトルが、何で新興宗教の教祖を支える子になってしまうのか、納得できないわ。

:髪が水色で、普通じゃないから、そこへ行かせなければ収拾がつかなかったんじゃない?

アカシア:筒井康隆はもっとおもしろいはずなのに、って思った。ショートショートだったら、もっと考えて書くか、短いから破綻が来ないということがあると思うけど。これはただ書いただけで、何も推敲してないんじゃないかと思う。おもしろいタネはたくさんあるのに、つながっていないから、ちっともおもしろくないのよ。それに、女の子の古臭い言葉づかいはやっぱり気になった。

トチ:昔の作品より、質は明らかに落ちているよねー。

:『わたしのグランパ』なんか、スーパー老人が出てきておもしろい作品だったな。

アカシア:ドタバタで読ませようとするのなら、もっとエネルギーが感じられてもいいはずよ。これも、いっそスーパー老人の話にすればよかったのにね。

ペガサス:これはドタバタで読ませようとしているとは思えないね。

アカシア:だから中途半端なんじゃない?

愁童:さすがに手だれの職業作家だと思うよ。今の子にどう書けば受けるかということを、きちんと押さえて書いてる。文章もしっかりしているし、スイスイと、それなりにおもしろく読めるじゃない、あとには残らないけどね。以前とりあげた『海に帰る日』をおもしろく読んだという子に出会ったけど、暴走族の出し方なんか、『海に帰る日』とよく似てる。

アカシア:暴走族が必ずしも若者に受けるとは思わないけど、ストーリー展開が早いとか、人物をあまり深く描かないということは今風かもしれない。

愁童:若者に受ける要素をしっかりつかんでいるということはあると思う。

トチ:そこがすごく嫌だったな。

アカシア:筒井ファンはこれをおもしろいと思うのかな?

トチ:思わないわよ。

ももたろう:この本はどういうコンセプトで出したんでしょうね? 帯に「マジック・リアリズム」と書いた意味は?

:マジック・リアリズムとは、現実をマジックで敢えてゆがめる作風で、アンジェラ・カーターが自分の書くジャンルのコンセプトとして初めて使った言葉ですね。

アカシア:ラテン・アメリカにはもっと前からあったんじゃない?

:帯に書いてあるのを見て、日本でもこれをやろうとしたのかと思ったら、全然違った。

アカシア:現実に不思議な要素が入ってくるものは、何でもマジック・リアリズムと称するみたいなところがあるね。

ももたろう:最後までツルツルと読めたけど、残るものがなかった。妙に古臭いところを出して、あえて時間を下げて、テクニックを使って新しいところを出すようにしたのかな? リアリズムかなと思って読んだら違って、はぐらかされた。それに長編のわりには愛ちゃんの人物像が薄っぺらいと思った。ある意味では、クールさを出したのかもしれないけれど。どういう読者にどういう思いをぶつけたいのか、中途半端。子どもの本棚には並べられないと思う。

アカシア:本の最後のページに、『トムは真夜中の庭で』『モモ』『ホビットの冒険』などの広告が載っているけど、編集部ではこれらの本と同じと思って作ったのかな?

ペガサス:それはね、最後に「あっそうか、これは岩波の本だったんだ」って気付かせるためよ。

すあま:筒井康隆は好きだったけど、この本はこの装丁がどうしてもダメで、買う気になれなかった。子どもの本には見えなくて、どちらかというと連城三紀彦とか渡辺淳一って感じ。

ねむりねずみ:作品のなかにはいりこんで感動するということはなかった。デストピアを通り過ぎていく少女のロードムービーみたい。お父さんとの再会の場面など、愛ちゃんが一方的にしゃべるだけで、やりとりになっていないし。本当に人と人とがぶつかりあう場面は出てこないみたい。ただ通り過ぎていき、横に寄り添うだけ、といった感じ。愛ちゃんが唯一ウェットな関係をもっている相手が犬なんでしょうね。それから、女の子の一人称であることを、作者が完全に忘れているところがあって、シェイクスピアがどうとか、女の子の言葉ではあり得ない部分があった。「独特のお色気があり・・・」なんて、女の子の言葉ではないでしょう? 今の時代のゆがんでいる部分をうまく配置しているとは思うけど、それ以上にはなっていない。すべてが透けて見えてしまう。上手に書いているけれど、気持ちがはいってないという感じ。

もぷしー:最後まで、これが児童ものと認識しないで読んでしまったが、認識しないときのほうが、受け入れられた気がします。ひとつひとつを作者が思いをこめて書いたにしては、伝わってこないな、と思った。過ぎ去っていく出来事の中に自分が置かれている、という今の子らしいものを書いたということなんでしょうか?

アサギ:近ごろこれほどバカバカしい本は読んだことがなかったわ。何でこんだくだらない本を書いたのか、と作者に聞きたい。

アカシア:バカバカしい、と、くだらない、は違うよ。

アサギ:両方ってこと。こんなつまんないもの! 全部が気に入らないわ。たとえば「知的な」という言葉の使い方。大学を出ているから知的だ、という表現が二箇所もあるのよ。本気で書いているのかしら。まさか、と思ったわ。信じられない!

トチ:それはね、この本を出した知的な出版社を筒井康隆が皮肉っているのかも……

(2002年05月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


四十一番の少年

井上ひさし『四十一番の少年』
『四十一番の少年』 (井上ひさしジュニア文学館11)

井上ひさし/作
汐文社 (文藝春秋社)
1998

ねむりねずみ:私の数々の引越しの中で処分されなかった、数少ない文庫本の一冊。井上ひさしでは『ブンとフン』など、ユーモラスなものを中心に一時期のめり込んで読んでいたけど、こんなものも書くのか、と一目置くきっかけになった一冊でした。淡々とした語り口だから、逆に起こっている事のすごさがこっちに迫ってきて、すごく強く印象に残る。作者の意図や作品の構造がどうとか読者に考える隙を与えない。読者が自然に入ってゆけるところが、やっぱりうまいと思いました。文学作品を読んだ、という手応えがあった。終戦後の状況を描いた話だけれど、必死に這い上がってゆくハングリーさとか、今の子が読んだらどうとらえるのかなっていうのが興味あります。これは、子ども向けに書かれたわけじゃないんでしょ?

アカシア:でも、汐文社のは「井上ひさしジュニア文学館」シリーズとして出てるのよ。

すあま:私は、J文学の無い時代に育ったから、文庫本の中から自分が読めそうなものをさがして『ブンとフン』などを読んでいたのですが、養護施設でボランティアをしていた頃に読んだ思い出深い一冊がこれです。時代は違っても共感して読めた。今の養護施設は、児童虐待の保護施設のようになっていて、本の中の養護施設とは、子どもたちのバックグラウンドがずいぶん違ってきましたよね。みなさんは、バックグラウンドが古いという印象を持ちました?

ももたろう:養護施設の状況は違うかも……でも、いじめは今でもあって、子どもの世界にも力関係がある。恐怖を感じながらも、何とか取り入って生きていこうとする姿勢なんかは、今にも通じると思う。だから、主人公利雄の気持ちに従って読めました。子ども時代の気持ちを、大人になっても体が震えるほど怖い、という形で、さかのぼって表現しているところが面白い。こういう作品から、主人公の気持ちを読み取れる読書力のある子ども読者がどこまでいるかな? 読ませてみたいな。

愁童:今回の3冊の課題の中で、いちばん文学を読んだという感じがした。時代背景が違っても、いじめの本質は昔と今で変わらないから、今の子にも結構読まれるのではないか? 子どもたちに日本語で小説を読ませるなら、こういう文章を読んで欲しいなってしみじみ思った。

アカシア:『ハルーンとお話の海』『愛のひだりがわ』vs『四十一番の少年』という構図で考えると、登場人物の内面を描くか描かないかという点で、対極的な作品だと思いました。もし、登場人物の内面を描かないで、外側のおもしろさだけで引っ張っていくのなら、それはゲームでもいいんだから、本なんか無くてもいいことになってしまう。本の未来はないでしょうね。この本の「解説」で、「ユーモア作家井上ひさしには珍しい、笑いの無いシリアス作品」というようなコメントがあったけど、それは的外れだと思った。私は、この作品に井上ひさしのユーモアの部分が随所に見られると思った。不謹慎だとは思うけど、ナザレトホームの歌とか、昌吉の未来の履歴書とかは、哀しいなかにも笑える要素がずいぶんあると思う。『愛のひだりがわ』の場合は、「作者はプロなのに子どものだからといってこんなの書いていいのか!」と思ったけど、これは逆だった。いじめについても、良いとも悪いともいわないで、今も昔も同じようにあるんだよと言うふうに扱っていて、井上ひさしはやっぱりプロだなと思った。

愁童:それを排除しようとするのが今の教育体制だけど、そんなことしても状況は変わらないよね。こんな本読んで、人間理解を深めることが先決。

アカシア:いじめは、仲良くするように努力すれば止むんだと思っているほうが悲惨。

:これを読んだ感想は、一言でいうと、面白かった。安心して読むことができました。いじめなんかも必ずあることだし、昌吉の人をうらやんでちょっと意地悪しちゃう気持ちも、切ないくらいわかる。良し悪しは別として、人の心の動きを書いているのがいいと思う。利雄が舟に乗って冒険に行くところも、本当は誘拐の手助けになっちゃうところで、良いことではないんだけど、妙におかしい。少しずらした視点で考えると、もっと大きなものが見える。これが文学なんだな、と思って読めた。

:『ハルーンとお話の海』は、何か読み取れるはずなのに読み取れなくて、肩透かしな感じだった。井上ひさしを読んで、やっと前の2作で感じたフラストレーションがおさまりました。この作品は、登場人物の内面を自分自身の内的体験をコアにして書いているところに強みがあると思う。子どもの主人公を、大人になってから自嘲的に自己省察させるという、その距離がユーモアを生んでおり、シリアスな中にも救いがある。子どもの主人公を、大人になってから自己省察させることによって、子どもというものを使った大人の小説家の手法を見た。テーマ性をしっかりもった作品で、他の二作と違って、純文学が子どもを使ってとして成功した例だと思う。ただ、母親に書いた手紙など、古臭さが感じられ、どこまで今の子の読書に耐えうるかは疑問。今の大学生でもどうかしらねえ……。

もぷしー:「作者の新しい試み」や「新しい文体」など、一種のファッション性を追求する最近のJ文学を読んでいるさなかにこれを読んで、久々に、読者が作者の意図に振り回されずに、内容だけを味わえる作品だな、と思いました。話のバックグラウンドが古いのでは?ということも、いじめなど現代に通じるテーマもあるし、それはそれで受け入れられるんじゃないかな。この本は私が生まれた年に書かれたものですが、自分が体験していないことでも、描かれている感情が今もリアルに生きていることなので、のみこめました。ただ、現代は人と人との距離がかなり離れているけれど、この作品の時代は、係わり合いになりたくない人の生活や内面まで知ってるような感じだから、人間との距離のとり方はずいぶん違っているなという感じを受けましたが。子ども時代にはかなり深刻であったろう出来事を、消化してから描かれているところに作品の余裕を感じ、子どもたちに読んで欲しいなと思いました。

トチ:みなさんと同じで、とにかくうまい、文章といいプロットといい、まさしくプロの作品だと思いました。冒頭部分など、地理的にも描写が難しいところを主人公の目の位置で描いているから、ありありと読み手の目にうつってくる。構成も、牧歌的な雰囲気ではじまり、ところどころちくっと刺のようなものはあるけれど、ユーモアもあり、ぐいぐいひきつけられていく。丸木舟の冒険で、主人公の気分も晴れ晴れとしてくるところで、一気にどん底まで落ちていく。そこの展開は、すごいと思いました。でも、子羊のように純真無垢な男の子が死んでいく場面はとてもショックで、ああ読まなければよかったと思うくらい、落ち込んでしまいました。ストーリーの上では無くてはならない場面だけれど。
もぷしーさんは、子ども時代に深刻だった事件を大人になって消化して書いているところに余裕を感じたということだけれど、私は少し違った感じを持ちました。昌吉は救えなかったのに自分はいまこうして生きているということに、主人公は子どものころには感じなかった罪の意識を覚えているのではないかしら。カソリックのことはよく知らないけれど、悪とか罪というものに対するカソリック的な考え方(感じ方)がうかがえたような気がする。曽野綾子の『天上の青』も悪と許しを書いた文学だと思うけれど、悪の描き方や感じ方が少し違っていて、そこのところも興味深かった。

ペガサス:さっき、笑いのポイントとして挙がっていた未来の履歴書のシーンでは、私は涙が出て、とても笑えなかった。胸が痛くなった。昌吉は確かにひどい子だけど、子どもの純真さと冷酷さの両方をを併せ持った子として描かれている。だから読者に「憎い」という気持ちを起こさせない。それは作者が人間愛(人間を良い悪いの2つの尺度だけで測らない)をもって昌吉像を描いてるからだと思う。大人になってから書いているからそれができたのではないか。いじめられてるさなかでは、主人公利雄は昌吉をあんなふうには温かく見られなかっただろうし。そういう点で、このお話は、人間の両面性を理解できる大人になってから読む本じゃないかと思った。

トチ:でも、人間の両面性を気にしないでいられる年齢って、今どんどん下がってきてるんじゃない?

一同:うんうん。

アサギ:井上ひさしはやっぱりうまい!って、私も思いました。でも、このお話読んでると、どんどん辛くなってくるのね。確かにユーモアは、対象との間に一定の距離が無ければ生まれないんだけれど、このお話には、かえって距離をとってユーモアにしなければ語れなかったっていう、切実な感じがある。それがこの作品に深みを与えているのね。未来の履歴書も、読んでて胸がいっぱいになった。井上ひさしのユーモア作品と演劇の作品は知ってたけど、これを読んで新たな発見をしました。ただ、いい作品だけど、読んでいてかなり辛かった。若いうちはショックを受けても跳ね返せるけど、だんだん、こういう作品は辛すぎて読みたくないって思ってしまった。

トチ:そういうショックには、子どもの方が強いんじゃないの?

アサギ:絶対強いと思う。でも子どもには、この作品の切実さは、わからなくてもいいんじゃないかしら。

アカシア:切実とはいっても、ユーモアの中にある切実さは、子どもにも通じるものがあるのでは? 「子ども」の年齢によると思うけど、中学生より上には、こういう作品も読んで欲しいと思う。ハッピーエンドでない作品もね。

トチ:私は、本を読んで落ちこんだって、ショックを受けたっていいと思うのよ。じゃなければ、本を読む意味なんてないもの。

アサギ:これは、作品が優れている分、よけい辛かったの。

アカシア:今の子は、本を読んでも、落ち込むまで感じ取れないみたい。

愁童:昔は、中学生といえばもう大人扱い。純文学でも古典でも、難しいものをたくさん読まされた。わからない文学も背伸びして読んでいたものだったけど、今の子は、等身大のものばかり読んで育っている。そもそもあまり読んでいないから、フィクションに共感して、疑似体験をするという経験が少ないし、本を読んで落ち込むこともできない。第一落ち込むような本は読まないよね。

トチ:級友の女の子の家の運転手など、ほんの少ししか出てこない人でも、描き方が非常にうまい。全ての登場人物を温かく、まあるく描いている。それだからこそ、ストーリーの切実さがよけいに増してくるのよね。

アサギ:心に残るんだけど、辛さのほうがたくさん残ってしまうのよ。それを跳ね返せるのは、若さのパワーなの。

愁童:映像ばかり見て育つと、出来上がった他人の既製イメージばかり蓄積されるわけで疑似体験には成りにくいよね。活字でそれを読んでいる子は、自分でイメージを構築しなければならないから、しんどいけど、そのプロセスが体験につながるもんね。

:いや、子どもにはもっと正常なポテンシャリティがあると思うわ。

アカシア:でも、映像だけで育ってきた子は、人間と人間の関係性がうまく結べなくなっているように思う。親子関係だけじゃなくて、他人との間にどれだけ深い関係が結べるか、っていうことが大事なのよ。そして人と人との関係って、文学から吸収できるところがたくさんある。映像文化だけでは、育ってこない力だと思う。ハリポタみたいなのばかりを読んでいると、内面を描いた文学に出会ったとき、暗いだけで面白くありませんでした、っていうことになっちゃう。本は、自分で世界を構築しなければいけないから、ある程度その力がないと楽しめない。結局、力がなくても読めるハリポタみたいな作品ばかりがもてはやされるようになってしまう。

もぷしー:出版社のほうも、たとえ本当は『四十一番の少年』のような本を出していきたくても、そういう本はなかなか読んでもらえないから、どうしてもハリポタのようなものを多く出版する傾向があると思う。映像的な本ばかり出版していたら、読書の楽しみが子どもに育たないのを助長しているようなものなのだけど……ジレンマ。

ももたろう:読書経験の少ない読者に、いきなり『四十一番の少年』を読みなさいといってもそれは無理。やはり、絵本や幼年文学からはじめて、幼い頃からの読書体験を積み重ねていかないと。

:ずっと映像だけで育ってきた子どもでも、大学に入ってから文学に開眼することもある。それからでも遅すぎるわけじゃないと思う。ポテンシャリティはあるわよ。

愁童:最近、学校での10分間読書がきちんと行われてきていて、それでだいぶ変わってきていると思う。この間見学したけれど、その10分は、大人も含めて、学校中全員しーんとして本を読んで、音が全くしない。そういうふうに一日10分何かに集中するということだけでも、何かが変わると思う。問題のある子は、その10分も耐えられないんだけどもね。でもとにかく活字に触れて、考えることが大切だと思う。それから、昔にくらべて、生徒に立って声をだして教科書を読ませるとことが減ってきているようだ。先生が、区切りのいいところで、はい次、と言うことができなくなっているんだよ。文脈と全然違うところでぶちっと切ったりする。あれじゃあ、子どもの読解力は育たないよ。先生が、本が読めなくなってきているわけだ。

ももたろう:究極的に言うと、大人が本を読むべき、ということかな。

(2002年05月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


2002年05月 テーマ:一般書の作家が書いた子どもの本

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『2002年05月 テーマ:一般書の作家が書いた子どもの本』
日付 2002年5月23日
参加者 トチ、裕、羊、アカシア、愁童、ももたろう、すあま、ねむりねずみ、もぷしー、ペガサス、アサギ
テーマ 一般書の作家が書いた子どもの本

読んだ本:

サルマン・ラシュディ『ハルーンとお話の海』
『ハルーンとお話の海』
原題:HAROUN AND THE SEA OF STORIES by Salman Rushdie, 1990(イギリス)
サルマン・ラシュディ/作 青山南/訳
国書刊行会
2002.01

<版元語録>ある日突然物語る力を失った父のために、ハルーンはお話の力を司る「オハナシー」の海へと旅立つ。死滅しつつあるその海をハルーンは救えるのか。死刑宣告を受けたラシュディが、悲痛な思いをこめたファンタジー。
筒井康隆『愛のひだりがわ』
『愛のひだりがわ』
筒井康隆/作
岩波書店
2002.01

<版元語録>幼いとき犬にかまれて片腕が不自由な少女,月岡愛.母を亡くした愛は,行方不明の父をさがす旅に出る.大型犬のデンとダン,不思議な老人や同級生サトルに助けられながら,少女は危機をのりこえてゆく.プロットのうまさが光る書き下ろし.
井上ひさし『四十一番の少年』
『四十一番の少年』 (井上ひさしジュニア文学館11)

井上ひさし/作
汐文社 (文藝春秋社)
1998

<版元語録>孤児院で暮らす兄のもとに、ラーメン屋に一人預けられた弟からの葉書、そこには、しみが…。弟の生活を思いやり、孤児院に引き取ることにした兄は、弟を迎えに行くが…。作者の自伝的要素の強い小説三編を収録。

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月の影 影の海

小野不由美『月の影 影の海』
『月の影 影の海』 (十二国記) 

小野不由美/作
講談社
1992.06

トチ:私は面白く読みました。オリジナリティーがあって、生き生きと描かれている。フィリップ・プルマンの〈ライラの冒険シリーズ〉はパラレルワールドから入るけど、〈十二国記〉は高校生の日常から、現実からスタートするので、中高生にも読みやすいのではないかと思いました。目新しいことが次々に出てきて、ストーリーにひかれて読みました。一国の統治者の選ばれ方が、選挙でも血筋でもなく、なんとなくダライラマの選び方に似ているところも面白かった。ただ、シリーズをずっと読んでいくと、『風の万里 黎明の空』あたりで、急につまらなくなる。同じ作者が書いたものだろうかと思うぐらい、文章に勢いが無くなるし、どういうわけかお説教くさくなる。ついに沈没してしまい、『図南の翼』は買ったけれど読んでいません。

アカシア:私も、このシリーズを次々に買ってずんずん読んでいったのだけど、途中の巻で読み続けられなくなった。文章も、なんだか急に下手になったなぁ、と思ったし。

カーコ:久しぶりに日本語の本を読みました。ハイファンタジーが苦手で、説明の細かいところは飛ばしてしまいましたが、筋としてはおもしろく、早く先が読みたいと一気に読みました。十二国の構成や階級などの詳しい説明に私は入りこめず、このように書きこんであるからおもしろいと一般の読者は感じるのか、ここまで書かなければおもしろ味がでないのだろうか、というのがよくわからず苦しかった。あと、陽子の父母が出てくる場面での二人のやり取りがステレオタイプに思え、陽子と学校の友達の会話にもひっかかりました。たとえば、宿題のプリントを友達に見せるシーン。「中嶋さんってまじめなんだねぇ」をうけて、「ホント、まじめ。あたし宿題なんてきらいだから、すぐ忘れちゃう」というの。十二国以外の部分、現実の世界の表現がこんなに直接的でよいのだろうかとおどろきました。

ペガサス:先入観なく読んだせいか、結構おもしろく読めました。BSでアニメになっているのを観たけど想像したとおりの感じ。主人公が陽子のほかにクラスメイトの男の子と女の子を加えた3人になっていた。普通の生活をしている子どもが異界へ行くファンタジーは、主人公が何か不満をかかえているといった必然性があるものが多いけど、この主人公の必然性はそれほど強くない。いい子に見られているということが不満といえば不満かもしれないけど、特に望まないのに選ばれてしまい、いやだいやだと思いながら引き返せないというところがおもしろい。「なぜ」ということがわからないまま、どんどん進んでいくし、つれてきたケイキという人物が消えてしまうので、ますます何がなんだかわからなくなる、それが読者を引っ張ってくれて、先へ先へと読ませるのでしょう。描写がわかりやすいから想像しやすいし読みやすかった。でも、12国全部読むのはちょっと辛いなあ。異界もの、という意味で、プルマンと一緒に取り上げたのはよかったかも。

アカシア:12の国があるから「十二国記」で、これは12の国のうちの一つの国の物語なのね。

ペガサス:すごくファンは多いみたいだけど、ストーリーが想像しやすいからかしら。

アカシア:プルマンとは質的には正反対だと思う。〈十二国記〉には新しい価値観は無いし、エンターテイメントだと思うけど、私はハリー・ポッターよりはおもしろいと思う。ハリー・ポッターを読むくらいなら、日本のファンタジーにもこんなにおもしろいものがあるのだから読んでほしい。全体に荒削りのところもあるし、文章のばらつきもあるけれど、小野さんにはストリーテラーとしての力もあるし、王様と麒麟の関係に興味がもてるし、必然性が無く選ばれると言うところも私はおもしろいと思った。インターネットで見ると、小野さんのファンのHPってたくさんあるのね。版元の講談社も〈十二国記〉のサイトを開いてるし、関連のイベントもいろいろあるみたいだし、熱烈なファンがたくさんいるのがよくわかる。

愁童:困ったなぁー。トチさんがハマってるっていうから期待して読んだのだけど、大人用(講談社文庫版)は文章がむずかしくて……。X文庫はやさしくしてあるらしいので、そっちで読めば良かったかな。ハリー・ポッター好きな人は同質なおもしろさで読めると思うけど、こっちは翻訳じゃないんだから、もうちょっと気持ちいい文章で読みたいな。劇画だと思えばOKなのだけれど。例えば、「どうしようもない」が「どうしようもできない」といった具合……。そんなにおもねなくてもと思っちゃう。ひょっとしたらハリ・ポタの方が日本語としてまともかな、なんて思ったりして。

ペガサス:「麒麟」なんて漢字で書くと格調高く見えるじゃない?

愁童:わざわざ使う必要があるのか?

アカシア:私は「麒麟」を出してきたのは、おもしろいと思ったな。ただし、全編において伝説や神話を下敷きにして考証を重ねて書いているのかというと、そうでもないみたい。何巻目かの後書きで、作者も不備がバレないか不安って書いていた。でも、アイデアを借りてきて、自由につくっちゃっても、こういうのはそれでいいんじゃないかな?

愁童:月の影が、沸き立つ海面に映ってるみたいな描写は、随分乱暴だなって思うけど……。モチーフは「千と千尋の神隠し」とよく似てる。きっかりした現実に向かい合えば、自立して行動できるというメッセージはそれなりに伝わってくるよね。今の子供達の教室の交友関係をうまく捉えていると思うし、そこを出発点にして、ファンタジーの中でしっかり成長していく女の子像は説得力はあると思う。

トチ:〈ハリー・ポッター〉より、人間の裏表が表現されているよね。主人公が出会う人物でも、動物でも、最初は敵か味方か、悪者かそうでないか、まったく分からない。親切そうにみえた小母さんが、実は主人公を売春宿に売りとばそうとしていたり……。

アカシア:〈ハリー・ポッター〉は、登場人物が紙人形みたいで裏から見るとのっぺらぼうだから、リアリティが感じられない。その点、〈十二国記〉にはリアリティがあるよね。

ペガサス:会話のやり取りにリアリティがあってうまい。〈ハリー・ポッター〉と比べても、実際にありそうな会話が多くて、こっちはおもしろい。表現の不備とか気になるところはあっても、こういうものはあまり考えずにどんどん読める。

愁童:憑依するときのヒヤッとする感じはリアリティがあっておもしろかった。でもこの世界、ファンタジーなの?

アカシア:しいていえばファンタジー的エンターテイメントじゃない? 今並んでいるネオファンタジーの範疇に入るのかな?

ねむりねずみ:最初から文章にひっかかりっぱなしで、すごい日本語だと思いました。時代がかった表現で書こうとしているのは分かるけれど、まず3ページの「目に強い酸味を感じた」というのに、え?こんな言い方したっけと思ったのが運の尽きで、それからは気になって気になって、例えば上巻の42ページの「ヒヒは〜」ではじまる文章にある「乱暴な運送」(講談社文庫版では「運搬」と変更)という言葉、こんなところで運送かあ、といった調子で、片っ端から引っかかった。あと、下巻の26ページに「ダイニングキッチン」という言葉が出てきて、このほうが今の若い人にはわかりいいのかもしれないけれど、中国風の粗末な家にダイニングキッチンはないんじゃないの?と思ったり。小難しい文章で、しかも若い人にわかるようにと考えた結果、こうなっちゃったのかなあ。

愁童:「とらまえる」なんて、平気で出てくるし……。

ねむりねずみ:私も上巻59pの「真っ暗な海で……」のところのイメージが今ひとつわからなかった。でも引っかかりながらも、先はどうなるかと気になって、そういう意味では一気に読めました。一言で言えば女の子の成長物語。箱入り娘だった主人公が、生きて行くだけでも大変な世界に行って、今まで気付かなかった自分に気付くと、そういうことなんだ、なるほど、なるほど、と思って読みました。異界に連れてこられてしまって、訳が分からないまま必死にがんばって生き延びようとする主人公の心の動きはうまくかけていると思いました。箱入りの生活から異界に入るという設定からして、随所に面白いところがあるし、ゲーム的な面白さもある。作品に勢いがあって、日本語を気にするのをやめたらすごい勢いで読めました。でも、イラストは安っぽくていやだった。大人の文庫には挿し絵がないみたいだから、そっちでで読めば良かったかな。

すあま:これはずっと以前に読んでいたのですが、読み直す時間が無くて忘れている部分もありました。図書館では、評価が高かったと記憶しています。〈十二国記〉の中ではこれが一番おもしろいと思う。王様に麒麟がついているという設定が面白かった。他の日本のファンタジーは古代に舞台を求めることが多かったけど、これは中国風なところが珍しい。作者が主人公をいじめていると言うか、女の子チックな話ではなくてハードボイルドなところが変わっていると思う。友人の中には何度も読み直す人もいるし、ホームページサイトもあってファンは多いみたい。大人版の文庫も出ているけど、私はx文庫のイラスト付で読みました。巻が進むにつれてコミカル系になっているのは、最初に力が入りすぎたのかしら。

愁童:陽子が思い迷う描写が冗長で、読むリズムが乱された。

トチ・中高生の読者は、主人公と一緒に悩んだり迷ったりしながら読むんでしょうね。中高生のそういう心の動きを、作者はよくわかって書いていると思いました。

(2002年04月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


琥珀の望遠鏡

フィリップ・プルマン『琥珀の望遠鏡』
『琥珀の望遠鏡』 (ライラの冒険シリーズ3)

フィリップ・プルマン/作 大久保寛/訳
新潮社
2002.01

すあま:1巻、2巻を読んでから時間がたっていて内容を忘れているせいもあり、3巻は200pくらいまでしか読めていないが、ここまでだとあまり面白くなかった。3巻に至るまでの道筋を忘れているせいかな。主人公に共感できないし、この子たちが面白くないです。1巻、2巻を読んでいる時も好きになれなかったし、世界が交錯しすぎていてパンクしそうになってしまう。1巻から2巻では世界がガラッと変わっているが、キリスト教の話に至ってからは、作者の狙いが大きすぎるためか、宗教的根元にまで持って行かれるとついて行けない。登場人物も良い人か悪い人か良く分からない。私はキャラクターを好きにならないとついて行けないし、評判になっていることに驚いているくらい。図書館では、一般書とするか児童書とするか、置き場所にも迷う本ですね。

アカシア:このシリーズは最後まで読まないと、作者が言いたいことや構築した世界が見えてこないわね。私も1巻と2巻は主人公に感情移入できなかったの。構築している物語世界には興味があったんだけど、おもしろいと思って読めなかった。でも、3巻の後半になっておもしろくなってきた。
「ホーンブック」の2001年11/12月号にプルマンが「天の共和国」というエッセイを載せているの。そこでは、プルマンはまず、「神の死」によって現代人は生きる意味や、自分と宇宙のつながりを宗教に求めるわけにはいかなくなったと言うのね。そして、宗教のかわりに「天の共和国」という概念をもちだしてきて、どこか別のところに理想の世界があるのだと考えるのではなく、今、この現実界にその共和国をつくるということが重要なのだと言うの。そして、グノーシス派やC.S.ルイスやトールキンのファンタジーなどは、どれも現実界に意味や喜びを見出すという考え方を否定することにつながるから駄目だと、批判するわけね。この「天の共和国」というのは、個々の人間がそれぞれ孤立して生きるのではなく、他の人々や自然や宇宙をかかわりを持ちながら生きる場所ってことらしいんだけど、このエッセイを読んで、私は、「ああ、プルマンはこの『天の共和国』の一つのかたちを書きたかったんだなあ」と思ったんですね。「そうか、そういうことが言いたかったのか」と。
ただね、プルマンは、「ファンタジーに書かれる登場人物は、現実界の人間の特徴を映し出していなきゃいけない」って言ってるんだけど、〈ライラの冒険〉シリーズの登場人物は、私にはあまり現実界の人間というふうには感じられなかった。とくにライラのお父さんとお母さん。ライラやウィルは、終わりの頃になって生き生きと動き出したんだけど、お父さんとお母さんは最後にライラを生かすために犠牲的になって死ぬってところだけしか実体がない。だから私は、ストーリーとしてはあんまり成功してないんじゃないかな、と思ってしまった。訳の問題もあるのかな? リアルに生き生きと浮かび上がってこない点、不満が残った。

ペガサス:1巻を読んだ時は、〈ハリー・ポッター〉よりずっとおもしろいと思いました。長い物語を丹念に書いてあるので、映画を見ているように想像することができ、全くはじめての世界を楽しめました。2巻、3巻と進むにつれて、だんだん多くのことが盛り込まれてくるし、1巻よりも登場人物も増え、場面もくるくる変わるので、ゆっくりと味わうよりも、とにかく先へ進まなきゃ、って感じになる。訳者の解説に書いてあるように、まさにジェットコースターなみの展開ですね。全巻を通して感じたこの作品の特徴は、とにかく異界・不思議世界の構築に独自性があるということ。ダイモンの存在もユニークでひきつけられる。3巻目になるとちょっと飽きてきたけどね。鎧を着たクマ、トンボを乗り回す戦士、ダイアモンド形の足を持つ生き物など、キャラクターにもオリジナリティがある。けれども、これだけ大部で評判も高い作品なので、作者プルマンはこのなかできっと何かを言おうとしているんだぞ、それがわからなきゃあ、だめなんだぞ、ってちょっとプレッシャーを感じてしまう。
それが少しわかったかな、と思ったのは、3巻の464p死の国でウィルが父親と会った場面で、父親の言う「われわれは、地上の共和国—楽園を自分の世界にきずかねばならない。われわれにはほかの場所はないからだ。」というところや、572pでライラに「神を信じるのをやめたとき、善悪を信じるのをやめたの?」と問われたメアリーが「いいえ。ただ、わたしたちの外に善の力と悪の力があると思うのをやめたのよ。そして、善と悪は、人間のおこないについていえることで、善人と悪人がいるんじゃないと信じるようになったの。」という部分で、ああこういうことが言いたいわけなんだな、ってわかってきた。善悪の区別のできないキャラクターを登場させるわけもわかった。でも、何か意味をみつけなきゃ、と思いながら読んでいくってしんどいから、あまり考えずにお話を楽しもうとしたほうがいいけどね。とにかく、たくさんの世界を体験し、果ては死の国まで連れて行かれてしまう。またいろんな切り口で人間をみせてくれる。結果的には、人間って何だろう?この世界は一体この先どうなってしまうのか?というようなことまで、考えさせられた。それは漠然としたものだったけれど、あとがきを読んで、また今紹介してもらったプルマン自身の考えを聞いて頭が整理できました。大きな作品だと思う。
不満な点は、ライラって最初は元気で魅力的だと思ったけど、だんだんそれが鼻についてきて、自己中心的で嘘つきでいやな子どもに感じられてきたのね。それは彼女のせりふの訳し方にも影響されてると思う。「〜〜だわ。」を多発しているのがすごくうるさい。

トチ:訳者は今時の女の子の話し方をよく知らないのでは? 「〜〜だわ」という話し方をするのは、おばさん世代。いまは、男の子と女の子の口調がどんどん近づいてきている。でも、微妙に違うんだわよね。

ペガサス:男の子と女の子の口調の違いがはっきりしていなし、口調のせいもあってすごく子どもじみている。3巻の最後で大人に成長するでしょ。でも成長の途中の過程があまり感じられなかったから、突然ライラがウィルに愛を告白して、なんだか唐突だと思った。こんなに長いことライラに付き合ったのにその成長がいまいち納得できないのは残念でした。ライラとウィルをアダムとイヴになぞらえているんだけれど、キリスト教を知っていないと日本の子どもたちには分からないんじゃないかしら。アダムとイヴのパロディのおもしろさが分からないんじゃないかしら。

トチ:口に赤い実をふくませるところなど「あっ、知恵の木の実!」と創世記の記述を思い浮かべ、その色の鮮やかさにこめたプルマンの心に感動もしたけれど、聖書に親しんでいない日本の子どもは分からないかもしれないわね。

ペガサス:3巻の各章にウィリアム・ブレイクやジョン・ミルトンの言葉が書かれているけど、それぞれに意味を持たせているはずで、そういうところももっと理解できれば良いのかもしれない。

アカシア:ダイヤモンド形の骨格の生き物が出てくるでしょ。こういう姿のものをプルマンが敢えて創造したところに、何か意味があるわけ? 私はその辺もよくわからなかった。

ねむりねずみ:プルマンは、パラレルワールドの作り方がすごくうまいと思う。ダイヤモンド型の骨格の生き物にしても、エデンの園を思わせるのどかさと機械的な部分がない交ぜになっていてオリジナリティがある。どこかで見たようでいて、プルマン独自の世界になっている。

トチ:ダイモンは、中近東の昔話によくでてくる守り神によく似ているわね。たとえば、魔物が悪いことばかりしているので滅ぼそうとするけれど、絶対に滅ぼせない。ところが、海のむこうの小島に魔物の守り神である鹿が住んでいることがわかる。その鹿を殺せば、魔物も滅ぼすことができる。

:私は、1巻の表紙のライラと熊の絵が気に入って期待して読み始めたのですが、ライラがいたずらっ子で『モモ』(ミヒャエル・エンデ著/大島かおり訳/岩波書店)みたいな女の子かなって思ってワクワクして読んでいったら、なんとも複雑で。登場人物も多いし。ダイモンは魂のようなものかな? ダストは何? 気配の事? 深いものがありそうだ、などと考えていると訳わからなくなってきたけど、「?」を考えない事にして読めば、今までになかった世界を面白く読めた。2巻の中くらいでウィルとグラマン博士と出会うあたりから、「?」が分かってきて面白くなってきました。キリスト教の事や聖書の事が生活の一部のようであれば、すんなりと読めるのでしょうね。急ぎ足で読んでしまったけど、もっとじっくり読むべきだと思ったし、細切れで読まずに腰を落ち着けて読まないと大切な事が読み取れないと思った。深い意味のあることがたくさんちりばめられていて、息つく間が無い感じで。もう一度読みなおしたいし、読みなおせる本だとと思います。

トチ:この作品は〈十二国記〉以上にオリジナリティあふれる世界を創造している。そのうえ、テーマが誰にも共感できるものであり、1巻から3巻までしっかり筋が通っている。オリジナリティあふれるファンタジーというだけだったら、他の作者も書いているかもしれない。テーマにしたって、たとえば評論という形だったら他の人も書いているかもしれない。でも、作者が心から言いたいこと、子ども達に伝えたいことを、こういうファンタジーを作ることで成し遂げたというのが、この作品のすごい点だと思う。死者の国から死者が別の世界へ出て、粒子となって世界に溶け込んでいくところに私は感動したけれど、これは宇宙の星の終焉の有様と似ているわよね。ひとつの星が爆発して、人も、石もなにもかも、ばらばらになって、暗い宇宙のなかでタンポポの綿毛みたいになる。やがて、それがまた結びついて、もとの星の粒子が違う結びつきをして、新しい星になる。
それから「万物に神が宿る」という日本人の考え方……というか感性にも近いものがあるわね。養老孟司さんが、「海外で『千と千尋の神隠し』が評価されたのも、唯一神の信仰が文化の土台にある国々の人にはこういう物の見方が新鮮だったからではないか」と言っていたけれど、プルマンの作品も同じような意味で新鮮だったんじゃないかしら。
以上が評価できる点だけれど、翻訳もふくめて本づくりには大いに不満があります。英語にかぎらないと思うけれど、外国語にはたとえば「お母さん」を次の文章では「ミセス・スミス」と言ってみたり、いろいろに言い換えることがあるでしょう? それをそのまま訳してしまうと、文化のギャップなどでただでさえ読みにくい翻訳物がますます読みにくくなる。翻訳者は誰でもそういうところを原作の味を損なわない程度に工夫していると思うけれど、この本ではそういう配慮がみられない。「あー、大変だったろうな」とは思うけれど、楽しんで翻訳しているとは思えないわね。もう一度、じっくり訳しなおしたものを読みたい。それから、訳者後書きで、「ハリー・ポッターを読んだ子どもがこの本を手にとってくれたら……」というようなことを書いているけれど、それはちょっと違うのでは?

アカシア:小谷真理さんもハリー・ポッターとこれを同じところで読んでいるけれど(4/6付けの読売新聞(夕刊)本よみうり堂ジュニア館)、私はこの二つの作品は異質だと思う。

:私は前の作品もまだ読んでなかったので、1巻はじっくりと読んだけど、時間がなかったせいで2巻、3巻は駆け足になりました。テーマが壮大で、構築力のある作家だと思う。まだ私のレベルでは読み切れないところがたくさんあると思うので、時間がたってから読み直せば、新しい発見や、「ああ、そうだったのか」とわかることもあると思う。マルチな文化にいた人かしら? 博学で宗教、物理、文学、中国の易、詩、と、それらを自分流に構築していてすごいと思った。作品全体を通しての印象は、以前『黄金の羅針盤』の読書会で出てきた「頭では面白いのに、心では面白くない」というのが、とてもうなずけるコメントですね。かなり難解なのに、何か読ませる力がある。何がここまで読ませるのか?と考えましたが、それは、誰もがもっている真理を求める心なのではないかと思う。普遍的な何か、真理を求める心があればこそ、神を信じる人もいれば、宇宙の神秘を探ろうとする人もいる。普段は、そんなに考えないことであっても、誰でももっている心のあり方なんだと思う。深い部分を探るような作業になるから、疲れるけれど、もっと先を知りたいという気持ちになる。この人は何が言いたいのか、この先には何があるのか、どんな宇宙観を持っているのか、そんな気持ちが強くなる。宗教的知識も体験もないけど、人を超えた存在はあると信じているし、物理学でいう「揺らぎ」とか「フラクタル現象」のようなものにも興味はある(よくはわかりませんが……)。宇宙に意思というものがあるようにも思う。でも、自分のこの作品の読み方は、頭で読む大人の読み方だなあと思う。子どもだったらどういうふうに読むんだろう。よくありがちだが、羅針盤や剣や望遠鏡などの道具を巧みに使うところは、子どもたちも楽しく読めるところだと思う。ライラが羅針盤を読むときのトランス状態の感じはおもしろい。そんな風に、宇宙の意志のようなものを感じてみたい。

ねむりねずみ:2巻目がここで取り上げられたときに、「おもしろいのは原作のおかげ、わからないのは訳のせいじゃない?」という声もあったので、かなり前に原文を読んでいたこともあり、訳を意識して読みました。原文はともかく先が楽しみで、じっくりと楽しみながら読もうと思っていたのに、ついついどうなる、どうなると、どんどん読んでしまった記憶があります。スターウォーズみたいな活劇場面が出てきたり。でも、なるほど、なるほど、とオリジナリティに感心する一方で、大風呂敷を広げすぎて収拾がつかなくなって無理矢理終わらせたんじゃない?っていう感じがしたし、コールター夫人の行動はやはり理解できなくて、そのあたりは、訳書を読んでも変わりませんでした。
それはそれとして、今回訳書を読んでみて一番印象深かったのは、「児童文学の古典」と帯に銘打ってあるわけだけど、それをこんな訳で出したらかわいそうだ、ということでした。こんな生意気をいうのは気が引けるけれど、ほとんど直訳かと思わせるところがあるし、訳のせいでよくわからないところも多々ある。せりふもなんかしっくりこなくて、訳書の204ページで、コールター夫人が「ウィル坊っちゃま、どうするべきだと思う?」というところなんか、とてもコールター夫人の言葉とは思えない。ダイモンの言葉やウィルの言葉にも不自然なところがある。わかりにくいという点でいえば、たとえば544ページの「その道は風景の一部で、税の負担もないのだ」っていう文ですが、こんなところに唐突に税が出てくるはずがない。ここは、自然を破壊したりして作ったのではない、「ごく自然で風景にとけ込んでいる道路」の意味だと思うんです。それに、最後のライラのせりふでも、「だけどどんなにがんばたって、自分のことをまず第一にしていたのでは、絶対にできないの。」という意味だと思われるところが、「自分のことをまず第一にしていたのでは、」の部分がそっくり欠落しているので、まるで無意味な文章になってしまっている。こんなふうに訳が足を引っ張って物語世界がくっきりと浮き上がってこないので、読みにくさが倍増している。ただでさえ、厚い本なのに。でも元々の作品はやっぱりすごいと思うんです。オリジナリティーの点でも、目指すところについても。だからますます残念で……。わたしは前からキリスト教に興味があったので、なるほどなるほどという感じのところが随所にありました。逆にこの本からプルマンのキリスト教への強いこだわりを感じ、それを鏡像のようにして、ヨーロッパでいかにキリスト教が強いのかを実感させられたというところもあります。キリスト教が強いからこそこういう本が書かれるんでしょうね。死者が解放されて自然に帰るいわば輪廻のような感じも、キリスト教文化からすると新鮮なんでしょうね。ライラの両親についてですが、お父さんはあんなものだろうと思うんですが、お母さんの造形はやっぱり物足りない。プルマンって女性を書くのが苦手なのかな。母性とか、いわゆる女性的なものになると、うまく書けていないような気がします。男の人はそれなりに男っぽく書けているのに。それにしても、ダイヤモンド形の生き物はイメージしにくい。確かに原作にもそう書いてあるけれど、訳の段階で読者にもっと親切にしてもいいんじゃないかな。

ペガサス:115pのメアリーのそばにすさまじい音で落ちてきた物体のことだけど、直径1メートルほどの丸い物体で、「……地面をころがりづづけ、とまり、横ざまに倒れた。」と書いてあるから、巨大な円盤状のものを想像するけど、これを見たメアリーが「これってなんなの?種子のさや?」って言うの。どうしても「さや」っていうイメージではないと思うけど?

アカシア:訳者は、3巻まで読んで全体像をつかんでから訳しているわけではないから、きっと大変だったと思うのね。途中の段階では、きっと頭の中にいろいろな疑問がわいてたんじゃないかな?

トチ:汗をかきながらやっている気がする。プルマンは「この本は賢い人に読んでほしい。愚かな人でなく。こんなことを私がいうと、また誤解されるけれど、世の中には賢い人と愚かな人がいるといっているわけではないのです。人間の頭の中には賢い部分と愚かな部分があるけれど、その賢い部分で読んでもらいたいという意味です」とAchuka のインタビューで言っているけれど、脳に賢い部分が少なくなった私には、妙に納得できる言葉でした。分かりやすい本だけでなく、格闘するような本が読みたい。子どもたちにもそういう本を読んでもらいたい。賢い部分で読む本を読みたいと思っている子どもも、世の中にはけっこういるんじゃないかしら。
*なお〈ライラの冒険シリーズ〉については、『黄金の羅針盤』を2000年2月、『神秘の短剣』を2000年10月の「言いたい放題」で取り上げています。

(2002年04月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


2002年04月 テーマ:重層的異世界ファンタジー

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『2002年04月 テーマ:重層的異世界ファンタジー』
日付 2002年4月18日
参加者 すあま、ねむりねずみ、杏、トチ、愁童、アカシア、ペガサス、カーコ、羊
テーマ 重層的異世界ファンタジー

読んだ本:

小野不由美『月の影 影の海』
『月の影 影の海』 (十二国記) 

小野不由美/作
講談社
1992.06

版元語録:「あなたは私の主、お迎えにまいりました」学校にケイキと名のる男が突然、現われて、陽子を連れ去った。海に映る月の光をくぐりぬけ、辿りついたところは、地図にない国。そして、ここで陽子を待ちうけていたのは、のどかな風景とは裏腹に、闇から躍りでる異形の獣たちとの戦いだった。「なぜ、あたしをここへ連れてきたの?」陽子を異界へ喚んだのは誰なのか? 帰るあてもない陽子の孤独な旅が、いま始まる!
フィリップ・プルマン『琥珀の望遠鏡』
『琥珀の望遠鏡』 (ライラの冒険シリーズ3)

原題:THE AMBER SPYGLASS by Philip Pullman, 2000(イギリス)
フィリップ・プルマン/作 大久保寛/訳
新潮社
2002.01

<版元語録>羅針盤を頼りに旅を続けるライラとウィル。その旅は「死者の国」にまで及ぶ。ライラの担った役割とは? そして地上に楽園を求め、共和国建設を目指すアスリエル卿と「教会の権力」の闘いは? 傑作冒険ファンタジーの完結篇。

(さらに…)

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ルート225

藤野千夜『ルート225』
『ルート225』
藤野千夜/作
理論社
2002.01

ねむりねずみ:『ぶらんこ乗り』(いしいしんじ作 理論社)と似てるなあって思いました。最初の一人称のしゃべり方で、ガガガってひっかかっちゃった。今風というのはこういうのかもしれないけれど、好きじゃない。とりとめがなくて、宙に放り投げられたような感じで。今を生きていくっていうのはこういう感じなんだろう、うまくそれが出てるな、とは思うけれど、書いてどうなるんだろうとも思った。両親がいなくても何となく生きていけちゃうという感じが今風なんだろうな。弟がいじめられているとか問題はあるのに、なんだか迫ってくるところがない。物書きとしてはすごく力があるのだろうけれど・・・。

ペガサス:はーっ(ため息)。3分の2くらいまではおもしろく読んだのね。現代に生きる子どもたちが、実態のない生活観というのをもっているというのを書きたかったのかなと思う。猫の死体を車がひいたんだけど両親に問いただしても答えは得られない、吉牛(牛丼の「吉野家」)の前に戻ろうとするんだけど戻れないというあたり、今の暮らしの中には、なんかへんだぞと思う瞬間があって、そういう雰囲気を書きたかったのかな。自分が本当に感じたことと、実際に起こったことのずれを書くために、最初のエピソードを出したのかも。ただ、そうなのかなと思うことはあっても、そうなんだよねと思うところはなかった。今の子の、何をしてもうざったいという感じはよく書けてる。小道具も今のもので、固有名詞をちりばめているから、今の子たちにはすっと読めるようになっている。切れ切れの感覚はよく書けてるけど、羅列にとどまっている。途中でABA´と3つの世界が出てきて、どう差があるのかなと考えて読むんだけど、クマノイさんみたいに差がある人もいれば、塾の先生みたいに差がない人物像もある。だから、混乱してしまうときもあった。結局3つの世界をどうやって決着をつけるのかな、ということになるけど、はたして辻褄の合う決着が得られたのか? でも、わけがわからなくてもいいのかな、というふうには思いました。今の子の追体験をした物語だと思います。

アカシア:作者は、性同一性障害を抱えた人ですよね。世間のスタンダードと自分のスタンダードのずれを、ふつうの人より感じていて、それを書きたかったんじゃないかな? 全編を通じて、不安定な感じが読者にも伝わってくる。それに、3つの世界の差があるのは、お父さんとお母さんとクマノイさんだけなんですよね。お父さんとお母さんが死んでいるんだ、と解釈すると、この作品の構造はすっきりわかるような気がしました。両親が亡くなっていると考えると、主人公の頭の中でだんだん想像の世界が薄れていって現実を受け入れる方向に進んでいくんだってことが、わかるでしょ。

ペガサス:そっか、だから写真にうすく写るんだ。

トチ:最後の1行を読んだら、それがわかって悲しくなったけれど、たしかにわかりにくいよね。

アカシア:会話は、今の中学生の会話になっているんだと思うんだけど、p117のダイゴの「失敬だなァ」っていうのは使わないよなと思いました。あと、この子たちが通っている私立の学校は、学生帽をかぶらなければならないくらい校則が厳しいとすれば、ナイキのスニーカーなんか通学に履けないんじゃないのかな? リアリティということでは、そのあたりひっかかったんだけど。題名の『ルート225』って、どういう意味? 国道は出てくるけど。

:私はね、うそー、なんでこれで終わるのかよー、と思いました。でも、子どもの本を読むのは能力がいるんじゃないか、もう私は読めない体質になったんじゃないかとも感じました。会話にいちいちひっかかったりして、読みづらかった。両親が死んだとは思っていなかったので、それを聞いたらストンときちゃった。でも、気持ちがおさまらないので、芥川賞をとった『夏の約束』(藤野千夜作 講談社)を読んだら、そっちは現実逃避の話ではなくて、私たちはこっち側しか見えてないんだけど、向こう側も見えるっていう中間の感覚を書いてるのかなと思いました。p280の「この世界の東京じゃなくてもとの世界の東京のことだけど、どちらにしろ離れてしまうと、その境界はじょじょにあいまいになって、今ではどっちも同じように、ぼんやりとなつかしい場所のような気もする。」という部分を読んだときは、その感覚がわかるような気がした。

もぷしー:この本は、理屈や常識でわかろうとして読んじゃいけないんだなと思いました。最後には元の世界に戻ってくるんだろうと思いながら読んだら、肩すかしをくらいました。そもそも、二人の姉弟に、現実に戻りたいという切迫した気持ちがないような気がする。基本的には、現実に戻ろうとしていると思うんだけど、なんで戻りたいのかは書かれてない。テレカがなくなれば、それはそれであって、本当に戻らなくちゃいけない切迫感はない。今の現実を本当は受け入れたくなくて、考えないようにしていたら、ほかの世界に行ってしまった話なのかなと思いました。弟のダイゴも、自分と世間とのずれを感じてるんだけど、いじめでもなんでも、なかったことにしようとバリアをはっているうちに、現実とか本当のことへのこだわりがなくなってきてしまったんじゃないかな。この話の、パラレルワールドの世界は、二人が現実のところからずれてしまって、でも真実の世界もうっすらと見えているようすを描いているのかと思いました。

紙魚:私は、なにしろ会話がうまいなあと惚れ惚れしました。先月『海に帰る日』(小池潤作 理論社)を読んだときは、こんな言い方するかな? なんてところが、ところどころあったけど、この人の会話には、そういうところがひとつもない。単に語尾なんかの問題ではなくて、ディテールはもちろん、やり取りや間合いが小気味いい。実際の会話って、説明とかどんどんとばして、お互いがわかっていれば飛躍していきますよね。でも、小説ってついつい説明過多になっちゃう。でも、これほんとに、そうそう、そうなのよーって、リズムが心地よかったです。物語としては、これまでの藤野さんの作品の方がおもしろかったけど、『ぶらんこ乗り』みたいに、筋を追うだけが必ずしも本じゃないとも思います。そういった意味では、成功していると思う。

すあま:『ルート225』のタイトルは、数学の√(ルート)だということに読んだ後で気づいた。章タイトルにある「ルート169」、13歳からはじまっていて、最後は「ルート225」で15歳、という意味がわかったら、この本についてはもう気がすんだ。会話の感じは、テンポもいいし、ちょっと前でいうと、吉本ばななというところかな。最後どうなるかを知りたくて読んでいったけど、女の子の気持ちに深みがなくて、気持ちにそえなかった。悩みもさらっとしているし、違う世界に行っても解決するわけでもない。必死さも今一つ伝わってこない。

:テーマは「ずれ」だなと思ったんですよね。現実とのずれ、両親とのずれ、ずれのモチーフをいろいろなところにもってきていて、究極的なずれは、あの世とこの世だったんだなと気づいたんですね。ただ、私はリアリティが感じられなかった。不安定さにリアリティがなくて、感覚的な部分と構成が合致しなくて、外枠と内容物がうまくかみあっていない。ふりまわされて疲れました。会話が物語をつくっているようには見えるけど、物語がおもしろくない。タイトルは、すあまさんの説明をきいて納得しました。

ブラックペッパー:不思議感あふれる作品でした。「理解されること」を重要視していないのかな。わからない人にはわかってもらわなくてもいいというのも、それはそれで好きになることはあるけど、この物語の場合は、どういう仕掛けだったのか知りたくて読んでたのに、私は両親が死んでしまったとは思わなかったので、結局どういうことだったのかわからなくてザンネン。でも、全体の空気は、とってもよかった。たいへんな事態なのにさめさめだったり、会話なんかも今の時代の人はまさにこういう感じ。このあいだの『海に帰る日』は無理してる感じがあったけど、これはナチュラル。藤野さんは、こういうの上手だなあ。このユルーイ感じ、好き。

トチ:わたしも会話はうまいなあと思いました。こういう会話が書ける人って、耳がいい作家だと思う。ただ、これだけのページを費やして書く内容かなあという気もしました。それに、たとえば『吉牛』とか今時の言葉をたくさん使っているけれど、こういう言葉って、あっという間に古くなってしまうのよね。子どもの本はベストセラーよりロングセラーってよくいわれるでしょ。作者は別に子どもの本って意識して書いていない、読みつがれていってほしいなんて思っていないのかもしれないけれど。『ぶらんこ乗り』もそうだったけれど、このごろの理論社の創作ものには、「別に分からなければ分からなくてもいいですよ。好きな人だけ読んでくれればいいですよ」って言われているような気になってしまうんだけど……。

アカシア:以前理論社を創立した小宮山量平さんのお話をうかがったことがあるんだけど、彼は、理論社は必ずしも完璧に仕上がった作品ばかりでなく、これは見所があるとか、この作家は将来性があるっていう視点で本を出版するんだって、おっしゃってましたよ。

ねむりねずみ:すみません、さっき開口一番さんざん批判しておいて寝返るみたいで気が引けるんですが、さっきの、この作品は両親が死んじゃったことを受け入れようとしている子どもの話だというご意見で、目から鱗が落ちました。そう思って見直すと、すべてがあるべきところに見事にはまるんですね。見事にはまるし、作品としての迫力もすごい。非常に近しい人の死を受け入れられずに、すべての事柄を薄い膜を通してしか感じられないでいる人間から見たこの世という感じがよく書けている。この長さがあって、しかも構造もなんだかがたがたしているからこそ、そういう人間の気持ちがきちっと表現できている。そういう意味で必然的。短編ではこういう風には表現できないと思います。野心的だし、なかなかない作品。もっとも、読むほうは疲れるけれど。

ペガサス:ビニール傘を広げるときの感覚とか、ありきたりの日常の描写が、すごくうまいよね。ただね、男の子っていうものを、手にびっしり毛がはえてくるとかって表現するところは、ちょっとげっとなっちゃった。

:私も、性同一性障害を抱えた作家だというのを聞いて、描こうとしていることがわかったような気がしました。

紙魚:いやいや。そういうところを知らなかったとしても、この作品世界はわかると思いますよ。

(2002年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


辺境のオオカミ

ローズマリ・サトクリフ『辺境のオオカミ』
『辺境のオオカミ』
ローズマリ・サトクリフ/作 猪熊葉子/訳
岩波書店
2002.01

:これまでの猪熊先生の訳は非常に読みにくかったけれど、ずいぶんこなれてきたように感じましたね。3部作の続きだからと4作目も出したんだろうけど、やはり古いですね。訳文だけじゃなくて、アル—ジョン、暗喩、象徴性を使って、読者を成長させようとしているんだろうけど、今の読者にはこのスタイルはもう無理だと思う。サトクリフは、運命の不条理に立ち向かっていかなければならないという重いテーマを掲げてる。主人公をとりまく登場人物も不条理を抱いている。だから、啓示の瞬間をあたえるんですね。欲しても自分の力で得られないときに、啓示の瞬間をあたえて、道がひらけるという展開なんだけれども、物語からいくと、単に唐突にうつるんじゃないかな。ある人生観をもっていない読者にとっては、納得がいき辻褄が合うという運びになっていないんじゃないかと思いました。男の世界を書きながらも女を入れていくんだけど、今の中高生には、この男の世界は響かないと思うし、サトクリフが手渡したい読者とつながっていないんじゃないかと思いました。

紙魚:なにしろ読みにくかった。私はこれは修行だと思って読んだくらいです。おもしろいのはどこなんだろう?って考えながら読んで、なかなか見つからないので、不安になったくらい。長老に会いに行くところはちょっとわくわくしたんだけど、あとは読み進むのがつらかったです。もう、自分は、こういうものが読めない新しい世代なのかも、と思ってしまった。でも、読者が子どもっていうことを考えると、とくに子どもの頃って、本を理解できないと本が悪いのではなく自分が悪いと思ってしまう。そういう気持ちにさせてしまったら悲しいな。

もぷしー:私も、難しいというのと、全体の重い印象で、入っていけなかった。

:私は、こういう物語は割合好きなんですよ。だけどね、私が知っている限りの子どものなかでは、この本を薦めたい子はいないなと思って、これは私が読む本だな、と決めました。私はおもしろく読んだんですよ。長老にあいさつに行くところとか、クーノリンクスとの付き合いが深まって砦を守っていくところなんか、おもしろく読んだ。映画を観るように、情景を頭の中でつくりだしていくのは、おもしろかった。映画『ベンハ—』を観たときの感じで。まあ、これはひいき目もあるんですけどね。

アカシア:歴史小説って、日本の子どもに手渡すのが難しいな、といつも思うのね。これは4世紀くらいの話で、私たち日本人は、ローマ帝国については習うけど、そのとき辺境がどんなだったかは世界史でも習わない。だから舞台を思い浮かべるのが難しくて、日本の子どもたちには状況がよくわからないと思うんです。ストーリーの中心は、主人公がローマ帝国からつかわされて、族長の息子と仲良くなるんだけど、仲良くなった人を殺さなければならない運命になってしまう、というところかと思うんだけど、それがうまく浮かび上がらない。ストーリーそのものがドラマティックじゃないのかもしれないけど、日本語版の作り方にも問題があるかもしれない。編集者の手が全然入っていないように思える。翻訳者は物語の世界に入りこんでいるから客観的な目で見れば不足だったり、おかしかったりという点も当然出てきます。それを指摘して読みやすくしていったり、ある場合には日本の読者にもわかるように補足したりするのが、編集者の役目でしょ。
たとえばp57「わしは軍団をあげて怒りを示したんだ。おしまいな」って、「おしまいな」というのはどういう意味? 誤植? p98「族長は入り日の向こうに行くらしいな」ってあるけど、この表現で死をほのめかしているのは、今の子どもにはわからないと思う。「フィナンは正しかった」「そしてクーノリクスはそれを知っていたのだ」っていうところも、よくわからない。しかも、「『おれたちのおやじさんだ!』足が地面につくかつかないうちに彼は喘ぎながらいった」ってあるけど、「死んだのはおれたちの親父だ」っていうことがちゃんとわかるように訳してほしかった。原文でも、状況がとんでいたり、説明的な部分は省いてあったりするんでしょうけど、そのままだと日本の読者には物語の流れがわかりにくくなっちゃう。p156の「ご指摘になりましたように、カステッルムの砦と第三部隊とはわたくしの指揮下にございます。司令長官殿がわたくしを解任なさろうと思われるのでしたら、ここで、司令官としての決断を下さねばなりません。それが誤っていたということが証拠だてられましたら、その後でご処分ください。」っていう部分も、p238「『〜後方から襲いかかる。もしも奴らの馬を逃すことができればもっといい.』森林地帯での戦闘は馬上では不可能だったから、敵にとっても味方にとっても好都合なのだった」という部分も、状況がつかみにくかった。p239の、兵士が矢を放つ状況もわかりにくい。p250には、「隠れ家」という言葉がはじめて出てくるんだけど、これが何を示しているのかとまどってしまう。最後の方は、もうわからなくてもいいや、と思って読んでました。裕さんは、ほかのサトクリフの作品より訳がいいとおっしゃってましたが、私はサトクリフの本の中では、いちばんわかりにくいと思いました。

ウガ:ぼくも、こんなに読みにくい本はたぶん初めてだと思う。しかも斜めに読んでも、筋がわかってしまう。これは小学生上級と書かれているのに、注釈もないのでびっくりした。『ルート225』を読んだときと、まったく別の方向の違和感を感じました。

すあま:私は、サトクリフの作品の中で自分が好きだったのはローマンブリテンものではなくて、『太陽の戦士』(猪熊葉子訳 岩波書店) とかその他のものだったことにあらためて気づいた。図書館員の友だちに聞いても、この作品は評判がいまひとつ。原書で読んだ人は、原書の方がおもしろかったと言っていた。急いで読んだので、わかりにくいところはすっとばして読んだんだけど、私は伏線をはっていたものが後で出てきたりするのが好きなので、そういう部分はおもしろかった。最後の読後感もよく、救いがあるのがいいんですよね。でも、主人公が、自分で復讐するわけでもないし、少年から大人へ成長する物語でもない。作者が書こうと思っているものが、もともとおもしろいものではないのでは? 本人の葛藤も、他の本ほど描かれていないし、友情が生まれるところも、目と目が合うぐらいで、あまり物語がないですよね。あまりにも絆が簡単にできすぎる。主人公の大変さや悩みが感じられないのが物足りなかった。

ペガサス:私はサトクリフはものすごく好きだったんですね。『運命の騎士』(猪熊葉子訳 岩波書店)や『太陽の戦士』とかおもしろくて、訳も気にならずに読んでました。歴史的舞台はわからなくても、物語がおもしろければ読める。これまでのものがおもしろかったのは、初めから主人公に同化して読めるし、これまでの作品の主人公は、何かハンディや劣等感があったりして、それを克服して自分のアイデンティティを確立するという成長物語というところが読者にもついて行きやすかったんだけど、この『辺境のオオカミ』は、主人公がどうしたいのかがわからない。たとえば、『運命の騎士』の冒頭は「名前はランダル〜」と始まって、すぐにランダルのことがわかって、ひきずられていく。だけど、この作品は、主人公のことがなかなかわからない。かなり読まないと、頭がいいのか悪いのか、前向きなのか後ろ向きなのか、わからない。唯一この主人公の人間性を感じたのは、若い兵士が内緒で猫を飼っていて、その猫にミルクを与える方法を教えるところ、あそこはすごく人間的で、この主人公に心を寄せることができる。でもそれ以外には、そういうところが少ない。挿絵もないし注釈もない。ひじょうに難しい。この本は、難しいけど、サトクリフがお好きな人だけお読みなさい、と言っている気がする。

ブラックペッパー:1か月くらいたったドイツパンのような本でした。持ったときずっしり重くて、かたくて、キャラウェイシードなんかが入ってていい匂いがするから食べたいなと思うんだけど、食べてみたら堅すぎてあごが痛くなっちゃったという感じ。読み始めて、すぐわかんなくなっちゃって、あら、と思ってまた最初から読みはじめても、ちょっと中断すると、またすぐわからなくなって、最初の方結局4回くらい読んだんだけど、p76までしか読めなかった。ふつう、わからなくても力技で読んじゃうんだけど、軽薄なのに慣れた読者にとってこの本はムズカシイ。藤野さんのは空気だけでおいしいという感じなんだけど、こちらはしっかり噛まないとわからないという本。

トチ:文体が問題なのかしら?

ペガサス:感覚的にわかるっていうろところが一切ないもの。

トチ:ストーリーがおもしろくないっていうことかしらね。

ねむりねずみ:私はすごく懐かしい感じで読みました。このところ、一人称で感覚的なものばかり読んでいたから、こういう情景描写を積み重ねていくのは久しぶりでクラシックな印象。でも、最初のページで日本語にひっかかって、p30くらいまで行って、しょうがない、もう引っかかるのはやめようと決めてからですね、どんどん読み進めたのは。情景描写自体はすごいなって思うんだけど、いかんせん日本語に引っかかったものだから・・・。前半はほとんど事件らしい事件もなくてちょっとだれたけれど、撤退しなくちゃというあたりからスリリングになり、後半は懐かしの時代物という感じ、映画を見ているような感じで読めました。たぶん、生きていくこと自体が大変で、うろうろと悩んでいられない人間達の活劇の爽快さみたいなものなんだろうけれど。でも一方で、後半に出てくる「自分の命を犠牲にしてでも全体のために奉仕する」なんていう動きは、今の私たちにはぴんとこないなあと思ったり。それと、ハドリアヌスの城壁(イングランド北部にローマ教皇ハドリアヌスが設けた城壁)や舞台となったあたりを知っていると、今の風景とここに書かれている風景をダブらせてタイムトリップする楽しさがあるけれど、日本の子どもにはそういう楽しみ方はできない。そういう意味で、読者となるのはどういう人たちなんだろう? 今の社会状況の中で、活劇のおもしろさを出すにはどういうドラマ作りをすればいいんだろう? と、ふと考えちゃった。カニグズバーグの『クローディアの秘密』(松永ふみ子訳 岩波書店)なんかはすかっとしているけれど。

アカシア:この作品にあらわれている価値観って、男性支配社会の価値観そのままだと思うんだけど。

ねむりねずみ:そうなんですよね。このドラマだって、要するに勝手に侵略してきた連中が撤退しているというだけの話だし。

アカシア:男の潔さだとか、決断とか、昔ながらのものを持ってきているという気もしましたね。

:サトクリフの帝国主義的な価値観も古いですよね。

トチ:過去の物語を書くと、嘘になりやすいし、今の人たちに受けいられないというのもあるし。

ねむりねずみ:地元民を主人公にすれば、そのあたりは変わるのかな。

トチ:やっぱり1ページ目の「膝に頬杖をついて頭を抱えている」っていう描写でつまづいた。「色の浅黒い若者」がアレクシオス・フラビウス・アクイラと同一人物だとわかりにくかったし、物語にも入り込めない。歴史ものを日本で出すときには、登場人物の紹介くらいはあってもよかったと思う。ほかにも百人隊長とかいろいろ混乱してきちゃって、おとなでも難しいのに子どもにはもっとわからないんじゃない。

アカシア:後書きでもローマンブリテン4部作はこれで完結と言っているんだけど、オビ以外その4部作が何をさすのか書いてないのも不親切ね。オビはなくなったり、図書館ではとっちゃったりするでしょ。それに、できればシリーズの他の巻のあらすじくらいは書いておいてほしかった。

:たしかに、そこはほんとに不親切ね。

トチ:初めてローマンブリテンものを手に取る人は、きっと読者として想定されていなかったのね。

(2002年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ラモーナ、八歳になる

ベバリイ・クリアリー『ラモーナ、八歳になる』
『ラモーナ、八歳になる』
ベバリイ・クリアリー/作 アラン・ティーグリーン/絵 松岡享子/訳
学研
2001-12

すあま:この作者はこんなに時間をかけてシリーズを書いていたのだと驚きました。主人公も、ヘンリー君からラモーナに変わっていき、時代に合わせて書いているんですよね。お父さんが失業しているとか。ラモーナにくっついて読めたので、おもしろかった。8歳の子どもの失敗とか、ひとつひとつのエピソードが、なつかしいような、自分の当時の気持ちがよみがえるような思いで読めました。今の子が読んでもおもしろいんじゃないかな。ラモーナがいらいらしたり、悲しかったりしている気持ちもよくわかった。ラモーナが預けられている先で、どうしようもない子ウィラジーンの相手をするけれど、ラモーナ自身もそうだったことが読者にわかるとおもしろい。ラモーナがはちゃめちゃだった小さい頃がなつかしい気がする。

ペガサス:私も「ヘンリーくん」シリーズが好きで、子どもの気持ちをよく書いているって毎回感心する。『ビーザスといたずらラモ—ナ』(ベバリイ・クリアリー作 松岡享子訳 学研)では、ラモ—ナがはちゃめちゃで、極端に書かれていて、すごくおもしろかった。それに比べるとラモーナも少し小粒になってしまったのかな。昔は、『ビーザスといたずらラモ—ナ』は3、4年生によく読まれたけど、今の子どもたちには、これでも字が小さくて、読めないのかな。でも、絵も昔のほうがいいのよね。今回は、ビーザスの気持ちが出てこなかったのも物足りなかったし、これだけ読んで、ラモ—ナが魅力的にうつるかどうかは心配。それから、お母さんの言葉づかいで、「帰ってらしたわ」「車なしではやっていけませんもの」などの言い方は、今は言わないことばだよね。

ブラックペッパー:私は「ヘンリーくん」シリーズは、ぽつぽつとしか読んでこなかったんですけど、この本はとってもよかったです。トラブルはあっても幸せな感じが底にずっと流れていて、安心感がある。p7の「ラモ−ナは、だれに対しても——自分に対してもですが——正確さを要求する年齢に達していました」というフレーズが好き。アメリカンテイストもいいし、ラモ—ナのそのときどきの気持ちもわかるので、「そうそう、こういうのが好きなのよね」と思いながら読みました。でも、これ、小粒になったという感じなんですか?

すあま:日常生活をていねいに書いてはいるんだけど、前の作品ではもっとはちゃめちゃな事件が起こってたよね。

ねむりねずみ:悲しいことも嬉しいことも全部、ああ、あったあったと思いながら読みました。根底に、子どもらしく育っている子の安心感ていうのか、安定感がある。そのほんわりした感じが心地いいんですね。最後に、家族が喧嘩した後に見ず知らずのおじいさんがご馳走してくれるなんていうのも、あり得ない話ではあるけれど、やっぱりなんとなく心和んでいいよね、という感じ。今時の子どもを描いた本って、シリアスな社会問題の暗い影が覆いかぶさっていたりするんだけど、読者を元気にしてくれるこういう本っていいなあ。これからを生きていく子どもたちにとって、こういう本がほんとうに大事だと思う。今回の3冊の中では、文章もいちばんぴったり来て、楽しく読めました。

アサギ:ラモ—ナと同じ年頃の子が読んでも、共感すると思うほのぼのとしたいい本ね。現実よりも美化されているとは思うけど、こういうのはいいと思う。全体のトーンはいいのだけれど、ただ訳語はイージーだと思ったわ。たとえば、p6の「お姉さんは実際以上に年上であるかのように」って、8歳の子が読む文章かなと思うし、p7の「正確さを要求する年齢」っていうのも、8歳の子がぜったいに言わない言い回し。

ブラックペッパー:8歳の子が自分で言う言葉ににそういうボキャブラリーはないと思うけど、小さいときってそんな気持ちがたしかにあった。それを言語化して代弁してもらったという喜びがあるんじゃない。

トチ:しかも、わざわざかたい言葉を使ったユーモアなのよね。

すあま:私も、わざわざ大げさに書いているんだと思った。訳が下手で直訳にしているのではなく、雰囲気を伝えるために、わざとこういう表現にしているのでは。

アカシア:私は、この本の読者対象は8歳よりも、もうちょっと上なんだと思う。松岡さんは、小さい子どもたちとしょっちゅう接しているから、そのへんのことはよくわかって訳していると思うな。

アサギ:私はね、p57の「片目のすみから」っていう表現も気になったんだけど、そんなことできるかしら。

アカシア:松岡さんの訳は、全部子どもにわかるようにするっていうより、わからないところは飛ばして読んで、後で「これどういうこと」って大人にきいてもいい、っていうスタンスなんじゃないかしら。ちょっと難しい言葉がわざと入っている。でも、それがユーモアにもつながっている。

紙魚:私もとっても気分よく読みました。さっきブラックペッパーさんが指摘した「ラモ−ナは、だれに対しても——自分に対してもですが——正確さを要求する年齢に達していました」っていうところが、私もいちばん好き。たとえば、小さいときって年齢きかれたりして、隣の姉が「もうすぐ5歳です」とか勝手に答えちゃったりすると、「ちがう! まだ4歳だもん!」なんて、へんなところに妙にこだわったりして、逐一そんな感じだった。大人になると、まーだいたいそんな感じって、許容量が大きくなるけど、子どものときの、あの正確さを忘れないでいる作者はいいなあと思いました。p12の新しい消しゴムの描写とか、p24のその消しゴムがなくなっちゃったときのラモ—ナの気分、p161の「ラモ—ナはもう章のついた本が読めるのですから」なんていうところもいいですよね。なんといっても、p74のホェーリー先生の「見せびらかし屋」「やっかいな子」という言葉に傷つくラモ—ナの気持ちなんて、本当にこちらまで痛くなるくらい。子どものときの感覚をきっちりと持っているか、子どもをじっくりと見ている人だと思いました。

もぷしー:大人になると、問題を解決をしないことに慣れていきますよね。でも、小さいラモ—ナは、ひとつひとつ確認しながらクリアしていく。ラモ—ナが成長しているというのがわかって、気持ちいい作品だと思いました。吐いちゃったりして、先生に悪く言われたのを、大きくとらえているのもいい。子どものときに持つ感覚がきちんと再現されていて、子ども読者も共感しやすいと思う。

トチ:ここはいかにもアメリカ的ね。

:私も「ヘンリーくん」シリーズが好きだったんですが、今回も、この8歳の子の気持ちになれました。「見せびらかし屋」で「やっかいな子」と言われて、つらくなる気持ちがよくわかって、しかも病気になって、ただ、お母さんがやさしくしてくれるのはうれしくて。どの場面にも、気持ちをよせて読むことができました。たいへんなことがあっても、安心できる、子どもに向いた物語はいいなあと思いましたね。物語がおもしろいから、訳は気にならなかったです。前にね、図書館で乱丁本をみつけて貸し出し記録を見てみたら、ずらーりと名前が書かれてあって、何人もの子が読んだ本だったんですね。そのとき、ああ、子どもの力ってすごいなと思ったんだけど、そのときの原点にたちかえったような気分です。

アカシア:これまでのラモ—ナ・シリーズは、ああ自分もそうだったなあと思えて、ラモーナに同化しながら読んでたんですけど、今回は、ラモ—ナはなんて自己中心的なんだ、と思っちゃった。以前の作品でビーザスがラモ—ナにあんなに我慢してたのに、この作品でビーザスと同じ立場になったラモ—ナは、ウィラジーンにとってもいらいらしてる。先生の言葉だって、よく考えればわかることなのにね。子どもって、とっても自己中心的な存在なのよね。そこが、とってもうまく書けてるし、だからこそ、その自己中心的なラモ—ナを包みこんでいるお父さんとお母さんの偉さに、今回は感動しちゃった。親たるものこうでなくちゃ、と遅まきながら思いました。それからクリアリーという人は、3年生くらいまで文字が読めなかったらしいのね。学校でつまらない本ばかり読まされてたのが、風邪で休んでいたときに、おもしろいと思える本に出会って、突然読めるようになったんだって。この本の中にも、つまらない本への言及があって、なるほどと思った。つまらない本を子どもにあたえても、読めるようにも、本好きにもならないのよね。

アサギ:作者が子どもの気持ちをわかっているってみなさん言ったけど、ほんとうにそうね。私はこれを読んで親として反省するところがあったわ。下の子が3年生のときに、誕生日会に呼ばれたことがあるのよ。20人以上招待されてたの。そのときの招待状に、「プレゼントは持ってこないように」とはっきり書いてあったもんだから、私、うのみにして子どもに何も持たせなかったのね。そしたら、うちの子以外、全員がプレゼント持ってきたんですって。それを聞いたとき、私は「呆れた! 20人からプレゼントをもらうなんて、第一その子にとってよくないのに」と思ったのだけど、これを読んで、うちの子はやはり傷ついただろうなって、今さらのようにかわいそうに思いました。

ウガ:ぼくも傷つきやすい子だったので、子どものとき読んでたら、ショックでたちなおれないっていうのが、よくわかったと思います。卵が割れちゃうところなんかきっと。つまらない本への言及もありましたが、子どものときって、読まなければいけないっている義務感もあったんですよね。

アカシア:私なんて、子どもに生卵持たせちゃう可能性あるなー。

ペガサス:ラモ—ナは、大人は理不尽なことをするってこと、わかってるのよね。

(2002年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


2002年03月 テーマ:最近出版された気になる本

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『2002年03月 テーマ:最近出版された気になる本』
日付 2002年3月28日
参加者 トチ、ねむりねずみ、ペガサス、アカシア、羊、裕、もぷしー、
すあま、ブラックペッパー、アサギ、ウガ、紙魚
テーマ 最近出版された気になる本

読んだ本:

藤野千夜『ルート225』
『ルート225』
藤野千夜/作
理論社
2002.01

<版元語録>芥川賞受賞後第一作/私と弟が迷い込んだのは、微妙なズレのパラレルワールド!?/変わらない日常、だけど誰かのいない世界/同時代のせつないくらいのリアルさを、軽やかにつかみとる/著者初の書き下ろし長編
ローズマリ・サトクリフ『辺境のオオカミ』
『辺境のオオカミ』
原題:FRONTIER WOLF by Rosemary Sutcliff, 1980(イギリス)
ローズマリ・サトクリフ/作 猪熊葉子/訳
岩波書店
2002.01

<版元語録>ローマ帝国のさいはてに、〈オオカミ〉と呼ばれる者たちがいた。/ローマ軍の青年指揮官とブリテンの氏族との、友情と憎悪、出会いと別れ——『第九軍団のワシ』『銀の枝』『ともしびをかかげて』につづくローマンブリテン・シリーズの完結編
ベバリイ・クリアリー『ラモーナ、八歳になる』
『ラモーナ、八歳になる』
原題:RAMONA QUIMBY, AGE8 by Beverly Cleary, 1981(アメリカ)
ベバリイ・クリアリー/作 アラン・ティーグリーン/絵 松岡享子/訳
学研
2001-12

<版元語録>小学校3年生の人生もそんなに楽ではありません。ゆでたまご事件をおこしたり、先生に、見せびらかしやさんで、やっかいな子だと言われたり…。「ゆかいなヘンリーくん」シリーズの作者が贈る、愛すべき女の子の物語。

(さらに…)

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家なき鳥

グロリア・ウィーラン『家なき鳥』
『家なき鳥』
グロリア・ウィーラン/作 代田亜香子/訳
白水社
2001

トチ:なによりテーマがおもしろいし、明るく、さわやかな感じがして、気持ちよく読めました。この明るさが『家なき鳥』のなによりの特徴だと思ったし、訳者後書きにもそう書いてある。角田光代さんが朝日新聞の書評で、この本の明るさは主人公の自尊心から来るものだといっていましたが、なるほどと思った。ただ、その明るさにある種の違和感を覚えたのも確か。時々、『大草原の小さな家』のローラが、インドに放り込まれたような感じさえして・・・インドの大地から立ち上ってくる匂いとか、湿気とか、熱気のようなものが、さわやかな風で吹き飛ばされてしまったような感じ。原文は、明るい散文詩のように書かれているのかしら。この本も、『炎の秘密』も、違う国の人が書いた異国の話。そういうものって、読むときにどうしても猜疑心を持ってしまうのよね。本当にその国のことが書けているの? なにかバイアスがかかっているんじゃないの? って。この本の場合、明るさがかえってマイナスになっているんじゃないのかな・・・っていう気がちょっとしました。

アカシア:明るさがマイナスっていうのは?

トチ:こんなに明るくていいの、ちょっと能天気なんじゃないの・・・と、ついつい疑ってしまうということ。

紙魚:私はその明るいのがいいなあと思いました。どんな厳しい状況でも、子どもは楽しいこと、幸せなこと、遊びをみつけていく。その希望があって、先へ読み進められました。それにしても、この『家なき鳥』と『炎の秘密』って、似てますよね。内容も重なるし、装丁の感じも共通するところがある。どちらも地味なつくりだけど、物語を読み進めさせる力がありました。あと、『家なき鳥』は刺繍だし、『炎の秘密』は服づくり。「手に職」って、人が自立していくにはとっても大切だなあと、しみじみ思いました。

:インドの貧しい物語って、『女盗賊プーラン』(プーラン・デヴィ作 武者圭子訳 草思社)などを読んでいたので、その印象が強かったの。この本では、お嫁にいった義理の父親がコンピュータのせいで仕事を失うという場面になって、やっと現在の話なのかと気づいて、びっくり。明るさについていえば、はぐらかされたような気もしたけれど、この子のもっている楽天的なところは愉快。2冊を比べれば『家なき鳥』のほうが好き。

アカシア:大地の匂いや温度、湿度など、わっとたちのぼってくるところはあったと思うの。ただ、たとえばp14「熱風にふかれて竹林がさらさら音をたてる」という部分があるんだけど、「さらさら」っていう日本語だとなんだかさわやかな感じがしちゃうのよね。この本は、インターネットの書評など見ると、リリカルな作品として評価されているんだけど、そのリリカルな部分が、翻訳でももう少し伝わってくるとよかったな。ところで、カースト制の中で上の階級のブラフマンは掃除も自分ではしちゃいけないなんて聞いてたけど、この子はなんでもやってますね。能天気ということでいえば、フィリピンのごみの山で生きているる子どもの映画を見ても思ったけど、逆に楽天的にしてないと生き抜いていけないんじゃないかな。ただ、けなげな少女が懸命に努力するとそのうちに報われて幸せになるという、昔ながらの「小公女」的な話というふうにもとれるわね。

:どちらかというと、私は『炎の秘密』の方が好きでした。私はキルトなど好きで、『家なき鳥』で、主人公の刺繍の描写が出てくると、わあ見てみたいなあと思いました。とても生き生きしたすてきな絵柄が刺繍されているんでしょうね。この少女、手に職があって、本当によかったですね。話は、悲惨な状況がずっと続きますが、少女の明るさとしたたかさには救われました。前に『ぼくら20世紀の子どもたち』というロシアのドキュメンタリー映画で、ホームレスの子どもたちにインタビューしてるのを見たんですが、少年たちは、明るくて元気なんですね。盗みなんかも平気でやるししたたかさも持ってて。何を支えに生きているのか、と考えたことを思い出しましたね。だから、このあっけらかんとした明るさは、違和感なく読めたんですが、義理のお母さんのいじめの場面や、ラージと結婚するところとか、女の人が意地悪なのに男の人がよく描かれていたりするのは、どっかで聞いたことがある物語だなあと思い、少し気になりました。

ペガサス:昔の名作ものとパターンが一緒なのよね。貧しくて、継母にいじめられて辛い境遇、でも助けてくれる人もいて、最後はお金持ちのご婦人の援助を得て幸せになるという話。場所が違うから感じにくいけど、昔からのよくある話。でも、そういう物語っておもしろいから、スタイルとして確立されているのよね。私も、この子が明るくて、意地悪をされたお母さんに対しても、本当に憎むというのではなく、ちょっとでも親切な言葉をかけてもらえるとうれしいと思ったりする、子どもの素朴で健気なところがよく出ているところがいいと思った。今の日本の子どもたちは、逆恨みしたり、キレたりという部分が描かれることが多いじゃない! 表現については、マーカマラの描写で、枕をいくつもあわせたみたいにまるまるしていたというのが、子どもらしくてよかったな。

ブラックペッパー:私も、おもしろいことはおもしろかったんですけど、あんまり言うことはないっていう感じ・・・。ハッピーエンドでよかったねー、でも最後再婚するのは、つまるところ幸せとはそういうことかー、なんて思っちゃった。明るいし、能天気で、あっけらかんとしているところは、たしかに心地よいんだけど、実際は、初めて会った死にそうなだんなさんに、あんなふうにさっとやさしくできるのかな。私にはちょっと無理そう。

アカシア:それは環境が違うからじゃない。初めて会おうが病気だろうが、新しい家庭環境の中で生きていくしかないんだろうし、そう教えられてきてるんだろうからさ。

愁童:初めて会っても、相手に関心をもったりすることはあるんだと思うけどな。ぼくは自然に感じた。今回の3冊の中ではいちばんよかったですね。ホッとする読後感があった。最近の日本のものって、心のひだを掻き分けて顕微鏡で覗くみたいな、ややこしいのが多いじゃないですか。そういうのに比べるとホッとする。子どもに読ませる本て、波瀾万丈でハッピーエンドで単純なのが案外大事な要素じゃないかって、これ読んで改めて思いました。生きがいとかいうようなことじゃなくて、母親から教わった刺繍が生きていくバネになってるのも、ああ、いいなぁ、なんて思っちゃった。

:どうして女の人をしばる制度を男の人はつくるんだろうね。

アサギ:私はこの本、とっても好きでした。インドのことってあんまり知らないけど、まず、カルチャーショックという意味で、すごくおもしろかった。13歳で顔を知らずに結婚して、持参金がどうのこうのっていうのも、てっきり昔のことだと思ってたのね。途中で、現代のことだとわかって興味深かった。作品としても、明るさがいいなあと勇気づけられた。明るくて前向きに生きていく話って楽しい。翻訳も私は気にならなかったわ。結局『炎の秘密』もそうだけど、主人公が知的な要素に目覚めるっていう定石が昔からありますよね。『若草物語』とか『赤毛のアン』にしてもそう。女性の地位が低い国においては、そういう方向に向くのは自然。しかも、手に職、芸は身を助けるというのもリアリティがある。子どもが読んでも得るところがあると思う。文化が違えば、結婚というのも違ってくるはず。最後はハッピーエンドとはいっても、自分で愛した人との結婚だから、「なんだ結婚か」というお定まりとは違うと思う。p136でも、ラージが結婚を申し込んでも、仕事を続けたいからと主人公が迷う。「家がぴかぴかじゃなくても〜」っていうところも、新しいインドの行き方じゃないかしら。ただね、ラージが登場したとき、あまりにも描写がていねいだから、あっ、この人と結婚するんだって、私わかっちゃったのよ。それと、いじめるお義母さん。彼女に対して、弟のところにいってもうまくいっていないに違いないって思うところなんかもいい。彼女もひどいっていうより、気の毒って感じよね。

すあま:こういうのって、かわいそうな女の子として描くやり方もあるんだろうけど、主人公の描き方がからっとしているところが救われている。終わり方もハッピーエンド。本としては、図書館などでは、児童書としてではなく一般書として置くことを勧めているみたい。異文化だけれど、難しくないし、とても読みやすいのに。ヤングアダルトっぽい感じなのかな。

トチ:表紙の感じが大人っぽいからかしら。

ペガサス:小学校高学年くらいに向くものが少なくて、ヤングアダルトばかりになってしまうなかで、一見大人向きだけど、子どもも読めるっていうのはいいわよね。出版社が白水社だからということもあると思うけど、図書館で機械的に大人のほうに置かれるのは残念。

すあま:こういう本って、本屋さんとか図書館ではすぐに手にとりにくいから、書評とか紹介とかがないとね。

(2002年02月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


炎の秘密

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『炎の秘密』
ヘニング・マンケル/作 オスターグレン晴子/訳
講談社
2001.11

:実話なので覚悟して読んだんですけど、ときどき文章にひっかかりました。『家なき鳥』と違って、宗教色がなかったのが意外。あんまり新鮮さはなかったけど、内容より、地雷とか社会的なことばかり気になってしまいました。『家なき鳥』ほど気持ちが入らなくて・・・。

ねむりねずみ:帯に実話とあって、本文の最初にもノンフィクションと書いてあるので、それに妙に足をひっぱられて、物語に入っていけませんでした。それにすごく邪魔されちゃって。アフリカのことはあまり知らないけれど、ピーター・ディッキンソンの人類創世の物語を読んだときのイメージと重なって、おもしろかった。鳥をいっぱい飼っているとか、イメージとしてとてもすてきなシーンがいろいろあるけど、それがひとつになってぐっと迫ってくるという感じにはならなかったな。

紙魚:冒頭、わりとイメージで押されてくるじゃないですか。なかなか、状況がつかめなくて、物語に入りにくかったんですね。たしかに、帯でノンフィクションという言葉が強く印象づけられるから、ちょっと動揺しちゃったのかな。それでもすぐに、わりとぐいぐいひっぱられて読みました。筋も気になるし、知らないこともいっぱい出てくるし。もちろん、少女の明るさとたくましさがいちばんでしたけど。驚いたのは、主人公と母親の関係があっさりしている点。一生懸命、義足で家までたどりついたのに。あー、きっと母娘で泣きながら抱き合うんだろうななんて思っていたら、わりとあっけない。その妙にクールなところが気になりました。

トチ:私はノンフィクションということを、全然意識せずに物語として読みました。『弟の戦争』(ロバート・ウェストール作 原田勝訳 徳間書店)もそうでしたけれど、これを書かなければという作者の熱い思いが痛いほど感じられて、胸を打ちました。登場人物のそれぞれの立場から書かれている点も、なかなかうまい手法だと思いました。

すあま:『家なき鳥』が読みやすいのは、話がうまくいくからじゃないかな。『炎の秘密』は、これでもかという状況が起きてくる。最初は、いつ地雷を踏むんだろうと気になります。踏んでからの足がなくなってしまった感じとか、お姉さんを亡くしたことへの罪悪感もうまく書けていました。たしかにノンフィクションだと、作品として悪いとは言えないということもある。でも女の子の心理描写を追って読めたし、読後感もよかったな。

アサギ:ヘニング・マンケルは、ドイツでもすごく人気のある推理作家。エンターテイメントの作家というイメージがあったんだけど、モザンビークの地雷の話なんで驚いちゃった。最近つらい話は苦手なので、最初いやだったんだけど、不思議と最後まで読んでしまいました。ソフィアは厳しい状況でもたくましく生きる子で、あとがき読んで、ああ他の子とはちがうオーラがある子だろうなと思いました。ただ、一気に読めたけれど、楽しい気分にはならなかったわね。でも、日本の子どもたちに読ませたい。『炎の秘密』っていうタイトルどおり、人間が原始的な生活をしていればしているほど、火って神秘的でよりどころとなると思うのね。モチーフとしてリアリティがあるじゃない! 『洞窟の女王』(ヘンリー・ライダー・ハガード作 大久保康雄訳 東京創元社)を読んだとき、アフリカの奥地に絶えない炎があってという冒険物語で、それは私にとって強烈なイメージだったのね。このモチーフは納得という感じだった。まあ、どっちかといえば『家なき鳥』のほうが好きだけど。

愁童:ぼくは、地雷の話かよっていう思いがあったんだけど、こういうのを子どもに読ませることにどれほどの意味があるのかな。ただこの作家は頭がいいし、うまいとは思ったね。段落を短く切って、いろいろな場面を簡潔に描いていく。メッセージが押しつけがましくない。最後、女の子が『家なき鳥』と同じような展開で、しっかり生きていく。ただ、『炎の秘密』には、「痛みにたえるときに黒い顔でも青白く見える」というような表現が所々にあって、作者が白人だからこういう書き方をするのかなと、ちょっと引っかかった。『家なき鳥』は作者が女の子の中にいるっていうのがわかるんだけど、『炎の秘密』の方は、アフリカはたいへんだなあ、地雷なんか踏んじゃってたいへんだって、外から書いてるような感じがしたんだけど。

ブラックペッパー:今って、長野オリンピックの聖火ランナー、クリス・ムーン以来、坂本龍一も地雷ゼロキャンペーンみたいなことしたりして、ちょっとした地雷ブームだと思うんですよ。この本、なんて美しい表紙だろうと思いつつ手にとったんだけど、ああ地雷ブームもこんなところまで・・・と、ちらっと思っちゃった。でも、よく見たら作者はここの住民だったりして、とおーいとおーいところから理想だけを語っているのではないということがわかって、よこしまなこと考えてスマンって気持ちになりました。これを読むことは意義があるし、それでいてつらすぎないところもいいとは思うんですけど、今月の落ち込み気味の私の気分には合わなかったんです。

ペガサス:地雷の話とか、本当にあった話という先入観とかもたずに読んだんですね。そうしたらいきなりお父さんが死んじゃって、なんてかわいそうなんだろうと思っていたら、もっとすごいことがつぎつぎに起こって、まあなんてかわいそうなんだろうと思って読んだんですね。なんとかこの子に幸あれと、どんどん先を読まずにはいられない。次がどうなるのかなと。一人称でないのに、こんなに主人公に心をよせて読める本も珍しいわね。周りの人がソフィアをどう見ているかというふうに書かれていくので、ソフィアに心を寄せられたのかもしれない。先入観なく読むと、冒頭部分は何がなんだかわからなくて、2章から様子がわかってきた。1章は途中まで行ってから、もう1度読み直してやっと意味がわかりました。

:ソフィアが好きになったし、本も好きになった。地雷の話については、先入観もあったんですが、テロがあったり、イランの映画監督のインタビューを見たりして、自分は何も知らなすぎたなと思っていたので、興味をもって読めました。NHKのドキュメンタリーでアフリカの黒人の人たちの複雑な状況を知って、ショックを受けたことがあるんですが、私は、そのとき、日本とアフリカでは、あまりにも環境が違いすぎて、自分の身をそこに置いてみても、どういうふうに考えていいいかわからなかったんです。どこか外から見ているようで。この本を読んで、この少女の体験を通して、内から見ることができたような気がします。ソフィアの明るさ、前向きさ、内なる声に耳をすましながら一歩一歩歩いていく確かさとか、彼女の生きざまに心動かされた。自分がこういう状況だったらとても耐えられないだろうと思う。でも、現実のアフリカの状況は、もっと厳しいのだと思います。作者がアフリカ人ではないので、この話にどのくらいリアリティがあるのかは、本当のところはわからないとも思いますが。つくづく出会いが人生を救ってくれるんだなあと実感しました。学校に行きたいとか、家があったらいいなとか、今の日本では考えられないけど、憧れとか、ほしいという気持ちが達成されると、ものすごい健全な喜びが表現されているように思える。だからこそいろいろなことが当たり前になっている日本の子どもたちにも読んでほしい。外側から見てるより感じるところが多いんじゃないかな。白いドレスをシーツで作るところとか、部屋の中に鳥がいて、という場面もいいなあと思ったし。ファティマの家に泊めてもらった日の夜のシーンはたまらなくいいですね。縫い目の中に人生のすべてがあるというファティマの話、私も忘れない! と思ってしまいました。と、かなり入れ込んで私は読みました。

アカシア:ナチとか、地雷の話って、何度も聞くと、あ、またかと思ってしまいがちだけど、この間、それについて学者の話を聞いたんですね。それによると、人間は嫌な情報はなるべく排除しようとする心理が無意識に働くんですって。だから、きちんと社会のこととか世界情勢のこととかを裏面まで含めて見ようとすれば、単なるイメージではなくて、きちんとした知の体系にして頭の中にインプットしていかなければならないって、その人は言ってたんですね。だからってわけでもないけど、私は、またか、と思わないで、敢えていろいろ考えてみようって思うことにしたの。この作品は、作者が舞台となっているモザンビークに住んでいるので、人々の心の動きもふくめて、かなり実像に近いかたちで書かれているんじゃないかしら。ただ北側の人が南側の人たちとまったく同じように暮らすというのは無理があると思うんですね。複雑な垣根がある。それから、挿絵なんだけど、現実が厳しいから夢のような絵にしたんだろうけど、たとえばp64の絵、ドレスっていっても、もう少しアフリカの文化を反映させてもよかったんじゃないかな。白いドレスなのに水色なのも気になる。私は、さっきアサギさんの話を聞くまでこの作家のこと何も知らなかったんだけど、エンタテイメント作家が書いた文章とは思えなかった。導入部も最初はわかりにくかったし、ごつごつしたイメージ。オビには「現実の物語」というところにノンフィクションとルビがふってあるけど、まったくの事実を書いているというよりは、実際に地雷の被害にあった少女をモデルとして書いてるってことよね。
子どもが地雷で足を失って義足をつける場合、成長に伴って義足も替えていかなければならないから、お金がないと大変なんですよね。主人公のソフィアは、13歳で一日中働くわけだから、ユニセフなんかで非難している「児童労働」の範疇に入るんだけど、自分で稼がないと新しい義足も買えない境遇。ソフィアが明るいのは救いだけど、これほど力のない子どもたちは、どうすればいいんでしょうね。

ねむりねずみ:フィクションなのに、これはノンフィクションって押されるのは、私はいやなのよね。

アカシア:現実をもとにしたフィクションだもんね。最初はソフィアの心象風景から入っていくわけだし。あとね、主人公がこの若さで仕立て屋さんになって自立するっていうところを考えても、ほんとにこの子はまれな一人なのよね。そこまでできない子もいっぱいいるんだってことも、考えていったほうがいいよね。

愁童:たとえば、ソフィアがシーツを盗んできて、すごく悩むじゃない。でも、シーツ盗まれたほうは気づいてもいないよね。この作者には、どっちかっていうと後者の目線を感じちゃう。『家なき鳥』は、肌の色の描写もないし、インド人の気分で読めたんだよね。でも『炎の秘密』は、どうしても白人の目線を感じちゃう。

アカシア:この作家はもともとスウェーデンの子どもたちに向けて書いているんだろうから、肌の色なんかまでイメージできるように意図的に表現してるんじゃないかな。私がかかわった本でも、黒人と白人が出てくる話があって、話の内容や名前から白人だとわかるはずと私が思っていた登場人物を、黒人だと思って読んでた読者がいたの。だから、少し詳しく説明しとかないと、わかりにくいってことも、あるのかも。

ペガサス:それは、日本人は、肌の色とか髪の色とか意識せずに読む癖がついているから。いちいち肌の色の描写など、ヒントが書いてないと、イメージを思い描くのは難しいと思う。

愁童:でも、だったら「黒い顔でも青白くなる」って書かなくちゃいけないの? ただ「青白くなる」じゃいけないの?

アカシア:これは「でも」っていう言い方がまずいのかも。翻訳の問題かもしれませんね。

(2002年02月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


海へ帰る日

小池潤『海へ帰る日』
『海へ帰る日』
小池潤/作
理論社
2001.08

すあま:これはSFですが、アイディアがおもしろいという本。最後がどうなるのかが気になって読んで、最後いろいろ納得がいかなくなる。続編でも作ってくれなきゃ気がすまない。海に帰るってことについても、周囲の人の理解がありすぎる。ともかく不条理に思える部分が多すぎるんだけど、なぜか最後まで読んでしまった。

トチ:その最後が、なんとも苦しい。ずいぶん前に某社のベテラン編集者に、「君、作品がまとまらないからといって、警官を出しちゃいけないねえ」と、きつーく叱られたことがあったけど、そのときのことを思い出した。まだ作品として完成してないのでは?

紙魚:アイディアはおもしろかったんだけど、これこそ能天気な物語。細かいところがすべて、えーっそんな軽々しくていいのかな、と思うんだけど、最後まですらーっと読めてしまった。だいたい、いきなり海で生活しなくちゃいけないって言われて、これだけの不思議なことが起こったら、相当悩むと思うんだけど、あっさり家族も理解しちゃうし、最後には、なんとしてでも海に帰そう! なんてみんなで力を合わせちゃう。えっいいの? と思わずにはいられない。昔NHKでやっていた、SFのテレビドラマになんとなく似ていました。

ねむりねずみ:ぱーっと読めちゃうけど、それは最後が気になるから。途中で生まれた謎や、これってどうなっちゃうんだと思ったことにケリが付かないままのことがたくさんあって、それが気になった。研究所の正体とか、超能力を持った子たちが悪のりして大騒ぎになるところとかね。地球温暖化っていう大きな問題がテーマみたいな顔をしているけれど、なんかただの道具立てっていう感じで、ぐっとくるわけじゃない。全員が、どんと投げ出された運命にひたすら馴化していくっていう感じですね。

アカシア:私は変なドリンク1本で人間の体質が変わっちゃったっていいし、テレパシーが出てきたって、未来研究所が出てきたっていいじゃん、いいじゃん、エンターテイメントなんだもん、と読んでいったんだけど、最後はやっぱりお手軽すぎましたね。あと、アイデアがおもしろいんだから、もう少し細部のリアリティを大事にすればよかったのにね。

紙魚:それに、装丁がわかりにくかったな。物語のイメージが、装丁に着地してないと思う。

:この本、何かに似てるなって思ったんだけど、私も眉村卓さんの『なぞの転校生』のテレビドラマを思い出しました。あれ、大好きだったんですよね。

ペガサス:私は、この本こそノンフィクションかと思って読んでしまったので、変なことが起こりはじめるとき、ちょっとぞわぞわ感を味わえました。子どもたちの描写も細かく書いてあるのでらくに読んでいけたけど、途中から、なんなのこれ、なんでみんな止めないの? ねえなんとかしたら? っていう感じになってきた。あと、主人公の家族がいい家族で、お父さんや弟が理解をしてくれていいなと思っていたのに、なんで止めないのぉって感じ。

アカシア:でも、止めたらこの子は死んじゃうじゃない。

ペガサス:そうね。その設定自体が変なんだから、そのなかでやっていくしかないのね。写真家のお父さんから写真を教えてもらって、写真に興味をもっていくところなんかよかったんだけど、写真が結局なにも生きてこなかったのは残念。写真というのは現実を映すものなので、非現実的なできごとに反して、何か小道具としてもっと生かされるのかと期待したのに。

ブラックペッパー:いろいろと不思議が残る作品ですが、私は文体について、ちょっとひとこと。なんかオヤジ度の高い文体だなあと思ってしまって・・・。今ふうの言葉をたくさん使っているところが、ハナにつくというか、「がんばって使ってます」という空気を感じてしまった。しみや皺を隠そうとしてたくさんファンデーションを塗ったら、よけいに弱点が目立っちゃったというべきか。今ふうの言葉を使うのはいいんだけど、その一方で、同級生のことを「遠山少年」といったり、あとたぶん中学校では、代数っていわないと思うんだけど、「苦手の代数で」とか、今ふうでない言い回しがするっと出てくるから、そのギャップに「若ぶってるの?」と、だんだん疑いの眼差しが生まれてきちゃってね。たぶん作者は、独自の言語感覚をもってる人だと思うの。そこここにこだわりが感じられて、それはとてもよいことだと思うんだけど、私とはちょっと合わなかったみたい。たとえば「ワンショットグラス」は「ショットグラス」だと思うし、「高層アパート」もちょっと変。「マンション」って言葉、使いたくなかったのなと思ったけど、「高層」だったら、ふつう「アパート」とはいわないのでは・・・。「マンション」って言葉、私も好きではないから気持ちはわかるけど。
それから、雷太が超能力を使って、見知らぬおばさんにアイスを買わせる場面。まず、p80の14行目「おばさんはラウンジのまわりにある店の1つに、ゆっくりと進んでいった」とあるので、ふむ、ここはきっと対面方式で売っているソフトクリームかアイスクリームね、と思ったの。私のイメージとしては、ソフトクリーム。でも、p81の1行目「おばさんは両手に二本のアイスクリームを持ち、佑也たちのすわっている席のほうへ進んできた」とくるでしょ。2本のアイスクリーム? ということは、棒アイスだったの? と、私はちょっと迷う。私のなかでは、アイスの仲間で1本2本と数えるのは、棒アイスだけだから。棒アイスというのは対面方式で売っているのではなくて、まあ、対面方式で売っているところもなくはないけれど、その多くは、包装された状態でコンビニなどで売っているもののことね。コーンに、あっカップでもいいんだけど、その場でかぱっと入れて手渡される、対面方式売りのアイスの仲間だったら、ソフトクリームにしてもサーティワンにしても、私だったら「1こ2こ」とか「1つ2つ」と数える。1本2本とは数えない。そしてたぶん、ここは棒アイスではないはずなのね。この「アイスクリーム」は、p81の12行目「アイスの一本を佑也に渡し、自分のクリームをペロリとなめた」というところから推測すると、むきだしだったと思うし、それにp82の11行目に「アイスのコーン」とあって、コーンの上にのってるアイスということがはっきりするから。となると、棒アイスではなくて、ソフトクリームかアイスクリームだと思うんだけど、ソフトクリームだとしたら「アイス」とはあんまり言わないような気がするし、アイスクリームだとしたら「クリーム」とはあんまり言わないと思う。結局ソフトクリームなのかアイスクリームなのか、私にはわからない。もどかしい気持ち・・・。
まあ、ほんっとにささいなことなんだけど、こういうようなことって案外大事なのではないかと思うのね。こういうことの積み重ねで物語の雰囲気ってできていくと思うから。あと、超能力をもつ子どもたちが力を合わせて物体移動させたりするあたり、『アキラ』(大友克洋作 講談社)とイメージが重なりましたね。

アカシア:私はやっぱりリアリティの希薄さが気になりましたね。防犯カメラをつぶすところがあるけど、透視できるならカメラそのものを躍起になってつぶさなくても、後ろの線を切るとか、どっかのスイッチをオフにするとかでいいんじゃないか、とか。異常な現象について会ったこともない人に説明するのに、電話じゃ無理にきまってるじゃん、とか。近眼の人が眼鏡をかけていて、その目が他人が見て大きく見えるとかね。これ逆じゃないですか?

愁童:これを読んでね、コミックの世界にいる子どもたちに児童文学を広げていこうとする編集者の意欲を改めて感じました。着想は、すごくおもしろかった。でも文章でやる以上は、編集者がしっかりチェックしてほしいと思いましたね。たとえば、「地球温暖化の現象が顕著に始まって」とか「なにをいいはじまった」とか。「花火は極彩色」のルビを「ごくさいしょく」とつけているとか。『家なき鳥』の訳文とくらべて見劣りしちゃ悔しいじゃない。作家なんだから。

アカシア:会話も月並みだし、だらだら続いていくしね。

愁童:翻訳ものの文章にひっかかるのは、ある意味当然だけど、作家の文章が翻訳家に負けちゃあシャクじゃない。昔は、『声に出して読みたい日本語』(斎藤孝作 草思社)みたいな文章は、たくさんあったよね。もうちょっといい日本語で書いてほしかったな。せっかくのおもしろいストーリーなんだから・・・。

アサギ:私は整合性って気になるんだけど、エンターテイメントはね、たとえば『旗本退屈男』なんか、洞窟に押し込められたときとは違う絢爛豪華な衣装を出てきたりするんだけど、気にならないのね。昔の映画っていい加減だったわよね。

トチ:いい加減さなんて気にならないほどのおもしろさっていうか、かえっていい加減さを楽しむってこともあるしね。

アカシア:そこまでおもしろがらせてくれれば、まあいいかってことになるんでしょうけど。

(2002年02月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


2002年02月 テーマ:13歳

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『2002年02月 テーマ:13歳』
日付 2002年2月21日
参加者 愁童、ペガサス、ブラックペッパー、アサギ、トチ、ねむりねずみ、
羊、アカシア、杏、すあま、紙魚
テーマ 13歳

読んだ本:

グロリア・ウィーラン『家なき鳥』
『家なき鳥』
原題:HOMELESS BIRD by Gloria Whelan, 2000(アメリカ)
グロリア・ウィーラン/作 代田亜香子/訳
白水社
2001

オビ語録:全米図書賞受賞 貧しさゆえに13歳でお嫁に行ったインドの少女を待ち受ける思いがけない運命。よろこびと悲しみをキルトにつづり、けなげに生きるそのすがたは、読者に勇気と感動を呼びおこす
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『炎の秘密』
原題:ELDENS HEMLIGHET by Henning Mankell,1995(スウェーデン)
ヘニング・マンケル/作 オスターグレン晴子/訳
講談社
2001.11

<版元語録>地雷は、わたしの両足をもぎとった。だけど、「魂」まで奪えはしない! 今も地球上には一億数千万の地雷が埋まっている。これは、アフリカの小さな美しい国モザンビークの少女ソフィアが体験した、現実の物語である
小池潤『海へ帰る日』
『海へ帰る日』
小池潤/作
理論社
2001.08

<版元語録>陸に残るか、海へ帰るか、ぼくらは未来を選択する。加速する地球温暖化——そして、謎のドリンクTEST CASEに託された人類の運命は? ——少年たちの生命力がはじけるスペクタクル・アドベンチャー

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壁のむこうの街

オルレフ『壁のむこうの街』
『壁のむこうの街』
ユーリ・オルレフ(ウーリー・オルレブ)/作 久米穣/訳
偕成社
1993-03

アサギ:途中、自分の意志で読むのやめたの。私、専門柄、こういうものをいっぱい読んでるんだけど、食傷ぎみ。でも、子どもたちにはいいと思う。『シンドラーのリスト』を見たときも、「私はもういい、でも若い世代にはぜひ見せたい」と思ったのね。若い世代があまりに過去について無知だから。あの映画そのものにはいろいろ問題があると思ったけど(「やっぱ、ハリウッド」って)、それでも「スピルバーグ」の名につられて、ふだんならああいう作品を見ようとしない若者が見に行ったから、それはそれで評価してるの。その意味で、こういう作品も子どもたちには読んでもらいたい。私は年のせいか、シリアスなものがだんだんつらくなってきた

ブラックペッパー:映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』なんかもそう。見終わって後悔したもの。

トチ:山中恒さんが講演で、「今の子どもに戦争をどう伝えるか」、「どうしたら戦争を被害者の立場ではなくてホール(whole、全体)として伝えられるか」ということを語っていましたが、私もこの3作を、そこのところを気にしながら読みました。ドイツ兵は徹底的に悪者にしているけれど、その他の人々はいい人と悪い人を分けずに、行動で描いているところはいいなと思った。つらくて読めないというところもないし、最後も大団円がくるわけではないところもいい。壁の向こうの女の子もユダヤ人だったことを知るなんていうところも、経験した人でなくては書けないでしょうね。人間の描き方がステレオタイプじゃないところは、『小さな魚』(エリック・C・ホガード作 犬飼和雄訳 冨山房)なんかと、共通している。被害者の側からだけ書いても、描き方によって、一面的じゃなくてホールとして伝えられるんだなと思いましたね。

愁童:今月の課題のうちでは、ぼくはいちばんよかった。今の子には『ロビンソン・クルーソー』みたいな冒険もの感覚で読めて、案外説得力あるんじゃないかな。

ペガサス:オルレブが来日したときの講演会を聞いて、今でも印象に残っているのは、「いちばん書きたかったところは、子どもというのはどんな状況におかれても、楽しいことを求めるということだ」と言っていたこと。戦争は悲惨だし、この物語は本当に彼の体験したことで、そのことは重いけれど、ささいなことにも楽しみを見出す子どもの姿が描かれているのが、この本のいいところだと思う。

ブラックペッパー:今回、テーマが戦争と聞いて、気が重くなっちゃったんだけど、これとウェストールの『弟の戦争』はおもしろかった。主人公が大人になっていく様子がきちんと伝わってきた。こういう機会がなければ読まない本だけど、読んでよかったなと思いました。最後、お父さんとは再会できないだろうと思っていたんだけど、うまくさっぱり出会えて、無理なく感動させられました。ただし表紙はいや。あと、この子は12歳って設定ですけど、幼いところもあったりして、どうなんでしょうか。

紙魚:戦争の物語って、小さい頃からなかなか読めなかったんです。それは、小学校とかで読まされて読書感想文とかを書かされるじゃないですか。自分から進んで読むというよりは、読まなくちゃいけない本というような印象。必ず、感想文の最後に「だから戦争はいけないと思います」でしめくくるような。にもかかわらず、この本はけっこうひきこまれて読みました。たったの半年たらずのことなのに、主人公の男の子がみるみる成長していくのがビリビリ伝わってくる。部屋をつくったり恋をしたりなんてところも、おもしろかった。

:私は、これまで戦争ものと障害者ものにはケチをつけちゃいけないと思ってたのね。でも、この主人公は、たくましいじゃない。楽天的だったり、恋をしたり、サッカーをしたり。自分もくっついて体験しているような気がした。戦争ものでいい本ありませんかときかれると、「火垂るの墓」(『アメリカひじき・火垂るの墓』 野坂昭如作 新潮文庫)とかになっちゃいがちなのよね。平和教育って言われるけど、実際の子どもたちは、戦時中でも遊んでた、悲しくてつらいだけじゃなかったって聞きました。どんなときにも楽しいものを見つける子どものたくましさを感じましたね。

アカシア:子どもはどんな状況でも楽しいところを見つけるっていう部分では、たしかに共感したけど、この本のバックにあるものは好きになれないな。まずp6に「さいわい私の伯母は、パン屋をしておりましたので、毎日わたしにパンをくれました。その伯母の店の前の歩道に、少年がじっとうずくまっていて、とうとうそこで死んでしまったこともありました」ってある。その時代に生きていくというのはたいへんで、ぎりぎりだったのはわかるけど、作家として「さいわい」っていうのはどうかと思いますね。p23にも、貯蔵室のドイツ兵をやっつけるのに、「うしろからやればもっとかんたんだろう。そんなことをするのは紳士的ではないかもしれない。でも、すべての掟を最初にやぶったのはドイツ兵だから、かれらにたいしてはこっちも正々堂々とやる必要はないと、いつか父さんは、ぼくにいった」という箇所がある。p26では、「頭のおかしいやつが指導者にえらばれたらどんなことになるかを、ほかの人たちが知るように歴史のページにのこしておかなきゃ。…そうすれば、子どもたちでさえ武器をもつよう、おしえなくちゃならない時代があったってことを、のちの世の人もみとめるだろうからな」と、ポラックじいさんが言う。このあたり、過去のある時代の被害者という意識が強すぎて、今だってヒットラーはいなくても無理やり兵士にさせられている子どもがいっぱいいるという事実が、この作家の視野には入ってないのかな、と気になる。それに、お父さんやユダヤ人のお医者さんは、「友だちや家族をすくうため、国をまもるためなら、敵の兵士を殺してもいい。それは勇敢な行為なんだ」って、この子に教えてるのね。とうとう出会ったお父さんにピストルを返す場面でも、この父子が気にしているのは、人を殺したという部分ではなくて、引き金を引く手がふるえたかふるえなかったか、ということになっている。
そりゃあ、あのナチス支配下のユダヤ人社会ではこれが現実だったのかもしれないけど、体験談ではなく、フィクション作品で今こう書かれると、かなりヤバイという気がします。戦争なんて、だいたい自衛っていう名目で行われてるんだし、どんな手を使ってでもビン・ラディンを仕留めるって言いながら民間人を誤爆しているブッシュに行き着く。自分は正義、相手は悪という前提が平和をつくり出すことはない。私は、感動的に書かれているだけに、この本はよけい子どもに読ませたくない、と思ってしまいました。片方の側からだけ書いて、戦争をホール(whole)にとらえることなんて、できないのでは? それから、リアリティに関しては、男の子が縄ばしごを始終使っているのに一度も見つからないなんてありうるのかとか、お父さんはいったいこの間どこにいっていたのかなど、疑問が残りました。

ねむりねずみ:これの前に『砂のゲーム』(ウーリー・オルレブ作 母袋夏生訳 岩崎書店)を読んだときに、ユダヤ人はひたすら被害者という姿勢を感じたんです。この物語も、ロビンソン・クルーソーなんだなとか頭ではわかるんだけど、感動として迫ってこなかった。たとえば、ロバート・キャパ(ユダヤ人)の写真展に行ったときに、彼はとても厚みのある戦争の写真を撮っていて、その一方で建国直後のイスラエルの写真を撮ってるんだけど、彼にとってはイスラエルの建国が文句なしにプラスなんだっていうことがよくわかった。そのとき、あっと思っちゃって、そういうスタンスを感じると、ちょっと待てと思っちゃうんですよね。子どもらしさの点でいっても、ネストリンガーの作品『あの年の春は早くきた』(上田真而子訳 岩波書店)のほうがよく書けてると思う。これは、なんか、いい人はいい人で、悪い人は悪い人っていう感じがした。本当に生きるか死ぬかっていう状況になると、相手を殺すか殺さないかってなっちゃうのかもしれないし、ずっと追われて放浪を続けてきたユダヤの人にとっては、こういうふうな形になってしまうんだろうけど、でも・・・。

アカシア:極限状態のときはこうなってしまう、という書き方には思えなかったのね。自分だって加害者になるかもしれないという視点が欠落してるもの。視野が広がるような書き方をしてないじゃない。

トチ:それは難しいところよね。たとえば、『少年H』(妹尾河童作 講談社)みたいに、あの時代に思っているはずがなかったこと、今だからこそ言えることを、子どもに思わせたり、言わせたりすると、嘘になるし・・・。

アカシア:『アンネの日記』みたいなノンフィクションは、その時代に見えたことだけが書かれてても当然なんだけど、これは創作だから、いろいろな方法がとれるはずでは? お父さんはお医者さんとは違う考えの大人を登場させたっていいわけだし・・・。この本を読んでいると、ブッシュがだぶって見えてくる。

ブラックペッパー:私はブッシュと同じとは思わないけどな。読んでるときも、ストーリーにどっぷり、になっちゃって、ぜんぜんそういうことは思い浮かばなかった。今言われてそういう見方もあるのかと、ハッとさせられた。でも、たしかに切り捨ててしまったのは悪いことかもしれないけど、だからこそ物語が骨太になっててぐいぐい引きこまれて読んだというのもあると思う。不十分な描き方なのかもしれないけれど、こういうほうが物語性は生きてくるのでは?

アカシア:だから恐いんじゃないかな。

トチ:戦争って、もうこういうかたちでは、創作として書けなくなってきてるのかも。だから『弟の戦争』のような作品があらわれたんでしょうね。

ペガサス:今、戦争の話で、子どもが読んでも大丈夫な本って、少ないよね。

:オルレブさん自身みたいに、強烈な経験をしてしまうと、被害者意識がどうしても前面に出て、ホール(whole)で書くのって難しいんじゃないかな。『あのころはフリードリヒがいた』(ハンス・ペーター・リヒター作 上田真而子訳 岩波書店)なんかは、ドイツ人の子どもの目で書いてるからまた違うけど。

アカシア:ナチス支配下のユダヤ人の悲劇は、もちろん書かれるべきだけど、そればかりが評判になったり、日本でも山のように翻訳されたりするのは、どこか胡散臭い。今だって、世界のあちこちでいろいろな戦争の被害を受けている子どもたちがいるのに、そっちからは逆に目をそらさせことになるような気がするんですよね。

ペガサス:書き方が問題。ピストルを撃つとき手がふるえなかったことを誇りに思ったというのは、本当にそういう気持ちだったのもたぶん事実ではあるけれど、それを感動的に書いちゃってるのが問題なのよね。前書きとかで、作者のことが出てきちゃうから、一面的にとらえられがちでしょ。

アカシア:戦争のことって、事実としてはちゃんと知っておかないといけないんだけど、日本の子どもの本では原爆とかナチスとユダヤ人というようなところだけがフィーチャーされて感動的に語られることが多いからみんな知ってて、ほかの部分についてはあんまり知らないという現状ですよね。そうじゃなくて、今を考える材料にしないと、意味がない。

(2002年01月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


霧の流れる川

岡田依世子『霧の流れる川』
『霧の流れる川』
岡田依世子/作 荒井良二/絵
講談社
1998.07

すあま:いっしょうけんめい書いたんだなという作家の人の気持ちは伝わりました。カナちゃんという女の子の話かなと思って読んだら、途中から主人公は保君というお兄さんということがわかって、カナちゃんの影が薄くなるのは残念。最後、お父さんがいきなり出てきて正論をとうとうと語るので困ってしまいました。作者の言いたいことをぜんぶお父さんに語らせるなよ、と思いました。これで保くんは、納得できたのでしょうか? もし花岡事件を伝えるんだったら、花岡事件のことも書いてもよかったのかな。最初の作品だったということで、よくがんばりました、というところでしょうか。戦争をまったく知らない年代の人が、加害者の立場として書いたんでしょうね。

トチ:花岡事件を書かなきゃという熱意はうかがえるけど、手法が目新しくない。最初読むだけで、ストーリーがわかっちゃう。はじめから風景描写が長々と続いているから、物語に入りにくい。これが書きたいと思ったら、どういうふうに書いていったらいいのかを考えなくてはいけないのだけれど、日本の児童文学って、テーマだけで、よくぞ書いたとほめられるのよね。妹からお兄さんへ視点が移るのもわかりにくいし、妹のカナちゃんにもいまひとつ魅力がない。志は高いけど、書き方がどうもという感じがしましたね。

愁童:この人、自分が戦争をしょってないじゃない。どっか自分たちの世代は関係ないみたいな意識がすけてみえるような気がする。まじめな人だなと思うけど・・・

紙魚:いちばん気になったのはやっぱり、妹が主人公かと思って読んでったら、途中から保に変わっちゃうところ。最後まで、どこを頼りに読んでいくかがつかめなかった。頼りにできる確かな視点がほしい。それに、保が自分でレポートを書きながら発見していくのかと思いきや、すべてお父さんが語って結論づけたりしているところも気になった。ただ、戦争ものって、私自身も体験がないし、自分の立場をどこに置いていいかすごくこわいです。

トチ:戦争についていうべきことって、たったひとつだと思うの。だから、大事なのは書き方よね。

ペガサス:子どもの文学の戦争もので大事なのは、主人公の子どもが、どれだけ自分の眼で真実を見ようとしていくか、という点が描けているかどうか。それが評価の基準になると思うのね。この本の扉に、「戦争中、ぼくの村でなにがあったのか?」と書いてあったので、こういうスタンスなら期待できそうだぞ、と思ったんだけど、やはり途中で視点が変わってしまうとか、がっかりするところがあって、期待したほどではなかった。それにこの人の文章は、読みながら順々にイメージを形作っていく作業をするときに、ひっかかってうまく流れないことが多々あって、大変読みにくかった。自然な流れでイメージが結べないの。冒頭の情景描写からして、目線があっちこっちに飛ぶので、私は混乱してしまいました。うまい文章を書こうという意識があるためか、修飾節を長々とつけすぎるきらいもあると思う。

トチ:核心に迫るために情景を書くんじゃなくて、日本児童文学の常套的な手法なのよね。

アサギ:一般的に、登場人物にえんえんとしゃべらせるのに、優れた文学ってないわね。シリアスなものってそうなりがちだけど。

トチ:自然描写にしても、それにふさわしい登場人物の心の動きがあるのにね。

愁童:対して『壁のむこうの街』は描写が適切ですよね。主人公の心象ともぴったりじゃないですか。

ペガサス:キーパーソンであるおじいちゃんに対しての愛情があまり感じられなかったのも気になった。

ブラックペッパー:おじいちゃんを突き放して書いているのは、そこがリアリティの見せどころよって思ったんじゃないかな。私はまださっきの『壁のむこうの街』が尾を引いていて、戦争を描くのも難しいけど、読書も難しい・・・と思っているところ。気分を変えてこの本にいってみますとですね、表紙はきれいな本ですが、目次を読めば、もうだいたいわかっちゃう感じ。よくできてるんですけど、優等生の人が一生懸命書いたんですね。これは、そう書きなさいと言われたのかもしれないけれど、後書きの「この国で最後の戦争が終わって、ちょうど二十年めの年に、わたしは生まれました」という一文を読んで、私とは気が合わないなと思いました。あとね、p122の少年が夢を見るシーン。夢に見ちゃ、だめよねー。

:読み始めて、だから戦争ものは嫌なんじゃん、とすぐ思ってしまって。この人は、自分の田舎を書きたかったのかな。荒井良二さんの絵で救われた感じ。いっぱい挿絵があれば、もっと読み進められたかな。子どもの本のなかで嫌いなのは、大人が割り込んでくる本。

アカシア:荒井良二の絵が、イメージを豊かにするのに大きく貢献してますね。花岡事件について、この30代の作家がまじめに取り組もうとしているのは、よくわかったし、この人なりに考えぬいているのも好感がもてました。そんなに嫌味だとも思わなかった。考えぬいたものを伝える技術がまだ未完成なんでしょうね。お父さんが子どもに話すとき標準語なのは、どうして? 方言だったら、もう少し演説風じゃなくなったかもしれないな。

ねむりねずみ:前に、この会で花岡事件を扱ったノンフィクション(『花岡1945年夏』野添賢治著 パロル舎)を取り上げたとき、かなり厳しい評価を受けていたから、若い人がフィクションで花岡事件を取り上げるなんて、がんばってるな、っていうのがまずありました。村の人たちが自分たちのやっちゃったことを悔いながら、ひた隠しにしようとする、そういう日本的なところは書けていると思うし、カナの「ごんぼほり」の性格のところなんかもほほえましかったけれど、夢で見ちゃったりするのはやっぱりお手軽。学校で中学生相手に戦争の授業をするとき、講義になっちゃうとまるで相手の心の中に入っていかないし伝わらない。その意味で、こうやって大人にぜんぶ語らせちゃうのはまずい。戦争を伝えるというときに、一つ前の段階にさかのぼって人間がもっている残酷さに立ち返って伝えるっていうやり方があって、それはとても有効なんだけど、だからといって過去の事実を伝えないままでいいということにはならない。現実に若い友だちが南京に行って、南京で何があったか知っていたことで、中国人との関係ががらっと変わったというし。でも、実際に過去の事実を心に届くように伝えるのは本当に難しいんですよね。

(2002年01月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


弟の戦争

ロバート・ウェストール『弟の戦争』
『弟の戦争』
ロバート・ウェストール/作 原田勝/訳
徳間書店
1995.11

すあま:もともと弟がエスパーだった、ていう設定には驚いた。この手の話だと、弟が主人公になっていそうだけど、傍観者であるお兄さんが主人公っていうのはおもしろい。弟の名前が2つあるところも、手がこんでいる。今の子がこれを読んでどう感じるのか興味がありますね。これもある意味SF的な物語。どんなに悲惨な話でも、やっぱりおもしろくないとだめだと思う。

アサギ:いちばん感心したのは、手法。彼はこういうテーマで、説得力あるものにするために考えたんでしょうね。次どうなるかなという、本を読ませる原点がきちっとあった。なるほど、こういうかたちで湾岸戦争をとりこんだのかと。それから最後のところがよかったですね。弟が普通の子になってしまったお兄さんの寂しさ。そのへんの感覚がよく出ていた。p164のところが、いちばん言いたいところですよね。それから、p14のあたり、3歳でこんなに思うかな。リアリティとしてひっかかりました。

トチ:今の子どもたちに、被害者の立場ではなくて戦争をどう伝えるかということを、ウェストールはさんざん悩んだ末に、こういう手法を考え出したんでしょうね。メッセージをストレートに伝えるのでは、上滑りしてしまう。その点、うまい手法に卓越した才能を感じたけれど、それ以上に「これを伝えたいんだ」という作者の熱い思いに感動しました。では、次はどういう手法をつかったらいいかというと、とても難しいことだと思う。今の日本の児童文学にどれくらい現代の世界を描いている作品があるか、という点についても、考えさせられたわね。

愁童:たしかに設定はうまいし、感動もあるけど、好きになれない。こういうふうにしないと戦争を語れないというのもわかるんだけど、この設定に惹かれるあまり、兄弟を描くことに力を費やせなかったんじゃないかな。例えば父親のラグビーに同行したときのエピソードなんかでも、試合後のシャワーを英国中年男性の平均的楽しみなんて書いてる。回顧として書いてるのは分かるけど、13歳の少年の印象を語るのに、なぜ中年男性の平均的楽しみが出てくるの?

ペガサス:今、言われてみればたしかにそうだと思うけど、読んでいるときはとにかく弟の変化に目を奪われてしまい、そういうことに気づかなかったな。作者のテクにはまってしまったか・・・。『霧の流れる川』の後だったから、不必要な形容詞もなく、一文一文が短くて読みやすかった。結局、戦争っていうのはどちらかの立場に立つことしかできないわけだから、両方の立場を書くとしたら、こういうのは実にうまい設定だと思った。そのことによって、子どももいろいろ考えるだろうし。

ブラックペッパー:すっとんきょうな設定にびっくりして、だんだんひっぱられて、戦争を描くにはいい手法なんでしょうと思ったんですけど、お母さんが(最後に一段落してから)人助けの仕事に戻らなかったというのは、働く女性としてくくられるのはどうかなと思いました。邦題はいまいち。

トチ:原題は、GULF。湾岸戦争と、人と人との断絶とか亀裂とかいう意味のダブルミーニングでしょ。

アサギ:お母さんの話は、フィギスもいなくなってしまったというくくりでってことじゃない。冒頭と最後は呼応しているのよね。

アカシア:このお母さん、最初は自分と関係ない余裕のある立場で人助けのチャリティーをしてたのが、こんどは自分の家族が大きな問題を抱えこんでしまったわけよね。そこでいろいろ悩み苦しんだんでしょうね。で、一段落したからといって、以前と同じように、いわばお気楽に人助けなんてできなくなったってことなんじゃないのかな。

トチ:私も、そこはかえってリアルだと思ったわ。

紙魚:物語の構図のおもしろさというのはあったけど、構図ばっかりに気をとられてしまって、物語はあんまり楽しめなかったです。たしかに、いろいろな立場にたって戦争を描く必要があると思うけど、この物語は、戦争を体験するのは主人公の弟、しかもその弟が体験しているのは自分の国が戦っている相手国。この複雑な構図に、子どもの読者がどうやって入っていくのかは気になりました。

:あっち側にもこっち側にも戦争があるという手法はうまいです。どちらも書けるんだから、作者は本当に才能があるのね。

アカシア:それにウェストールは『‘機関銃要塞’の少年たち』(越智道雄訳 評論社)や『猫の帰還』(坂崎麻子訳 徳間書店)もそうだけど、戦争は悪いということが書きたいわけじゃなくて、戦争の中でも人間はいろいろな体験をするものだ、ということをユーモアを交えながら書いてますよね。おもしろさを追求しながら、自分もよく考えている作家だと思う。湾岸戦争が起こったのは1991年、この本が出版されたのは1993年。作家としてすばやく反応してますよね。湾岸戦争はお茶の間でテレビ中継された戦争だったわけですけど、大人は大したことなくても、子どもには大きな影響をあたえるんだっていうことを、この作品はよく伝えている。

トチ:1993年にウェストールは亡くなっているから、最後の作品なのではないかしら。声高に戦争反対を唱えていないけれど、相当突き動かされて書いたということは、はっきり伝わってくる。日本の児童文学作家も、第二次世界大戦のことだけでなく、もっと「現代」と切り結ぶ作品を書いてほしい、そういうものが読みたい、とつくづく思いました。

ねむりねずみ:前にウェストールにはまっていたころに読んで、こういう書き方があるのかと、まずそれでぶっとんだ。はるか遠くで起こっている、子どもにとってはまるで関係ないようにしか思えないことを、ここまでぐいっとひきつけて書くのはすごい。どうするんだ、どうするんだ、とはらはらして、最後には弟がこわれちゃうんじゃないかと思ったくらい。ただひたすら圧倒されるばかりでした。ウェストールって、男の子を書かせるとほんとうにうまいですよね。切り口と勢いでうまく持っていったなという感じ。ほんとうにうまい。まわりに無関心な世相に対する批判もあったりして、この人の作品の中では独特ですね。

(2002年01月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


2002年01月 テーマ:戦争

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『2002年01月 テーマ:戦争』
日付 2002年1月31日
参加者 トチ、愁童、ブラックペッパー、アサギ、すあま、アカシア、羊、
ねむりねずみ、ペガサス、紙魚
テーマ 戦争

読んだ本:

オルレフ『壁のむこうの街』
『壁のむこうの街』
原題:THE ISLAND ON BIRD STREET(英語では)by Uri Orlev, 1981(イスラエル)
ユーリ・オルレフ(ウーリー・オルレブ)/作 久米穣/訳
偕成社
1993-03

<版元語録>父さんが強制収容所へつれていかれたあと、ぼくはハツカネズミのスノーと、くずれかけたアパートで暮らしていた。アパートの壁のむこうはポーランド人街で、むかいの建物の窓に見える少女の横顔をながめながら、ぼくは、いつかその子とスケートをするのを夢みていた。第二次大戦のさなか、ポーランドの廃墟でひとり生きぬいた少年の物語。世界各国で紹介されたイスラエルの作品。
岡田依世子『霧の流れる川』
『霧の流れる川』
岡田依世子/作 荒井良二/絵
講談社
1998.07

<版元語録>そのころ戦争はさまざまな形で、ふつうの人たちのふつうの生活にいくつもの影を落としていた。そしてその闇は、今…。戦争中、ぼくの村でなにがあったのか?第37回講談社児童文学新人賞入選作。
ロバート・ウェストール『弟の戦争』
『弟の戦争』
原題:GULF by Robert Westall, 1993(イギリス)
ロバート・ウェストール/作 原田勝/訳
徳間書店
1995.11

<版元語録>イギリスで子どもの選ぶ賞複数受賞 ぼくの弟は心の優しい子だった。弱いものを見ると、とりつかれたみたいになって「助けてやってよ」って言う。人の気持ちを読み取る不思議な力も持っている。そんな弟が、ある時「自分はイラク軍の少年兵だ」と言い出した。湾岸戦争が始まった夏のことだった…。人と人の心の絆の不思議さが胸に迫る話題作。

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えんの松原

伊藤遊『えんの松原』
『えんの松原』
伊藤遊/作 太田大八/画
福音館書店
2001

もぷしー:ひと息に読める作品でした。舞台が古典ながら、時代背景には詳しくなくても、初めから引きこまれました。言葉遣いは当時のものなのに、感じていることは変わらないというところにうまく引きつけて調和が取れているので、楽しく読めました。ある意味ファンタジーとしても読めるんですけれども、ノンフィクションのようなフィクションのような、うまい境を書いていて、好きな一冊になりました。

:私は正直いって、入っていくのに時間がかかりました。入っていけたあとは、するすると読めたんだけど。『陰陽師』など怖い話は苦手なんですが、義務感で読んだ感じ。でも、その割には読めました。

ねむりねずみ:時代にきっちり根ざしていて、そこがすごくいいと思いました。この怨霊の正体は何だろうと思って読んでいくと、生まれ損なった人格だった・・・という作りには感心しました。一人一人が楽しくうまく書けていて、怨霊だから悪い人といった感じでなく、どうしようもなくもがいているところがいいですね。この女の子の怨霊は精神分析でいえばシャドーだと思うんですが、そこにも無理がなく、古臭さがなかった。テロ事件以来一連の動きの中で、「えんの松原はなくせない、恨みはなくせない」、というのが、すごく今の状況につながる感じがして・・・。今にもつながることを、こういう時代を背景に描けてるのはすごい! 女の子が最終的に憲平に同化して消えてしまうあたりはぐっと来ました。

愁童:ぼくも、おもしろく読みました。前の、『鬼の橋』(伊藤遊作 福音館書店)を読んだときは、くそみそに言ったけれど、それから時間がたって、この人の作品に対するこちらの理解も深まったかもね。抵抗なく読めた。天の邪鬼的に言えば、本来女の子として生まれるはずだったのを、坊さんが呪術で男にしちゃったっていうことなのかな。で、女の子が怨霊ていうのはちょっと説得力が弱いと思った。それと、「えんの松原」を「昼なお暗い」と表現してるけど、松原って「昼なお暗い」って感じにはならないよね。こんなこと言ってもしょうがないけど、ちょっとひっかかった。まぁ、そう書かなきゃ、松原に怨霊を住まわせるのは難しいものね。

アカシア:前作の『鬼の橋』は、私は評価できなかったんだけど、こっちはあれより良かった。ひっかかったのは、怨霊についての考え方。作者はどうも怨霊に対し理解を示すことをよしとしているらしく、後書きにも「無念を抱いて死んでいった人間を思いやる気持ちも感じられ、他人の悲しみに敏感だった人々の姿が浮かんできます」と書いてある。だけど、闇や不合理や迷信が支配していたこの時代だったら、怨霊ってそんなふうに客観的には思えなくて、もっと大きな恐怖の的だったんじゃないのかな。最初の方では、音羽も、自分の親が怨霊に殺されているから、怨霊と聞くと平静ではいられない、たぎるような憎しみがこみ上げてくる、と言っている。でも、最後には理性的になって、「うまくやるやつがいて、そのあおりを食らう者がいる。そのしくみが変わらない限り、この世から怨霊がいなくなるとは思えない」とか、怨霊がいなくなれば悲しい思いで死んでいった人間のことなどみんな忘れてしまうから、かえってよくないんじゃないか、と客観的で理性的な思索をするようになる。ここは「作り物」のような感じがして、いただけなかった。話は現代的で、舞台だけが過去にあることにも違和感を感じました。あとね、「月光に照らされた雲の白さ」なんていう表現があるけど、いいんですかね? 風景は観察しないで書いてるんじゃないかと感じて、引っかりましたね。 女童にべらべらとしゃべる貞文という侍も、言葉遣いがやけに現代的だし、下っ端の者に向かってこんなにいろいろしゃべってしまうと設定のも妙で、存在自体にリアリティを感じられない。全体として、前作よりはじょうずに読ませるけれど、それでも、生まれてきた物語というより作っている物語という感じがするのが残念でした。

紙魚:一言で言えば、読みやすいのだけれど、ものすごく感動したかといえば、そうでもない。装丁から重厚感が漂っていて、それが内容とあいまって、本のイメージづくりはすごいなと思いました。ページ数もかなりあるし、子どものときに読んだら達成感が感じられたかも。たしかに私も作り事っぽいと感じたけれど、作家の真面目さが伝わる作品で好感が持てました。海外のファンタジーがたくさん読まれているなか、日本のファンタジーもぜひ読んでほしいという思いになりました。日本のファンタジーは、これまでもたくさんいいものが出ているし、せっかくのファンタジーブームなのだから、こういう本も読まれる機会があると本当にいいなと思います。設定は昔だけれど、会話や感覚は今風。読みやすいのは、いいことだと思います。ただ、揺さぶられるほど感動したわけではないのですが。

トチ:怨霊ものは結構好きなので、すらすら読めました。最初の説明は、しんどいなあと思いながら飛ばしましたけど。でも、『鬼の橋』の時もそうだったんだけど、世界が狭いなあ、という気がするわね。さっきの「作り物」という意見にも通じるんだけど、当時も貴族社会だけでなく、今よりずっとさまざまな人たちがいて、この本の登場人物も意識するしないにかかわらず、そういう世界に生きていたはずでしょう。もちろん題材を貴族社会にもっていくのは構わないんだけれど、広がりや厚みが感じられない。外側にそういう社会があるということが感じられないのがいちばん不満だったわね。女の子が葬られて男の子が生まれたっていうところ。これは、双子なんじゃないかと思った。おそらく最初、作者はたぶん双子で書いたんじゃないかしら。それで、女の子を殺すのが引っかかったんじゃないかしらね。女である部分を殺して、男が生まれてくる。そして、その子の女であった部分が、うまれ出た男を恨む、という部分に違和感があったわね。心理学的にはそういうこともあるのかもしれないとは思うけれど。そんなに「男」「女」と、すぱっと図式的に割り切れるものかしら? 会話の点では、いくらなんでも東宮がこの時代に「僕」と言うのは変ね。昔、円地文子が「伽羅先代萩」なんかを子ども向きに書きなおした歌舞伎物語があって、好きでしょっちゅう読んでいたのね。舞台を見る前に、すじをほとんど知っていたくらい。本に載っていない歌舞伎も20か30、ダイジェストして書いてあった。あれは、どういう会話体で書いてあったか、もう一度調べてみたいと思いました。

:細かいところは忘れましたが、基本的におもしろく読みました。ねむりねずみさんに近い感想です。作り物と感じながらも、ある舞台設定の中で、ファンタジーに挑戦し、自然に読ませるようにしたのは、すごいなあと。古典を現代風に解釈してのものですよね。その時代を身近に感じるということで言えば、おもしろい。不備なところ、時代には合わないことが、いっぱいあるのでしょうが、今と同じような人間が、この時代にも生きていたんだなあ、と感じられる。作者は、心理学的なことは考えていないと思いますが、一人の心の中をドラマにしているなあと、おもしろく読みました。音羽と伴内侍の関係など、いいなあと思った。闇に向かっていくことによる展開は面白かった。基本的にはとても好きな作品でした。子どもにとっては、人間関係がわかりにくいので、図解するなどしてもよかったかもしれません。

すあま:書評に取りあげる本を探していて、読んだんです。暗そうという見かけから、評判になった『鬼の橋』も読んでいなかったんです。これはおもしろかったけど、あとから『鬼の橋』を読んだら、おもしろくなかったですね。『えんの松原』の方が、キャラが生きてきて、共感できました。作者の成長があったのだと思いました。その後、『陰陽師』を読んだりもしたので、もう1度読んだら違う感じがするかも。今の子どもにおもしろく歴史に親しみ、興味をもってほしい、と思うので、サトクリフではないけれど、いろいろな時代に舞台をおいて書いてもらいたいと思っています。これで『古事記』などにも興味をもってもらえればと。マンガやコバルトみたいなものを読んでいる子には、これもそんなノリなので、すっと読めると思います。あまり重いものでなく、今の子どものしゃべり方みたいな方が読みやすいのかな。今後もこの作家には精進してもらいたいですね。

ペガサス:私も『鬼の橋』よりおもしろかった。これを本当にこの時代らしく書いても今の子どもたちには読めないから、会話などすっかり今の時代に置き換えてしまうのも、しょうがないかな、という気がしましたね。音羽が女の子の格好をしているという設定はとてもおもしろい。東宮がそれをすぐに見ぬくなど、導入部は読者を引きつけるところがあるし、全体は別として、細部におもしろいところがあった。東宮と音羽の関係が、子どもと子どもの関係として読めるし、勝ち気な女の子が出てきたりとか、子どもとして共感できるところがあって、身近な気持ちをもって読んでいけると思う。音羽は、とても元気いっぱいで魅力的な少年なのだから、それが無理に女の子の格好をしなければならない時には、もっといろいろなおもしろい感じ方があるはずで、その辺の描写をもう少し書いてほしいなと思った。

トチ:氷室冴子の『なんて素敵にジャパネスク 』(集英社)は現代的だけれど、全然違和感がないでしょ。あれに比べると、すごく真面目な人なんだなあと思う。氷室はマンガのノリですよね。

愁童:日本のファンタジーで評判になるのは、怨霊ものが多いね。『空色勾玉』(荻原規子作 徳間書店)もそうでしょ。

アカシア:書きやすいのかもしれないわね。そこから入るのが。

すあま:妖精といっても、妖怪になってしまう(笑)。

アカシア:会話は現代風にしていいんだけど、時代がもっている雰囲気は、ちゃんと伝えた方がいいと思うな。じゃないと、時代そのものがベニヤ板の書き割りになっちゃう。

愁童:いかに女装しようとも、この時代に女の子の中に一人で入るというのは、すごい葛藤があるはず。そこが書かれていないのは不思議だよね。日本ではファンタジーというと、なんでもありになっちゃうんだけど、そっちはコミックがあるのだから、もっとこういうところを大事にしていかないと、まずいんじゃないかな。活字があいまいなことをやっていると、みんなコミックの方へ行っちゃうような気がする。

(2001年12月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


魔法使いはだれだ(大魔法使いクレストマンシー)

ダイアナ・ウィン・ジョーンズ『魔法使いはだれだ』
『魔法使いはだれだ(大魔法使いクレストマンシー)』
ダイアナ・ウィン・ジョーンズ/作 野口絵美/訳 佐竹美保/画
徳間書店
2001.08

ブラックペッパー:今ひとつ……でした。ここが笑わせどころなんだろうな、と思われるところがいろいろあるんだけど、それがいちいち復讐など、心の暗い部分から出てくるせいか陰湿な感じになっちゃって、おどろおどろしい印象。寒々しい気持ちになっちゃいました。上手な作家とは思うけどねー。登場人物が自分中心な人ばかりというのもちょっと・・・。どうしてもいやだったのは、食べ物の描写。p37でもう、ずりずりと後ずさりしちゃった。あと、日本語の問題ですが、「大きなスパイクシューズ」は、ちょっと変な感じ。p55の本物の男の子、女の子の描写はいいと思った。

ウェンディ:とびとびで読んだのですが、子ども同士の人間関係にひきつけて、何かを象徴しているのかなと思いつつ、そうやって読みたくもなく・・・。ひっぱられたというより、気になりながら読んだけど、心地よくなかった。

すあま:彼女の作品は、これと一つ前の作品からおもしろくなくなっちゃった。ごちゃごちゃした印象がするんですよ。誰か一人でも登場人物が好きになれれば、くっついて読めていいんだけど。前は、もうちょっとシンプルでおもしろい話を書いていたような気がするんだけどな。登場人物が多くて、混乱してしまった。

トチ:学園物と魔術物を合体させて書いたのね。パラレルワールドの片っぽから入っていくんだけど、それがわかりにくい。もう一つわかりにくい理由は『ティーパーティーの謎』(E.L.カニグズバーグ作 小島 希里訳 岩波少年文庫)といっしょで、登場人物がたくさん出てくるところ。この作者はヘンな人で、感覚的にもヘンで、私はそこがおもしろくて好きなんだけど、この作品は難しいわね。理解しにくいのは、翻訳にも問題があるんじゃないかな。急いで出したと思えなくもない。p22で鳥が教室に飛びこんできた場面で、「残りの時間は〜することで終わってしまった」というところ。そこで終わってしまったのかと思ったけど、本当はまだ終わってはいないのよね。はぐらかされる。

:どうしてこんなに読みにくいのかと不安になった。人物描写が深くないので、ひたすら退屈。後半、パラレルワールドが出てきてから、ああこういうのを書きたかったんだなあとわかったけど。

ねむりねずみ:この人の短編集を読んだことがあって、変な味の人だなあ、なんか人間離れしていて、でも発想はすごいなあと思っていたのだけれど、これもやっぱりあまり人間くさくない。それにこの作品は、糸がゆるいというか、全体の構造がぐらぐらしている感じ。必然性をあまり感じないし、どこかに妙な味が残るし、個人的に好きじゃない。ぐーっと押してくる感じがないんですね。でも最後の、パラレルワールドのねじれをサイモンにかけられた変な魔法を利用して直すあたりは、この人らしいというか、なるほど、やるなあって思いました。フィリップ・プルマンみたいにどっしりしているわけでもなく、あまり好きじゃありませんでした。

:私も進まなくて。

アカシア:仕掛け方とかイマジネーションはおもしろいと思うけど、エンターテイメントだったらスピードに乗せるのが大事なのに、翻訳のせいか、そのスピードが出てきてないのが残念ね。これは、真面目に訳しただけじゃおもしろさが出ないストーリーなんだろうな。

:「これ、本当に徳間の本なの?」と思っちゃった。

紙魚:私も、今まで読書会の課題の本は必ず最後まで読んできたのに、この本は、なぜか読み進められなくて、ショック。登場人物も、ぞれぞれがうかびあがらないから、何度も人物紹介ページを見ちゃって、それでもわかりにくいし、物語もどこを頼りに読んでいけばいいのか全然つかめない。

愁童:ほんと、読みにくいよね。文をもっと短くするとか、もうちょっと日本語、工夫してほしいよね。中学生くらいに読ませようと思っているんだろうけど。

(2001年12月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


2001年12月 テーマ:最近のファンタジーを読む

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『2001年12月 テーマ:最近のファンタジーを読む』
日付 2001年12月13日
参加者 トチ、愁童、すあま、もぷしー、ブラックペッパー、ウェンディ、
アカシア、羊、ペガサス、ねむりねずみ、杏、紙魚
テーマ 最近のファンタジーを読む

読んだ本:

伊藤遊『えんの松原』
『えんの松原』
伊藤遊/作 太田大八/画
福音館書店
2001

<版元語録>帝の住まう内裏のとなりに鬱蒼と広がる松の林。そこは「えんの松原」とよばれる怨霊たちのすみかだった。少年でありながら女童として宮中に仕える音羽は、東宮・憲平に祟る怨霊の正体を探るべく、深い闇のなかへと分け入っていく。そこで彼が見たものは?……真実を求める二人の少年の絆と勇気、そして魂の再生の物語。
ダイアナ・ウィン・ジョーンズ『魔法使いはだれだ』
『魔法使いはだれだ(大魔法使いクレストマンシー)』
原題:WITCH WEEK by Diana Wynne Jones, 1982(イギリス)
ダイアナ・ウィン・ジョーンズ/作 野口絵美/訳 佐竹美保/画
徳間書店
2001.08

<版元語録>「このクラスに魔法使いがいる」謎のメモに寄宿学校は大騒ぎ。魔法は厳しく禁じられ、見つかれば火あぶりなのに! 続いて、様々な魔法が学校を襲う。魔法使いだと疑われた少女ナンたちは、古くから伝わる、助けを呼ぶ呪文を唱えた。「クレストマンシー!」すると現れたのは…? 『ファンタジーの女王』『英国の宝』と評される著者の代表連作。

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サンタ・クロースからの手紙

トールキン『サンタ・クロースからの手紙』
『サンタ・クロースからの手紙』
J.R.R.トールキン/作 ベイリー・トールキン/編 瀬田貞二/訳
評論社
1979

紙魚:前回、『川の上で』(ヘルマン・シュルツ作 渡辺広佐訳 徳間書店)を読んで、参加者みんなが「物語の力」ついて考えたんですよね。今回は「物語の力」、しかも『川の上で』の設定にならって、お父さんが語る物語をテーマにしようということになりました。父が語る姿というと、私は真っ先にこのトールキンの『サンタ・クロースへ手紙』がうかびます。トールキンのこの絵本は、わくわく楽しい読物ではないけれど、物語のまっさらな力が感じられて大好きです。壮大な物語というわけでもないし、絵本かと思って手にとっても本のつくりがあまり親切じゃないので内容がつかみにくい、トールキンが好きな人ならば楽しめる、というような本なんですけど、クリスマスも近くなると、つい手にとってしまいます。最近ファンタジーというと、大勢の人が読み、たくさん売れて、映画化されたりして大きなプロジェクトになっていくものが目立ちますが、物語の始まりって、本当に少数の身近な人に語られたのがスタートなんだなと、この本を開くとあらためて感じられるんです。大勢を意識して書いたわけでないのに、世界を作りこみ、ビジュアルも一枚一枚眺めていくと、物語がうかびあがってくるものばかり。小さな文字の書きこみなども丹念に読んでいくと、はっとさせられます。

ウェンディ:トールキンを知ってから、子どもにこういう話をしていたのだという興味で読みました。瀬田さんの『お父さんのラッパばなし』もそうだけど、この頃のお父さんて、元気だったのね。語る余裕がお父さんにあるということに、まず驚きます。トールキン好きの大人の目で読んでしまったので、31年のところの世界恐慌とか、37年のものとか、へんなとこが気になってしまった。子どもには、どう伝わるんでしょうね。トールキンの家族の実際の状況とか、資料と照らし合わせて読んだら、もっとおもしろいだろうな。

愁童:ぼくはね、見開きごとに封筒がついている版を読んだことがあるんですよ。これも文字が小さくて読みにくいけど、そっちは古いからもっと読みにくかった。その頃は、日本でもサンタクロースとかクリスマスとかに、今とはちがうイメージを抱いていたんだろうな。

トチ:この出版社は、趣味的で読みにくいつくりの本が多いわね。

オカリナ:いちばんいいなと思ったのは、サンタクロースという夢を子どもにあたえようと思っているトールキンお父さんの姿ですね。サンタクロースって、子どもの想像力を豊かにする大きな役目をもってると思うんだけど、お父さんが一所懸命その夢の世界を子どもに手渡そうとしている姿勢に感動しましたね。素朴だけどトールキン自筆の絵もいいし。

:しゃれた感じと思った。大人として読むと、『指輪物語』や『ホビットの冒険』などの世界がどういうふうに作られていったかがわかって、おもしろい。ただ、全編をとおして、わかりにくいところがある。サンタクロースをいわゆるステレオタイプ的イメージで描くのではなく、かなり具体的な描写や生活感を描いているので、サンタクロースがいるというリアルなイメージが持てます。資料的に価値がありますね。

オイラ:これはなんだろうと思ったけど、後書きを読んでなるほど思った。本にすべき原稿ではなく、資料として出されたものなんですね。トールキンは、非常に物語のあるお父さんだということを感じた。娘が小さいときに、ぼくもサンタクロースのまねをしたことがあるんですよ。枕もとにプレゼントは「玄関のところにある」ってメモがあって、そこにいくと「引き出しのところにある」というメモ、引き出しのところにいくと・・・、なんてね。自分の子育てのときを思い出したな。もう1度、父親をやりなおしたいという思いにかられた。

ねむりねずみ:これは子どもの本じゃないなって思って読まなかったんだけど、今回はじめて読みました。たしかドリトル先生は最初戦場から手紙を送るスタイルで書かれたのだと思いますが、これにもそれと共通の、身近な人に贈るプライベートなもの独特の温かさがあって、いいなあと思った。絵も上手ではないけど、楽しい。工夫してある。北極が折れちゃったり、オーロラが花火だったり、そういうアイディアに感心した。書いている本人も楽しかったんじゃないかな。

トチ:一般の子ども向けではないけど、一般の子ども向けの作品に発展していきそうな力を感じましたね。やっぱり、作家魂といえるようなエネルギーがある。子どもにしてみれば、1年ごとに手紙をもらうわけだから、テレビの「あの人は今」みたいに、あのシロクマがどうしているかというのもわかって、わくわくしたでしょうね。ただ、邦訳版の本をつくるうえでは、もう少し編集上の工夫が必要だったんじゃないかしら。

ねむりねずみ:字面も、横書きの1行が長くて読みにくい。

オカリナ:原書どおりの装本でページ数も同じにしようと思って、各ページに小さい文字をいっぱい入れちゃったんでしょうね。でも、たとえばトールキンの家族の写真を入れるなどの工夫ができれば、大人向けの資料的価値もふえるし、もう少し親しみやすい本になったんじゃないかな。

オイラ:こんなの読むなんて、トールキン家の子どもたちは頭よかったんだね、きっと。

ウェンディ:わからないところはお父さんに読んでもらうといいと書いてあったりしますよ。

紙魚:子どもに「読んで」なんて言われると、トールキンもどきどきして、うれしかったでしょうね。

すあま:子どもたちが書いた手紙も読みたかったな。あと、トールキンは絵がうまいんだなあと思った。こういう本の形になれば一度に全部読みとおせるけど、次のクリスマスまでの1年は子どもにとっては長い。子どもたちは毎年の手紙をどのように読んでいたんでしょうね。

(2001年11月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


お父さんのラッパばなし

瀬田貞二『お父さんのラッパばなし』
『お父さんのラッパばなし』
瀬田貞二/作 堀内誠一/画
福音館書店
1977.06

すあま:おもしろく読んだんですが、なんとなく物足りなさも感じました。それぞれ、オチがもうひとつ。これは、「母の友」の雑誌に連載していたのですかね。カラーも多いし、堀内さんの絵がとてもいいので、だいぶ助かっているのではないかと思いました。ほら話とはいってますが、お父さんの「ほら話」なのか「冒険談」なのか、どっちつかずだった。

:改めて読み直すと、どうも入っていけなかった。ほら話なので、のせられないとつまらない。お父さんはけっこう悪乗りしているのだけれど、う〜ん、ちょっと冷めて読んでしまう。よくアメリカのほら話を読むと、ちょっと入っていけない感じがありますが、この本も同じような感じ。その土地に根付いているようなほら話って、生活しているんだったらリアルに感じられるのかもしれないけど。それが、世界各国の話になっているので、ほんとにこんなことあるのかなーという感じでした。得意になって話しているお父さん像はいいなと思った。この本のなかでは、ビルのガラスふきの場面がちょっとスリルがあって好きでした。

オイラ:入っていけないっていうのは?

:どっか客観的に見てしまうんです。昔あったことをベースにしている話ではあるんですが、ある時代性みたいなものも感じてしまい、今の自分にはピンとこない。時代を超えて楽しめるものにはなっていないということかな。参考になるかどうかわかりませんが、この中の一遍「アフリカのたいこ」は絵本化されてるんです。1966年にハードカバー化されたんですが、問題になって絶版。発展途上国を一段下に見るような見方はいけないんじゃないかと。その当時は、アフリカは野蛮だと思われていて、植民地時代を舞台にして奴隷とか描いているのは、幼い子どもたちが見る絵本としてはいけないんじゃないかということですね。絵本になったときは、現実にあるアフリカの村が舞台になっていて、子どもの名前もタンボ。リアルなお話になっているんです。お話自体も、西洋文明からみたエキゾティズム、イリュージョンとして描かれています。この『おとうさんのラッパばなし』に関しては、ある時代の事実をベースに描かれているし、ほら話としてほらが信じられるくらいリアルではないので、どうなのかという部分もありますね。

オカリナ:今回は半分くらいしか読めてないんだけど、小さい子どもがだれかに読んでもらえば、この本はおもしろいと思う。ただ大人が読むと、楽しめない。大人も子どももおもしろく読める本と、大人が読むとそれほどおもしろくない本があるけど、これは後者。ほら話なら、『シカゴよりこわい町』(リチャード・ぺック作 斎藤倫子訳 東京創元社)の方が、ずっとおもしろかったな。あれは子どもがおばあさんを見るという視点で書かれてるから、おばあさんの欠点も出てくるのよね。この本はお父さんが語っているので、お父さんはすごいだろ、と自分で言ってるだけで、裏がない。だから、最後まで読んでも、お父さん像が浮かび上がらない。そのへんが物足りないのかも。

愁童:ぼくは、しんどくて半分くらいで投げ出しちゃった。子どもたちが3人、お父さんの話を待ち構えているという設定だけど、そんな設定は、今じゃとても通用しない。特に上の子は中学生なんだよ。今読むと、そこに無理を感じないではいられないな。あったかい親子、あたたかい中流家庭のイメージと童話感が微妙にからみあっていて、今読むととてももどかしい。みんなどこかで読んだことがあるような感じがしちゃう。『町かどのジム』(エリノア・ファージョン作 松岡享子訳 童話館出版)に似た展開だけど、説得力とほら話のスケールで負けてるなっていう印象。

ウェンディ:子どもが語ってもらえば入っていける、ってことでしょうかね?

紙魚:この本は、母に一話ずつ絵を見せられながら読みきかせてもらった記憶があります。挿絵も全部覚えていたくらい。でもその後ずっと読んでなくて、今回初めて読み返してみたら、読みにくくてつらかった。きっと昔好きだったのは、身近で絶対的な存在が語ってくれるというスタイルだったからなのかも。今、この本を読むのがしんどいのは、語られる必要性を子どもの頃ほど期待していないからなのかな。当時この本って、装丁が翻訳本のような印象だったんです。他の日本の作品とちがって、本棚からモダンな香りがただよってきたんですね。作者の方も、海外のものに触発されて、お父さんが語るスタイルで書きたかったのでしょうか。そういえば、ダールと同じ題材が出てきましたね、キジ取りです。ダールは生っぽいのに、こちらは違う。それも日本と海外の違いなのかな。今は、どんどん世界が小さくなっていくので、たとえばニューヨークでも、昔思い描いていたニューヨークとは違ってきていると思います。今の子どもたちにとって、遠い世界ってどこなのだろうと考えてしまいました。これからの物語作家は、舞台をどこにさがしていくのか本当に難しいです。

トチ:昔読んだ覚えはあるんだけど、すっかり忘れていて改めて読みました。「こどものとも」でも、66年にはまだ「土人」という表現を使っていたという事実には、あらためて驚きましたね。ダールに比べて、瀬田さんは人柄がいいんじゃないかしら。ほら話と自分では言っているけれど、全然ほらじゃないのよね。ほらの爆発力がない。ダールと比較していちばんおもしろいのは、キジの話。ダールの話だと、銃は使わないけれどキジを「うまい、うまい」と言って食べる。瀬田さんは、殺すことそのものがいけないと言っている。江戸時代ならともかく、今は現実にいろいろな動物を食べているから、大きな子が読むと「なんとなく嘘っぽいな」という感じがするのではないかしら。自分のよって立つ考えがダールははっきり見えてくるのに対して、こちらはあいまい。お父さんと子どものキャラクターが見えてこないのよね。たぶん、お父さんは瀬田さん自身でしょうけど、本当に人のいい、悪気のない感じ。子どもが3人いるけど、これなら、何人いても同じで、それぞれの顔は見えてこない。ダールと比べては気の毒だという気はするけれど。やはり、瀬田さんは、創作の人というより翻訳家だったんだなあと思いました。

ねむりねずみ:荒唐無稽なところがまるでない。安心して読めるといえばそうだけれど、日常から離陸しきれていない。ほら男爵のミュンヒハウゼンのようなほらの力が全然なくて、こぢんまりまとまっている。大風呂敷を広げようとするんだけど、中産階級の品のよさというか、教訓めいている。ほらというのは本来善悪などの教訓的価値をぶっ飛ばしているものなのに、動物と仲良く暮らしていきましょうといった教訓に行ってしまうので物足りない。ロアルド・ダールのキジの話と対照的なのはその点だと思う。瀬田さんの力だけでなく、お父さんと子どものありようが英国と日本では違うんじゃないかなという気もしましたね。お父さん文化の違いかな。ダールからは、男の人の文化がちゃんとあって、それをお父さんが子どもに継承していくという雰囲気を感じたが、日本にはそういうものがないのかなと思って、頼りない気がしました。

オイラ:すごく頭のよい人だと、想像が飛んでいけないのかな。

チョイ:二十何年前に読みましたが、あまりおもしろくなかった印象があります。父ならではの男の怪しさ、魅力をあまり感じないんですよね。瀬田さんは、きちんとしてて、無菌状態というか、正しすぎて、なんだかおもしろくない。父と子の物語では、短篇ですが、筒井敬介さんの『日曜日のパンツ』(講談社/フレーベル館)なんか、いかにも男としての父のおかしさが出ていて好きでした。阿部夏丸さんなんかも、父として子どもに向かって語るとき、おもしろいです。今は、父の子ども時代の思い出話のほうが、ファンタジーになるんでしょうか? しかし、こういう物語って、子どもはおもしろいのかな?

紙魚:私が幼稚園のとき、5歳上の姉は自分で読んでいたんですよ。本棚で背表紙のデザインが際立っていたので、憧れを抱きました。

オイラ:たしかに1970年代だと、描き文字の表紙は少なかったから、目立っただろうなあ。70年代って、こういう本づくり、多かったね。

トチ:現実の方がよっぽどおもしろいのよね。毎日お父さんが背広を着て出かけるけれど、実は泥棒だった・・・そんな話も実際に聞いたわ。世界一周というのも、なんか教養的よね。それから、今読むと、えっ!と驚くようなところもあるわよね。「イスラムの国は泥棒の多い国」と思わせる表現など、この時代だから許されたんでしょうね。瀬田さんの業績は誰しも認めるところでしょうけれど、こういう創作が、今若い女性たちに人気のある似非英国ファンタジー的創作につながっているんでしょうね。

(2001年11月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ぼくらは世界一の名コンビ!〜ダニィと父さんの物語

ロアルド・ダール『ぼくらは世界一の名コンビ!』
『ぼくらは世界一の名コンビ!〜ダニィと父さんの物語』
ロアルド・ダール/作 小野章/訳
評論社 
1978.06

ねむりねずみ:ダールはあまりちゃんと読んでないのですが、イギリスの子ども向け映画『魔女がいっぱい』や『チョコレート工場の秘密』を見たとき、ぞわぞわっとしたのを覚えてます。大人向けのものを読んだときは、なんて意地悪な人だと思ったり。英国では、映画をテレビ放映するときに、小さい子には見せない方がいいマークがついている。最後にネズミに化けた魔女をスリッパでたたき殺すのが残酷だっていうんですね。それに比べると、『ぼくらは世界一の名コンビ!』は、やりすぎ!という感じがあまりない。でも、ダールが子どもに好評なのは、悪い奴は徹底的にやっつけるという極端なところが子どもの波長に合っているからじゃないかと思います。よってたかって金持ちを徹底的に馬鹿にするあたりも、何もそこまでという感じだけど、それが魅力でもあるんですね。このお父さんは、すごく男っぽくて、男であることを意識しているし、それがいい形であらわれています。もっともそうな顔をしておいて、途中からほら話に離陸するあたり、やるなあと思って読んでました。すごくインパクトがありましたよ。以前、イギリスで目にした、お父さんと息子が歩いている風景と重なって、ここでもいわば男の趣味を次世代の男に伝える様子が描かれているわけだけど、日本ではそのあたりどうなっているんでしょうね。でも、ダールって不気味ですね。

トチ:私はダールは大好き。『あなたに似た人』(ロアルド・ダール作 田村 隆一訳 早川書房)などの大人の小説にある毒みたいなものが子どもの作品にも入っているけど、その毒って現実じゃないかと思うんですね。人生の真実みたいなもの。それが子どもの本にも入っているから、奥行きが生まれる。『お父さんのラッパばなし』では、イメージだけで終わっている話が多いと思うんだけど、これは物語性もあるし、それぞれのキャラクターがよく書けてる。E.M. フォスターは、現実の人間とつきあうより、はっきりとした人間像が描ける小説を書くのが好きだったんですって。人間像を描くのが小説だとすると、人間が書けてないのはなんなんでしょうね? この作品は、牧師さんの奥さんのような脇役にいたるまで、よく書けてるわよね。

紙魚:一気に読むほどおもしろかったです。この物語の感触って、どこかで経験したことがあるなあと感じたんですが、小さい頃に、祖父が勝手に作って語ってくれた物語の感じなんですね。つきはなしたところがなくて、肉の温かさがつきまとうというのかな。たとえば、祖父は布団に入ると、「おいで」ってやさしく呼ぶんですが、布団に入ったとたんに怖い話が始まる。ヘビが寄ってきたり、トラがやってきたり。話に合わせて、布団の中がもぞもぞ動くもんだから、本当にトラがいるのかとものすごく恐かったです。母親が語るような、柔らかい、甘い、優しいものは、そこにはないんですけど。それが男の人しか持てないおもしろさだとしたら悔しいくらい。『ぼくらは世界一の名コンビ』のなかで、いちばんどきどきしたのは、真夜中にダニィがお父さんを助けに行くところ。「気持ちが高ぶるのは死ぬほど怖い思いをするとき」って本文のとおり、その恐怖心がちゃんと伝わってくる。しかも、このお父さんの根底にあるのは、お父さんだけの物差し。世間でどうかということではなく、お父さんだけの価値基準がきちんとダニィに伝えられていく。最初は、このお父さん、道徳的でいい人なんだろうなあと思って読みだしたら、いきなり密猟。でも、密猟は、常識的にはいけないことでも、お父さんにとっては正しいこと。その物差しをちゃんと持ちながら生活していく。ダニィも、それを受け継いでいく。周りの子のお父さんにも、それぞれの物差しがあるんだろうと思うと、お父さんの存在って愛らしく感じられるなあ。

ウェンディ:私も、こんなお父さんがいたらいいなと思いましたね。お父さんはすごいんだとなぜ思うのかが最初わからなかったけど、いずれは父をこえていくんだなと最後は納得していました。一般的に密猟は正しいことではないけど、偽善的なところがない。嘘っぽいところがないのが、きちんと子どもに伝わっていくんでしょう。キジを百何羽隠せるわけもなく、どう決着をつけるのか不安だったけど、乳母車に隠してたとわかったとき、はっとしました。

オカリナ:ダールって、いろんなイマジネーションを変幻自在に扱える人なのよね。しかも、いつもブラックが入ってくる。移民の子だったし、寄宿学校でもいじめられたし、そんな屈折した思いがあったからこそ、物事を裏から見る視線を獲得したんでしょうね。でも、あまりにもイマジネーションが豊かだから、時に悪のりして暴走するんだけど、この作品はうまくまとまってますね。夜、自動車を運転していくところとか、干しぶどうをつめるところとか、キジがぽとんぽとんと落ちるところとか、ひとつひとつのイメージもいい。地主のこらしめ方はすごいけど、じめっとはしてない。そうそう、ダールの傑作といわれる『チョコレート工場の秘密』は、アフリカからピグミーをつかまえてきて工場で働かせたというところが人種差別だと大問題になって、原書では本人が直してるんだけど、日本語版(評論社)はまだ直ってませんね。どうしてだろ? 直してほしいな。

:私もまんまとのせられて読んでしまった。物語性があるし、善悪がはっきりしている。ここに書かれていることは、男から男へ伝える男の文化だなあと思った。今の日本のお父さんはどうなのかな。すっかり男の子になって読んでしまった。とくに後半は、はらはらどきどきだった。おかしいけど最初私はお父さんがこっそり家を出ていくのは、密猟とは思いつかなくて、てっきり誰かほかに家族がいるのかと思ってしまった。清く正しく貧しいながらも楽しく暮らしていたのに、いきなり密猟。悪いことをやるとき、危険とか死と向き合ったときに興奮する感じは、究極の感情。だんだんお父さんがドジをふんだりして、その場にいるような臨場感も感じられました。キジが落ちてくるところは、どすんという音が聞こえるかと思うくらい、入りこんでしまった。ストーリーとしても、快く終わってよかった。村の人たちも皆お父さん側で、悪い人もいなくて、快感がありました。客観的にみると、大人たちが、生っぽく人間らしく描かれてますね。子どもはお父さんを絶対視してる。もしこういうお父さんじゃなかったら、どうなのかなと考えて今のことを思うと、それでもお父さんに対しては、親を自慢したいゆるぎない気持ちはあるのでしょうね、子どもには。私の場合、中学校になる前くらいは、親を絶対と思っていたけど、それ以降はいやなところも見えてきた。先日、映画『千と千尋の神隠し』をみて、両親がいやな存在に描かれてたのが気になったんです。お母さんはキャリア風、お父さんは体操のセンセイ風。それが豚になってしまう。なんでこんなふうに変に描くのかな? 現代の親の象徴としているんだろうけど、千尋はそれでも両親のところに戻ろうと考えている。子どもは、どんな親でも、戻りたい。せつないですね。

チョイ:父親って、子どもにもわかりやすい、目に見える技術があると、それだけで尊敬されて得ですね。凧を作ったり、気球を上げたりもそうだけど、人生を楽しむ術を知っているってことが、息子にとっては、とても魅力なのではないでしょうか。それと、父親なりの価値がはっきりしてるってことも、大切。エンジンを組み立てることを学校より優先させたり、このお父さんは、息子に尊敬されたり好かれたりする要素をちゃんと目に見える形で持ってて、幸せですね。それに対して、人生を遊ぶ術を知らない学校の先生なんかは、割と冷たく描かれています。この物語は 全体に幸福感がただよっていて、ディテールで、きちんとその幸福感が表現されていると思います。馬車の家とか、ナイフとフォークの本数とか、つつましい幸せが細部にあります。父と息子の至福の生活ですね。

ウォンバット:私は、小さい頃1度読んだと思うんですが、あんまりいい印象ではありませんで・・・。タイトルが好きじゃなかったんです。「ぼくら」と「名コンビ」って言葉にまずカチンときちゃって。ヤな言葉だなあと思ったのね、どっちも。今も、いいタイトルとは思えない。それでたしか読んでたはずなのに、どんな話だったかよくおぼえてなかったんだけど、今回最初の方だけぱらっと読んで、キジとりの仕掛けのところで、あー、あの話!と思い出した。全体としてはちょっと斜に構えて読んでたんだけど、こういうところはすっごく楽しんだ記憶がよみがえってきた。

すあま:ダールと瀬田さんを同時に読んで、瀬田さんのほうは、ほら話というよりお父さんが実際に旅をしてきたという感じ。最初はほら話だと期待したので、なんだか物足りない。ダールのほうは、干しぶどうの作業だって実際はできないだろうに、リアリティがある。p11に親子の写真がのっていたりするから、もうすっかり信じちゃう。とんでもない話になっていくのだけど、本当だと思わせて、荒唐無稽になっていくからおもしろい。たしかに、タイトルはやっぱりよくないな。ダニィが主人公になってるところがいいのに。お父さんが仲間とキジとりに行く話で、子どもがその側にいるだけだったらつまらないもんね。

オイラ:うーん、ダールおじさん、やってくれるね。ここまで大人をワルがきに書いたものもないんじゃない? お父さんの悪いこと悪いこと! なのに、子どもは品行方正だよねえ。この本、9刷にしかなってないのにびっくり。やっぱり、タイトルが悪いからかねえ。イギリスは階級社会だから、上の階級をやっつけるのは痛快なんだろうね。それから、自分自身をふりかえって、もう1度親父をやりたいと思った。いたずら心を、子どもといっぱい共有したいと思ったな。ぼくの子どもが小さかった頃、お米をお酒につけてふやかして、鳥に食べさせるのやったことあるんだけど、またやってみようという気になった。いたずら心を刺激されたね。子どももそうだけど、これから子どもをつくるお父さんにも読ませたいと思った。いやね、今回「物語るお父さん」をテーマに決めたとき、なかなか日本の作品でいいものが思いあたらなくて、これはもしかしたら、日本のお父さん自体の問題なのかもしれないなんて話になったんだよ。冗談で、日本のお父さんを代表してごめんなさいと言ったんだけど・・・。ぼくは大好きな作品でした。

チョイ:父親の物語って、日本でも、小さな小品はあるんだけど・・・。だめなお父さんはいっぱい登場しますよね。蒸発したり浮気したり。

オカリナ:ローラ・インガルス・ワイルダーの大草原シリーズのお父さんは、いい意味でも悪い意味でも「家長」だったわけだけど、時代が下って今書かれているのは、ほとんどがだめなお父さんよね。

オイラ:角田光代さんの『キッドナップ・ツアー』(理論社)の、だめなお父さんはおかしかったね。

:重松清なんかは、今のお父さん像をちゃんと描いているんじゃないかな。

(2001年11月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


2001年11月 テーマ:物語るお父さん

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『2001年11月 テーマ:物語るお父さん』
日付 2001年11月29日
参加者 杏、ウェンディ、ウォンバット、オイラ、オカリナ、愁童、
紙魚、すあま、チョイ、トチ、ねむりねずみ
テーマ 物語るお父さん

読んだ本:

トールキン『サンタ・クロースからの手紙』
『サンタ・クロースからの手紙』
原題:THE FATHER CHRISTMAS LETTERS by J.R.R.Tolkien, 1976(イギリス)
J.R.R.トールキン/作 ベイリー・トールキン/編 瀬田貞二/訳
評論社
1979

<版元語録>サンタ・クロースになりすましたトールキンが、20年以上にわたり子どもたちに贈り続けたクリスマス・レター。サンタ・クロースの北極での暮らしぶり、愛すべきまぬけな白熊のことなどをユーモラスに報告。トールキン自筆のファンタジックな水彩画を収めた、美しいクリスマス絵本。
瀬田貞二『お父さんのラッパばなし』
『お父さんのラッパばなし』
瀬田貞二/作 堀内誠一/画
福音館書店
1977.06

<版元語録>ほらのうまいお父さんが吹きまくる、ゆかいでステキなラッパばなし。ニューヨークでは窓ふき世界チャンピオン、イギリスではサーカス団で大活躍! バグダッドで大泥棒を捕まえて、エアーズロックではブロントサウルスとご対面! 今日はどんな冒険話が聞けるかな?瀬田貞二による、奇想天外な14話の冒険物語短編集。
ロアルド・ダール『ぼくらは世界一の名コンビ!』
『ぼくらは世界一の名コンビ!〜ダニィと父さんの物語』
原題:DANNY〜THE CHAMPION OF THE WORLD by Roald Dahl, 1975(イギリス)
ロアルド・ダール/作 小野章/訳
評論社 
1978.06

<版元語録>ダニィの父さんは、楽しいことをつぎつぎと考えだす、世界一すてきな父さんだ。ところがある夜、ダニィが目をさますと父さんがいない…?なんと父さんは、遠くの森で夜中にこっそりキジを密猟していたのだ…。

(さらに…)

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川の上で

ヘルマン・シュルツ『川の上で』
『川の上で』
ヘルマン・シュルツ/作 渡辺広佐/訳
徳間書店
2001.04

ウォンバット:言葉の伝わらない土地での危機的状況に、どきどきしながら読みました。村に上陸するたびに、だいじょぶかしらとはらはら。ただ、どうも私、宣教師ものってしっくりこないところがあって・・・。映画の『ピアノレッスン』なんかもそうなんだけど、ヨーロッパ人がなじみのない国に行ったという設定にちょっと不快感を持っちゃうからかな。あと、徳間書店の児童書って、他のもそうなんだけど、前袖の文句がとってもていねいですよね。だから、本を読む前に、ああこういう本なのかってわかる。自分で書かなくちゃいけないときには、どこまで書いていいものか、いつも迷うんですけど。

モモンガ:私はね、そこ読んじゃうと内容がわかっちゃうから、読まないわ。

ウォンバット:たしかに、読み方が限定されちゃうってこと、ありますね。どういう本なのか、それだけでよくわかっちゃうから。今日みたいに期日までに急いで読まなきゃいけないときは、内容理解に役立って助かるけど。かといって、全然内容が伝わらないのもいけないし。コピーってそのあたりのさじ加減が難しい。ほんと、コピーの作り方って難しいですよね。あと、この本の対象年齢なんですけど、大人の人が読んだほうがおもしろいと思います。ずっとお父さんの視点で書かれてるし。

モモンガ:私はね、この本には物語るということの不思議な力を感じた。行く先々で、ゲルトルートが土地の女の人に介抱してもらいながら話しかけられるじゃない。アフリカの人たちの不思議な力を得て、病気が治っていくんだけど、それは物語る力のおかげだというように書かれている。また、父親も瀕死の娘に物語を語ることで、娘に力を与え、自らも解放されていく。こういう話って、これまでに読んだことがなかったし、不思議な感じがした。出だしは、イギリスの国旗の話でひきこまれていくのよね。でも、途中から、もうそのことは忘れてしまった。なんともいえない不思議な雰囲気があって。目に見えない力が体を治す物語っていうのはほかにもあるんだけど、その中でもとてもおもしろかった。あとね、みんなに聞きたいのは、最後、p140に、動物ショーを見ているゲートルートのことをインド人が「黒いカラスの群れの中にいる白いカモメのよう」と言うところがあるのね。これを、差別じゃないかっていう人がいるんだけど、みんなはどう思う?

オカリナ:これって、お父さんが言った言葉じゃないでしょ。黒にマイナス、白にプラスという概念なしにただ見たままを言ったんじゃないかな。

一同:差別とは感じないけど。いやな感じはなかったな。

紙魚:いやな感じといえば、私は『ダレン・シャン』を読んで不快感を受けました。これ、原題は”Cirque du Freak”「フリークショー」ですよね。今回、読書会のテーマが「ファンタジーと人間の想像力」で、どういう意味なのか不思議だったんですよ。これを読んで、そうか、人間には負の想像力があるということかと思ったくらい。人間の想像力って、質、量ともに拷問を例えに語られることがあるじゃないですか。人間には拷問のような酷いことを考える想像力があるんだと。今回のテロ事件でも、ビルに爆弾をしかけるくらいまでは私でも思いつくけど、まさか飛行機をハイジャックしてビルに突っ込むというという発想はなかなかない。人間を幸せにする想像力もあれば、その逆もあるんですよね。もちろんそのどちらをも人間を持ってはいるんだけど、それをどう描くかは大事なところ。『ダレン・シャン』には、前向きなものが感じられませんでした。しかも、えんえんとフリークショーの描写が続き、おしまいの方で、主人公がバンパイアになるかとつきつけられたとき、あっさりとなっちゃうんですよ。そこに、ぜんぜん葛藤がないんです。こんなに簡単すぎていいの?と思いました。
その後に『川の上で』を読んで、私は、自分が読書に単なる驚きを求めているのではないってことが、よくわかったんです。先ほどからみなさんが言っている、物語の力を私も強く感じることができました。前半、ゲルトルートの描写が極端に少ないんですが、父親がだんだん娘に目を向けるのと平行して、ゲルトルートの形容やら感情やらの描写が増えてきます。自分もまるで船に乗って旅をしているように感じました。

オカリナ:この作品は2つの点でいいな、と思ったのね。1つは、物語の力というものに焦点が当てられている点。p111で、お父さんが「物語にそれほどの力があるとは思えないが・・・」って言うと、人生のベテランらしい女性が、お父さんの語った物語の愛が子どもに伝わったと言うのよね。もう1つは、ヨーロッパの人のアフリカへの目線。貧しくって飢えてる人たちだから、なんとかしてあげようという上からの見方か、アフリカの人のほうが自然と共生していて理想的という見方しかなかったでしょう。でもこの人は、そのどちらでもなく、自分が何を感じて受けとったかという立場で書いている。アフリカの人を理想化してるわけでもない。こういうふうに異文化との出会いを書いた本は、ぜひ子どもにも読んでほしいな。

モモンガ:お父さんが娘に語る話には、お父さんの子どもの頃のことなど、子どもとしてとても興味深いものがありましたね。娘が熱心に聞いたように、読者の子どももひきつけられると思う。だから子どもに読んでほしい本だといえる。

紙魚:そこのところはもっと読みたいと思ったな。物語の力って、力があるって説明するじゃいけないと思う。やっぱり物語の力を体験し、実感できないと。だから、お父さんがゲルトルートに話す物語の部分は、もっと読みたかったし、実感したかった。

オイラ:この本は読んでよかったね。神父さんて、最初のうち偉大に書かれてるんだけど、娘を病院へつれていくあたりからただの男になっていく。あとがきには、神父の功罪も描かれているしね。作者がドイツ人だからか、全体にイギリス人を揶揄しているようにも受け取れたな。この物語のいいところって、人間って変わるんだってことが書かれてるところだね。

オカリナ:でも、アニマがひきとられた人たちはイギリス人で、その人たちはいい人だったとは書いてるよ。

オイラ:そうか。ぼくは、おもしろくないとなかなか最後までたどりつけないけど、これは最後まで読んだんだ。じつは、ライラントの『天国に近い村』は、途中で投げちゃった。『ダレン・シャン』も途中まで。異形の人たちの記述にはついていけなかった。

オカリナ:でも、『ダレン・シャン』は売れてるらしいわよ。図書館でも、ぜんぶ借りられてて棚にはなかったの。

オイラ:こういう奇怪なことをおもしろがる子どもがいるってこと知ってるんだな、版元は。

モモンガ:不快感を味わいたくて読むのかしら。

オイラ:変なものを見たいって気持ちは、あるからね。猟奇趣味だよ。

(2001年10月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ダレン・シャン〜奇怪なサーカス

ダレン・シャン〜奇怪なサーカス
『ダレン・シャン〜奇怪なサーカス』
ダレン・シャン/作 橋本恵/訳
小学館
2001.07

(『川の上で』を参照)


天国に近い村

シンシア・ライラント『天国に近い村』
『天国に近い村』
シンシア・ライラント/作 中村妙子/訳 ささめやゆき/画
偕成社 
2001.05

ウォンバット:この本は、ものがなしい気持ちになってしまいました。癒してくれようとしてるのかなと思いながら読んでたんですけど、でも結局報われることなく、最後は意地悪しているのかな? と思っちゃった。

オカリナ:天国というものが存在するって信じてる人にとっては、癒されるし報われるんじゃないかな。

ウォンバット:ふだんから天国に行きたいって思って暮らしてる人っていないと思うし、もともと、何かやり残したことがなんにもないって状態で死ぬ人なんていないと思うんです。ここに登場する人はみんな、死んでもやり残したことを埋め合わせようとしてるわけだけど、「もうこれでOK。私の人生、これで納得しました」と思えるようになる人はいなさそう。なんだか虚しくなっちゃって、これって皮肉なのかなとも思っちゃった。

モモンガ:私もそんなにおもしろいとは思わなかったな。同じ作者の『ヴァン・ゴッホ・カフェ』と似てて、訪れる人のエピソードをいくつか読めば、ぜんぶ読まなくてもいいって感じ。これも、癒しの本って思われてるのかな。

ウォンバット:えー? これで癒されますか? 思わせぶりなのにはずされたって感じがするけどな。

オカリナ:でもこの作家はキリスト教徒だから、その観点で見れば、そうかと思えるんじゃないの?

モモンガ:人間の想像力っていうことで考えると、キリスト教の人たちがみんな天国を信じてるっていうのもすごいわね。

オイラ:相当キリシタンでないと、だめだな。

オカリナ:癒し本というのがあるけど、私は、そんなにお手軽に癒されたりしない方がいいんじゃないかな、と思ってるの。

ウォンバット:どうも癒されたいって人が多いんですよね。どうして人々は癒されたいんでしょうね? 私、そもそも「癒し」っていう言葉、好きじゃない。ちょっと前すごく流行ったけど、いやな風潮だと思ってた。

オカリナ:癒し本なんていっても、ほのぼのする、とか、しみじみするっていうくらいのレベルなのよね。

紙魚:癒しって、本当はきちんと存在しているんですよ。けど、今私たちがかんたんに言葉にする癒しは、商品化された癒しですよね。

ウォンバット:ナンシー関が、「アロマテラピーとかいって匂いかいだぐらいで癒されるのは、疲れてるんじゃないよ」って言ってました。

(2001年10月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


2001年10月 テーマ:ファンタジーと人間の想像力

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『2001年10月 テーマ:ファンタジーと人間の想像力』
日付 2001年10月25日
参加者 モモンガ、オイラ、オカリナ、ウォンバット、紙魚
テーマ ファンタジーと人間の想像力

読んだ本:

ヘルマン・シュルツ『川の上で』
『川の上で』
原題:AUF DEM STROM by Hermann Schulz, 1998(ドイツ)
ヘルマン・シュルツ/作 渡辺広佐/訳
徳間書店
2001.04

<版元語録>1930年代アフリカ。若きドイツ人宣教師フリートリヒは、熱病で妻を亡くし、同じ病で死に瀕している一人娘ゲルトルートを救うため、大きな町の病院を目指して、広大な川へと漕ぎ出した。やがてフリートリヒは不思議なことに気づく。立ち寄る川沿いの村人たちが次々に娘を癒してくれているようなのだ…。異文化との出会いと親子の心の絆を描いて話題を呼んだヘルマン・ケステン賞受賞作。
ダレン・シャン〜奇怪なサーカス
『ダレン・シャン〜奇怪なサーカス』
原題:CIRQUE DU FREAK by Darren Shan, 2000(イギリス)
ダレン・シャン/作 橋本恵/訳
小学館
2001.07

<版元語録>友人の命を救うために、バンパイアになってしまうダレン少年の物語。数奇な運命をたどっていく主人公の冒険や不思議な世界が、予想もできぬ展開で繰りひろげられていく英国のミステリー小説です。
シンシア・ライラント『天国に近い村』
『天国に近い村』
原題:THE HEAVENLY VILLAGE by Cynthia Rylant, 1999(アメリカ)
シンシア・ライラント/作 中村妙子/訳 ささめやゆき/画
偕成社 
2001.05

<版元語録>人が死んで天国に行く時、少しの間暮らす村がある。天国に行く準備ができていない人々が住む小さな村の物語。ニューベリー賞作家の描く、愛にあふれたファンタジー。
そのほかのファンタジー

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ふくろ小路一番地

イーヴ・ガーネット『ふくろ小路一番地』
『ふくろ小路一番地』
イーヴ・ガーネット/作 石井桃子/訳
岩波書店
1957

愁童:この本って、当時は教科書みたいに読んでたんだけど、今回読んで、時代が変わっちゃったなと思ったね。石井さんも、イギリスの下層階級を書いた児童文学の初まりだって書いてるけど、今、下層階級のユニークな子どもが書かれてると言われてもピンとこない。時代のなごりがあったときにはよかったんだけど、今の子どもには無理なんじゃない? こんな変わっちゃった感想をもつとは、自分でも意外だったな。訳の問題もあるけど。

オイラ:原著が出版されたのって、ぼくが生まれたときより前なんだよね。実は飛ばし読みしちゃったんだけど、昔のよき時代らしい、貧しさのなかの良さ、おふくろの存在感、子どもたちの豊かな行動。貧しいからこそ、子どもたちが生き生きと動きまわってるというのがとってもよく出てる。リンドグレーンの『やかまし村の子どもたち』でも思ったんだけど、今のゲームばっかりやってる子は、どう読むんだろう?

ウォンバット:この本、好きだったのに存在をすっかり忘れていたので、今回久々に読むことができてうれしかった。「あー、こんなにいい子がいたじゃないの。忘れててゴメン」と思いました。一か所すごーく好きな場面があって、それはジョーがウィリアムの口に自分の指をスポンと入れるとこなんだけど、そこを読んだら、この本を読んでたころのことがパーッと蘇ってきてね。この「スポン」がカタカナなのもちゃんとおぼえてて感慨深かった。さっき、愁童さんから今の子には受け入れられないんじゃないかというような話が出てましたが、私は無理とは思わないなー。たしかに今回の3冊は古いけど、別の世界のことを知るおもしろさってあると思うから。

愁童:さっきオイラさんも言ってたけど、貧しい時代の子どもの豊かさというのは、ぼくも感じるんですよ。職業による階級なんてのも、昔の日本にもあったしね。しかも学校ではそれがぐちゃぐちゃになって存在してたんだな。そういうセンスで書かれてるんだよね、この本は。今の日本人の感覚からすると、古いアパートにいて、お母さんが夜働いてるなんてのも、あんまりないように思っちゃうけど、実際は多い。だから、それが原因で、ひけめがあったりいじめられたりってこともある。でも、一億総中流って言われれば、子どもたちもそういうもんかって思うじゃない。とすると、今の子どもたちにすっと受け入れられるとは思えないな。

ウォンバット:うーん。でもね、自分とかけ離れていれば、かけ離れているなりに、時代小説を楽しむのと同じようなヨロコビがあると思うの。異世界のように感じながら読むのもまたよし、と思うけど。

モモンガ:当時は、外国の児童文学が今ほどなかったから、はじめての外国のようす、という感じでおもしろく読んだというのもあるわよね。

ウォンバット:パンを食べたというところも、どんなパンなんだろうと思ったりして。

オカリナ:この本は絶版になってるから手に入りにくいんだけど、図書館なんかで借りて若い人たちと読むと、みんな一様におもしろいっていうのよね。ほとんど女の子なんだけど。ここには、ひとつの家族の理想のかたちっていうのがあるのかなと思います。子どもたちは学校や親に一挙手一投足を監視されているわけじゃないし、自分でいろいろ試しては失敗するっていうのがおもしろいんですよ。それと、ここに書かれてる子どもたちは、親が働いている姿を身近に見て育ってるから、家族の基本的なつながりがある。石井桃子さんの訳もそんなに古くないし、エピソードがおもしろいから、この本は復刊してほしいなと思ってるの。

オイラ:やっぱり大家族っておもしろいじゃない。今の若い人がおもしろいっていうのも、その辺じゃないかな。

愁童:出版された当時は理想的な児童文学と言われて、それなりの現実感をもって読んでたんだけど、自分の子ども時代と重なるっていうのとは違う。今読んでみると、現実感がないんだな。

トチ:ここに描かれているのは、物質的な幸せよね。ケーキをもらってうれしいというような、わかりやすい幸せ。同じ時代なのに、ケストナーの『点子ちゃんアントン』のほうは、物質的にみたされてるだけじゃ幸せじゃないって書かれてて、ここが新しいところよね。

オカリナ:うーん、物質的な幸せが描かれているっていうよりは、物がないから、ささやかな物でも幸せになれるってことが描かれてるんじゃない? その辺はローラ・インガルス・ワイルダーの「大草原」シリーズと同じだと思うけど。点子ちゃんは家庭的に幸せではなかったけど、ふくろ小路の子どもたちは家庭的には幸せなのよ。

トチ:でも、雨にぬれちゃって、お金持ちの家に行ってフランネルを着せてもらうなんてくだりは、物質的な幸せが描かれていると感じましたね。

モモンガ:子どもには、そういうのがわかりやすいのよね。

愁童:帽子買ってもらうじゃない。でも、海に流されちゃって。結局返ってくるんだけど、ここらへんは、昔の家では非常にリアリティあったんだよね。

モモンガ:帽子のところで、みんなと違う古い紺のをかぶっていかなくちゃならないなら、もう生きちゃいられない、っていう気持ちは共通よね。

一同:うんうん(とうなずく)

オカリナ:たしかに自分の体験と重なるからおもしろいっていう本もあるけど、私は子どものとき、自分とはうんと違う人生を送っている人のことを読んでみたいっていう気持ちが強かったの。状況や人物が目の前にうかびあがるように生き生きと書かれてれば、実体験とは重ならなくても、おもしろく読めるんじゃないかな。

:兄弟が多くて、両親が働いていてっていう状況に自分を重ねる一方で、今の子どもたちにどう読まれるかなって疑問をかかえながら読んでました。図書館の仕事をしていたとき、『ふくろ小路一番地』は印象にないんだけど、『やかまし村の子どもたち』と『点子ちゃんとアントン』はいっつも貸し出し中でした。学校図書館で実際にいつも読まれてる本なんです。実生活で制約されてる子どもたちが、気持ちを一緒に遊ばせることができる本なのかなって思ってはいました。

紙魚:この本、昔、確かに読んだはずなんだけど、全然覚えてなくてびっくり。たぶん子どものときは、主人公の子どもたちに自分を重ね合わせて読んでたんだけど、今読んでみると、おかみさんに感情移入してたりってことがありました。小さいときは、このお母さんのこと、なんとなく邪魔だなあって感じてたと思うんですよ。お母さんがいい人だって思うようになったのは、大人になっちゃったってことなのかな。いいくだりがあるんですよね。「赤んぼのことでは、若い男は信用できない」なんてとこ、うんうんなんてうなずいちゃったりして。

オイラ:今のお母さんはあまり怒らないから、こんなふうに生き方を正そうとして怒るお母さんに、子どもは憧れるかもしれないね。

:イギリスの文化がハイカルチャーからローカルチャーに移行する時点で出てきた画期的な作品ですよね。労働者階級に光があたって、読み手も広がっていったんですね。下層の人たちの生活のバイタリティやリアリティが描かれ、ユーモアもあるっていうことで、時を超える価値をもっているんだと思うの。私は帰国子女で、最初英文で読んで、そのあと邦訳で読んだんですが、ふしぎとギャップがなかったんですよ。そういうのはなかなかありません。非常に好きな作品でもあるし、評価したい作品です。現実感覚が遠ざかったとしても、時をこえたリアリティはぜったいにあるはず。これは今回の3作を通して言えることだと思います。

オカリナ:バイタリティやユーモアは充分感じられるけど、労働者階級のリアリティが描かれているかどうかという点は、イギリスではいろいろ反論がありますよね。だからイギリスでは、今の子どもに薦める本のリストにはあんまり入ってこない。

トチ:私は、大人になってから読んだので、子どものとき読んだらどれだけ熱中したかわからないけど、作者の位置、視点が、労働者階級に立ってなくて中流とか上流から見ているのが気になるところ。これくらいの古さのものって、難しいのよね。もっとずっと古い作品だったら、「この時代だったら、作者がこう書くのも無理はない」と思うことができるけれど。やっぱり、私はひっかからずには読めないっていうところが、どうしてもありますね。

愁童:若い頃炭鉱にいたとき、白いヘルメットとかかぶって東大生がくるんですよ。おばさんがおにぎりなんかで歓待するんだけど、実際には、彼らは帰ってから一流会社に入っちゃうんだよね。産学共闘っていうのは幻想なんですよね。今読むと、この本にもそれと似たような違和感がありますよね。ただ、以前「こだま」の同人で薦められて読んだときは、おもしろかったから、こういうふうに書かなくちゃって思いましたよね。

トチ:その頃、日本でも柴田道子さんの『谷間の底から』なんかがもてはやされてましたよね。

オカリナ:柴田さんの作品は、またこれとは違うと思うのよね。普遍的なバイタリティというところで、私はこの作品は評価はできると思うの。イギリスでは階級によって、食べるものも、話し方も、行く学校も違うけど、日本ではそう違わない。だから、日本の読者の方が「労働者階級をきちんと書けているのかいないのか」という問題に目を奪われずに、大家族のにぎやかな暮らしや、子どもの視点におもしろさを見いだせると思うの。ただし、小説家が落としたお金をお父さんが届けたとき、小説家は「ひとりあたま五シリングで、一生の望みをとげ、これほど幸福になれるとは・・・五シリングで! なんてことだ! ラッグルスさんをあわれんだらいいのか、うらやんだらいいのか」と思ったって書いてあるんですけど、この辺は作者の視点が小説家の側に立ってるような感があって、ちょっとざわざわっときますよね。

モモンガ:この本は、貧しい労働者階級を書いてるんだけど、当時は、悪いお金持ちを貧しい人が見返すという類の物語が多かったですよね。でもこれは、貧しい側がちっとも卑屈じゃない。お父さん、お母さんは非常にまっとうな考えをもってるし、貧しいとか貧しくないとは関係ない、普遍的なよさを持ってる。あとはね、私はこの本で、子どものかわいさってものを理解することができたんです。だからこの本、今でも好き。それに挿絵がとてもいいの。挿絵にどの場面かっていいうキャプションがついてるのもいいわね。あとね、(手もとの画集を見せながら)私はイギリスの画家サージェントの「カーネーション、リリー、リリー、ローズ」の絵が大好きで、長女のリリー・ローズの名前の由来がこの絵からきているとわかったとき、それはそれはすごくうれしかったの。

オイラ:そうそう、この本には「待って得た喜び」っていうのが書かれてるでしょ。映画のとことかね。僕らの子どもの頃ってたくさんあったんですよ。帽子を、さんざん待ってやっと買ってもらっても雨の日には絶対かぶらないとかって、本当にあったんですよ。お金がなくてね、ハチに三十何箇所もさされても、病院に行かない。かわりに祈祷するところにいって、お米でおまじないしてもらうっていう生活なんですね。懐かしい場面がたくさんあったなあ。

紙魚:今の幼児だって、大人から見ればたいしたものでないのに、待っても待っても、ぜったいこれじゃなくちゃだめなんだっていう強い気持ちがあると思うな。

オカリナ:3歳くらいまではそうだけど、それが小学生にあがったころから変わってくる。

オイラ:このところぼく、実感してるんだけど、やっぱり家庭かな。そういうのって、家庭によって違うんだよね。

(2001年09月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


やかまし村の子どもたち

リンドグレーン『やかまし村の子どもたち』
『やかまし村の子どもたち』
アストリッド・リンドグレーン/作 大塚勇三/訳
岩波書店
1965

コナン:ああ、こんな時代があったんだなーと思いました。今回は初参加なので、このくらいです。

:リンドグレーンは、冒険小説としてのおもしろさがあるんですね。映画化されたりするのも、やはりその要素があるからでしょう。

紙魚:幼い頃、リンドグレーンと名のつくものは、片っ端から読んだんですけど、そのなかではやっぱり『長くつ下のピッピ』が最高に好きだった。もう何度くりかえし読んだことか。今回『やかまし村』を久々に読んでみて、「〜のつもり遊び」とか、男の子をちょっと嫌う気持ちとか、いろいろな細部でどうしてこの人はこんなに子どものことをよく知ってるんだろう! と感激してしまいました。秘密のほら穴の章の最後「そこは、わたしたちの秘密です。わたしたちは、だれにも、ぜったいに、ぜったいに、ぜったいにおしえません。」というくだりも大好きです。秘密の場所をわざわざ「おしえません!」と公言する気持ちはとってもよくわかります。大人だったらあえて言わないことですよね。物語のなかに出てくる大人たちも、子どものやりたいことを決して否定しない。大人と子どもの関係性を説くことなく、子どもの世界のまま物語が動いていくところもすばらしい! でもどちらが好きだったかときかれれば、『ピッピ』ですけど。

オカリナ:『やかまし村』は幼年童話よね。それに大して『ピッピ』は、自分で読む本という違いがあるんじゃないかな。

モモンガ:図書館では、まず『ピッピ』を薦めてみる。これは、たいていどの子も好きになる本だから。それで、リンドグレーンをもっと読みたいというようだったら、次は『やかまし村』を薦めます。

:幼児のまわりの生活に輝きをあててますよね。まだ自分の世界が外のものではなくて、身近にあるという子どもたちには、もってこいの物語。

スズキ:子どもの日常が描かれていて、エピソードのオチが笑えますね。6人子どもが出てくるんだけど、1人ずつの特徴があまり浮かびあがってこないから、ひとかたまりに見えちゃう。絵も、似たように描かれてるし。とにかくかわいらしいお話だし、ぜひ子どもの本棚に置いておきたい本なので、訳を見直してもらって、感情移入しやすいように改訂してほしい。

モモンガ:そうね、確かに個人個人っていうよりは、男の子対女の子ってかたまりなのよね。

オカリナ:私もリンドグレーン・ファンなんだけど、『ピッピ』よりもっと好きなのは、『やねのうえのカールソン』とか『ミオよ、わたしのミオ』。どの作品が好きかっていうのは、はじめて読んだ年齢もあると思う。私は大人になって読んだから、『やかまし村』については、そうそう子どもの頃こうだったよね、という感想になっちゃうのね。さっき裕さんが冒険の要素って言ったけど、この『やかまし村』の子どもたちの行為を冒険と思えるのは、小学校低学年までじゃない? それ以上の年齢だと、冒険物語としては物足りなくなってくると思う。

ウォンバット:私は、リンドグレーンはあんまり印象ないんです。今のオカリナさんの話で、私も読むのが遅かったのかもと思いました。1回読んだんだけど、いまひとつ愛着がもてず、そのままになってた。だけど、今回読んでみたらおもしろくて、とってもよかった! ちょっと話はずれますが、ちょっと前テレビで、江川紹子さんがリンドグレーンに会いにいくという番組をやってたの。大好きだったんですって、「ピッピ」や「やかまし村」。それで、この村へ行って牛を追ったりするんだけど、もう作品世界そのものという感じの、とても美しいところでした。結局、リンドグレーンさんは高齢だから会えませんということになって、お花とお手紙をお付きの人に託すというところで終わったんだけど、江川さんの思い入れが伝わってきて、とってもよかった。私、前から江川紹子さん好きだったんですけど、身近に感じられてますます好きになってしまいました。

コナン:北欧のものを読むと、日本とはちがう感性があるなと思いますね。

オイラ:ぼくはね、リンドグレーンという人は、なんてやさしいまなざしをもっているのだろうと思いました。まず舞台設定がとてもいい。子どもに創意工夫をさせる舞台設定をしているのが実にいいでしょ。子どもたちが生き生きとしてる。訳文にもぼくは感心してしまったんですね。声をあげて読んだら、気持ちがいいんですよ。オーソドックスな「ですます調」の気持ちよさを久々に感じましたね。しかも、いちばん最後の1行にぐいぐいとひっぱられました。「夏だって、冬だって、春だって、秋だって、いつもたのしいことがあります。ああ、わたしたちは、なんてたのしいことでしょう!」大人とは違うなー。ぼくだって、子どものときはこういうこといっぱいしたんだ。干草に寝たりね。なんとか、子どもたちにこういう世界をとりもどしてあげたいと思いましたね。

オカリナ:そうそう、クリスマスの場面でも「わたしは、たのしいクリスマスがむかえられると、ちゃんと自信がありました」って、子どもが言ってるのね。大人にしっかりと守られてるからなんだろうけど、子どもが安心して楽しんでいる感じが伝わってきますね。

オイラ:ぼくはね、大人に読ませたいと思いましたね。

愁童:今日の3冊のうち、『やかまし村』を最後に読んで、ほっとしましたね。ほかの2冊には、世代の相違を感じてたから、大塚勇三さんの訳でホッとしたんですよね。リンドグレーンの目線にもね。『ふくろ小路』なんかは、理論が先に立ってるんだよね。それに比べて、『やかまし村』は、子どもと同じ高さの目線で素直に書いてるって感じがしたね。戦後2年目に書かれてるんだけど、向こうでは子どもの位置がきちっと認識されてたんだね。オイラさんといっしょで、女の子が部屋をもらうなんてとこも感動的。あの年代で自分の部屋をもらうというのはこういうことなんだよね。

モモンガ:こんな訳文って、そうないんじゃないかな。むしろ私はそれが好き。「つまり、こうなんです」「なんてたのしいことでしょう」というような、独特の訳文。一つ一つの文が短くて、子どもの思考に合っていて。

オカリナ:でも、「〜しちまいます」なんていうところは、時代がかってるかな。

:モモンガさんが『ピッピ』より『やかまし村』が好きっていうのは、どうして?

モモンガ:なにしろ好きでくりかえし読んだのよ。私は冒険小説というよりも、子どものこまこました、ちまちました世界の喜びがかかれてるところに、ひかれたの。見開きの絵のなかに、3軒の家が並んでいて、ここでの毎日の暮らしが描かれる。そしてこの本も、子どものかわいらしさがたっぷり味わえる。子どもだけの、子どもらしい世界がある。この本って、私が子どもの本に関わろうと思った原点かもしれない。リンドグレーンは、まさにこの物語と同じような子ども時代を過ごしてて、その頃のことをこと細かに記憶してるんだって。彼女の言葉に、こんなのがあるので読みますね。「二つのことが、わたしたちきょうだいの子ども時代を幸福なものにしました。安心と自由です。おたがいに愛し合う親がいつもいるということは、わたしたちにとっては安心を意味するものでした。必要なときにはいつでもいてくれるけれども、かれらは危険を伴わないかぎり、わたしたちが自由に幸福にまわりのすばらしい自然の遊び場を巡り歩くのを許してくれました。もちろんわたしたちは時代の伝統として体罰を受けたり、母の厳しいしつけを受けましたが、遊びに関しては自由で、監視を受けることはありませんでした。そして、わたしたちは、遊んで遊んで遊びました。『遊び死に』しなかったのが不思議なくらいでした。」(『アストリッド・リンドグレーン』三瓶恵子著 岩波書店より)

オイラ:さっきの『ふくろ小路』の方は、灰谷健次郎さんの視線に似たものを感じない?

一同:あー、そういえば。

愁童:話は戻るけど、『ふくろ小路』のなかで、奨学金もらって農業やりたいっていうところあるじゃない。あそこで、奨学金もらって農業? ってひっかかったんだよね。こんなちっちゃい子が、農業やりたいっていうのは子どもの発想じゃないんじゃないかな。

ウォンバット:単に、街の子だから、そういう暮らしに憧れてるのかと思ってた。

愁童:普通なら、勉強してもっと物質的に楽な生活をしたいっていうのが当時の考え方なんじゃないかな。

オカリナ:この時代って、化学肥料とか農業機械の研究なんかが進んで、新しい近代農業に希望が持てたんじゃないのかな? 『やかまし村』と同じように、アーサー・ランサムなんかも、遊んで遊んでっていう子どもを書いてますよね。でも、『やかまし村』も『ツバメ号とアマゾン号』も、登場する家庭はお手伝いさんがいるような余裕のある家庭で、だからこそ子どもは幸せを確信できるし、子どもらしい子ども時代が保証されてたのかもしれない。『ふくろ小路』と単純に比較することはできないと思うのね。それに、私は『ふくろ小路』についても、子どもの目線に立って描かれていると思ったけどな。

愁童:日本では童心主義っていうのがはびこった時期があって、そんなとき『ふくろ小路』みたいのが登場したもんだから、これこそ児童文学だってもてはやされたんですよね。少なくとも大人の側には、労働者の生活に光を当てるっていう意識があったのは確か。

:宮崎駿さんが「今の時代、遊びが欠落していて、想像力がなくなると言われてるけど、そうじゃないんじゃないか」って言ってるんですね。彼の作品のなかには、飛ぶシーンが多く出てきます。宮崎さんがめざしているのは「身体性の回復」なんですって。『やかまし村』にも、それに通じるところがあるんじゃないかな。

愁童:『千と千尋の神隠し』に、たとえば階段をのぼる子どもが出てくるんだけど、1段目を右足で2段目を左足っていうんじゃなくて、右足を1段目においたら左足もその同じ段にまず置き、それからまた右足を2段目にかけるっていう姿を、宮崎駿はちゃんと描いてるんだよね。あの映画見て、今の児童文学の作家が失ってしまった身体的リアリティが、ここにはあるなと思ったね。たとえば今のゲームなんて、どんな高い階段でも、昇るのも降りるのもとんとんとんってすましちゃう。児童文学も、それに近くなって「身体性」が消えちゃってるんだよな。

(2001年09月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


点子ちゃんとアントン

エーリヒ・ケストナー『点子ちゃんとアントン』
『点子ちゃんとアントン』
エーリヒ・ケストナー/作 高橋健二 or 池田香代子/訳
岩波書店 
1955

:ケストナーは、大人と子どもを対等に描こうとしているし、時をこえるものをかならず描いていくという点では評価はしてるんだけど、私は感覚的にどうも合わないんですね。

トチ:ケストナーは子どものときにいちばん好きな作家だったから、きちんと批評できないかもしれないけれど・・・現代のものと比べて、文学の形としては古いかもしれないけれど、作家の立っている位置に現代的なものを感じたわ。お母さんの誕生日のエピソード、子どものときはアントンがかわいそうと思ったけれど、大人になった今読んでみて、お母さんの気持ちに共感できるものがあって、新鮮な感じがしました。訳については、高橋訳が頭にこびりついているために、池田訳はなんだか饒舌な感じね。良い悪いは別にして、初めて読んだ訳でその本のイメージができてしまうってこと、よくあるわよね。

モモンガ:子どもの頃に読んだときは、ケストナーの作品って独特な雰囲気を感じてた。著者が、私は君たちの味方だよって顔を出すところが、ほかの本とは違う感じを受けたの。好きで端から読んだわけでもないんだけど、楽しく読んだ。後になって、ケストナーがマザコンといわれるほど、お母さんとの結びつきが強くって、母と息子の緊密な関係があったということを知ると、なるほどと思ったりして。あと、「点子ちゃん」っていう名前の訳がすばらしいと思うのよねー。これ以外には考えられない! 日本でもロングセラーになってる秘密のひとつだと思う。

愁童:ぼくにはね、ケストナーっていうのは、なんとなくへへーっとひれ伏さなければならない存在に思えちゃうんだよな。大人が顔を出すのは、嫌だな。著者の声を出すんじゃなくて、作品のなかで勝負しろよと思っちゃうんだよね。映画の方観ちゃったら、これ読む子いないんじゃないかな。以上!

オイラ:高橋訳もいいじゃない。ケストナーの力で読ませるんだろうけど。彼は、子どもの本の書き手として何が大事かときかれて、子どもの頃のことをどれだけ覚えてるかだと明言している。核心をついていると思ったし、ディテールが豊かに描かれてるから、読んでて子ども時代の感覚を思い出すところがいっぱいあった。

コナン:あたりまえのことをあたりまえに書いてる感じですけど、子どもの頃を思い出しました。最近、入社2年目で、子どもの頃を思い出すという機会が増えましたね。

ウォンバット:やっぱりケストナーって大きな存在で、今新しいものを読むときにも一つの基準になっている作家だと思うんですけど、私も愁童さんと同じで、作者がいちいち顔を出すのが、ちょっとね・・・。押しつけがましくて嫌。点子ちゃんのキャラクターも好きだし、お話はおもしろくて物語部分はとってもいいんだけど。点子ちゃんと楽しくやってるところにおじさんが出てくると、さーっとさめちゃう。じゃまされたって感じ。「もうおじちゃん、勝手に近寄ってこないでー」と言いたい。そもそも前書きもきらいだった。

オイラ:その部分、ぼくはユーモラスに感じたの。

こだま:大人の書き手が登場すると、子どもの読者が安心するってことはあるわよね。

オカリナ:そうかな?

モモンガ:私は、作られたお話を大人が楽しませてくるって感じがしたな。

愁童:作られたお話ってわりには、点子ちゃんのキャラクターはよく書けてるよね。

オカリナ:私は子どものときに読んで、自分が点子ちゃんみたいな子じゃなかったから違和感を感じたの。この子って、饒舌でおせっかいでしょ。リアリズムの話って、自分と違うタイプの強烈な個性の子が主人公だと入っていけない場合があるじゃない。それに、高橋訳だとユーモアが感じられなくて、おもしろくなかった。歯を抜くときに犬が動いてくれないなんていうエピソードは楽しかったんだけどね。おじさん(ケストナー)が顔を出すところは、うるさいなって思ったわね。アントンがお母さんの誕生日を忘れてて自責の念に駆られるとこなんか、私はアントンがかわいそうでたまらないのに、ケストナーは「考えなしに逃げだして、お母さんをおいてきぼりにするのは感心しない」とか「人間は分別を失ってはいけない。耐えしのばなければならない」なんて、最後に付け加えてる。ヤな感じ。おまけに、登場人物の中でどの人がいい人間で、どの人が感心しないかってことまで、作者が顔を出して言っている。それに、『ふくろ小路』を同時に読んだから階級っていうのを考えちゃったんだけど、階級の低い女中の「でぶのベルタ」なんか、「てんでだめな人だけどがんばりました」っていう書き方よね。それに、貧しいアントンとお母さんは最後には点子ちゃんの家に丸抱えになるんだけど、「この結末は正当で幸福です」ってケストナーは断定してるのよ! 思春期前の男女二人の子どもの友情っていう部分は、じょうずに描かれてるけどね。
映画は、今の時代に合うようにシチュエーションを変えてましたね。映画と原作の違いは、(1)原作ではアントンと点子ちゃんの通う学校は別で、点子ちゃんは私立の女子校に行ってて、自家用車で送り迎えされてる。映画では二人は同じ学校に通っていて、同じことを見聞きしている。(2)点子ちゃんのお母さんは、原作では専業主婦だけれど、映画では第三世界の子どもたちを援助するボランティア団体の役員。(3)点子ちゃんの家庭教師は、原作では悪漢の婚約者を持ったドイツ人だけれど、映画ではフランス人で、悪漢の婚約者はイタリア人のウェイター。(3)原作では家庭教師が点子ちゃんに乞食の真似をさせるけど、映画では家庭教師がイタリア人と遊んでいる間に、点子ちゃんが一人で地下鉄の駅で歌をうたってお金をかせごうとする。(4)アントンのお母さんは、原作では派出婦だけれど映画では元サーカス団員で今はウェイトレス。(5)アントンの家では、原作ではお母さんの誕生日を忘れてたことがきっかけだけど、映画ではお父さんを捜しにいく。(6)いじめっ子は、原作では点子ちゃんの家の門番の子だけど、映画では点子ちゃんやアントンと同じクラスの子。(7)結末は、原作ではアントンのお母さんが点子ちゃんの家の使用人になるけど、映画では点子ちゃんのお母さんが失礼な態度をわびてアントンのお母さんと友だちになる。
訳に関しては、高橋さんのは「よござんすか」とか「大いにおもうしろうござんしたね」なんていう部分が古いし、全体に堅い感じで、私は好きになれないな。新しい訳にしてよかったと思う。

オイラ:高橋訳にも、池田訳にも同じ雰囲気があるのは、ケストナーの文体が軽快なせいだよね、きっと。

愁童:アントンがお母さんの誕生日を忘れてて家出するってとこは、どうも腑に落ちないな。

オカリナ:アントンとお母さんが再会したときの喜びようを見た点子ちゃんが、自分の家庭と引き比べてさびしい思いをするっていうところ、映画ではとても重要な場面だったけど、原作では書かれてないのよね。

:私は点子ちゃんに魅力を感じたんですよね。私は子どものとき、普通にしなさいとか、ちゃんとしなさいって、しょっちゅう大人に言われたんだけど、どういうのが普通なのかよくわからなくて、コンプレックスになってたんです。大人になっても、普通にしなくちゃ、ってずっと思ってて。でも、この本読んだら、点子ちゃんて私と同じじゃないですか。なんだ、私だってあれでよかったんじゃないかって、はじめて思えたんですよ。で、自分の言葉でしゃべれるようになった。そういう意味でも、『点子ちゃん』はすごく好き。

スズキ:映画を見にいったら、子どもたちがすごくかわいかったんで、これは読まなくちゃと思ったんです。実際読んでみたら、アントンが誕生日さわぎで家出しちゃうところが、思ってたアントンと違う。もう少し天真爛漫でもいいのにって思いました。原作では、アントンがあまりにもいい子の見本みたいで、鼻についたんです。点子ちゃんにはキャラクターとしての魅力がありました。名作は敬遠してたけど、ケストナーは思ったより気軽に読めたという感じです。

紙魚:幼稚園の本棚にあったんですよね。いちばん上の左端に石井桃子さんの『ノンちゃん雲にのる』と並んで。棚の低い方には、園児でも読める絵本があって、年齢があがるにつれて徐々に上の方の棚に手を伸ばしていくんです。だから、『点子ちゃん』を読むっていうのは、私の憧れでもあったんですよね。象徴的な本でした。読んでみたらおもしろいんだけど、ケストナーが、時々口をはさんでくるところは、じつは読みとばしていました。子どものときって、物語の部分とそうじゃない部分を交互に読むのって、苦手でした。注を読むのだって、リズムがくるってだめだったくらい。

オイラ:ぼくはユーモアを感じて、ああ、ケストナーおじさん、はいはいって感じで読めたけどな。

オカリナ:19世紀だったら、子どもの本に教訓臭っていうのもわかるけど。20世紀なんだからさ。

モモンガ:教訓臭っていうより、ユーモアなのよ。

(2001年09月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


2001年09月 テーマ:子どものころ好きだった本

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『2001年09月 テーマ:子どものころ好きだった本』
日付 2001年9月20日
参加者 トチ、裕、モモンガ、愁童、オイラ、コナン、オカリナ、
ウォンバット、羊、スズキ、紙魚
テーマ 子どものころ好きだった本

読んだ本:

イーヴ・ガーネット『ふくろ小路一番地』
『ふくろ小路一番地』
原題:THE FAMILY FROM ONE END STREET by Eve Garnett, 1937(イギリス)
イーヴ・ガーネット/作 石井桃子/訳
岩波書店
1957

<版元語録>ふくろ小路一番地に住む、子だくさんのラッグルス一家の物語。長女がお客さんの洗濯物をちぢませてしまったり、ふたごの男の子たちが少年ギャングに入って冒険にのりだしたり、下町の家族はいつもゆかいな事件でにぎやかです。
リンドグレーン『やかまし村の子どもたち』
『やかまし村の子どもたち』
原題:ALLA VI BARN I BULLERBYN by Astrid Lindgren 1947(スウェーデン)
アストリッド・リンドグレーン/作 大塚勇三/訳
岩波書店
1965

<版元語録>やかまし村には、家が3軒きり、子どもは男の子と女の子が3人ずつ、ぜんぶで6人しかいません。でも、たいくつすることなんてありません。ひみつの手紙をやりとりしたり、かくれ小屋をつくったり、毎日楽しいことがいっぱい!
エーリヒ・ケストナー『点子ちゃんとアントン』
『点子ちゃんとアントン』
原題:PUNCTCHEN UND ANTON by Erich Kastner, 1929(ドイツ)
エーリヒ・ケストナー/作 高橋健二 or 池田香代子/訳
岩波書店 
1955

<版元語録>お金持ちの両親の目を盗んで,夜おそく街角でマッチ売りをするおちゃめな点子ちゃんと,おかあさん思いの貧しいアントン少年.それぞれ悩みをかかえながら,大人たちと鋭く対決します―つぎつぎと思いがけない展開で,ケストナーがすべての人たちをあたたかく描きながらユーモラスに人生を語る物語.

(さらに…)

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シカゴよりこわい町

リチャード・ペック『シカゴよりこわい町』
『シカゴよりこわい町』
リチャード・ぺック/作 斎藤倫子/訳
東京創元社
2001.02

愁童:本を読む楽しさが感じられるね。作家って人をだます力次第だと思うんだけど、これは楽しくだまされる感じで、おもしろい。与太話みたいなストーリー展開なんだけど、妙にリアリティもあって・・・。訳もうまいのかな。簡潔な文章で快調に進んでく。原作の文体や雰囲気がよく理解されているんだろうな。心理描写ではなくて、行動をきっちり書くことで人物がしっかり鮮明に見えてくるよね。妹の描きかた、兄妹の距離感が絶妙。さらっと書いているんだけど、イメージははっきり浮かぶ。シャーリー・テンプルなんかの話ともからめて、さりげなく当時の女の子としての妹像を伝えてる。うまいなと思った。このおばあさんも恐いなと思わせながらも、最後の輸送列車の章で、孫への気持ちがストレートに描写される。やられたな、うまくだまされたな、という満足感で読了。これを読めてよかった。

ウォンバット:やっぱり強烈に風変わりな人がいろいろしでかしてくれる話って、おもしろくて好き。この物語は、それがおばあちゃんっていうところがいい! それで、どかんどかんと事件が起こるんだけど、語り口は淡々としていて、苦笑という空気が心地いいし、笑いをかみころしてるというトーンがよかったです。いちばん好きだったのは、「ブレーキマンの幽霊」。しかけもよく、気分もよく読めました。さっき愁童さんが、きょうだいの描き方がいいと言ってたけど、私も同感! 「お互いがいないかのようにふるまってた」というところなんか、特にね。きょうだいの関係をとってもうまくあらわしてると思った。この章では、兄(わたし)が13歳で、妹(メアリ・アリス)が11歳、バンデーリア・ユーバンクスは17歳なんだけど、メアリ・アリスって、なんておませさんなんだろう。11歳とは思えない、大人っぽさ。ああいうおばあちゃんの孫だから、やっぱり血をひいているのかな。後書きによると、メアリ・アリスを主人公にした物語も書いているということなんだけど、そっちもおもしろそう。一箇所だけちょっと、ん?と思ったところがありました。p126の駆け落ちする二人が列車に乗り込む場面なんだけど、「ふたりは手に手をとり、線路の反対側から機関車に近寄ると、特別客車後部の屋根のないデッキによじのぼった」。この「線路の反対側」っていうと……

トチ:線路をはさんで、ブレーキマンの反対側ってことでしょうね。

ウォンバット:そういうことねー。んー、考えたらわかるけど、一瞬あれ? と思っちゃった。とはいえ、ひっかかったのはそのくらいで、全体的には、読みやすかった。

スズキ:久々にいいお話を読んだという感じです。そもそも、時代も一昔前だし、お祭りとか、ショットガンとか、なじみがない世界なんだけど、決して遠い世界には感じないんですよね。それは、このおばあちゃんが魅力的で、人間として惹かれるからこそなのかなと思います。川で漁をするエピソードでは、自分では違法な事をしておきながらも変なおじさんたちの弱みをにぎったりして・・・。どんなルールでも、人の命を助けるためだったら、このおばあちゃんは無視するの平気。たとえ他人が変な目で見ても、人間が生きるための基本的な分別をもたなければいけないなと思わされました。キャラクターが生き生きと読みとれるのは、訳文のうまさもあると思います。でも、題名はちょっとよくないんじゃないかな。もっとすがすがしい感じが伝わってくる題名にしてもよかったのでは?

オカリナ:シカゴよりおばあちゃんやその周辺の方が怖いってことよね。

スズキ:私はタイトルでは買わないな。内容を知ってたら別だけど。

紙魚:主人公が「わたし」と書かれていたので、すっかり女の子だと思いながら読み始めたら、10ページに「わたしのほうが〜男の子だというのに」とあって、えー男の子だったんだ、とわかったんですね。でも、不意をくらったのは、そんなことじゃなくて、やっぱりおばあちゃんの豪快さ。エピソードごとに、ぶんぶんとおばあちゃんのキャラクターが、こちらに迫ってくる。この本は、全体的な流れは決して乱暴な感じはないのに、ところどころ、容赦なく人を酷評するような、罵るような形容がでてきますよね。でも、それもみなあっぱれという感じで、ぜんぜんいやじゃない。言葉って、ひとつだけ取り出すときつくても、全体の中での使われ方しだいで、印象がぜんぜん違うんだなと実感しました。おばあちゃんのことが大好きになった章は、スグリパイの「審査の日」です。これまで、力技ともいえる方法で、なんでも乗り越えてきたおばあちゃんが、なんともしおらしく見えてしまったのでした。とはいっても、こんなことでめげるような人でもないんですけどね。このおばあちゃんには、自分だけの物差しがあるんですよね。町の人の常識でもなく、強者の論理でもなく、自分の判断基準がちゃんとある。そこがとてもよかったです。きっとそれらを孫たちが受け継いでいくのでしょう。最後の輸送列車のシーンは格別でした。すかっとして、じーんとくる物語でした。

トチ:私もとてもおもしろかった。訳文も、訳者がのめりこんでいるというか、本当に原作者に代わって、原作者の声で語っていて、優れた訳だと感心しました。愁童さんが人間を行動で描いているとおっしゃっていたけれど、私もそう思いました。ハリー・ポッターみたいに平面的ではなくて、立体的な人物像なのね。善悪という尺度だけでは、測れない。本作りもこれだったらいいですね。『肩胛骨は翼のなごり』(デイヴィッド・アーモンド著 山田順子訳 東京創元社)と同じ会社が出したとは思えないわ。『穴』(ルイス・サッカー著 幸田敦子訳 講談社)に通じる、アメリカの健康的な児童文学。『スターガール』(ジェリー・スピネッリ著 千葉茂樹訳 理論社)は、あまり健康的な感じはしなかったけれど。

オカリナ:おもしろかった!! 最初は、ほら話なのかな、あるいは死んだ人が本当に生き返るスーパーナチュラルな話なのかな、と思って読んでいったんだけど、きちんと現実につながっていて、いいですね。強面の豪傑おばあちゃんなのに、最後までくるとまた違う面が見えたりして、うまい作者ですよねー。この作家は、要注目! と思いましたね。表紙の絵は、原書そのままらしいですね。これなら、『肩胛骨は翼のなごり』と違って、子どもも読みたいと思うかもしれない。

トチ:どういう子が読むのかしら? かなり読書力のある子でしょうね。

オカリナ:子どもって、わりあい倫理観が強かったりするから、こんなおばあちゃんダメだっていう子もいるかもしれませんね。

トチ:でも、世界が広い作品よね。

オカリナ:おばあちゃんがトリックスターなのよね。こういうおばあちゃんを、日本の作家も書いてくれるといいですね。

愁童:子どもから見て、不可解なおばあちゃんているでしょ。ちょっと思い出したのは、『西の魔女が死んだ』(梨木香歩著 小学館)。あのおばあちゃんに対する思い入れとくらべたら、なんともこれは健康的だね。モラルを押しつけるでもなく、「嘘も方便」みたいな。たとえば、エフィの描き方。おばあちゃんの宿敵として登場させてるんだけど、不当に加えられる権力的、差別的な攻撃に対しては、おばあちゃんがその宿敵をかばっちゃう。だけど、それが正義だから、というような書き方じゃなくて、おばあちゃんの不可解な性格から来るように読み手に思わせておいて、結果として、生き方の根っこからくるものなんだと感じさせる。一本筋が通ってますよ。

ウォンバット:日本の作品には、なかなかこういうおばあちゃんって出てこない気がする。

トチ:日本では、『ばばばあちゃん』シリーズ(さとうわきこ作 福音館書店)のように、絵本によく元気のいいおばあちゃんが出てくるけれど、あれは子どもがおばあちゃんの姿で登場しているんだものね。

愁童:同じようにやや古い時代を描いた『悪童ロビイの冒険』(キャサリン・パターソン著 岡本浜江訳 白水社)は途中で読めなくなっちゃった。常識とか枠組みが古過ぎる感じで、今さら読んでもしようがないかなんて思ってね。こっちは、古い時代を書いてるけど、そういうのをつきぬけるおもしろさがあったよね。

スズキ:作家がいっしょうけんめい生きているって気はしますよね。

紙魚:たとえば明治生まれのおじいちゃん、おばあちゃんなんか、常識からつきぬけているところ、ありますよね。私の祖父母は、ふだんは温和なやさしい人なんでけど、プロレスが大好きだったんですよ。テレビでプロレスが始まると、二人して血気盛んに大声で応援するんです。血しぶきがあがったりすると、もっともっと興奮高まったりして。幼い頃だったから、なんでこんな恐いものが楽しいんだろうと不思議だったし、その時ばかりは、祖父母が別の人間になっちゃったような感じがしました。プロレスだけでなく、人にどう思われるかとかはどうでもよくて、自分の好きなものをこよなく愛するという姿勢があったと思います。俺がいいと思ってんだから、それでいいんだみたいな。

ウォンバット:あっ、私も明治の人には何かある!と、ずっと思ってた。といっても、私の知ってる「明治の人」は、藤田圭雄さんや高杉一郎さんくらいなんだけど。どこか共通する空気を感じるの。なんかこう、一徹な感じがあって、心にゆとりがあるというか・・・それはまだ自分の中で言語化できていないんだけど、大正や昭和にはない何かが・・・。

オカリナ:私の祖父母も明治生まれだったんですけど、変な人たちで、都会のまん中に住んでるのに、水道ひかなくていいって言って、ギーコギーコこがなくちゃいけない井戸をずっと使ってたの。しかもご飯は、祖父が庭にすえた七輪で毎日がんこに炊いてたのよ。

トチ:昔の人って、物差しが自分の中にあったのよ。

紙魚:今は、学校教育の影響が大きいんじゃないでしょうか。明治の時代って、学校の勉強より家業の方が大事だったりして、その家その家の多様な価値観があったと思うんですよ。でも、学校教育が普及するころから、価値観が束ねられていく。ちょっと違う話かもしれないけど、今の子って、シール遊びをするにしても、決められたページの決められた場所じゃないとシールを貼らないんですよ。自由に貼っていいよって言うと、どこに貼ればいいの?って逆にきかれちゃう。それに、雑誌の付録なんかでも、貼る場所を設定しておかないと、父兄から文句がきたりするんですよね。

オカリナ:高い家具なんかにベタベタ貼られたら嫌だと思うんじゃないの?

紙魚:全体の傾向として、自由になんでもやっていいよと言われるより、定まってることをそのとおりにできて達成感を味わうっていう方が好まれるようですよ。

オカリナ:最近、日本のおばあちゃんもこわいと思うのよね。ラジオの教育相談聞いてると、親や本人じゃなくて、しょっちゅうおばあちゃんから相談電話がかかってくるの。おばあちゃん、やることなくて時間あるから、息子や娘や嫁に子育てを任せておけないみたい。偉い先生に自分の常識的見解の後押しをしてもらって、それを孫に向けようとしてる。この作品に出てくるおばあちゃんとは、逆の意味でこわいと思わない?

ウォンバット:けっこう微妙な問題ですよね。嫁姑だとしたら、なおさら・・・。

トチ:うちのなかで、大人の価値観がみんな一緒だと、子どもはきついわよね。

愁童:怖い事件が子どものまわりで起きたりすると、すぐカウンセラーを派遣して心のケアをみたいな風潮だよね、最近は。一理あると思うけど、まず親じゃないのかな。親がすぐおりちゃって、他人に頼るんじゃ子どもはたまらないよね。

紙魚:たしかに、今って権威がある人をもてはやしすぎですよね。

愁童:かえって、この作品に出てくるようなおばあちゃんのほうが、子どもを癒すんじゃないかね。

スズキ:ハリポタ読んでおもしろいと思う子は、こういうの読んでもおもしろいのかな。

ウォンバット:それは難しいんじゃない? あれは、ここはおもしろいんだよって説明しちゃってる本だもの。

愁童:でも、本を読むおもしろさって、まさにこういう本にあるんじゃないの。想像しながら読むんだから。自分の読書体験をふまえても、わりと子どもって許容範囲が広いから、こういうのも案外いけるんじゃないかな。

オカリナ:ハリポタは、文学とは言えないでしょう。これは文学だから、人間の心理を想像しながら読まないと読めない。プロットの積み重ねのおもしろさだけじゃないからね。

スズキ:この作品は、プロットの無駄がないですよね。必要最低限のことしか書いてないから。情緒的な飾りもないし。

オカリナ:子どもがこの作品をおもしろいと思うかどうかは、このおばあちゃんを好きになれるかどうかで決まると思うな。おばあちゃん像が焦点を結んでくれば、おもしろい。だけど、ただハチャメチャなことしてるだけじゃないか、って思う子もいるかもしれない。

トチ:夜空の星を結んで星座を思い描くように、登場人物のひとつひとつの行動を結んでいって人物像が思い描ける力、それが読書力というものなんじゃないかしら。出来事のおもしろさ以上のものを子どもたちがどう読みとっていくか、ぜひ知りたいわ。

ウォンバット:そういえば、文章を理解するものとして「天声人語」ってなんであんなにもてはやされるんでしょうね。ずっと疑問だったんですよ。

オカリナ:昔はいい文章が多かったんじゃない。凝縮してて。

愁童:今は、ひところのような力がないよね。

オカリナ:「朝日新聞」の「天声人語」っていうのが、一つの権威になってるのね。児童書の出版社だって、「岩波」や「福音館」は権威があるわよ。図書館でも、いまだに岩波か福音館の本だったら疑わずに買うっていうところ多いらしいし。でも、実際にどんなもの出してるか見ると、昔とはずいぶん違ってきてて、権威にばかりは頼れなくなってると思うんだけどな。

(2001年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


なみだの琥珀のナゾ

及川和男『なみだの琥珀のナゾ』
『なみだの琥珀のナゾ』
及川和男/作 中村悦子/画
岩崎書店
2000.12

愁童:反戦とかが中心にあって書いていくのかと思ったら、結局これはルーツさがしなんだね。『雨ふり花咲いた』(末吉暁子著 偕成社)と構成が似てるけど、あっちの方は、子どもに読ませるんだという情熱が伝わってくる。児童文学作家としての姿勢の違いを感じた。謎解きなんだけど、人物描写がまるでない。主人公の設定が内気だとか、人見知りだとかいうことになってるけど、作中の言動には、そんなことを感じさせる表現がない。琥珀を恋人同士が持っていて、戦争がおこって、という着想だけなんだよね。今の子どもたちに何を伝えたいのかはわからない。登場人物のイメージも感動も残らないしね。これじゃあ、登場人物は泣いても、読者は泣けない。琥珀をたよりに、自分のルーツをさがしにいくという着想はいいんだよ。でも、主人公がすんなりおばあちゃんについてっちゃう、なんて、違和感持っちゃうなあ。あまりにも素直すぎる。子どものものにかぎらず、本を書くっていうのは、フィクションの世界を自分も楽しむとか、自分の世界に読者をひきずりこんでやるぞというのがなくちゃ。自分だけ感動してる感じがして、読者を置いてかないでよ、って思った。宮沢賢治なんかも出てくるけど、岩手県だからなのかな。でも出てくるのも必然性がないんだよね。

トチ:私は、児文協の児童文学って感じがする。

愁童:教育的配慮もあるし、理念もわかるんだけど、みさきを出して何を伝えたいかはわかんないよね。琥珀が博物館に飾られるといういきさつをただ書いている気がしてね。すいすい読めることは確かだけど。

トチ:文体とか表現はいいってこと?

愁童:というか気になんないですよね。まあ、筋にひっぱられるて、すいすい読める文体。うまいのかな?

スズキ:私の感想は・・・(てんてんてん)なんですよ。というのは、なんか読み終わったときに、よく書けましたって言ってもらいたいレポートみたい。自分のルーツをさかのぼる旅をした人がその時の事をまとめたレポートの印象があります。悪い作品とは決してないと思いますが、かといって読み終わったときに残る物があまりにもなさ過ぎる気がします。物語の展開やキャラクター一人一人の描き方が薄っぺらい気がしました。あくまでも私の感想ですけど。

紙魚:うーん、私もこの本に関しては言うことがないんですよ。今日の会で言うことないなって困ってしまいました。本って、いろいろな層の本がありますよね。経験もそうだけど。どの本もすべてぴったりくるわけじゃない。どれもが感動するわけじゃない。夏休みに100冊読んでも、どれもがおもしろいわけじゃない。でも、嫌いではないけど特にびびっときたわけでもない本があるから、よけい好きな本が際立つってことあるじゃないですか。この本は、そういうその他に含まれるような印象。

愁童:後書きに書いてあるけど、人と人とのつながりは大事、みたいなところに立っているから、人が書けてないんだよ。課題図書とかにはなるかもしれないよ。感想文はきっと書きやすい。

トチ:ルーツ探しをテーマにするときは、ルーツ探しが主人公の子どもにとって、どれほど深刻で重要な意味があるかを書かなければ、読者を物語の世界にひきこむことができないんじゃないかしら。『蛇の石(スネークストーン)秘密の谷』(バーリー・ドハティ著 中川千尋訳 新潮社)は、主人公自身のルーツ探しだから、もちろん深刻だし、感動的な作品にしあがっていた。『雨ふり花さいた』は、タイムスリップというテクニックを使って、読者を物語の世界にひきこむことに成功していた。この作品には、そういう工夫というか、テクニックがないので、夏休みの作文みたいになってしまったんじゃないかしら。

愁童:児童文学に対する情熱が違うんじゃない。

トチ:日本の作家って、どれくらい海外の作品を読んでいるのかしら?

オカリナ:読んでる人もいるけど、数は少ないと思うな。私は、この作品はいいと思えなかったし、まあまあだな、とさえ思えなかった。ストーリーが必然的に進んでいくという感触がまったくなかったんですよ。たとえば、p32で、琥珀の中の空気を、琥珀の涙というところ。まだおばあちゃんのことがわかったわけじゃないのに、どうして涙なんていう安直な言葉をここで出してしまうんだろう? それから、認知症になったおばあさんに民宿の人がきいて、かずさんが泣くとこ。海女なんですよ、と泣く。そこで泣く必然性が書きこまれてないから、読者はおいていかれて、しらけちゃう。あともう一ついやだなと思ったのは、みさきが「おばあちゃんはみなし子なんだ。かわいそうに」って言うところ。孤児イコールかわいそうっていう出し方が安易だし、実際にどんな苦労があったのかを書く前に、こうやって外側から「かわいそう」というレッテルを貼っちゃうのは、文学とは言えないんじゃないかしら。

愁童:同世代の人でも、こういうふうには思わないな。

オカリナ:私は、「かわいそうに」なんていう言葉を安易に使う作家は、信用できないなって思ってるの。かわいそうって、自分が上に立たなきゃ言えない言葉でしょ。

(2001年07月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


おばあちゃんのおにぎり

さだまさし『おばあちゃんのおにぎり』
『おばあちゃんのおにぎり』
さだまさし/作 東菜奈/絵
くもん出版
2001.07

今回、読めた人が少なくて残念ながら議論にならなかった。