カテゴリー: 子どもの本で言いたい放題

2001年07月 テーマ:おばあちゃん

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『2001年07月 テーマ:おばあちゃん』
日付 2001年7月19日
参加者 トチ、愁童、オカリナ、ウォンバット、紙魚
テーマ おばあちゃん

読んだ本:

リチャード・ペック『シカゴよりこわい町』
『シカゴよりこわい町』
原題:A LONG WAY FROM CHICAGO by Richard Peck, 1998(アメリカ)
リチャード・ぺック/作 斎藤倫子/訳
東京創元社
2001.02

<版元語録>大柄なうえに型破りな性格。そんなおばあちゃんを訪ねたあの夏、死ぬほどつまらないと思っていた田舎町で生まれてはじめて死体を見ようとは!わたしたち兄妹はシカゴの都会っ子で祖母の豪胆ぶりに、すっかり怯えた。それでも来年になると、また列車に乗りこむ。「おばあちゃんは、わたしたちのいいお手本とは言えないと思うんだけど」なにが起こるかわからないから、おもしろい。銃はぶっぱなす、大ボラはふく、法は無視する、牛乳瓶にネズミをいれる…毎年毎年、いったいなんのために?ニューベリー賞次席、全米図書賞児童書部門最終候補となった、感動のベストセラー。
及川和男『なみだの琥珀のナゾ』
『なみだの琥珀のナゾ』
及川和男/作 中村悦子/画
岩崎書店
2000.12

<版元語録>美咲は小学校6年生。おばあさんのカズさんは、琥珀のペンダントを大切にしている。「なみだの琥珀」と名付けたペンダントに秘められたナゾを解くために、美咲はカズさんと夏休みに岩手県の久慈市を訪れた。
さだまさし『おばあちゃんのおにぎり』
『おばあちゃんのおにぎり』
さだまさし/作 東菜奈/絵
くもん出版
2001.07

<版元語録>たんじょう会のテーブルには、いろとりどりのりょうりや、おかしがならんでいた。…そうだ、きょうは、ぼくが「主役」なのだ。きみは、なにをバトンタッチする!?未来への祈りをこめて、いま、すべての子どもたちへ―。“心”をうたいつづける歌手・さだまさしが書いた児童文学。

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きのう、火星に行った。

笹生陽子『きのう、火星に行った。』
『きのう、火星に行った。』
笹生陽子/作 廣中薫/画
講談社
1999.06

もぷしー:ひとことで言えば、発想が奇抜でおもしろかったです。火星に行く話でもないのに、タイトルに「火星」が使われているのも、印象強いし。主人公の拓馬って、私が思っている現代っ子にぴったりはまりました。冷めてはいるけど、本当は熱くなるのもいいことを知ってて冷めてる子ですよね。どんなことでも、先に結果が見えてしまう頭のいい子。対照的な努力家、でくが出てきて、影響されて成長していくのも安心して読める感じ。弟に関しては、悪い意味ではなくて、キャラクターが想像しにくかった。無邪気でもないのに子どもらしいっていうのがちょっとわかりづらい。お兄さんの目で書かれているからかな? そう魅力的には感じられなかったです。信じる力とか、熱い気持ち、メッセージって、昔と変わらないテーマですよね。タイトルが『きのう、火星に行った。』てなってるのは、信じてなかったものを信じられるようになったってことでしょうか。p129のビデオのナレーションに「地球を生きた星と呼ぶなら、火星はまさに死んだ星です」ってあるけど、干からびてしまった姿が、主人公に重なってるのかなと思いました。生命力ある地球に対して、死んだ火星が自分だったのかということなのかと。

アサギ:私も楽しく読めました。主人公の年代は、私にとってはるかに昔だけど、リアリティが感じられたわ。全体にすごく感じがいい作品だけど、唯一不満なのは、主人公が勉強もスポーツも何でもできるってとこかしら。はたして対象年齢の小学生にも共感できる本なのかしらね。同世代だったら、優秀な子には、もしかしたら共感を持ちにくいかも。名前の呼び方で、ところどころフルネームが入るのが気になったけど。欧米文学の特徴だと思ってたから。

何人かの声:仲間うちで、いつもフルネームで呼ばれる人っていますよ。

愁童:前に読んでいて、今回あらためてまた読んだんだけど、最初の時の方が印象良かったな。文体、いいですよね。切りこむ感じ。最初読んだ時は、火星に行ったと言う部分が違和感なく読めたんだけど、今回読んだら、何もひっかからなくてすべっていっちゃうのが気になった。アサギさんがいったフルネームで名前を書くっていうの、ぼくは違和感を感じたな。名前と作者が描いている少年のイメージが重ならなくて・・・。

アサギ:それはフルネームということではなくて、「拓馬」という名前が違うんじゃないかしら。

愁童:そうかぁー。名前がトータルなキャラクターをひっぱってこないんだよね。あと、6年生の男の子だから、かなり男っぽいはずなんだけど、感性的な部分での反応が、ちょっと違うなあなんて思っちゃったな。この子の、達観していて屈折したところが、なぜ出てきたのかが書かれてない。必然性がわかりにくいんだよね。でも、ちょっと屈折してる男の子書くの、この人はうまいね。『ぼくらのサイテーの夏』(講談社)もおもしろかったし。

オカリナ:愁童さんは必然性が書かれてないと言ったけど、私は、今の子はこれがふつうなんじゃないかと思う。ふつう、能力があって冷めてるという子は、なかなか書きにくいんだけど、これはちゃんと書けてるし、おもしろい。カニグズバ—グの『クローディアの秘密』だって、主人公は才能があるけど白けてはいない。その白けてる子が、最後は熱くなったところで終わるから、出来すぎの感もあるんだけど、子どもの本としてのおさまりもいいし、読後感もいいんじゃない! こういう文体って、創作ならではね。弟は特殊な感じだけど、特殊な環境におかれてたってことを考えれば、いるかもしれない。最近読んだ中では、ダントツにおもしろい本の1冊でした。

紙魚:私は、主人公がそんなに冷めてるとは思えなかった。よく、今の子は冷めてるとかって言われるけど、こういう子が冷めてる子だとしたら、まだまだ情熱あるじゃない!と思っちゃった。「静かなる情熱」という印象。表に出なくても内に秘めてるとすれば、それは情熱家でしょう。拓馬に、つぎからつぎへと言いたいことを並べられてるみたいだった。確かに、愁童さんが言っていたように、考えさせられるひまがなくて、ひっかからないんだけど、むしろそれがすがすがしかった。走りぬける爽快感があった。

トチ:最初から作者は、意識して冷めてる子を書きたかったんじゃないかな。弟にリアリティが無いという話もでたけれど、私はそうは思わなかったわ。ただ、文体に迫力があるというところだけれど、口数が少ないという設定の登場人物に、地の文で饒舌に語らせるというのは、難しいという感じがしたけれど。

オカリナ:口数が少ない子のほうが、心の中でいろいろ考えてるんじゃない。

トチ:たしかにそうだけれど、特に初めのうち、キャラクターをつかみにくいところがあったの。

愁童:駅ビルに、弟を置いてきちゃうところがあるでしょ。おやじに殴られるところで、男親との確執みたいなのがもうこの年代では強いからね。冷めてるライフスタイルの子が、一発殴られて、なんで素直になっちゃうのかなとは思うよね。心の機微みたいなのが、物足りなかった。文体にもおされちゃうし。でも読者としてはここで殴られると、それまで溜まったストレスみたいなのがスパっと解消される。そこは、うまいよね。

チョイ:優等生でいることって、学校でも会社でもめんどくさいことなんですよね。そのめんどうを避け始めると、そのスタンスに馴れてきちゃって人生全体がつまらなくなってくる。現実のめんどうくささの避け方を早々と身につけた、こういう子どもを主人公に設定するのは、おもしろいと思った。弟は、体が弱かったゆえに想像力を駆使し、人生を自分でおもしろくしていく術がなかったら生きてゆけなかった。お兄ちゃんは順調で、ある種の優等生で、何をやってもそこそこ器用だから、弟と逆に、人に期待されることでめんどうになるのを避けていく生き方を、身につけてしまったんでしょうね。ただ、この作品では、兄は弟たちに影響され、変化していくんだけど、弟の方は、はじめから出来すぎているっていくか、あまり変化しない。そこがちょっと物足りなかったかな。このタイトルは、「とにもかくにも人生は自分でおもしろくしなくっちゃ」っていうことの象徴かな。フルネームを多用する手法は、皿海達哉さんや、日比茂樹さんたち、「牛」の同人がよくやりましたね。フルネームにすると、書き手と登場人物の間にある距離感が出て、作品にクールな印象が生まれるような気がします。

ねむりねずみ:今回この本をとりあげたのは、前に読んでかなりおもしろいなと思ってたので、みなさんの意見をうかがいたかったからなんです。この会に参加するようになってから、勉強しなくちゃと思って、児童書を山積みにしてばーっと読んだなかで、ひこさんの『ごめん』とこれが心にひっかかってて。まず、主人公の設定がいいと思ったんです。この子のつっぱり具合とかもいいし。私は小さいころ病気がちだったので、へろへろしながら頑固な弟も、とてもリアルだと思いました。私が子どものころも、冷めた子はいたし、現代っ子だって、何も考えてないということはないと思う。あくまでも冷めたポーズをとってるだけじゃないかな。情熱っていうより生命力の問題だと思うんです。今の子どもたちは外部からの刺激が多くて、大人との関係も昔とは違うでしょ。一人っ子も多くて、大人に注目されることも多いし。そういうなかで自分の生命力を守るには、ガードしないとやっていけないんじゃないかな。

(2001年06月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


風をつむぐ少年

ポール・フライシュマン『風をつむぐ少年』
『風をつむぐ少年』
ポール・フライシュマン/作 片岡しのぶ/訳
あすなろ書房
1999.09

もぷしー:トーンもテーマも重かったけれど、その割に章ごとに視点の転換が入ってくるし、湿度が低いというか、からっとした感じなので、「たいへんなことをしてしまった責任を、どう償っていくか」というテーマを、純粋に読むことができました。自暴自棄になっているところまでの設定も、主人公の考えなしの行動だとか、周りに迎合しつつ目立とう、という素直な気持ちが、よく表現されていると思いました。やがて、結果的に人を殺してしまうわけですけど、相手の親が言うことは、日本の文学だったらこういう設定はないだろうと思いますね。娘の死に対する償いとして風車を作ってくれという課題を出すなんて、日本だったらありえない。だから文学においてもそうはならない。カウンセリングのやり方にしても、日本では「その問題を見つめてみよう」というアプローチ、アメリカではシュミレーション的というか、問題と直接向かいあうのでなく、気づくと変わっているという療法があると思います。そういう文化に則った、異文化のお話なのかなと思いました。日本だと、こういう場面に親が出てくると、恨みの色になってしまいがちだと思うんですが、それはなぜなんだろう、と考えさせられました。
少し前に読んだので、記憶が定かでないのですが、最後で、p205の「今彼の心の目に、これまで作った四つの人形が、ひとつの大きな装置となって互いに連動しあっているのが見えた。この世界も、言ってみれば巨大な一個の回転装置だ・・・」というところ。風車を作るくらいのことで、彼は本当にここまで分かったのかな。こんなふうに締めくくられると、あまりに立派で・・・という気が少ししました。もうちょっと、彼の言葉としてそっと終わらせてくれた方が、ついていきやすかったのでは? でも、全体を通して考えると、難しいテーマにも関わらず、遠くから、そばから、横から、と各度を変えて、上手に描いているんですね。こういう見方も学んでいかないとな、と思いました。

紙魚:私もp205で急にトーンが変わったので、あれ、まとめに入っちゃったのかなと思いました。わざわざ書かなくても、ちょうど本を読み終わって、自分なりに自然にその構図が描けると思うのにな。まるで文字の色が変わったかのように、トーンが急に変わった気がして。作者は、伝わるかどうか不安になって書いちゃったのかな、なんて思っちゃいました。

トチ:作者は、読者に通じるかどうか不安になるんでしょうね。いい気分になって、書いちゃいけないことまで書いちゃうこともあるだろうし・・・。

愁童:ぼくは、そこに違和感は感じなかったですよ。作者が説明しているだけでしょ。主人公がそう思っているというふうには読まなかった。

スズキ:初めは、主人公はどこにでもいる典型的なティーンネージャーで、物事をあまり深く考えないで、人生今から! どうにでもなる、という感じだった。ところが、そんな男の子が、事故で人を殺してしまう。このシーンは、えっ本当に死んじゃったの、と何度も読み返した。ちょっとしたことで、人の人生が変わることってありうるんだ、と読んでいる私のほうが、重く捉えてまった。でも、ブレントが旅に出て、いろいろやっていって、「前よりうまくできた」「今度はこれができるようになった」といったように体の体験を通して、だんだんと精神的に成長していくあたりが、からっとさわやかに描かれていた。読んでいるうちに、自分の過去の過ちを背負いつつ生きていくことを学び、回復していくブレントに、いつのまにか引きこまれていた。最後のまとめについてですが、私はこの文章にくるまで、なんで風車なんだろう、トーテムポールでもよかったのに、なんて思っていました。だから、最後のこの部分があって納得がいきました。

アサギ:私には印象の薄い本でしたね。うまくできているし、いろいろな人の物語が挿入されて、その人たちがブレントの作った風車に癒されたりする、という構成もうまい。だから、子どもにきかれたら薦めると思うのね。薦めるというのは、相手に時間と労力を使わせるわけだから、自分もどこかいいところがあると思ってるってことよね。日本の親だったら、泣いたりわめいたり、じめっとするわけで、文化の違いを感じたわね。これはキリスト教的背景という本ではないけれど、翻訳ものを読んだり訳したりしていると、背後に神があるのかな、という感じはよくするのよ。もう一つ、私は1年住んだことがあるくせに、アメリカをよく知らなくて、アメリカは均質な文化を要求する文化、という意識があったのね。ドイツなんかだと、それがなくて、南で最もポピュラーな料理を北の人は知らない、というのをよしとする。それに対して、アメリカはファストフード以外にも、同じメニュー、同じ安心感で普及したチェーンレストランが全国にあると聞いてたから、錯覚が起きていたのね。でも、このロードムービーともいうべき作品を読むと、いろんな習慣の違いが出ているでしょ。考えてみれば、あれだけ広い国で、気候も違う。偏見が正されて、新鮮でしたね。
最後の説明の4行について。私は、はじめから地の文と思って納得してたわ。最後は、読み終わった本をもどして、新しい本を読み始めたっていうの。余韻があっていいと思ったわ。あと、ルーシーショーとか、古いアメリカの名前が、懐かしかったわねえ。乱暴だと思ったのは、p176の、おばあさんが最後に「たとえドイツの人でもね」っていうところ。これ、ドイツ人が読んだら怒るだろうなあ。

愁童:これ、すごく好きな本になったな。印象が薄いのは確かだよ。何が書いてあったかは、よみがえってこない。だけども、風車が立っているという存在感、卓越した構成と着想に感動したね。娘の顔をした風車というモチーフを考え出した、作者の書き始めのポテンシャルエナジーはすごいね。読んで得する本だと思うよ。人生観とか哲学だけで本は存在するものでもない。このイメージがすごい。母親の悲しみもよくわかる。こういう形で書かれたことを、癒しのイメージだけで捉えたくないな。

オカリナ:被害者のお母さんのサモーラ夫人は、主人公のブレントに対して、罪の償いというよりブレントの成長のきっかけとなるような提案をするでしょ。でも、このお母さんは、一般的なアメリカ人というより、赤毛で、インド更紗のスカートをはいてて、フィリピン人の男性と結婚するような女性だって書かれていて、その時点で、作家は普通の常識人とはちょっと違うように設定しているんだと思うの。お父さんはブレントを絶対拒否して、手紙だって切り刻んで返すくらいでしょ。その方が普通なのかもしれない。お母さんは、いろんなところでいろんなことをやってきた人。これがなかったら何もわからなかったようなブレントに、最大のプレゼントをするわけよね。すごい!
フライシュマンは、「一人の人間の行為は、直接的にではなくとも、必ずだれかに影響を及ぼす」と強く考えている作家だと思う。作品の印象が薄いとしたら、「アメリカの四隅に娘の顔をつけた風車を立てる」という設定が強く前面に出ていて、それ以外の部分が後から追いかけているからなのかな。一人の行為は必ず誰かに影響する、というのは、他の作品にも見られる、フライシュマンの一貫したテーマ。でも、それがあまりにも前面に出すぎると、かえって印象に残らなくなる気がするのね。こういうことを書かなくちゃ、と思うと、それに引きずられてプロットが後からついていくじゃない。思想は自分の中にあって、思いついたことを書いていくうちに、それがおのずとあらわれてくる、っていう方が作品としてはおもしろいかも。

紙魚:主人公の少年といっしょにバスに乗りこみ、いっしょに風車を立て、ロードムービーを楽しむように読めました。フライシュマンもすごいけれど、さっきその良さを語ってくれた愁童さんの言葉にもじーんときちゃった。世界は自分の力でどうとでも変えられるという考えと、自分の力ではどうしようもないこともあるという考えがありますよね。この作品には、自分の力ではどうにもならないことがいっぱい出てきます。人の気持ちや生死には手出しができないですから。けっしてあきらめでなく、及ばないものに対する畏怖の念を抱き、どうすることもできないこともあるということを知るたび、人は優しくなることもあるんじゃないかな。
子どもの本でも、自分で世界を変えようという本と、自分だけではどうすることもあるという本、その両方があってほしいです。例えば恋愛を描くにしても、「誰でも振り向かせてみせる」という部分と、「どうしても振り向かせられないんだ」という部分。どちらの側の作品もあってほしいと、これを読んで思いました。未来に希望をつなぐ終わり方も、とてもいいなと思いました。取り返しのつかないことをしてしまって、償いに風車を作る。風車というのは、プロペラがあるだけで、風がないと回らない。4つの風車と主人公の気持ちが、風によってつながっていった気がしました。フライシュマンは、自分がしたことで誰かが影響を受けていく、その機微が見える人なのでしょう。最後のp205の「〜巨大な一個の回転装置〜」の4行は、ちゃんと伝わってるから言わなくてもいいよと思ったほど、それまでにイメージができあがっていました。導入部分は、「ビバリーヒルズ高校生白書」のようなアメリカっぽい世界が広がっていて、それもおもしろかったです。それが突然、交通事故のところで、一瞬何が起こったかわからなくなって、次章の挿入部分に入りますよね。そのあやふやさ。ブレントも、そうやってじわじわ事態をのみこんでいくはず。挿入を使って、それを表しているところが、うまいですよね。
ブレントは、まさに自意識過剰な年齢。パーティーに出ていた頃と、旅を終えたときでは、同じように過剰な自意識ではあっても、きちんと成長のステージがちゃんと見えてきますよね。おしつけがましくない描写もいいと思いました。そういう年代の人たちをやさしく見守る視線、寄り添うように眺める視点もいいと思いましたね。

トチ:もっとも優れた点は設定ね。設定を考えついた時点で、この作品は成功だったのでは。同じ作者の『種をまく人』(片岡しのぶ訳 あすなろ書房)と同じで、途中で言いたいことがわかってしまって、同じようなことを言ってるな、と思ったこともあったわ。その意味では、もう少し違うことを書いてほしかった。でも、おもしろかったし、薦めたい本ね。図書館に置くべき本だとは思った。アメリカ的、キリスト教的というよりも、もっと原初的な宗教観を感じたわ。それにしても、アメリカ人は寓話的なものが好きなのかしら。ルイス・サッカーの『穴』や、ジェリー・スピネッリの作品もそんな感じがするし・・・ただ、私の好みを言わせてもらえば、寓話のようにかっちり作者の世界ができているものよりも、破れたところがあって、作者自身も思いもよらぬほうへ行ってしまう文学のほうが好きなのよね。風車を立てるというのは日本にはない感覚という意見があったけれど、私は贖罪のために仏像を彫るというのを連想してしまって、かえって日本的な、なんだか懐かしい感じがしたわ。

オカリナ:この風車は英語だとwhirligigで、シンシア・ライラントの『メイおばちゃんの庭』(斎藤倫子訳 あかね書房)にも出てくるわね。アメリカでは象徴的な意味合いをもっているのかも。

チョイ:ここに出てくる4個所っていうのは、アメリカの四隅にあたるのかしら? 風水でもないのにね。

ねむりねずみ:最初、今回の課題を決めるので、これどうかなって読んで、今回もう1度読んだんですけど、はじめは構成に頭がいってしまって、『種をまく人』といっしょだなって思った。同じフライシュマンの台本形式で書かれた『マインズアイ』(寝たきりのおばあさんから女の子に想像力の翼が継承されていく物語)とも同じだな、っていうのが先に来ちゃった。この著者は、よい意味で行為は波紋を広げるというメッセージを持っているんだなって。2回目に読んでみたら、なるほど主人公の成長物語になっているんだということがわかった。ワシントン州では物をつくる充実感、カリフォルニアではありのままの自分として人と接すること、そしてその次は、自分と他の人とのやりとりの楽しさを知ること、そして最後に心の中の秘密を打ち明けて、本当の意味で前に進める状態になった。順を追ってできているんだなって思った。でも、先にメッセージがあるというのもあるけれど、構成としてできすぎちゃっているような気がする。感情面から読者を巻きこむのとは違う感じの本ですね。派生するエピソードのひとつの、バイオリンを練習させられる男の子のエピソードが好きでした。やはり着想のすごさなんだなって、いま感想をうかがってあらためて思いました。表紙のイメージ(くるくる回る)がすごく大きいと思う。

(2001年06月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


スターガール

ジェリー・スピネッリ『スターガール』
『スターガール』
ジェリー・スピネッリ/作 千葉茂樹/訳
理論社
2001.04

もぷしー:うー、この本に関してはコメントできないです。女の子のキャラクターは、奇抜で印象に残るんだけど、彼女の魅力が伝わらないことには、どうもこの本はおもしろく読めないんじゃないかな。ひとつだけ、スターガールが自分を変えようとしている、演出しようとしているところ、過剰に人にどう見られるかを意識しているところは共感できました。誰の幸せにも不幸にも真剣にやってあげるのは、みんなの理想というメッセージが含まれているかもしれないですね。

スズキ:たまたま「東京ブックフェア」で3割引で売ってたので、お得と思って買ったんですよ。帯には「ほかでは味わえないラヴ・ストーリー」とあったから、「ほかでは味わえない」何かを味わいたかったんだけど、読んでみると「味」がなかった感じ。スターガールがバスケの試合で両方のチームを応援したり、みんなの誕生日を祝ったりするのは、新鮮に感じられて私もやってみたいとは思ったけど。そんなハチャメチャな彼女が大好きだという、男の子がじめじめしてて好きになれなかった。スターガール自身の描写もあまり深みがなく、男の子が彼女にどうして惹かれてるかもわからない。この男の子のほうが、へこたれてこのカップルはだめになるかもと思ったけど、だめになることもなく、最後は彼女のほうが蒸発してしまって、ちょっと消化不良っていう感じ。感想を求められるとつらいです。

ウェンディ:アメリカには個性を認める国っていう印象があったけど、出る杭は打たれるっていうのはやっぱりあるのね。世捨て人でもないかぎり、相手のことを考えてなくちゃいけないというレオの考え方に、スターガールは惹かれながらも、そうはなれない。じゃあ、レオがどうしてスターガールに惹かれるか、わからない。レオが好きなあまりにスターガールが自分らしさを捨てるところも、葛藤が見えてこない。心の揺れがよく書けてるのはレオの方で、スターガールはリアリティがない。レオの視点で描かれるからかもしれないけれど。でも、レオみたいなナイーブな男の子って、結構いるのかもしれない。

愁童:今朝から読み始めたんだけど、あんまり深く読んでないのでわからないです。なんでこういうこと書かなくちゃいけないの? いやに平凡でしょ。幼稚園みたい。何を言おうとしているのかわからなかったですね。個性とは言ってるけど、結局、一面的な状況に対する反論なのかな?

オカリナ:この本は、構造としては『クレージー・マギーの伝説』(スピネッリ 偕成社)の女性版でしょ。でも、独りでも自分の価値観を貫くという主人公のキャラクターが、この作品ではとても観念的で、くっきりとうかび上がってこない。最後までぼやけたまま。『クレージー・マギーの伝説』のほうがおもしろかったな。私はどうしてもスターガールに感情移入できなくて、困った。

トチ:スターガールみたいな子がいたら、私だったらいじめちゃう。

オカリナ:個性あるものは排除されるということが言いたいだけなら、つまらない。スピネッリの他の作品は、もっとおもしろいのにね。アーチ—とか、せっかくおもしろいキャラクターが出てきても、最後には凡人だけが残るというのもねえ。

紙魚:私も、スターガールの魅力がわからなかったなあ。個性というものが、二極で単純に描かれてしまっているのも気にいらない。制服の反対に、奇妙な服とか。スターガールのことを言及すればするほど、スターガールの個性が薄っぺらくなっていくようで、個性って言葉で表すのはほんと難しいですね。装丁はとってもよかったです。

トチ:スピネッリの作品のなかでは失敗作よね。こんな風に(一見)個性の強い子って、自分を理解してくれない人たちとはかかわりたくないと思うのが普通なのに、この子は執拗に他人に好かれたいとするのよね。好きな男の子のために、自分のスタイルも変えてしまうし。

オカリナ:個性的っていうんじゃなくて、単にピュアだっていう設定なんじゃないの?

トチ:スターガールが描けてないと思うの。自我がなくて、自分から行動できない子としか感じられない。『肩甲骨は翼のなごり』(デイヴィッド・アーモンド著 金原瑞人訳 東京創元社)に出てくる、主人公の隣の女の子も、いってみれば変わり者だけれど、すごく生き生きしてたじゃない。こういう本がどうして人気があるのかしら?

オカリナ:今のベストセラーを見てると、本を読まなかった人がたまたま読んで、あー本ってこんなにおもしろいんだって再確認してるような気がする。本当はもっとおもしろい本がたくさんあるのにね。

愁童:この本、おもしろくないよね。ハリポタのほうがまだおもしろいよ。

アサギ:でもね、ベストセラーになる条件って、ふだん読まない人が買うってことなのよ。

チョイ:スターガールのキャラクターに統一感がないのが、何よりも居心地悪かったですね。生命観、自然観、宇宙観みたいなものが、どうにもイメージできない。一所懸命彼女を解釈しようとすると、アニミズムを体現した存在かなとも思えるんだけど、一方であんなに他人のことを調べまくったりして、何だか気持ち悪い。でも、この本、アメリカのベストチョイスかなんかに選ばれてるんですよね。うーん、アメリカ人って、時々理解しがたい。

ねむりねずみ:スターガールの造形の仕方が、デスマスクをつくる過程みたいだった。しっかりしたものがあるんじゃなくて、ぺたぺたと外側から貼り付けてできていく感じ。とりあえず、レオはだらしない。私はスターガールをすごくいやな奴だとは思わなくて、まあこういうのもいるかなという感じでしたね。でもラストはいやだったな。スターガールを自分に都合のいいときだけ楽しんでいる周囲の残酷さがいやだった。

チョイ:超自然的なものがあらわれたときの平凡な人間の心理的錯乱をかきたかったのかな。

ねむりねずみ:この物語って、最初と最後で誰も変わってないんだよね。もちろんスターガールも。スターガールって寂しがりやなんじゃない?

トチ:だけど、理解してくれる女の子がひとりはいたわけだから、それでいいんじゃないかしら。

チョイ:スターガールは特殊な存在でしょ。作者も、スターガールがみんなからけっして好かれないことを知って書いてる感じがしますよね。

オカリナ:やっぱり主人公は魅力的に描いてほしいな。

スズキ:スターガールのスピーチ原稿を読ませてくれれば、感想も変わっていたかもしれないな。

チョイ:それを書くだけの筆力が、作者になかったってことかな。

愁童:途中から恋愛関係が入ってくると、よけいわかんなくなっちゃう。個人の愛をとるか、大勢の愛をとるかっていうのも、わかんないな。そんなこといってどうするのかな。恋愛っているのはオール・オア・ナッシングじゃないでしょ。これじゃ、破綻するのは当然じゃない。

もぷしー:スターガールに出会ったのは、事故みたいなものっていうことなのかな?

紙魚:まわりのみんなに影響をあたえることもなく、最後はスターガールが去っていくって、まるでスターガールが天災だったかのような。

トチ:ホラー仕立てにしたらよかったかもね。

紙魚:ほんとにこういう子がいて、誕生日の日にお祝いにきたとしたら、ストーカーだと思っちゃうかも。

トチ:スターガールじゃなくて、ストーカーガールにすればよかったじゃない。善意のかたまりみたいな、こわい人っているわよね。

紙魚:このところ、意味がつかみづらいことをスタイリッシュに書くっていう作品が目立つなあ。

オカリナ:そういうの、大人の文学には前からあったのよ。

ねむりねずみ:意味がないことを書くのは、危険がないから楽なんじゃないかな。読者のほうも、何もつきつけられないから、気楽に読めるし。

オカリナ:子どもの文学にはちゃんと物語性があっておもしろいね、っていうことだったのに、最近の作品を見ると、子どもの文学にも中身よりスタイルっていう書き方が浸透してきちゃったのかな。それを持ち上げる人もいるしね。

チョイ:ポーズでおもしろいとか言ってても、本音ではあまりそうじゃなかったら、結局、また読者が少なくなることにつながるからこわいよね。

もぷしー:スターガールって、映画の『アメリカンビューティー』の女の子に重なったな。魅力的には描かれてるけど、女の子のほんとのところはわからない。この作品も、流行に乗ってできちゃったものなのかしら。アメリカでアカデミー賞をとったから、それに近づけてキャラクターを作っちゃったのかな?

アサギ:『作家の値打ち』で、福田和也が批評の責任ということを書いていて、「批評家がつまらない作品を持ち上げると、それにつられてせっかくふだん本を読まない人が手に取ってくれても、なんだ本なんかやっぱりつまらないじゃないか、と思ってますます本離れがすすんでしまう」というようなことをいっていたわね。

(2001年06月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


2001年06月 テーマ:少年の心

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『2001年06月 テーマ:少年の心』
日付 2001年6月21日
参加者 トチ、チョイ、ねむりねずみ、もぷしー、スズキ、
紙魚、ウェンディ、アサギ、愁童、オカリナ
テーマ 少年の心

読んだ本:

笹生陽子『きのう、火星に行った。』
『きのう、火星に行った。』
笹生陽子/作 廣中薫/画
講談社
1999.06

<版元語録>おれの名まえは山口拓馬。六年三組。趣味は、なんにもしないこと。特技は、ひたすらサボること。そんなおれに、とつぜんやってきた、…とことんついてない日。
ポール・フライシュマン『風をつむぐ少年』
『風をつむぐ少年』
原題:WHIRLIGIG by Paul Fleischman, 1998(アメリカ)
ポール・フライシュマン/作 片岡しのぶ/訳
あすなろ書房
1999.09

<版元語録>アメリカ大陸の四隅に「風の人形」をたてること。それがブレントにできる、たったひとつの償いだった。ワシントン州、カリフォルニア州、フロリダ州、メイン州…アメリカ大陸を西へ東へさまよう一万三千キロの旅。ひびわれたティーンエイジャーの魂が潤いをとりもどし、再生していく姿を描いたロード・ムービー。1998年度パブリッシャーズ・ウィクリー誌ベストブック。
ジェリー・スピネッリ『スターガール』
『スターガール』
原題:STARGIRL by Jerry Spinelli, 2000(アメリカ)
ジェリー・スピネッリ/作 千葉茂樹/訳
理論社
2001.04

<版元語録>ハイスクールの転校生スターガール・キャラウェイは不思議な子だった。白いドレスにウクレレ、ランチタイムの儀式、風変わりなチアガール。彼女は町はずれの砂漠に秘密の場所をもっていた…。ほかでは味わえないラヴ・ストーリー。

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雨ふり花さいた

末吉暁子『雨ふり花さいた』
『雨ふり花さいた』
末吉暁子/作 こみねゆら/画
偕成社
1998.04

トチ:同じ日本の民話や伝説をもとにした本でも、『空へつづく神話』(富安陽子著 偕成社)などに比べるとやっぱり格が違う。どんどんストーリーにひきこまれていくし、真面目にテーマと取り組んでいると言う感想を持ちました。少々重い感じがしたのは、たぶん文体のせいなのね。例えばp189のサダさんと佐藤さんの会話の後の記述。「幼なじみだという二人は、いつのまにかすっかり昔にもどって、えんりょなくやりあっては笑いころげている。顔には出ていないが、二人ともかなり酒が入っているようだ」というようなところ。会話だけをぱっと出さずに、ていねいに念を押している。しっかりと読者に伝えたいという真摯な姿勢のあらわれだと思うし、好感が持てるんだけど、少しくどいかもしれない。かといって、「いまどきの若者や子どもの言葉で書いた」と称する、だらしのない文章もいただけないし・・・今のように言葉がめまぐるしく変わっている時代は、どういう文体で児童文学を書いたらいいか、真面目な作家ほど悩んでいるんじゃないかしら。それから、p267に「自分の場所」に戻るというユカの決心が書いてあるけれど、茶々丸とのストーリーに比べて現実のユカの生活の書き方が少し足りないので、いまひとつぴんと来なかった。あと、細かいことだけれど、宿のノートに書いてあったお母さんの名前にユカが気づかなかったのはふしぎ。これくらいの年齢の少女って、結婚前の母親の苗字には関心があるんじゃないかしら。まして、母親が亡くなっているんだから。

:末吉さんの文章って読みやすくて、しかもユーモアがありますね。でも、この作品は、複雑な構想のうえになりたっていて、それがあまりうまくいってない。昔話の謎とき、悲しい父娘の関係、悲恋などの過去の話と、現代的なテーマである母の不在、父と娘の関係などいろんな要素を全体にまとめていっているんだけど、うまくほどけてなくてそれに違和感を感じちゃった。おそらく読者は、ユカの現代性にコミットしていくはずなんだけど、それと過去の物語がうまくつながってなくて、混乱しているんです。ドライなユカが、ミステリーハントの過程で成長していくのを描きたかったんでしょうけど、リアリティがなくて。私は茶々丸をシェイクスピアの『テンペスト』のエイリアルと重ねて読んだんだけど、彼の女の子にぽっとするようなところや、人間にないパワーの持ち方など、リアリティのあるキャラクターとしてうけとめられなかったな。プロットに混乱があるし、人物の描きこみに違和感があったし、ユカのリアリティがなかったというところでしょうか。

ねむりねずみ:日本の言い伝えって、今どうなっているんでしょうね。この本の中では、現代性と過去のリンクがいまいちうまくいってない。三浦哲郎の『ユタとふしぎな仲間たち』(新潮文庫)なんか読むと、おむつのくさい匂いからはじまっていて、座敷わらしの描き方がぜんぜん違う。座敷わらしって、怨念とかのイメージじゃないですか。だから、どうもこの茶々丸っていうのが、そういう根っこからはなれちゃって、イギリスの妖精に羽がはえたみたいなイメージなんだな。どうもリアリティがない。ただ、遠野という場所は、神話や物語が今もなお生きている場所だっていうことは感じられました。現代と過去だけでなく、物語と不登校の話もリンクしてないんだけど、茶々丸の頭がすぐこんがらがったりする場面はおもしろかったな。

オカリナ:うーん、私はただどんどん読んだという感じ。特にひっかかったところはないし、これといって不満はありませんでしたね。みんなも言ってるけど、『空へつづく神話』よりはずっとよかった。今の子どもはたぶん、座敷わらしっていってもどんなものかわからないだろうけど、そういうものを狂言まわしにしてうまく描いている。ファンタジーって、もう、善と悪の対立で描くのって古いと思うのね。この作品でも、座敷わらしのトリックスター的なところをもっと出したら、もっとおもしろかったかもしれない。

アサギ:全体的にはおもしろいんだけど、どうしてユカにくっきりと座敷わらしが見えるのかっていう必然性がぼんやりしていてわかりにくかったんじゃない? 昔と現代のお話をひとつにもりこむというのは、うまくいっていて、これって日本にしかないファンタジーよね。でも、結局どこへ行ってどこへ帰ってきたかがわかりにくい。

紙魚:本との出会い方って、いろいろありますよね。どうしてもどうしてもほしくてやっと親に買ってもらった本だとか、友だちに薦められなきゃたぶん読まなかった本だとか。この本がどういうふうに子どもたちに読まれるのかなと考えてみたら、たぶん、学校の図書館で出会うような本じゃないかなと思ったんですね。物語もおもしろいし、構成もしっかりしてる。なにしろ親切なんですよ。作者は編集をやってた方だし、決して誤解をさせないような文章と構成なんです。ちょっとでもわからないようなくだりがあって、あれ、これってどういうことかななんて疑問をもつと、すぐその後にちゃんと説明がついてくる。とってもていねいなんです。編集者が誤解がうまれないよう、念を押す感じ。だから、ちょっととっつきにくい歴史をとりこんでいるにもかかわらず、物語がすらすら進んでいく。今まで歴史なんかに興味がなかった子でも、この本を読んで、歴史に興味をもったりするかもしれないですよね。

チョイ:末吉暁子さんってきっと、調べたりするのが好きな作家なんでしょうね。『地と潮の王』(講談社)なんかもそうだけど、調べたこと、学んだことを生かして独自のストーリーを創ろうとしている貴重な作家の一人じゃないでしょうか。まず書きたいモチーフがあって、それを物語化して児童書にするとどうなるかを考えていくタイプみたいですよね。この本の場合も、まず座敷わらしのことを書きたいという気持ちがあって、それを児童文学として成立させるにはどうしたらいいかを考えていったみたい。そのうえでいつも、あるレベルを保っているのは偉いと思う。富安陽子さんの『ぼっこ』(偕成社)とか、柏葉幸子さんの『ざしきわらし一郎太の修学旅行』(あかね書房)とか、こういう土着的な物語ってほかにもあるんだけど、末吉さんのはひとつ頭が抜けていると思う。やっぱり佐藤さとるさんの弟子ということもあって、感情表現をおさえ、客観描写をつみあげていくことによって、読書の誰もがある一定のイメージを作りだせる文章が大事だと考えているんでしょう。安心して読めますね。ただ、その向こうにある香りとか匂いとか湿気みたいなものを表現するのは不得意みたい。松谷みよ子さんみたいな、立ち上がってくるような怨みや、思いの深さなんてものはなくて、いい人が書いた文学って感じ。むしろ短編なんかのほうに、思いを前面に出しているものがあるようです。

(2001年05月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ネシャン・サーガ(1)ヨナタンと伝説の杖

ラルフ・イーザウ『ネシャン・サーガ1』
『ネシャン・サーガ(1)ヨナタンと伝説の杖』
ラルフ・イーザウ/作 酒寄進一/訳
あすなろ書房
2000.11

ねむりねずみ:訳者の後書きに、ファンタジーとコンピューターゲームの興奮って書かれているんだけど、いまいちわからなかった。ヨナタンとジョナサンの交錯のしかたなんかはおもしろかったけど。どうしてスコットランドが舞台なんでしょう? ジョナサンとおじいさんの関係が『小公子』に似ているからかな? いろいろ考えながら読んだので、長かったですね。続きは気になるけど。人物についてはあまり書きこんでないけど、どちらかといえば、ヨナタンよりヨミイの方が、おとなに描かれてますよね。ヨナタンが敵を殺してしまった後、悩んだりする場面なんかはおもしろかった。キャラクターとしては、ディン・ミキトさんが好きでした。癒しの権化のようなイメージ、やさしさ、せつなさが残りました。きっと、物語が進んで、あのもらった核が活きてくるんでしょうね。どのキャラクターも名前が覚えづらいので、人物紹介のまとめがあるといいですよね。

オカリナ:これって,ふつうのファンタジーよね。ドイツでは珍しいんじゃない? 特にハイ・ファンタジーって、イギリスとかアメリカとか、やっぱり英語圏が多いですもんね。ドイツは、ファンタジーが育つ環境じゃないのかしら?

アサギ:あら、私が今読んでる、「ほら男爵」系のドイツの物語はすっごくおもしろいのよ!

オカリナ:でも、「ほら男爵」系の物語は、いわゆる魔法系ファンタジーとはちょっと違うんじゃない? この作品、ちょっとひっかかるところがあったんだけど、大急ぎで作っちゃったのかな?

アサギ:5年くらいかかったって聞いたわよ。

オカリナ:たとえば、ここなんだけど「ジョナサンが眠って一週間記憶〜」というところ。本当に眠っていたのか、それとも記憶が欠落しているのか、よくわからない。p136の「ジラーのせいで何度も不快な思いをさせられてきたのだ。ヨナタンはけりをつける決心をして、鳥かごに〜」ってあるけど、「けりをつける」っていったら、最終的な決着をつけるってことでしょ。でも、一言言ってやっただけなのよね。こういう些細なところにひっかかっちゃったの。プロットをどんどん重ねて場面を変化させていくおもしろさはわかるんだけど、それだけだったら、私は物足りないな。

アサギ:たしかに、闇と光というとファンタジーの王道なんだけど、評判になるほどすばらしい作品とも思えなかったわね。私にとって、ファンタジーの決め手は「整合性」。第1巻では、まだいろいろばらまいてる段階で、2・3巻にいくにしたがって、ちゃんと収斂されるのかしら? 気になったのは、人物描写が浅いところ。ジェイボック卿の気持ちがとけていくところも、すてきなんだけど、浅い。とくに20世紀のジョナサンの方に文学性がないのよ。おじいさんとの会話も通俗的。格調の高いところと下世話なところがごっちゃじゃない! うーん、これは翻訳者のせいかもしれないけど。虚構の世界の方は、現実性がないからか、ある程度書きこまれているのよね。でも、補足しながら読んでいる自分がいるのを感じるの。三種の神器みたいな小道具は好きだったわ。筋としては、けっしてきらいじゃないんだけど。

ねむりねずみ:私も、ディン・ミキトさんなんかはおもしろいと思ったな。

アサギ:でも、ゼトアの人物造形は浅いと思わない?

オカリナ:人物造形が浅いってことは、今の多くのファンタジーがそうなんじゃないかな。小道具を手に入れることによってパワーはアップしても、その人物の内面が変わるわけじゃないのよね。私は、スーザン・クーパーあたりからそうなってきてると思う。

ねむりねずみ:人を殺しても、ちょっと悩んで、悩みましたってところで終わっちゃうし。

もぷしー:みなさん厳しい意見のようですが、私は、この会で読むんじゃなかったら、おもしろく読んだかも。「乗せられて読んでしまえばきっとおもしろい」というつもりで読むと、話の先が気になって、読み進められるとは思います。でも、クリティカルな目で読んでいくと、かなりひっかかります。主人公が内面成長もなく困難をクリアしてしまうRPG的なところなんか、読み応えがないなあって。それに、1巻ってまだまだ旅の途中なのに、急に終わっちゃうじゃないですか。1巻なら1巻のなかで、ある程度主人公が成長してほしかったな。
ところで「ジョナサン」ってドイツ語でも「ジョナサン」って発音するんですか? 両方「ヨナタン」だとしたら、早くからヨナタンとパラレルするキャラクターだってわかってしまいそう。日本語だと、だんだん気づいてくる感じだったけど。ところで、これ読んでいて、邦画『ホワイトアウト』を思いだしたんです。テロリストがダムをのっとっていく話なんだけど、そもそもテロリストがなぜテロという行為に及ばなければならなかったか、理由がわからないんです。それといっしょで、ゼトアって、最初から「悪」として描かれていて、なぜ悪に走ったかわからないんですよね。やはり、キャラクターの行動に必然性がないと、読んでいても感情移入できません。それに、ヨナタンが困難をすべて小道具で解決しちゃうのも、どうかな。自力で苦難を乗り越えないなら、逆に、すべての試練に意味がなくなってしまって、読む甲斐がないと思ってしまいました。

アサギ:そうね。ゼトアは逆に、へんに安直な人間的ふくらみをもたせているんじゃないかって気になったわ。

ねむりねずみ:作者は、人間性には興味がないんじゃない?

アサギ:ただ、たしかに先行きは気になるわね。先が気になるっていうのは、エンターテイメントの基本よね。

:うちの息子は、『ハリー・ポッター』を何度も読むんですよ。いいかげんにやめてほしいという気持ちもあって、この『ネシャン・サーガ』をすすめたの。こっちの方が、文学的に一歩進んでいると思うから。この本には『ハリー・ポッター〜』にない「象徴性」が感じられました。

オカリナ:「象徴性」って、剣が力への欲望をあらわすとかっていうこと?

アサギ:「全き愛」というのも、何かしらあるんだろうけど。

ねむりねずみ:自分が神の代理としてふるまえば、剣も敵を滅ぼすようにはたらくわけですよね。

紙魚:私の印象は、エンデ+RPG(ロールプレイングゲーム)+スターウォーズって感じ。キャラクターの描きこみも、物語の世界観もとっても薄い。見返しの地図を見ながら読んでいったんだけど、冒険物語なのに、行き先が見えないんですよ。大きなうねりになっていかない。たしかにテレビゲームっておもしろくて、新しいソフトがあると、私、寝ないでやっちゃったりするんですよ。大人でもこんなにのめりこんでやるものを、子どもにやめろなんて言えないなあ、なんて思っちゃうくらい。ただ、私は大人になってテレビゲームにふれたせいか、読書とテレビゲームって思考の流れが違うなと感じるんですね。読書って、ページをめくりながら少しずつ情報を手に入れて、自分のイメージを構築していきますよね。でも、テレビゲームって反対のような気がするんです。自分の位置がわからなくなったりすると、ボタン一つ押せば、例えば、屋敷の中のどこに自分がいるのか一目瞭然なんです。自分でイメージをふくらませる作業はあまり必要ないんです。この本には、それと同じようなこと感じたな。イメージを構築していくおもしろさがないし、どこへ向かおうとしているのかが見えない。

トチ:私も以前にゲームに凝って、3日3晩くらい午前2時くらいまでやっていたの。それからハッと気がついたのね。これは結局だれか他の人間が作った宇宙で遊んでいるだけのものじゃないかって。そう思ったら、すうっと熱がさめてしまって、もう2度とやりたいとは思わない。ところが文学は違うのね。確かに作者が作ったものではあるけれど、作品の中でも作者が思いもよらぬ展開を見せたりする。まして、読者に渡ったら、どういう風に変わっていくか予想もつかない。変なたとえかもしれないけれど、文学作品にはなにか神とか自然の摂理とか宇宙とか、人知を超えたものに通じる穴みたいなものが無数にあいていると思うの。それがゲームとの違いだと思う。

チョイ:読んでも、この世界の理解が深まらないっていうか、知識が増えない、っていうか、ためにならないのってどこか空しい。どうして他人が勝手に作ったこんな特殊な用語を覚えなくちゃいけないんだろうって思うときあるよ。

:今の子にとっては、哲学的なものはトゥーマッチなのよ。しんどいのはいやなんじゃない?

もぷしー:私は2・3巻でうまく展開していたら、おもしろくなる思います。まあ、もう少しごつい部分はほしいけど。

オカリナ:プロットの変化が本のおもしろさの大部分を占めて、内側の変化とか成長には作者も読者もあまり注意を払わないってことになると、それでも文学なのかな?

アサギ:パソコンがないころは、作者が、想像する世界の隅々まで自分で構築しておいて、その中で動かす人物にしても、くっきり陰翳があるところまで考えぬいたんでしょうけどね。整合性だって、パソコンにいろいろデータを入れておけば、ほころびが出ないのかもしれないわね。パソコンの普及も、文学に影響しているわよね。

オカリナ:それにしても、表紙の佐竹美保さんの絵は物語の奥行きを感じさせるわね。

:『黄金の羅針盤』も、表紙で得してたね!

(2001年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ドラゴンの眼(上)(下)

スティーヴン・キング『ドラゴンの眼』
『ドラゴンの眼(上)(下)』
スティーブン・キング/作 雨沢泰/訳 
アーティストハウス
2001.03

もぷしー:すらすら読ませるのは、さすがスティーヴン・キングだなと。でも初めの方は描写がグロテスクで、気持ち悪い箇所が多い。もうちょっと軽やかに書いてくれた方が、ストーリーの大筋に集中できたんじゃないかな? 設定としては、対照的な兄弟のコンプレックスってことですよね。劣等感を抱いてる弟には共感をもてたんだけど、なんでもできちゃうピーターは、あまりにも優等生すぎて、平等に感情移入できませんでした。

紙魚:私はもう、スティーヴン・キングっていうだけで点があまくなっちゃうので、今回の本にもあまいです! もともと、子どもを書くのがとてもうまいし、人間をよーく見ている作家ですよね。『ドラゴンの眼』に関しても、父親として娘のために書いた物語ですが、もちろん同じことを感じました。親が子に向かって書く物語って、筋とか構成と かは別にして、子どもに向けての願いが強く出ますよね。「真実」ってどういうものなのか、娘に伝えようとしているのがよかったです。

:もう訳がひどくて・・・。みなさん、気になりませんでしたか? たとえば、p120〜121のあたりなんて特にひどい。確かに「真実」が描かれていたはするんだけど、他のキングの作品にくらべれば、生協で1割引で買っても損した気分。キングはもちろん評価してるんですけどね。

オカリナ:私は、訳は気にならなかったけど。

紙魚:私もほとんど気になりませんでした!

:心理的な構築に欠けているし、物語作家としても、語り手の位置に重大な問題があります。章ごとの終わりに「それは君たちの考えること・・・」なんていうのも視点が一定してなくておかしいし、カリカチュアのとらえ方もおかしい。ローランド王の鼻くそも、ドライにとらえてはいるんでしょうけど。小説、物語というのは、『プロット』と『キャラクター』と『ポイント・オブ・ビュー』の3つがそろっていなくちゃいけないんです。確かに、親が子に伝える真実の存在はあるんだけど、それを翻訳が邪魔してる。

ねむりねずみ:終盤に進むにしたがって、スピーディーに、たたみかけるようになってくるので、映像向きかなと思う。たしかに「それは君たちの考えること・・・」のところで、次の章との継ぎ目が見えるみたいな感じ。ずーっと読んでていきなり考えろと言われても、えっ! と思ってしまう。やっぱり翻訳がうまくいってないのかな。でも、後になっていくと物語がぐんぐん進んで気にならなくなっちゃった。弟が矢を射る場面なんかは、そうだ、そうだと読めたし。ただ、全体としてはすごく感動したというほどではなかった。娘に読ませたくて書いて、愛蔵版で作ったという感じでしたね。

トチ:スティーヴン・キングって、ロイス・ローリーと同じグループで勉強してたんだって。最初は児童文学を書いてたのかもね。

オカリナ:私ははじめて『It』(文芸春秋)を読んだときに、スティーヴン・キングの子どもの描き方のうまさに、まいっちゃったのね。『ドラゴンの眼』では、トマスとローランド王がうまく書けてましたね。ピーターは、現実的な存在というより象徴的な善なのよね、きっと。 キングは12歳の娘に「高潔」ってことを教えたかったのかな。後書きを読むと、ナオミというのは娘の名前だってわかるけど、物語の中ではナオミの登場の仕方がずいぶん唐突よね。その辺のことをいえば、他の作品ほど完成度は高くないのかもしれないけど。

アサギ:途中で読者に語りかけるってことでは、吉本ばななにも、唐突に読者に向かって「ところで〜じゃない?」というところが出てくるわよ。あれはあれで、作家のスタイルとして認められてるわよね。私は、人物描写っていうのは性格をつくっていくことだと思う。これこれこういう性格があって、その結果プロットができてくる。奇想天外であろうと、人間を書けているか、性格を書けて いるかってことが大事よね。子どものときに読んで今でも記憶に残ってるのは、性格、人物造形がしっかりしてるものよね。

チョイ:昔話などは、人物はあくまでも象徴的で、プロットで動かすことによって話が動くよね。さっきの「プロット」「キャラクター」「ポイント・オブ・ビュー」の3点が完璧ってばかりではないかも。あと、文体がいいっていうのもあるよね。

トチ:文体と同じに、挿入してある歌や詩に感動するってことが、幼い子どもでも・・・というより、幼い子どもほどあるんじゃないかしら。私自身の経験でも、小出正吾訳の『ニルスの冒険』を読んだときに、白ガチョウのモルテンが他の鳥をからかう短い詩のような言葉や、『雪の女王』に出てくる「野バラの咲いた谷間におりて、小さいイエスさまお訪ねしよう」という歌に、良く意味もわからず感動した思い出があるわ。小さい子どもほど、美しい文体には敏感なんじゃないかしら。

オカリナ:でもさ、『ハリー・ポッター』よりは、この作品のほうがやっぱりおもしろかったな。

紙魚:それって、キングに人間を見る力があるっていうことだと思う。

チョイ:さっき、文体がよくて惹かれる場合があるって話だったけど、ディテールに惹かれることもありますよね。

アサギ:絵本なんかで、絵の中の細部に無性に惹かれることもあるわね。ファッションとかって気になるもの。昔『夕暮まで』(吉行淳之介 新潮社)読んでて、どうしても受け入れられないことがあったの。妻と子どもがフレンチトーストを食べてるの。フレンチトーストがその状況に合わなくて、すごく嫌だったわ。もともと、フレンチトーストは好きだけど、この場面にはどうしても合わないっていうのがあるのよ。

オカリナ:それは、こういう人物だったら、こういうものを食べるんじゃないかっていうイメージがあるってことよね。その辺は固定観念っていうこととも関係してくるから、ちょっと要注意かも。

(2001年05月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


2001年05月 テーマ:ファンタジー

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『2001年05月 テーマ:ファンタジー』
日付 2001年5月24日
参加者 ねむりねずみ、オカリナ、トチ、裕、アサギ、もぷしー、チョイ、紙魚
テーマ ファンタジー

読んだ本:

末吉暁子『雨ふり花さいた』
『雨ふり花さいた』
末吉暁子/作 こみねゆら/画
偕成社
1998.04

<版元語録>ままもひと朝 ひと朝 ひと朝かぎり ふた朝 ふた朝かぎり…うすむらさきの雨ふり花が咲き乱れる野面に、寂しげな歌が流れる。座敷わらしの茶茶丸につれられてはるかな過去に飛んだユカは、雨のデンデラ野で、歴史の中に消えていった人たちと出会う。命の重さと、生きることへの愛しさを描いた物語
ラルフ・イーザウ『ネシャン・サーガ1』
『ネシャン・サーガ(1)ヨナタンと伝説の杖』
原題:DIE TRAUME DES JONATHANN JABBOK Jabbok by Ralf Isau, 1995(ドイツ)
ラルフ・イーザウ/作 酒寄進一/訳
あすなろ書房
2000.11

<版元語録>ネシャン北域の森で、少年は謎めいた杖を発見する。青い光を発する杖を握ると、五感はとぎすまされ、記憶や感情を伝える力まで強まるようだ。これは涙の地ネシャンを解き放つ伝説の杖ハシェベトなのか?エンデが見いだした本格ファンタジー作家が放つ少年たちの地の果てへの旅。
スティーヴン・キング『ドラゴンの眼』
『ドラゴンの眼(上)(下)』
原題:THE EYES OF THE DRAGON by Stephen King,1987(アメリカ)
スティーブン・キング/作 雨沢泰/訳 
アーティストハウス
2001.03

<版元語録>ドラゴンの心を持つ勇敢な王子・ピーター。魔法の水晶を持つ邪悪な魔術師・フラッグ。闇の中に隠された事実。正義と勇気をかけた闘いが、今始まる! スティーヴン・キングが愛娘に贈った冒険ファンタジー。

(さらに…)

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魔女の宅急便その3〜キキともうひとりの魔女

角野栄子『魔女の宅急便その3』
『魔女の宅急便その3〜キキともうひとりの魔女』
角野栄子/作 佐竹美保/画
福音館書店
2000.10

オカリナ:ケケという3歳年下のライバルが出現して、その子との軋轢が話の中心になっていると思うんだけど、それだけじゃなくて、エピソードを積み重ねていくのは、今までと同じ手法ね。表現はうまいし、落としどころもあるし、最後もうまくまとめているし、ところどころに泣かせる配置もしている。巧い作家だなと思いました。最近YAばかり読んでいたせいか、そんなに強烈な印象はなかったけど、それはそれでいいんでしょうね。もしかしたら、1巻目や2巻目と比べるとインパクトが少し弱いのかな。挿絵は、シリーズの3冊とも別の画家だけど、並べて比べなければ違和感はなくて、イメージは統一されてると思いました。いずれにしても、角野さんは、どの巻でも独自の世界を展開してますね。

ねむりねずみ:次回に読む本のお知らせをもらったとき、「挿絵に注目」とあったけれど、すみません、1巻目も2巻目も読んでません。 第1作の映画しか見ていないけど、映画のイメージとつながるものは感じました。なんとなく、懐かしい世界で、普通なんだけど、ちょっと魔法があるというゆとりが懐かしくて心地よいのかなって、そんな感じがしました。魔法自体は、すごい魔法とかファンタジー系の魔法じゃなくって日常的だけど、ちょっとだけ外れている程度。ほうきで飛べるくらいのことで、それを周りが「それもあり」と認めちゃうところが心地よいのかな。おもしろかったです。後に何か大きなメッセージが残るというものでないけど、魅力的だけど決して強いばかりではない人間が、つい人と競ってしまったり、そんな自分を何とかしなくちゃと思いつつ、なかなか何とかできないみたいな感じはよくわかる。エピソードが積み重なるなかで、気持ちがうーっと鬱積してしまうあたりなんかよく書けてますよね。同じような経験をしている子が、そうなんだよね!と思って読むんでしょうね。

トチ:角野さんの作品が、この読書会でよく話題になる「似非英国ファンタジー」と違うのはどうしてなのか、と考えながら読みました。けっきょく、登場人物は欧米ファンタジーのキャラクターだとしても、借り物ではない角野さんの世界がきちんとできているからなのね。だから、安心して読めるんだと思う。

:「ブックバード」(IBBYの機関誌)のある記事で、角野さんの作品が多くの日本の魔女ものに見られる「似非英国ファンタジー」といっしょくたにされて書かれていたことがあって、ご本人はとても傷ついていたと聞きました。

紙魚:(イラストを見ると)とんぼさんなんかは、成長しているせいなのか、画家が違うせいなのか、巻によってずいぶん印象が違いますよね。編集者としては、逆に1冊ずつ変えようという意図があったのかもしれませんけど。

ねむりねずみ:「似非英国ファンタジー」が似非だと感じられてしまうのは、書きたいことと設定がちゃんとひとつにまとまっていないからだと思うんですよね。でもこの作品は、書きたいことがあって、それが、時計台のあるような舞台設定で行われているだけのことというくらいにちゃんと書けているから、似非という感じがしないんじゃないかな。

トチ:この作品は「大人」が書いているという気がする。年齢だけは大人でも、大人になりきれていない「少女」が、ファンタジーっぽい雰囲気を楽しむために書いているんじゃなくて。だいたい、子どもの本には「大人が(あるいは、おじいさんやおばあさんが)小さい子どもたちに語りきかせる」というエレメントがあるものね。エリナー・ファージョンやルーシー・ボストンにしても。

:角野さんは自分の少女時代、自分の子ども時代に向かって書いている気がする。自分の子ども観といったらいいかな。彼女のノスタルジーは、今の子どもにも通じる。天性のストーリーテラーだな、そのへんがうまいなと。メッセージも、最後に上手にまとめているし。

紙魚:1巻は、学生のときに、母親に「おもしろいわよ」と薦められて読んだんです。私の母は変わった人で、私が幼い頃、自分は空が飛べると言っていたんです。大人になればみんな空を飛べるようになると。「でも、外で空を飛んでいる人なんか見たことないよ」って疑ったら、「人に見られると飛べなくなるから、みんな見られないように気をつけてるのよ」と言われたりして。それで毎日、ある決まった時間に母が家からいなくなるんですね。少したつと、「空飛んできたわ」って縁側から帰ってくる。だからすっかり信じ切っていました。ある日、縁側の戸をがらっと開けたら、雨戸に張りついている母を発見。まあ、その時分にはそういう嘘もきちんとうけとめられるようになっていたので、ひとつの「物語」として私のなかに残りました。おそらく、母は私に「物語」を伝えたかったのではないかと思います。今では、本という形ではなくても「物語」は存在するんだなあと思います。そういうこともあったせいか、母は大学生だった私に『魔女の宅急便』を渡したんでしょう。母もストーリーテリングの能力があれば、こういうものを書きたかったんじゃないかなあと思います。角野さんのこの本に対しては、自分より年下の人のために、物語を紡ぎだす目線を感じましたね。ただうまいだけではなくて、成長を重ねる自分を確認する作業をきっちりしてきた方だと思うんです。しかもそれを物語につなぎ合わせ、ひとつの世界にしていくことができる人なのでは。だから、設定はファンタジーではあれ、エピソードの中で、私にもこんなことあったなあ、と感じられるんですね。こういう確認作業というのは、誰にでもできることではないですよね。キキの中にちゃんと血がかよった成長が感じられる。そもそも、フィクションというのは、ある意味、人を騙すことだとすれば、人を騙して楽しんでもらうのが好きでないと・・・。

:作者は、お母さんが早く亡くなったので、悲しみを紛らすために、いろいろなお話を作って、お友だちに話して聞かせては、欠落観を補っていたそうなのね。それで、嘘つきと言われたりもしたそうなんだけれど、そういうことが、作家になることを促したのかも知れないわね。

オカリナ:お父さんからしょっちゅう講談を聞いていたとか。

ウェンディ:1巻目を読んだときのことを懐かしく思いながら、キキも思春期になったのね、と感慨深く読みました。ケケというライバルが生活に入りこんできて、虚栄心とか張りあう気持ちが芽生えて・・・というあたりは、私も昔、意固地だなあと自分でも思いながら、どうにもならなかったときの気持ちが、ふとよみがえりました。

愁童:図書館に借りに行ったら、3巻目は36冊もあるのに全部借りられてて予約待ち。結局借りられなくて、読んでいません。2巻目を借りて読んだけど・・・。ハリ・ポタも未だに予約待ちだけど、借りてるのは大人がほとんど。直接子どもに手渡しての感触がつかめないって図書館司書が嘆いていたけど、こっちは、子ども自身が借りているんで、すごいなって思った。1巻、2巻と末広がりに読者が増えてるんじゃないの? アニメなんかの影響もあるだろうけど。

:これが英訳されたらどうかしらと考えてみたのね。訳はあるらしいけれど、出版はされていないの。このレベルでもちょっと厳しいのかな。重厚さが不足してるところなんかが・・・。まず、日本の日常現実世界がもっている骨組みはないですよね。メッセージ性が弱いのかしら。

トチ:マーガレット・マーヒーの、魔女とか英国ファンタジーのキャラクターが出てくる作品は、最初はニュージーランド独自のものが登場しないというので、ニュージーランドの出版社では出してもらえなかったのね。それがニューヨークで出したら大評判になり、たちまちインターナショナルな作家になったのよね。まあ、同じ英語圏なので、日本の作品を海外に紹介するのとは少し事情が違うかもしれないけれど。

オカリナ:日本の児童文学で外国で紹介されているものといったら、何があるのかな。『夏の庭』(湯元香樹実、ベネッセ)、『13歳の夏』(乙骨淑子、理論社)、末吉暁子、吉本ばなな、村上春樹、マンガ・・・、と見てくると、日本独自の世界を書いたものばかりではなくて、いわば無国籍的なものも多いわよね。うちの子は1巻目で好きになって、2巻目も読んだ。で、私が3巻目を読んでいたら、それも読みたがったの。日本的とか無国籍的だとかに関係なく、やっぱりそれだけの魅力があるんだと思う。何でもおもしろがる子じゃないのに。生活臭があったほうがいいのか、ないほうがいいのかは、いちがいに言えないんじゃないかな。

愁童:ハリー・ポッター現象を思うと、この本が読まれていることに、ホッとするね。もしかしたら意識して日本の生活臭をはずしたところで展開しているのかなあ。でも、これの1巻目が出た時は、とても新鮮な感じがしたね。

紙魚:キキはたしかにとてもいい子として描かれていて、今の世の中にはいない子かもしれない。それでも今の子も読みたくなるお話だとすれば、つまり純粋に楽しむために読んでいるとすれば、それもいいことだとは思いますが。

愁童:それだけ今の子どもたちの実生活が大変なんでしょう。大変なときは、角田光代さんの『学校の青空』(河出書房新社)のような陰々滅々としたのは、読みたくないだろうしねえ。

(2001年04月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ティーパーティーの謎

カニグズバーグ『ティーパーティーの謎』
『ティーパーティーの謎』
E.L.カニグズバーグ/作 小島希里/訳
岩波書店
2000-06

オカリナ:この本はどうも読んでらいれなくて、途中で放り投げたくなりましたね。出版されてすぐ読みかけて放りだし、もう1度挑戦して放りだし、今回みんなで読もうということになって、やっとのことで最後まで読みました。まず、最初に「博学競技会」という言葉で、えっと思ったの。どうしてこんな訳語にするのかな? 物知りコンテストとか、物知りコンクールでいいじゃない。もともと物語の構造が複雑だから、さらっとは読めないんだとは思うんだけど、この翻訳では、おもしろさがまったく伝わってない。ニューベリー賞を獲得した作品とはとても思えなかった。原文は、もっとおもしろいのかもしれないね。

ねむりねずみ:前から気になっていた本で、原文を読みたいなとは思っていました。やっぱりカニグズバーグだし。訳に関する要素を除くと、ノアにしてもナディアにしても、出てくるキャラクターはやっぱりカニグズバーグという感じ。都会的でセンスもあって、子どものキャラクター作りはとってもおもしろいと思った。 でも、訳がいまいちなんですよね。最初のノアのところで、「実は」「実は」のくりかえしにうんざりしてしまった。ノアの口癖なんだろうけど、もうちょっとなんとかならないかなって気になってしまって。短編集『ほんとうはひとつの話』みたいなのかな、と思って読んでいくと、うねうねとつながっていくスタイルだったので、途中でへえっと思い、最後の娘さんのあとがきを読んで納得しました。やっぱりうまいなと思ったし、著者の冒険心みたいなのがおもしろかった。でも、訳には悩まされました。p233のロープの輪っかが出てくるところなんか、どういう状況なのかよくわからなかった。凝った構成なのに、ディテールがきちんと伝わってこなくて、途中でやたらとひっかかった。

オカリナ:身体障害者の先生が出てくるじゃない。この先生像がいまいち見えてこないのよね。やっぱり訳のせいなのかな。うまく訳せば、もっと人物像がうかびあがるはずだと思うんだけど。先生の人柄がうかびあがらないから、この「競技会」に関しても、ただ知識を競わせている嫌な先生のようにしか思えなくて、魅力が伝わらなかった。

ねむりねずみ:『エリコの丘から』(カニグズバーグ 岩波書店)にも似ている感じがしました。物語全体が謎めいているところなんかが。何度かあっちこっちひっくりかえして、やっと全体の話がつながったんだけど、本当は1度でつながらなくちゃいけない。シンさんが時々亡霊みたいに出てきて先生と会話しているところなんかが、よくわからなかった。それと、翻訳がなぜこのタイトルになったかもわからない。p13の、弟のジョイが「祖父母のところに・・・行かされた」っていうくだりも、きっと原書で作者はいろいろ考えて言葉を探しているだろうに、訳が荒っぽい感じ。

:私も、わりと何でも普段は義務感で読みとおすのに、途中で挫折しちゃった。翻訳のせいだとは思わなかったんだけど。

トチ:これって、4人の子どもの話と1人の大人の話が、それぞれ色の違う糸のようにからまって、ついには美しいタペストリーを織り上げていく・・・そういう構成の物語よね。ところが、訳のせいでそれぞれの糸の色分けができていない。だから、さっぱりタペストリーが見えてこない。本当に残念なできあがりになっている。それから、「ジャック・スプラットは脂身がだめ、奥さんは赤身がだめ・・・」というの、有名なマザーグースの唄よね。訳は「童話」となってるけど、原文でも「童話」とは書いてないんじゃないかしら。それから、マーガレットのトレーナーの色が「青緑でとても派手」というようなことを書いているんだけれど、「青緑」だったら日本ではちっとも派手な色じゃないから、「どうしてなの?」と思ってしまった。きっと原文はturquoiseとなっているのでは? ターコイズは日本の辞書では確かに「青緑」となっているけれど、けっして「青緑」ではない。トルコ石の青だから、空色や水色に近い色よね。これなら派手といってもおかしくはない。重箱の隅をつつくようだけど、そういう細かいところが気になりだすと、物語の世界に浸れなくなるのよね。

オカリナ:筋でどんどんひっぱっていく話ならともかく、こういう凝った構成になっている作品は、翻訳には特に気をつけたいわね。

トチ:物語のほうでは、カニグズバーグって、どうしてこんなに頭のいい子が好きなんだろうと思ってしまった。知力で大人と対等にわたりあえて、しかも意志がしっかりしている。こういうのも一種のアメリカン・ヒーローなのかしら。私は、黒板にいたずら書きするハムみたいな子のほうに共感をおぼえるけど。

オカリナ:ハムという子は、物語の中ではあっさり切り捨てられてるのよね。

ウェンディ:「博学競技会」で華々しい勝利をおさめつつあるところ、そろそろ終わるのかなあと思うのに、次々と7、8年生に勝ち進んでいくのは、冗長な気もしましたね。訳文が読みにくいのは私だけかと思ってました。カニグズバーグだし。構成的には興味深く読んで、読み終わってから娘さんの解説でモーツァルトの構成を取り込んだ、と知って、なるほど、と思いました。4つの短篇小説といってもいいようなプロットが、最後に一つのうねりに収束していくところが、もっとうまく描かれていれば、もっとおもしろかっただろうな。でも、これも訳の問題なのかもしれませんね。これだけあれもこれもと要素を盛り込みながら、破綻なくまとめあげられるのは、さすがにうまい人だなと思いましたね。アリスが象徴的に使われていたりする点も、親しみがわくし。ただ、訳は、英語が苦手な私でも、原語が想像できてしまうようなところがある。特に、プロットごとにあえて語り手を替えることによって、織り成す物語だと思うので、やっぱり訳でも語り口をかえてほしかった。ただ、昔だったら何とか日本語にしていただろう言葉でも、今はあえてカタカナのままでいいんだなと再確認できる部分もあって、翻訳の仕方も変わってきたんだな、と参考になりました。

愁童:ぼくも読みにくくて挫折寸前だった。カニグズバーグは大好きなんで、自分の感性を責めてたんだけど、皆さんの翻訳論を聞いてて溜飲が下がりました。最初の結婚式の模様も、どたばた調で、饒舌な割りにわかりにくい。あそこを抜け出るのにエライ苦労しちゃった。

紙魚:この本って、対象が小学5、6年以上となってますよね。その年齢ではもちろんですが、その年代より少しは読解力はがついたのではないかと思う今の私が読んでも、読みにくかったです。構成を把握しながら読むって相当の力を要すると思うんです。やっぱり自分におきかえてもそうですが、子どものときって、大局的にとらえるのって不得手でした。そのかわり細部には目を光らせてるんですけど。小学生の自分だったら、この構成が「モーツァルトの交響曲」と言われてもよくわからなかったと思います。でも、もっと読みやすくて、その組曲みたいな構成がわかれば、読書のおもしろさをもっと味わえて、読書を広げるきっかけになるだろうに。これを読んだゆえに、ほかの本へとの興味もなくなってしまうとしたら、とっても残念。これだけおしゃれな構成のおもしろさを、ぜひ子どもにも知ってもらいたかったな、とは思います。細部だけでなく、大枠の構成がおもしろいなんて感じ方をしてもらえたらいいのに。私が編集を手がけるときは、そうなってもらえるように、ぜひ気をつけたいと思います。こういうのって、わからないところがわかったときがすごくおもしろくて、新しいステージを知ったように世界が広がるから。

トチ:こういう構成の物語は、道しるべというか、キーになる言葉がとても重要だと思うの。それがうまく訳されていなかったり、間違ったりしていたら物語そのものも理解できなくなってしまうと思うわ。

紙魚:うーん、モーツァルトの曲だって、技量があって曲を理解しているピアニストが弾いてこそですよね。

ウェンディ:まず、どこにメロディラインが隠れているかがわからないと、弾きこなせませんものね。

オカリナ:翻訳者が伏線を伏線と意識していないと、読者にも伝わらないから、難しいですよね。

トチ:会話の部分でもノアとイーサンが区別できない。二人の性格の違いも見えてこないわ。

愁童:カタカナで「キョウイクシャ」と書いて、作者がこめた皮肉っぽさを、 今の子どもたちに伝えられるのかな。訳者は、本当にカニグズバーグの言葉を伝えてくれてるのかなっていう不安を感じたな。 『Tバック戦争』(カニグズバーグ)なんかは、実にいいなって思ったのに。

オカリナ:『Tバック戦争』は筋があって、わかりやすかったんじゃない。それでも翻訳はひっかかったけど。そういう意味では、『ティーパーティーの謎』はもっと翻訳が難しい作品ね。

ねむりねずみ:原文の英語はきっとこういうふうに書いてたんだろうなと思わせるところが多々あって、英語にひっぱられてる感じ。英語だと通る言い回しでも、日本語になると変だったりする。

オカリナ:岩波はせっかくカニグズバーグの秀作は全部出そうとしてくれているのだから、もっとていねいに本をつくってほしいな。お願いしますよ、ほんとに。

(2001年04月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


肩胛骨は翼のなごり

デイヴィッド・アーモンド『肩胛骨は翼のなごり』
『肩胛骨は翼のなごり』
デイヴィッド・アーモンド/作 山田順子/訳
東京創元社
2000.09

オカリナ:おもしろかったけど、文句が2つあるのね。まず、表紙が内容と全然違うでしょ。どういう人に読ませたいのかわからない! もう1つは題名。売れるとも思えないし、お洒落とも思えない。それに、この本の出し方は、子どもを読者対象にはしてないわよね。原書の対象は9〜12歳なんだけど、邦訳にはルビもないし。私は、子どもにも読める形で出してもいい本じゃないかと思うんだけどな。内容的には、スケリグは、ホームレスのイメージよね。しかも、死んだ動物を食べ、嫌な臭いがする。「メルヘンチックな」童話が児童文学だと思っている人にはショックだろうし、そういうのと対極にある話。物語は、ウィリアム・ブレイクを下敷きにしてて、ブレイクの詩が好きな隣の女の子の存在がおもしろかった。学校へ行かないんだけど、堂々としていて、イギリスだったらこういう女の子いそうな気がする。主人公の男の子は、引っ越してきたばかりで、妹が死にかけていて、親もそっちに一所懸命になっているから、不安定に揺れている。それで、精神的に日常とは違うところへ行きかけているところを、この女の子が引っ張ってくれる。普段のサッカーや学校生活では見えないものをこの少年が感知していくプロセスが、うまく書けていると思いましたね。

愁童:おもしろかった、すごく。表紙と訳の最初の部分はひっかかったけどね。訳文はおもしろくないなあと思いながら読んでいった。本作りにも作品世界を正確に伝えようというような意欲は感じられないしね。でも原作の力が、そんなものふっとばして輝いていたと思う。スケリグは、子どものときは見えたけど、大人になったら見えなくなったものの象徴かな。赤ちゃんが死にそうになったとき、母親にも見えたという描き方は、イメージがふくらむね。ここまで読んできた甲斐があった、うまい! と 思っちゃた。ところが、次の日に隣の女の子と見にいくと、スケリグが戻ってきていて、それからおもむろに子どもたちの前から居なくなるってところは、ちょっとね。戻ってこないほうがよかった。その方が、 鮮やかなイメージを残してくれると思うんだよね。吐き出したものが臭いといったようなディテールが、きちんと描かれていて、雰囲気が伝わってくるので、引きずられる。そこはうまいと思った。それにしても、訳書の本作りには腹が立ったなあ。

トチ:この作家は私の大好きな作家。「スケリグ」という原題のこの作品も、テーマといい、文学的な香気といい、英国の文学史上に残る作品だと思う。日本でも外国でも、「襤褸の人」と「聖者」を結びつけて描くということが昔からあるけれど、この作品ではそれを「ホームレス」と「天使」にして描き、その汚くて清らかな、力があって無力な存在が、主人公やその妹を救うという設定になっている。特に、それが児童文学という形であらわれているのが、素晴らしい。なのに、日本の出版社は3つの点でこの素晴らしい作品を傷つけているのよね。1つめは、表紙。私の知っている若い人は、本屋の書棚からとりだして表紙を見たとたんギョッとなって、また棚に戻してしまったんですって。まるで、ポルノグラフィもどきの表紙で、内容を裏切っている。2つめは、タイトル。3つめは、カーネギー賞をとった児童文学なのに、子どもに手渡そうとしていないこと。大人の本の出版社がこうやって海外の素晴らしい本をさらっていって、大人の書棚に並べてしまうというのは、本当に残念だと思うわ。この作家の作品は、これからもこの出版社で出すという話だけど、惜しいなと思う。版権というのは買ったからといって、その出版社が煮るなり焼くなり勝手にしていいというものではない。その作品を最良の形で日本の読者に送るという義務があると思うんだけど。

ねむりねずみ:ネズミを食べたたりする汚いイメージと、聖なるもののイメージが一緒になっているところが大切なのにね。私は、訳文が完全に子どもを捨てているのがすごく嫌だった。原文はとても平易なのに、なぜこうするかなあっていう感じ。これじゃあ、子どもはわからない。地の文だって、子どもが語ってるはずなのに、こんな表現、使わないと思うところがたくさんあった。凝りすぎ。ともかく、はじめから大人だけをターゲットにした本にしないでほしい。原作者は、9〜12歳の子に送りたいと思って書いているのだから。でなければ、原書も大人向けの文体にしているはず。それに、子どもなればこその読み方ができるはずで、大人になってから読むのとは違うはずだと思う。そういう点で、ものすごく腹がたつ。原文を読んでいたので、あれ、これって誤訳じゃない?っていうところ(p3のI couldn’t have been more wrong.「それよりひどいことがあるなんて」など)が気になってしまった。訳によって、受け取る作品のイメージが原文と変わってくるから、翻訳って怖いなって思った。1章の最後だったかしら、The baby came too early.「そして赤ちゃんも早く生まれた」ってあるけれど、早く生まれすぎたという感じではないのかしら。

オカリナ:赤ちゃんは臨月で生まれないと、それだけで大変なわけだから、私は「早く生まれた」でもいいと思うけど。

愁童:だいたい、「旨し糧」なんて言わないでしょ。翻訳者のセンスが古くない?

トチ:原作者だって、子どもの本だと意識して書いたと言っているのに。

愁童:「なんでこんなところに越してきちゃったんだろう」とお母さんが思うところ。納得の上のはずだったんじゃないかと思ったけど、確かに、一生懸命そうじしたために早く生まれちゃったという前提があれば、わかるよね。読んだときは、よくわからなかった。

ねむりねずみ:スケリグが好物を中華料理のメニュー番号でいうところも巧いですよね。現代イギリスの生活の雰囲気も伝わってくるし。

オカリナ:スケリグは現代の「星の王子様」なんだなと思いましたね。きれいでもないし、かわいくもないところがすごいじゃない。

愁童:スケリグのことを汚いなと思いながらも、読者が最後までついていけちゃう筆力があるよね。フィリップ・プルマンの『黄金の羅針盤』(新潮社)にエンゼルが出てくるよね。あのイメージに通じるものがある。文化のつながり、ネイティブでないと書けないものという気がしたね。

ねむりねずみ:むこうでは、天使にもいろいろあって、羽が6枚で目がついてたりするのもある。そういう日本とは違うイメージの広がりがあるから。

オカリナ:天使にも階級があるしね。

愁童:日本だとこういう世界を書こうとすれば、廃屋で暮らす少年少女は出てこないよねえ。

オカリナ:今の日本には、スケリグがいてもおかしくないようなスペースがなかなかないけど、イギリスにはまだあるんじゃない?

ねむりねずみ:イギリスは人口が分散しているので、そういうところも残っているんじゃないかなあ。

オカリナ:日本でも、私が小さいときは近所に得体の知れない不思議な人が居たわよ。軒を借りて小屋をつくって住んでいたりするの。そういう人を見ると、いろいろ想像したものだったけど、今は「不思議を感じさせてくれる人」は隔離されちゃっているでしょ。イギリスには移民もふくめて「変わった人」はたくさんいるわよね。学校行かないで平気な人もいるし。日本のような、みんなが「並み」の画一的な社会では、日常的なファンタジーは生まれにくいのかもしれないな。

愁童:ぼくも、集団疎開先で経験してるね。得体の知れないおじさんがいて、村人がそれなりに存在を認めていて、下肥汲み専門みたいな仕事をやってるんだけど、仕事がないと、いつも共同温泉場にボーっと入ってるんだよね。顔だけがお湯の上にプカプカ浮かんでるみたいな感じでね。ぼくら子どもも、そのおじさんとよくいっしょに入ったよ。なんか不思議だったね。

ねむりねずみ:画一社会は、そこにいることで、ぞわぞわっとする部分を感じる人、っていうのを、全部排除しちゃうのよね。

紙魚:これ、表紙はもちろん悪いんだけれども、私にとってはいい経験になりました。編集者の役割というものを考えられたからです。入社したての頃、書店のお手伝いをさせていただいたことがあるんですが、毎朝、その日の新刊が届くと、店長が中身を見ずに、店に置く本と置かない本をふりわけていくんです。店長は、表紙だけをぱっと見て瞬時に判断していくんですよ。わー、待って、その本おもしろそうなのに! なんてことがよくありました。本を選ぶ理由って、いろいろあるじゃないですか。内容がいいってことはもちろん、ほかにも、手ざわりがいいとか、デザインがいいとか、気にいっている書店で薦められていたからとか。でも、やっぱり表紙って大事なんだな、本の顔なんだなって実感しました。今回、内容はいいのに、表紙がよくないこの本を見たことで、本づくりの一端を担う者として、できるだけその本のよさを伝える努力は惜しみたくないと痛烈に感じました。作品を好きになり、この世界を理解しようと努めて、できるだけいい表紙を作ろうと。こんな本になっちゃうこともあるのだったら、逆にそれだけがんばれる部分もあるんだなと思ったんです。

オカリナ:私は、とにかく目をひく表紙にして本屋に置いてもらおうとしてるのかな、とも思ったんだけど、表紙に引かれて買った人は逆に失望するでしょ。売れちゃえばいいって思ってるのかな?

トチ:そういう版元だとしたら、版権を買うのが許せないわよね。

オカリナ:表紙や書名が中身と合っていないいう意味では、今のところ今年いちばんギャップの大きい作品でしょうか?

(2001年04月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


2001年04月 テーマ:受賞作

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『2001年04月 テーマ:受賞作』
日付 2001年4月26日
参加者 愁童、ねむりねずみ、オカリナ、トチ、裕、ウェンディ、紙魚
テーマ 受賞作

読んだ本:

角野栄子『魔女の宅急便その3』
『魔女の宅急便その3〜キキともうひとりの魔女』
角野栄子/作 佐竹美保/画
福音館書店
2000.10

魔女のキキがコリコの町に住むようになって、4回目の春がめぐってきました。キキは16歳になりました。そのもとへケケという12歳の女の子が転がりこんできます。ケケは不思議な力をつかって、宅急便の仕事を横取りしたり、デートの邪魔をしたりして、キキをとまどわせます。自由奔放で小生意気なケケにふりまわされながらもキキは少しずつ変わっていきます。ふたりが反発しあいながらもお互いにとってたいせつなものをもとめて成長していく姿が描かれています。
カニグズバーグ『ティーパーティーの謎』
『ティーパーティーの謎』
原題:THE VIEW FROM SATURDAY by E.L. Konigsburg, 1996(アメリカ)
E.L.カニグズバーグ/作 小島希里/訳
岩波書店
2000-06

<版元語録>6年生のノア、ナディア、イーサン、ジュリアンは大の仲良し。複雑な家庭の事情を抱えている子どもたちの生活を描きながら、どうやって4人が親友になったか、その謎を語る。ニューベリー賞受賞作品。
デイヴィッド・アーモンド『肩胛骨は翼のなごり』
『肩胛骨は翼のなごり』
原題:SKELLIG by David Almond, 1998(イギリス)
デイヴィッド・アーモンド/作 山田順子/訳
東京創元社
2000.09

<版元語録>古びたガレージの茶箱のうしろの暗い陰に、僕は不可思議な生き物をみつけた。青蠅の死骸にまみれ、蜘蛛の巣だらけの彼は誰、…それとも、なに?夜明けの闇と光が繊細に溶けあう、どこにもない物語。カーネギー賞・ウィットブレッド賞受賞作。

(さらに…)

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すいがらとバラと

レルン『すいがらとバラと』
『すいがらとバラと』
ヴィヴェッカ・レルン/作 イェシカ・パルムグレン/画 菱木晃子/訳
偕成社
1997.05

ブラックペッパー:えーっと、この本は,あまり言うことがないなあ。さらっと読めたけど、そんなにすばらしくよくはなかったかな。えひめ丸の事故でも感じたんですが、死に対する考え方が、欧米とアジアでは違うんでしょうか。死生観の違いを感じました。好感をもてたのは,最後の3場面。このあたりにさしかかったとき、うるっとして涙が3粒ほどこぼれました。今、日本ではやっているのは、どーんと泣かせる物語ですよね。でもこの本はそうではなくて、涙3粒で、そこはよかった。ぐっときたのは、p59の「もしもジミーが生まれてくることがなく、わたしとおなじ時を生きることがなかったら」というところ。こう言われてなぐさめられる読者っていると思う。

すあま:北欧の作家だなという感じが非常にしましたね。北欧の子どもの本で離婚や死を扱ったものは、ちょっとわれわれとは感覚が違うように感じますね。装丁的には絵本ですけど、読み物としてはもっと上の年齢を対象にしてますね。p36で、「ジミーが死んだらさ、あいつの猫おれにくれない?」と言われて、パパがうれしそうな顔をしたという部分は、わかるようなわからないような。まだジミー死んでないときに、こういわれてうれしく思うっていうのは、どういう感覚なんでしょう? おもしろい部分は、最後に家族が別々にいやしの旅にでかけるところ。ママが、パパやジミーと違う旅でリハビリをするというのは、おもしろい。それぞれ立ち直り方が違うのは、興味深いです。まあ、全体的にはおもしろかったかな。

スズキ:命のことを語るときにはいろいろな方法があるけれど、そのなかでもやさしく語りかけてくる本だった。私も「ジミーが死んだらさ」というところではちょっとひっかかったので、誤訳ではないかとも思ったし、きっとトムに対してわかったよという意味でスマイルしたのではないかと勝手に解釈しました。欧米の人は、やっぱり考え方が違うのかな。前に、自分の肉親を亡くされた作家が、死について書いたとき、こういうつくりではなく、200ページ近い本になったことがあります。それだけ、思いがいろいろあって、表現したいことも、たくさんのページが必要だったのだと思います。命を語る時に、「どんな本がいちばん良い」と決めつけることはできませんが、人間にとって、とても大切なテーマなので、自分にとってどんな本がいちばん語りかけるものか、いろんな本を読んでいきたいと思いました。

ねむりねずみ:私はわりと読みにくかったです。なぜか最初からひっかかりっぱなし。死を扱うと、雰囲気が重たくなりがちで、回復していく過程を延々と書いていったりすることがあるけれど、この本は違うなって思いました。なんとなくユーモラスなところがあって、たとえばp35のガールフレンドのところなんかが、おもしろかった。対象年齢がどのぐらいなのかなあ、というのが疑問でした。文章はもう少しひっかからないとよかったなあって思いました。「もう死ぬはずなのに、」といううわさ話の部分は、読んでいてぎょっとしてしまいました。実際にこんなこというかなあ?って。言ったのが看護婦さんだったとしたら、怖いなあって。むしろ、ジミーが死んだら猫をちょうだいと言われてパパがほほえむ話よりも非現実的な感じがしました。スウェーデンでは、血縁とは関係なく養子を受けいれることがわりと多く行われているみたいなんですが、家族もとても大切にしているんですよね。家族のそれぞれが、弟を看取り、死んだ人の残した空白を埋めていこうとするのがよく描かれていました。

チョイ:この本が出た1997年というのは、死などの、喪失感からの回復がテーマとなった書籍が多く出ていた頃だと思います。私もちょうどこの頃、死に関係する本を何冊も読んでいたんですが、そういったものの中では、この本は印象が薄いほうですね。肉親の喪失感の表現は、むしろ『はいけい女王様、弟を助けてください』の方が、ディテールから物語を作りだしていて、達成されていると思います。こちらの方は、もうひとつ弟のキャラクターが立ち上がっていないんですね。エピソードの選び方が、あまりうまくなくて、例えば弟が周囲を「明るくしてくれる」とか、ただひとことで説明しているんですが、それを具体的にイメージさせてくれるエピソードがないんです。これでは、ジミーのキャラが伝わってこない。作品の中に読者が入りにくい。許すことが上手な弟であれば、それをあらわすエピソードを描くべき。私だったら出版しない本ですね。絵もいいとは思えない。ちょっと中途半端な印象です。

オカリナ:おそらく作者は、弟が死んだ後もずっと続いていく日常的な現実と弟の死とを対比させて描いているんでしょうね。自分がすわっている病院のベンチの前には看護婦さんが吸ったタバコの吸い殻がたくさん落ちているとか、看護婦さんがナースシューズでなくてプーマとかコンバースなんかをはいてて、それで吸い殻をもみ消していくんだとか、そういう日常の具体的な情景が書かれているところはおもしろかったんだけど、それに比べて肝腎の弟の人となりはなかなか浮かび上がってこない。最後にまとめて抽象的に描かれているだけだと、どうも伝わってこないんだなあ。

トチ:うーん、私もこの本に関しては言ういことがないです。いやな本だとか、悪い本だとは思わないんですけど。死をシンプルに描いているという点では、好感がもてる。絵が単にきれいな絵ではないのもいいとは思う。でも、弟が最初から天使になっちゃっているのね。猫のエピソードなんかもそう。さっき、「ジミーが死んだらさ、あいつの猫おれにくれない?」と言われて喜ぶ気持ちがわからないって話が出たたけど、私はお父さんの気持ち、わかるような気がする。自分の子どもの命が、ほかの小さい子どもににつながっていくように感じるんじゃないかしら。そういうところはおもしろい。あと、主人公と父親だけが癒しの旅に出るのもおもしろい。短いセンテンスで作者の思いとか、ものの見方がずばっと出ている。それから『すいがらとバラと』というタイトルは、おそらく原文どおりなんでしょうけど、何か特別な意味があるんでしょうかね。汚い現実と、バラの匂いのように美しくなった弟という意味なのかとか、弟を思いおこした、バラの匂いがする数分間という意味なのかとか、いろいろ考えてしまったわ。

オカリナ:「あいつの猫おれにくれない?」って言ったのは、小さい子じゃなくて大きい子だから、お父さんは息子の命がつながっていくと思ってほほえんだわけじゃないのでは?

ウェンディ:今回の選書係は私なんですけど、先に『ぶらんこ乗り』が決まっていたので、それに合わせて何か翻訳ものから選ぼうとして、七転八倒しました。前に課題になった『イングリッシュ・ローズの庭で』が、姉妹というテーマだったので、今回は、姉から見た弟という視点を考えてみたいなあ、ということも、1つのポイントとして探しました。すでに死んでしまった弟を回想する、その振り返り方が、重なるというか、比べて読めるかなと思って選んだんです。みなさんがおっしゃってるように、私も猫のエピソードにはひっかかりました。大切な人が死ぬ、しかも、若い子どもが死んでしまうということの受け止め方が、日本と違うんじゃないかと考えました。お父さんは、その子が大切にしている猫をほしいと言ってくれたことが、うれしかったのではないかと。幼い子が死ぬというのは、もちろん悲しいことだけど、それを静かに受けとめて、乗り越えていくというあたりを、みなさんがどう思われるかを、今回うかがってみたいと思いました。

オカリナ:でも、たとえば『テラビシアにかける橋』(キャサリン・パターソン著 偕成社)だと、娘が死んだとき、娘の愛犬は親が大事に飼うからって言って、娘の親友だった主人公には渡さないでしょ。外国では死生観が違うって、あんまり簡単には言えないと思うんだけど。

紙魚:私も、読んでも何だかよくわからなかったというのが本音です。死がテーマになっているにもかかわらず、胸に突きささることもなく読みとおしてしまいました。それはどうしてなのか考えてみたのですが、もしかしたら自分に大切な人を亡くすという経験がないからかとも思ったんです。ただ、自分に同じような体験がなくても、深く突きささってくる本というのもあるんですよね。でも、自分に経験がないとわからない、しかも語れないということもあります。たとえば、配偶者を亡くされた人を前にして、経験もないのに死について語るのは難しいです。この本には、そういう距離を感じてしまいました。作者が家族の死を乗り越えようとしている姿勢はわかるんですが、心には伝わりにくかった。あっ、それから、挿絵は作家と別の人によるものだけれど、ぴんとこなかったです。

もぷしー:タイトルと中身がうまく結びつかない本ですよね。これは、文化の違いからくるものなんでしょうか。モチーフ自体が状況を表しているだけであって、タイトルになるほどではないんじゃないかな。これは疑問のまま残りました。北欧らしいと思ったのは、絵もですね。ちょっとひっかいて書いただけみたいな。この本としては、成功していると思います。そっとしておいてくれそうな雰囲気が、よかったです。具体的な部分と、抽象的な部分の開きが大きいのが気になりました。もっと話者のテンポがあれば、ひっぱっていかれるんだろうけど、この人の回想録、ついていくのが難しかったです。それから、日本の場合は、死を乗り越えたところで回想するスタイルが多いんですが、この本はこれから乗り越えようとしている時点で書いているところがおもしろいですね。

愁童:ぼくは、前に読んでたんだけど、ウルフ・スタルクの作品と勘違いしていた。好感度の高い本だと思ってたんだけど、この会に出るんで今回読んでみたら、それほどでもなかった。好感度が高い印象は、訳のおかげじゃないかな。同じ訳者の文体でスタルクといっしょに読んじゃったので好感を持ってしまったんだよね。この本はセンチメンタルだし、スタルクほど良くはなかった。どうも訳で得してる感じ。訳者の体質もあるから、こういうのってどう考えたらいいんだろうか。

トチ:私は昔から翻訳者はピアニストみたいなものだと思ってるの。ショパンのおなじ曲を弾いても、ルビンシュタインとサンソン・フランソワでは、まるっきり違うでしょう。楽譜は同じなのに。後で、プーシキンか誰かが全く同じことを言っているって聞いたけれど。だから、あまり良くない作品なのに、訳文でとても良い作品になるってこともあるし、良い作品を訳でめちゃめちゃにしてしまうこともある。また、誰が聞いても素敵な曲は、下手な人が弾いても魅力的に聞こえるのと同じに、素晴らしい物語は、稚拙な訳でも素晴らしさが伝わるってこともあるわね。たしかにこの本の場合は訳者に助けられていると思う。

オカリナ:スタルクの作品と似てるっていうことなんだけど、この本の場合、原作者の力量不足が有能な翻訳者によってカバーされて、スタルクに近い雰囲気になってきてるってことなのでは?

愁童:ということは、翻訳者を選んだ編集者の力ということかな。

トチ:この本は、主人公も弟も動いてないけど、スタルクの書く人間は動いているものね。

愁童:スタルクに『おねえちゃんは天使』(ほるぷ出版)って絵本があるけど、この本、あれによく似てる。スタルクの方は死んだ姉を弟が思うんだけど、こっちは、姉が死んだ弟を偲ぶということで、女の子が主体になってるから、感傷的なトーンになるのは仕方ないのかな。でも、スタルクの方は、すごくユーモラスに書いてるだけに、かえって愛する者の喪失感みたいなものが読者にどーんと伝わってくる。

オカリナ:『おじいちゃんの口笛』(ウルフ・スタルク文 ほるぷ出版)も、死が描かれてた。スタルクは、死に至る前のおじいさんと少年の関係を、印象的なエピソードを積み重ねて描いているから、人物像がしっかり読者にも伝わる。でも、この作品は人物像を浮き上がらせるための具体的なエピソードが弱いんだと思う。

チョイ:私が、この本だったら出さないかもしれないと思ったのは、誰に向かって、何のために出すかがよくわからないから。想像できる誰かを励ますなり、何らかの新しい価値観が描かれていたりが理解できれば出せるんですけど・・・。でも、いまひとつこの本は、その点がぼんやりしているの。最後の方に、テーマが集約されているようではあるんだけど、それでも淡い。ただ、死というテーマを描くのは、本当に難しいです。スーザン・バーレイの『わすれられないおくりもの』(評論社)のように、老人の死なんかはいままでも書かれ、それなりに納得できるんだど、子どもの死みたいな理不尽な死というのは本当に難しい。どう受けとめて、子どもたちにどう伝えるかは、私にとってずっと課題です。でもこの本はその問いに回答をあたえてはくれませんでした。

トチ:人の死にそう簡単に感動してしまっていいのかって、こういう物を読むたびにいつも思うわね。

チョイ:不幸だと思っちゃったら、受けとめられなくなるんです。

もぷしー:それにしても、スタルクの本っていい印象があるので、スタルクっぽさで評価が1ポイント上がってしまうっていうのは否めない。どうもいい感じの印象だけが残るんだもの。品がいい感じ。すてきな本にしあがっているから、実質よりも評価が高くなりがち。哲学的なのかなあ。

愁童:いやー、哲学はないのかもしれない。地面に落ちてる吸い殻の数をかぞえて、「97本! アイスは、こんなにたべられないや」と弟が言ったりするとこはうまいんだから、それでいいんじゃないの。

(2001年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


はいけい女王様、弟を助けてください

モーリス・グライツマン『はいけい女王様、弟を助けてください』
『はいけい女王様、弟を助けてください』
モーリス・グライツマン/作 唐沢則幸/訳 横山ふさ子/絵
徳間書店
1998.03

もぷしー:私はこの作品のほうが、素直についていけました。対象年齢に対して、等身大で描かれていますよね。子どもが読んでも共感しやすいし、自分にも何かできるんじゃないか、という誰でもがもつ疑問に答えるというか、提案し、勇気づけてくれる。子ども向けに死を扱っているものとして、やさしく、そっと触るような感じの作品が多いのに対して、この本は、焦りの中でアクティブに描かれていて、おもしろいと感じました。ものがすべて具体的で、誰が見ても「それはないでしょう」、というジョークになる部分は子どもにはジョークとして伝わり、泣きたくなっちゃうところは本当にそうだと思わせるところが、うまいと思いました。エイズとか同性愛者の問題も盛り込みつつ、といって声を大にするのでなく、身近な出来事として書いている。日本では、まだあまり行われていないことだと思いました。結末ですが、弟がまだ生きているというのが、いい終わり方ですね。治るわけでもなく、自分の挑戦に対する応えという意味でよくできていると思った。

紙魚:物語を読んでいくのはとてもおもしろかったです。ただ、今の日本の子どもたちだったら、こういった状況に置かれたとき、どんな物語になるんだろうと考えてしまいました。女王ではなくて、どこにこういう手紙を書く対象をもっているのかな。昔だったら、神様とかお地蔵様に願いごとをしましたよね。でも、今の子どもたちには当てはめにくい。そういう対象が、今はどういうところにあるのかな? それが今の子どもを語る鍵にもなりうると思うんです。利発な子どもなら政治家かもしれないし、もしかしたら芸能人、モーニング娘なんていうのがそういう存在かもしれない。それもあながち笑い話ではないと思うんですよ。日本の子どもたちは、芸能人にものすごく力を見出している。自然の力ではなく、即物的なテレビの力にかなり頼っていると思うんですね。この主人公が、弟の死に直面しても、最初はまず親に対して自分のアピールをしていくところがおもしろかったです。自分の弟が死ぬんだとわかったとしたら、大人だったらただただ落ちこんで、それが物語になっていくのでしょう。だけどこの本の主人公は、そこが出発点となって自分がアクティブになっていくところに好感がもてました。

ウェンディ:初めて読んだときは、電車の中でちょっと読んだら涙ぐんだり吹きだしたりで、これは電車の中で読んじゃいけないな、なんて思いながら、なんてすごい作家なんだろうと、ほかの訳書もさがして読みました。そのときの感動は、前のお二人とも似てるんですが、普通の兄弟喧嘩からはじまって弟の病気を知り、徐々に弟を助けたいという情熱が昂じていく構成とか、両親をはじめ大人がよく描けている点とか、従兄弟やゲイのカップルとの交流を通じて、弟に会いにいこうと思うというラストまで、すばらしい作家だと喝采しましたね。でも、2回目に読んでみると、気になってくるところもあったな。確かにグライツマンはうまい作家だとは思うけど、大人に言われたことへの反応の仕方とか、狙いすぎというか、ちょっとあざとさを感じてしまった。筆がすべりすぎるんでしょうか。あと、弟が入院したら親がコリンをイギリスへ送ってしまうところ。たしかにこんな向こう見ずな子がいて、こんな状況になったら、いっそどこかへ預けてしまおうと思うかもしれない。でも、辛い目にあわせたくないという親の言葉には疑問を感じてしまった。

トチ:イギリスの友人からおもしろいよと薦められていたのに、忙しくてほったらかしておいたのね。しばらくして原書を読んだらおもしろくて、初めのうち、吹きだしてばかりいたわ。今回、日本語で読んだら、初めのほうのめちゃめちゃな行動がうるさいなと思った。原文で読んだときはそうは思わなかったのにね。内的な独白ではなくて、主人公の行動で物語を進めていくところは、児童文学だなと思いました。

オカリナ:最初の部分はドタバタ調が気になったし、こんな子実際にはいないだろうな、と思っちゃった。でも、エンターテイメント作品だと思いこんで読んでいったら、だんだんそれ以上の何かがあるということがわかってきました。日本だと、素直に直接行動に出るようなこういう子は生きられないよね。しかも、コリンは5、6歳なのかと思ったら、12歳。でも、オーストラリアの田舎だったら、12歳でもこういう子どもらしい子どもがありうるんでしょうかね。原本の表紙を見ても、この感じはエンタテイメントよね。まあ、一見してシリアスだと、暗いと思われて手にとってもらえないからかもしれないけど。

チョイ:すごくツボを心得ている作家ですよね。作りすぎの感じもあるけど・・・。コリンがルークとお茶を飲むところではじめてわーと泣くでしょ。あそこではちょっと感動しました。あと、アリステアの一家がすごくおかしい。おばさんがいちいち介入してきて。でも、日本が舞台だったら、こういう物語は成立するのかしら。日本の子どもの現実はこういうおもしろい物語が不自然になってしまうみたい。日本ではなかなかこういう物語は成立しない。これは翻訳物ならではの良さよね。クレメンツの『合言葉はフリンドル』(笹森識訳 講談社)なんかでもそう思いましたが・・・。コリンも13歳にしてはすごく幼いでしょ。日本の男の子なら、こんなことしないじゃない。オーストラリアの田舎の子、素朴ないい子って感じよね。キャラクターに救われてるというか。設定と舞台で作れる良さをしみじみ感じました。ただ、p30あたりの「うー腹ぺこだ」のあたりがわかりにくい。

オカリナ:大人の配慮が子どもにはかえってよくないのだというメッセージは伝わったんだけど、いくらエンタテイメントでも、家に鍵をかけて子どもを閉じ込めるかしらね? 全体的にはよくできてて、おもしろかったけど。

ねむりねずみ:私も、翻訳が出る前に原書で読み始めたら、おもしろくておおしろくてという感じだったな。でも、訳が出たときには少し読んで閉じてしまった。冒頭ががちゃがちゃがちゃ、どどどっていう感じで、原書で受けたイメージと違ったから。グライツマンは確かにうまいと思います。針小な物を棒大にして見せて笑わせるっていう技を持っている人だけど、ここでは、死を扱っているからか、上っ滑りに過ぎる感じをあまり受けなかった。それに、コミカルだから死を内にこもらずに書けたような気もする。シナリオライターだけあって、回転が早い、とんとんと話が展開していって、エンタテイメントとしてもおもしろいし、・・・たしかに非現実的で子どもっぽくて、発想がちょっと誇大妄想的だけど、それって実は小さい頃には誰でもそういう部分をもっていたんじゃないのかな。途中から、この子、どこで現実に着陸するんだろう、軟着陸できるのかなって気になりました。結局、一緒にいること、今を大事にすることが一番だってわかって帰っていくというラストは、納得がいってよかったな。初めて読んだとき、ゲイやエイズを扱っている扱い方を見ていて、なんか日本と違うなって思った。日本だと、やたら重たくなっちゃったり、でなければ、まるでタブーみたいにしてしまいそうな気がするんだけど、こうやって児童文学でさらりと、しかもちゃんと入れてくることができているんだって思いました。

スズキ:私も今回2回目で比較的冷静に読めたので、初めて読んだとき見えなかったことが見えてくることもありました。2回目でも、はらはら、ドキドキさせられて、やっぱりおもしろかった。イギリスに一人で行かせる、鍵をかけて閉じ込めるといった一つ一つのプロットは一瞬どうして? と思うけれど、コリンがストーリーの中にぐいぐい引っ張っていってくれる感覚が気持ちよくて、よい作品だなと改めて思いました。弟の病気や死を意識してずっと読んだあと、ラストシーンでは、感動的な兄弟の再会で締めくくられるので、生きているってすばらしいと思える作品。コリンは女王様に手紙を書いたり、会いに行ったり、それでもダメとわかると、もっとあれこれやってみる。本当に物語がどこに行っちゃうの? と著者に聞きたくなるくらい、次々行動していく。別に死や病気に限らず、やりたいことをやるためには、あんたならどうする? 肩の力を抜いてやってみようよ、という気持ちを引き出してくれるんですよね。日本の作品と比べるとすると、読者へのアプローチのスタンスとして、那須正幹の『ズッコケ三人組』と似ているかなあ。あと、大人ってあてにならないんだな、と感じた。どこの国でも同じなんだなあ、って。

すあま:この子って10歳くらいかな。『ズッコケ三人組』の主人公たちも6年生くらいだよね。でも、今あのシリース゛を楽しめる年代は小学1、2年生どまり。日本の子どもでコリンに共感できるのは? 今の12歳だと、もっとひねくれていて、無理だろうと思う。周りの人物がそれぞれにおもしろく、アリステアとテッドの二人は特にいいキャラ。下手するとドタバタして、出来事だけでおもしろく感じさせてしまいがちなだけど、そうはなっていない。それから、テッドがコリンを助けるんだけど、逆にテッドもコリンに助けられている。ラストシーンはツボにはまって、ぐっとくる。すとんとうまく落としてくれていて、読後感がよい。おもしろく最後まで読めたのが、とてもよかったな。あれっと思ったのは、弟のルークが何の病気なのか、コリンがいつのまにか知っていて、さりげなく病気に言及するところ。病名を知るというところが強調されている作品が多いのに、血を顕微鏡で見たりして気にしている場面がある割には、肩すかしを食ったような感じもあった。訳題はいいような、悪いような。「拝啓」っていうのは、今どきのEメール時代にどうなんだろう。ただ、訳書の扉絵がポストに投函してるところなので、「拝啓」がわからなくても、手紙を書いたのか、ということはわかりますよね。あと、コリンが女王様に電話しようとして、あちこち調べまくるところはおもしろかった。

ブラックペッパー:「おもしろかった」という意見が多いなか、申し上げにくいのですが、私はこの本、とっても読みにくかった。なんだかドタバタしすぎて、くたびれる感じ。トチさんが「日本語の問題」とおっしゃったのを聞いて、それもあるかもと思ったけど、なにより英国風味のギャグにのりきれなくて、物語世界に入りこむのが難しかった。たとえば、おなかをすかせたお父さんの台詞「騎手を乗せたまま馬をまるごと食えるぞ」(p30)とか、アイリスおばさんがアリステアに対してずっごく過保護にしている様子とか、塩がひとさじ多すぎる、というか、やりすぎの感あり。これって、少し前に流行ったミスター・ビーンとか「ハリー・ポッター」にも感じていて、私は「英国フレーバー」の一種だと思ってるんだけど、今回はそれがハナについてしまった。まあ、ミスター・ビーンは、その塩がききすぎてる感じや、なんとなく手放しでわっはっはと笑えないところも好きだったんだけど・・・。そんなわけで、意地悪な気持ちで読んでしまったので、訳者があとがきで書いておられるラストシーンのベストテンという説にも同感できなかった。あとちょっと不思議に思ったことがいくつかあるんだけど、コリンはqueenのもう一つの意味がわからなかったでしょ。ほら、テッドの家に行って表札に「女王様」なんて書いてある、ヘンだな、っていう場面。私たちでもqueenのもう一つの意味を知っているのに、英語圏の子がそれを知らないなんて、あるのかな? 日本でも、小さい子は知らないと思うけど。オーストラリアでは、そっちの意味は流通してないの?

ねむりねずみ:テッドの家に行ったときに、クィーンズって複数で書いてあるわけだから、これが女王様じゃないってヒントは転がってるんだけど、本人の頭の中では結びついていないんじゃないかな。

オカリナ:この子は12歳という設定だけど、日本だったら情報がありすぎるから、女王とか天皇に手紙書いたってしょうがないって思っちゃうだろうし、英国一の名医を自国に連れ帰るなんてできっこないと行動する前からあきらめちゃうだろうし、物語として成立しないだろうな。イギリスでも無理があると思うけど・・・。女王に手紙を書こうなんて、普通はイギリスの子でも思わないだろうな。顕微鏡のシーンもそうだけど。

チョイ:でも、同じくオーストラリアの田舎の話でも、全然違うものもあるんですよ。

ねむりねずみ:一つのこと夢中になると、他のことは見えなくなってしまう子なんですよね。

ブラックペッパー:私は、この子はノーブルな家庭の子で、queenにヘンな意味はありません、と言っちゃうような家庭の子なのかなあ、などど、いろいろなことを考えてしまいました。

トチ:でも、そういうのって、関心がなければ、全然気づかないものでしょう。頭に入ってこないものなのでは?

ねむりねずみ:一般に子どもって、自分の関心のあるところだけを拡大鏡で見ているようなところがあるから、それで気づかなかったんじゃないかな? 女王様に手紙を書くことばかり考えてたから、それに引っ張られたのもあると思うし。

ブラックペッパー:はじめ、テッドが殴られたのも、車をパンクさせた犯人だと思われたからだと思っていたんです。でも、ウェールズ人だからというのもあったんですね。いろんな解釈ができるところなのかも。ゲイを理由に殴られたっていうのもありかもしれないけど、でもさ、ゲイだからっていきなり殴られたりするもの?

ねむりねずみ:労働者階級の過激な人たちだと、そういうこともあるみたいですよ。

ブラックペッパー:あ、あと、もう一つだけ。カエルのチョコって、どういうの? なんでカエルなんだろうって考えちゃった。物語に入りこめないと、どうもヘンなことばかり気になってしまって・・・。

愁童:おもしろいと聞いて期待して読んだんだけど、ちょっと期待外れだったかな。死を扱っているにしては、雑音がうるさすぎた。目配りのよさが、かえってわずらわしくなった。それほど意外性があるわけでもなく、あまりおもしろいとは思わなかった。導入部では弟は、まだ発病してないんだけど、最初から病気だと思って読み始めちゃった。

オカリナ:読む前から弟が死にそうになる話だとわかっちゃうのは、訳題のせいじゃない?

愁童:映画「ホームアローン」の手法とよく似てるね。主人公の設定年齢をもっと低くすればいいのに。この本、死と向き合うというより、弟の死を題材にして、兄の子どもっぽい反応や行動をおもしろおかしく読者の前に提示して引っ張るというほうに力点があるみたい。ラストもそれほど感動的じゃないしね。ゲイを夕飯に招待する設定も、作者の目配りの良さに共感は持つけど、やりすぎって感じ。

トチ:コリンは、12歳というより小学校3、4年くらいの感じね。「できすぎ」ということだけど、作者がシナリオライターでもあるということを知って、なるほどと思った。そのままテレビドラマや芝居になりそうなストーリーですもの。

ブラックペッパー:コリンのやることって、何歳の子の行動なのか、よくわからない。ばらつきがあるでしょ。ホテルで電話を借りる場面で、ドアボーイにチップを渡して・・・なんていうのは、すっごく大人っぽい行動だと思ったけど。

すあま:8歳くらいでいろいろできる方が、12歳で子どもっぽすぎるよりはいいのでは。原書出版が89年だから今から10年前だけど、10年前でもちょっとどうかな、という感じ。オーストラリアではのびのび育っているのかなあ。

チョイ:ちょっと間違うと、頭の弱い子になっちゃうのよね。

愁童:死をテーマにした作品と思って読むと、ちょっと違うしね。

チョイ:『はいけい女王さま、たすけてください』でいいのかも。

ブラックペッパー:たしかに、「弟を」が入ると、お涙ちょうだいの雰囲気になっちゃいますよね。

(2001年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ぶらんこ乗り

いしいしんじ『ぶらんこ乗り』
『ぶらんこ乗り』
いしいしんじ/作 荒井良二/絵
理論社
2001.02

スズキ:書店では、話題の本としてたくさん積みあげられていましたねえ。でも、結論から言ってしまうと、ついていけなかったです。ぶらんこにそんなに魅せられて、ぶらんこで暮らしちゃうというのもわからなかったし、雹にうたれて声が出なくなっちゃうのもわからなかった。私にはついていけない作品でした。

ウェンディ:ネット書店のbk1には、「現代のファンタジー」と評されてましたよ。

スズキ:なかでも、「ゆびのおと」という名前の犬の話がいやだったんです。「ゆびのおと」
のおなかにメッセージを書くところなんて、もうすごくいやだった。もうこうなると、よくわかんない世界です。うーん、これがファンタジーと言われたら、私にはファンタジーはわからないです。今の話題の本として手にとったので、ニュートラルに読んだつもりだけど、こんなにだめだと思った本は今までにもないです。

ねむりねずみ:出だしから、どうも文章が読みにくくくて、違和感を感じました。で、内容を楽しむというよりも、どういうつくりで物語をつくっているのかということを気にかけて読んでしまった感じです。ちょっと、『木のぼり男爵』(イタロ・カルヴィーノ著 白水社)を思わせるところがあって、なんとも荒唐無稽な設定ですね。ここはいいなあと思う表現や部分も何か所かあったけど、どうも印象がまとまらなかったです。作者は、ところどころに出てくる、弟が書いたお話の部分が書きたくてこの作品を書いたのかなって思ってみたり。最初のほうのぶらんこ乗りの夫婦の話や、p247の、死んだ人をどう自分の心の中で収めるのか収めないのかについて書いているところなどは、なかなかすてきだと思いました。ぶらんこも、中原中也のイメージなんだなって思ったから、すっと入れました。ガラスのような世界で、彼岸にいる人の話として読むにはいいとは思うけど、やっぱり個人的には好きではないな。ぐいぐいとひっぱられて読む感じではない。あんまりもやもやするんで、これはひょっとして、主人公の女の子が現実と折り合う話なんだろうかと思ってみたり。うーん、基本的には好きではないです。

チョイ:昨年、出たばかりのころ、大変好意的な批評が相次いで、楽しみに読んでみたんですが、私はおもしろさが全くわからなくて、どうしようとうろたえました。こんなに時間がかかった本も、ここんとこ珍しいです。この本を持って床に入ると、かくっと眠くなっちゃって、前に進まない。批評家が誉めるその意味すらわからなくて、とにかく皆さんのご意見が聞きたかったです。

オカリナ:私は、近くの図書館にリクエスト出してたんだけど、昨日行っても入ってなかったんです。しょうがないので、今日借りて途中まで読んで。でも、最後まで読まないとなんとも言えないな。雹のところでは、てっきり弟はここで死んじゃったのかとも思ったんだけど。文章はまあまあいいんだけど、何が書きたいのかがわからない。それでも全体のイメージや雰囲気で一つの世界が提示されていれば、それでもいいんだけど、くっきりとしたイメージがどうも浮かびあがってこない。自分の体験なり想像世界と共鳴して一つのくっきりしたイメージを持てる人もいると思うんだけど、そういう人が大勢いるとは思えない。この作品、ファンタジーって言われてるのかもしれないけど、ファンタジー世界を支える客観的なリアリティがないでしょ。たぶんファンタジーでもリアリズムでもなくて、寓話なのではないかしら。私は、子どもの本にはストーリーってとても大事だと思っているので、日常的な夢想をだらだらと書いても始まらないなあ、と思うところもあるし、子どもの本から離して考えたら、もっとおもしろい作品はたくさんあるし・・・。

ブラックペッパー:私も図書館で予約したんだけど、結局まにあわなくて、まだ読んでないんですけど、最後は弟が死んじゃうの?

一同:うーん、行方不明。

チョイ:担当者も帯に何を書いていいかわかんなかったんじゃないかな。「衝撃的に新しい初の長編小説」ってなってるけど・・・。

トチ:これはわからなかったわね。あまりにもわからなかったので、私は文学がわからないのかと不安になったくらい。明確なメッセージや、しっかりしたストーリーがない作品でも、なにか読者がついていけるような、一篇を貫く「棒のごときもの」がほしいと思う。「ぶらんこ」だから、一貫したものはいらない、ぶらぶらゆれているところに、この本の味があるんだといわれれば、それまでだけれど。この本を貫いている「棒のごときもの」が唯一あるとすれば、それは「自虐」だと思うのね。弟が作った物語のなかの「鳩玉」や、お酢をのんでサーカスに入るといった話もそう。現代の心象風景とマッチしているのかな。こういう物語をファンタジーというのか、現代文学というのか、私にはわからないけれど、ファンタジックな作品であればあるほど、現実とかけ離れたことを書くときに、読者を納得させる、ひっぱってついてこさせる力が必要なんじゃないかしら。分かる人だけついてきてくれればいいよ・・・というのは、気分が悪い。だいたい、おじいちゃんは日本人なの? 外国人なの? どうして、弟にだけ雹が当たるの? 吐き気がするほど変な声を弟が出すからといって、しゃべらないままにさせておくのを、主人公はかわいそうだと思わないの? どうして犬を外国に簡単に連れていけるの? 弟は死んでるの、生きてるの? 全部が主人公の夢想なの?
それから、表記についても気になったところが何点か。漢字とひらがなの使い分けがまず読みにくい。女の子の口調、「そうなんです、わたし」っていう標準語もへん。いかにも、東京生まれでない「男性」が、「東京の女の子の言葉」を書いたって感じ。でも、この女の子の言葉は標準語ではあっても、生き生きした本物の東京の女の子の言葉ではないわね。当たり前の話だけど、東京の言葉と標準語は似て非なるものだし、標準語というのはちっとも美しくもないし、魅力的でもない。もっと、作者自身が自由にあやつれる、魅力的な言葉で書いてくれると良かったのに。

ウェンディ:私もまさにそう思いながら読んでました。私一人わかってなかったらどうしようかと思って。とにかくわからなかった。リアリティなんてどこにもないし・・・もっとも、リアリティを求めて読んじゃいけない本なんだろうけど。弟が書いてるお話は、いかに天才少年でも、いくらなんでも幼児にはありえない概念じゃないかと思う。小学校低学年なんでしょ。ちょっと無理じゃないかな。語り手の女の子は、当時は小学生で、高校生になった時点で振り返って書いているという設定なのかな。弟を思って書いている感じじゃないと思いました。

チョイ:私もそもそも弟は初めからいなかったのかとも想像しました。主人公が過酷な現実を乗り越えるために作り上げた存在かなとも思ったりした。

ウェンディ:ああー、なるほど。寓話なんでしょうね。すべてはぶらんこが揺れているところに象徴されているのかな。ガラスのイメージと重ねあわせてて、いなくなった弟を美化しているみたい。投げ込みに、いい本に大人向けも子ども向けもない、みたいなことが書いてあったけど、大人の本とか子どもの本とか分けない、というのは構わないけれど、これを児童文学として出す意味はないのでは。

すあま:うーん、図書館泣かせな本ですね。

一同:(笑)

ウェンディ:児童文学の要素が感じられません。これは、雰囲気を楽しむ小説なのでしょうか。

トチ:そういうのが楽しい人にはね。

ウェンディ:もうちょっと、弟が書く話が読みやすければ、入っていけたとは思うんですよね。内容は難しいこと言ってるのに、ほとんどかな書きだから、そのギャップが気になって、すごく読みづらかったです。

トチ:でも、この子にまれな文才があるんだったら、漢字書けてもいいわよね。

ウェンディ:それに、こんな概念を幼児が持っていたら、おかしいし恐い。

ねむりねずみ:弟は生まれた時からエイリアンのような存在、彼岸の存在なんですよ。最初からそのような整合性を求めちゃいけないの。

ブラックペッパー:そうすると、ぽわんとした夢のような世界を楽しむって感じ?

ウェンディ:こういうのをおしゃれって思う人はいるんでしょうかね。ファッションとして読むとか。

チョイ:ファッションとして読むというより、ファッションとして持ってるんじゃないかしらね。

ねむりねずみ:たしかに時々、あれっていうようないい記述があるんですよね。ところどころに入っている。でも、それらがつながっているんじゃなくて、ぱらぱらになっているので、物語の世界に入りにくい。

トチ:じゃあ、メインストーリーはいらなかったんじゃない。もしこれが大人の作家じゃなくて、ティーンエイジャーが書いたとしたら、ちょっと危ないと思うな。

紙魚:私は、皆さんよりは好印象を持っているとは思います。ここで読む本に選ばれる前に、作家や装丁にひかれてすでに読んでたんです。そういえば、前にちらっと読書会のときにこの本のことが話題にのぼって、みなさんがどういう印象をうけたのか、もっとつっこんでききたかったくらい。きらきらっとするところがちりばめられている。弟の文章も、確かに読みづらいけど、なかなか筆力があるなあと思わせられる。でも、どうしても、きらきらしたものが結実しない感じが残っていたので、今、みなさんの感想をきいて、ちょっとホッとした。嫌な感じは受けなかったけれど、もっと理解したいと欲求不満になったので、3回くらい読み、ほかのいしいさんの著作も読んでみたんです。そうしたら、何かわかるかと思って。でもやっぱりわかりませんでした。わかろうとしちゃいけないのかな。
ただ、この人はびっくりさせるのが好きな人なんだなと思いました。爆発的な発想力の持ち主ではありますよね。ほかの人が思いもつかないことを考えたり、考えついたことを、またほかのことに結びつけていくのが上手。きっと、自分の中にたくさん温泉が沸くようなのでしょう。この作品では、今までの作品以上に、思いのたけをぶつけたのではないかと思います。それぞれの源泉はとってもいいのだけれど、それが一つの世界としてばらばらに投げ出されたときに、どこから理解していいかわからないという世界になっている。ほかの作品は誰しもが理解できて、おもしろいと思いそうな本なのに、この本に限っては、薄皮を重ねてできた世界が、危ういバランスのままになっている。どういう意図でこの本を出したのか、ご本人がどう思っているのか聞きたいと思った。発想やアイディアは決して表面的なものではなく、奥行きがある。かんたんに書けるものではないと思います。
この本を読んで、『ポビーとティンガン』(ベン・E・ライス著  アーティストハウス)という本を思いだしました。やはり兄弟の話で、妹にしか見えない行方不明になった友だち二人を、町中の人が探すという話。妹は、その架空の友だちがいることを信じているんだけど、兄をはじめほかの人たちは信じられない。ちょうど扉に「オパールの色彩の秘密は、その不在にある」と書かれているんです。この『ぶらんこ乗り』もそういうことに似ている感覚なのかななんて思いつつ、うーん違うかなと思いながら読みました。リアルなものは追ってこないし、不在性のようなものを書こうとしたのかな、とずいぶん一所懸命に、いしいさん側に立って考えようとしてみたわけです。

チョイ:いしいさんは、前の本で、外国でドラッグをやったようなことを書いてましたが、もしかして、そういう状態の時に書いたのかなとさえ思いました。

紙魚:あー、ありましたね。普通の論理構造ではなかなか思いつきそうもないですもんね。もしかして、常軌を逸したところが評価されたのかな? 物語の構造はすごく変わっていて、ほかに見たことがないし。もう、うなるしかない、奇妙な読後感でした。

もぷしー:私は、3冊の中でいちばん最初に読んだんですけど、今回初めての参加だったので、いつもこんな本を読むのかなあ、いったいどんな会になるんだろう、哲学的に語られるのだったらどうしようと心配になりながら来ました。初回だったこともあって、何かわからなくてはと思って読んだんですが、わからない時分に読んだ村上春樹のようでした。異空間のつくりかたと不安定な部分が似ていると思います。なぜぶらんこ乗りなのか、と言ってしまったらどうしようもないんですけど、そのぶらんこの震えがわからないです。人間と動物の対比とか、美と残酷さのような対比や、理由がつけられるものと理不尽なものという対比が描かれているんですよね。動物サイドに残酷さ、理不尽さが描かれている。主人公たちは、何かのはずみで安心して生きていこうとするところから逸脱したのかなというようなことを考えました。でもやっぱり、あーそうなんだとしっくりきたわけではなくて、「ゆびのおと」など、ディテールをみていくと受け入れにくい部分があります。その受け入れにくさが、ファッションとまではいかなくても、どうせ人間なんて、とか、おれなんてみたいなことが多くて、そういう世界をぶらんこのようにいったりきたりしているのかなあ。イメージは残ったんですけど、なんだか読むのはつらかったです。

愁童:ぼくは読んでなかったので。

一同:えーっ、愁童さんの感想聞きたかったー!!

(2001年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


2001年03月 テーマ:兄弟の死

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『2001年03月 テーマ:兄弟の死』
日付 2001年3月28日
参加者 愁童、ブラックペッパー、すあま、もぷしー、スズキ、
ねむりねずみ、チョイ、オカリナ、トチ、ウェンディ、紙魚
テーマ 兄弟の死

読んだ本:

レルン『すいがらとバラと』
『すいがらとバラと』
原題:BLAND FIMPAR OCH ROSOR(スウェーデン)
ヴィヴェッカ・レルン/作 イェシカ・パルムグレン/画 菱木晃子/訳
偕成社
1997.05

<版元語録>弟が死んだ。もう一緒に海へは行けないけど、いろいろなことを思い出す。1年前10歳でなくなった弟ジミーのことを、16歳になった姉が穏やかに語り、大切な家族を失った悲しみと弟への愛を表す。
モーリス・グライツマン『はいけい女王様、弟を助けてください』
『はいけい女王様、弟を助けてください』
原題:TWO WEEKS WITH THE QUEEN by Morris Gleitzman, 1989(オーストラリア)
モーリス・グライツマン/作 唐沢則幸/訳 横山ふさ子/絵
徳間書店
1998.03

<版元語録>弟のルークの病気はもう治らないと聞かされたコリン。世界一の名医を求めてコリンはイギリスの女王様に手紙を書く。不治の病の弟のために名医を探す男の子の姿をユーモアたっぷりに描いた、感動的な物語。
いしいしんじ『ぶらんこ乗り』
『ぶらんこ乗り』
いしいしんじ/作 荒井良二/絵
理論社
2001.02

<版元語録>ぶらんこが上手で、うまく指を鳴らす男の子。声が出せず、動物とは話のできる偏屈もの。作り話の得意な悪ふざけの天才。もうここにはいない私の弟-。絶望の果てのピュアな世界を描き出した物語。

(さらに…)

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ルーム・ルーム

コルビー・ロドースキー『ルーム・ルーム』
『ルーム・ルーム』
コルビー・ロドースキー/作 金原瑞人/訳
金の星社
2000.12

アサギ:ノンストップでおもしろく読んだわ。ただし初めから、足の方からムズムズと痒いものがあがってくるような居心地の悪さがあった。いかにも、「ハートウォーミングで、心開いていくいい話なんです」とBGMで言われ続けている気がして、それが鼻についたのではないかしら。あまり高い評価はできないな。

チョイ:色々なシチュエーションが、どこかで読んだことがあるような気がして、こうなるだろう、という予定通りの結末でした。原書で読むと、言葉遊びとかがもっとおもしろいんでしょうが、あまり、そういうおもしろさは伝わってこなくて、つまらなくもないけど、おもしろくもない。今の海外子どもの本の典型で、よくもなく悪くもないという感じかな。

アサギ:これを取り上げた理由は、「ずっとお母さんに語りかけるという手法をどう思うか」ということだったのね。手法としては抵抗なかったわ。昔読んだ『日曜日だけのママ』(メブス作 平野卿子訳 講談社)もこういう展開だったわね。

チョイ:11歳くらいの感覚とか捉え方を表現するうえでは、適切な訳かな。ただジェシー・バーンズって、リビィのお母さんとあまりに対象的に作られすぎてるんですよね。そういう点でリビィが発見していく過程が、あんまり魅力的ではなかった。こういう物語があってもいいけれど、それぞれの役割配置がわかりすぎて、鼻につく感じでした。

ペガサス:こういうのって最近、多い設定よね。何度も読んだことがある感じがしたわね。いちばん面白いと思ったのは、リビィのまわりに色々な人が登場するんだけど、読み進むにつれて一番前面に出てくるのは、お母さんのアルシーアだという点ね。リビィの心の中だけで生きているんだけれど、会話で話が進んでいくので、アルシーアはどういうお母さんだったかとか、2人の緊密な関係だとかが、手に取るようにわかってくるのね。でも実は、それはもうこの世にいない人、というのがおもしろい構造だと思ったわ。
それに対して、ジェシーはあまり描かれていないのね。ジェシーとうまくいくか、ということが焦点なのに、ジェシーとはどんな人なのか、あまり詳しく書かれていない。たくさんの登場人物のなかで、おそらく最も静かで、性格をとらえにくい。いちばん書かれていない人が、いちばん読者が気になる、というのが、他にないおもしろいところではないかしら。その2人︎がだんだん前面に出てきて、この2人はどういう友人関係だったのかということが興味深くなってくる。アルシーアとジェシーの接点はどこにあったのか。日ごろから親しくて何もかもわかっている友人ではないのに、最愛の娘を託したのか。一見何の接点もないような2人の女性に、その実すごく大きな接点があったわけで、それを探っていくのがおもしろいというタイプのお話ではないかな。その接点が果たして何なのかというと、わからないんだけど、人と人とのつながりの︎おもしろさというか、決め手はものすごくつまらないことかもしれないんだけど、自分の身に置き換えてみたりして考えるのがおもしろい、という感じを味わいました。リビィは嫌なことは嫌としながらも、現状を受け入れようとする。「どんなことがあっても、あなたは生きていくのよ」というお母さんの言葉を支えにして、とにかく前に進んでいかなければならないんだ、というところに好感がもてました。登場する大人たちが、子どもを子ども扱いせず、1人の対等な人間として扱っているところが、子どもに励ましになるのではないかしら。『100まんびきのねこ』(ワンダ・ガアグ)や『ナルニア』(C.S.ルイス)など、子どものころ読んだ本の名前がたくさん出てくるあたりも、なんかうれしかった。子どもに薦めたい本ね。

オカリナ:私は、まず「ルームルーム」っていう題名に惹かれたの。で、どういう意味かなと思ったら、Loom Room(機織り部屋)なのね。このおもしろさが、日本の子どもに伝わるかしらね。原題はこの本の訳語でいうと「くるりや」なんだろうけど、そっちを活かしてもおもしろかったんじゃないかな。

ウォンバット:おもしろかった。好きな雰囲気の本。こういう文体って、下手するとすごく甘ったるくなりそうなのに、そうはなってなくて、素直に読めてとてもよかった。主人公のお母さんを慕う気持ちがよく伝わってくるし、すっと物語に入っていけた。私が興味しんしんだったのは、アルシーアとジェシーの関係。秘密が明かされるのを楽しみに、わくわくしながら読んでいたのに、そういう話じゃないってことがだんだんわかってきて、ああ、違うんだ、リビィが心を開いていく話なのか、と気づいて、ちょっとがっかり。だってアルシーアとジェシーとの間には、絶対何か強い信頼関係が育まれるようなことがあったと思うんだ。子どもを1人託すんだから、誰にでも頼めることじゃないでしょ。その秘密が知りたい! と思っていたから。お母さんとジェシーとの間に、決定的なエピソードが何か1つでもあったらよかったのに。お母さんのことが、だいたいよくわからないんだな。いちばん大切な存在なのに。お母さんがどんな人だったのかに興味をそそられ、それにひっぱられて読んだみたいなところがまずあったから。なんだか変わった暮らしぶりだったみたいだし。しょっちゅうパーティーをしたりして。こういうのってヒッピーなの? あと、登場人物がみんないい人でしょ。それって、こういう状況の子にはいいことだけど、現実にはありそうにないと思った。アパートの住人だって、ふつう1人くらい嫌な人がいるだろうし。と、まあちょっと現実離れしているけれど、この作品では、そのおかげでリビィが救われてるわけだから、よかったと思う。挿絵も新しい感じでよかった。べったりした絵がついていたら、もっと重くなっていたと思う。

オカリナ:アルシーアとジェシーの関係は、それなりに描かれているんじゃないかな。私はわかる気がしたな。2人の間に信頼関係があって、アルシーアのほうから見れば、地味でダサいけど、安定してて誠実で信頼できる人だったんじゃないかな。しょっちゅうつき合ってなくても、そういう関係が結べてる人っているじゃない。

ウォンバット:自分ははちゃめちゃだけど、子どもはちゃんとした人に託したかった、ということでしょうかね。

オカリナ:たとえばキャサリン・パターソンの『ガラスの家族』(岡本浜江訳 偕成社)だと、自分が必要とされてるのを意識するってことが、子どもが変わる大きなきっかけになるでしょ。でも、この話ではリビィが変わるのは、ルーム・ルームがきっかけなのね。自分が今居る部屋にもともとあったものが、自分が来たことによってくるり屋の地下に移されたために、火事で焼けちゃった、というんだけど、そのことに必要以上に罪悪感を感じてるようで、その後ろめたさでジェシーに歩み寄っていくというのが、ちょっと気分悪かったな。それから、お友達のルーは黒人ですよね。この2人が、まったく人種の違いを感じさせない行き来をしているんだけれど、はたしてそれが、ボルティモアでリアルなことなのか、疑問に思いました。たとえば『クレージー・マギーの伝説』(ジェリー・スピネッリ作 菊島伊久栄訳 偕成社)でも、白人の子が黒人社会と白人社会の間を行ったり来たりするんだけど、寓話としてしか成立しなかったでしょ。この作品は、リアルなフィクションとして書いているんだれど、それで果たしていいのか、そこにいちばん疑問を感じたな。Amazon.comに読者の意見を寄せている人が2人いたんだけど、2人とも「短い」と言ってるのね。アメリカの子にとっては、これが短いのか! と思って印象的だった。1人はディズニー映画にしたらいいんじゃないかとも書いていたわね。

愁童:基本的には、チョイさんやアサギさんに同感。ペガサスさんの意見にも、そういう見方があるのかと思った。ただ、作者や訳者の思惑が透けて見える気がしちゃってね。こういうふうに書けば、こういう題にすれば、読者はついてくる、というね。機織り機が変わるきっかけになっているんだれど、ジェシーと機の関係は書かれてないんだよね。きちんと書き込まれていないことがきっかけで、リビィとジェシーの関係が好転するという展開は、すごくセンチメンタルな感じがして嫌だったな。あと、登場人物がこんなに出てこなくてもいいんじゃないか、混乱させないでよ、と思った。義理の親との葛藤を書いた話で、この読書会でやったものに、『ぎょろ目のジェラルド』(アン・ファイン作 岡本浜江訳 講談社)や『バイバイわたしのおうち』(ジャクリーン・ウイルソン作 小竹由美子訳 偕成社)のようなのがあるけど、これらの主人公は主体的に相手に向き合って動いていくんだけどリビィの方は、思いがすぐ亡き母親にもどっていって、自分からジェシーに向き合おうとはしないよね。母親亡くして可哀想といいう読者の感傷に寄りかかってる部分が大きいような気がする。葛藤といえるほどのぶつかりあいがあるわけでもないし、平板で、状況説明的で、感傷的だよね。それさえ書いていれば読者はついてくると言わんばかりで、平板で淡々としていて、人物が立ちあがってこない。そのへんがちょっと不満。あと、読みにくくて、中味の割には長いなって感じた。

ウォンバット:人物がたくさん出てくるのは、それまでの母1人子1人という状況との対比、という意味もあったんじゃない? 対照的な家族という意味で・・・。そして、人が多いほどに、よけいに強く孤独を感じるってこともあるんじゃない?

愁童:友達との友情から話が発展するのかと思ったけど、大人との関係で進んでいく。子どもの本なんだし、友だちになる子も割にうまく書いているんだから、そのへんをもっとふくらませてほしかったな。

チョイ:素直に読むか意地悪く読むかで、評価がまるっきり違いますね。意地悪く読むと、設計図が見えてしまって・・・。

オカリナ:ジェシーにとって機がとても大事なものだったということは、書いとくべきよね。そこがポイントになってるんだから。

ペガサス:いや、原作の題は「くるり屋」で、機はそんなに大事ではなかったんだと思うけど、訳者が「ルーム・ルーム」を題にしてしまったために、機がキーワードのようになってしまったんでしょう。「ルーム・ルーム」は、おもしろい言葉ではあるけれど、どうしてことさら、これを訳題に取り上げたのかな。親戚の子たちの話から、リビィが使ってる部屋は、もとはルーム・ルームだったんだということをリビィははじめて知るわけだけど、ジェシーにとってどんなに大切だったかということは、あまり書かれていない。

ウェンディ:ジェシーにとってどうこうではなくて、リビィが気にしているということでしょ。でも、最後にあっけなく仲良くなるのはできすぎかも。そのへんを、もっと書きこんだ方がよかったんじゃない?

オカリナ:でも一人称だから無理があるわよね。

ペガサス:「ルームルーム」をキーワードにするのが、無理なのよ。

紙魚:私は、あまりにも淡々と話が進んでいくので、これはきっと何か謎が隠されているんだろうなと思いながら読んだんです。そうやって妄想たくましくした結果、リビィってほんとうはアルシーアの子どもなんじゃないか? なんて考えちゃった。実はジェシーとアルシーアの間には学性時代に何かあって、やむをえずジェシーがリビィをひきとったんだけど、結果としては、またアルシーアのもとに戻ってくることになるんだわなんて勝手に推測しながら読んでました(笑)。

ウォンバット:私も、私も! 実は同じ人を好きだったとか、絶対、何かそういう背景があるはずだと・・・。『”少女神”第9号』(フランチェスカ・リア・ブロック著 金原瑞人訳 理論社)にも、性転換していたって話があったでしょ。だから、実はアルシーアとジェシーのどっちかが男で、リビィは、この2人のあいだに生まれた子どもだった、とか。これは考えすぎですね。

紙魚:そうですよね。ジェシーとアルシーアがすれちがう何かしらののエピソードが出てきてほしいとは思ったな。こういう女の子のけたたましい一人称の話としては、『ブリジットジョーンズの日記』(ヘレン・フィールディング作 亀井よし子訳 ソニー・マガジンズ)を思いだしました。あのブリジットジョーンズの一人称の感じを、ティーンズが言ったらこうなるのかななんて思って。ただ、リビィの“ブリジット・ジョーンズ”らしさは、自分のことを「あたし」と言ったり、「だっさーい」と連呼したりするところぐらいなんですよね。ちょっと疑問に思ったのが、女の子のキャラクターを表すのに、「あたし」と「わたし」と使いわけますよね。訳者はリビィを「あたし」と描いていますけど。日本語では、一人称はそのくらいしか選択肢がないんですね。「わい」とか「あたい」「おいら」いう訳にはいかないし、ここではそんなのヘンだし。ただ、他にもこの子のキャラクターを表す会話の訳し方が出てほしかった。リビィらしいノリ、他人との距離感、この年代の女の子独特のノリの感覚がもう一つ出しきれていない気がして。もし原文で読んだら、それが出ていて、おもしろいのではないかとも思いました。原書はもう少し、この子の生態、体温みたいなものが出ているのではないかと。
あと、挿絵もよかったです。ティーンズだけでなく、もう少し上の年代の女性も手にとりたくなるようなセンスがよかったです。それから、断ちぎりぎりのところに注がいっぱいあって、びっくりしましたね。私は昔、注を読みながら物語を読むのって苦手だったんです。読んでいる最中に注を読むとリズムが止まるので、読みとばして、終わりまで読んでしまってからパラパラ眺める程度でした。だから、こんなについてるのにはびっくりしました。ぐっときたいと思いながら読んでしまうと、ちょっとがっかりするかも。でも、いやな本ではなく、おもしろく読めた本でした。

アサギ:焦点の2人の関係ね。リアリティはないかもしれないけど、こういう人間関係もあるのかな、とヘンに納得してしまったところがあって、違和感は感じなかったわ。こんなこと、現実にあるかなとは思ったけれど、すぱんとかっこよく、潔く・・・なんていったらいいのかな。ずっと疎遠にしていても、何か事があれば、ぎゅっとなる関係というか・・・。

オカリナ:でも、リビィは全然選べないし、何も言えないわけじゃない。今、子どもが大人を訴えられるような国なのに、そのへん、リアリティあるのかな?

ペガサス:事前にリビィに話があってもいいのにね。母親のアルシーアは病気だった時間があって急死したわけじゃないんだから。全然話はなかったことになっているみたいだけれど。

チョイ:でも、弁護士に話す時間はあったのよね。

オカリナ:オーソドックスな子どもの本のパターンだから、それを喜んで読む子もいると思う。でも、リアルな状況を描いて、それを子どもがどう乗り越えていくのか、という話とは違うと思う。

トチ:昔ならリアルになっただろう話が、今はファンタジーになる、という面もあるわよね。

ペガサス:黒人の話でもう1つ気になったことは、ブラン・マフィンというあだ名のおばさんが出てきて、挿絵は黒人のように描かれているけれど、この人が黒人だという描写はどこにもなかった。ブラン・マフィンが茶色いから? 原作の挿絵はどうなんだろう?

(2001年02月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


だれが君を殺したのか

イリーナ・コルシュノウ『だれが君を殺したのか』
『だれが君を殺したのか』
イリーナ・コルシュノウ/作 上田真而子/訳
岩波書店
1983.05

トチ:最初のうちは、若者の死に至る悩みがえんえんと書かれていて、これって今の若い人にはわかるのかしら、ちょっと遠いかなとも思って読み進んでいるうちに、クリストフが失踪したあとでいわゆるホームレスの事件が起こるところで、ドーンと今につながった。今でもじゅうぶん読み応えがあるし、将来も読みつがれていく作品だと思う。最初、古いなあと感じたのは、訳文のせいかも。「床をともにした」という表現のところで、思わず笑っちゃった。80年代には、まだこういう言葉を使っていたのね!でも、「床をともにする」人がいても救われないというクリストフの痛ましい孤独は、大人の私にもわかるし、今の若い人も身にしみてわかるんじゃないかしら。細かいことだけど、「マタイ受難曲」のような有名な曲は、ことさら「マタイ伝による云々」というようなていねいな訳し方をしなくてもいいと思うのよね。岩波の翻訳ものって、「わからないでしょうから、教えてあげる」というようなところとか、官能的なところをぼかして訳すというような過剰な配慮が感じられるんだけど、私の偏見でしょうか?

ウエンディ:私がいちばん最初にこの本を読んだときは、まだ主人公たちと近い年齢だったんですね。そのときは、私の言いたいことをよくぞ言ってくれたと思ったんです。大人になることの難しさ、若いゆえの純粋さとか潔癖さとか。それを描くための1つ1つのエピソードどはすごいと思う。クリストフをどんどん追いつめていく描写がすごくうまい。クリストフが死んでしまったところから始まって、マルティンが彼のことを思いだしつつ悩みつつ、ショックをのりこえていく構図だけど、数学マイヤーも、実はそういう苦しみをのりこえてきたんだということはうまく書かれていますよね。でも、ほかの登場人物たちは、どこかしら都合よく描くための道具にされている気もしました。床をともにしたウルリケでさえも。あと、コルシュノウにしては、大人がステレオタイプかなという気はしました。そこが不満といえば不満かな。時間がいろんなところに飛んでいて、ちょっと読みづらいところが気になったけど、それは訳の問題かもしれない。逆に、映画になったりしたら、効果的かもしれない。

紙魚:読みすすめていくと、はしばしに突き刺さるような鋭い感覚が描かれていて、次々波が押し寄せてくるようでした。限りなく絶望的でぬかるみにはまっていくようでありながら、ページを読み進める力はぐんぐんわいてくるという感じ。この本は今は絶版なのかしら。なかなか手に入らなくて、結局借りたんです。品切れなのかな? ネットでも流通してなかったし。もし、今出回ってないのだとしたら、とてももったいない。時代は変わっても、この本を読んで、救われた気持ちになる人は絶対にいると思う。絶版にしないで、出してほしい本です。クリストフやマルティンのように、親に対して何も答えたくないとか、学校や社会の事柄も受け入れたくないとか、自分にとって優秀だと思う人にひかれていくところなどは、だれでも必ず通りすぎることだと思うんです。1つ1つのエピソードを読みながら、自分自身の過ぎ去りし日のことをすくいあげて、かみくだく作業がしぜんとできました。この主人公は、クリストフにもなれず、でも大衆にもなれないという葛藤の中に生きているんですね。こういう行ったり来たりしている若者ならではの感覚がきちんと描かれていると思う。どっち派でもなく、何に関しても行ったり来たり。この年代の人に共感を呼ぶのではないかしら。
ところで、私はドイツの教育制度というのは、帰国子女の人からよくできていると聞いていたんです。マイスター制度があったりして、けっして知識偏重の社会ではないと。でもこれを読むと、日本と同じようですよね。子どもが苦しんでいる。彫刻家だったけれど、今ではスイッチを売ってるお父さんが、彫像をたたき割るシーンなどもぐっときましたね。常にマルティンは、クリストフは正しかったのか、章ごとにと問いかけているんですけど、実際はクリストフのことを正しくないと思いつつ、クリストフにひかれている。自分に対しても他人に対してもいつも問いただしていて、大人になると生きることの辛さとか弱さとかを受容できるのに、けっして受容できない若さをうまく表現しているなあと思います。ぐらっときたシーンを挙げだしたらきりがないくらい。ただ、マルティンがちょっとずつ大人になっているなあと思ったのは、p198の「もっとしょっちゅう笑えばいいのに、母さん」という言葉。こういうことって思っていてもなかなか言えないことなんだけど、お母さんに対して言葉に出して言ったときには、胸がつまってしまいました。

愁童:作者が女性のせいか、ぼくにはちょっとクリストフの描かれ方に違和感がありました。ドイツのものには、こういう繊細な少年がよく登場するけど、クリストフのように、金権に反抗したり、公害に反対したり、意識が外へ向かう少年と、自殺する少年のイメージがどうもしっくりこなかった。まあ父親との関係なんかから、意識を外へ向けざるを得ない少年の絶望感みたいな読み方がほんとかなとも思うけどね。自殺するほど追い込まれながら、公害に怒ってみせるなんてできるのかな、なんて思ってしまったら、どうも気持ちが盛りあがらなくなった。少年2人の、それぞれの両親との葛藤はうまく書かれているね。迫力があった。

オカリナ:力のある作品ね。今の若い人たちも、中学、高校時代には同じような気持ちを感じていると思う。でも、そういう部分に寄り添うような作品が少ないのは残念。クリストフが死んだのには、あるひとつの絶対的な理由があるというよりは、いろいろ要因があって、それらが積み重なっていったからだと思うのね。お父さんとの不和は要因の一つだけど、それだけが突出してるわけじゃない。ドイツにだって日本にだって、こういうお父さん、まだいると思うし。ウルリケの妊娠騒ぎも要因の一つで、ウルリケ自身は、クリストフに妊娠したと言ってしまって、実はそうじゃなかったことは告げてなかったから、原因の半分は自分じゃないかと思ってる。教師の無理解もあるけど、この年齢の子どもなら、こんなふうに教師を見てる子は結構たくさんいると思う。他にも、村に急にお金が入ってきたけどみんなお金の使い方を知らないから、大人の愚かな部分見せつけられるとか、浮浪者の事件のこととか、そんなもろもろのことが、いろいろ重なりあってるよね。あたりまえの人間にはなりたくないと抵抗しているクリストフ。それは、主人公のマルティンにも共通している姿だと思う。愁童さんは、意識が外へ向かうのと繊細なのは矛盾するっておっしゃったけど、この子たちは積極的に政治にかかわって公害反対運動をしたり、金権体質に抗議したりしてるわけじゃなくて、本能的に嫌だ、ノーと言ってるのよね。だから矛盾はないと思うの。上田さんの訳は、ほかの作品より硬い感じがしましたね。こういう心理的状況に陥ってる中高生を次の段階に行けるよう助けてくれるような本だと思うけど、この文章だと難しいかもしれないな。

トチ:原文は、もっとユーモアをもって書いていたところももあるんじゃないかしら。すべてがこう硬かったわけでもないと思うのよ。

愁童:先生のあだ名のところなんかは、なかなかおもしろかったよね。ああいうところが、他にもあるのかもしれない。たとえば、マルティンのお父さんがスイッチを売っているという設定や、新しいスイッチを得意げに説明する箇所なんか、おもしろいよね。

トチ:そうそう、軽いところもあるから、重いところもあっていいのよね。知人に、読書会を主催しているお母さんがいるの。その会に中3の子が何人かいるんだけど、いい本を読んだときに、いいとは絶対言わないんだって。自分がほんとうに感動した本のことは言わないらしいの。たしかに子どものときって、感動したことを言葉にはしないわよね。この本は、今の時代につながるところもあるので、違うかたちで出していかなければいけない本なのではないかな。

ウォンバット:よかったという意見が多いなか、言いにくいんですけど、私には、少々りっぱすぎる感じの本でして・・・。内容も苦くて、読んでいるうちに、しかめっ面になっちゃいました。なかなか読み進められなくて、行ったり来たりしてしまって。全体の色はダークで、限りなく黒に近いグレー。能天気なところが、ちょっとくらいあってもよさそうなもんなのに、そういうのも全然なくて、気を抜くところがない。あー、とにかく読みおわってよかった、と思ってしまいました。ねえ、結局、自殺かどうかはわからないんでしょ。

ペガサス:ちょうど風邪をひいていたせいもあるけれど、これを読むとよけい頭が痛くなってしまって。やはり、みんなが言っているように文体が古いのよね。上田さんご自身はそんなに硬い感じの方ではないのに。この本を今の子どもが読みとおすのは、ものすごく大変なのではないかな。それから、内容的には、エイダン・チェンバーズを思いだしちゃったわ。マルティンがお母さんに「何になりたいの」ときかれても、わからない。でも「こうなりたくない」ということだけはわかっている。それってほんとうに青春の悩みよね。父親の挫折とかが目前にあったりね。でも私には、クリストフが何に悩んでいるかは、よくはわからなかった。クリストフがそんなに魅力的には伝わらなかったわ。

ウエンディ:マルティン側から見た目線で書いてるから、すべてがわかるわけじゃないのでは?

オカリナ:私にはクリストフの悩みがよくわかったの。もしかしたら、読む方がどういう体験をしてきたかによって、どの程度共感できるかが違うんじゃない?

ほぼ一同:(うなずく)

トチ:クリストフが抱いていたのは、群集になりたくないって気持ちよね。ところで、黒い本(1983年初版)の方の群集っていう字がまちがっていたのが、ショックだったんだけど。

一同:えーっ! ほんとだ。

オカリナ:文体のことを言えば、同じような年齢の子ども同士の会話でも、この本で書かれているのと、斉藤洋の本では、ずいぶん違うわね。

ねむりねずみ:私は読んでみて、あードイツって感じだった。訳は確かに時代がかっていると思う。でも、学生だったころの同級生が抱えていた問題とも共通していたし、違和感はなかった。若いときって、現実とのつながりがうまくもてなくて、自分を思いっきり持ち上げたり、かと思うとやたら貶めたりするんですよね。そういうところもうまく描かれていて、すごくおもしろかった。暗さにも迫力があるし。途中、この状況からどうやって抜け出すのかなって思っていたら、マイヤー先生が出てきた。ちょっとあれって感じもしたけど、こういう終わり方しかないかなとも思った。ドナウの風景もきれいに描かれていたし。自分自身のことも振り返ってみて、クリストフみたいな人が生きるか死ぬかというところに立たされるのは、何か大事件のせいじゃなくて、細かいことの積み重ねの結果だと思う。私自身は、そういう若い人に、生きるほうに分岐していこうよと言う立場にいたことがあるので、その辺の感じはすごくよく伝わってきた。まあこういうくぐもり方は、ある意味若さゆえの甘えなんだけど。クリストフについては、親との関係が大きいかなって思った。それと社会との関係の中で、この若さだと人生に対して粘り腰になれないんで、はじけてしまったともいえるんじゃないかな。若い世代の人たちからすれば、大人はしょせん大人でしかない。そこをどう「大人」という一言でくくられないようにするか、現場で若者と向き合っている人たちのそういう大変さについて考えてしまいました。大人がいくらがんばっても生身の人間、他者だからこそ若者の心に入っていけないっていう場合もあって、そんなときに本と向き合ったほうが素直になれたりする。そういう意味で、本は若い人が生きていく上で大きな助けともなりうるなあ、とあらためて感じました。

チョイ:ところで、さっきの『ルーム・ルーム』では、生きなくちゃいけないといいつつ、『だれが君を殺したのか』はまた違った内容だし、いったい今回の本選びはどういう主旨なんでしょうね?(一同笑う)私は、この本で16、17歳の頃の感覚がよみがえりました。2年くらい前に、高校のときの日記が出てきて、読んでいたら、やっぱり私の近くにクリストフみたいな子がいるんですよ。現実と折り合いがつかなかったり、高圧的な親がいたり、いろんな状況がこの本と重なっていて、16、17の時ってこうなんだなあと、しみじみ実感。7、80年前に書かれた有島武郎の長編『星座』なんかにも、まさに同じことが書かれていたりするし。若い人たちがどうやって生きていくかという問題は、ずっとく繰り返されるんだなと思いました。今回、「あの子は弱かったのよ」と言うバールのおかみさんや、マイヤー先生など、つい大人の言葉に共感する自分に気づいて、時の流れを感じてしまいましたけど。この本はずっと持っていて、何度か手放す機会もあったのだけど、なんとなく気になって捨てられない本でした。確かに暗いかもしれないけれど、青春時代には必要な本だと思います。どうしようもないその時期の感覚を共有できる本があって、また生きていく力につながっていくんじゃないかな。

アサギ:今回の本選びは、テーマは完全に後づけなのよ。それぞれ読みたいものを持ちよって、それらを並べてみて、それじゃあ10代だねっていうことだったの。斉藤洋さんの本が読みたいというところもあったし。この本の原題は、「クリストフのこと」っていうのね。もともとコルシュノウという作家は、幼年文学を中心に書いていて、10年くらい前に児童書とは縁を切ると宣言して、それからは一般向けのものを書いているの。この本は、当時、ドイツで評判になったんです。やっぱり読んでいて、自分の青春時代を思いだしたわね。確実に時代というものを越えていると思う。クリストフの嘲笑的なところは、ぎりぎり精一杯だけど、他を見下していることで、かろうじて自分を保っているというところ。確かに親の描き方はステレオタイプだけど、実際にそういう人はいるので私はいいかなと思った。むしろ、数学マイヤーがステレオタイプに感じたわ。過激に学生運動をやった人で、いかにもありそうという感じ。ここはありふれていて、平凡と感じてしまった。マルティンのお父さんが、現実と妥協しながらスイッチを売っているというのも、ステレオタイプかもしれないけど、この年になっちゃうとね、どんなものを読んでも、読んだことがあるように感じるのよ。若い人が読めば説得力があるんじゃないかしら。

チョイ:農家のおばさんが「あの子は長生きできないと思った」というのが、うまいわね。おばさんが生命力を見ているあたりも、人物像がくっきりしている。本当のところはわからないけど、私はクリストフは自殺だと思う。人が死ぬっていうときは、いろいろな要素がつまっているも思う。さっき公害というのは違うんじゃないかって意見もあったけど、私は違うとは思わなかった。どちらにせよ、原因はひとつでは言いきれないはず。音楽を愛していても救われないというのがあったり、数々の要因が投げだされていて、そういう総体が彼を追いつめていくさまが描かれている。

アサギ:前に、彼女のインタビューを読んだことがあるんだけど、たしか息子さんの友だちが自殺しているのね。そのときに、なんとかしてこの難しいときを生きのびてほしいと思って書いたらしいの。その試みは、成功していると思う。私はみんなが言うほど暗いとは思わなかった。マルティンは強く生きていくだろうなあとも思うし。この本を読んで、生きていく力を得る子はいるんじゃないかなあ。作者の志は達成されていると思う。考えてみたんだけど、マルティンとクリストフは実は1人で、マルティンは自分の中ののクリストフを殺して生きのびたとも読み取れるわね。そうやって生きのびる子もいるんじゃないかしら。

一同:(ふーむとうなずく)

アサギ:コルシュノウは今でも文壇で活躍しているんだけど、もう児童書は書かないと宣言しているの。彼女は常に、自分の子どもとの関係で作品を書いていたのね。幼年童話にしても、自分の子どもに聞かせたくて書いていたのよ。『ゼバスチアンからの電話』(石川素子・吉原高志共訳 福武書店)もそうだし。でも、児童書の世界から去ってしまったのは残念よね。

ペガサス:アサギさんのクリストフとマルティンは1人だったという考え方は納得できるなあ。なんだかいろいろ言葉にならなかったことが、すとんと落ちた感じ。マルティンはクリストフのことをわかっていたのねと思いながら読んだしね。

チョイ:マルティンがクリストフと違うのは、他者を理解しようとするところじゃないでしょうか。いろいろな外界の重圧の中で、生きていける力になるかならないかは、ここが分かれ道になったんだと思う。マルティン自身もクリストフが生きのびられないことはわかっていたのかも。

(2001年02月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


サマー・オブ・パールズ

斉藤洋『サマー・オブ・パールズ』
『サマー・オブ・パールズ』
斉藤洋/作
講談社
1990.08

愁童:2、3年前に図書館の若い男性司書に薦められて読んだことがあったんだね。今回再読して、少し好感度はあがったけど、この本に、この読書会で出会うとは思わなかった。これだけ、あっけらかんと、時代をまるごと肯定されちゃうと、その思い切りの良さに脱帽したくなっちゃう。これ、バブルがはじける直前ぐらいに出た本ですよね。あの頃サラリーマンをやってて、いろいろな経済学者や技術評論家の時代の観測論文を読まされた。例えばニューセラミックのマーケットとして歯科の分野が有望だ。高齢化社会が進むから入れ歯の需要は増加する。口の中の半分が入れ歯になると仮定し、セラミック入れ歯が一本5万から10万とすると、人間1人の口の中に、70万から140万の需要が存在する。車は一家に1台だけど、これは家族全員がマーケットに成りうるのだから、自動車メーカー以上のビッグビジネスが生まれる必然性がある、なんてね。そういう風潮の中で、この作者も同じ視点に立って書いているのね。作家は、そういうのとは違う視点がほしいなんて思うのは古いかな、と思うぐらいに、おもしろく読めるんだけどね。今が書かれているか否かと議論したことがあるけど、こういう今ってありかなって気になった。その作家独自の目がほしいよね。クリストフ的目があってもよかったんじゃないかな。

オカリナ:私は『誰が君を殺したのか』とはわざと違えて、今回はジャンルの違う本3冊になっているのかと思って、まったくのエンターテイメントとして読んみました。会話がおもしろいし、株の仕組みの説明なんかもとてもわかりやすくて、なるほどと思った。ただしバブル期の本ですね。おじさんが100万円貸して、儲かってガールフレンドにプレゼントするなんていうのは、バブルが終わってから読むと、あまりにばかばかしい。読者にも、テレビのバラエティ番組みたいに、おもしろおかしいドタバタとして感覚で受け取られると思う。ただ、女性像が古いなあと思った。言葉遣いもそうだし、女の子は誕生日に金目のものをほしがるものだから稼いでプレゼントするのがいいとか、さちこさんと高杉峰雄さんとの関係にしても、「女というのは金がかかる」だって? ふーん。この作家は、どの作品でも新しい価値観の提示はしてない気がするな。おもしろさで本嫌いの子も惹きつける力をもった作品だと思うんだけど、表面的にはエンターテイメントでも、もう少し芯があるといいな。

ウォンバット:こういう本は、意地悪な気持ちになってしまうと、とめどなくなってしまいそうなので、そうならないようにと注意しながら読んだんですが、出てきてしまったんですね、見過ごせない言葉が。ちょっと今、ここで口に出すのも恥ずかしい単語なんだけど、「ペチャパイ」。アウト! って感じ。今は、誰も使わないでしょ。しかも、女の子が言っちゃうんだもん。「あんまり見ないで。わたしペチャパイだから」なんて、これはないと思う。主人公の願望としてそう言われたい、というのがあるんだろうけれど、「見ないで」という人が、水着になる場所に自分から誘ったりしないでしょ? 本当にコンプレックスがあって、心の底から見られたくない! と思ってたら、男の子とプールに行ったりしないよー。10年前でも、この言葉はなかったと思う。と、まあそういうわけで、ここから先は、もう意地悪な気持ちになってしまって、復活できませんでした。そのうえ、後ろの方でもう1回出てきちゃうのよ、この言葉。(と発言したけど、先日「からくりTV」で浅田美代子がこの単語を口に出しているシーンに遭遇。衝撃を受けました。死語だと思ってたのに・・・。)「楽しめる」っていう意味ではいい作品かもしれないけど、私が「楽しむ」にはちょっと無理があった。服部さんが関西弁こてこてで、楽しいやくざみたいになってるのも、作られすぎの感じ。こういう人が、そんなにぽこぽこいる訳はない。

アサギ:ペチャパイってそんなに古いの? 自分から言うときは何て言うの?

ウォンバット:「胸がない」とか「小さい」とか言うけど、あまり名詞では言わないんじゃない?

ペガサス:斉藤洋は割りと好きな作家。章題のつけ方とかもおもしろいと思ったわ。ものごとのおもしろがり方がおもしろいと思って。ともすれば堅苦しくなりがちな日本の話の中では、好きな方に入るかな。おもしろく読めるお話。でもやっぱり10年前の話だなと思った。子どもたちが、嫌だけどさして反発もせずに学習塾に行くような時代だったんだなと思った。ダメだなと思ったのは、女の子は著者が考えているかわいい女の子に過ぎないというところね。「時々わけのわからない考え方をする」のは自分のお母さんだけのことなのに、それを「女ってものは」と言ってしまうところ、ダメだな、という感じがしてしまった。こういう考え方をする人って女の子ってこういうふうに誰でも話をかえる、とか。自分の考え方をおしつけてる。幸子さんが女性の理想像として描かれているけれど、もういいわ、と思ってしまった。10年前ではあるけれど、やはり外国の作品より身近に感じられるので、日本のものにこそ、もっとおもしろいものが出てほしい、とは思ったわ。気軽に読める楽しいお話がもっとあればと思う。

ねむりねずみ:『誰が君を殺したのか』の後に読んだので、軽いなあと思いました。前に読んだひこ・田中さんの『ごめん』(ベネッセ)に結構インパクトがあったので、つい比較してしまい、まるで違うなあと。この本の最後のプロフィールに、書いていて赤面したってあるけど、赤面するようなレベルの覚悟で書くなよなって思ったりして。『ごめん』は正面から第2次性徴を扱っていて、そのまっすぐさが印象的だった。それに対して、この本は難しいことにあえて切り込んでいく感じがない。作者の好きなイメージが並んでる感じ。うまく配置された出来事にスルスルっとのっかっていくっていうか。エンターテイメントでおしまい、考えさせてくれない感じがすごく強かった。おとぎ話だなって思った。『ごめん』とは好対照だったな。

アサギ:斉藤さんのものを久しぶりに読んでみたかったんです。おもしろかった。ただ、11万いくらの時計って、当時としても、リアリティあるのかしら。すべてにゼロ1つ違うんじゃないかな。文章は上手で楽しく読めると思うのね。目次のつけ方も、いかにもドイツ文学の人ね。ドイツの作品の影響が感じられておもしろいと思ったわ。会話は確かに女の子はこういう話し方しないけど、10年前にリアルタイムで読んだ子は、親近感をもって読んだのでは。金額は別として、やりとりとか口調とかノリっていうのって、共感をもって読んだ子がいたんじゃないかな。どうって話じゃないんだけど、楽しく読めて。女性に関して書いてるところは、体質が古いのね。斉藤さんの作品は、デビュー作が好きで、2作目も好きだったけど、浪花節で、その頃から体質は全然変わんないんだなと思った。思想なんかは、もともとないのかしら。

チョイ: この作品は著者の思想が凝縮されたものなのよ。ストーリーの中に隠されてるんだけど、この作品だといちばんわかりやすい。

トチ:年齢の低い子ども対象のものよりヤングアダルトになると、わかりやすいのよね。

アサギ:これはひたすらエンターテイメントですよね。語り方は通俗的だけど、上手。巧さは今回も感じたんだけど。男の人って女の子をこういうふうにステレオタイプに描く人多いでしょ。「ドラえもん」のしずかちゃんだって、男の子の願望が生み出した女の子像の典型よね。私は見るたびにいやだなと思うけど・・・。逆はどうなのかしら。女性の作家だと男が書けないってこともあるのかしら?

チョイ:『十一月の扉』(高楼方子作 リブリオ出版)みたいに、女が女を書いてもうまくいかないって場合もあるし。

オカリナ:文章の巧い人がそういうふうだと残念よね。

アサギ:子どもが喜んで読める文章を書ける人ね。会話が生きてるし、躍動感がいい。

愁童:一見うまいと思うけど、『誰が君を殺したのか』のややこしい日本語が懐かしくなっちゃうんだよね。

トチ:『天のシーソー』(安東みきえ作 理論社)もそうだったけど、文は人なりよね。ティーンの男の子の話だけど、中年の男の目から書いている。さちこさんもなおみも同じなのね。宝石をもらえば喜び、金目のものをもらえばうれしい。こういう語り口で違う考えのことを言ってくれたら、すばらしいんだろうな、と思った。ファッションについて、ひとつ。90年代にしても、着てるものがやぼったい。リボンがついてたりして。90年頃でも、センスのある子なら、そんなもの絶対に着なかったわよ。

ペガサス:作者がそういうのがかわいいと思っているから書いてるのよ。

ウォンバット:リボン好きですよね。あと、水玉も。

トチ:古いミステリーでも、着ているものの描写がでてくると、うっとりとすることがある。作者のセンスが出てくるのよね。あと、この本が出版された当時の書評に「最後の本物の真珠をちり紙につつんで女の子に渡すところで、読者は喝采するだろう」と書いてあったんだけど、私にはどういうことか分からない。相手の女の子が本物をもらっていながら偽物と思い込むところが、いい気味だと思うのかしら。

チョイ:もう1人好きになった女の子への唯一の免罪符っていうことだと思うけど。

オカリナ:あげないという選択肢もあったのよね。それをちり紙に包んで渡すというのは、いやらしくない?

チョイ:こういうメンタリティですよ。1回やるといったことはやるという。

ペガサス: 顔が立たなきゃというのがあるとか。粗末なもののようにしてあげたけど、本当は高価な物をおれはあげたんだ、っていう・・・。

アサギ:あげないという選択はなかったんじゃないの? 友達との関係でやらざるをえなくなったんだろうと思ったの。

チョイ:反省してると思うんですよ。成り行きでそうなったけど、株で儲けたお金でというのを、いいとは思ってない。

トチ:ちり紙につつんだことの意味は何なのかしらね。

アサギ:単純に、9月1日にって約束しちゃって引っ込みがつかない。プレゼントも買っちゃった。それでちり紙でいいやとなったんだと思ったの。好きじゃない子に高いものと思われても困るんじゃない? あぶく銭だという後ろめたさは感じるわね。

トチ:物に対する感覚が、嫌だなという感じがしたわ。残酷よね。金額に関わらず、筆箱の中で傷だらけになっちゃうだろう、っていう、その感覚がいや。

オカリナ:もともとリアルな話として書いてるわけじゃないんだから、100万円だろうと1000万円だろうといいんじゃない?

ペガサス:金額は、実際にはありえないんだからおもしろいんじゃないかな。中途半端に手が届きそうなより、いいんじゃないかな。

愁童:でも、その時代をまるごと肯定してしまうような書き方は、まずいんじゃないかな。

紙魚:なかなか厳しいご意見が出ていますが、私は皆さんとはちょっと違う視点も持ちました。もちろん物の大切さとか、愛情はパッケージじゃないこととか、今は当然わかっているけれど、シンプルにそう思えない若い頃もあったんじゃないかなと思いだしました。中学生のとき、同じクラスの女の子が誕生日に、つきあっている男の子から2万円の指輪をもらったんです。男の子は夜な夜な工事現場のアルバイトをしてお金をためて、その指輪を買ったんです。そのときに、クラス中でそのことが話題になって、いいなあとみんなからうらやましがられていました。それは、まだ指輪をもらう子なんてそうそういない頃で、指輪をもらうってこと自体がうらやましがられたし、しかも2万円もの高価な指輪だったってことがうらやましがられたんです。若いときって、幼いながらにそういうのをうれしいって思ってしまうことってあると思う。

アサギ:それはバイトしてくれたってところにウェイトがあったんでは。

紙魚:もちろんそれはそうです。でも、正直なところ2万円の価値というものもあったと思うんです。今は、ものの価値は金額じゃないとはっきり言えるけど、それは、その後、いろいろな人と出会ったり、いろいろな経験をしたからこそ、見出せたのであって、単純に若い子たちが高価なものがほしいと思ってしまう気持ちもわかるような気がします。若いときには、ほんとうの価値が見えないことがよくあるんじゃないかな。でもそれは幼稚さゆえのこと。幼稚な男の子と、幼稚な恋におちる幼稚な時代というのが一瞬あって、それはそれで、美しい年代だったりする。この物語は、その時代を描いたのかななんて感じました。

アサギ:今はもっと幼稚になってるわよね。男と女のことだけ突き進んじゃってるけど。

チョイ:身体はそうだけど、心はかえって退化してるみたいで、アンバランスよね。自立していない年代の騒動というか。時代を書くのも難しいし、時代を越えて書くのも難しいし、これからの仕事まで考えてしまった。この2冊で、どちらのやり方も難しいなと思った。

(2001年02月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


2001年02月 テーマ:10代の心

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『2001年02月 テーマ:10代の心』
日付 2001年2月20日
参加者 愁童、アサギ、ウォンバット、オカリナ、トチ、
ねむりねずみ、ウエンディ、ペガサス、チョイ、紙魚
テーマ 10代の心

読んだ本:

コルビー・ロドースキー『ルーム・ルーム』
『ルーム・ルーム』
原題:THE TURNABOUT SHOP by Colby Rodowsky, 1998(アメリカ)
コルビー・ロドースキー/作 金原瑞人/訳
金の星社
2000.12

<版元語録>母を亡くしたリビィは、母の友人ジェシーに引きとられる。明るくておしゃれだった母と違い、見るからに地味で常識的な彼女とは気が合いそうもない。しかし、さまざまな出来事の中で、やがて心を通い合わせてゆく。
イリーナ・コルシュノウ『だれが君を殺したのか』
『だれが君を殺したのか』
原題:DIE SACHE MIT CHRISTOPH by Irina Korschunow 1978(ドイツ)
イリーナ・コルシュノウ/作 上田真而子/訳
岩波書店
1983.05

<版元語録>君の死んだ日、ぼくは警察によばれた、ただ一人の目撃者として。あれは事故だったのか、それとも自殺か。みなぼくに問いただそうとした。だけど本当のことは、わからない。ぼくは、君の死の真の意味をさぐろうと思う。
斉藤洋『サマー・オブ・パールズ』
『サマー・オブ・パールズ』
斉藤洋/作
講談社
1990.08

<版元語録>中学2年の進は、好きな女の子の誕生日プレゼントを買うために、ひと夏でお金が必要だった。夏期講習でいっしょになったクラスメートの直美がすこし気になってもいる。ふとしたはずみで、おじさんからお金を借りて株を買った進だが…。株とプレゼントと揺れる心の行方は。

(さらに…)

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天のシーソー

安東みきえ『天のシーソー』
『天のシーソー』
安東みきえ/著
理論社
2000.06

ペガサス:この作品は、おとなになってから子ども時代を振り返ったときに、よみがえってくる、何か割り切れない感情、いわれのない不安といった感覚をうまく綴っていると思う。なんてことない小さなことだけど、非常に鋭いところを拾いあげてみせる手腕を感じたわ。でも、子どもの目で素直にというよりは、あくまでも、おとなになってしまった者の目から冷静に分析して、感情をおさえて淡々と書くという手法を、非常に意識的にとっていると思う。表現には、これはおとなのものだな、と思わせる視線が多々感じられた。6つのエピソードから成り立っているけれど、最後の「毛ガニ」がいちばんよかったかな。どのエピソードも、明解な答えが出ないまま、割り切れなさを残して終わっているけれど、それでも好感がもてるのは、子ども時代ってそういう割り切れないことがあるものだっていう感覚が、読み手の側にあるからだと思う。そうそう、今回は姉妹というテーマだったけど、姉妹というのは小さい時分には、母親の前で常にライバルで、結構生々しいところがある。家の中ではいやでも一緒にくっついている存在だけれど、いなくなると思うと、とてつもなく不安になるという関係が、よく描かれていると思う。

ブラックペッパー:読んでみておもしろかったけど、どうしてか、淡々としていて薄味という感じだった。きれいな文章だから、するするっと読めちゃったせいかもしれないけど、もうちょっとコクがあってもいいかなと思った。描かれている子どもの遊び方がなんだか昔っぽい。私が子どもの頃とは違ったので、作者自身が自分の子ども時代を書いたのかなと思った。今の子どもたちが読んだら、へだたりを感じるかも・・・。ずいぶん前に読んでから貸してしまって、その後時間がたってしまったので、薄味がより薄味になったみたい。最初の「ひとしずくの海」の中で、目かくし道の場面が好きだったんだけど、なにかで作者が「実際に小さいときやっていた遊びです」と書いてあったのを読んで、ちょっと醒めちゃった。

ねねこ:私は読むのは3回目なんですが、この本は、何が書いてあったか忘れやすいですね。最初に読んだときにはなかなかいい、2回目に読んだときにはそこそこいい、という具合だったんだけど、3回目に読んだときには、評価が下がりました。どうしてかというと、偽善的な匂いが鼻についてきたからなんです。例えば、「毛ガニ」で毛ガニをかわいそうだから返してあげなければと思う部分とか、「天のシーソー」でサノの後をつけていって、シーソーをして仲直りする部分とか。あやまりたいという気持ちがあったら、逆に後なんてつけられないんじゃないかしら。おとなの目で子どもを描いていて、主人公のみおという少女には、感覚的に違和感を感じました。p59の「仕事ってのはきちんとかたをつけなきゃ」とかp75の「ちいさい相手だからという理由で、ウソをいってはいけないときめていた」という箇所などには、作者の安東さんが思う「よい子」というのを感じる。その「よい子」ぶりが、3回読むうちにいかにも作られたもののような気がしてきました。「ひとしずくの海」の目かくし道などはいちばんいいと思ったけれど、佐藤さとるさんの短編に似てたり、「マチンバ」が『夏の庭』に似ているというのも評価が下がった点。この作者は、児童文学をいろいろ勉強しているんでしょうね。

ペガサス:私も作為的なものを感じたんだけれど、今回は好意的に受け取ったのよ。おとなから
子どもを見るという手法で、あえてそうしたのではないかと・・・。

ねねこ:どうも淡いスケッチのような、きれいだけど遠い感じなのね。後で出てくるパンテレーエフとはまったく違う。

オイラ:2回読んだのだけど、2回目のほうが評価は高かった。確かにストーリーはどういうのだったか忘れてしまったんだけどね。「この表現、すてきだなあ」という再確認ができたから。この人は比喩がいいんですよ。たとえば、「ローラーブレードをころがして、子どもたちがミズスマシのように鋪道の上をすべっていく」というところなんか、向田邦子作品のような心地よさで、比喩がとってもいい。「毛ガニ」の中での、「カーテンのすきまからのぞき見た」「夜中の町が月光に照らされて」「まるで海の底」に思えたところなんて、スケッチが絶妙だよね。鋭い表現力をもった新人が出てきて、うれしさを感じた。常々いい短編集を作りたいと思っているんだけど、なかなかその思いにこたえてくれる作家がいないんですね。この人はいい。中でも「毛ガニ」がいちばんよかった。他のに比べてストーリーもいい。

スズキ:エピソードの中では、「毛ガニ」が印象的でした。それから当然のことではあるんですけれど、短編集というのは1冊なんだということを実感しました。いろいろなスタイルを持つ物語を、どんなふうに並べるかということが効果につながるんですね。全体的に結論がなくて、もやもやが残ったけど、最後に「毛ガニ」でしめくくられたので結べたという感じ。みなさんからは、けっこうおとなの視点で描かれたという話が出ていますが、私もたとえば小学校高学年あたりで読んだらついていけなかったと思う。あまりにも表現がすばらしく、美しすぎて、作家自身の匂いがしないのが気になりました。大人の視点を貫くという手法もあるのだなあと勉強にもなりました。

アサギ:私はねえ、結論からいうと、この本は好きです。ペガサスさんが言ったように、自分の子ども時代が描かれているようだった。だけど、これが今の子どもに受け入れられるのかというと疑問。文章はうまいし、表現がいいところもたくさんある。なかでもストーリーのおさまりがいいのは、「毛ガニ」ね。姉妹の感じもよく伝わってくる。だけど、表現がよくても忘れちゃうのよ。印象に残らないの。表現力、文章力があるのに、ストーリー性が弱いのよ。なんとか最初の「ひとしずくの海」と最後の「毛ガニ」の両方でしめているという感じ。ねねこさんが言ってたように距離感を感じてしまうのは、おとなになってから子ども時代をふりかえって書いているからじゃないかしら。だから躍動感がないのよね。子どもには受け入れられないかも。

トチ:作家のYHさんに、私の作品について「表現とか形容をブラッシュアップするのもいいけれど、そんなことばかりしていると、せいぜいエセ安房直子的な作品を書いただけで終わってしまう」と言われて、ずしんと心に響いたことがあるの。読みやすいし、うまいし、感じはいいけど、マチンバにしろハーフの兄弟にしろ、どの人も主人公の人生にふらりと交錯して通り過ぎただけなのよね。どの人も本当の意味でコミットメントしていない。サノたちは、この主人公のために存在していたのではないかと思うくらい。ねねこさんが偽善的と言ったけど、「毛ガニ」の中での母親の描き方が共感できない。いただきものの悪口を母親自らが言うなんて。うちでは、子どもの前でいただきもの悪口を言ったりはぜったいしない。この部分は猛烈に腹が立った。すぐ煮て食べて感謝しなきゃ。それに、あの運転手はぜったいに食べたにきまっているわよね。

オカリナ:食べた方がリアルだけど、作者はきっとそうは思ってないはず。そこが困るとこ。

トチ:腹立たしいのは、名簿の話もそう。文章や表現はいいけれど、いらいらするの。前に魚住直子さんの『超・ハーモニー』(講談社)を読んだ時も言ったけど、どうして日本の児童文学の母親像ってステレオタイプなのかしら。元気で小太りか、病弱で美しいかのどちらか。母親像の貧しさったらないわ。どうして、動いているカニくらい始末できないのかしら。小動物ごときを怖がってキャーキャー騒いだり。

愁童:オイラさんが好きっていうのはよくわかる。まー、ぼくも好きなんだけど。この会の最初の頃に、ねねこさんが「この読書会は日本の作品に厳しすぎる」と言われたけど、確かに日本の作品に対しては評価が偏ってるかも。好きなものでもなんだか文句言いたくなっちゃうんだよな。日本人は花鳥風月が好きだけど、この本、確かに描写はうまいんだよね。情景描写がうまくて、場面も残る。読んでいるときは気持ちがいいんだけど、なにか足りないんだ。結局のところ、人なんだよね。この本はしゃれているし、スマートだし、読後感もいいんだけど、登場人物にかける執念がないんだ。おとなとして子ども時代を振り返るのも文学のありかただけど、児童文学として子どもに読ませる覚悟があるなら、こういう書き方はどうかな?「針せんぼん」の姉妹の描きかたには違和感をもったけど、でも帰り道でミオが妹のヒナコ会うところなんかはうまい。出だしの「ひとしずくの海」のマンガ本のお金について姉妹げんかするところも、子どもの神経をうまく書いている。こういうところをふくらましてきちんと書いてくれれば、もっといいんじゃないかな

オカリナ:2回読んで、最初はよかったんだけど、2回目読んでみて、腹が立ったの。腹が立ったっていうのは、自分の中に、こういう世界を心地よいと思う気持ちがあって、そこから抜けださなくちゃって思いもあるからなんだけど。いちばんまずいのは、現実がとらえきれてないところ。唯一ちゃんと書けているのは、妹とのやりとりで、あとは登場人物と真剣にかかわっている感じがなくて、ほかの人たちはみんな背景とか飾りみたいになってる。文章はいいし、こういう心象スケッチって、私もとても惹かれるんだけど、下手すると自己陶酔的なセンチメンタリズムで終わっちゃう。主人公が出会うのは、自分より弱い立場の人ばかり。再婚家庭だったり、一人暮らしのおばあちゃんだったり、父子家庭の幼い子だったり(しかも母親が外国人)、体が不自由な人だったりね。まわりの人たちを上から見て思いをかけ、そういう自分を美しく描いてるって気がする。まわりの人を、無意識的に健気とかかわいそうという対象にしちゃってる。それに、中3の女の子が小4の女の子と手をつないで、「目隠し道」なんてするかな? もっと幼い年齢ならわかるけど?

ブラックペッパー:そうよねー。でも、昔はやったのかも・・・というか、作者はやってたわけだけど。

オカリナ:この作家はやったかもしれないけど、リアルに想像しにくい。「サチねえちゃんがうちに帰れなくなったときには、あたしがつれていってあげるよ、目かくし道で。だから帰ってきて。きっとまた帰ってきて」「涙がつたってくちびるをぬらした」というところなんか、センチメンタルとしか思えなかったけどな。

ねねこ:私も3回目に読んだとき、何となく美しいイメージにごまかれていたんじゃないかと、自分に腹が立っちゃった。

オカリナ:それに「マチンバ」で、最後、おばあちゃんがピンポンダッシュを好意的に受け取っていたということがわかるでしょ。好意的にとるから美しい話になるんだけど、リアルな状況ではまずありえないよね。このおばあちゃん、ぼけてるわけじゃないんだし。

トチ:本当にうまい作家の作品は、たった1行だけで、とてもたくさんのことを言っているのよね。例えば『テオの家出』(ペーター・ヘルトリング.著 平野卿子訳 文研出版)で、テオがパパフンフンに「おじいさんのうちの家族は?」ってきく場面があるでしょう。するとパパフンフンは一瞬だまってしまうの。そこのところのだった1行の描写読んだだけで、それまでのパパフンフンの人生が読者の目の前にぱあっと広がるのよね。

オカリナ:そうそう。さっきローラーブレードの比喩がうまいって話がでたけど、ローラーブレードは水すましのようにはならないんじゃない?

トチ:あめんぼと水すましって、関東と関西で言い方がちがうのよね。

オイラ:水すましっていうのは、足がすらっと長くて、ぴょーんといくのでしょ。(オイラの勘違いでした。ハズカシイ!)

ブラックペッパー:水すましとあめんぼの違いはよくわからないんだけど、ローラーブレードはアイススケートみたいに、縦一列にローラーがついてて、シャーッシャーッとすべるように進んでいくやつのことでしょ。トンッスー、トンッスーというのはローラースケートかも。

アサギ:ところで、さっきの「マチンバ」の話に戻るけど、私は子どもたちのいたずらを好意的に受け取ったのは、そう思いたいほどおばあちゃんが孤独だったからかと思ったわ。

オカリナ:いくら人のいいおばあちゃんでも、ピンポンピンポンあれだけされて、そう思うかしら? 私には、おばあちゃんがお菓子を用意して待ってたなんて書くことが、年寄りをバカにしているようにも思えるんだけど。「針せんぼん」の父子家庭の兄弟の話にしたって、リアリティがぜんぜんないの。お父さんが風邪をひいたからおばあさんのところに預けられてた5歳と3歳の男の子が、随分前にミオと約束したのを思い出して、寒い日に長い道のりを歩いてミオの家に来るのね。それも、親の人形を紙粘土でつくってそれに色づけするからっていうことで、よけい哀れな感じなんだけど。で、ミオの方は約束をすっかり忘れてて、そのまま幼児たちを帰しちゃうんだけど、この子たち、すぐ近くの家にいるお父さんのところには寄りもしないで、また遠い寒い道をおばあちゃんの家まで帰ったという設定なのね。それで、この子たちの哀切感を出そうってことなのかもしれないけど、子どもってそんなもんじゃないでしょ。3歳と5歳の子どもがけなげに会いにいくっていう設定も、嫌らしい感じがして・・・。いい加減にお姉さんぶってるミオの同情なんか、木っ端みじんにするくらい、小さな子だってエネルギーもってると思うのよね。リアリティのない美しさにだまされちゃいけないんじゃないかな。それから、「天のシーソー」でサノが、帰り道お父さんの前を知らん顔して通りすぎるところがあるでしょ。「カタン、オレのしたことが重い? コトン、あたしのしたことが重い?」って、サノは自分の行為を悪いと思ってるっていう設定なんだけど、あの年頃の男の子が、親を避けるのはあたりまえじゃない?

アサギ:お父さんの前を知らん顔して通り過ぎたのは、貧しさが恥ずかしかったってことよね。

ねねこ:シーソーの話は、ミオがサノにあやまろうと後をつけていって、「あたしたちがわるい。ぜったいにわるい」と言うところが、嫌だった。

ペガサス:子どものときには、ああいうことってあやまろうと思わないはず。うしろめたさや罪悪感は感じていても。

オカリナ:おとなが子ども時代を回想して郷愁にひたるのはいいとしても、子どもにそれを押しつけちゃいけないでしょ。

ペガサス:おとな向けか、子ども向けか、わかりにくい体裁なのよね、この本は。それにしても、子どもはあやまろうとなんてしないわよ。

ねねこ:悪いとは思うかもしれないけど、本当に悪かったと思えば思うほど、そう簡単に言えないのが人間じゃないかな。

:技巧的にシーソーを使って、罪が重いというイメージを出そうと、そっちが先行していたんじゃないかしら。作者はそう深くは考えていないかも。

ペガサス:そこに問題があるかもね。

ねねこ:その象徴が「毛ガニ」よね。今さら海に帰っても、毛ガニは生きられないでしょ。

オカリナ:お道具箱につめてわたしちゃうなんて。

愁童:でも、この作家は才能あると思うよ。「マチンバ」の最後の方で、妹のヒナコがぱくっとチョコレートを食べちゃうあたりなんて、よく書けていると思うし、「天のシーソー」で、シーソーをこいでいる描写などもうまいしね。

オカリナ:私もうまいとは思うの。でも、スキルがあって内容がないとしたらもったいない。

愁童:ぼくは、『バッテリー』(あさのあつこ著 教育画劇)は好きじゃなかったけど、兄弟の描きかたは、この作品に較べたら、はるかにいいと思う。うまい下手はともかく、作者が伝えたいと思ってる人物象がきちんとあるもの。

:男の兄弟と、女の姉妹は根本的に違うとは思いますが。

ウェンディ:私は今日ばーっと読んだんだけど、昔の子どもってこんなだったんだと思いました。今の子どもたちに読んでもらえるとは思いにくい。他の学年の人と交じってドッジボールするなんていうのも懐かしい感じ。でも、昔だってこんないい子はいなかったのではないかな。古きよき時代を振り返っての、いい子ども像が描かれているよう。記憶の中の物語というところでしょうか。

紙魚:読んでみて、なんだかこの感じ何かに似ていると思って考えてみたら、そうそう、昔小学校で読んだ、道徳の教科書みたいでした。小さい頃は、この子のどこがいけないのか、どういうところがやさしいのか、この事件を通して気持ちはどのようにかわったのか、などという設問に答えるのはとっても嫌だった。この本は、設問として傍線が引かれるであろうところが見えかくれしていて、好きになれなかった。

:私はまず、なぜ名前がカタカナなのかが疑問。この本は、情緒的なものをコアにしているけれど、情緒的なものに流されないように書いている。ノスタルジーというよりは、ロマン派的子ども像といった感じで、子どもをふりかえるというよりは、理想的な子ども像を構築しているのではないかしら。ハーフの兄弟の面倒を見たりするところは、決してリアルじゃない。シーソーがカタン、コトンというのもやめてほしい。皆さんから出てきた、偽善的、薄味といった印象を私ももちました。ただ、言葉にならないものを言葉にしていく、メッセージにならないものをメッセージにしていくという点で、短編というかたちをうまく使っているとは思う。「毛ガニ」がいいと言える人はえらいと思います。

アサギ:そういえば、カタカナで名前を表記するのは、川上弘美なんかもそうよね。彼女なんか、苗字もカタカナよ。

ブラックペッパー:『少年と少女のポルカ』(藤野千夜著 講談社)もそうだった。

オカリナ:カタカナで表記した方が、記号的になるからね。

ねねこ:作品の中で、憐れみをかけている相手は、漢字で表されているみたいね。

アサギ:カタカナの方が、観念的だからかしら。

ペガサス:それにしてもヒナコっていうのは、カタカナが似合わないと思わない?

一同:そうねえ。

オイラ:いろいろ批判的な意見が出ているけど、表現がうまいという点で、それだけでも評価したいな。確かにストーリーは弱い。人生観には共感しにくい。重松清のように、著者の強い人生観を見せつけるというような面は薄いけれど・・・。

オカリナ:もしかしたら、私も子どものときは、こういうの好きで読んだかもしれない。でも今は、子どもが読むものだったら恐いなと思う。「毛ガニ」なんか特に。

アサギ:「毛ガニ」がだめだっていう人も多いけど、私は寓話的な感じがしたので、気にならなかったわ。

トチ:オイラさんが言ったように「登場人物の人生観を見せつけるというような面が薄い」というわけではないと思うのよ。作者が薄くしようと思っても、濃くしようと思っても、自然にあらわれるものだと思うの。表現がうまいから、なんだかいい声の人のつまらない話を聞いている感じも・・・。

ねねこ:この作品は、悲しみの底が浅いように感じるの。作者の人生の幅が感じられない。どうも頭で書こうとしてる気がする。

ペガサス:表現と内容(人生観)のギャップに気づいちゃうと、もうそこで読み進められなくなるのよ。こういう人は、ファンタジーを書いたほうがいいわ。

オカリナ:ファンタジーだって、世界観がないと書けないでしょ。

一同:(うなずく)

トチ:命の大切さが感じられないしね。カニに対してかわいそうだわ。

愁童:でも、日本人は本質的にこういう本は好きなんじゃないかな。

ペガサス:表現がうまいだけじゃ、子どもは読まないわよ。

トチ:いや、子どもだってうまい表現っていうのを好んだりするわ。吉田弦二郎みたいのを好んで読んだりするわよ。

ペガサス:でも、おとなは表現がうまいってだけで楽しめるからね。

アサギ:たしかにこの人、表現うまいわよ。私、翻訳するときに使おうと思ったところいくつかあったもの。

:では、元気があるうちに、そろそろつぎの本に・・・。

(2001年01月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ジョコンダ夫人の肖像

カニグズバーグ『ジョコンダ夫人の肖像』
『ジョコンダ夫人の肖像』
E.L.カニグズバーグ/作 松永ふみ子/訳
岩波書店
1975.12

トチ:カニグズバーグの作品の中でも、この作品は今回改めて読みなおすまで、よく覚えていなかったわ。『クローディアの秘密』(松永ふみ子訳 岩波書店)の子ども像の描写はとてもうまくて好きだったけれど。これは、子ども像の描き方は巧いんだけれど、もう一つ高尚な世界。芸術の本質を描いているけど、感動はなかった。登場人物が好きになれなかったからかしら。何を語ろうとしているのかわからなかった。この作品、欧米では評価が高いらしいけれど、それはダ・ヴィンチが欧米人にとっては自分の文化に深くつながっている人物だからという面があるんじゃないかしら。あと、翻訳者に感動がなかったからかも。翻訳者自身、カニグズバーグが描こうとしたダ・ヴィンチの本質をわかって訳していたのか、疑問ね。もう少し感動して訳していたら、違った印象になっていたかもしれない。

ブラックペッパー:カニグズバーグは大好きで、子どもの頃ほとんど読んだんだけれど、この作品はイマイチだったんだなー。やっぱり『クローディアの秘密』とか『ロールパンチームの作戦』(松永ふみ子訳 岩波書店)なんかが好きで、これはあまり印象に残っていなかった。ところが、今回読みなおしてみたら、いいなと思って。それはきっと自分が大人になったからだと思うんだ。たぶん子どものアタマ、子どもの感覚には難しすぎたんだろうね。芸術の本質だとか、ミラノの王侯がどうしたとか、小学生にはなんのことやらわからないもの。イザベラとベアトリーチェの確執とか、結婚生活とか、婚姻によって貴族の力を伸ばすとか、そんなことって、子どもの頃は興味がなかったから。でも、今では知識もちょっとは増えてるし、おもしろく読めた。ひょっとして、大人向けに出したら、もっとおもしろいんじゃないかなと思ったな。

オイラ:義務感で読んだだんだけど、途中で投げ出してしまった。

ねねこ:この作品は、20代の頃はじめて読んで、その頃は『クローディアの秘密』のほうがいいと思ったの。でも、今回読んで、おもしろいと思った。教養小説という感じで、14〜15世紀イタリアの知識が得られて、ためにもなった。資料に基づいていかに小説に作るか、わかっていない部分を推理して作り上げることのおもしろさが、小説の醍醐味のひとつだと思うのね。自分自身のイタリアへの興味が、以前より増えたこともあってか、今回は、一気に読んだ。「姉妹」というテーマに沿って言うと、器量はよくないけれど教養が魅力のベアトリーチェ、美貌に頼ったイザベラという構図はありきたりで、深い感動はなかった。それより「芸術とは何か」についての作者の考えがとてもわかりやすく述べられていて、おもしろかった。また、「無責任であることの責任」とか、芸術に不可欠のワイルドさ、野放図さの概念なんか、なるほどと思い、読んで損はなかったな。

紙魚:この作品は初めて読みました。カニグズバーグだし、めくるめくストーリーかと思いきや、神妙な雰囲気でおもしろく読んだの。でも、小学生のときに読んだら、このおもしろさは決してわからなかったんじゃないかな。児童文学をリアルタイムで読んだとき、こういう形式のものは読み取れなかったもの。ストーリーのおもしろさがなければ、仮に頑張って最後まで読んだとしても、印象には残らないんじゃないかな。私はミヒャエル・エンデの『モモ』(大島かおり訳 岩波書店)や『はてしない物語』(上田真而子訳 岩波書店)を読んで、すごく気に入って、エンデのものは全部読もうとしたんだけど、『鏡の中の鏡』は(丘沢静也訳 岩波書店)は、小学校高学年や中学生くらいでは無理だった。この作品も、今読んでみると、それぞれの人物が不条理を抱えつつ生きている。例えば、サライは、しいて分ければ悪人に入るだろうけれど、はじめのうちは人をだまし、人の心を弄ぶ。でも、この本の体裁からは、まさかそんな話だとは思わない。様々な人間模様は、リアリティはないのだけれど、舞台で演じられている劇を見るつもりで想像しながら読めた。その意味で、シナリオを読んでいるような気分だった。シナリオも子どもの頃はうまく情景が想像できないですよね。

ブラックペッパー:アクが強いっていうか、ひとくせもふたくせもあるような人ばっかり出てきて、ちょっとしんどいしね。

トチ:最後まで来て、ジョコンダ夫人の夫がいい人で、ようやっとホッとできるのよね。

オカリナ:ダ・ヴィンチとサライの関係って、他で読んだことがなかったからおもしろかった。ただ、松永さんの訳は、上品すぎるんじゃないかな。

トチ:そう、「若者をベッドへ導いて行った」(p133)という1行も、意味がよくわからないで訳したような感じよね。

オカリナ:ダ・ヴィンチとサライは同性愛だったと思うんだけど、この1行だけで、他の描写からは伝わってこないわよね。それにサライは、最初のうち一見何も考えていない脳天気な少年なんだけど、後のほうでは少しずつ思索的になっていくでしょ。松永さんの訳では、その対比が消えちゃって、ダイナミズムがそがれているような気がする。そのせいで、感情移入しにくいのかな。ベアトリーチェが魚の上に金貨を並べる場面なんか、嫌らしい女性だな、って私なんか思うんだけど、どうしてサライがそんなベアトリーチェにまだ惹かれているのか、というところが出てくると、もっとおもしろいのにな。今のままだとベアトリーチェの人間的な魅力が薄っぺら。サライとベアトリーチェもひょっとして関係していたとしたら、なんて考えると、大人の本として書いたらもっとおもしろいのかな、とも思うけど。

トチ:そのへん、訳者はどう思っていたのかしらね。『彼の名はヤン』(イリーナ・コルシュノフ作 上田真而子訳 徳間書店)でも、上田さんは、官能的なところをセーブして訳してるでしょ。

オカリナ:この本、図書館で借りようとしたら、閉架書庫に入っていて、出してもらわなくちゃならなかったのね。子どもはアクセスしにくい本になっているのかな。

ペガサス:この本が1975年に日本で出たとき、私は図書館に勤めていて、当時、カニグズバーグは昇り調子で、アメリカ現代児童文学の旗手として注目されていたのね。だから旬な作家、旬な作品として非常に楽しみに、おもしろく読んだことを覚えている。でも、子どもたちがこの本を実際に手にとっている姿は記憶にないな。『ロールパンチームの作戦』や『クローディアの秘密』は人気があって、実際に子どもたちがつぎつぎ借りていったし、ブックリストにもよくとりあげたんだけど。外国の、しかも歴史を扱った作品の宿命ということもあるかもしれないわね。ダ・ヴィンチとかモナリザの評価を知らないと無理よね。歴史が舞台になっていても、子どもも楽しめる作品というのももちろんあるけれど、この作品みたいな謎解きのおもしろさは、下地がないと難しいよね。あと、サライの言葉遣いが妙に子どもっぽいのが気になったわ。もう少し大人っぽくてもよかったんじゃないかな。サライの人間像は、ほんとうはもっと生々しく魅力的だったんじゃないかな。この訳だと、無邪気な子どもとしか捉えられていなくて、ちょっと物足りない。

オカリナ:この作品の中で、サライは10歳から20歳まで成長するのよね。

ペガサス:そうそう。なのに、ずっと子どもっぽいままなのよ。この人物の本当の魅力が活かしきれていない気がして、物足りないのよね。

愁童:ぼくもカニグズバーグの作品は全部読んでいたんだけれども、この作品はいちばんつまらなかったね。大人の読者として読めば、すごくおもしろいんだけども、カニグズバーグの作品としては、やや期待外れの感じ。カニグズバーグが作家的成長をめざして、新しい分野にチャレンジするエネルギーとか才能は感じるし、貴重な作品、いい仕事とは思うんだけれど、今読むとカビ臭さは否めないね。少なくとも、日本の子どもにはわからないだろうね。

ねねこ:初版から25年で13刷というのも、岩波の本にしては遅いわよね。

愁童:英語圏の子どもには、身近な題材なんだろうかね。

トチ:日本の子が織田信長を読むようなものでしょ?

スズキ:サライの何にも束縛されない奔放さなんかがおもしろかった。『天のシーソー』の後に読んだから余計そう思うのかも知れないけれど。人物それぞれにクセがあって、それがよく描けていると思ったし、温かさが伝わってきて、のめりこんで一気に読んだわ。ジョコンダ夫人が誰かという落ちにも意表をつかれて、感動して読み終えました。読んでよかったと思った一冊。ダ・ヴィンチについて、これまで、雲の上の人という印象しかなかったけれど、どんな天才にも欠点があって、支えあって生きているんだというメッセージもこめられているんじゃないかしら。カニグズバーグの作品だということを忘れて読んだ。

アサギ:おもしろく読んだけれど、これは子どもの本ではないわね。個人的には関心あるテーマだったけれど・・・。レオナルドのような天才が、サライのような人間を必要としていた、というあたり、すごくおもしろかったわね。ただ、すごく読みにくかったわ。なぜかっていうと、初歩的な翻訳テクニックと言われる話になるんだけど、欧米の作品って、同じ人物を、名前で呼んだり、「誰の弟子」「誰の夫」「誰の娘」といった人間関係を使ったりと、くるくる言いかえるじゃない。それをそのまんま訳しているから、つながりがとてもわかりにくいのね。人間関係を把握しながら読むのに、とても骨が折れたわ。でも、最後のオチなんか、うまい!と思った。実力のある作家よね。うまく訳せていれば、もっと違う作品になったはずよ。

トチ:訳者は、実はこの作品が好きじゃなかったんじゃないかしら?

アサギ:どこかずれているのよね。『ロールパンチームの作戦』とかではそうは思わないんだけれど。訳がよければ、感想も違ってきてると思うのに、とっても残念だわ。

トチ:この時代の訳って、こんな感じだったのよね。

ねねこ:巻き毛を直してやる場面なんかもそうよね。

アサギ:作者がこれだけは絶対言いたいということを、端々で匂わせるような訳を心がけなきゃと思うのね。ベアトリーチェの魅力なんかも、今ひとつ伝わってこないでしょ。でも、それはともかく、芸術の本質を垣間見たという意味ではおもしろかったわ。レオナルドにとってサライがかくも重要だったというあたり、原書はもっとすばらしいはずよ。

:きっちりした小説作法に則った、少し前の作品という感じがしましたね。姉妹の関係が構造的にぴったりはまっているの。つまり、人間の裏と表、光と闇を、2人の人間に分けて描くという形をとろうとしたんじゃないかしら。そういう小説作法の中に位置づけたからこそ、ベアトリーチェはこういう人物として描かれたのではないかと思うの。そして、正反対な2人を芸術が統合する、という構図を、「モナ・リザ」の背景としてもってきているんじゃないかしら。姉妹というテーマから読んでみると、この小説における姉妹の役割は、そういうふうに捉えられると思うのね。
会話のかけあいから物語が展開する話という意味では、最近私が関わった短編集『こどもの情景』(A.A.ミルン著 パピルス)の中にも、まさにそういう作品が収録されてる。幼年文学における兄弟姉妹の役割ということを考えると・・・幼い子どもと“同じ背丈”の兄弟姉妹というのは、幼年文学において、不完全がセットになって、子どもの領域を浮き彫りにするという役割を果たすと思うのね。一人一人の人物が、子どもにとって、自分を投影しやすい存在になっている。その中でも、兄弟と姉妹の役割には厳然たる違いがあって、その組み合わせによって、意味も違ってくるのではないかと思っているの。姉妹ならどうしてもジェンダーの問題がからんでくるし、兄弟なら兄を乗り越えていく弟というテーマがつきまとう。そんな意味から、今回読み返してみて、小説におけるきょうだいの役割という問題に、新たな答えを得られた作品だったわ。

(2001年01月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ベーロチカとタマーロチカのおはなし

パンテレーエフ『ベーロチカとタマーロチカのおはなし』
『ベーロチカとタマーロチカのおはなし』
L.パンテレーエフ/作 内田莉莎子/訳
福音館書店
1996.03

アサギ:どうもロシア語の発音というのは日本人には異質のようで、この「タマーロチカ」と
いうのを「タマローチカ」と読む人が多いのよね。この本は、幼年童話としてはよくできていると思う。ただ、古いなと思った。この内容で、今の子は共感するのかしら? ちょっと骨董品を読む感じで。というぐらいで、あまりにも問題性がなかった。

愁童:それなりに読ませるんだけど、キノコとか、海水浴とか、状況設定が日本には合わないんじゃないだろうか。ぼくには、今の日本にこれを持ってくる送り手側の意図がわからない。まあ、幼年童話の教科書的存在ではあると思うけどね。

トチ:私は、幼年童話は特に新しくなくていいと思うの。この本は読者が主人公を自分よりちょっと下に見て「この子たち、こんなことやってるんだ。ばかだなあ。でも、おもしろそうだなあ」という、一種の優越感と幸福感が持ち味になっている。私も子ども時代に読んだら大好きになっていたと思うわ。姉妹の着ているワンピースの色なんて、小さい頃に読んだらわくわくしただろうな。

ペガサス:『ミリー・モリー・マンデーのおはなし』(ジョイス・ブリスリー著 上條由美子訳 菊池恭子絵 福音館書店)とか『ジョシィ・スミスのおはなし』(マグダレン・ナブ著 立石めぐみ訳 福音館書店)もそうだけど、幼稚園上級から小学校低学年あたりの子どもに、読み聞かせてあげるととても楽しめるお話のひとつ。エピソードのつみ重ねで、耳から聞くとおもしろい話だと思う。外国の風物なども出てきて、知らない国のお話をちょっと聞かせてもらったという感じね。

ねねこ:よき幼年童話の典型と言えるでしょう。全体的にお父さんのかげがないのが気になったけど、こういった幸せな幼年童話というのは、今やメルヘンに近くなっているのではないかな? 浮浪児だったパンテレーエフは『金時計』など、もっと激しい切ない作品があるけれど、これは53歳のとき、自分に遅くなってやっと子どもができた頃の作品だから、幸福感が流れているわね。

紙魚:私はこの本は大好きです。もし自分がもっと幼いころに出会っていたとしたら、きっと母に枕もとで読んでもらったんだろうなという状況が思い起こされる物語。ベーロチカとタマーロチカの名前のところを、きっと母は、私と姉の名前に置きかえて読んでくれただろうなとか。実際、母が私たち姉妹のいたずらを題材に、手づくり絵本を作ってよく読んでくれていたんですが、なにしろ物語の中で自分たちがしでかすいたずらにどきどきしてたんです。なんてったって最初のページの「ふたりとも、いうことをきかない女の子でした」っていうところで、ぐっとひきつけられる。日本のお話なら『いやいやえん』(中川李枝子著 大村百合子絵 福音館書店)かもしれないけれど、子どものときに「いうことをきかない」ってことは、とっても魅力的だったんです。

スズキ:私は、最後の「おおそうじ」がすごくうまいと思った。子ども独特の、ものごとを大きくとらえられず、ひとつのことしか見えない様子なんかを、うまく出していると思う。古典的な幼年童話というのは、ほめ言葉であるのと同時に、もっと新しい作品をという意見でもあるけれど、幼年童話には安心感があるということが第一条件なのではないかな。もちろん、そうじゃない描き方もあるけど。それにしても、いたずらっていうのはマジックがありますね。つぎつぎとやってくれるというのが、お話をうまく動かしていると思います。

オカリナ:私は、この本は単なる典型的な幼年童話と少し趣が違うと思ってるの。なぜかというと、たとえば森の中でこの子たちが隠れてわざとお母さんを心配させようとするところがあるでしょ。それに対してお母さんは、子どもの声が聞こえなくなっても、立ち止まらずにどんどん先に行ってしまうわけよね。これ、リアルな状況として考えてみると、怖い。子どもは、自分が主人公になって物語に入りこむわけだから、リアルな状況としてとらえると思うの。子どもとお母さんの距離がけっこうある。そんなせいかどうか、福音館でも『ミリー・モリー・マンデー』とか『ジョシー・スミス』はよく売れるけど、これは売れ行きがイマイチらしいのね。

トチ:私も「『ジョシィ・スミスのおはなし』(マグダレン・ナブ著 たていしめぐみ訳 たるいしまこ絵 福音館書店)みたいなのを探してきてって言われたわ。

愁童:ぼくは、なんだかこの本はしっくりこないんだな。どうしてこのような古いものを、わざわざ今の子どもに読ませようとするのかがわからないんだよ。今の子にぴったりくるとは思えないな。

オカリナ:古い感じはしないけど。

愁童:送り手側の思いこみであって、受け手にはどうしてもギャップが生じてしまうように思うんだよね。この病んだ時代、幼稚園だって不登校があるんだ。ここまでハッピーな話っていうのも、どうかと思うけど。

オカリナ:子どもが幼いときには、ハッピーな物語って大切だと思う。生きていていいんだよっていうメッセージを、まわりから受け取って安心する時期があってこそ、次の段階に行けるんじゃないかな。

愁童:でも、どうも嘘っぽいんだよな。この本は、悪くてもいいんだという解放感をあたえてくれるから、おもしろいんでしょう。悪くても社会は受けとめてくれるという安心感があったからだよ。今の時代の子どもたちは、昔よりずっと希薄な人間関係の中にいるんだから、状況は違うと思う。さっき、「いうことをきかない」っていう部分がいいって話が出たけど・・・。

紙魚:「いうことをきかない」っていうのは、時代をこえて子どもに魅力的なことなんじゃないかと思うの。たとえ、社会に受けとめる余裕がなくても、この本の中で、「いうことをきかない」子どもたちがのびのびと動いていることが、読者にとっておもしろいでしょうし、たいせつなことだと思うし。

愁童:物語の中に、自分も同じことをやるかもしれないっていう、ふみこめる領域がないといけないと思うよ。キノコこ狩りや海水浴は、今の子どもたちにわくわくするような機会をあたえられる題材じゃないよ。

オカリナ:幼い姉妹だけで海には行かないかもしれないけれど、子どもって近所の公園の池で遊んだりするときに、そこが海だと思ったりするでしょ。だから、この物語だって、別に遠い話だとは思わないんじゃないかな。

ブラックペッパー:私はほのぼのとかわいらしく、安心感があるこの本がとっても好き。いうことをきかない子がいたずらをするというのは、とってもおもしろくて、読んでてうれしくなる。古いんじゃないかという意見もあったけど、『おさるのジョージ』シリーズ(M.レイ&H.A.レイ作 岩波書店)だって古いけどわからないというわけでもないと思うんです。なかでもくだらない会話がおもしろい。キノコ狩りのところで、お塩をつけるとかつけないとかっていうところが絶妙。こんなにおもしろいのは、なかなかないと思います。

オイラ:読んだ後、幸せになったなあ。子どもの側からすれば、どんないたずらをしても、お母さんには怒られても許してもらえるんだという安心感、お母さん側からすれば、子どもがどんないたずらをしても、容認するということ、この物語には、そうした母と子のとてもいい関係がある。この本を、いらいらしているお母さんが読めば、きっとゆったりとした気分になると思う。

ねねこ:日本の幼年童話のなかにも、松谷みよ子さんとか、いせひでこさんとかに、姉妹を描いたものがありますが、そうした人たちの作品には、どこか、お母さんに不安感や、時代の反映があります。赤ちゃんを迎えにいくところなどでは、お母さんの焦りがこちらに伝わってきます。そういう意味では、松谷さんなんかは時代を描いていたということでしょう。この『ベーロチカとタマーロチカ』は、生活に迷いが生じなかった時代の幼年童話なのでしょうか。子どもからすれば、どちらの類も違和感なく読めるとは思います。ただ、そんなことを考えていくと、今の時代ではどんな幼年童話を作っていけばいいのかと迷います。

オイラ:現実は不幸なので、物語は幸福でいいと思うけど。

愁童:うーん、この物語なんかは、耳から入ったほうがいいかもしれないね。「おおそうじ」でインクがこぼれる部屋のお話なんておもしろいし。ただ、今の時代にこれを読む余裕があるのかということが気になるね。

オイラ:読者からの感想でいちばんうれしいのは、「読んだ後、幸せな気持ちになれた」という感想。この本のように、お父さん、お母さんがゆったりと子どもに読む幼年童話が、もっとできてほしいですね。

(2001年01月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


2001年01月 テーマ:姉妹

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『2001年01月 テーマ:姉妹』

 

日付 2001年1月25日
参加者 愁童、アサギ、オイラ、ブラックペッパー、オカリナ、
スズキ、ウェンディ、ペガサス、裕、トチ、ねねこ、
紙魚
テーマ 姉妹

読んだ本:

安東みきえ『天のシーソー』
『天のシーソー』
安東みきえ/著
理論社
2000.06

<版元語録>なんの約束もなしにこの世に生まれたことが、たよりなくてしかたがないときがある。―大人と子供のはざまの時間。不安と幸福が隣り合わせだった。大人と子供のはざまの時間を切りとる安東みきえ待望の単行本。
カニグズバーグ『ジョコンダ夫人の肖像』
『ジョコンダ夫人の肖像』
原題:THE SECOND MRS. GIACONDA by E.L. Konigsburg, 1975(アメリカ)
E.L.カニグズバーグ/作 松永ふみ子/訳
岩波書店
1975.12

<版元語録>永遠の謎を秘めた名画「モナ・リザ」。レオナルド・ダ・ヴィンチは、なぜ、フィレンツェの名もなき商人の妻ジョコンダ夫人の肖像を描いたのだろうか。
パンテレーエフ『ベーロチカとタマーロチカのおはなし』
『ベーロチカとタマーロチカのおはなし』
原題:Belochka i Tamarochka by L. Panteleev, (ロシア)
L.パンテレーエフ/作 内田莉莎子/訳
福音館書店
1996.03

<版元語録>いたずら好きの女の子のベーロチカとタマーロチカは、おかあさんの言うことをちっともききません。騒動を起こしては、おかあさんを困らせてばかり。ロシアの楽しい幼年童話です。

(さらに…)

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象のダンス

魚住直子『象のダンス』
『象のダンス』
魚住直子/著
講談社
2000.10

ねむりねずみ:私はこの本、図書館で借りられなかったから、がんばって立ち読みしてきた。どうも、後味がよくないのよね。深澄がめがねを数えるのとか、タイ人の女の子チュアンチャイとの出会いの場面なんかは、とってもうまいと思う。でもね、どっかひっかかるんだな。ナゼだ?! と考えてみると、私はやっぱり、あのラストが嫌なの。深澄は「あぁ、チュアンチャイも、やっぱりお金だったんだ」って、裏切られた気持ちでいたのに、象のダンスを踊って、仲よしして、ハイおわり、でしょ。それでいいの? と思っちゃう。感情的な部分でとりあえず仲直りみたいなのでいいのかな。ほんとうはチュアンチャイにとってのお金の大切さと自分にとってのお金の大切さとの違いとかに展開していくべきのような気がするし、少なくともそこへ向かってのヒントくらいほしい。でないと上っ面だけになってしまう気がするから。

ウェンディ:私は、今読んでる最中で・・・。今読んだところまでのことでしか言えないけど、ちょっとひっかかったのは、全面的に支えてあげなくてはいけない人の存在。他人に必要とされることによって、自分が変わっていくというのは、ちょっとどうかなと思う。というのは、深澄は、どうしようもない状況に追いこまれているチュアンチャイと出会って、「私がなんとかしてあげなくちゃ」という気持ちになるわけだけど、そういう出会いって、だれにでもあるわけではないでしょ。・・・と思いながら、読み進めてるとこでーす。

モモンガ:魚住さんはやっぱり、今の子どもの冷めた感情をうまくとらえる作家ね。描き方もうまいと思う。でも、後味が悪いのよね。とくに、親との関係。大人はわかってくれないとつきはなす、今の子どもの感情はよくわかるけれど、あまりに冷たすぎる。後味悪すぎ。私、ふだんは主人公の子どもの気持ちになって読むんだけど、今回は、親の気持ちになって読んじゃった。もうちょっと歩みよってくれたっていいのになぁと思いながら・・・。

ウンポコ:まあまあ。お刺身食べて、後味よくしてよ(忘年会を兼ねているので、食事しながら話しています)。

ひるね:私も、2時間ほど前に読みはじめたの。今、深澄が、売春しようとしたチュアンチャイの身代わりになろうとするあたりまできたところ。ここまでの感じはよかったわ。『超・ハーモニー』(講談社)は、人物が類型的だと思ったんだけど、今回は、ひとりひとりがよく描けてる。これは三人称で書かれているけれど、実質、一人称みたいなものだと思うのね。深澄のひとり語りだと思えば、この母娘関係の描き方だって、そんなにひどくはないんじゃない? たしかに母親との関係は冷たいけれど、子どもの目から見たら、こんなふうに見える親って存在すると思うし、チュアンチャイの母娘関係はあたたかで、深澄はそこに惹かれてもいるわけでしょ。それで相殺されていると思うから、私は、深澄と母の関係に対して、そんなに反発は感じなかった。援助交際についても、嫌な感じを抱いていたんだけど、こういうとらえ方もあるって知ることができて、よかったと思うわ。

アサギ:私はけっこう好きだった、この作品。乾いた感じがうまく出てると思う。「男の子と簡単に関係をもつ女の子なんて、とんでもない!」って、つねづね思っていたんだけど、これを読んで、「ああ、こんな感じなのかなー」と、少しわかった気がしたわ。深澄のお母さんって、ずいぶんよね。冷たい母娘関係も、この母だったらしょうがないわよ。たしかに、親の描き方はちょっと雑なところもあって、類型的に思える部分が、なくはなかったけれど。それより、ラストが気になったわね。チュアンチャイを帰国させることにしたのは、少々安易。最後、どうまとめるんだろうと思いながら読んでたんだけど、そうよね、帰らせちゃえば簡単よね、と思った。でも、全体としては、少女の気持ちが非常によく描けている作品ね。

ジョー:私はもう、うれしくてしょうがなかったの。久しぶりに読んだ子どもの本だったから。これもまた、魚住さんらしい世界よね。女の子の心の動きが、よく描けている。どこがどう成長したってわけではないんだけど、女の子の一定期間の心の動きが、うまく描けている。文章も読みやすかった。深澄の両親も類型的かもしれないけれど、こういう親もいるでしょう、きっと。魚住さん、またこういう作品たくさん書いてね。期待してます。

紙魚:まず、言いたいのは、とても魅力的な装丁だということ。センシティブな年代の女の子にとっては、なんとも心惹かれる、お洒落なつくりの本だと思う。自分が少女のときに手にしたかったのは、まさにこういう本。深澄は,両親や美大生に裏切られ、チュアンチャイにも裏切られても、クールによそおってる。だけど,実際は心の中に熱いものをもっている子だと思う。構成はちょっと難しいところもあるけど、自分自身のことをまだとらえきれていない十代の女の子の姿が、とてもよく描けていると思う。

ウォンバット:私は最後まで読むには読んだんだけど、最後のシーンのあのポーズが、象のダンスだったということに、ねむりねずみさんの話を聞くまでわかってなかった……。今、その事実を知って愕然としているところ。なんなんだろうなー、これって」と、思っていたの。魚住さん、ごめんなさい。出直してきます。

アサギ:珍しいわね。ウォンバットさん、いつもは気がつくほうなのに。

ウォンバット:私、へんなことには目ざとく気づくタチで、この美大生、鈴木孝はいまに悪いことをするよするよ、気をつけて、深澄! と思ってたら、案の定・・・。でも、いちばん大事なところがわかってなくて、ほんとお恥ずかしい。もう1回読まなきゃね。だけど、うまくできてると思うけど、2回読みたいって感じではなかったのよね。

ウンポコ:魚住さんって、今いろんな状況におかれてる子どもをするどく描く作家だと思ってるんだよ、ぼく。この作品も、たしかに状況がよく描けている。でもね、手ばなしで感心できないんだな。同世代の読者にとっては、胸に迫るものがあると思うけど、ぼくはどうも、古いタイプの読み手みたいでね。作者の価値観にうなずけるかどうかで、読んじゃうんだよね。これは、読みおわったとき、なんだかとっても寂しかったの。愛のない関係とか、チュアンチャイに刺激を受けるっていうのも、もう、寂しーって感じで。もうちょっとなんとかしてほしいっ! と、いらだちが残った。文章は、読みやすかったけどね。テレビドラマを見てるような手軽さもある。まぁ、複雑な思いが残る作品だね。

ねねこ:うーん。どの意見もわかるな。テレビドラマ的というのも、わかる。それは、「映像的」ということだと思うんだけど。魚住さんの情景描写は、とても映像的だから。中学生を主人公にしている作品では、『非・バランス』(講談社)『超・ハーモニー』につづいて3作目だけど、いちばんよく出来ていると思った。母娘関係については、深澄のお母さんは、カリカチュアっぽくされてるんじゃないかな。南の島に9歳の子どもをおきざりにするなんて、あんまりだーとは思ったけど、これに近いことをする親はいそう。深澄は冷めてるわけじゃないのよ。小さいときから、親にラブコールを送るたびにシャットアウトされてきて、傷つきながら、それでもまだラブコールを送ってるわけだから。だけど、そんな深澄以上に、過酷な状況におかれているのよね、チュアンチャイは。彼女のことを知って、深澄の世界は急激にひろがっていく……。

モモンガ:でも深澄は、親との関係では報いられることがないでしょ。そこには救いがない。親だったら、口では批判的なことを言ってたって、子どもの思いに、もうちょっと敏感になるべきだと思うわ。カリカチュアされてるにしても。

ウンポコ:うーん。でも、今ああいう親ってきっと実在してるよね。あそこまでではないにしても、似たようなことはする親はいそう。リアリティを感じたな。

ひるね:そうね。この作品は、深澄の視点で描かれているでしょ。子どもの目から見ると、ああいうふうに見える親って、存在すると思うわ。

ねねこ:私は、「チュアンチャイも実はお金だった」という意見とは反対に感じたのね。お金では解決できない何かが残ったという印象。タイの少女の世界を知ることによって、自分だけの現実に閉じこもっていた窓が開けていく感じがとてもよくわかった。経済的には豊かな日本の女の子深澄が、まだ発展途上というか、貧しい、アジアの国の少女と出会って、生活のこと、親子のこと、そしてお金のことに対しても、新たな視野が開けたんだと思うの。持っていたお金のことを言いだせなかった、チュアンチャイの悲しみを理解することが、深澄にとってはたいへんな成長だったということなんじゃないかしら。

モモンガ:「お金」っていうものを考える、いいきっかけにはなるかもね。ほら、深澄が100円ショップでフォトフレームを買って、自分で撮った写真を売ろうとするでしょ。

ウンポコ:ねぇ、あんな写真、売れるの?

モモンガ:え? 売れなかったでしょ。

ウンポコ:そうじゃなくて。制服の友だちの写真の方。美大生が売ろうとしたヤツ。

一同:売れるよー。

ウンポコ:えっ、だれが買うの?

ウォンバット:マニア。

ねねこ:人気あるのよ。そういう趣味の人には。ところで、お母さんの台詞「百万円稼ぐのが、どんなにたいへんなことなのか、あなたにはわからないでしょ」っていうの、この人らしいなと思った。

ウンポコ:やっぱり魚住さんは、確実に「今」を描く作家なんだな。これは、まさに2000年の作品だと思う。今、この時代に、この人がいたほうがいいっていうかさ、この時代に、「今」を描いてほしい作家だね。

モモンガ:1作目、2作目と比べて、どんどんうまくなってる。

一同:(うなずく)

ひるね:戦後すぐだったら、違う環境の子ども、たとえば裕福な家の子と貧しい家の子を書こうとしても日本国内でできたけど、今は、外国人をつれてこないと、描くことができないのよね。

アサギ:さっきの、ひるねさんの「この作品は、三人称で書かれているけど、実質は一人称小説」っていうのを聞いて、なるほどと思ったわ。「子どもの視線」と思えば、この親子関係も納得。

ひるね:子どもと親の性格があまりにも離れていれば、こういうことも起きるわよ。

愁童:最初の場面、タイ人の女の子の登場の場面なんだけど、ここ、位置関係がおかしくない? ぼくはここ、よくわからなくて何回も読み返したんだよ。その結果、やっぱり位置関係がヘンだと思った。

モモンガ:私、このシルエットの少女が深澄なのかと思っちゃった。

アサギ:私はここ、よくわからなかったけど、追及せずに進んじゃったわ。

ウォンバット:私も。ま、いいかと思いながら、ずんずん読み進んでたら、大事なところも読みとばしてた。

ねねこ:読者の視点と、深澄の視点にズレがあるから、位置関係って難しいのよ。私は、矛盾はないと思ったけど。

愁童:この最初の夕陽の場面のイメージ好きなんだけど、位置関係の描写みたいな部分、ない方がよかったんじゃないかな。読者が勝手にイメージをふくらませる余地を与えてくれた方が親切だと思うな。

ねねこ:でも、そういうふうに書きたかったんじゃない、作者は。

ウェンディ:私は、位置関係をちゃんと確認したわけではないけど、自分で勝手にイメージをふくらませて、映像的だと思ってた。

ジョー:読者に、あるイメージを与えるだけでも、じゅうぶん価値アリだと思うわ。

愁童:深澄がケガして入院してる場面のお母さんの豹変ぶり、ぼくにはちょっとわかりにくかった。リアリティに欠けるような気がするんだけど。急に泣いたりしてさ。

ねねこ:そうかしら。私は、その不安定さにこそリアリティがあると思うけど。深澄に髪をひっぱられても、されるがままになっていたというところなんて、とくにリアル。だらだらとした描写っていわれるけど、高村薫に比べたら、大したことないでしょ。こういう、描きこみ方に、ぐっとくる読者もいるのよ。

ウンポコ:では、このへんで、『象のダンス』の対局にあるしつこさ、『波紋』にいってみよう。

(2000年12月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


波紋

ルイーゼ・リンザー『波紋』
『波紋』
ルイーゼ・リンザー/著 上田真而子/訳 赤木範陸/画
岩波少年文庫
2000.06

紙魚:今回読む本は2冊だったんだけど、先に『波紋』を読んでおいて、ほんとよかった! おかげで『象のダンス』は、楽々だった。この2冊は、またぜんぜん違う本ね。『波紋』は、シークエンスにくぎって、こうだったこうだったと、驚くほど緻密に描写してるんだけど、自分のことをふりかえってみると、子ども、というか、10代のときって、至近距離のものしか見えていなかったと思うのね。「予測」ってものができてなかった。でも今は、多少なりとも成長したから、枠組みの中でものをとらえるのが、ちょっとはうまくなってる。だから、建物の描写にしても、今だったら、全体像を頭においてその部屋の一部を想像するっていう読み方ができるけれど、中学生のときだったら、大枠なんて考えずに、その部屋にぽーんととびこんでいたと思う。リンザーって、非常に筆力のある作家よね。大人になって、この作品を書いたわけだから。子どものころの目線を失わず、ここまで描ききるというのは、大変なことだと思う。それでね、つい自分のやってきた仕事、「編集」について振り返ってしまったんだけど、私はもう、子どものころの目線を失っちゃってるんじゃないの? って思えてきて、反省しながら読んだの。あと、気になったのは、この本を読むのはどんな人たちなんだろうかということ。『象のダンス』と『波紋』の読者層って、重なるのかしら。読者の中で、どんな心の動きがあるんだろうか、とかね。だってこれは、中学生のあいだで「この本、おもしろかったよ」なんて、話題になりそうな本ではないでしょ。『象のダンス』は、友だち同士で「これ、おもしろかったから、読んでみる?」なんて会話が成り立ちそうだけど。『波紋』読者の生態は、いったいどうなんだろう・・・というふうに、読者層がたいへん気になる作品でした。

アサギ:私も『波紋』を先に読んでたから、『象のダンス』は楽だったわぁ。これは、密度の濃い物語ね。電車の中で、とびとびで読んだりすると、すぐ筋がわからなくなっちゃう。最初の「僧院」なんて、雰囲気がよく出てて、ほんとすばらしいんだけど、読むのに疲れた。「見知らぬ少年」も、主人公が野性的なものに憧れる気持ちがよくわかる。確かな筆力を感じたわ。あとね、「エリナとコルネリア」の章は、映画「制服の処女」の世界だと思った。

ウォンバット:えっ? 知らない。いつごろの映画?

アサギ:1930年代。あら、もちろんリアルタイムで観たわけじゃないわよ。ウーファという映画会社の全盛期だったのね、このころって。その後、ナチの台頭で、ドイツ映画はだめになっていくんだけど・・・。「制服の処女」は、カトリックの女子寄宿学校を舞台にした映画で、やっぱり偽善的な校長が出てきたりしてね、雰囲気がこれととてもよく似てるの。

ひるね:そう、似てるわね。「制服の処女」って、戦後、リメイクもされてるわね。ロミー・シュナイダー主演で。あら、私もリアルタイムではないのよ。念のため、言っとくけど。

アサギ:それにしても、この本を読む子どもって、いるのかしら。この主人公と同じ年代の子どもが読むかどうかは、疑問だわ。大人は読むかもしれないけど、現役の子どもには、ちょっとね・・・。濃密、緻密な描写で、ていねいにていねいに描いているから、まさにその場面が目に浮かんでくるんだけど、でも、読むのはたいへんよね、こういう作品って。私は、全体としては「おもしろい」というより「勉強になった」というか、「興味深い」という感じだったわね。

:すごくドイツ的な作品。あとがきを読んだら、そういう読み方もできるのかと思ったんだけど、ナチに文学で対抗しようとした、という姿勢にハッとさせられた。このあいだ、シンポジウムに参加するためにウィーンに行ったんだけど、そのときも考えさせられたのね。やっぱりウィーンも、ナチの支配下にあったわけでしょう。そういう戦中戦後の難しい時代に、文学者がどんなふうに発言してきたか、政治から一歩ひいて、文学にしかできない方法で表現しようとしていたことがあったという事実を、今になって、振り返ることができるようになった。リンザーも、少女の心の中の複雑で入りこめない意識を描いているようだけど、実は非常にポリティカルなのよね。それで、投獄されたりしていてね。そういう複雑な意識がバックグラウンドにあるんだけど、作品の作り自体は、とてもクラシカル。主人公をわかってくれる大人、あの「叔母さま」とかね、そういう人が、ちゃんと存在している。そういうところ、現代の読者からしたら、陳腐に見えるかもしれないわね。体制に対する意識も、ちょっとついていけないかも。私は今回、『象のダンス』は読んでないんだけど、総じて日本の作品って、ファジーでふわふわふわぁって感じでしょ。読みこむ必要がない。でも、この作品はずっしりと書きこんでるから、しっかり読みこまないとだめ。とっても重厚な作品よね。
私は『悪童日記』(アゴタ・クリストフ著、堀茂樹訳、早川書房、1991)を思い出したの。雰囲気がとてもよく似てると思って。私はこういう世界、非常に好き。読者については、翻訳作品としては問題あるかもしれないけど、ドイツだったら、この作品を読む子どもって、いると思う。たしかに、日本の子どもには、ちょっと難しいかもしれないけどね。

アサギ:私、リンザーって、日本でいうとだれだろうって考えてみたんだけど、思いあたったのは、三浦綾子。ま、根拠のない、独断だけど。ほら、純文学ではなくて、主流では認められていないんだけど、熱狂的なファンがいて・・・というあたり、文学界での立ち位置、そのズレ方が、三浦綾子! と思ってね。

ひるね:とても耽美的な作品よね、これ。こういうのって好きな人は好きだけど、嫌いな人はもう生理的にだめよね。ぱっと意見が分かれそう。私はといえば、どうも「美しい」というより、「気味が悪い」と いうほうが先に立っちゃって。好きか嫌いかといったら、嫌いの部類。まず、ユーモアがないでしょ。「ゆとりがない」というのかしら。 だれかが松田聖子のこと、「恋はするけど、愛せない人」って言ってたけれど、この主人公もそういう性格の女性だと思うわ。

:聖子は、体温が低いって感じ。

ねねこ:えー、体温じゃないと思うなー。自己愛の問題じゃない?

ひるね:「エリナとコルネリア」の章は、少女漫画好きにはいいかもしれないわね。ちょっと私には、ついていけない感じだけど。あと、花の名前がたくさん出てくるでしょ。そうそう、それで、日本名とカタカナがごちゃまぜなのが、気になったの。とくに、これだけは言っておかなくちゃと思ったのは「日本アネモネ」。「日本アネモネ」って、「秋明菊」のことよ。「秋明菊」のほうが、だんぜんポピュラー。「貴船菊」とも、いうんだけどね。

モモンガ:この本、私にしてはめずらしいことなんだけど、読めなかったの。いつもカバンに入れていて、電車に乗るたびに開いたんだけど、どうも眠くなっちゃて。

ウォンバット:これ、電車の中では無理かも。

ウンポコ:「祖父」の章を、先に読んでくれればよかったのに。

ひるね:あの章は、体温が感じられるわよね。

ジョー:私は「森のフランチスカ」まで。軽井沢の木かげで、一日じゅうのんびり読んだら、堪能できるであろう作品。日本語も、難しい言葉を使ってるでしょ。さすが岩波書店! という印象。そして、ドイツ的。

アサギ:私も、ドイツ的だと思う。

ジョー:背景にある、民族的なものがよくわかる。異文化を知るとっかかりとしては、よいのでは? たいへん美しい作品だし。

ねむりねずみ:ドイツって、ボリュームのある作品を書く作家が多いよね。私は、一時期ドイツものに凝っていた時期があったの。ヘルマン・ブロッホとか、ギュンター・グラスとか読んでたんだけど、久しぶりにそういうドイツ的な雰囲気が感じられて、なつかしかった。日本語でだって難しい、観念的な世界に入っちゃってるんだけど、その手応えもまた、よくってね。ドイツものにハマる前は、フランスものを読んでたの。ドイツとフランスって、ほんと違うでしょ。雰囲気が。ドイツものって、個人の心理になだれこまず、視野を広くもって 物語世界に入っていくから、どーんとしたものが感じられる。この作品もまた、そういうドイツの骨太な感じを強く受けた。すっごく読みにくいんだけど・・・。最近は「すらすら読める系」ばかり読んでいたから、久しぶりに、アタマ使って読んだって感じ。クラシックな僧院の様子と、思春期の少女の心の動きのアンバランスなところも、とてもよく表現してると思う。ところで、この作品の対象年齢は、いかに? どういう人に、人気あるの?

モモンガ:岩波少年文庫ファンって、たっくさんいるのよ。

ひるね:ファンにとっては、「待望の作品」って感じじゃないのかしら。

ねむりねずみ:ヘルトリングもドイツっぽいと思ってたけど、これとはまた、違う雰囲気。

モモンガ:岩波少年文庫、ドイツ、上田真而子訳の3拍子そろってるんだもの。迷わず買っちゃうっていう人、いるわよ。

ひるね:いわゆる子ども向けの文学、「児童文学」ではないかもしれないけどね。

ねむりねずみ:挿絵がモノクロなんだけど、ぼやーっとしちゃってよく見えないのが、残念。せっかくムードのある絵を使ってるのにね。カラーで見たかったな。

ひるね:あら、わたくしは、絵はなくてもよかったと思ったけど。

ねねこ:少なくとも、キャプションはいらなかったわね。

アサギ:リンザーの作品、日本では『噴水のひみつ』(ハンス・ポッペル絵 前川康男・高橋泉訳 佑学社)が有名よね。

ウェンディ:私は情景描写が続くのって、どうも苦手なんだけど、「波紋」の章の“聖なる泉”の描写は、そのひとことひとことから風景がわきあがってくるようで、とても好きだった。

アサギ:私も! あそこの描写、すごく好き。詩のような美しさがある。

ウェンディ:そういえば、私、いちばん最初に担当した本が、リンザーの『なしの木の精スカーレル』(遠山明子訳 福武書店)だったの。久しぶりに、もういちど読み返そうと思ってるんだけど。

ウンポコ:さて、次は愁童さんだ。絶賛の弁が聞けるかな?

愁童:ちなみに言っとくと、ぼくも「制服の処女」はリアルタイムではないんだけどさ、ぼくたちの高校時代ってのは、ヘッセブームだったんだよ。この本にも、ヘッセに似た雰囲気を感じたね。今どき読もうとすると少々しんどいけど、なつかしかった。重厚で、綿密な描写。糸を織るように心情を描いている・・・。わが青春時代には、そういう本をたくさん読んだものだけど、今の子どもに、読めるかねぇ。

:この本、Tさんが担当したんでしょ。あとがきに書いてあるけど。Tさんらしい本よね。

愁童:と、いうと?

ねねこ:Tさんって、トラディショナルな本を多く手掛けてる編集者でしょう。やっぱり、この本は「岩波少年文庫・ドイツ・上田真而子訳」で成立してる本だと思う。出版社によって、それぞれ「合う本」って、あると思う。たとえば、ミヒャエル・エンデの作品は、最初、講談社からいくつか出たんだけど、岩波書店ではうまくいった。それってつまり、エンデは岩波向きというか、岩波の本が好きな読者にうまく届いたってこともあると思うんだけど。この本、風邪でぼーっとした頭で読んでると、眠くなっちゃうね。なんかこう、たゆたう感じで。今の子どもには、ちょっと難しいかも。『象のダンス』が「映像的」だとすると、この作品は「感覚的」。少女の感覚が、よく描けてる。具体的には、よくわからないところが、いろいろあるのよね。主人公の両親とかさ。この祖父も、なんだかよくわからない。

アサギ:この祖父、唐突に「仏教徒で」なんて出てくるけど、何をしてた人なのかは、まるっきり不明。

ねねこ:全体にキリスト教の教養がないと、物語世界に入っていけないでしょ。もどかしいような感じは一種、自虐的な楽しさでもあったんだけど。でもやっぱり、それぞれの民族の歴史の違いというか、民族的なものの中で蓄積されてきた表現描写の違いというのを、意識しちゃったな。日本人がずっと慣れ親しんできた描写とは、テンポが違うでしょ。だって、ほら「春はあけぼの」のたたみかけの心地よさとは、基本的に違う。だから、読むのがたいへんといえば、たいへん。でも、苦労して読んだ甲斐はあって、その点、「ハリー・ポッター」とは違ってた。「時間、ソンした!」とは、ぜんぜん思わなかったもんね。あとね、「オフィーリア」の絵(ジョン・エヴァレット・ミレー作)を思い出したの。

ねむりねずみ:あ、あの女の人が仰向けで水に浮かんでいる絵! よくわかる、その感じ! 印象的な絵だものね。

ひるね:オフィーリアをタイトルにもってきてる本、あったわね。そうそう死と少女を語った『オフィーリアの系譜 あるいは、死とて女の戯れ』(本田和子著 弘文堂)というおもしろい本があるけれど、『波紋』もその本のリストに加えられるといいと思ったわ。

ねねこ:神沢利子さんの「いないいないばあや」の世界にも似た印象。それにしても、この主人公、頑固よね。

愁童:最後のほうでさ、あの男の子たち、レネとゼバスチアンとずっと楽しく遊んでいたのに、突然主人公がすっと冷める場面、あったよね。こないだまで夢中でやっていた遊びなのに、「こんどこそという期待にみちて試してみるのだが、すぐに飽きてやめてしまった」というあたり。女の子の、そういう心の成長の過程が、よく描けていると思ったな。

:たしかにそうね。でも、男の子の読者は、こういうの読まないんじゃない?

ひるね:わかんないわよー。ほら、ヘッセだって……。

アサギ:でも、ヘッセとは、抱えているものが違うからね。

ウォンバット:私はこの作品、タイトルがいいなあと思って。とってもインパクトがあるでしょ。『波紋』って。今回読む本に決まる前から、気になってたの。このタイトル。池波正太郎のエッセイを思い出してね。どんな話かというと、「俺は、小説を書くことにした。タイトルはもう決まってるんだ。それは『断崖』というのだよ」っていう友だちが出てくるのね。で、正ちゃんは「うむ、いいタイトルだ。がんばれよ」っていうんだけど、その友だち、タイトル決めただけで、ぜんぜん書かないのよ。それで、せっかくいいタイトルなのに、惜しいっていう話。この『波紋』ってタイトルを見たとき、その話が頭に浮かんだの。ま、内容とはなんにも関係ないんだけど。言いたかったのは、言葉のもつイメージ、『波紋』っていう言葉のもってるイメージが、『断崖』と同じくらい強烈で、うっわー、読んでみたいという気持ちを、非常にそそられたということなの。だけど、これって、大人の感覚だと思うのね。子どものとき、たとえば私が中学生だったら、『波紋』っていわれても、ピンとこなかったと思う。今の一般的な中学生も、『波紋』っていわれたって、「なんのこっちゃ」じゃないかな。さっきから読者対象の話がいろいろ出てるけど、タイトルからも、どんな読者に向けて作られた本なのか、いまひとつわからない感じ。ところで内容はというと、最初のほう「僧院」「百合」の章は、文字をいっしょうけんめい追いかけるんだけど、つるつると表面だけをうわすべりするようで、物語の中にぜんぜん入っていけなかったの。でも、3章の「見知らぬ少年」で、外の世界、いけないとされているものへの憧れとか、盲目的に従ってきた戒律への反抗心が頭をもたげるところとか、テレーゼへの憎しみや人形のエピソードがつぎつぎ出てくるでしょ。そこで、それまでが嘘のように、主人公の感情の動きにぐいぐい惹きこまれて、物語世界にすぽっと入っていけたのね。そうしたらその先は、もうどっぷり楽しめた。「エリナとコルネリア」の章も、女子校のエスな雰囲気が、とてもよく伝わってきて、わかるーって感じ。これは恋ではないと思うんだけど、だれかにモーレツに憧れる気持ちとか、モーレツな嫉妬とかって、その対象が男であれ女であれ、10代のころにはよくあることだなぁと思いながら読んだ。

ウンポコ:ぼくは「恒例ウンポコ読み」だけど、おもしろかった。これは、一種の私小説だと思ってさ。で、私小説には、「和食の私小説」と「洋食の私小説」があると思うわけ。これは「洋食の私小説」だな。ぼくは、この作品の出版された年、1940年生まれなの。1940年ごろって、大人は子どもの成長にいっさい関知しない、というか、大人が子どもと無関係に生きてた時代だと思うんだ。大人の存在感が大きい。この作品には、そんな時代性を感じたね。とりわけ、祖父の存在が気になった。なんというのかな、謎めいてるでしょ。バガボンドでさ。

ねねこ:このおじいちゃん、「明治生まれの男」って感じ。あの庭を歩く場面、とってもよかったわ。

ウンポコ:あの建物の描写なんかも、めくるめく感じで、想像の世界を刺激されるよね。子どもの想像力のすばらしさも、感じたな。めずらしくウンポコは、主人公に寄り添ってみたのだった・・・と。

アサギ:さっき、ひるねさんがこの作品には「ユーモア、ゆとりがない」って、おっしゃったでしょ。ちょっとそこにもどりたいんだけど、その「ユーモア、ゆとりのなさ」こそ、「ドイツ的」ってことだと思うのね。本来的なドイツ文学の書き方だと思う。どういうことかというと、距離をおかないっていうことなの。映画にも同じことが言えるんだけど。「ラン・ローラ・ラン」や「ノッキング・オン・ザ・ヘブンズ・ドア」とか、このごろは今までのドイツ映画とは、ちょっと違った感じのものが登場してるけど、対象とのあいだに距離をおかないというのが、本来的なドイツ映画の特徴なのね。「ドイツ文学らしいドイツ文学」もそれと同じで、「自分自身」と密着してるから、ゆとりもないし、客観性やユーモアは生まれにくい。

ひるね:前にここで読んだ『朗読者』(ベルンハルト・シュリンク著 松永美穂訳 新潮社)は、またちょっと違ったわね。

アサギ:あれは、純文学というより、エンターテイメントに近いから。基本的に、ドイツの作家って「オレは書きたいものを書く。読みたい者は読めッ!」って姿勢なのよ。フランス文学との大きな違いは、「観客を意識してるかどうか」という点。とても対照的だと思うのね。ドイツ文学とフランス文学って。ドイツ文学は距離をおかないぶん、主人公が読者の状況と合うと、この上なくぴったりきて、「これは私のもの!」となって、ハマっちゃうのよ。だから、独文好きってオタクが多いのよね(笑)。昔、青春ものっていうと、ヘッセとかカロッサとか、ドイツ文学がとてもよく読まれたのも、ひとつにはそういうことだと思う。

ねむりねずみ:本国ドイツでは、どうなの? たとえば、ギュンター・グラスの『ブリキの太鼓』(高本研一訳 集英社)は?

アサギ:あーら、ギュンター・グラスの好きなドイツ人なんて、いないわよ。彼はポーランド北部のダンチヒ生まれで、テーマは何かと言えば、「マイノリティ」。『ブリキの太鼓』は別格だけど、その他の作品は、多くのドイツ人にとって、「わからん」って感じじゃない? でも、いいのよ。さっきも言ったけど、「読みたい者が読んでくれれば、それでよし。あとはもうどうだっていい」っていうのが、ドイツ文学だから。

ひるね:久しぶりに外国の文学を読んだって感じがしたわ。

アサギ:50年前の作品だしね。学習によって、当時の雰囲気はよくわかりましたわって感じ。だけど、おもしろかった? っていわれると、ちょっと違う。

ねねこ:この前、久しぶりに二葉亭四迷を読み返したら、何だか妙におもしろかった。『波紋』よりは、ずっとずっと前の小説で比べものにはならないかもしれないけど。若いころはちっとも理解できなくて、「なにこれ、ヘンなの」と、思ってたんだけど。田山花袋の「蒲団」なんかも今読んだら、とっても新鮮! そんな自分に驚いてしまった。

ウンポコ:考えてみれば、日本の近代はみんな私小説だね。

ねねこ:どんなに外国ものに慣れてきたといっても、先祖から代々受け継いできたものって、やっぱり根強いのかも。遺伝子に組みこまれていた感覚が、年齢とともにあらわれてくるのかしらねぇ。

(2000年12月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


2000年12月 テーマ:少女の成長物語(その2 日本&ドイツ編)

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『2000年12月 テーマ:少女の成長物語(その2 日本&ドイツ編)』
日付 2000年12月21日
参加者 ウンポコ、愁童、ねねこ、ウォンバット、ひるね、
ねむりねずみ、紙魚、ウェンディ、裕、アサギ、
モモンガ、ジョー
テーマ 少女の成長物語(その2 日本&ドイツ編)

読んだ本:

魚住直子『象のダンス』
『象のダンス』
魚住直子/著
講談社
2000.10

<版元語録>わが子に無関心な「仕事ニンゲン」の両親のもとで、幼い頃から自立を強いられ、心の危機を抱えて15歳になったミスミ。ある日、町はずれの崖の上で、かりっとした果実のような黒い瞳をもつ、タイの少女チュアンチャイに出会った―。『非・バランス』『超・ハーモニー』に続く、3年ぶり、待望の新作。
ルイーゼ・リンザー『波紋』
『波紋』
ルイーゼ・リンザー/著 上田真而子/訳 赤木範陸/画
岩波少年文庫
2000.06

<版元語録>谷間の僧院に移ってきた少女は、僧院の静寂のなかで生きる人々と、自然とともに生きる人々の双方から、数え切れない思い出をもらう。鋭い感性ゆえ、愛することも憎むことも一際激しい少女の青春の記録。

(さらに…)

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金鉱町のルーシー

カレン・クシュマン『金鉱町のルーシー』
『金鉱町のルーシー』
カレン・クシュマン/著 柳井薫/訳
あすなろ書房
2000.06

モモンガ:カレン・クシュマンの前作『アリスの見習い物語』(柳井薫訳 あすなろ書房)も、好感のもてる作品だったけど、今回もまたよかったわ。前作は時代設定がとても古かったけど、この作品はゴールドラッシュで、もうちょっと新しいから、時代背景も理解しやすかった。母と娘の関係がユニークね。なんていっても、お母さんの個性が強烈! ルーシー本人は、静かに本を読んでいるのが好きっていうおとなしいタイプの子でしょ。だから、お母さんのほうが前面に出てて、印象深かった。少女の成長を描いた物語って、今いるところから出ていくっていうのが多いでしょ。でも、これは逆パターン。あんなに東部に帰るためにがんばっていたけど、最後はカリフォルニアにとどまることを選択する。この選択がたのもしい! 結末が図書館をつくるというのは、ちょっとハマリすぎの感もあるけど……。

すあま:図書館員にとってはうれしいところ。評価のポイントがピピピッとあがっちゃう。

アサギ:私もおもしろかったわ。ノンフィクション的なおもしろさ。ルーシーの生活ぶりが興味深かった。切り傷にクモの巣と黒砂糖の混ぜたものをあてるとか、食べすぎのときは、砂糖を入れたトウヒの煎じ薬を飲ませるとか、料理の仕方、ほら、あの干しリンゴのパイとかね。ゴールドラッシュのころって、こんな感じだったのかな、と思った。でもね、最後まですーっと読んだし、いい作品だと思うけど、ものすごーくおもしろいというわけではなかったの。「おもしろい」というより、「興味深い」と言うべきなのかしら。惜しいと思ったのは、ユーモアが活きてないこと。さらっとした訳だからかな、とも思うんだけど。たとえばね、買ったスイカがとても重くて、運ぶのがたいへんという場面で「すいかに取っ手をつけなかったのは神様の失敗だと思った」とか、森の中で暮らしてる野性児のようなリジーのことを「首の垢にジャガイモが植えられるほど汚い」とか、おもしろい言い回しはそこここにあるの。でも、それが「気がきいてるぅ!」っていう、しゃれた表現には感じられなかったのよね。せっかくの、ユーモラスなところが、目立たなくなっちゃってる。それがちょっと残念ね。あと、クーガンさんは、ほんとにガラガラヘビのジェイクだったの?

オカリナ:どうかな? ほんとのところどうだったのかは、書いてないんじゃない?

アサギ:それと、ルーシーとリジーが、泥だらけでふらついてるインディアンの女の子に遭遇する場面で、生理の話をするでしょ。リジーは「生理中の女がさわるとミルクがだめになる」って言うんだけど、それって、魔女に対して言われてることと同じじゃない? 生理中の女と魔女って、リンクしてるんじゃないかと思うんだけど。穢れてるってことかしらね。近づいてはいけない存在っていうか・・・。私は、いずれにしても、こういう生活ぶりはおもしろいと思ったけど、強烈にひきつけられるというものは、なかったな。

オカリナ:淡々としてるからね。

アサギ:ねえ、いつ気づいた? ルーシーがラッキーディギンズに残ることに。

モモンガ:私、最後まで気づかなかった。

アサギ:あ、よかった。仲間がいたわ。私も最後まで気づかなかったの! だから、ラストは意外性があって、とってもよかったのよ。途中はあんまりインパクトがなかったから、なおさらね。私は映画でもなんでも、いつも最後まで気がつかなくて、作者の思惑どおりにびっくりしちゃうタチなもので、みなさんはどうだったのかなと思ってたのよ。

モモンガ:最後が印象的よね。途中こまかいことは、あんまりよくおぼえてなくても、この結末だけは、心に強く残っているもの。

アサギ:だけど、すごいわね。15歳の女の子がこういう状況で母と離れ、自分の道を選び、ひとりで歩いていこうというんだから。現代の日本の15歳とは、ぜんぜん違うのよね。

ウォンバット:ルーシーをはじめ、登場人物がみんなたくましい! バイタリティにあふれてて、悲惨な状況にもメゲないんだな。弟の死とか、悲しい出来事もあるけれど、悲しいときにはさめざめと泣いて気持ちを落ち着けて、明日はまた新たな気持ちで立ち向かおう! という姿勢が、なんてったって好き。やっぱり、いつも前向きでいなくちゃねという気持ちにさせられた。あと、忘れられないのは、助け合いの精神と荒くれ男の人情味あふれるやさしさ。お母さんたちがサンドイッチ諸島に渡るお金が足りないっていうとき、ひげのジミーがこっそり自分の金歯をさしだすところと、火事で本をなくして悲しんでるルーシーに、ミズーリから『アイヴァンホー』が届く場面ではうるうるしちゃったな。

モモンガ:あ、そうそう! 思い出した! このあいだ、この本の原書を見る機会があったの。クシュマンの第1作Catherine, Called Birdy(未邦訳)とTheMidwife’s Apprentice(『アリスの見習い物語』)、そしてThe Balladof Lucy Whipple(『金鉱町のルーシー』)、3冊一緒に。どれも表紙は女の子の絵なんだけど、とても印象的だった。3冊とも、強い意志が感じられる表情をしてるのよ。ちょっと鬼気せまる感じで、こわいくらい。笑ったりしてなくて。The Ballad of Lucy Whippleは、スッと正面を見すえてる女の子の絵なんだけどね。3冊並べてみるととっても迫力があって、「歴史モノ!」って感じなの。原書とくらべると、日本版は同じ本とは思えない雰囲気。印象がぜんぜん違う。

アサギ:そういえば、翻訳もので、原書の絵をそのまま使うことってあまりないわね。どうしてかしら。テイストが違うから?

オカリナ:うーん。そうはいっても、半分くらいは使ってるんじゃないかしら。ドイツものは特にテイストが違う場合が多くて、あんまり使ってないかもしれないけどね。

アサギ:そう言われてみれば、そうかも。中学生以上とか、読者の対象年齢が高いものは、けっこう使ってるかもしれないわね。もっと小さい子向け、小学校低学年向けのものなんかは、あんまり使ってないと思うけど。

オカリナ:それに、原書の絵を使うとなると、テキストとはまた別に、版権料を払わなくちゃいけなくなるでしょ。だったら、日本人に合ったものを、あらたに描きおこしてもらったほうがいいって考え方なのかもね。

アサギ:この本、読者対象は、どのくらいに設定してるのかしら?

ウォンバット:中学生以上って感じかな。

すあま:私は、この本も『アリスの見習い物語』も、人にすすめられて読んだのね。すすめられなければ、たぶん読まなかったと思うんだけど、読んでよかった。おもしろかったから! お母さん、ほんと強烈。日々の暮らしはたいへんだし、弟の死とか、シビアな面もきちんと描かれているんだけど、ユーモアがあるから楽しく読めた。母娘のやりとりも笑える感じ。ルーシーは東部にもどるためにお金をためてるんだけど、貧乏くさくなくて、よかった。そんなの、まじめに書いてあったら「おしん」みたいで、つまんないとこなんだけど。でも、おもしろく書いてあるからね、これは。終わり方も、ヨシッ! 主人公に素直に共感できた。本の好きなひとりの女の子として、ついていける。図書館関係者としては、数少ない本をみんなで大事に読むところ、1冊の本が、いろいろな人をめぐりめぐって、またちゃんとルーシーのもとに返ってくるところが、とりわけうれしい。ほらね、アメリカでは、もうこの時代から図書館がちゃんと機能してたんだからねって、いばりたい気持ち。でも、そういうこと言いはじめると、日本と比べちゃってねぇ・・・。ちょっと気持ちにダーク入ってきちゃうんだけど。それにしても、このお母さん、めちゃくちゃだよね。ルーシーは、親のエゴでこんなところまで連れてこられちゃってるわけでしょ。ほんとは静かに本を読んでいたい娘に向かって、「はい、ライフル」って狩りを強要する母だもんねぇ。第一、子どもの名前に「カリフォルニア」なんてつけるかね、普通? そして、それが気にいらないからって、自分で勝手に名前を変えちゃう娘のキャラクターもいい。そういうところも共感できるのが、いいよね。ストーリーはとってもいいと思うんだけど、難をあげれば、見た目とタイトルが、ちょっとね・・・。

モモンガ:このタイトル、「金鉱町」っていう文字が、なんとも硬い感じなのよね。

すあま:この本がポンッと図書館の棚においてあっても、中学生は手にとらないと思う。だから、こういう本こそ、書評なんかで紹介されるべきなのよ! 内容がわかれば、おもしろそうと思って手をのばす子もいるでしょ。ほっといても売れる本は、何もしなくたって売れるんだから、書評で紹介する必要なんてないの。ほんとは。ゴールドラッシュの雰囲気もよくわかるし、それこそ「大草原の小さな家」シリーズとあわせて紹介するのもいいかも。『アリスの見習い物語』は、もうちょっとおとなしい感じだったよね。あれはあれで、また違った雰囲気でおもしろかった。ま、それはおいといて、私が主張したいのは、この本、装丁と内容が合ってないってこと。タイトルもイマイチ。読んでみたら、この表紙から受けた印象とはまったく違ってて、いい意味で裏切られたかって感じでよかったけど、本としては損だよね。

モモンガ:「この女の子、だれ?」って感じよね。ルーシーにしては、幼すぎるでしょ。

オカリナ:「意志をもって生きていこうとする女の子」っていうのが、この作品のいいところであり、読者を獲得しやすいところだと思うんだけど、この表紙では、それが伝わってこない。

すあま:この絵だと、東部に帰るために自力でなんとかしようと奮闘する女の子っていうより、「帰りたーい」とかいって、めそめそしそうな女の子に見えちゃう。

アサギ:可憐な感じ。きれいな絵だと思うだけど、内容を考えるとちょっとね・・・。

すあま:いい絵だけど、この話には合ってない。

ウンポコ:タイトルの「金鉱町」というのも、ちょっとイメージがうかびにくいんだよな。

すあま:こういう「もったいない」っていうか「惜しい」本って、いっぱいあるよね。そういう本を前にすると、つくった人間は、ほんとに売る気があるのかぁ?! ってききたくなっちゃう。こんなんで、子どもにアピールするつもりがあるのだろーか。

モモンガ:私は、この本も『アリスの見習い物語』も、自分のなかでは「女の子が、自分にあった仕事をさがしていく物語」と位置づけているの。ゴールドラッシュだから「金鉱町」にしたんだろうけど、「金鉱町」なんて、今の日本の子どもたちには、なじみがないと思うんだけど。

アサギ:ちょっと遠すぎる世界。

オカリナ:今の児童書をめぐる状況って厳しくて、せっかくのいい作品も初版4000部作って、それが売りきれなかったら、 すぐに絶版になっちゃったりするじゃない。それじゃ、もったいないと思うのよね。この本も「今年のよい本2000年版」なんかには、きっと選ばれると思うけど、息長く読みつがれていくかどうかは、ちょっと疑問。あとね、逃亡奴隷が出てくるでしょ。私は「カラード」っていう言葉に、ひっかかったの。アメリカでは、黒人の呼び方に歴史的な変遷があって、ニグロ→カラード→ブラック→アフロ・アメリカン→アフリカン・アメリカンって変わってきてるんだけど、「カラード」というと、奴隷だったということが、うまく伝わらないんじゃないかと思う。南アフリカでは、黒人と白人のハーフやインド・パキスタン系の人のことを「カラード」というんだけど、アメリカでは混血じゃなくてもカラードって言ってたからね。

モモンガ:今、アメリカでは、「カラード」って言葉は使わないの?

オカリナ:あんまり聞かない。皮膚の色だけを、具体的に示す場合には使うこともあるだろうけど、それ以外では、使うことないんじゃないかな。

モモンガ:アジア系の人もふくめて、白人じゃない人はみんなカラードなのかと思ってた、私。

オカリナ:今は、とにかくアメリカ人は全員「アメリカン」でしょ。皮膚の色などにこだわるな、っていう気持ちもこめられてると思うけど。それにしても、「カラード」っていう言葉、子どもには、わかりにくいよね。

アサギ:「ニグロ」っていうと、差別的なひびきがあるでしょ。ドイツでは「ネーガー」っていうけど、そこに差別的な意味があるとは思えない。

オカリナ:ニグロにしてもネーガーにしても、元の意味は「黒」だから、それ自体は差別じゃないんだけど、歴史的にその言葉がどう使われてきたかで、いろいろな意味が付け加えられてしまうのよね。黒人が身近にいる国と、そうじゃない国の違いもあると思うし。

アサギ:日本も身近ではない国だけど、なんて呼んでるかしらね、最近は。

ウォンバット:アフリカ系にしても、アジア系にしても、必要がないときはわざわざ書かないようにしてるんじゃない? 新聞なんかでは。中国系だったら名前でわかることもあるけど、そうでもなければ、顔写真をみてはじめて人種を知るっていうこともあるよね。山田詠美は、たしか「アフリカ系アメリカ人」を使ってたと思うけど。

アサギ:でも、文学辞典なんかで、人種をテーマにして書いている作家なんかの場合には、その人の肌の色とか人種の情報も重要なんじゃない?

オカリナ:そういう場合は、解説のなかで、わかるようにしてるんじゃないかな。名前のすぐあとに「黒人作家」なんていうふうには、書かないようになってきてるということだと思うんだけど。
私は、この作品、最初はてれてれしてるなぁと思ったのね。それが、火事が起きるあたりからぐぅっと引きこまれていって、最後は「こうくるかっ?!」と思った。歴史小説だから、アメリカの子どもだったら、きっとおもしろがるだろうね。日本の子どもには、あんまり身近に感じられないだろうけど。日本の作家も書いてほしいな、こういう歴史ものを。日本では、古い時代のものだと、女の人って一歩うしろにさがった存在として描かれることが多いでしょ。そうじゃない女の人って、大人の小説には出てくるけど、子どもの本にはまだあんまり登場してない。それとも、私が知らないだけかな。おもしろいと思うんだけどな、日本版のこういう話。だれか書いてくれないかしら。

モモンガ:私、NHKの朝の連ドラって、けっこう好きなの。とくに、大正から昭和初期の少女の自立もの。時代的に女の人にとっていろいろ障害が多いから、ドラマチックになりやすいのね。それをはねのけて生きぬいていくっていう話、とってもおもしろいと思うんだけど。そのあたり、子ども向けの本で、だれか描いてくれる人、いないかしらね。

ウンポコ:そうだなぁ、いそうだけどね、だれか。今、思いうかばないな。ところで、魅力的なタイトルをつけるっていうのも、大事なことだよね。ぼくは、「タイトラー」っていう職業があってもいいと思ってるの。だって、表紙まわりだって、昔は編集者がやってたのに、今はデザイナーにたのむでしょ。コピーライターっていう職業もあるしさ。編集者は作品に近づきすぎちゃって、客観的にみられなくなりがちなんだ。タイトルを決めるときって、著者、編集、営業もいれて会議をして、さんざん考えて決定する社もあるそうだ。10年くらいまえ、読者である中学生に選んでもらったこともあったけれど、採用しなかった。英語をそのままカタカナにした題が中学生にはウケがよかったんだけど、当時はまだ、原題そのまんまっていうのに抵抗があって、ふみきれなかったんだよね。タイトルとか、オビにいれる言葉とか考えるの、上手な人がいたら、お金払ってもいい。だれかやらない? すあまさん、どうかな?

すあま:そうですねぇ・・・。(気乗りしない様子)

オカリナ:この読書会でも、タイトルつけなおしっていうの、やったら? 「今月のリタイトル本」とか、「今月の売る気があるのか本」とか・・・。せっかく内容がいいのに、タイトルや装丁で損してる本って、たくさんあるから。

モモンガ:書名にカタカナの人名が入ってると売れないとか、いうよね。

ウンポコ:そうかい?

モモンガ:あれ? 図書館員だけ? そういってるのは。

ウンポコ:「ん」が入ってると売れるって、いうのもあるよ。ほら、「アンパンマン」なんて、「ん」が3つも入ってる。

オカリナ:カタカナの書名はだめっていうのも、ない?

アサギ:一時期、長いタイトルが流行ったこと、あったわね。そういえば、この本の章タイトルも、ひとつひとつが長くておもしろいわね。ドイツに多いパターン。ドイツ人って、好きよね、こういうの。

ウンポコ:あ、そうなんだ! ドイツに多いの? 斉藤洋がよくやってるのは、だからだったのか。

オカリナ:装丁のことで言えば、目次の次のページ、人物紹介なんだけど、なんだかここだけ浮いてない?

モモンガ:ゴシックで太い書体だから、黒々してるのよね。

オカリナ:ほかはいいのに、なんだかここだけ妙に素人っぽい作り方。どうしちゃったんだろう? ハリ・ポタに負けないくらいここは素人っぽいな。

(2000年11月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


赤い鳥を追って

シャロン・クリーチ『赤い鳥を追って』
『赤い鳥を追って』
シャロン・クリーチ/作 もきかずこ/訳 
講談社
1997.11

ウンポコ:これは、おもしろかった! 先週、ある受賞式があったんだけどね、そこで作家から売りこみがいっぱいあったの。それで、今週になって持ちこみ原稿がたくさん届いたから、読んでるんだけど、あまりおもしろくないんだな。どうしておもしろくないのか。それは、「コト」は描くけど、「人」は描いてないからなんだと思う。ストーリーを追いすぎてるの。だから人物像が見えてこない。それでは、文学じゃない。いっぽう、この『赤い鳥を追って』は、「人」がよく描けてる。だから魅力的なの。ネイト伯父、ジェシー伯母、自分の心とは裏腹なことをしてしまう主人公ジニー、そしてジニーにアプローチしてくるおかしな若者ジェイク・ブーン。みんな、よく描けているよね。お父さんについては、やや不足ぎみ。もう少し描きこんでほしかった。ちょい役のお店のおばさんなんかもまた、いいんだな。人物像がしっかりしてて、雰囲気がとってもよく出てる。だからこそ、読後しっかりした手応えが残るんだ。ちょっとした会話もうまくて、映画を見てるみたいな気持ちになったよ。「パッパラッパ、パラッパパ」って踊る場面なんて、映像が目にうかぶ。

ウォンバット:えー、そう? 私は「パッパラッパ」と「みんなをあっといわせよう!」が、ピンとこなかった。今日、風邪で休んでるネムリネズミさんにそう訴えたら、Boogie Woogie Bugle Boyの曲を知ってれば、わかると思うよって言われたんだけど。とても調子のいい、楽しい雰囲気の曲だからって。でも「みんなをあっといわせよう!」って、日本語としては、どうも調子がよくなくて、景気づけって感じがしなかったの。これが、もっとぴたっとくる、すてきなセリフだったら、きらっと光る印象的な場面になって、もっとよかったと思うんだけどな。

ウンポコ:たしかに。「パッパラッパ」の場面はいいけど、「みんなをあっといわせよう!」って台詞は、ばちっとはまってるとはいえないね。あ、そうそう、p279で、ジェイクが「まいった!」っていうんだけど、これも、違和感なかった? ニュアンスが、ちょっと違うんじゃないかな。もっとしっくりくる言葉がありそうだぞ。とまあ、いろいろ気になるところはあるけど、全体的には新鮮だったな。舞台設定も魅力的だしね。トレイルとかさ、リアリティもあるし。13歳の子がひとりでテントで過ごすなんて、現実にはちょっと無理っぽいんだけど。いっやー、最近読んだ英文学のなかでは、ダントツの高得点!

モモンガ:前作『めぐりめぐる月』(もきかずこ訳 講談社)もよかったけど、この作品のほうがもっと好き。登場人物は多いんだけど、ぜんぜんこんがらがったりしない。ジニーにとって、この人はどうっていうふうに、一人称で書いてあるから、人物像も人間関係もとってもよくわかる。ただ、オビのキャッチコピーは「自分の存在意味をトレイル復活にかけた少女の葛藤」とうたってるんだけど、「トレイル=自分さがし」というふうにはつながってないと思う。話は少しずれるけど、最近友人がまだ幼い子どもを突然なくすという不幸があって、そのすぐあとにこの本を読んだので、伯父さん伯母さんの、子をなくした親の気持ちが、生々しく迫ってきちゃってね。シャロン・クリーチも、そういう体験をした人が身近にいたかどうかわからないけど・・・。これ、ジニーが、ローズとジェシー伯母の死をどうやって受け入れるか、納得するか、という物語だとも考えることができて、とっても深い話なのよね。だから「自分さがし」とか、そんなことだけをことさらアピールしなくてもいいと思う。それと、ジニーが「何かしなくちゃ」と思っているというのは、わかるんだけど、なぜトレイルを掘るのかっていうのが、いまひとつよくわからなかった。

ウンポコ:そういえば、ネイト伯父が恋人をさがしにいくのって・・・。

オカリナ:そんなはずないと思うなあ。あれほど伯母さんを愛してるんだから、伯父さんは。妄想まで見たりして。そんな男が、別の女に会いにいくはずないじゃない。なのに、まわりが、伯父さんは浮気してるのかもなんて思うのは、不自然。伯父さんのようすを見てれば、そんなことするわけないってわかるはず。人物像がくっきりしてるのに、これはちょっと残念だった。

ウォンバット:私は、伯父さんとお父さんって兄弟のはずなのに、よそよそしいのが気になった。年の離れた兄弟だったのかな。ネイト伯父って、ずいぶん年寄りっぽい感じだし。それに、伯父さんの家のしつらえが、現代とは思えなかったんだけど……。でも、田舎だからこれでいいの?

オカリナ:アメリカも、田舎では普通だよ、こういうの。たしかにずいぶん昔っぽい感じだけど、こんなふうにしてる人、今でもいっぱいいるんじゃない?

アサギ:アメリカって、都市と田舎のギャップが大きいから。ドイツやイタリアは、小さな都市国家が集まって、ひとつの国になったから、どんなに田舎に行ってもちゃんと「街」として、機能していたという歴史があるのね。だから、人口5000人くらいの、日本の感覚でいったら「村」って感じのところでも、誇りをもって「市」っていうのよ。その点、アメリカは、ちょっと違う。アメリカの田舎だったら、今でもこんな感じのところ、たくさんあると思うわ。映画でも、田舎を舞台にしてる作品には、こういう暮らし、出てくるでしょ。

ウォンバット:たしかに。

モモンガ:最初の場面、伯母さんの台所にかざってある壁かけが出てくるんだけど、私ははじめ、なんのことだかよくわからなかったの。「オーブンの上にかけられてる」って、火にかけられてるっていう意味かと思っちゃったのよ。しばらくしてから、ようやく「あっ、これはサンプラーか」と、気づいたんだけどね。

アサギ:なあに、サンプラーって?

オカリナ:刺繍の練習をするためのお手本のこと。ABCとか、お花の絵なんかが多いのよね。クロスステッチの練習とかさ。これは、絵と格言みたいなのがいっしょになったパターンね。私は、たまたますぐサンプラーだと思っちゃったから、引っかからなかったけど。

ウンポコ:そう? ぼくは、わからなかったなあ。じつは、それで挫折しそうになったの。でも、ちょっと辛抱したら、おもしろくなったからね。そんなに苦労せずに、最初のハードルは越えられた。

オカリナ:私が気になった、というか不自然だと思ったのは、次の3点なの。(1)ウンポコさんも言ってた、ジェイクの「まいった!」発言(いまいちしっくりこず)。(2)ネイト伯父の浮気疑惑(前出)。(3)ジェイクが、あれほど愛情を表現してるのに、まだ疑うジニー。

モモンガ:ジニーって、かわいくない子なのよね。

オカリナ:うん。ねじくれてる。

モモンガ:意固地なヤな子。それまで、さんざん痛い目にあってるからね。私は、ジニーのそういうところは理解できた。「おとなしい」っていうより、自分をもちすぎてて、理解してくれなくてもいいわって感じ。複雑だけど、ありがちよね。でも、このあとがきは、ちょっとこじつけじゃない? ジニーのおかれている状況は、今の日本の子どもたちにも通じるものがあるっていうところ。「めぐまれた環境ではあるけれども、さまざまなものが飽和状態に達していて、何をいおうと何をしようと、すでにだれかが口にし、やってしまったことばかり」といわれてもねぇ……。イマイチ無理がある。あと「トレイルは、ジニーが自分の存在を確かめるための手段」っていうのも……。

オカリナ:自分だけの何かが必要っていうことは、わかるけどね。

ウンポコ:訳も、ちょっと乱暴なところがあるよね。でも、それだけじゃないのかな。原書自体、もう少し整理したほうがよかったかも。

オカリナ:ネイト伯父の浮気疑惑のあたり、原文はどうなってるんだろう? あそこが、どうもひっかかるのよね。おさまりが、悪いんだな。ジグソーパズルのピースが、ぴたっとはまりきってない。

ウンポコ:あきっぽいぼくが、最後まで読めたのは、トレイルの魅力だと思うな。舞台セットがすてきだからね。

モモンガ:「道」って、なにか象徴的な意味があるんじゃないの?

オカリナ:『空へつづく神話』(富安陽子著 偕成社)も、こんなふうにやってくれればよかったのにね。重層的な感じがなかったからね、あの作品は。

モモンガ:この作品は、小道具が活きてるわね。ひきだしとか、エプロンとか。

オカリナ:どきっとしちゃうよね。イメージがうかびあがってきて。メダルもね。

ウンポコ:うん、うまいよね。

モモンガ:ほんと。

ウンポコ:シャロン・クリーチは、これから注目の人だね。ストーリーテラーとして、なかなかスゴイぞ!

モモンガ:ぜんぜん退屈しないものね。1章が短いし。うまく緩急つけてる。

アサギ:それにしても、一人称小説って年々増えてるわね。全世界的に。「わたし」or「ぼく」が語る物語の増加率って、ものすごいパーセンテージだと思うわ。

すあま:世界的に、みんなジコチューの傾向にあるのかな。

ウンポコ:一人称のほうが、気持ちを主人公に重ねやすいんじゃない?

アサギ:技法としては、一人称のほうが楽よね。だって、自分の視界の範囲、今、主人公が見えてる範囲内で描写すればいいわけだから。

オカリナ:うーん。でも、一人称の小説は、わき役の人物像をうかびがらせるのが、むずかしいんじゃない? テクニックが必要だと思うなあ。

モモンガ:たしかにこの作品も、会話よりも、ジニーの言葉で書いてある地の文のほうが印象に残るわね。

オカリナ:どうかな。でも、それって翻訳の問題かもよ。日本の小説だって、そういうとこは、むずかしいと思うわ。訳といえば、「ネイト伯父」「ジェシー伯母」っていういい方、古くさくない? ちょっと気になったんだけど。

モモンガ:あ、私も感じた! それ。

アサギ:昔だったら、「○○伯父」「○○伯母」っていうの、よくあったけどね。

ウンポコ:でもさ、ジニーはおマセさんだよね。日本の13歳より、2〜3歳は年上の感じ。

アサギ:精神年齢がちがうからね。日本の子どもとは。

ウンポコ:「いつキスされてもいいように、くちびるをしめらせた」なんてとこを読むと、ドキッとしちゃうよ。

オカリナ:それってさ 、日本の子どもと比べてじゃなくて、ウンポコさんの若かったころとは違うってだけじゃないの?

(2000年11月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


2000年11月 テーマ:少女の成長物語(その1)

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『2000年11月 テーマ:少女の成長物語(その1)』
日付 2000年11月9日
参加者 ウンポコ、ウォンバット、すあま、オカリナ、アサギ、モモンガ
テーマ 少女の成長物語(その1)

読んだ本:

カレン・クシュマン『金鉱町のルーシー』
『金鉱町のルーシー』
原題:THE BALLAD OF LUCY WHIPPLE by Karen Cushman, 1996(アメリカ)
カレン・クシュマン/著 柳井薫/訳
あすなろ書房
2000.06

<版元語録>ゴールドラッシュに湧く金鉱町へやって来たウィップル一家。金脈を掘り当てようと血眼の男たち、彼らの下宿で賄いの仕事をする母、家事・狩り・パイ売りに奮闘するルーシー。厳しい自然を相手に悪戦苦闘する人々の物語。
シャロン・クリーチ『赤い鳥を追って』
『赤い鳥を追って』
原題:CHASING REDBIRD by Sharon Creech, 1997(アメリカ)
シャロン・クリーチ/作 もきかずこ/訳 
講談社
1997.11

<版元語録>13歳のジニーは、大家族のなかで自己主張をしない、影の薄い少女だった。ある日、農場のはずれに、昔開拓者たちが通ったトレイルの跡を見つけたジニーは、たった一人でトレイルの復活に取り組む。自分の存在意義を求めて。

(さらに…)

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神秘の短剣

フィリップ・プルマン『神秘の短剣』
『神秘の短剣』 (ライラの冒険シリーズ2)

フィリップ・プルマン/著 大久保寛/訳
新潮社
2000.04

ウォンバット:今回、私はたいへん苦しい闘いでして。毎晩、おふとんの中で読もうとしたんだけど、もう眠れて眠れて……。結局p170で時間切れとなってしまいました。このシリーズの1巻目『黄金の羅針盤』(新潮社)も、以前この会でとりあげたけど、私はどうも好きになれなかったのね。寒々しくて。今回も、最初にウィルが人を殺してしまうでしょ。それで彼は、罪の意識にさいなまれるわけだけど、こんなに簡単に人が死ぬっていうのも、どうもなじめないのよねぇ。なんだか、全体におぞましい雰囲気だし。

オカリナ:私は、読むには読んだけど、ぐんぐん引き込まれたというより読書会のために最後まで読んだって感じ。読んでて、気持ちが引っぱられるということはなかった。『黄金の羅針盤』のときも思ったことだけど、頭には響くけど、心には響かないのかな。それで、どうもすわりが悪いというか、おちつきが悪いの。このシリーズは2冊読んでも、全体の構造がまだよくわからない。だから頭ではいろいろ考えるんだけどね。こんな、とてつもない話、この先どういうふうにまとめるつもりなんだろうね、なんていう興味はすごくある。

ひるね:アマゾン・コムに、Margot Liveseyという人が「プルマンをいいという友だちは、しつこくて雄弁だった」って、書いていたんだけど、なるほどと思ったわ。

一同:ふーん、なるほど!

モモンガ:私は、p98までしか読めなかった。『黄金の羅針盤』がとても気に入っていたから、これも楽しみにしてたんだけど、今回は時間がなかったの。ここはun poco読みか?! とも思ったんだけど、この作品はちゃんと味わいたかったから、いいかげんには読めなかった。今回は、世界が3つになるのよね。

ひるね:そうそう。現実世界、ライラたちの世界、ダイモンのいる世界の3つね。

ねむりねずみ:私は、1巻も2巻も原書で読んだのね。まず1巻を読んで、大きなショックをうけたの。うっわー、これはすごい!! って。それで、2巻が出版されたとき、うれしくって、大事に読もうと思ったのに、読みはじめたらおもしろくて、一晩で一気に読んじゃった。今回、翻訳を読んでみたけど、原書どおりのおもしろさだった。プルマンは、すごい世界を作ったわね! やっぱり「ハリー・ポッター」シリーズ(J.K.ローリング著 松岡祐子訳 静山社)とは、根本的に違う。この本は「ライラの冒険シリーズ」の2なんだけど、1巻めに完全におんぶにだっこというんじゃなくて、これはこれで、またすばらしい世界になってる。こうなってくると、3巻目は、もっとすばらしくなるか、おもいっきり破綻するか、のどっちかしかないでしょ。どうなっちゃうんだろうね。私は、1か所、泣けるところがあったの。それは、気球乗りのリー・スコーズビーが死ぬ
ところなんだけど。この物語の登場人物って、基本的にみんな強いでしょ。ライラもウィルも、ものすごく強い。それで唯一、弱いというか、ふつうの人であるリーさんは死んでしまう、と。登場人物があんまりにも強くて、日本人がふだんなじんでいる心象風景とは、ずいぶん違うでしょ。だから、日本の読者の中には、そういうところでなじめないというか、ついていけないって思っちゃう人もいるかもしれないね。登場する子どもたち、ライラにしてもウィルにしても、従来の子ども像とは全然違うのよ。1巻目で、ライラは、父にも母にも裏切られる。2巻目では、ウィルは子どもなのに、保護されるのではなく、逆に母を守らなくてはいけない保護者のような立場に立たされてる。ふたりとも“今”を反映した存在。それから、天使が善悪を越えた存在として登場するのも、オリジナリティがあるよね。

ウンポコ:ぼくは、p47まで。

ウォンバット:さすが、元祖ウンポコ!

ウンポコ:1巻目は読んでなくて、だいじょうぶかなと思いながら読みはじめたんだけど、やっぱりわかんないところがあってね。『黄金の羅針盤』を読んでないとだめなのか・・・と、ちょっと疎外された感じがして、落ちこんじゃったね。物語世界に惹きこまれていけば、すいすい読めるんだろうなーとは思うけどさ。1章は、おもしろかったんだよね。でも2章以降は、もうロッククライミング状態。

愁童:今回のテーマは、ぼくとひるねさんが決めたの。どうしてこれを選んだかというと、裕さんに言われたことが気になっててね。ぼくは、『黄金の羅針盤』を読んだとき「ハリー・ポッター」と同工異曲のご都合主義だと思っちゃったんだよね。ライラが窮地に陥ると、すぐだれかが助けてくれるだろ、というようなことを発言したら、裕さんに「プルマンの世界は、英国では非常に高く評価されてる。これが理解できないのはオカシイ!」というようなことを言われたんだな。そのときは、そんなこと言われてもという感じだったんだけど、どうも、その言葉がひっかかっててね。2巻目を読めば、プルマンの世界のすばらしさが理解できるかなと思ったんだ。そして、読んでみたわけだけど、おもしろかったな。「ハリ・ポタ」と違って独創性もあるし。天使にしても、キューピーみたいな顔をしていて羽がついててっていう既成のイメージとは全然違う、プルマン独自の新しいものになっていて、読み手の中にはっきりしたイメージを残してくれる。力のある頭のいい作家だよね。とてもよく練られていて、よくできてる。だけど、できすぎというのかな、スキがなくて、物語世界に没入できるような作家の体温みたいなものが、あまり感じられない。

モモンガ&ひるね:クールよねー。

ひるね:私は、おもしろくて好きでしたね、この作品。オリジナリティの魅力ね。天使にしても、剣にしても。だけど、こんなものすごい大風呂敷をひろげて、これから先、ストーリーテラーとして、どうまとめるのかしらね。登場人物にしてもなんにしても、ひとことでいえば「おもしろくて、わかりにくい」のよ。おもしろいのは原作のおかげ、わかりにくいのは翻訳のせいかな、と思った。だって、えーっと、ほらここ、p296の「塔の灰色の、胸壁の上には、死肉を食うハシボソガラスが旋回していた。ウィルは、なにが自分たちをそこへひきよせたのかを知って、吐き気をもよおした」っていうところ。読んでて、私は、何が自分たちをそこへ引き寄せたのか、全然わからなかったのね。雑な読み方をして、読み飛ばしてしまったかなと思ったの。これはウィルが指を切断したあとの場面なんだけど、よくよく考えてみたら、指から流れおちる血が、カラスを引き寄せたのかなと、思い当たってね。もしかしたら、これは3人称で書かれているから、themをカラスなのに自分たちと誤訳してこういうわかりにくいことになっちゃったのかもしれないと気づいた。これって編集者が気づかないとね。

オカリナ:これ、もったりした文章だけど、原文は、短く、切り付けるような、すぱすぱっとした文章なんじゃないの?

ひるね:アメリカの友人たちに聞いたら、この作品の文体を好きとか嫌いとかいった人はいたけど、難解だといった人はひとりもいなかった。だから、難解なのは、日本語の問題だと思うわ。

オカリナ:今までの冒険物って、仲間と力をあわせて進んでいくっていうパターンが多かったでしょ。その点、この作品は新しいと思うのね。ライラもウィルも孤独。ひとりでがんばってる。ふたりが協力するところも出てくるけど、一心同体の仲間というふうにはならなくて、お互いに完全に心を許しはいない。こういう世界を描くには、もっと簡潔な、きびきびした文章でないと、雰囲気があわないんじゃない? なんだか人物像がはっきりしなくて、感情移入しにくいのよね。

ひるね:私は、とくに会話が気になったわ。魔女の話し方もピンとこないし、リー・スコーズビーもグラマン博士もまったく同じ口調になってる。原書はどうなのかしら。

オカリナ:それにしても、いったい、どういうふうに終わらせるつもりなんだろうね。まるで見当がつかないわね。3巻目を読んでみないことには、わからない。

愁童:『黄金の羅針盤』で残された謎が、『神秘の短剣』でずいぶん解明された。そこんとこは評価したいね。それはいいんだけど、今回解明されたのと同じくらい2巻目自体の謎があるからなあ。

ねむりねずみ:明らかになった分を埋め合わせるように、また新たな謎が・・・。次の巻へもちこされる謎の数は、結局減ってない。私にとって、ライラはとても魅力的なキャラクターだった。この巻では、彼女の成長もみられるでしょ。わがまま者で、他人を思いやることなんて、『黄金の羅針盤』では皆無だったけど、『神秘の短剣』の途中から、ライラはウィルのことを思いやることができるようになる。それにしても、この話、弱い人はみんな死んじゃうんだよね。リー・スコーズビーも、恋をした魔女も。

ウンポコ:冷徹なのかな。

オカリナ:ウェットではないよ。

ウンポコ:この顔は、絶対ウェットではないね。(後袖のプルマンの顔写真をみて、うなずく)

ひるね:プルマンは、お父さんが軍人だったから、小さい頃から引っ越しが多くて、いろんな国での生活を体験しながら大きくなったのよ。そんな体験が、彼を「ひとりで生きる」ってタイプの人にしたんじゃない?

ウンポコ:この本、子ども向けではないよね。

ひるね:読者として子どもを意識してるのなら、子ども向けの翻訳者を選ぶはず。だから、子ども向けには作ってないわね。子ども向けと限定しないで、大人にも読めるような本にするのはいいことのように思うかもしれないけれど、外国で子ども向けに出版された本を出すのなら、まず第一に子どもが読めるような本作りをして、子どもの手に渡してもらいたいと私は思うの。エミリー・ロッダの『ローワンと魔法の地図』や、『ザ・ギバー』(ロイス・ローリー著 掛川恭子訳 講談社)が大人の本棚に並んでいるのはとてもうれしいことだけれど、もともと子どもに向けて書かれた本が書店の子どもの本の本棚にないのは悲しい。本というのはお金を出して版権を買った出版社だけのものではなくて、ある意味でみんなの財産なんじゃないかな

(2000年10月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ローワンと魔法の地図

エミリー・ロッダ『ローワンと魔法の地図』さくまゆみこ訳
『ローワンと魔法の地図』 (リンの谷のローワン1)

エミリー・ロッダ/著 さくまゆみこ/訳 佐竹美保/絵
あすなろ書房
2000.08

愁童:これはすごい。発売たちまち4刷! 売れてるんだねー。シンプル・イズ・ベストって感じ。安心して読めた。古典的ファンタジーの定石なんだけど、ゲーム的な要素も入ってる。あとがきを読むと、ジェンダーのこととか、ちょっと難しいことが書いてあるから混乱してしまうけど、強いといわれていた者たちがつぎつぎに脱落して、最後には弱者が使命をやりとげるというのは、おもしろかった。「ハリ・ポタ」やプルマンの理屈っぽい世界に比べると、この作品は、読みながら心の中で遊べる楽しさがある。ファンタジーのよさを再認識したね。

ウンポコ:ぼくも、おもしろかった。すらすら読めて、うれしかったよ。難をあげるなら、登場人物の姿がくっきり浮かんでこないってことくらいかな。ローワン、ストロング・ジョン、アランはOKだけど、その他の人は、男か女かもわかりにくい。ちょっとぼやっとしたところがあった。最初に登場人物の紹介でもついていたら、読書力のないぼくでも、わかったかもしれないけどさ。ちょっと難しいよ。と思っていたら、訳者あとがきに「男女差のない世界を描いている」とあった。ぼくは、そこまでは気づかなかったな。

ねむりねずみ:この本、装丁がいいわよねー。でも、私は基本的に理屈っぽいほうが好きなのかな。ローワンは臆病なんだけど、いい子でしょ。ちゃんと最後までやりとげるし。どこか、悪い子の部分もほしかったと思っちゃうのよね。憎らしくったって、私にはライラのほうが魅力的に見える。ローワンも、もうちょっと悪い子すればいいのに。2巻3巻では、やってくれるのかな? ジェンダーに関しては、ふたごのヴァルとエリスの性別がわからなかったから、気になった。

モモンガ:同感! 私も男か女かわかりにくいと思った。名前も、日本人の名前だったら、性別も、なんとなくわかるけど、ここに出てくるのは、ちょっとわからないものね。日本語は、英語みたいにheとかsheとか出てくるわけじゃないし。実際、双子はヴァルが女でエリスが男なんだけど、エリスのほうが、女の子の名前のような感じもするでしょ。

ねむりねずみ:最後のところ、p211の「ローワンの胸の中にあった古いしこり」って、ちょっとピンとこなかったんだけど……。

オカリナ:父が死んだのは自分のせいだっていう負い目と、母に臆病でひよわだと思われてるってということを言ってるんじゃない?

ねむりねずみ:そっか。あと、p188のローワンがジョンを気づかう場面。ローワンは、旅のはじめのほうでジョンが声をかけてくれたときのことを思い出してるんだけど、私はそこの場面とうまくジョイントしなかった。

モモンガ:謎ときに夢中になっちゃうわよね。ドラクエの世界。謎の詞にあてはめながら、最後まで読める。あの詞のページを、何度もぱらぱらめくったりして。この物語のおもしろさは、弱い子が主人公ってことだと思う。ローワンは弱虫だし、腕じまんの厳選メンバーの中に、ひとりだけ紛れこんだ子どもだけど、子どもならではの動物との交流とか、子どもにしか見つけられないこととか、ローワンだからこそできるっていうことが、ストーリーにうまくいかされてる。この子が最後に残るってことは、はじめからわかっちゃうのはいいんだけど、そこにもうひとつ、インパクトがほしかったな。ローワンは、妙に大人っぽくなっちゃうでしょ。みんなが眠っているところを見て、いとおしく思うところとか、やるのは自分しかいない! って決意したりするところなんか。そうじゃなくて、子どもっぽいままで、大人だったらできないけど、子どもだからこそできたってなったら、子ども読者はもっと喜ぶと思うのよ。

愁童:竜ののどにささったとげをとるところなんて、うまいと思ったけどな。

モモンガ:うーん。でも、いくらバクシャーのとげをとったことがあるにしても、おんなじようにはいかないんじゃない? だって、この絵(p196〜197)見て! すごい迫力! こんな、ものすごい竜のとげを、よくとったわね。

ひるね:けんかの弱い子とか、いじめられっ子って、犬とかウサギとかを愛でたりするでしょ。だからローワンも、痛がっている竜をかわいそうと思ったんじゃない?

ウォンバット:私は、それよりも使命感だと思ったな。ローワンはバクシャーを大切に思っていて、その心の交流には胸が熱くなるものがあるんだけど、その愛するバクシャーや村の人を救えるのは、今や自分しかいないんだ、やらねばっ!! ていう使命感。

ひるね:無意識でも、読者には期待があるのよね。登場する子どもに対して。あんまり優等生なのはイヤとか、やんちゃであってほしいとか、よくある子ども像からはずれると、物語に添っていけないようなところってあると思う。前に手がけた本で、風邪をひいた動物の子が悪夢をみるっていう本があってね。それに対して「子どもは、風邪をひいたくらいで悪夢なんてみません。子どもはもっと強いものです」って書いた書評があってびっくりしたことがあったわ。私は、弱者が主人公というのは、おもしろいと思ったけど。

モモンガ:私も、弱者が主人公というのは、おもしろいと思ったわ。

オカリナ:これは、ファンタジーとしての価値を論じるような作品ではなくて、エンタテイメントの楽しさがウリの本だと思うのよね。物語世界の厚みとかプロットの独自性を期待するんじゃなくて・・・。どこかで見たり聞いたりするようなプロットが使ってあるんだけど、それを組み合わせて、これだけ短くてこれだけおもしろい物語をつくりあげたっていうのが、すごいことじゃない? ファンタジーの名作とは比べられないけど、日本では「ハリー・ポッター」がああいう残念な形で世に出てしまったこともあるし、こういう本にがんばってもらいたい。本が嫌いな子でも楽しく読める要素があると思うの。

ねむりねずみ:ロールプレイニングっぽいよね。これだったら、ゲーム感覚で楽しめて、ふだんあんまり本を読まない人でも、親近感をもてるんじゃないかな。

ウンポコ:逆に、つぎつぎ襲いかかる苦難もクリアするだろうって、わかっちゃうから、大人は、物足りなさを感じたりもするんだがね。でも、子どもはわくわくするだろうね。爽快な感じで。文学へのとっかかりとしてはイイと思うな。

オカリナ:ジェンダーの問題だけど、まず私は、ランが男だと思っちゃったのね。「昔は偉大な戦士だった」というからには、男かな? と。でも、リンの村では「戦士=男」ではないの。ランも、実は老女。職業にしても、男だから女だからということに関係なく、それぞれの適性にあったことを仕事にしている。ふつうのエンターテイメントって、既成の男性像、女性像によりかかってるのが多いでしょ。その点、この作品は新しいと思うのよ。ひと味ちがう。

ひるね:私は、M駅前の児童書に力を入れてる書店でこの本を見て、涙が出るほど感激したのね。この、本づくりのすばらしさに。表紙、別丁の扉、紙の色、書体の選び方……すべてに神経がいきとどいてる。「ハリー・ポッター」とは、なんたる違い!

ウンポコ&モモンガ:感じのいい本だよねー!

愁童:ファンタジーって感じだよな。

モモンガ:表4なんかも、とってもいい雰囲気。佐竹さんの絵がいいのよ。

ウンポコ:このごろ、佐竹さん、大活躍だな。『魔女の宅急便3 キキともうひとりの魔女』(角野栄子著 福音館書店)の絵も、そうだよね。

オカリナ:えっ、3って、もう出たの?

ウンポコ:出たばかりだよ、今月(10月)かな。「魔女の宅急便」は、3作すべて絵描きさんが違うから、(『魔女の宅急便』林明子絵、1985、『魔女の宅急便2 キキと新しい魔法』広野多珂子絵、1993、すべて文は角野栄子、福音館書店)本としては不幸だけど、それぞれイメージは変わってないし、なかなかいいよね。

ひるね:今、大人の本の会社が子どもの本も手がけるようになってきてるでしょ。「ハリー・ポッター」にしても、プルマンにしても。あと、9月に、東京創元社から出版された『肩胛骨は翼のなごり』(デイヴィッド・アーモンド著 山田順子訳)も、原書は児童書でしょ。それはそれで、よいものができあがれば何も問題ないけれど、残念なことに粗悪品も出回ってる。日本の翻訳児童書の装丁って、世界を見回してもとてもレベルが高いと思うの。外国の原作者に日本語版をみせると、いろんな国で翻訳出版されているけど、日本語版がいちばんいいって、みんな言うのよ。本の作り方が、日本ほどすばらしいところはないって。それは、児童書の編集者たちが、長い時間かけてつくりあげてきた文化だと思う。センダックも子ども時代をふりかえって、「本をもらったら、なでて、においをかいで、少しかじってみた」って言ってるけど、やっぱり子どもにとって、本って、特別なものだと思うのね。大人向けの本のノウハウしかない会社が児童書をつくるのは、ちょっと難しいんじゃないかしら。『神秘の短剣』と『ローワン』を比べてみても、違いは明らか。「ライラの冒険シリーズ」も『ローワン』と同じように、大人向けのコーナーと子ども向けコーナーと、両方に並ぶようになるといいのにね。

(2000年10月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


空へつづく神話

富安陽子『空へつづく神話』
『空へつづく神話』
富安陽子/作 広瀬弦/絵
偕成社
2000.06

オカリナ:この本、ここに到着する1時間まえに読み終わったんだけど、なんか、ジグソーパズルのピースがぴったりはまらないって感じなのよね。その土地その土地に伝わる神話を、子どもたちに身近なものにしたいという意図はとてもいいと思ったんだけど・・・。ヒゲさんって神様なのに、神様らしいことをするのって、お姉さんをカエルに変えるのと、空を飛ぶことくらいでしょ。ま、それは記憶喪失だから、しょうがないとして。でも、最後も不満だった。とってつけたみたいなんだもの。理子とヒゲさんの関係の変化も、はじめはけんかしてたのが、だんだん仲良くなって、最後は「行かないで!」ってなるんだけど、その過程がちゃんと描けてないから、「行かないで」が、しっくりこないんだなぁ。全体に、リアリティが感じられなかった。たとえば、最初のほうで、理子が連絡帳で男の子のお尻をたたいたら、女の子たちが「乱暴ねえ」とか「けがさせたんじゃないの」とか、ひそひそ陰口をたたいたり、先生におこられたりっていう場面があるんだけど、ちょっとノートでお尻をたたいたくらいで、そんな展開にならないでしょ、ふつう。このくらいの年の子が、学校でどんなふうにしてるか、具体的に見てから書いたほうがいいんじゃない? 図書館でヘビになったヒゲさんを、後ろのおばさんが見て騒いで、他の人たちに追いかけられる……っていう場面も、現実にはこんなふうにはならないでしょ。ひまわりの花が強風で頭だけ落ちるってことも、ないと思うんだけどな。ひまわりは花がポタッと落ちるんじゃなくて、茎がくたっと折れるんじゃないかな。こまごましたことだけど、そういうことがしっかりしてないと、リアリティはわいてこないな。とびとびの時間で読んだせいかもしれないけど、そんなことがいろいろ気になっちゃった。

ウォンバット:んー、オカリナさんの意見に同感だな。紙の上の世界でしかないって感じ。理子がどういう子なのか、伝わってこない。キャラクターも不明だし、神様がやってくるのもトートツ。最初の場面で、理子が不機嫌だっていうのは、わかるんだけど、前の日に服を買ってもらえなかったくらいで、これほど神をうらんだりするかしら。

ひるね:くだらないと思っちゃう。

ウォンバット:おさがりって、たしかに兄弟姉妹の間で波紋を巻き起こすものだから、ぱっと使ったんだろうけど、思いつきの枠を出てないと思う。

ひるね:使いふるされてるエピソード。

ウォンバット:おさがりが嫌でさわぐのって、もっと小さい頃じゃない? だいたい小学校6年生にもなれば、12年近くも次女をやってるわけだから、次女としての自分の運命を受け入れてるはずだと、次女の私は力説したい。次女ならではのおトクなことだって、いっぱいあるでしょ。おさがりだって、すてきな洋服のときはうれしいし、おさがりがあるぶん、服をたくさんもってるってことだってあるし。6年生だったら、もうそういうことがわかってる年だと思うなぁ。だいたいおさがりなんて、しょっちゅうあることのはずなのに、こんなに、神をうらむほど思いつめるなんてねぇ。「おさがりの服=がっくり」ってたしかに黄金の定理だけど、こんなふうに使うのは感心しない。短絡的だと思う。

モモンガ:着想はおもしろいと思うのよ。会話もうまい。「ツルだってカメだって、恩返しするんだから、神様にも恩返しくらいできるはずよ」とか、くだらない会話がおもしろくて笑っちゃった。でもね、私は、最後、ふたりが飛ぶのが不満なの! 子どもって、自分と同じふつうの子が、不思議を体験するっていうのが好きなのね。こういう物語は、そこが醍醐味なのよ。読んでる子は、理子にも、自分と同じ能力のままで不思議を体験してほしいの。だからヒゲさんは飛んでもいいんだけど、理子は飛んじゃだめなの。ヒゲさんも、こんなりっぱな風体なのに、大したことしないのよね。たぶん作者も、イメージがちゃんとかたまってなかったんじゃないかしら。思いつきっていわれても、しかたないかも。

ねむりねずみ:絵のタッチが似てるせいかな、宮崎駿を連想しちゃった。意図は全部いいんだけど、意図が見えちゃう場合は、物語として成功してないよ。最後も、とつぜん二面性が出てきちゃうのは、いかんぞっ! あと、ちょっと気になってるのは、ヒゲさんの口調なんだけど、昔の人なんだから、もっと古いしゃべり方のはずじゃない? 現代の子どもと、意思の疎通がすっとできるっていうのは・・・。

モモンガ:いきなり現代っ子と、こんなおもしろい会話をしちゃうのは不自然だよね。話がかみ合わなくて困ったりすれば、ストーリーとしても説得力があったのに。

ウンポコ:好きな作家なんだけど、この作品はなんだかチャチになっちゃってる。ほんとは、もっと神秘的なものを描く力のある作家だと思うんだよ。ちょっと、この作品はうまくいってない。宮沢賢治の世界をとりこむことのできる、数少ない作家のひとりなんだけどね。編集者としては、クスサンのもようを、見返しあたりにぜひ入れたいとこだな。道具立てはかなりいいのに、ほんと残念。

ひるね:道具立ては、いいのよ!

オカリナ:アイディアをいかして、ちゃんと世界を構築すれば、いいものが書ける人なのにね。編集の人がもっと作家に迫ってやりとりすれば、もっとおもしろくなったんじゃないかな。

愁童:この作品、最初に読んだどきはおもしろいと思ったんだよ。でも、この会のために、どんなストーリーか思い出そうとしたら、ぜんぜん思い出せなかったんだ。まえに、ねねこさんが「みなさん、日本のものに厳しすぎる」っていってたのが頭に残ってて、一生懸命好意的に、前向きに読んだつもりなんだけど。この作品には、郷土史を発掘するという知的なおもしろさがある。でも、その線を押すなら、たかがおさがりの洋服ぐらいで神に見放されたなんてところから始めてほしくなかったな。神様に出会うのは、学校の図書室なんだけど、描写を読むと図書室ではなくて、図書館のイメージなんだよな。どうも、ぴったりこない。どこかツメがあまい。表現も「とげとげした顔」なんて個性的でおもしろいかなと思う反面、ひょっとしたら誤植かな、なんて思わせるようなワキのあまさを感じちゃう。いい素材を使ってるのに、もったいないな。もっと発酵させる必要があったんじゃないかな。

ひるね:日本の創作に対しては、あまりある愛があるために、ついついけなしてしまうのよ、私。褒めた記憶ってないから、これからは気をつけよっと。でも、これも愛するがゆえなのよ。よろしくね、みなさん。さて、この作品は、郷土に根ざしてるというところは、いいと思うのよ。疑似英国ファンタジーとは、ひと味違う。しかしね・・・。唯一おもしろいと思ったのは、カエルになったお姉ちゃんのエピソードくらいだったの。そもそも、なぜ神様が、理子のまえにあらわれたのか、わからない。風土記の著者の桐山好久の曾孫、中央図書館の館長、桐山克久が登場したときもこいつが悪者か?! と思ったけど、ただの好好爺だったでしょ。拍子抜け。神様もボケてるときはいいけど、たまにまともになったときに、とつぜん破壊する心と、育む心をもってるなんて、自分で言うけど、そういうことが伝わってこないの。こないだも、たいへんな水害があったでしょ。なのに、こういう展開って、ちょっとノーテンキすぎるわよね。こんなこというと生真面目すぎると言われるかもしれないけど、大人より子どものほうが、こういうことって敏感だと思う。この作品のように、日本の風土に根ざしたものが、もっと出てきてほしいから、がんばってほしい。応援してるわよ。

(2000年10月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


クリーニング屋のお月さま

坂東真砂子『クリーニング屋のお月さま』
『クリーニング屋のお月さま』
坂東真砂子/作 大沢幸子/絵
理論社
1987.10

愁童:短い作品だけど、おもしろかった。坂東さんは、非常識を自信をもって書いてる。読者を惹きこむよね。とんちんかんなイメージに読者をひきずりこむ力がすごい。お話としてはナンセンスで、まぁ、どってことないんだよ。でもそれが、逡巡なしにぽーんと出てくるから、なんなんだ?! と思うけど、これだけ自信をもって書かれちゃうと、読んでるほうが「スイマセン!」っていっちゃうね。有無をいわさない迫力がある。ものすごい力強さ。

ウンポコ:坂東さんは、寺村輝夫さんの弟子なんだけど、それを背景に感じてしまった。寺村さんの幼年童話のおもしろさを、ぴたっと受け継いでるね。それは、木にたとえれば、枝も葉もなく、幹だけで進んでいくっていう感じ。この作品も、寺村さんがいちばん喜びそうなパターン。本づくりも、うまくいってるね。ぼくも、32Qの文字の本ずいぶん作ったから、思い入れのある分野なんだよ。こういうタイプの本がではじめた1968〜1969年頃には、非難ゴウゴウだったんだ。サイコロ本なんていわれてさ。

ひるね:えっ? サイコロ?

ウンポコ:ほら、文字が大きくて、サイコロみたいだって。文字が少なくても、話が通じるようなすばやい話の展開が必要なんだ。その点この作品は、この造本にぴったりの、スピーディな展開になってる。でも、タイトルは、あれっ? と思った。だって、お月さまはクリーニング屋に行くわけだろ。ちょっと合わないんじゃない? このタイトルは。

ねむりねずみ:おもしろくて、けらけら笑っちゃった。迫力あるナンセンス。絵もあってるよね。このヘンテコな感じに。こういうもの、あんまり読んだことがなかったから、もっと読んでみたいと思ったわ。

モモンガ:今回は時間がなくて、とてもこの本までは読めないわと思ってたけど、思いがけず、幼年童話でよかった。すぐ読めた。こういう話、好き。おもしろかった。「なんで?」とか、言っちゃいけない世界なのよね。そこがおもしろい。こういうことって、タツオくらいの年齢の子どもが、いちばんよくわかるんじゃないかしら。とくにおもしろかったのは、「お月さまは、ごろりとカウンターに体をくっつけていった。『夜までに、いそいでおねがいしたいの』」っていうとこ。 このクリーニング屋、カネダ・ドライっていう、おかしな名前のお店なんだけど、この名前のおかしさが活きてないと思った。月にもどったお月さまに「カネダ・ドライ」って文字がすけてみえるとか、そういうオチを期待していたんだけど。それとか、自動販売機を食べちゃったお月さまは、空の上で煙草吸ってるとかね。

一同:わっはっは(笑)

モモンガ:でも、全体としては、とても楽しく読みました。

オカリナ:さーっと読んで、ああおもしろい、はいっOK! って感じだった。ナンセンスでこれだけおもしろいものを書けるんだから、重厚なおどろおどろしい大人ものばかりじゃなくて、こういう作品も、もっと書いてほしいな。

ウンポコ:でも、今、幼年童話って、売れないんだよな。ひところにくらべて、売り上げは、がっくりなの。

ウォンバット:おもしろかったけど、言うことがみつからないなあ。読んで「あ、そう」って感じ。ナンセンスって、うまくいってない作品だと、「あ、そう」とはならないのよ。つっこみどころばっかりみたいになっちゃって。その点、この作品はそうはなってないから、とてもうまくいってるんだと思う。絵も、いいよね。お話にあってる。私がとくに好きだったのはp21の絵。

ひるね:私も、気にいったわ。子どもが読んだら、コワイと思うところも、あるんじゃないかしら。子どもにすりよってないところがイイ。モモンガさんとは反対の感想なんだけど、サービス精神のなさが気にいったの! これは、1987年の作品だから、ちょっと前のものだけど、今もとても人気があるのよ。家の近所の図書館でもよく読まれてる。その図書館は旧式だから、スタンプをみれば、何人読んでるかわかっちゃうの。幼年童話って、他のものとは全然違うジャンルなのよね。そして、絵本と物語の橋渡しとなる、とても大事な分野だと思う。基本的にアイディアの勝負なの。SFとか、ショートショートみたいな部分がある。書くほうにとっても、おもしろい分野だと思うわ。幼年童話って外国にもあるの?

オカリナ:あるんじゃない。I Can Read Booksとか、あるものね。

ウンポコ:擬音語・擬態語って作者のセンスがあらわれるとこだよね。とくに擬態語は造語できるしね。クリーニングがすんだお月さまが出てくるところ、「なかから、へにょり」ってなってるんだけど、うまい! と思った。オリジナリティがあるし、よく感じも出てる。手垢のついたような擬態語を平気で使うような作家もいるけどさ、困るんだよね。そういうの。寺村さんは、そのへん、ものすごく神経を使って、よく考える作家だから、その教えをしっかり受けついでるなーと思った。

モモンガ:ちょっとブラック入ってるよね。子どもってくそまじめだから、このブラックはわからないかも。最後、1000円返してもらえなかったことを、気に病んじゃう子もいそう。これ、そうとう自信もって書いてるでしょ。だから、惹きこまれちゃうのよね。これが、もし陳腐だったら、破綻してるね。

愁童:読むほうは、さらさらっと読んじゃうけど、作者はとてもよく考えてると思うんだよ。クリーニング屋のおやじも、いい味出してるよなあ。ふつう、お月さまが来店したら、うろたえそうなもんだけど、平然と「いらっしゃい」なんていってる。子どもにすりよらず、自信をもって書いてると思うね、ぼくも。作品としては、1000円返さないとこがいい。

ひるね:そこは、議論になるところよね。1000円って、子どもにとっては、たいへんなお金だし。ファンタジーって、どこか不思議な場所に行って、もどってきたらマツボックリを手にもってたとか、おみやげをもって帰ることが多いけど、これは、その逆パターンかもね。もって帰るんじゃなくて、もってかれちゃうの。

ウンポコ:お月さまが、「おまえを食べちゃうぞ」っていうのもおもしろいよな。

ひるね:シュールよねぇ。でも、子どもの中には、「これは嘘だよね。お話なんだよね」っていう子もいるでしょ。そういう子には、なんて説明するの?

ウンポコ:ナンセンスは、企画を通すのがたいへんなんだよ。えらい人のなかには、ナンセンスを解さない人もいるからね。こういうのって、感想文が書きにくい本だしね。

ひるね:1000円返してほしかったでーす、とか?

ウンポコ:お月さまが、悪いと思いまーす、とかさ。だから、読書感想文の課題図書には、入りにくいんだよなぁ。こういう作品は。

(2000年10月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


2000年10月 テーマ:ふしぎなお話

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『2000年10月 テーマ:ふしぎなお話』
日付 2000年10月26日
参加者 ウンポコ、愁童、ウォンバット、ひるね、オカリナ、
ねむりねずみ、モモンガ
テーマ ふしぎなお話

読んだ本:

フィリップ・プルマン『神秘の短剣』
『神秘の短剣』 (ライラの冒険シリーズ2)

原題:THE SUBTLE KNIFE by Philip Pullman, 1997(イギリス)
フィリップ・プルマン/著 大久保寛/訳
新潮社
2000.04

<版元語録>オーロラの中に現われた「もうひとつの世界」に渡ったライラは、“スペクター”と呼ばれる化け物に襲われ、大人のいなくなった街で、別の世界からやって来た少年ウィルと出会う。父親を探しているウィルはこの街で、不思議な力を持つ“短剣”の守り手となる。空間を切りさき別世界への扉を開くことのできるこの短剣を手に入れた少年と、羅針盤を持つライラに課せられた使命とは…。気球乗りのリーや魔女たち、そして天使までも巻き込んで、物語はさらに大きく広がっていく―。世界中で大ベストセラー、カーネギー賞受賞の壮大で胸躍る冒険ファンタジーの傑作。
エミリー・ロッダ『ローワンと魔法の地図』さくまゆみこ訳
『ローワンと魔法の地図』 (リンの谷のローワン1)

原題:ROWAN OF RIN by Emily Rodda, 1993(オーストラリア)
エミリー・ロッダ/著 さくまゆみこ/訳 佐竹美保/絵
あすなろ書房
2000.08

<版元語録>リンの村を流れる川が、かれてしまった。このままでは家畜のバクシャーもみんなも、生きてはいけない。水をとりもどすために、竜が住むといわれる山の頂きめざして、腕じまんの者たちが旅立った。たよりになるのは、魔法をかけられた地図だけ。クモの扉、底なし沼、そして恐ろしい竜との対決…。謎めいた6行の詞を解きあかさなければ、みんなの命が危ない。 *オーストラリア児童文学賞
富安陽子『空へつづく神話』
『空へつづく神話』
富安陽子/作 広瀬弦/絵
偕成社
2000.06

<版元語録>理子にとって神様は、いつも気まぐれで不公平で、えこひいきばかりする、ろくでもないやつです。でも、ふとしたことから記憶を無くしたへんてこな神様と知り合うことになって…。神様を助ける女の子の楽しい物語。
坂東真砂子『クリーニング屋のお月さま』
『クリーニング屋のお月さま』
坂東真砂子/作 大沢幸子/絵
理論社
1987.10

<版元語録>「あれえ!」みちのまんなかで、お月さまにであっちゃった。お月さま、なんでこんなところにいるのかなあ。

(さらに…)

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第八森の子どもたち

エルス・ペルフロム『第八森の子どもたち』
『第八森の子どもたち』
エルス・ペルフロム/作 ペーター・ファン・ストラーテン/絵 野坂悦子/訳
福音館書店(福音館文庫も)
2000.04

:私は、期待が大きかっただけに、ちょっと残念だった。厚さ2.8センチ、総ページ数 424ページものボリュームなんだけど、こんなにたくさんの文字が必要な内容かしら? というのは、私、アウシュビッツに行ったことがあるんだけど、そのときものすごいショックを受けたのね。もちろん、訪れる前から大虐殺のことは、知識として知ってた。人体から作ったせっけんとかね、残酷なことはいろいろ知ってたつもりだった。だけど、実際にその場所に立ってみて、ここで人間が3年間暮らしていたという営みを見せられたとき、それまで知っていると思ってた「ホロコースト」との間に、ものすごいギャップを感じて愕然としたのね。そして、この隔たりを埋められるものはなんだろうって考えたとき、「それができるのが、文学だ!」と思ったの。人間の営み、その瑣末な日常と、大きな歴史のうねりとを重ねあわせること。それこそが、戦争を題材とした文学に求められているものじゃないかと思うのね。その点、この作品はシチュエーションはきちんと設定されているんだけど、その先の、大きなところまで結びついてないでしょ。そこがちょっと不満。11歳の女の子ノーチェの視点で人間の営みを地道に追っていくという、作者の一貫した姿勢には好感をもったんだけど……。
ドイツ兵にしても、「ドイツ兵=下品で野蛮」というふうに描かれているけど、本当はそればかりじゃなかったと思うのね。ドイツ兵の中にもいい人、悪い人がいたはずだから。「これは自伝ではなくフィクションです」とペルフロムは言ってるって、訳者あとがきにも書いてあるけど、成長した大人が子ども時代を振り返って書いているわけだから、ドイツ兵をステレオタイプに片づけてしまうのは、まずいんじゃないかしら。あと、訳について、ひとこと。野坂さん、だいぶうまくなってると思うけど、ところどころひっかかるところがあった。たとえば「おねえちゃん」。「おねえちゃん」というからには、ノーチェより年上なのかと思わなかった? 本当は7歳だから、ノーチェより「おねえちゃん」のほうが年下なのよね。もともとクラップヘクの人間関係は、ちょっとややこしいんだけど、よけいに混乱しちゃった。それから私には、子どものいきいきとした感覚がいまひとつ感じられなかったな。オビによると、松岡享子さんは絶賛してるんだけど……。

愁童:ちょっと前に、自分の学童疎開体験を話してくれって、近所の中学校に頼まれて、しゃべったことがあるんだけど、その時、当時の小学校があった区役所編纂の「集団疎開児童だった区民の座談会」みたいな資料を読んだら、「集団疎開には林間学校みたいな、うきうきした感じもあった」なんて、なつかしがっている人も多くてさ。そういう感覚と同じようなものを、この作品に感じたね。ペルフロムもあとがきで、村をなつかしがってる。「疎開=悲惨」みたいな図式ってあるけど、確かに当時を生き延びた人にとっては悲惨=100%じゃない面はあって、だから生きてこられたんだと思うけど、作品として子どもたちに伝える場合、こういう視点からっていうのはヤバイんじゃないかな。この作品、いろんな出来事に対する作者の痛みが感じられない。例えば隠れていたユダヤ人一家がいなくなったときも、出来事としてさっと流れていくだけで、主人公の衝撃みたいなものは伝わってこないよね。

モモンガ:心の痛みは、ぜんぜん伝わってこないよね。「おねえちゃん」が死んだところも・・・。

ひるね:p404で、おばさんたちが「あの子は、死んでよかったのかもしれないよ」ってしゃべってるのを、ノーチェが立ち聞きしてしまう場面。なんだかのんきな感じになっちゃてる。もう少し配慮があるとよかったのに。

愁童:こんなことじゃ、「民族と戦争」について考えるのはちょっと難しいね。

ねむりねずみ:いろいろとおもしろい話は出てくるんだけど、さてそれから・・・って思ったところでぷちっと切られちゃう感じがして、私もちょっと物足りなかったな。まあ、子どもの視点で描いているからと言われれば、なるほどと思わなくもないけれど・・・。たとえば、掃除したばかりの廊下を汚されたくないウォルトハウス夫人が、ノーチェに「出ていっておくれ!」っていうのと、ユダヤ人のメイアー一家が連れ去られたことが、同じ重さで描かれちゃってるでしょ。これはちょっと問題だと思うなあ。たしかに子どもの感覚っていうのは、そういうところがあるかもしれない。子どもの頃って、台風が来てもイベントのひとつのように思って、わくわくしたりしなかった? 事態の全体像をつかんでないから、そのときどきの珍しいことを楽しめちゃう。そういう感覚はたしかにあるだろうけど、でも、それだけじゃね・・・。どーんと胸に迫るもののある作品とは、受けとれなかった。こういう状況の中、子どもがどう生きていたかということを描くには、成功していると思うけど、そのもう一歩先まで描いてほしかったな。

オカリナ:主人公ノーチェは11歳でしょ。大状況と日々の自分のことに対する感覚の間に差があるかもしれないけど、11歳だったらこんなもんじゃないかと思うな。「子どもの視点で描いた」というのなら、これはこれでいいんじゃない? 私が興味深いと思ったのは、オランダという場所。1944年のオランダでも、田舎にいけばこういう暮らしがあったのよね。そして戦禍の中でも、こういう遊びをする子どもたちがいた、と。それはいいんだけど、いかんせん長すぎる! 今の子どもたちに読んでもらうためには、もっと刈りこんでもよかったかもしれない。坦々と進む叙述は、読書力のない子だと、ただだらだらしてるっていうふうに思われちゃうんじゃないかな。あとタイトルなんだけど、「第八森」ってなんだろうと興味しんしんだったのに、ただ詩があって、ユダヤ人がかくれててっていうだけだったから、拍子ぬけしちゃった。

モモンガ:それに『(第八森の)子どもたち』っていうわりには、「たち」というほど子どももたくさん出てこない。

ひるね:イギリス版のタイトルは『時が凍りついた冬』。そのほうが、ストーリーにはあってるかも。

:たぶんこれは、さんざん悩んだ末、解釈を加えないほうがいいんじゃないかということで、原題をそのまま日本語にしたんじゃないかしら。

オカリナ:色とか匂いとか、五感をフルに活用して書いてるのは、おもしろいなと思ったけど、「民族」「戦争」という視点から見ると、ちょっと不満がある。なんだかいい人ばっかり出てくるでしょ。全体に明るく、太陽的。そして「そこに立ちはだかる悪」=「ドイツ兵」という図式。ドイツ兵は、「劣っているもの」として描かれてる。作者は、子どものときそう思っていたかもしれないけど、この作品は大人になってから書いたものなんだから、そのへん、もうちょっとなんとかすればよかったのに。そうしたら、陰影も生まれて、長所がもっと引き立ったんじゃない?

:人間洞察に、深みが足りない。もう少し工夫すれば、この裏に大きい歴史のうねりがあるということを知るための、大事な入り口になる可能性はあったのに。

モモンガ:歴史を知ってる大人が読めばわかるけど、子どもにはわからないものね。

ウォンバット:私は今回のテーマ「民族と戦争」というのは全然意識しないで読んだんだけど、おもしろかった。というか、意識しなかったから、おもしろかったのかも。ノーチェたちの暮らしぶりもおもしろかったし、「ああヨーロッパなんだなあ」と思ったの。オランダ語とドイツ語って似てるんでしょ?

オカリナ:んー、ドイツ語と英語の間みたいな感じかな。

ウォンバット:ノーチェのお父さんはドイツ語がよくわかるし、クラップヘクの人たちも、なんとなくだったらドイツ兵の言うことがわかる。やっぱり陸つづきだから、距離的に近いっていうだけじゃなく、言葉もよく似てるのね。そういう土台の上で起こった戦争だったってことが、よくわかった。

モモンガ:私はこの本、とっても読みにくくて。なかなか物語世界に入っていけなかった。なんでだろと思って考えてみたんだけど、これは小さい子向けの文体でしょ。私は、書評や表紙の雰囲気から、なんだか先入観があって、もっと大きい子向け、高学年向けの重いものなのかと思ってたのね。そうじゃなくて、小さい子の視点に徹してるんだということがわかってからは楽しめたけど、そこまでちょっと時間がかかっちゃった。小さい子って、大きいことにはこだわらず、小さな喜びをみつけていくのよね。でもねー、小学校低学年の子がこの本を読むかなと思うと、「おもしろそう」って自分から手をのばしてこの本を読む子は、少ないだろうと思うな。もうちょっと文章を少なくして、読者の対象年齢もあげて、中学年向けにしたほうがよかったんじゃないかしら。

ウンポコ:ウンポコは、いつものようにun pocoしか読めなかった。読みたいという気にならなかったんだよね。ペルフロム自身は「この作品は自伝ではなくフィクションだ」と言ってるって、訳者あとがきでわざわざことわってるけど、物語性がないでしょ。p100に到達する前にダウンしちゃったね。もう、苦労して読むのはやめようと思って、やめちゃった。訳文は読みやすかったんだけどね。ぼくは気にいった作品は、声に出して読んでみるの。そうするとまたよくわかるんだけど、この訳文は、ぼくと呼吸がぴったりあった。この訳者、いい人! と思ったね。

モモンガ:わかりやすい訳よね。

ウンポコ:時間があれば、もう少し読めたんだけど……。でも、ウンポコだから、un poco読みさ!

ひるね:私は、ひるね読みで 270ページ。ローラ・インガルス・ワイルダーの『大草原の小さな家』のシリーズのオランダ版と思って読んだら、おもしろかった。

オカリナ:たしかに似てる部分はあるけど、『大草原の小さな家』は、もっとストーリーに盛り上がりがある。この作品も、フィクションなんだから、もっと起伏をつければよかったのに。

ひるね:そうね。それに、はじめ、人間関係がわかりにくかったの。最初、ノーチェとエバートが橇遊びをするシーンではじまるんだけど、それがけっこう長いでしょ。こういう形で入ったら、小さい読者にはわからないんじゃないかしら。それと、翻訳によくあることなんだけど、ノーチェの視点で語られていたものが、突然別の人の視点に変わったりするでしょ。結核のテオとかね。視点が、大人の男の人のものに移ってるのに、口調がノーチェのまま、11歳の女の子のままになっているのは、違和感があった。「ですます調」も難しいわね。ノーチェが主人公だから、こういう語り口にしたのかな。読者対象も原書にあわせたんだと思うけど、日本向けには、オランダよりもう少し対象年齢をあげて、てきぱきと訳したほうが、おもしろかったんじゃないかしら。あと、自分の経験した戦争を描こうとするとき、「なつかしさ」というのも、曲者だと思う。最後の場面、クラップヘクを離れてアムステルダムにいったノーチェが、クラップヘクでのことを「すばらしい生活だった」というふうに、回顧してるんだけど、それもちょっと問題よねぇ・・・。たしかに、なつかしさというのはあるんだろうけど、こうはっきり言ってしまうのは、どうなんだろう。アミットの『心の国境をこえて』と比べてみると、実際ナディアよりノーチェのほうが、ずっと緊迫感のある暮らしをしてるはずなのに、全然そんな感じじゃない。書き方によって、こうも変わってくるものかというのが、よくわかった例。ノーチェは11歳ということなんだけど、もっと幼い子のような感じだし。

モモンガ:ノーチェの台詞、ちょっと子どもっぽすぎるよね。

ウンポコ:やさしく書いてあって、ぼくは好感がもてたけどな。

ひるね:訳者あとがきによると、翻訳期間約5年っていうことだけど、編集者がずいぶん手をいれて、時間がかかったのかしら。「ですます調」より、「〜だ調」だったら、もっとよかったかも。

モモンガ:もっとしまったかもね。

オカリナ:この半分のボリュームだったら、よかったんじゃないの?

ウンポコ:翻訳する人はさ、この作品は「ですます調」でいこうとか、これは「〜だ調」がいいとか、すぐ判断できるものなの?

オカリナ&ひるね:すぐ判断できるものと、そうじゃないものがあるよね。迷ったときは、両方やってみることもある。

ひるね:特別なものをのぞいて、小学校2〜3年までは「ですます調」、それ以上は「〜だ調」のほうが、しっくりくるんじゃないかしら。

:人間って頭の中で考えるとき、「ですます調」では考えていないのよ。

愁童:「ですます調」は、終わったことを言うときに使いたくなるんじゃないかな。作者の中で完結してしまった過去を語る文体。だから切実感や緊張感に欠けるんだよ。

ウンポコ:そう言われててみると、手紙は「ですます調」で書くね。

ひるね:あら、今の若い子のメールは、「ですます調」じゃないでしょ。

ウンポコ:ぼくは、メールも「ですます調」だなあ。「ですます調」でないと、乱暴な口調だと思われるような気がしちゃって。

ねむりねずみ:子どもの視点と、文体にもズレがあるよね。

モモンガ:ノーチェの視点で語られているのは、子どもには読みやすいと思う。でも、子どもの視点と大状況を両立させるのは、難しいことよね。といっても、本当にこの作品を楽しめるのは、大人じゃない?

オカリナ:この本、「売れるか売れないか」といったら、そんなに売れないと思うの。でも、オランダ政府は外国でのオランダの本の翻訳出版に助成金を出してるんだって。この本もそうだと思うんだけど、売れなくてもいい本なら出せるっていうのは、うらやましいわね。

(2000年09月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


心の国境をこえて〜アラブの少女ナディア

ガリラ・ロンフェデル・アミット『心の国境をこえて』
『心の国境をこえて〜アラブの少女ナディア』
ガリラ・ロンフェデル・アミット/作 母袋夏生/訳 高田勲/絵
さ・え・ら書房
1999.04

ひるね:題材が新鮮だったわ。イスラエルに住むアラブ人の少女の物語なんだけど、こういう現実があるということを、はじめて知った。その土地で生まれて、ちゃんと国籍ももってるのに、マイノリティなんて、こういうこともあるのね。全体としては、少女小説の手法だけど、中身も濃いと思う。終わり方も、薄っぺらでないいところがいい。ルームメイトの女の子たち、タミーとヌリットにしても、心を開いてくれていると思っていたタミーに最後に裏切られ、逆に、軽薄だと思っていたヌリットと、最後にはなかよくなってしまうのも、おもしろい。訳者あとがきによると、イスラエルでは「自己批判の書として若い人たちに熱狂的に受け入れられた」ということなんだけど、うらやましいわね。こういう本、日本でももっと出版されればいいのに。だけど、こんなふうにナマの議論が出てくるのは、日本ではどうかしら? 受け入れられるかしらね。イスラエルでは、情緒でぼかさずに、身近な問題が直接出てくるところが、若い世代にウケたんでしょうけど・・・。あと、訳についてなんだけど、「やぶさかでない」とか、古めかしいことばが出てくるところが、ちょっと気になったわ。

:これはペルフロムの『第八森の子どもたち』と違って、日々の営みが、ちゃんと大きなものにつながってる物語ね。こういう本を読まなければ、イスラエルにおけるユダヤ人とアラブ人の対立なんて、日本の子どもたちは知る由もないでしょう。この本を日本で出版する意義は、大きいと思うわ。ナディアは慎み深くて、男の子をわざと遠ざけたりするでしょ。日本の女の子たちとはずいぶん違っていて、人物造形には日本の現実とかけ離れたものを感じたけど、感覚的に描かれているところを糸口に、日本の読者も物語世界に入っていけるんじゃないかしら。体験としてとらえられていることを接点に、日本の読者も入っていける。そして、表面的なことだけじゃなくて、大きな物語まで感じることができると思うのね。大人の小説だったら、もっと観念的になってしまいそうなところだけど、子ども向けだから救われてるっていう部分もあると思う。でも、この本、表紙がイマイチね。ナディアが憧れてる女医さんナジュラーも、リアリティが薄くて観念的に片づけられちゃってるのが、残念。でも、ま、細かいことはおいときましょう。こういう本、日本でもどんどん紹介してほしいわね。

ウンポコ:ぼくもこの作品、感心したね。ウンポコも、最後まで読めたよ。作者の姿勢がいいんだな。主人公の心の内を、つぶさに描いてるでしょ。だから、ナディアの気持ちが読者の心にも残って、なんかこう、応援したくなるんだよ。「ナディア、がんばって!」って。もう、ぐいぐい読まされちゃった。ナディアがさんざん悩んでるところも、ぼくなんかからみたら、そんなにふさぎこまなくてもいいのにって思っちゃうところはあるんだけど、また、そういう彼女の葛藤が、いじらしゅうてね。民族のるつぼにある国と、そうでない国日本との、ものすごいギャップも感じたね。ナディアをとりまく日常と比べたら、日本はまさにぬるま湯! 今回の4冊のなかでは、この作品と八百板さんの『ソフィアの白いばら』に大きなショックを受けたな。だけど、それにしても、ちょっと本づくりが古いよね。

オカリナ&モモンガ:古い! 古い! さ・え・ら書房らしいといえば、らしいけど。

ウンポコ:ぼくもそうなんだけど、どうしても感覚が古くなってきちゃってるんだよ。だからそれを自覚して、思い切って外の若い編集者に依頼するとかしたほうがいいときもあると思うんだけど。

オカリナ:タイトルも古いよ。

モモンガ:「心の」とか言われると、それだけで読みたくなくなっちゃう。

ひるね:原題は Nadiaなのよね。

ウンポコ:理論社がつくったら、もっとよかったかも。もっとこう、すてきな表紙にしてさ。こういう作品、日本だったらだれが書けるだろう? やっぱり後藤竜二かな。でも、日本とは比べものにならないほど、イスラエルは深刻だからなあ。ぼく自身、今回読んでみて、はじめてこういう問題を知ることができて、たいへんよかったと思うね。よくぞ、この本を出版してくれましたね。さ・え・ら書房よ、アリガトウ!

ウォンバット:私も、この本読んでよかったな。イスラエルのアラブ人のことって全然知らなかったから、いい勉強になった。そういう知識を得るためにはとてもよかったと思うけど、文学作品としては、ちょっとねー、つまんなかった。なんだかストレートすぎちゃって。メッセージを伝えるために、書きましたって感じがアリアリで。物語を楽しむところまではいけなかった。

ねむりねずみ:私は、さっき読みおわったばかり。どうなるんだろうと思ってる間に、読めちゃった。私はもともと、パレスチナとか、問題のあるところに興味があるのね。こないだも、イスラエル人の夫をもつアラブ人女性が、夫をアラブ人に殺されて、民族間の板ばさみで、苦しい立場に立たされてるっていう新聞記事を読んだんだけど、難しい問題だと思った。日本人から見たらまるっきり他人ごとだから、仲よくすればいいのにって思うけど・・・。日本の中にも差別はある。在日とか、部落とか、人為的につくられた差別が。なんで? って思うけど、これもすぐに解決できる問題じゃないのよね。パレスチナは宗教の問題だから、もっともっと複雑。どうしても折り合うことのできない問題でしょう。個人のレベルで知り合うことと、集団として知り合うことの違いっていうのもあるよね。個人対個人だったらいいのに、それがグループになると、対立が起きてしまう。主人公ナディアは、そんなストレスフルな状況にある。なんでもないことでも「これでいいのか」「相手にヘンだと思われないか」っていちいち確認してからでないと、前に進めなくなってる。自分とは違う志向の集団にひとりで入れられたら、自分自身のバランスをとるのが難しいのね。こういうことがあるっていうのを教えてくれて、その世界にすっと入りこませてくれるのは、まさに児童文学の力だと思うな。

ウンポコ:物語性がないのにその世界にすっと入りこめるっていうのは、なぜなんだろう?

オカリナ:ウンポコさんは、大状況を考えながら読んでるからじゃないの? 私は、逆に主人公には共感をもちにくかった。ナディアは、あまりにもナーバスでしょ。だれに対しても、すぐ、相手
vs 自分というふうに、まず自分と対立するものとしてとらえてる。そういう姿勢に引っかかっちゃったのかな。

ひるね:ナディアって優等生すぎてヤなヤツとも言えるね。

オカリナ:他によって自分を規定していくという感じが強すぎるのね。自意識過剰な気がするの。

ひるね:『大草原の小さな家』で、ローラとメアリーがはじめて町の学校にいく場面でね、ふたりはとても緊張してるんだけど、いざ学校に着くと、ローラは「なによ、あんたたち。カケスみたいにぎゃーぎゃーうるさいわね」っていうの。子どもの本の好きな人って、こういう主人公のほうが好きなのよね。

:アラブ人だから・・・って一歩ひいちゃうようなところは、日本の子どもにはわかりにくいかもしれないけど、うちとけたいのに、うちとけられないっていうようなところは、感覚的に理解できるんじゃないかしら。そういうことって、日本にもあるでしょ。

オカリナ:育ってる文化が違うから、こんなふうに思ってしまうのかもしれないけど、日本の子どもにも共感して読んでもらいたいと思うのね。ナディアをヤなやつじゃなく描く工夫が、翻訳でもう少しあったらよかったのかな。

ウンポコ:ナディアは14歳っていう設定だけど、もっと大人びてる。19歳くらいの感じ。

愁童:意外性がないんだよな。作者の設計図が透けてみえちゃって、設計図通りに物語が進んでいくから、葛藤がない。何かコトが起きると、ナディアが過剰に反応してしまうっていうところはあるにしても。

ひるね:物語に、ふくらみがないのよね。

モモンガ:ふくらみがないのは、作者がこのテーマを語るために、人物を設定してるからじゃない? それが、わかりやすさの秘訣でもあると思う。

ひるね:主人公が、こんなにヤな子なのも、珍しいわね。

オカリナ:イスラエルの作家が、アラブの少女を描いてるっていうせいもあるんじゃない?

ひるね:へつらいを感じるのは、それでかしら。「メッセージがある」ということと、文学的なふくらみというのは、わけて考える必要があるわね。

モモンガ:1対1だったらだいじょうぶなのに、民族とか、単位が大きくなると問題が起きてしまうこともあるっていう事実を伝える本は、あっていいよね。レベルは違うにしろ、ひとつの集団の中に、少数派が入っていくときの摩擦のようなものは、日本にもあるでしょ。そういうときの心理状態というのは、日本の子どもにもわかると思うから、きっとみんな、共感できるんじゃないかしら。私は、最初のほうで、ナディアが、知りあったばかりのタミーとヌリットに自分がアラブ人だってことをいうべきか、いやそれとも……?! とすごく悩む場面で、物語にぐっとひきこまれたの。この本は、民族の問題を知る一端になると思うわ。子どもたちに薦めたい本。

愁童:だけどさ、矛盾もあるよね。ナディアのお父さんというのは、古いしきたりを大事にする村の中では革新派で、新しい機械なんかもどんどん採り入れて、成功した人だろ。いわば、もうふたつの文化の壁を乗り越えちゃってる人なわけだ。そういう父親のもとで育った子がこんなにナーバスだというのは、どうも腑におちないんだよな。

:ナディアは、アラブの世界のパイオニアなのよ! それはフェミニズムの視点からみてみれば、よくわかると思う。進歩的であろうとすることは、ものすごいエネルギーが必要なの。フェミニストもそう。矛盾を抱えてるこそから、悩むんじゃないの。

ウンポコ:この作者、女性? 男性?

オカリナ:「ガリラ」というと、女性のようね。

愁童:ナディアの家は一家総出で、フロンティア路線を歩んでるくせに、ナディアがひとりで古い村から出ていくということを、ドラマにしちゃってる。

ねむりねずみ:ナディアは、化石みたいな村に住んでるんだよね。

オカリナ:村は、ナディアにとってくつろげる場所として、描かれてるんだと思う。

:私は、お父さんがもってきてくれるブドウの使い方がうまいと思った。彼女の緊張をとかしてくれる小道具になってる。村も、彼女の一部なの。だから、村のことを頭から否定するのは不可能だし、新しい世界の価値を認めながらも、全身染まることもできない。板ばさみ状態。こうやって、自己矛盾を抱えながら、女は進歩してきたのよ。

オカリナ:ナディアは、ジーンズにチェックのブラウスといういでたちをしていても、まるっきりイスラエルの子と同じになれるわけではない。そういうところから、ナディアの人間像が浮き彫りになってる。

愁童:ナディアは、村の友だちアジーザがスカートの下にズボンをはいてることをはずかしく思ってる。そういう心って、人間的によくわかるけど、説得力がないよね。ナディアの生き方を考えてみるとさ……。

モモンガ:いったん外に出ていって、他の世界を知ってから、村にもどってきた彼女の感覚はよくわかるわ。新しい場所で新しい経験をした後って、ずっと住んでいた場所も、今までとは違って見えるものでしょ。

ウンポコ:ナディアの心の揺れ動きは、よくわかる。すごく悩んでる。でも、矛盾的構造の中でも、ナディアの未来は明るいぞと思ったね。ぼくは、あんまり悩まない子って不幸だと思ってるんだよ。ナディアは、たくさん悩んでるけど、そこに成長を感じる。いじらしいね。そういうことを手渡してくれる、人間の素敵さを感じるなあ。

愁童:フェミニズムを表に出すのであれば、最後の場面、オディに説得されて、学校にとどまることにするのではなく、自分で決断してほしかったな。

:主人公が女の子だからこそ、この物語は活きてると思う。そこからフェミニズムにも、つながっていくんだけど……。

ひるね:なにもかもフェミニズムでくくるのは、難しいんじゃない?

:でも、愁童さんの疑問は、フェミニズムでみんな解明できると思うわ。

愁童:うーん。でも、ローティーンが読んでも、わからないんじゃないかな。今、ガラス細工みたいな子っていっぱいいるけど、ナディアの葛藤を、そういう感覚で、自分の悩みと同じものとしてとらえられてもねぇ……。

ひるね:メッセージを伝えたいがために、オーバーになっちゃってる。橋田壽賀子のドラマみたい。強調しすぎの感アリかも。

(2000年09月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ソフィアの白いばら

八百板洋子『ソフィアの白いばら』
『ソフィアの白いばら』
八百板洋子/著
福音館書店
1999.06

:読んでて、途中で嫌になっちゃった。がんばって、一応最後まで読んだけど。おばさんのヤなところを、いっぱい見ちゃったみたいで。おばさんっていっても、えーと、作者は1946年生まれ・・・ということは、今54歳か。だったら無理ないわね。世代の違いを感じてしまうのも。なんだか、全編自分をほめてるんだもん。だんだん「もう勝手にして!」って気分になっちゃった。だいたい、どうして副大統領に会いにいったのかしら。別に行かなくたってよかったのに。ベトナムのこととか、惹きつけられていったのに、最後は結局、「古きよき時代のお嬢さまの私小説」になっちゃってて残念。

モモンガ:私も、途中でちょっと。最初は、けなげなのよね。主人公が新鮮なものを見聞きするのを、おもしろく読めていたんだけど、途中で「もういいわ」って思っちゃった。素朴な疑問なんだけど、この本、どうして子ども向けにしたのかしら。留学体験記を読みたい人って、たくさんいるでしょ。そういう人向けに、留学関連書のコーナーにブルガリアの本としておいたら、もっとよかったんじゃない?

ウンポコ:ほんとだよ。どうして子ども向けにしたのかなあ。

ねむりねずみ:家の近所の図書館では、大人の本のコーナーにおいてありましたよ。

:私の家のほうでは、子どもの本の棚にあったわよ。

ウンポコ:あとがきに「心ひかれるタイトルがあったら、そこだけでものぞいてみてください」って書いてあったから、ぼくは安心してウンポコ読みしたね。それで、実はね、おもしろかったの。うわあ、当時の留学生はしんどかったんだなーと思った。民族の歴史を抱えこんだ人たちのるつぼで、もまれてさ。民族の習慣のちがい、とくいアセンカのキスなんて、もし自分の身にそんなことが起こったら、ツライだろうなーと思った。災難だよな。アセンカのジコチューにおしつぶされそうになってるけど、かくいうYOKOも、相当のジコチュー。ぼくも大学生のとき、寮生活をしていたんだけど、そのときのことを思い出した。でさ、その百倍くらいいろんなところから、いろんな人が来てるわけじゃない? そう考えるとオドロキだよな。この本は、ウンポコ読みにしては、だいぶ読んだね。文庫本にして、大学生くらいの子に読んでもらったらいいと思うな。

ウォンバット:私は、「世界ウルルン滞在記」(日曜夜10:00〜 TBSテレビ)が大好きなんだけど、そこに通 じるおもしろさを感じた。未知の国の、未知の暮らしを知る喜びって、大きい。そういう意味ではとてもおもしろかったんだけど、いろいろとハナにつくところはあったのよね。たとえば、YOKOとグェンの出会いの場面。グェンを評して、黒豹みたいな体つきで「身長 185センチ、体重79キロ」と聞いたYOKOは「わたしの倍以上も体重があると聞いて、なんだかこわくなりました」って言ってるんだけど、私はここでつまずいてしまった。185センチ体重79キロって、まあ、大きいことは大きいけど、そんなに特別さわぐほどのことじゃないと思うんだけど。当時はたいへんなことだったのかな。それに、79という数字が、変にリアルじゃない?

ひるね:でも、八百板さんって、とっても小柄でかわいらしい人よ。

ウォンバット:あと、 YOKOの台詞が妙にぶっきらぼうなのも、ちょっと気になった。YOKOが「〜だよ」「〜だよ」というの、違和感なかった? 全体の雰囲気に、合ってないような感じがするんだけど。実際はYOKOがブルガリア語でしゃべったことばを日本語にしてるわけだから、「〜だよ」というニュアンスで話していたといいたいのかもしれないけど、グェンとか、男性との会話の場面で、男の人のほうがずっとやさしいしゃべり方をしてるように見えるところもあったりして・・・。

オカリナ:実際、八百板さんて、きびきびした感じの人らしいけど。

愁童:ぼくは、裕さんに同感。ま、ウンポコ読みだけど。副大統領に会いにいったとか、本の表紙の絵をだれが描いてくれたとか、もう勝手にしてって感じ。ベトナム人青年医師にしても、通念によりかかってる。ずるっこいよ。そのあたりペルフロムの『第八森の子どもたち』と似てる。なんか、いろいろなことが起こるんだけど、自分はいっさい傷つかないんだ。なんとなーくセンチメンタルで流しちゃってる。なあんだ、その程度のモンだったのかと思っちゃうよ。アセンカの亡命にしてもさ・・・。寮生活の様子も、終わりのほうは、なんだかこんがらがっちゃうし。

ウンポコ:ぼくも、この作者を好きか嫌いかといったら、ちょっと「ごめんなさい」だな。この時代の、この国の人の暮らしはおもしろいと思うけどさ。

愁童:恵まれた人だったんだね。最後も、耳が悪くなって、よりよい治療を受けるために日本に帰ってくるわけだし。幸せな人さね。

ねむりねずみ:ウンポコさんが言ったの、まさにその通り! 私も、あの時代、ブルガリアでこんな暮らしをしてた人がいたっていうのは、おもしろかった。やっぱりたいへんだよね。でも、この作者はちょっと・・・。

ひるね:『イギリスはおいしい』(林望著 平凡社)も、そうだった! ずっとおもしろいと思って読んでたんだけど、最後にお墓まいりにいくところがあるのね。そこで、林家が学者の一族であることをひけらかしてるような一節があって、さーっと冷めちゃった。なーんだと思って、一気に嫌になったの。

ウンポコ:なんだか、他人の日記を読ませてもらったみたいな感じだよ。疑似体験できたのは、よかったけど。

ねむりねずみ:自分を語るっていうのは、難しいことよね。

(2000年09月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


花岡1945年夏〜強制連行された耿諄の記録

野添憲治『花岡一九四五年・夏』
『花岡1945年夏〜強制連行された耿諄の記録』
野添賢治/著 貝原浩/絵
パロル舎
2000.06

オカリナ:「テーマをもって書く」というのは、大事なことだよね。YAの作家にありがちな、心の揺れを描くのも大事だけど。この本は、メッセージははっきりしすぎるくらいはっきりしてるけど、もっと工夫してほしかったな。工夫したと思えるところは、刷り色がページによって違ってるのと、全部のページに絵が入ってるということくらい。だいたい、この表紙で、子どもが読むかな。主人公は中国人で1944年に日本に連行されてきた耿諄という人なんだけど、日本の鉱山で働かされて、どんなにつらい目にあわされたかということばかり、めんめんと綴られている。そういう話をちゃんと聞くのは大事なんだけど、重要だから聞けって子どもに押しつけても、おもしろくなかったら子どもは敬遠しちゃうでしょ。編集の人が、もっと手を入れればよかったのにね。誤植もあるし。矛盾というか、誤解を招きかねない表現がいっぱいある。「日本人だって、米が4合にメリケン粉が1ぱいです」ときいて、同じくらいだから「しかたないと思った」って書いてあるんだけど、それですんじゃうのなら、たいして踏みつけにされてるわけじゃないじゃんって思っちゃう。「○○があった。○○があった」ってただ羅列してるだけだから、主人公に感情移入もできないし。読んだ子が、自分と主人公を重ねあわせるのが、とても難しい書き方。伝えたいもののあるこういう本こそ、ちゃんと子どもの手に届くように工夫してほしいものです。

ねむりねずみ:あとがきに「才能がないのを知った上で書きました」って書いてあるんだけど、まず文章が読みにくくて、つまずいた。中身に興味のある人間だったら読めるけどねぇ・・・。うわーすごかったんだ、ユダヤ収容所みたいなことを日本人もやってたのね、っていう事実の重さはたしかに伝わるけど、文学というより資料の積み重ねみたいなものだから。社会科学的な読み方のできる人でないと楽しめないかも。これは、物語になってない。学校の先生の資料用にはいいかもしれませんがね。

愁童:ぼくも、つまんなかったな。子ども向けの配慮がされてない。当時、日本のあちこちにこういうことはあったわけだから、ここだけ書いても、しょうがないよな。意味レス。ただ単なる残酷物語になっちゃってる。

オカリナ:ペルフロムの『第八森の子どもたち』ではドイツ兵、『花岡1945年夏』では日本人を悪者として描いてるけど、今書くのなら、それだけでは意味がないよね。なぜ普通の人がこれだけ酷くなれるかってところが検証されないとね。

愁童:そうそう! これじゃ、新聞読んでるのと一緒なんだよ。

オカリナ:子どもに伝わるように書かなくちゃね。

愁童:自虐意識は、子どもには理解できない。普遍的なものに結びつけないとね。

モモンガ:戦争のこと、民族のこと・・・子どもに伝えなきゃいけないことだからこそ、工夫しないとね。

オカリナ:パロル舎と、さ・え・ら書房には、もうちょっと子ども向けの本の工夫をしてほしいわね。

モモンガ:さ・え・ら書房は、心根がいいってことによりかかりすぎてるって感じ、ない?

ウンポコ:せっかくいい本が多いんだからさ、さ・え・ら書房は。もうちょっとがんばってもらいたいね。

(2000年09月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


2000年09月 テーマ:民族と戦争について考える

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『2000年09月 テーマ:民族と戦争について考える』
日付 2000年9月21日
参加者 ウンポコ、愁童、ウォンバット、ひるね、オカリナ、
ねむりねずみ、裕、モモンガ
テーマ 民族と戦争について考える

読んだ本:

エルス・ペルフロム『第八森の子どもたち』
『第八森の子どもたち』
原題:DE KINDEREN VAN HET ACHTSTE WOUD by Els Pelgrom(オランダ)
エルス・ペルフロム/作 ペーター・ファン・ストラーテン/絵 野坂悦子/訳
福音館書店(福音館文庫も)
2000.04

<版元語録>第二次大戦末期のオランダ。ドイツ軍に町を追われた十一歳の少女ノーチェは父親とともに、人里離れた農家にたどり着く。はじめて体験する農家での暮らしに喜びを見いだすノーチェだったが、その平穏な日常を戦争の影が静かに覆っていく。農家のおかみさん、その息子エバート、脱走兵、森に隠れるユダヤ人一家。戦争の冬を懸命に生きる人々の喜びや悲しみが、少女の目を通して細やかにつづられる。オランダの「金の石筆賞」を受賞。
ガリラ・ロンフェデル・アミット『心の国境をこえて』
『心の国境をこえて〜アラブの少女ナディア』
原題:NADIA by Galilah Ron-Feder-Amit (イスラエル)
ガリラ・ロンフェデル・アミット/作 母袋夏生/訳 高田勲/絵
さ・え・ら書房
1999.04

<版元語録>医者になって、地域医療につくしたい。それが、ナディアの夢だった。そのためにナディアはのどかなアラブ村を出て、ユダヤ人の寄宿学校に入学する。「自分がアラブ人だってことを恥に思っちゃいかんぞ」という、父さんのことばを胸に。民族による考え方のちがいにとまどい、よそ者意識とたたかいながら、一歩一歩、ナディアは夢の実現にむかっていく。だが、その夢がくずれそうな瞬間がおとずれる…。
八百板洋子『ソフィアの白いばら』
『ソフィアの白いばら』
八百板洋子/著
福音館書店
1999.06

<版元語録>1970年、ソフィアの留学生宿舎に集まった世界各国の若者たちの出会いと別れ。激動する時代の波に翻弄され、傷つきながらも精一杯生きる青春群像をみずみずしく描く。愛と涙のブルガリア留学記。 *産経児童出版文化賞 エッセイストクラブ賞
野添憲治『花岡一九四五年・夏』
『花岡1945年夏〜強制連行された耿諄の記録』
野添賢治/著 貝原浩/絵
パロル舎
2000.06

<版元語録>太平洋戦争も終わろうとする1944年、耿諄は三百人近い中国人たちと日本へ強制連行され、花岡鉱山で過酷な労働を強いられた。虐待と暴行ににたまりかね蜂起した花岡事件の指導者・耿諄の生の軌跡。

(さらに…)

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朗読者

ベルンハルト・シュリンク『朗読者』
『朗読者』
ベルンハルト・シュリンク/著 松永美穂/訳
新潮社
2000.04

ねねこ:これは、今とても話題になってる本よね。子どもの本ではないけど、少年が登場する物語ってことで、今回とりあげたわけだけど、しかけがうまくて、小説として実によくできてると思う。15歳の少年ミヒャエルと、36歳の女性ハンナの、ひとつの愛の形にとても感動しました。1度別れたふたりは思いもかけない場所、法廷で再会する。被告人と傍聴者のひとりとして。ミヒャエルは、ハンナを追いつめることなく、救うことができるのか、否か。そして、距離感を保ちながら、彼女を理解することができるのか、支えることができるのか……。難しい問題だよね。それと、文字の読み書きができないということは、ただ単に不便というだけではなく、人間としてたいへんな劣等感であり、屈辱であり、デメリットなんだっていうことを考えさせられた。同じテーマを扱った作品といえば『ロウフィールド館の惨劇』(ルース・レンデル著 小尾美佐訳 角川書店)もあったわね。これもまた、強烈な作品だった。

流&ひるね:そうそう。あれも強烈だったねー。

ねねこ:それにしても、刑務所に入ることを選ぶなんてね・・・。刑務所の中で文字をおぼえ、本を読みはじめてから、自分の犯した罪を含めて、自己の確認をしていくハンナの姿は、とても痛々しかった。最後のハンナの選択も、とてもよく理解できた。

カーコ:私はこの本、こんなに売れてるって知らなくて、図書館で予約しようとしたら88番目だったんで、びっくり! 結局、買って読んだんだけど、すごく好きな作品だった。全体の伏線の引き方、構成がすばらしい! 一息に読んじゃった。このふたりの関係は、いわゆる恋人同士というのとは少し違うと思うのね。ミヒャエルは、ハンナに恋愛感情を抱いていたけど、ハンナは恋愛という点ではどのくらいの感情をもっていたのか、ちょっとわからないから。ふたりの関係は、恋愛とはいえないかもしれない。でも、心の深い部分のつながりは、たしかに存在していて、人間と人間の関係の不思議を感じさせられた。こういう作品がベストセラーになるなんて、日本の読者も捨てたもんじゃないね。あと、戦後50年、戦争、ナチズム、ユダヤ迫害なんかが風化してきてる中で、こういう問題をつきつめようとするっていうのも、スゴイことだと思うな。

ウンポコ:ぼくは、今朝読み終わったところなんだけど、深く、重い感銘を受けたね。ここ数年で、いちばんショッキングな作品だった。ぼくはねー、いつでも主人公に自分を重ねあわせて読むタイプだから、最初の部分は、ちょっと受けつけないっていうか、好きじゃなかったの。ぼくが15歳の少年だったら、21歳も年上の女性なんて、どうしたって嫌だから。それで第1部はピンとこなくて、いやいやながら読んだんだよ。でも、第2部、第3部になると、謎だった部分、たとえばミヒャエルが学校に行きたくないっていったとき、どうしてハンナはあんなに怒ったのか・・・なんかが、だんだんわかってくる。おお、これはなんだ?! と激しく読書欲を刺激された。文学のすごさ、すばらしさを感じたね。ねえ、ナチスの側にいた人を描いた本って、ドイツにはたくさんあるの?

ウーテ:さあ、どうかしら。

ウンポコ:ここまで内面の深い部分をえぐりだしたものって、そうないんじゃない? こういう歴史の現実を、ぼくは重く受けとめた。ところでこの作品、訳がこなれてないね。何回読んでも、何をいっているのか理解できないところがあった。乱暴だし、逐語的訳文が多すぎるよ。もう1回くらい、訳し直す努力をしたら、よかったんじゃない?

ウォンバット:私も一息に読んじゃった。帰りの電車の中で読みはじめたんだけど、早く続きが知りたくて、家に着いても服も着替えず、お腹すいてたのに夕食も食べず、最後まで読んでしまいました。こんなに夢中になった本は、久しぶり。ハンナが文字が読めないっていうのは、ふたりが旅行にでかけたとき、ミヒャエルのメモがなくなってて、ハンナが激怒した……っていう場面で、すぐわかったの。これはテレビ「大草原の小さな家」のエドワーズおじさんだ! って。エドワーズおじさんって、とてもいい人で、インガルス一家の大切な友人なの。テレビでは、彼が主人公の回で、実は字が読めないんだということが露呈しちゃうって話があるのよ。あと、ハンナが出所目前に自殺してしまうっていうのも、やっぱりと思った。映画「ショーシャンクの空に」で、長いこと刑務所に入ってて、ようやく出所したのに自殺しちゃうおじいちゃんがいて、とても印象に残っていたから。でも、それ以外の部分は意外性があって、うーん読ませる! と、うなっちゃった。この、自分の内面をみつめて、どこまでも追いつめていく辛抱づよさ、ねばりづよさって、ドイツらしい感じ。それから、ミヒャエルは匂いにこだわっているでしょ。若いときの、身だしなみに気をくばり、いい匂いのするハンナと、年老いて、老人の匂いのするハンナとの違い。ドナ・ジョー・ナポリの『逃れの森の魔女』も、匂いに対するこだわりが感じられた。日本の作品には、匂いがこんなにはっきり出てくるものは少ないような気がして、日本とは違うなあと思った。

H:でも、日本人のほうが、匂いには敏感なんじゃないの? 今の若い子なんて、すごく匂いを気にするでしょ。

ウォンバット:それはそうだけど。でも「匂い」ってもののとらえ方が、日本と西洋は根本的に違うような気がする。何を「臭い」と思うかも違うしね。

モモンガ:私はこの作品、「こうなるだろう」と思ったようにはならなくて、予想を裏切る意外な展開の連続だった。はじめは、年の離れたふたりの関係に興味をもって読んでたのね。でも、それだけではなくて、謎解きの逆というのかしら。途中から、今までに書いてあった伏線を探りつつ読むっていうのかな。それが他にないおもしろさだと思った。意外な展開になるたびに、あそこが伏線だったの? っていうところを思い出しつつ考えるって感じ。こういう読ませ方は、新鮮だったな。この作品のテーマは、恋愛とはまた別に、ナチスの犯罪を若い人がどうとらえるかということだと思うんだけど、とても勉強になった。受け入れなくてはいけない部分と、許してはいけない部分との葛藤がよく描けている。それから恋愛については、ひとつの恋愛が一生に渡って影響を及ぼして、これほどまでに深く人生に関わっていくというのは、すごいことだと思うわ。でも、文章が難しいね。なんか難しげな言葉を使ってるから、3回くらい読んでも、わからないところがあった。そこが惜しい!

愁童:前回ちょっと孤独を感じ、今回は不登校ムードの愁童です。ひるねさんから電話をもらって、なんとか重い腰をあげてやってきました。さて、この作品、第1部は読みづらかった。バンホフ通りの描写なんて、さっぱりわからん。こんな日本語あるかよと思ったね。ハンナの心の揺れ動きは、胸に迫るね。こういう極端な状況設定って、うまいと思う反面、これでいいのかとも思う。前に、この会で『ナゲキバト』(ラリー・バークダル著 片岡しのぶ訳 あすなろ書房7)をとりあげたときのことを思い出した。ぼくはとてもいい作品だと思ったんだけど、あざとい設定にごまかされちゃいかん! と言われたコンプレックスが、未だに尾を引いているんでね。

:設定に無理があったり、あざとかったりする作品って、それがネックになっちゃうことが多いけど、テーマがしっかりしていれば、そういう障害やほころびなんて乗り越えちゃうっていうこと、あるよね。

ひるね:私は、我ながら頭がいいなと思ったんだけど、広告を見て、もうだいたいストーリーがわかっちゃったのね。この本、大々的に宣伝してるでしょ。「衝撃的な事実」っていうのも、ドイツの作品だから、きっとナチス関係だなと思ったし。文字が読めないっていうのも、気がついちゃった。広告を見ないで読んでたら、もっとおもしろかったんじゃないかと思う。あんまり内容がよくわかっちゃう宣伝も、罪よね。私は、前半のふたりがアパートで過ごすあたりなんか、古典を読んでるみたいな感じがして、好きだったな。後半で、雰囲気が一転するでしょ。その前半と後半のものすごいギャップが、また魅力的。古典的な描き方で、現代的なことを書いている。ダーっと惹きこまれて読んだというよりは、あーやっぱり……と思って読んだんだけどね。でもね、読み終わってから2〜3日たつうちに、なんだか感動が増してきたの。はっきり意味がわからなかったところは、皮膚の表面が風化して、古く汚い表面だけが、ぽろぽろとはがれ落ちるように消えていって、美しくなめらかな肌があらわれてくるように、感動的な部分だけがよみがえってきてね。こういう感覚、最近ではめずらしいことだったわ。あと、読み書きができないということに関して、日本人とヨーロッパ人は感覚が違うように思う。こうまでして、それを隠すなんて。

:ひねくれ者なので、売れてるものにはとりこまれないぞ! と思いながら読んだんだけど、やっぱり惹きこまれてしまいましたねー。私は、夫とともに、長いこと識字運動に関わってるので、こういう形で読み書きの問題を扱ったっていうことに、まず興味をもった。さっき「読み書きができないこと」に対する感覚が、日本とヨーロッパでは、違うんじゃないかって話があったけど、私は日本とヨーロッパの違いではないと思う。「文字が読めない」ということの深さというのかな。でも、文字が読めないということは、マイナスだけではないのよ。朗読を聴いているときの集中力なんかは、文字を読める人には真似できないものがある。だからプラスもマイナスも、両方もあると思うの。

オカリナ:この作品は子ども向けではなくて、はっきり大人向けの作品だと思う。私が13〜14歳のときに読んだとしても、深いところまではわからなかっただろうと思うから。子どもが出てくる大人のための本っておもしろいのが多いけど、この本もおもしろかったな。とくに惹きつけられたのは、ハンナの人物像。今、ノーブルに生きてる人って、少ないでしょ。ハンナは労働者階級で教養はなかったけど、生き方はたしかにノーブルだったと思うの。

ねねこ:15歳の少年が、36歳の女性に惹かれるというのは、どう?

ウンポコ:ぼくはさっきもいったけど、ダメだね。嫌悪感がある。

ウーテ:この本、友人からストーリーを聞かされて、読む前からどんな話か知ってたの。しかけもわかってたから、正当に評価できないんだけど・・・。この作品がドイツで出版されたとき、むこうでも大評判だったのよ。 ミステリーっぽい大衆的なしかけと、純文学の幸せなミックスって感じよね。どっちもいいバランスで、大衆的なところもマイナスに働いてないのが、成功の秘密だと思う。ただね、さっきも話に出たけれど、訳があまりよくないわね。意味不明のところがある。これだけ内容がすばらしいんだから、訳がよければもっとよかったのにと思うと、残念ね。私の友人は、最後にハンナが死ぬ必然性が、どうしても理解できないっていってたけど、みなさんはどうかしら?

ねねこ:ハンナは刑務所の中で変わりはじめるでしょ。字をおぼえて、それで世の中に出ていくことを拒否する……。

愁童:ぼくは、自殺に説得力があったと思う。うまいと思った。

オカリナ:私は、そういう彼女なりの「オトシマエのつけ方」もふくめて、ハンナの生き方はノーブルだと思う。ねえ、ミヒャエルはテープを送るばっかりで、どうして彼女に会いにいかなかったと思う? 私は、具体的な愛情が年月を経て抽象的な、いわばより高次の愛情に変化したからだと思うんだけど。

ねねこ:ミヒャエルが自分を許せないって部分があったんじゃない? 児童文学じゃないっていってたけど、青年時代の愛がその後の人生におよぼす影響の大きさって考えたら、YAっていってもいいと思う。ミヒャエルは、葛藤の中でずっと生きてる。愛こそが、この作品を貫いているのよね。深いね。

ウンポコ:ミヒャエルは、青年時代に熟女から与えられた性の呪縛に、一生とらわれてるっていうふうに思えるけどな。だって、他の女性とどんな交際をしても、だめだったんだろ。ハンナの呪縛から逃れられないんだ。ハンナに手紙を出さないことが、せめてもの抵抗だったんじゃない? ハンナも歴史の波に翻弄されたけど、ミヒャエルもたいへんだったなって思うよ。同情するね。

オカリナ:最初は性の呪縛があっても、年月を経てふたりの関係そのものの質が変わって行くんだと思うけどな。

愁童:この本は、トンボの目玉みたいに、うまくできてるんだよねー。「なぜ手紙を出さなかったのですか」って、ミヒャエルにいうのは、ハンナじゃなくて、刑務所の所長なんだよ。本人には、そういうことを言わせない。それと、読み書きのできない自分を利用した国家権力を、ハンナが間接的に告発してるっていう面もあるんじゃないかな。

ひるね:エンターティメント的要素も、ちゃんとあるわね。グレアム・グリーンの『情事の終わり』って、とても好きなんだけど、あれに通じるようなものがある。

ウーテ:読み書きについてなんだけど、日本人だったらどうっていうことではなくて、識字率の高い国で、文字が読めない存在として生きるというのは、ものすごい重荷だと思うのよ。はじめてローマに行ったとき、首からガバンをさげてうろうろしてる若い人がいっぱいいたのね。何してるのかと思ったら、申請する書類を代筆するアルバイトのために、文字の書けない人がくるのを待ってるの。まあ、昔の話だけど、そういう商売が成り立つくらい、当時のイタリアには読み書きのできない人がたくさんいたし、それを隠してもいなかったわけよね。読み書きができないことを恥と思って、それを命と引き換えにするかどうかってことは、その国の教育程度とか、国民性によって違うと思う。やっぱり識字率の高いドイツや日本で暮らすのは、たいへんでしょうね。

愁童:それと、ぼくは、ハンナの遺した貯金の使い方がとてもうまいと思った。あの収容所の生き残りの人に、ハンナのお金を届けるなんてさ。彼女は「お金はいらないけど、缶だけもらいます」って言うでしょ。「私も昔、こういう缶をもってて」なんて話してさ、説得力があるね。

ウーテ:性の呪縛も、リアリティがあって、うまいわね。だってミヒャエルにとって、ハンナは便利な存在でもあったわけでしょう。15歳なんて、性的欲求の強いときにそばにいてくれて、いつでも自分のエゴを満足させてくれる、都合のいい存在でもあったわけだから。

ウンポコ:匂いから逃れられない、男性の生理が描いてあるんだ。呪縛かどうかはわからないけど、男性の作家でなければ描けない世界だと思うね。

(2000年07月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


逃れの森の魔女

ドナ・ジョー・ナポリ『逃れの森の魔女』
『逃れの森の魔女』
ドナ・ジョー・ナポリ/著 金原瑞人・久慈美貴/訳
青山出版社
2000.02

愁童:発言すべきこと、すぐには出てこないな。パロディでこういうのをつくるっていうのは、おもしろいかと思うけど、いまひとつ、のりきれなかったんだよね。

H:ぼくも、パロディのおもしろさっていうのはわかるんだけど、とくにそれを追いかけたくはなかったっていうかさぁ・・・。

ウォンバット:私も好きな感じではなかったな。なんかこう、ひたひたと迫りくる恐ろしさは強烈に感じたけど。

モモンガ:私はおもしろかった。パロディを抜きにしても、すっごくおもしろかった。ひとりの人間の中に、邪悪な心と崇高な心が日々せめぎあっているという状況を、とてもうまく描いている。最初に善き行いをするんだけど、それでうぬぼれちゃいけなかったのよね。崇高なものが邪悪に変わっていく過程を克明に描いていて、スリルがあった。描写にリアリティがあるでしょ。

愁童:そうそう、それだ! ぼくもモモンガさんと同じことを感じたんだよ。この作品は魔女と人間を切り離さず、両者をつなぐものをちゃんと踏まえたうえで魔女を描いている。そこにリアリティがあるところが、日本人作家の描く魔女との大きな違いだと思う。つねづね思ってることなんだけど、どうも日本の作家が描く魔女って、そういうことが抜け落ちちゃってるような気がするんだ。なぜ彼女が魔女にならなくてはいけなかったのか、どうしてあんなことをしてしまったのか・・・。この作品は、彼女の心が変化していく過程に、リアリティがある。人間と魔女がまったくの別ものというのではなくて、両者をつなぐ根っこの部分を、きちんとおさえてるんだよね。

モモンガ:たとえば、グレーテルが料理をするシーンの鍋つかみのエピソードなんて、まさに女性の作家ならではのリアリティ。あと、文体もおもしろいわね。短い文の積み重ねのような文体。もしかして原文は、詩みたいな感じなのかな。

ウーテ:どうなのかしら。原文を読んでないからわからないけど・・・。でもこれ、散文は散文よね。

モモンガ:だけど、いわゆるふつうの文体とは、ちょっと違うでしょ。短い文で、たたみかけてくるような感じ。

:アンジェラ・カーターの『血染めの部屋』(富士川義之訳 筑摩書房)とか、マーガレット・アトウッドの『青ひげの卵』(小川芳範訳 筑摩書房)なんかもそうなんだけど、パロディって、もとの物語をフェミニズムで解体すると、よくわかるの。みんな法則的にぴったりあてはまる。AERAのムック「童話学がわかる」にも書いたけど、母性がネガティブなものに変えられていたって、歴史があるでしょ。産婆とか魔女とかね。この作品は地味だけど、母性の二面性がよく描けてると思う。子どもを慈しむ気持ちと、子どもを食べちゃうっていう面と。魔女は、グレーテルのかわいらしさに、このまま家族のように暮らしていきたいと思う反面、習性として、子どもたちを食べたいっていう欲求も、どうしようもない。そういう魔女の心のゆらぎが、とてもうまく描けてる。

ひるね:パロディとしてはうまくいってるし、よくできた作品。でも、予想された書き方ではあるのよね。私は、一読者として、この世界に入ってはいけなかった。ゲーム世代のファンタジーだからかな。今までのファンタジーは、現実の世界と空想の世界をつなぐ扉が、作家の工夫の見せどころで、空想の世界への入口をどうやって開くか、というのが問題だったでしょ。そして、そこがファンタジーの大きな魅力のひとつだったと思うのね。でも、ゲームは入口なんてなくて、キーを押すだけで、即その世界にワープしちゃってて、お約束のように悪魔とか、怪物が出てくるでしょ。旧世代に属する私には、どうもなじめない。アメリカは、こういうパロディが多いわよね。パロディのおもしろさって、読者にかかってると思うの。もとのお話が、どのくらい読者の血となり、肉となってるかというのが、おもしろさのポイントだから。翻訳本として出版するのは、キツイ面があるわね。

:おもしろくてさらっと読めたんだけど、愁童さんの裏返しパターンで、物語世界に入っていけなかった。うまくできてはいるんだけど……。世界観、自然観がはっきりしてるから、苦手。ひるねさんのいうように、日本でYAとして出版するにはキツイね。

ウーテ:ドイツでも、パロディってフェミニズム的傾向があるのよ。カール=ハインツ・マレの『
<子供>の発見〜グリム・メルヘンの世界』、『 <おとな>の発見〜続グリム・メルヘンの世界』(ともに小川真一訳みすず書房)も、フェミニズム的解釈解釈で、印象に残ってる。女の人の生命力のすごさっていうのかしら。子どもがふたりいる四人家族に、食べものがないって危機がおとずれたとき、母はどうするか? 両親が死んで、子どもだけが残されたら、子どもは生きていけないでしょ。でも、大人ふたりだったら、生きていけるからって、子どもを捨てるの。残酷なようだけど、それって理屈から言ったらちゃんと理にかなってるのよね。

(2000年07月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


月のナイフ

吉岡忍『月のナイフ』
『月のナイフ』
吉岡忍/著
理論社
1999.09

ねねこ:この短編集は、出来のいいのとそうでもないのがあるんだけど、あえて承知でこういう構成にしたのかなと思いました。吉岡忍の全体を見せたかったのかな。好きなものは好き、嫌なものは嫌で、それで結構! って姿勢なのかも。私が特によかったのは「鹿の男」と「子どもは敵だ」。東京国際ブックフェアのときに、オランダの生物学者が「子どもに学ぶことなんてない。動物を擬人化したり、子どもは純粋だなんて思い入れをもちすぎるのもおかしい」って言ったのが、とっても印象的で気持ちよかったんだけど、それを思い出した。「子ども=聖なるもの」というのは、幻想なんだっていうことを、あらためてつきつけられた感じ。子どもも、大人と同じようなずるさをもっていて、大人と同じようにこの世界で生きのびようとしてるのよね。吉岡忍の作品は、アジアや地球のレベルで考えようという、日本にとどまらないグローバルな視点をもとうとしているのが、日本の他の作家との違いかしら。でも、子どもはどうなのかな、こういう作品って。表題作の「月のナイフ」は、よくわからなかった。状況描写がわかりにくくて。あと、連環小説ということで、あえて最初に近未来小説の「旅の仲間」をもってきたのは、失敗だったかも。ここで挫折しちゃう読者もいるんじゃない?

カーコ:私は読むには読んだんだけど、考えてみる前に、流さんに貸しちゃったので・・・えーと、どうだったっけ。あ、そうそう、私は自分の子どものこともあって、10歳くらいから14〜15歳って、どんなふうに成長していくものなのか、興味をもってるところなんだけど、この作品は、現代の子どもの抱えてる問題がたくさん出てきて、キーワードが目にとびこんでくるような感じ。生々しすぎて、今ひとつのれなかったんだった。ノンフィクションの作家がフィクションを書くと、こういうふうになるのかな。

H:好き嫌いが別れる作品でしょう。試みとしては、おもしろいと思うけどね。作者の気持ちもわかる・・・が、もう一歩先まで行ってほしかったって気もする。「月のナイフ」で、きらきら光ってキレイな先生の産毛が、幻想とまじっていく場面とか、あと、どっちも意味がなくて、どっちだかわからないようなことを書いたりしてるところ、こういうところは評価したいね。子どもの文学にこういうことを書くって、これまでになかったと思うから。子どもからは「自由な感じがした」って、手紙が来たりするんだけど。とくに好きだったのは「鹿の男」かな。でもなー、やっぱりハナにつくとこはあるんだよな。学級委員的な臭さっていうか、リーダー臭さ。誠実なのは、わかるんだけどね。世代的なズレを感じる。この作品、不統一な短編集って話がさっきあったけど、作者個人のこだわりがあって、最後のところにすべてが重なるようにできてるんだよ。まあ、最初の作品としては、いいんじゃないかな。

ウォンバット:私は、この作品は、読んでいやーな気持ちになっちゃって。問題意識はわかるんだけど、困った事態をつきつけるだけつきつけといて知らんぷりされちゃうみたいで、感じ悪かった。あとに残されたのは、どうにもならない無力感だけ。唯一好きだったのは「子どもは敵だ」。

H:ぼくも。

ウォンバット:ここにでてくる「言葉」っていうものの定義と、言葉のもつ危うさは共感をおぼえた。この作品は、おもしろかったな。

モモンガ:私も、最初の「旅の仲間」を読んで、こんなのがずっと続くのはつらいなと思ったんだけど、他はまた違ってた。こんなふうに、違った雰囲気のものが1冊になった短編集って、珍しいわね。やっぱり大人と子どもは違う。子どもは、自分の居場所を選べないし、自分が選んだわけではない場所に、ずうっといなくちゃいけないでしょ。閉塞感があるよね。そういうことを考えさせられたんだけど、子どもの目で読んでおもしろいと思える作品ではないかな。なるほどなーと思うところは、あったけど。この装丁は好き。

愁童:ぼくも「旅の仲間」は、拒絶反応。読むのがつらかった。なんだか、作為が目立っちゃって。もっとシャイであってもいいんじゃないの?「その日の嘘」は、タイトルが断罪してる。こんなの書いてどーするんだ?! 何をねらったんだか、よくわからん。ぼくの不登校ムードをくつがえすほどのパワーはなかったね。

オカリナ:私は、半分までしかまだ読めてません。実は、ここにくるまでの電車の中で読もうと思ってたんだけど、疲れて爆睡してしまいましてね・・・。

一同:(笑い)

オカリナ:私は吉岡さんと同世代のせいか、言いたいことがわかりすぎちゃう気がしたの。書いていることは世間的に見れば直球のスローガンじゃないんだろうけど、それでも言いたいことがあってそれに引きずられて書いてるっていう意味ではスローガンみたいに見えてきちゃう。誠実なのはわかるんだけど、もうちょっとセーブしたほうがよかったんじゃないかな?

H:スローガンさえ気にしなければ、おもしろいところはあるんだけど、すけて見えちゃうんだよな。作為が消えきらないっていうかさ。吉岡さんには、問題意識そのものを疑えっていうところがあるんだよね。グロテスクなものの中にも美しいものがあるかもしれないっていうテーゼのたて方も、大人から見たらウザいよね。

オカリナ:酸性雨の影響を受けた湖の水は、その中で生きてる物がいないからとってもきれいに澄んでるっていうことなんかは、すでにあっちこっちで書かれてるわけだから、そんなに新しい視点とも思えなかったし。

愁童:「鹿の男」の描写力には、可能性を感じさせるものがあるけどね。

オカリナ:装丁とか、本の感じはいいよね。

ひるね:私も、だいたいみなさんと同じ。「旅の仲間」は別としても、他のはもう恥ずかしくて読めなかった。最初に意見ありきで、それを創作であらわそうとしてるみたい。それなら、ノンフィクションで書いたほうが、よかったんじゃないかしら。

H:吉岡さんは、「ノンフィクションとフィクションのあいだを書きたい」って言ってるんだよ。

ひるね:「月のナイフ」は表題作だし、書きたかった世界なのかなという感じはするけれど、残念ながら作品として熟していない。惜しい! ナイフに拒否反応をおこす大人を戯画化してるんだけど、突然男が川を流れてきたりして、ナンセンスっていうかシュールな方向にいっちゃって、ラストは、メルヘンの世界でセンチメンタル・・・。もっと書きこめば、おもしろい作品になったんじゃないかしら。これは子どものモノローグの形をとってるんだけど、どう見ても大人の語り口でしょ。違和感があるわね。これからも「ノンフィクションとフィクションのあいだ」をどんどん書いていってほしいけど。

カーコ:「あいだ」ねぇ・・・。

ねねこ:何か提示するものがなきゃ、書いちゃいけないの? 文学って、そういうものじゃないと思うけどな。

:私も、最初の「旅の仲間」は、息が苦しくなっちゃって、読むのがつらかった。自分が感じたことを書いたっていうのは、よーくわかったけど。

H:「旅の仲間」で、カマしてるんだよね。わかるか、わかんないか。メディアの臭みっていうのかさ、一般の人はこうなんじゃないかって設定した上で話してるって感じ。

:なんか、予定調和。私は、時事問題を書くってことに対するアレルギーもあってね。この作品、子どもはどう読むんだろ?

(2000年07月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


“少女神”第9号

フランチェスカ・リア・ブロック『“少女神”第9号』
『“少女神”第9号』
フランチェスカ・リア・ブロック/著 金原瑞人/訳
理論社
2000.01

H:これ、初版限定プレミアム・バージョンは、刷色が7色に変化する特殊印刷。原書は、色刷じゃなくて、日本語版のみのサービスなんだよ。フランチェスカ・リア・ブロックは不思議な作家で、雰囲気で読ませるって感じだから、こういうのもいいかと思って……。でも、老人に、白内障の目にはきついと言われましたね。

ウォンバット:私は、好きな作品だった。今は亡き雑誌「オリーブ」の、創刊すぐのころの愛読者「オリーブ少女」たちが好きそうな感じ。「ノンノ」じゃなくて、80年代の「オリーブ」。ちょっと主流からずれたところのカッコよさというのかな。とくに印象的だったのは「マンハッタンのドラゴン」。

モモンガ:「全米ティーンに人気爆発」って書いてあるんだけど、音楽とか、今のアメリカの流行に詳しくないもので、味わいが薄れちゃったような気がして、その点ちょっと残念。女の子があっけらかんとしてるとこなんか、好きな感じだった。それにしても、まばゆい本ね。印刷もそうだけど、紙がすっごく光るの。

オカリナ:この本のつくり方は、おもしろかった。なんだかあっけらかんとしてて、熱がない感じ。今流行の踊りパラパラも、無表情で、のってないようでのってるっていうような、熱のない踊り方がいんでしょ。この本も、それにちょっと似た感じ。私はのれる話と、のれない話と、差があったんだけど、その差はどこから来るんだろ?

H:話のできの善し悪しにもよるからね。たしかに、ばらつきがあるかもしれない。今の若い子がかっこいいと思う文体って、あんまりきゃぴきゃぴじゃなくて、ちょっとおさえめな感じだと思うんだよね。だからそれを目指してるんだけど。あと、内容は実はちょっと古い。ややバブリーのり。

ひるね:花の名前とか、ハーブの名前とかたくさん出てくるところも、好き。名前の魅力、言葉の魅力というのかしら。刷色を変えてるのも、明るくてきらきらしてていいわね。マーブルチョコみたい。ストーリー性のあるものが、とくにおもしろかった。「マンハッタンのドラゴン」とかね。おとぎ話みたいで。

:とーっても好きな作品。カラーもお話も好き。私は著者と同い年だから、なおさらよくわかるんだと思う。好きなものに囲まれている女の子たちのことが、だんだん寂しく感じられちゃって……。まわりに好きなものをいっぱいおいて、好きなもので埋めつくしてるんだけど、そこにある寂しさっていうのかな。

H:ぼくも、最初の「トゥイーティー・スイートピー」は好きなんだけど、最後の「オルフェウス」は、つらくなっちゃうんだよな。

(2000年07月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


2000年07月 テーマ:文学を読もう

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『2000年07月 テーマ:文学を読もう』
日付 2000年7月18日
参加者 ウンポコ、愁童、カーコ、ねねこ、ウォンバット、
ひるね、オカリナ、流、裕、H、ウーテ、モモンガ
テーマ 文学を読もう

読んだ本:

ベルンハルト・シュリンク『朗読者』
『朗読者』
原題:DER VORLESER by Bernhard Schlink,1995(ドイツ)
ベルンハルト・シュリンク/著 松永美穂/訳
新潮社
2000.04

<版元語録>学校の帰りに気分が悪くなった15歳のミヒャエルは、母親のような年の女性ハンナに介抱してもらい、それがきっかけで恋に落ちる。そして彼女の求めに応じて本を朗読して聞かせるようになる。ところがある日、一言の説明もなしに彼女は突然、失踪してしまう。彼女が隠していたいまわしい秘密とは何だったのか…。数々の賛辞に迎えられて、ドイツでの刊行後5年間で、20以上の言語に翻訳され、アメリカでは200万部を超える大ベストセラーになった傑作。
ドナ・ジョー・ナポリ『逃れの森の魔女』
『逃れの森の魔女』
原題:THE MAGIC CIRCLE by Donna Jo Napoli, 1993(アメリカ)
ドナ・ジョー・ナポリ/著 金原瑞人・久慈美貴/訳
青山出版社
2000.02

<版元語録>なぜ魔女は、暗い森の中にお菓子の家を建て、いともたやすく、グレーテルに殺されてしまったのか。お菓子の家に隠された、美しくも哀しい秘密。グリム童話「ヘンゼルとグレーテル」の魔女を主人公に、その生涯を描いた悲劇。
吉岡忍『月のナイフ』
『月のナイフ』
吉岡忍/著
理論社
1999.09

<版元語録>「ぼうず、今度は一人でこいよ。一人ずつだ」 少年と少女の夢想にしのびよる世の中の影。子どもたちの現実に響きわたる死者たちの声。世界への視線から生まれた九つの連環小説集。
フランチェスカ・リア・ブロック『“少女神”第9号』
『“少女神”第9号』
原題:GIRL GODDESS #9 by Francesca Lia Block, 1996(アメリカ)
フランチェスカ・リア・ブロック/著 金原瑞人/訳
理論社
2000.01

<版元語録>ポップで、リアルで、ファンタスティックなスタイルで、今の若者の姿を描き出す、アメリカ・ヤングアダルト小説の第一人者ブロックの短編集。すべての少女に捧げる、現代版「ナイン・ストーリーズ」。

(さらに…)

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クレージー・バニラ

バーバラ・ワースパ『クレージー・バニラ』
『クレージー・バニラ』
バーバラ・ワースバ/作 斉藤健一/訳
徳間書店
1994.11

モモンガ:とっても好きな本だった。子どもの気持ちがよく描けていると思う。どういうふうにいったらいいのかな・・・主人公タイラーは、友達がいなくて、家族に対しても、思ってることと違うようなことを、ついいってしまって、それがストレスになっちゃうような子なんだけど、そういう子の描き方がうまいよね。タイラーはミッツィと出会って、彼女のことが好きになっちゃうんだけど、人が突然だれかを好きになるっていう気持ちも、うまく表現してると思った。タイラーとミッツィだけでなく、ミッツィのお母さんとか登場人物はみんな、どこか破綻したところのある人たちなんだけど、どの人にも愛情をもった描き方がされてて、それぞれの人間性がよくわかる。だから、どの人にも人間的な興味がもてるのよね。あと、詩の使い方がうまい! ミッツィの好きなスティービー・スミスの詩。「ぼくはあなたたちが思っていたよりはるか沖まで流されていたのです。あれは手を振っていたのではなく、溺れて助けを求めていたのです」っていうの。この詩が、タイラーの気持ちをよく表していると思う。タイラーは、今の自分の状況はこの詩みたいだっていうんだけど、ミッツィに「きみは溺れてなんかいないよ。手を振っているのかもしれないけど、溺れているんじゃないわ」って励まされるのよね。お兄さんがゲイだって知ったときの家族の反応も、よくわかる感じ。『少年と少女のポルカ』のヤマダの家は、ちょっと嘘っぽいと思ったけど。ねえ、『クレージー・バニラ』って、タイラーにとってどういう意味をもっていると思う? とっても存在感があるタイトルだけど、タイラーって、こういうおもしろい名前がひらめくタイプじゃなさそう・・・。どうしてこのエピソードをもってきたのかしら?

ねねこ:「クレージー・バニラ」って、英語で何か特別な意味があるの?

オカリナ:別にないんじゃない? ただクレージーなバニラってだけで。

ウォンバット:私、いいタイトルだと思う。『クレージー・バニラ』。内容を知る前からいいなあと思ってたけど、アイスクリームの名前だって知ってからはもっと好きになった。とってもおいしそう。高校生のとき、サーティワンアイスをきわめた(毎月変わるアイスクリームの味と名前を常におさえてました)私には、わかるこのすばらしさが。バニラは地味だけど、なくてはならない基本の味。それにクレージーって過激な言葉がくっついて、ユニークな名前になってる。タイラーのいうとおり、ネーミングって、シンプルでインパクトがないといけないと思うんだけど、その両方をちゃんと満たしてる。コンテスト優勝まちがいなし!と思ってたのに、残念ね。さっき、登場人物がそれぞれよく描けてるって言ってたけど、私も賛成。とくにお兄さんの恋人のビンセント・ミラニーズがおもしろかった。3〜4年前かな、日本でもさかんに「ミニマム」っていいだしたの。ビンセントはインテリア・デザイナーでミニマリズムの旗手。倉庫をすばらしい住居につくりかえたって、ベタボメの雑誌記事をお兄さんが送ってくるんだけど、それってタイラーからしたら、がらんとした殺風景な部屋を、おおげさにほめたたえてるように見える。それで、タイラーは「ビンセントってのは、なんてヤなやつなんだ。世界一のいかさま師だ」って、怒って雑誌を捨てちゃうんだけど、たしかにミニマリズムって、いかさまと紙一重ってとこ、あるでしょ。だから、すっごくおかしかった。タイラーは、はじめからビンセントのことをよく思っていなくて嫌いになりたいんだけど、いざ会ってみたら、スキのないちゃんとした人だったもんだから、フクザツな心境・・・。とんでもないやつだったら、あきらめもつくのに。わかるわぁ、その気持ち。という感じで、細部も全体も好きな作品だった。でも、翻訳で1ヵ所気になるところがあったの。ミッツィがタイラーに向かって「きみ」っていうでしょ。二人が池で再会する場面で、「こんなところで何してるんだ」ってタイラーにいわれたミッツィが「きみの池なの?」って聞き返すんだけど、ヘンな感じ。そもそも今あんまり「きみ」っていわないでしょ。しかも「そっちこそ、なんなのよ!」っていうシチュエーションで、「きみ」は、使わないんじゃない?

ひるね:そうかしら。私、ちっともおかしいと思わなかった。女の子が、年下の男の子に対していう言葉だし、ミッツィはクルーカットで男みたいな格好をした子だから、ボーイッシュな雰囲気を醸し出す、うまい訳だなと思ったけど。

ウォンバット:そうかな。やっぱりここは「きみ」より「あんた」って気がするけどな。ここだけではないのよね、「きみ」っていうの。

ひるね:二人が仲よくなってからも、ミッツィは「きみ」っていってるわね。「ウッドラフ」ともいうけど。

ねねこ:「きみ」って、都会っぽい感じ。私、東京に出てきて、はじめて男の子に「きみ」って言われたとき、うっとりしちゃった。うわっ、おしゃれーと思って。うちの地元のほうでは、だれも言わないからね。でも、今の若い女の子が男の子に対しては、あんまり「きみ」って言わないかも。

愁童:ぼくたちの若いときには、女の子に「きみ」っていうの、普通だったけどねえ。

ねねこ:今でも、男の人が年下の男の人に対しては使うけどね。上司が部下に対して「きみ、きみ」とかさ。

ウォンバット:私たちは、茶化すときくらいしか使わないなあ。

ひるね:世代の違いかしら。

愁童:そうかもしれないね。ぼくは、この作品、青春のみずみずしさが感じられて、いい作品だと思うけど、ひっかかりというか、こういう場で話題にする切り口が見つからなくて。ちょっとクラシックすぎちゃうんだな・・・。でも、殺伐とした時代に、こういうお話はいいと思う。一貫して流れているのは「動物の写真を撮ること」。それが、二人をつないでいる。ミッツィがタイラーに「写真にあまりセンチメンタルな感情をもちこんじゃ、だめよ。動物のかわいらしい瞬間だけを選んで撮影しても、その本当の姿を撮影したことには、ならないんだから」って言うんだけど、なるほどと思ったな。とてもいい勉強になった。「クレージー・バニラ」は、すべてのきっかけであり、キーワードなんだよね。二人が出会ったのは、「クレージー・バニラ」がコンテストで落選したからだし、ミッツィは、はじめ「ひどい名前ね」なんていってたんだけど、彼女がこの街を出ていくことになって、さよならをいう場面では「『クレージー・バニラ』ってほんとはすごくいい名前だったよ」って言う。これは、ただ単にアイスクリームの名前のことを言ってるわけではなくて、暗に写真のことを言ってるんじゃない? 同じ動物写真を志す同志として、一緒にがんばろうよっていうエールがこめられた言葉だと思った。

ひるね:私も最後までおもしろく読めた。さわやかな物語。いろいろと問題はあっても、こんな楽しい夏休みを過ごせるなんて、若い人はいいわね。私にとって、この作品の魅力の99%は、野鳥の撮影に対する興味だったんだけど、とてもおもしろかったわ。ちょっと気にくわなかったのは、主人公タイラーがお金持ちのお坊ちゃまだっていう設定。自分は渦中にふみこんでいかないで、ただ外から眺めていて、「ぼくちゃんのことは、どうしてくれるんだよ!?」って言ってるだけみたいな感じがした。タイラー自身、成長はしてるけど、ダメージは受けてないわけだから。あとさっき、ゲイに対する家族の反応がよくわかるっていう話があったけど、私は反対に『少年と少女のポルカ』のヤマダ一家のほうがリアリティがあると思う。この作品のほうが嘘っぽい感じ。

オカリナ:これは、真実を知ったばかりの時期の話だから、『ポルカ』と一概には比べられないんじゃない? ヤマダは、もうずっと前からスカートはいちゃってたわけだから。でも、この作品では、ゲイのお兄さんの影が薄いね。それにしても、この兄とタイラーの会話の部分の訳は、不自然だと思わない? 映画の字幕みたい。「兄さんのこと、大好きだよ」「ぼくもだ。おまえみたいにいいやつはいないよ」なんて訳してる。内容は、よくも悪くもクラシックな作品だよね。

:私は動物が好きすぎて、深入りしすぎるというか、深い関係になりすぎちゃうようなところがあって……それは、ひとつの悩みなんだけど、この作品の「動物との距離のとりかた」は、そんな私に、とても参考になった。タイラーとゼッポの関係とかね。野鳥の撮影も、興味深かった。全体的にはおもしろいけど、まあクラシックな作品だと思う。形式もノーマルだし、先が読めちゃう。結末も「こうなるだろうなあ」と思ったら、やっぱり! だったし。あっさり味。1回読んで、「さわやかで、気持ちいい」作品ってことで、いいんじゃない?

ねねこ:私は、動物を撮る姿勢の違いに、ミッツィとタイラーの性格や生活の違いも感じられておもしろかった。動物をありのままに撮ろうとするミッツィと、できるだけ美しく撮ろうとするタイラーとの対比に、それまでの生き方や生い立ちまでをも連想させられた。

:青春文学の古典、サリンジャーや、ジョン・アーヴィングの流れをくんだ作品だと思う。大人になりきれない子どもが、客体ではなくて、主体となって登場して、自分のアイデンティティを探し求めるっていうタイプ。家族が、自分のアイデンティティを保証してくれなくなっちゃってるのよね。若者の孤独が色濃くあるところも、共通点。でもこの作品は、サリンジャーみたいに「出口がない」ところまでいってない。孤独をポジティブな方向にもっていっているから。孤独を野鳥の撮影に投影していて、それが、「出口」になってる。そこから「さわやか感」が、生まれているんだと思うんだけど。家族といえば、兄弟関係がリアルじゃないわね。感心しなかった。お兄さんは、いかにもプロットのために登場させられたって感じ。ミッツィのお母さんは、アン・ファインを彷彿させた。ほら、エコロジー推進運動をやってたりして、がんばる女性、自立する女性がたくさん登場するでしょ。自立した女の子の影響で、男の子も自立に向かうっていうのは、『青い図書カード』(ジェリー・スピネッリ著 菊島伊久子訳 偕成社)にもあったわね。ここに出てくるアイスクリームの名前って、ヘンなのばっかり。読者のだれもが「クレージー・バニラ」のほうがカッコいいってわかってるのに、「穴ぼこパイナップル」が当選しちゃうのが、現実なのよね。「クレージー・バニラ」が、ぴりっときいてると思ったわ。

ねねこ:「バニラ」は、家庭の象徴としての言葉なのかもしれないね。甘くておいしいけど次第に溶けていくアイスクリームのように、表面的にはうまくやっていたけど、どこかはかない家庭のイメージ。その家庭に内在するクレージーさを表しているのかなって思ったけど、考えすぎかな。こういうふうに家庭を扱うのは、アメリカ映画やアメリカ文学の典型っていう感じがする。安心して読めるんだけど、感動的というには、ちょっと足りないっていうか、またかっていうか・・・。

ひるね:バーバラ・ワースバって、日本ではこれしか翻訳されてないでしょ。他の作品はつまんないのかも。この本は一人称の視野が端正で、ほどよく整ってていいけれど、他はおもしろくなさそう。うますぎるもの。

愁童:『超・ハーモニー』(魚住直子著 講談社)と似てるよね、設定も。

モモンガ:私は「スタンドバイミー」を思い出した。ほら、語り手のお兄ちゃんが死んじゃうでしょ。大好きなお兄ちゃんがいなくなるっていうところなんかが、似てると思わない?

オカリナ:どうして、こういろいろ心配しちゃったりするのかなあ。英語圏の児童文学では、親がだらしないと、子どもが親みたいになっちゃって親子の関係が逆転するっていうとこ、あるよね。タイラーは、経済的に安定した家庭で育てられたからかな。

ひるね:自分は、問題から離れた安全なとこにいるのよね、タイラーは。

ねねこ:そういうタチというか、そういう性格にしたかったんじゃないの?

ひるね:タチもあると思うけど、そこが、主人公が泥沼にずぶずぶはまっていかないっていうところが、安心して読める秘訣なんじゃないかしら。

モモンガ:タイラーには居場所があるからね。それにしても、お金持ちの子が主人公っていうのは、新鮮だった。悩みを抱えた少年少女は、家庭が貧しかったりして、家庭に問題があることが多いでしょ。タイラーの家庭にも問題はあるけど、経済的にはリッチで恵まれてる。いじめっ子とか、敵役でお金持ちの子が登場することはあっても、主人公っていうのは、今まであんまりなかったよね。

(2000年06月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


トゥインクル

長崎夏海『トゥインクル』
『トゥインクル』
長崎夏海/著 杉田比呂美/画
小峰書店
1999.06

モモンガ:今回の読書会は、これといったテーマはなかったのよね。主人公が15歳前後っていうだけで。私、最初てっきりゲイがテーマなんだと勘違いしちゃったの。『少年と少女のポルカ』も『クレージー・バニラ』も、ゲイが出てくるから。でも、この本には出てこないから、私ったら、どこかにゲイが出てきたのに、気づかなかったのかしらと思ってよくよく見たんだけど、やっぱりなかった。

一同:わはははっ。(笑い)

モモンガ:この作品、ちょっとした感覚をとらえるのはうまいと思うけど、とくに「心に残ったこと」というのは、なかったんです。ボリュームも足りないし。なんか軽くて、ふわふわっとどこかへいっちゃいそう。今の子がいいそうなセリフとか、しぐさはちりばめられているんだけど・・・。

ウォンバット:私も読んだことは読んだんだけど・・・。無味無臭だった。

ねねこ:バニラの味もしなかったの?

ウォンバット:うん、何の味も。感想は特にないので次の方どうぞ。

愁童:この作品、最初に読んだんだけど、この会に出ようとしたら、全然思い出せないんだよね。それで、あわててもう1度読み返したんだけど、2回読んだら、案外いいかなって思った。ここに出てくるような子たちって、たしかにいるしね。とくに印象に残っているのは「フォールディングナイフ」「電話BOX」「ノブ」。「フォールディングナイフ」の主人公タケルの家は、お父さんが別の女の人と暮らしていて、月に1度しか帰ってこないっていう、ほとんど崩壊した家庭なんだけど、お母さんはそういう現実を受けとめたくなくて、クリスマスにお父さんが買ってきたケーキを家族みんなで食べるってことに執着してる。タケルはそういう母にいたたまれないものを感じている。そしてそのつらい日をのりきろうと、自分のためのクリスマスプレゼントとしてナイフを買いにいったのに、ナイフは売り切れ。おまけに雨まで降ってくる。仕方なく雨宿りした公園で、3歳年上のリカコにばったり会うわけだけど、そこでの会話がいいんだな。リカコは、コンビニのおむすびを渡しながら、「悲しいときには飯を食え」っていうんだけど、それはタケルの母にいわれたことだっていうんだよ。1か月くらい前に、すごい迫力でそういってコロッケの包みをくれたって。あんな母がそんなことをいってたなんて、そしてリカコはその言葉に救われてたんだってことがわかって、タケルはハッとするんだよね。「電話BOX」も、最後に電話をかける少年の気持ちがとてもよく描けている。「ノブ」は芥川龍之介の『トロッコ』が出てくるんだけど、これなんか痛烈な国語教育批判だよね。この作品、日本児童文学者協会の賞をもらってるでしょ。昔、心象風景とか「そこはかとない感動」というものを徹底的に批判していた日本児童文学者協会が、こういう作品を賞に選ぶというのは、どういうことなんだろね? でも、こういうタイプの作品が児童文学に入ってくるのは、悪いことじゃないと思うんだけど、どうだろう? これはウンポコさんが好きそう。

ねねこ:そうでもない、みたいよ。

愁童:えっ、ダメなの? 意外だなあ。作者のあったかい視線が感じられていいと思うんだけど。まあ、でもちょっと迫力は足りないかもな。

ひるね:私はこの作品、ちょっと印象うすかったんだけど、今愁童さんの解説を聞いて、思い出したわ。

ウォンバット:私も愁童さんの解説聞いて、もう1度読みたくなった。

ひるね:スケッチで、全体をなんとなく示唆するというか、いろんなことの側面をスライスするような感じよね。それは伝統的な日本文学の手法だと思うんだけど。私、このところイギリスの短編をいろいろ読んでいるの。アン・ファイン、ジャクリーン・ウイルソン、メルヴィン・バージェス、ティム・ボーラーとかね。彼らの作品は何か決定的な出来事がおこるから、短編でも、読んだ後になにかしら強い印象が残る。日本の文学も、書きたいことをもう少しはっきり書いてもいいんじゃない? 心象風景ばっかりだと、こういうことを書いてなんになるのと思っちゃう。たとえば「電話BOX」で、老人が一人で食事をするのを見るのは悲しいっていう感覚なんかは、私もティーンエイジャーのとき、ほんとにそう思ったし、とてもよくわかるの。でもこの会話のカコの口調は、今の高校生のしゃべる言葉じゃないわね。「フォールディングナイフ」のリカコは、今の女の子の口調そのもので、とてもいいと思ったけど。やっぱり、2度読まないといけない作品なのよ。っていっても、10代の子は2回読まないと思うけどね。

愁童:中高生は、どうかなあ。でも、日本の小説はこういうのたくさんあるから、これが児童文学にあるっていうのは自然だと思うよ。

ねねこ:中高生が読むかしらねえ。特にこういうつくりでは。

ひるね:完成度にもよるでしょ。

ねねこ:こういうのって、教科書にはのりやすいと思うけど。

オカリナ:私も1か月くらい前にこの作品読んだんだけど、もう印象が薄くなってますね。最近そういうことも多いんだけど、『少年と少女のポルカ』のほうは、最初の方読んだら思い出したし、『クレージー・バニラ』は、ああ写真を撮る男の子の話だったなとよみがえってきたけど、この作品は表紙を見てもよく思い出せなかったの。でも、中学生のときだったら、私こういうの好きで読んだかもしれない。昔、清水眞砂子さんが、大江健三郎を引用して、文学には日常を異化するっていう意味もあるんだってこと言ってたの、思い出したな。この作品は、きわめて日本文学的な作り方をしてると思うんだけど、日本文学の構成って、私は俳句と同じだと思ってるの。心象風景を切り取ってつなげていくやり方だと思うのね。西洋の作品は、まず背骨を作って、そこに肉づけしていく方法で構成されてる。だから、日本の作品の独自性を無視して単純に批判することはできないと思ってるし、こういう日本的な作品もあっていいと思ってるんだけど、この本はどういう読者を想定してるのかな? 子どもの手の届くところにあるのかしら。

モモンガ:日本文学のよさっていうのはわかるけど、子どもにはおもしろくないかも。

ひるね:やっぱり完成度の問題じゃないかしら。こういうタイプの作品でも、おもしろいものはおもしろいのよ。乙骨淑子さんの『13歳の夏』なんて、すばらしかったわ。特に1章が。それから庄野潤三も、日常のこまごましたことばかり書いてるけど、私は、好きよ。おもしろいもの。完成度が高ければ、読めるのよ。この作品は、何が書きたかったのか、見えなさすぎなんじゃない?

:私はこの作品、最初、短編集だと思わなかったの。終わりがはっきりしないから、次に続いてるんだと思っちゃった。ま、それはいいとして、この挿絵でいいのかな? 特に75ページの絵。

オカリナ:雰囲気を出したかったんじゃないの? 人気のある絵描きさんだけど、この本にはあってなかったのかな。

:あと、内容と本の体裁があってないでしょ。ストーリーは中学生向けだけど、本のつくりは小学校高学年くらいの感じ。

ねねこ:推薦がとりやすいのよね、小学校高学年にしたほうが。販売的戦略かな?

:でも、だれが読むのかな? なんか私、そんなことばっかり気になっちゃって味わうところまでいかなかった。

:なんだかみなさん否定的だから、私がサポートしなきゃっていう気持ちになってるんだけど・・・。この作品は、意味もない現実を拾おうとしているんだと思うのね。となると、ひとつの大きな物語ではなくて、短編にする、寄せ集めるしかなかったんじゃないかな。言葉にならないことを、あえて言葉にしようとしてるのよ。つまんないことなんだけど、これが現実なわけでしょ。そして、若者は無感動だとか言われてるけど、本当はちょっとしたところで心が動いているのよね。そういう瞬間を集積して1冊にしたんだと思うの。特に「電話BOX」は、それがうまくいってるかな。忘れちゃうような作品かもしれないけど、こういうのもあっていいと思う。

モモンガ:意味のないことをすくいあげようとしたんじゃなくて、意味のない毎日だけど、そこに意味を見つけようとしてるんじゃない?

ねねこ:長崎夏海さんの作品って、これまではけっこう熱かったよね。常に、今の子どもたちを励ましたいと思ってる作家だから、クールに書いていても、思いにあふれていた。この作品は、そうしたプロセスを経た後、少しさめて、距離をおいたところで、今の子どもたちに共感を得られそうなシーンをスケッチしたっていう印象。今までの長編がクサくなりがちだったから、ワビサビの世界を描いたのかなあ。

愁童:子どもたちの「ぼくはここにいるよ」っていうのを代弁してる感じはあるよね。でも、日本児童文学者協会賞っていわれると、うん? という思いはあるな。

ねねこ:んー、いいんだけど、華がない。華がないから、1回読んだだけでは、よさがわかりにくいし、印象に残らない。

ひるね:やっぱり意味のないことを書くにしても、書き方があると思う。バージェスの短編でも、主人公がものすごく変わるわけでもないし、すごい事件がおこるわけでもないのに、とても魅力的っていう作品あるもの。それは、お父さんとお母さんが離婚することになって、いざお母さんが家を出ていくっていって、荷物を運び出したりしているときに、お父さんがもくもくと巨大な穴を掘りつづけるっていう話なんだけど(“Family Tree”という短編集の中の‘Coming Home’)。視覚的なことなのかしら。小川未明の作品なんかも、まさにその瞬間が目に浮かんでくるものね。

オカリナ:完成度の問題じゃない?「Little Star」でも、小さなほころびが気になるものね。だって幼稚園の子にむかって「おまえ」ってよびかけるのは、ヘンでしょ。なんか年齢不詳なしゃべり方してる。ラストも、これで終わっちゃうと思わなかったし。

(2000年06月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)



少年と少女のポルカ

藤野千夜『少年と少女のポルカ』
『少年と少女のポルカ』
藤野千夜/著
ベネッセコーポレーション(講談社文庫も)
1999.03

モモンガ:「なるほど」と思うところも、「ウソでしょ」と思うところもあったけど、どんなことでも、あたかもなんでもないことのように描くこの書き方には、ちょっとはまっていきそうな魅力がありました。もちろん現実にはこんなにあたり前のようにはいかないだろう、というギャップが感じられるけれど、それはそれとして、この小説世界にはまって楽しみたい、という気分になる。でも、女の子らしさの描き方に違和感があるな。女性の作家だったら、こんなふうには書かないんじゃないかしら。 たとえば女になりたいヤマダが、タータンチェックのパジャマとか、赤い薔薇の花でそろえたカーテンとベッドカバーとかね、どうしてそうなっちゃうの?

ねねこ:だって、それはヤマダがそういう人だからよ。そういうふうにしたいのよ。

オカリナ:ヤマダのタイプの人って、過剰に「女性的」になりがちなんじゃない?

モモンガ:あ、そっか。ヤマダはそういう女になりたいわけね。でもそうじゃない女もいるわけであって、オトコがなりたいオンナと本当のオンナは違うわけで・・・えーっと、わけわかんなくなっちゃった。

ウォンバット:私は、この作品とても好き。今日のイチオシ。藤野さんと私って、きっと同じようなものを読んだり聴いたりして大きくなったんじゃないかと思うな。年も近いし。まず思い出したのは、吉田秋生の漫画『河よりも長くゆるやかに』(小学館PF ビッグコミックス)。この漫画大好きなんだけど、ここに流れてる空気と共通のものを感じました。いろいろ悩みや問題があることはあるんだけど、全体としては、たらたらとした楽しい高校生活っていう感じでね。藤野さんが、この漫画を読んでるに違いない! と思ったのは、登場人物の名前なんだけど『少年と少女のポルカ』と『河よりも長くゆるやかに』では、クボタトシヒコと能代季邦(トシクニ、トシちゃん)、ヤマダアキオと神田秋男、タニガワミユキと久保田深雪というふうに、かぶってる。それが偶然とは思えなかったんですね。あと大島弓子も好きだと思うな。「漫画の猫みたいだな」っていうのは、『綿の国星』のことじゃない? ヤマダは『つるばらつるばら』を思い出させるし、『午後の時間割』は、『秋日子かく語りき』とか『あまのかぐやま』を連想して、久しぶりに大島弓子、読み返しちゃった。で、私がとりわけいいなあと思うのは、「トシヒコは13歳のときに、自分がホモだということで悩まないと決めた」というところ。このふっきれ方がいい。社会の中で、自分が少数派になる局面っていろいろあるでしょ。とくに学校では、他者と違っていてはいけないことが多いから、少数派になってしまうと暮らしにくくなる。でもそれは価値観の違いであって、絶対的なものではないんだよね。そういうことで悩んでる子には、彼らの対処の仕方がとっても参考になると思うな。

愁童:ぼくは、どうも肌があわなかった。小説としてはおもしろいけど、共感はもてないね。やっぱり生活感がないのはダメと言われて育った世代だからね。知識人の大人が、今の子どもの風俗をうまく料理したという感じがしちゃって。『トゥインクル』と同根異種だと思うな。まあ、生活感がないのが今の生活といわれれば、それまでなんだけど。

ひるね:私も、この作品が今日のイチオシ。ゲイがでてくる物語っていろいろあるけど、身近な人がゲイでっていうパターンが多いでしょ、クレージー・バニラ』みたいに。主人公がゲイというのは、珍しいわね。事実から出発して背筋をのばして、つっぱりもせず、卑下もせず、淡々としてるとこがいいと思う。出来事に対して一直線に怒ったり、悩んだりしてなくて、ちょっとズレてる。そのズレ幅が、余裕というかユーモアになってる。まあ、現実には、学校はこんなに寛大じゃないと思うけど。ヤマダのお父さんが、女っぽくなってきたヤマダに「グロテスクだな」っていうんだけど、どんなカッコしてたって息子は息子なんだから、お父さんのとるべき態度はそれでいいんだよって応援したくなる。でも、ヤマダとかトシヒコみたいな人って、少なくないのよ。表面化してないだけで。彼らより、電車に乗れないミカコの方が深刻だと思うな。未来も全然明るくないものね。ミカコとトシヒコのつきあい方も、自然でこういうのもあるんだろうなと思った。『午後の時間割』もおもしろかったわ。

オカリナ:私、作家について何も知らないで読んだから、最初女の人が書いてるのかと思って、きれいにまとめすぎてるなって思ったの。でも、実際にいろいろ体験してる人だったら、逆にどろどろしたところは書かないだろうなって、思い直した。生きにくい子って今たくさんいると思うけど、この作品の中の彼らはうまくかわしながら生きてるとこがおシャレで、心地よく読みました。悩むのをやめたってふっきれてるところからスタートしてるというか、どろどろ悩んでいるところを、わざと書いてないのよね。でも、『午後の時間割』の方は、同人誌に、載ってそうな作品ですね。

:私は、受け入れられないとこもある反面、すっごくわかるっていうとこもあった。でも、ある種反発があって、肯定的にはなれないな。『午後の時間割』の方が「わかるっ」という感じだったんだけど、高校生の頃の嫌だった自分を思い出してつらくなった。なんか葛藤があって。すごくかきまわされた感じ。わかりすぎる小道具が迫ってきちゃってね。

ねねこ:作りものといえば作りものなんだけど、私はなんだかとても励まされた。日本の文学って、正攻法で戦いすぎて、湿気るか、乾きすぎかのどちらかになりがちだけど、こういうやり方もあるんだなあと思った。おだやかなエールというのかな。あれっ作りすぎ? と思うことでも、許せちゃう潔さというか、性格の良さが感じられた。こまごましたことを具体的に書きこんでるんだけど、それで遊べる楽しさもあるし。小説が現実の乗り越え方を、提示している一つの例だと思った。

愁童:でも、べつに、これを小説でやる必要はなかったんじゃない?

ねねこ:これはこれで、漫画ではできない、小説ならではの空気感だと思うけどな。純文学の人が「これは風俗に流されてる」ってよくいうけど、この作品は、そんな風俗的なものでもないと思う。そもそも「風俗に流される」ってどういうことなのか、私はよくわからないんだけど。

モモンガ:ねね、みなさんおっしゃらなかったけど、「本校開闢以来の伝統」っていうところおかしくなかった? 私、げらげら笑っちゃった。

一同:私もー。

モモンガ:この作品、そういうユーモアもきいててとってもいいけど、タイトルはよくないわね。どうしてこんなタイトルにしたのかな。若い子は手にとりそうにないよね。

(2000年06月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


一人っ子たちのつぶやき

陳丹燕『一人っ子たちのつぶやき』
『一人っ子たちのつぶやき』
陳丹燕/著 中由美子/訳
てらいんく
1999.05

愁童:まだ3分の1しか読めてないんだけど、中国のひとりっ子政策のことがよくわかった。でも、子どもに読ませる文学作品としては、おもしろくないね。「こういう体制にすれば、こうなるんですよ」っていう基本法則を見せられているみたい。

ひるね:私も途中で挫折。社会学的に読めば、おもしろいんでしょうけど。

オカリナ:私も2日前に入手したばかりで、全部は読めなかったんだけど、ショッキングだった。社会体制が変わると、人間ってこんなに変わっちゃうものなのね。中国って、あれだけの大勢の人がいるのにね。でも、この文章、ちょっと読みにくいね。この訳者は、もっと文章うまかったと思ったけど。

N:陳丹燕はラジオのDJをやってるんだけど、この本はリスナーの子どもたちが、番組あてに送った、親にも先生にも友人にもいえない悩みを綴った手紙をもとに、取材をしてまとめたものなの。実際の手紙そのものではなくて、それに手を加えてるから、正確にはノンフィクションではなくて、フィクションなんだけど。中国は外側からの報道しかされていない国だから、内側からの声がストレートに聞こえるこの本の登場は、とてもセンセーショナルだった。ここに出てくるのは、ものわかりがよすぎて、子どもらしくない、いい子たちばかり。彼らが、親の期待におしつぶされそうになってる姿が、浮かびあがってくる。

オカリナ:もう異星人かと思っちゃった。子どもと親との間には、絶対的な境界線があるんだよね。どうしてこんなふうになっちゃうのか、謎ですね。

:でも、今まで中国ではいじめってそんなに陰湿ではなかったのに、このごろでは陰湿になってきてるんですってよ。やっぱりストレスはものすごいんじゃない?

オカリナ:日本の子どもが、こんなに管理された環境におかれたら、すぐキレちゃうよね。ひと昔前にキレなかった人は、今アダルトチルドレンになってるって話だけど。

愁童:日本は戦争に負けたところでぷつっと切れてて、そこから50年でしょ。韓国や中国は、敗戦でとぎれることなく儒教の教えがずっと続いているから、子どもたちのストレスは、日本以上なんじゃないかな。

ひるね:あえてフィクションにしたというのは、社会的思惑かしら。

N:そういうわけではないと思う。作者がもともとルポライターだからじゃない?

:私は、これを出版した彼女に感動しました。中華民族のスケールの大きさが感じられる。今の時代に、こういう仕事をしようとするのがデカい。1冊の本として、子どもにどうのというのは、最初から度外視してるし、未完成だし、荒削りだけど、今の中国の真の姿を知りたいという人にはとても価値のある作品。読んでてつらくなっちゃうんだけど。

オカリナ:いろんな人の声を集めるというのは、ほかの国でもやってることだけど、やっぱり中国では、やりにくいのかな?

:それはあると思う。字の読めない人だっていっぱいいるわけだし。全中華民族が視野に入ってるって、スゴイことだよ。

ねねこ:やっぱりこれって、手紙100編くらいあったほうがいいのかな?

流&N:多すぎるよねー!

:文体が同じだから、飽きちゃう。

ねねこ:編集上のひと工夫が必要だったかもね。

:でも、中国って、一人きりの子どもをすごく大事にしてて親は肉も食べないっていうの、よくあるのよ、ほんとに。日本でも過保護にしてる親ってたくさんいるけど、それは個人が好きでやってるわけであって、中国は国家政策としてやってるんだからねえ。そういう事実を書いたってだけでも、やっぱりすごいことよね。

N:中国では日本に遅れること20年、今年はじめて金属バット事件がおきたの。1978年にはじまった「ひとりっ子政策」も、2003年にはやめるらしいし、これからどうなっちゃうんだろうね。高学歴の人ほど子どもが少ないしね。

愁童:ひとりっ子が親になったときがコワイよ。

ねねこ:そうだよね。ひとりっ子が大人になって、どういう親になれるかっていうのが、この国にとってこれからの問題でしょうね。

(2000年06月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)