日付 2014年12月18日
参加者 レン、きゃべつ、オカリナ、アンヌ、レジーナ、ルパン、パピルス、ジラフ、紙魚
テーマ 図書館からはじまる

読んだ本:

『とびらをあければ魔法の時間』
朽木祥/作 高橋和枝/絵
ポプラ社
2009

版元語録:「すずめいろどき」って、知ってますか? 日ぐれまえの、空気までちがってくるような、ふしぎな時間。いつもの道、いつもの町のはずなのに、どこかがちがう…… かなしいことや、おちこむことがあったときでも、すずめいろの魔法の時間には、心がわくわくおどりだすような、すてきなことがおきるんですよ――
『図書館の神様』
瀬尾まいこ/著
ちくま文庫
2009

版元語録:思い描いていた未来をあきらめて赴任した高校で、驚いたことに“私”は文芸部の顧問になった。……「垣内君って、どうして文芸部なの?」「文学が好きだからです」「まさか」!……清く正しくまっすぐな青春を送ってきた“私“には、思いがけないことばかり。不思議な出会いから、傷ついた心を回復していく再生の物語。
マークース・ズーサック『本泥棒』
『本泥棒』
原題:THE BOOK THIEF by Markus Zusak
マークース・ズーサック/著 入江真佐子/訳
早川書房
2007.07

版元語録:わたしは死神。自己紹介はさして必要ではない。好むと好まざるとにかかわらず、いつの日か、あなたの魂はわたしの腕にゆだねられることになるのだから。これからあなたに聞かせる話は、ナチス政権下のドイツの小さな町に暮らす少女リーゼルの物語だ。彼女は一風変わった里親と暮らし、隣の少年と友情をはぐくみ、匿ったユダヤ人青年と心を通わせることになる。リーゼルが抵抗できないもの、それは書物の魅力だった。墓地で、焚書の山から、町長の書斎から、リーゼルは書物を盗み、書物をよりどころとして自身の世界を変えていくのだった……。『アンネの日記』+『スローターハウス5』と評され、アメリカ、イギリス、オーストラリアなどで異例のベストセラーを記録した、新たな物語文学の傑作。


とびらをあければ魔法の時間

『とびらをあければ魔法の時間』
朽木祥/作 高橋和枝/絵
ポプラ社
2009

版元語録:「すずめいろどき」って、知ってますか? 日ぐれまえの、空気までちがってくるような、ふしぎな時間。いつもの道、いつもの町のはずなのに、どこかがちがう…… かなしいことや、おちこむことがあったときでも、すずめいろの魔法の時間には、心がわくわくおどりだすような、すてきなことがおきるんですよ――

アンヌ:花柄模様の陶器の犬が出てきたので、『とびらをあけるメアリーポピンズ』(P.L.トラヴァース作 林容吉訳 岩波少年文庫)の「王さまを見たネコ」を思い出し、きっと、この犬もきっと動きだすぞとわくわくしながら読み始めました。思ったとおり、クッキーの甘さにほっとできるような別世界が開く物語でした。ただ、もう少し物語の展開をのんびりしてもらいたかったような気もしました。本の中から出てくるのが、動物とお菓子。これを1日にしないで、動物の日、お菓子の日、音楽の日、で、もう1度音楽、くらいな流れはどうだろうと考えてみたりしました。でも、3回もサボったら、先生から電話がかかって、レッスンをさぼっているのがばれるから、2回が限度かもしれませんね。こんな風にあれこれ構成を考えてしまったので、他の作品を読んでみたくなり、『あひるの手紙』(朽木祥作 ささめやゆき絵 佼成出版社)を読んでみたら、これもおもしろく、見事な構成の作品でした。

レジーナ:おもしろく読みました。子どもの時に出会っていても、きっと楽しく読めた本です。ファンタジーの場合、世界を作り過ぎる作家もいますが、そうではなく、曖昧なままで終わるのが見事ですね。

レン:すいすい読めました。おもしろいけれど、どこか既視感がある感じ。賢治の『注文の多い料理店』と似ているかな。ピアノ教師の知り合いの話を聞くと、この主人公みたいに、まじめに練習しているのにできなくて追いつめられるような子は少なそうなので、書きだしのところでどこまで今の子が物語にのってくるかなというのは、ちょっと思いました。

きゃべつ:こういうふんわりとしたお話をどう読めばいいのかわからなくて、読んでいて、気になるところがずいぶんと出てきてしまいました。まず、気になったのが、情報が後出しじゃんけんになっているところです。最初に、音楽の練習に行きたくないという話が出てくるけれど、次のページをめくって絵を見るまで、主人公がなんの楽器をやっているのかがわからず、とまどってしまいました。「メヌエット」という言葉だけで、バイオリンとわかる人が多いのでしょうか。「谷戸」や「☆のように急がず」という言葉に、注訳が入っているのも気になりました。主人公がこの言葉を理解できていないのに、読者だけがわかるだなんて、へんな気もします。あと、「鳥ノ井驛」も旧字をすんなり読んでいたりして、そういったところに、作者の存在を感じてしまいました。この物語で不思議なのは、人が出てこないところで、たとえばすずめいろ堂にはじめて入るとき、他人の家に入るのに、主人公は住んでいる人の姿を熱心に探しません。そして、勝手に人の本を手に取ってしまう。なぜ、そこには本しかないのか、なんのために存在する場所なのか、など気になることはたくさんあります。たとえばそこにおじいさんでもいたら、そのあたり違和感なく、また注釈での説明を必要とせず、伝えられたのではと感じました。
この作品がいいのは、「すずめいろどき」という言葉(概念)を使っているところだと思います。でも、すずめいろいろどきってどんなだろう、ってうまくイメージができなくて、そのせいか、世界にひたることができませんでした。すずめいろどきのあいだだけの魔法というのが魅力的なのに、最後のところで主人公が「営業時間をのばしてくれるかも」と安易に言っているのが、少し興ざめでした。あと、小見出し、2行取りで鳥が2羽以上いるのは、窮屈な感じがすると思いました。でも、高橋和枝さんの絵は、やっぱり素敵ですね。とてもよかったです。

オカリナ:この本屋さんは異空間なので、現実的でないところがあってもいいんじゃないかな。かえってその方が、異空間にさまよいこんだ感じが出るので、著者はきっと敢えてそうしているのではないかと思います。人が出てきたりしたら、リアルな日常空間になってしまいそうです。子どもって、どうしていいかわからなくなったとき、自分で視点を変えることってなかなかできない。それが、本という異世界で別の視点を獲得すると、何か見えてくる。そんなことをこの本から感じました。

レン:あさのあつこさんの『いえでででんしゃ』(佐藤真紀子絵 新日本出版社)も思い出しました。いやなことがあって家出したあと、おかしな人といっぱい会って、そこから戻ってくる。ストレスをかわすのに、こういうお話はいろいろあっていいのかもしれないですね。

オカリナ:この作者の方は、研究などもしておいでだったようなので、谷戸などにもちゃんとわかるように注が入ってるんですね。

ジラフ:楽しかったはずの習いごとがいやになって、でも、「自分で(楽器が)ひけたら、どんなにうれしいだろう」という、習い始めの楽しかった気持ちを思い出すまでのことが、とてもうまく書かれていると思いました。見知らぬ駅が、不思議な異空間への入り口になっているのもよかったです。ただ、このファンタジーの背景になっている「すずめいろどき」という時間が、具体的にどういう時間なのかイメージできなかったので、最後まで霞がかった感じがぬぐえなくて、そのことはずっとひっかかりました。「すずめいろどき」という言葉に、私はこの本で初めて出会いましたけど、どこかの地域の言葉なんでしょうか。

オカリナ:空の色ではなく、暮れなずんできたときの街並みがすずめの色みたいに見えるんでしょうか?

レン:スズメの色を、あらためて見てしまいますね。

アンヌ:こうやって本を読んだ後に、ある時ふと黄昏に、「ああ、これが『すずめいろどき』なのか」と思ったりする楽しみがありますよね。

紙魚:朽木さんの本なので、もしや教養がぎっしりつまっている物語なのかしらと思いながら読み始めたところ、いえいえ、とってもおもしろくて、物語の中にどんどん入っていくことができました。感銘を受けたのは、音楽という、文章で表現するのがもっとも難しいものが、まるで自然と音がきこえてくるかのように表現されていたことです。ふだん私たちは音楽を、美術など芸術の範疇のなかで語りがちですが、朽木さんは、そこから見事に解放されて、音楽をおかしや動物との対比によって表現している。そうか、音楽って、好きなもの、楽しいものという範疇の中に入れて、こんなふうに表現すればよかったのかと、すがすがしく感じました。

ルパン:既視感があるお話なのだけど、不思議とそこがよかった気がします。子どもの本の王道、という感じですよね。斜に構えていないところがとても好感がもてました。大傑作ではないけれど、珠玉の佳作というか、くせも気取りもなくて、読み終わったあと幸福感があって、とてもいいと思いました。

オカリナ:読者対象を考えると、あまりひねっても仕方がないですもんね。

ルパン:「お約束どおり」にストーリーが進んでいく安心感が得られます。「平凡」なのではなく、「安心感」。おさまるべきところにすとんとおさまるうれしさ、みたいなものがありました。

紙魚:p84に、「そうだった。ずっとわすれていたけど、わたしもまえはそう思っていたのだ。大すきな音楽を、きくだけじゃなくて、自分でひけたらどんなにうれしいだろうって。」という文章がありますが、この本をずっと読み進めて、ここにたどりついた時、本当に心がふわっとして、私まで、ああそうだったという気持ちになれたんです。おそらく作者は、この境地を描きたかったのではないでしょうか。私も子どもの頃ピアノを習っていたのでわかるような気もするのですが、子どもの時って、どんなにピアノが好きでも練習はいやだし、うまくなろうと地道に練習しようと考えたりもしないんですよね。でも、お稽古をやめるときかれれば、やめたいわけでもない。小さい時って、先のことを考えずに、そのつど今を生きていますから。ただ、ふと「そうだった」と思う時もやっぱりあったりするんです。このあたりのことが、なんとも自然に描かれていて、すごいなあと思いました。

ルパン:最後のところで、ピアノを始めたばかりの頃の気持ちにもどるところ、「そう、そのせりふを待っていたの」と言いたくなりました。このお話のすべては、そのひとことに至るまでの道だったんだね、という、いい意味での予定調和ですよね。結末はわかっているのだけど、そこまでのプロセスがちっとも飽きさせなくて。

オカリナ:お話の長さもちょうどいいですね。これ以上長くなると、冗長になります。

パピルス:主人公の女の子の気持ちがよく伝わり、おもしろく読みました。高橋さんのイラストも可愛く文章とぴったりで、お話の世界に自然に入り込めました。年末は仕事だったり家庭のことで忙しくて落ち着いて読書ができないのですが、時間があるときに再度ゆっくり読みたいと思いました。主人公の女の子が本から「文字」を通してメッセージを受け取るのではなく、本を開くとクッキーが出てきたり、音楽が流れてきたりして、それらがメッセージとなって女の子に伝わるという設定に感心しました。対象読者である小学校低・中学年の子に、本を読む楽しさがわかりやすく伝わるなと思いました。

きゃべつ:あっ、今調べてみてわかりましたが、「すずめいろどき」ってほんとにあるんですね。たそがれどき、夕暮れどきのことを言うようです。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年12月の記録)


図書館の神様

『図書館の神様』
瀬尾まいこ/著
ちくま文庫
2009

版元語録:思い描いていた未来をあきらめて赴任した高校で、驚いたことに“私”は文芸部の顧問になった。……「垣内君って、どうして文芸部なの?」「文学が好きだからです」「まさか」!……清く正しくまっすぐな青春を送ってきた“私“には、思いがけないことばかり。不思議な出会いから、傷ついた心を回復していく再生の物語。

きゃべつ:瀬尾さんは好きな作家です。瀬尾さんの作品では、いつも主人公が、自殺したくなったり、恋人が死んでしまったり、どん底の状況になることが多いですよね。でも、生老病死は避けられないけれど、だからといって救いがないわけではないということを、いつも全力で言っていて、そういうところが児童書らしいなと思います。この作品でも、最後のところで、救われる場所や人はちゃんといる、ということを書いていますよね。作品の根が明るいところが、森絵都さんの作品に通じている気がします。

オカリナ:私、この本のよい読者ではなく、身につまされるところがあってそこを中心に読んでしまいました。この主人公は本嫌いなんですね。で、私も今、本嫌いの人たちと付き合わなければならない立場にいるのです。だから本嫌いの人って、そうか、こんなふうに思うのか、こんな反応をするのか、だったら、こっちはどうすればいいのかな、なんて考えながら読んでしまいました。

きゃべつ:瀬尾さんは、たしか司書さんでいらっしゃいますものね。もしかしたら、そういった読書嫌いの子と日々向かい合っているのかも知れません。

オカリナ:読後感のいい小説ですね。

アンヌ:頭痛を逃れるためにスポーツに打ち込むという設定には、じんましんの痒さを逃れるためにスポーツを始めたと言っていた人がいたので、リアリティを感じました。ただ、ここまで本を読まない国語の先生なんているはずがないと思ったのですが。

一同:いっぱいいるんじゃないでしょうか。

アンヌ:垣内君が、高校生にしてはできすぎているようで。夜中に電話をしても怒らないし、なんだか主人公のことを、呆れながらも見守ってくれている老紳士のようでした。弟も心配して5年間毎週のように様子を見に来てくれているし、3人の男性に守られて時間とともに更生していく話と感じました。ただ、夏目漱石の『夢十夜』をとても怖がりながら読んだり、授業で生徒たちと語り合ったり、生徒の書く物語を読む場面は好きでした。先生には、こんな楽しみもあるんだなと思いました。

ジラフ:この作家は好きで、わりとよく読んでます。自殺未遂だとか、この作品もそうですけど、何かつらいことがあって、水の中でじっと息を潜めているみたいにやり過ごしている時間のことがよく書かれていて、読み終わった後にある種のカタルシス、清々しさを感じます。淡々としていて、地味な作品が多いのに、この読後感にもっていけるのは、作者に力があるんだと思います。主人公が恢復していく場所が、この作品では図書室で、ここで「袖振り合う」というくらいの淡い出会いがあって、でも、たがいに必要以上に深くは踏み込まないで、また別れていく。そのあっさり加減がいいんです。でも、「袖振り合うも多生の縁」で、やっぱりそれはかけがえのない、再生に不可欠な、ひとつの出会いのかたちなんだと思います。

レジーナ:さらっと読みました。主人公はバレーに一生懸命で、正論を語りますが、正しさというのはひとりよがりになることがあるし、人を追い詰めることもありますね。特に悩みを抱えた人は、正しさを求めているわけではなく、自分の気持ちを受け止めてもらいたいだけだったりしますよね。でも高校時代の主人公には、それがわからなかった。不倫についても、相手に嘘をついてないから裏切ってないかというと、そうではないように、人間関係や人生には白黒つけられない部分があって、この作品はそこを描いているのだと思いました。浅見さんは自分の教え方に問題があるから、生徒が料理教室をやめていくことにも気づいていません。子どものような大人ですね。魅力が感じられませんでした。主人公と垣内君が、日本十進法から教科別に、本の並びを変える場面があります。一時、赤木かん子さんの提唱で、すべての本を内容別に並べる学校が増えました。しかし非常に使いにくく、今、困っている学校がたくさんあります。特定の主題にくくれる本ばかりではないですし、ひとりの担当者の考えでその本の主題を決めても、どう分類したのか、後から配属された人にはわかりません。p122(※単行本)に、10年以上寝たきりだったおばあさんがサナトリウムに入ったとありますが、ホスピスではないでしょうか。今の時代、結核患者のサナトリウムはあまり見かけませんが。

レン:さらっと読みました。大人の童話だなと思いました。高校生も読んでると思うけれど、大人が懐かしんでいる感じがして。主人公は社会人になってもまだ自分探しをしていて、大人になりきれない大人が、中高校生に寄りかかる。そういうのを私は、積極的に中高校生にあまり勧めたくないなあと。親が子に不満をぶつけるとか、高校生に頼ってしまうという状況がいやなんです。

紙魚:私も大いにそう思います!

レン:大人に守られるべき18歳以下の子にもたれるというのは逆だろうと。

オカリナ:この主人公は浅見さんには寄りかかっているけど、垣内君には寄りかかってないと思う。不満をぶつけたり、悩みを打ち明けたりはしていないから。

レン: 最終的に主人公は救いを見いだすし、読者も希望を抱けるのかなと、みなさんの話を聞いているうちに少し思えてきたけれど、それでも、大人の童話かな。

オカリナ:いや、この主人公もまだ大人にはなってないんじゃないかな。20歳で自動的に大人になれるわけじゃないから。垣内君は、何か問題を抱えていそうな主人公にやさしいけど、それだけで、別に負担に感じたりはしていない。一定の距離をおいて対応しているんだと思うな。

紙魚:物語の印象が非常に軽やかでふわふわしていて、やや頼りない文体、あいまいな人物設定には、個人的には信頼しがたいなと感じてしまいました。自殺とか、不倫とか、病とか、通常、ごくごく気をつけて扱うべき事柄を、あっさりと書いてしまうことにも、ちょっと違和感を持ちます。でも、もしかしたらそれも、作者の意図なのかもしれません。というのも、この小説には、深刻さの押し売りがなかったなと。読み進めるにしたがってだんだんと、登場人物の事情がちらっと見えてきたり、人がどう本から影響を受け変わっていくかということが伝わってきたり。人間関係はすごくやっかいでめんどくさいことは、もちろん作者だって承知のうえで、でもそれを最初から書かず、解像度が低い景色から、だんだんと識別可能な精密さへ持っていこうとしているのかなとも思います。ただ、正直なところ、この主人公はあんまり好きになれなかったです。大人とは思えなくて。
オカリナ:主人公は垣内君に頼ってはいないですよね。

紙魚:確かに、頼っているわけではないんですよね。このような大人と少年の関係性は、山田詠美の初期の作品などにもちょっと似ている感じがあります。

きゃべつ:先ほど、森絵都さんの『ラン』(角川文庫)と作品が似ているという指摘がありましたが、たしかに『ラン』の主人公も22歳で、児童書の主人公になる年齢ではないし、子どもでいていい年齢でもないと思います。ただ、肌感覚として、社会人1、2年目って、ほんとうにぐらぐらしていて子どもだし、森さんにしても、瀬尾さんにしても、大人として描いていないのではないでしょうか。このお話のユニークなところは、文芸部の顧問と生徒だったら、顧問が詳しくて、生徒がやる気ないのがふつうだけれど、それが真逆なところですよね。立場が逆転しているからこそ、先生と生徒という関係性でも、対等でいられるのではないのかなと。だから、精神的に依存しているわけではないのだと思います。たしかにその軽重を理解せずに、安易に生老病死を扱ってはいけないですよね。そのことは、新人賞の選考会でもよく話題になりますが、瀬尾さんの場合は、その重みはよくよく分かっていて、わざと問題そのものを真っ正面から描かず、回復していく心に焦点をあてているのではないかなと思います。生老病死に苦しむ気持ちは読者の内側にあるから、それを借景にして、そこから先を書く、というような……。

パピルス:読みやすくてパッと読むことができましたが、特におもしろいとは思いませんでした。人物描写が薄っぺらいというか、例えば、最初に不倫相手が出てきたときの会話では、「不倫相手」(男性)と会話してるというのがわかりませんでした。同性との会話か、ファンタジーみたいに人間じゃない生き物と会話をしてるのかな? って思ってしまいました。主人公は過去に傷があり、再生していく物語であると帯で謳われていました。その傷というのが同級生の自殺でした。傷を表現するためにとってつけたように死を持ってきたような印象を受けました。

ルパン:これ、半分くらい読んだところで、ようやく「前にも読んだことある!」って気がつきました。

オカリナ:印象が薄い本なのかしら。

ルパン:エンタメとして読んじゃいました。同級生の死に責任を感じている、っていう設定なのに、いまひとつ「重さ」が伝わってきません。国語の教師が、高校生に触発されて本を読み出す、というのも、まじめに考えたらちょっと……。とりあえずおもしろかったけど、マンガみたいな感じでさらっと読んじゃったからだろうな、と思います。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年12月の記録)


本泥棒

マークース・ズーサック『本泥棒』
『本泥棒』
原題:THE BOOK THIEF by Markus Zusak
マークース・ズーサック/著 入江真佐子/訳
早川書房
2007.07

版元語録:わたしは死神。自己紹介はさして必要ではない。好むと好まざるとにかかわらず、いつの日か、あなたの魂はわたしの腕にゆだねられることになるのだから。これからあなたに聞かせる話は、ナチス政権下のドイツの小さな町に暮らす少女リーゼルの物語だ。彼女は一風変わった里親と暮らし、隣の少年と友情をはぐくみ、匿ったユダヤ人青年と心を通わせることになる。リーゼルが抵抗できないもの、それは書物の魅力だった。墓地で、焚書の山から、町長の書斎から、リーゼルは書物を盗み、書物をよりどころとして自身の世界を変えていくのだった……。『アンネの日記』+『スローターハウス5』と評され、アメリカ、イギリス、オーストラリアなどで異例のベストセラーを記録した、新たな物語文学の傑作。

ジラフ:とにかく文体が新鮮で、語り口が魅力的でした。ナチス政権下のドイツっていうシチュエーションで、こういう女の子が主人公の話は、ほかにもあるかもしれないし、あり得ると思うんですけど、作者がノートに自由に書きつけていったみたいな、みずみずしいアプローチにぐいぐい引かれて、読み進んでいく感じです。訳者のあとがきによると、最初は100ページくらいの、もっと短い話を書くつもりが、ナチス時代のドイツというシチュエーションを得たことで、物語がふくらんで、こんなに長くなってしまったそうです。登場人物の心象風景がすごくビビッドに伝わってくる表現もいっぱいあって、それは、物語の展開を、語り部の死神が「上から」見ているせいかもしれません。

アンヌ:とても読みづらく、苦戦しました。特にプロローグ。死神のモノローグで始まるので、SFなのかと思ったりしました。その後も、まさか語り手として死神がずっといるとは思わなかったので、なかなか物語の中に入り込めませんでした。死神というものが、神なのか神のしもべなのか、よくわからないせいかもしれません。いきなり、かくまわれているユダヤ人の青年が絵本を書き、それがそのまま文中に出てくるのも斬新でした。主人公のリーゼルが本を読むことを覚え、やがては防空壕の中や隣家のおばさんに朗読するようになる物語には感動しました。養父母が実は優しい人だとわかってくるとホッとしました。特に、お父さんがとても魅力的でした。飢えている人にパンを与えずにいられないとい人。けれど、それが、罰せられる社会に震撼しました。ヒトラー・ユーゲントについて書かれていることも衝撃的で、このように、与えられた言葉を唱えることの方が重要だという教育を受けると、自分でものを考えない大人になっていく、自分で物事を判断しない、ただの兵士が出来上がるのだなという怖さを感じました。

パピルス:読みにくい本でした。中盤までは一文一文読んでいたのですが、後半は斜め読みをしてしまいました。ちゃんと読めていなくて消化不足なので、あれこれいうのは気が引けますが。まずは文体が特徴的でした。短文でパッパと展開していく印象を受けました。死神の視点で物語が進んでいくというのがおもしろいと思いました。主人公が預けられた家の人たちは、最初は冷酷な人たちに思え、主人公には悲惨な日々が待ち受けていると思われました。ツライ物語かと。が、実は皆良い人だったので安心しました。予想も裏切られておもしろかったです。本を通して主人公が文字を覚えていくところが好きな部分です。ナチス政権下に生きる人々を描いた作品では、『ベルリン1933 』(クラウス・コルドン著 酒寄進一訳 理論社)を読みました。コルドンの作品では、時代背景の描写がもっとしっかりしていてよく伝わり、その時代に懸命に生きた人々の姿が鮮明に描かれていました。なぜ「ナチス政権下のドイツ」をテーマにしたのかがわかりました。ちゃんと読んでないので間違っているかもしれませんが、今回の作品は「皆さんご存知の絶対悪のナチスや、皆さんご存知の絶対悪のヒトラーが」というように、小説を書くための単なる要素の一つとしてナチスを扱っているような印象を受けました。

オカリナ:ここ10年でいろいろ読んだ中で、私はこれがいちばんといっていいほどおもしろかった。死神とあるけど、英語では大文字のDeathでしょうね。日本語では神となっているけど、一神教の場合は神のほうが位が上。だから、別に矛盾はないと思います。それから、ナチスはドイツでも絶対悪というふうには捉えられていないと思います。悪魔のしわざではなく普通の人がああいうことをする流れになっていったのが怖いのです。この作品も、そのあたりをうまく書いています。生と死、愛と別れ、狂気と正気、そういうものをとてもうまく書いている。そして死神にも個性や情をもたせているのもうまい。この作品は言葉の問題も扱っていますが、ヒットラーの言葉と、庶民がつながっていく言葉が別種のものだということがわかる。それから、登場人物の一人一人がとても個性的で、ちょっとしたことから性格やその人の世界観がわかるようになっています。一つ気になったのは、小見出し(死神の言葉)の扱い方。原書でセンター合わせになっているからといって、日本語でもセンター合わせにしたら読みにくい。あんまり考えないで編集してますね。

紙魚:これはきっと、原書がそうなっていたんでしょうね。横書きだとセンター合わせでよいでしょうが、縦書きでこうするのは間違いだと思います。

オカリナ:人物像もそれぞれがくっきり現れてきます。養母も悪態ついてるけど、実はいい人だというのも読んでいるとわかってきます。ヒトラーの言葉と、ふつうの人がつながっていく言葉はちがう、と書かれている部分なんかも深いです。リーゼルの父親への愛情も心を打ちます。だから死神もリーゼルを特別扱いするんですね。

ルパン:すみません、まだ途中までしか読んでいないんですど、出だしのところから、「死神が語っている」という設定が子どもにわかるのかなあ、と思いました。あと、各章のはじめに見出し? みたいなものがあるのですが、これがわかりにくかったです。ストーリーの先取りのようですが、じゃまをして話の世界にどっぷりつかれないように思います。

オカリナ:ここは必要だと思いますけど、訳が不十分なので、有機的につながっていないんじゃないでしょうか。

紙魚:そもそもは一般書だったのに、アメリカでヤングアダルトとして刊行したらすごく売れたという話を聞いて気になっていたので、じつは映画を観てしまっていました。なので、すでにあらすじが頭にあり、みなさんよりは読みづらくはなかったと思うのですが、それでもやはり難航しました。この本の印象は、読み手がどう死神とつきあうかで変わると思うのですが、本のつくりのせいなのか翻訳のせいなのか、どうも死神にうまく引っ張ってもらえなかったように思います。でもこの本は、死神を語り手にしたからこそ、時間も場所も自在に移動できたんですよね。好きだったのは、地下室でリーゼルが本を読む場面です。そのシーンが読みたくて、読み進められたといってもいいくらいでした。弟も死んでしまい、両親とも別れ、なにも持っていない女の子が、言葉を手に入れることで生きる力を得ていくということが書かれている物語です。ああ本っていいものだなあとあらためて素直に思えました。私も本の世界にたずさわる者として、なんだったら、盗んででも本を読んでほしいなあとさえ思いました。実際のところ、状況はまったく別ですが、もしかしたら将来、本の世界がやせ細り、読みたい本が読めない時が来てしまうかもしれないと、最近、危機感を抱くこともなくはないんです。

きゃべつ:売れる本だけをつくろうとすると、多様性が細っていくような気がするので、そうならないようにできればと思います。

紙魚:自由に好きな本が読める喜びを、本の中で感じました。途中、マックスの書いた寓話が入っていますが、あの部分、よいリズムを生み出していますよね。それにしても、アメリカでベストセラーになった本で話題性もあったというのに、なぜ日本では売れなかったんでしょうかねえ?

オカリナ:日本語版の体裁や、死神の台詞の部分が読みにくいですよね。私は、小見出しをとばし読みしました。私も映画をDVDで見ましたが、映画より本のほうがおもしろかったです。せっかくの内容なのに、編集の仕方で損をしてるのかもしれませんね。

ルパン:もし書店や図書館でプロローグだけ立ち読みしたら、そのまま棚に戻していたかもしれません。

アンヌ:字を太くして強調されると、逆に読みにくくなってしまうと思います。

オカリナ:英語で太い字になっている部分を機械的に太くしているのでしょう。もっと配慮した編集をしないと、いい本だって売れないですよね。もったいない。

きゃべつ:字を大きくしたりするのは、ハリーポッターから目立つようになった気がしますね。

ルパン:アスタリスクも気になります。内容はいいんですけどね。気に入っているのは町長の奥さんが「盗んででも本を読んでもらいたかったの」というところです。

レン:ごめんなさい。まだ3分の1くらいしか読めていないんです。おもしろいと言われたので、どこかですっと読みだせるだろうと期待してきたんですけれど、まだ入りこめていなくて。語り手が死神であることも、50ページくらい行ったところで、ソデの「わたしは死神。」というのを読んで初めてわかったのですが、それがわかっても、やっぱりなかなか進みませんでした。
 
レジーナ:数年前に読み、非常に心を動かされました。しかし、日本語が読みにくい部分もあるので、それを含めて考えたくて、この読書会で読みたいと思っていました。語り手は、人間らしい感情を持つ死神です。毎日のように空襲があり、収容所へ向かうユダヤ人の行進が町を通る時代です。どこにも希望が見出せず、死さえも救いとなるような状況は、いわば神なき世界であり、そうした中では、神は死神となるしかない。しかし、この死神は死をもたらすだけではなく、人間らしい生き方を貫いた者、他者への思いやりを持ち続けた者に目を留めます。言葉に生かされるリーゼル、死んでいく敵国人パイロットのそばにクマのぬいぐるみを置くルディ、ユダヤ人にパンを差し出す父親……。死神は、瓦礫の中に最後まで残る人間性を照射しているのです。リーゼルを支える周りの人々の描写が温かいですね。父親は、煙草を売って本を手に入れ、読むことを教え、出征の前には、「防空壕で本を読み続けるように」とリーゼルに言います。この時点では自分でもまだ気づいていないのでしょうが、リーゼルにとって物語がどれほど大切か、父親はちゃんとわかっているんですね。リーゼルを愛する母親やルディも、深い悲しみの中を生きるフラウ・ホルツアプフェルも、粗野で武骨で、文学に関心があるわけではありませんが、豊かなものを持っている人たちなのでしょう。

 この本には、人がいかに言葉に生かされるかが描かれています。一番心に残ったのは、リーゼルが、収容所に向かうユダヤ人の列の中にマックスを見つけ、「ほんとうにあなたなの?」「わたしが種をとったのは、あなたの頬からだったの?」とすがりつく場面です。マックスはリーゼルに物語を書き、リーゼルは、病気のマックスのために石や羽を拾っては、それにまつわる物語を聞かせます。そんなマックスが収容所に送られたことで、リーゼルは、言葉というものを信じられなくなったのではないでしょうか。人は嘘をつくし、上っ面だけの言葉を言うこともあります。マックスはどうしようもなく去っていくのですが、それでもリーゼルは、マックスを失って、世界は生きるに値しない、言葉で語るに値しない、言葉は役に立たないと感じたのではないでしょうか。

 私は4歳の時から毎日、日記を書いていますが、数年間どうしても書けなかった時期がありました。本当に絶望したとき、人は言葉を失い、自分のことを語れなくなります。リーゼルは、町長夫人の言葉をきっかけにして、悲しみを乗り越え、自らの物語を書きはじめました。長田弘さんの詩に、「ことばというのは、本当は、勇気のことだ。人生といえるものをじぶんから愛せるだけの」とあります。言葉は、世界や人生への信頼に根差したものなのだと思います。リーゼルという名は、ドイツ語の“lesen”(読む)という単語に少し似ています。言葉を渇望し、物語を愛した少女にふさわしい名前です。国際アンデルセン賞の受賞スピーチで、画家賞を受賞したホジェル・メロさんは、「言論の自由が奪われた時代に育ち、政府に好ましくないことを書いたために連れて行かれる人々を目にする中で、言葉がどれほど力を持つかを知った」と語っていました。言葉には大きな力があり、だから権力者は言葉を恐れて焚書を行う。ナチスは中身のない言葉やスローガンを植え付け、考えない国民を育てる。先月、『ベルリン』三部作を書いたクラウス・コルドン氏が来日しました。若い人に向けて歴史小説を書く意味についてお話され、「歴史的な出来事の真実を書きたい」とおっしゃっていました。真実を語ること、同時に、真実を語れる環境を守っていくことが必要ですよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年12月の記録)