オカリナ:ケケという3歳年下のライバルが出現して、その子との軋轢が話の中心になっていると思うんだけど、それだけじゃなくて、エピソードを積み重ねていくのは、今までと同じ手法ね。表現はうまいし、落としどころもあるし、最後もうまくまとめているし、ところどころに泣かせる配置もしている。巧い作家だなと思いました。最近YAばかり読んでいたせいか、そんなに強烈な印象はなかったけど、それはそれでいいんでしょうね。もしかしたら、1巻目や2巻目と比べるとインパクトが少し弱いのかな。挿絵は、シリーズの3冊とも別の画家だけど、並べて比べなければ違和感はなくて、イメージは統一されてると思いました。いずれにしても、角野さんは、どの巻でも独自の世界を展開してますね。

ねむりねずみ:次回に読む本のお知らせをもらったとき、「挿絵に注目」とあったけれど、すみません、1巻目も2巻目も読んでません。 第1作の映画しか見ていないけど、映画のイメージとつながるものは感じました。なんとなく、懐かしい世界で、普通なんだけど、ちょっと魔法があるというゆとりが懐かしくて心地よいのかなって、そんな感じがしました。魔法自体は、すごい魔法とかファンタジー系の魔法じゃなくって日常的だけど、ちょっとだけ外れている程度。ほうきで飛べるくらいのことで、それを周りが「それもあり」と認めちゃうところが心地よいのかな。おもしろかったです。後に何か大きなメッセージが残るというものでないけど、魅力的だけど決して強いばかりではない人間が、つい人と競ってしまったり、そんな自分を何とかしなくちゃと思いつつ、なかなか何とかできないみたいな感じはよくわかる。エピソードが積み重なるなかで、気持ちがうーっと鬱積してしまうあたりなんかよく書けてますよね。同じような経験をしている子が、そうなんだよね!と思って読むんでしょうね。

トチ:角野さんの作品が、この読書会でよく話題になる「似非英国ファンタジー」と違うのはどうしてなのか、と考えながら読みました。けっきょく、登場人物は欧米ファンタジーのキャラクターだとしても、借り物ではない角野さんの世界がきちんとできているからなのね。だから、安心して読めるんだと思う。

:「ブックバード」(IBBYの機関誌)のある記事で、角野さんの作品が多くの日本の魔女ものに見られる「似非英国ファンタジー」といっしょくたにされて書かれていたことがあって、ご本人はとても傷ついていたと聞きました。

紙魚:(イラストを見ると)とんぼさんなんかは、成長しているせいなのか、画家が違うせいなのか、巻によってずいぶん印象が違いますよね。編集者としては、逆に1冊ずつ変えようという意図があったのかもしれませんけど。

ねむりねずみ:「似非英国ファンタジー」が似非だと感じられてしまうのは、書きたいことと設定がちゃんとひとつにまとまっていないからだと思うんですよね。でもこの作品は、書きたいことがあって、それが、時計台のあるような舞台設定で行われているだけのことというくらいにちゃんと書けているから、似非という感じがしないんじゃないかな。

トチ:この作品は「大人」が書いているという気がする。年齢だけは大人でも、大人になりきれていない「少女」が、ファンタジーっぽい雰囲気を楽しむために書いているんじゃなくて。だいたい、子どもの本には「大人が(あるいは、おじいさんやおばあさんが)小さい子どもたちに語りきかせる」というエレメントがあるものね。エリナー・ファージョンやルーシー・ボストンにしても。

:角野さんは自分の少女時代、自分の子ども時代に向かって書いている気がする。自分の子ども観といったらいいかな。彼女のノスタルジーは、今の子どもにも通じる。天性のストーリーテラーだな、そのへんがうまいなと。メッセージも、最後に上手にまとめているし。

紙魚:1巻は、学生のときに、母親に「おもしろいわよ」と薦められて読んだんです。私の母は変わった人で、私が幼い頃、自分は空が飛べると言っていたんです。大人になればみんな空を飛べるようになると。「でも、外で空を飛んでいる人なんか見たことないよ」って疑ったら、「人に見られると飛べなくなるから、みんな見られないように気をつけてるのよ」と言われたりして。それで毎日、ある決まった時間に母が家からいなくなるんですね。少したつと、「空飛んできたわ」って縁側から帰ってくる。だからすっかり信じ切っていました。ある日、縁側の戸をがらっと開けたら、雨戸に張りついている母を発見。まあ、その時分にはそういう嘘もきちんとうけとめられるようになっていたので、ひとつの「物語」として私のなかに残りました。おそらく、母は私に「物語」を伝えたかったのではないかと思います。今では、本という形ではなくても「物語」は存在するんだなあと思います。そういうこともあったせいか、母は大学生だった私に『魔女の宅急便』を渡したんでしょう。母もストーリーテリングの能力があれば、こういうものを書きたかったんじゃないかなあと思います。角野さんのこの本に対しては、自分より年下の人のために、物語を紡ぎだす目線を感じましたね。ただうまいだけではなくて、成長を重ねる自分を確認する作業をきっちりしてきた方だと思うんです。しかもそれを物語につなぎ合わせ、ひとつの世界にしていくことができる人なのでは。だから、設定はファンタジーではあれ、エピソードの中で、私にもこんなことあったなあ、と感じられるんですね。こういう確認作業というのは、誰にでもできることではないですよね。キキの中にちゃんと血がかよった成長が感じられる。そもそも、フィクションというのは、ある意味、人を騙すことだとすれば、人を騙して楽しんでもらうのが好きでないと・・・。

:作者は、お母さんが早く亡くなったので、悲しみを紛らすために、いろいろなお話を作って、お友だちに話して聞かせては、欠落観を補っていたそうなのね。それで、嘘つきと言われたりもしたそうなんだけれど、そういうことが、作家になることを促したのかも知れないわね。

オカリナ:お父さんからしょっちゅう講談を聞いていたとか。

ウェンディ:1巻目を読んだときのことを懐かしく思いながら、キキも思春期になったのね、と感慨深く読みました。ケケというライバルが生活に入りこんできて、虚栄心とか張りあう気持ちが芽生えて・・・というあたりは、私も昔、意固地だなあと自分でも思いながら、どうにもならなかったときの気持ちが、ふとよみがえりました。

愁童:図書館に借りに行ったら、3巻目は36冊もあるのに全部借りられてて予約待ち。結局借りられなくて、読んでいません。2巻目を借りて読んだけど・・・。ハリ・ポタも未だに予約待ちだけど、借りてるのは大人がほとんど。直接子どもに手渡しての感触がつかめないって図書館司書が嘆いていたけど、こっちは、子ども自身が借りているんで、すごいなって思った。1巻、2巻と末広がりに読者が増えてるんじゃないの? アニメなんかの影響もあるだろうけど。

:これが英訳されたらどうかしらと考えてみたのね。訳はあるらしいけれど、出版はされていないの。このレベルでもちょっと厳しいのかな。重厚さが不足してるところなんかが・・・。まず、日本の日常現実世界がもっている骨組みはないですよね。メッセージ性が弱いのかしら。

トチ:マーガレット・マーヒーの、魔女とか英国ファンタジーのキャラクターが出てくる作品は、最初はニュージーランド独自のものが登場しないというので、ニュージーランドの出版社では出してもらえなかったのね。それがニューヨークで出したら大評判になり、たちまちインターナショナルな作家になったのよね。まあ、同じ英語圏なので、日本の作品を海外に紹介するのとは少し事情が違うかもしれないけれど。

オカリナ:日本の児童文学で外国で紹介されているものといったら、何があるのかな。『夏の庭』(湯元香樹実、ベネッセ)、『13歳の夏』(乙骨淑子、理論社)、末吉暁子、吉本ばなな、村上春樹、マンガ・・・、と見てくると、日本独自の世界を書いたものばかりではなくて、いわば無国籍的なものも多いわよね。うちの子は1巻目で好きになって、2巻目も読んだ。で、私が3巻目を読んでいたら、それも読みたがったの。日本的とか無国籍的だとかに関係なく、やっぱりそれだけの魅力があるんだと思う。何でもおもしろがる子じゃないのに。生活臭があったほうがいいのか、ないほうがいいのかは、いちがいに言えないんじゃないかな。

愁童:ハリー・ポッター現象を思うと、この本が読まれていることに、ホッとするね。もしかしたら意識して日本の生活臭をはずしたところで展開しているのかなあ。でも、これの1巻目が出た時は、とても新鮮な感じがしたね。

紙魚:キキはたしかにとてもいい子として描かれていて、今の世の中にはいない子かもしれない。それでも今の子も読みたくなるお話だとすれば、つまり純粋に楽しむために読んでいるとすれば、それもいいことだとは思いますが。

愁童:それだけ今の子どもたちの実生活が大変なんでしょう。大変なときは、角田光代さんの『学校の青空』(河出書房新社)のような陰々滅々としたのは、読みたくないだろうしねえ。

(2001年04月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)