ペガサス:かなり期待して読み始めました。最初のうちはリアリズムの話かと思っていたら、次々に変なことがおこって、だんだんウソっぽくなってきた。あとでこの本に関する作者のコメントを読んだら、「近未来」が舞台、と書いてあったけど、あまり近未来という感じもしないのよね。妙に昔っぽい情景などもあって。各章に、登場人物の名前をつけて、次々にいろいろな人が出てくるという構成はおもしろいと思うけど、物語全体としてはちっともうまくまとまっていない。犬姫さまになって、野犬を引き連れていくところなんかはおもしろいから、もっとそれを中心にするとかしたらよかったのに。それからすごく嫌だったのは、いとも簡単に人や犬を殺すシーンが全編を通してたくさん出てくること。しかもみんな、殺すということにさほど罪悪感をもっていないでしょ。こういうものは、どうしても子どもに薦める気になれないわね。

トチ:筒井康隆の作品は好きで片っぱしから読んだので、期待して読んだんだけど……。本というものは、作者の声が聞こえてくるものなのに、この作品からは全然聞こえてこなかった。近未来ということにつながるかもしれないけど、J文学風の香りがしたわね。

アサギ:たとえばどんな?

トチ:藤野千夜とか、『ぶらんこ乗り』(いしいしんじ作)とか。実感がしない世界というのかな。それから、女の子の言葉づかいが、おじいさんみたいだと思った。

一同:そうそう、古臭いよねー。

トチ:いちばんびっくりしたのはね、次郎が死ぬ時、歌子さんと一緒に主人公も泣きながら、「次郎が死んだだけでこんなに悲しいのだから、もっと親しいひとが死んだらどんなに悲しいことだろう……」なんて書いてるところ。だって、この子、前にお母さんが死んでるじゃない。作者はそのことを忘れちゃったとしか思えない。もうびっくりしたわ、ずいぶんいい加減よねえ。

:タイトルには何か抽象的な意味があるのかと思ったら、何のことはない、単に愛ちゃんの左側。たまたまこの著者のドタバタの短編集『近所迷惑』と同時に読んだので、『愛のひだりがわ』もショートショートのおもしろさとして読めば、すごくおかしいんじゃないかと思った。ショートショートのドタバタこそがこの人の持ち味だから。作者は、子どものJ文学というジャンルに挑戦したんじゃないかな。まじめな人だから、何かテーマを設定しなければいけないと考えて、「大人の世界への反逆」をテーマにしたのでは? そのテーマと、読者へのサービス精神で書いたものじゃないかと思う。だから筒井ファンにとっては、新しい試みをしたというところでおもしろいわけね。

:おもしろく読みました。前半は近未来みたいなのに、えらくやぼったい横丁が出てきたりするのもおもしろかった。皆がエゴに走って、自分たちのことは自分たちで守ろうという社会が絶対に興らないとはいえない、と感じた。主人公は、殴られたら殴ればいいわ、というように妙に淡々としているところがあるが、志津恵さんが男を捨てて出るときのセリフを聞いて、なんてやさしい人だと思うところなどに、主人公が少しずつ成長していることがわかる。

アカシア:そこはちょっと苦しくない?

:作者は志津恵さんや愛ちゃんみたいな女性が好みなんだな、と思う。

ペガサス:それは確かにあるね。

:野犬の女王になるところあたりまではおもしろいんだけど、3年たったところからは急速にまとまらなくなった感じはした。書き急いでいるみたいで。だいたいサトルが、何で新興宗教の教祖を支える子になってしまうのか、納得できないわ。

:髪が水色で、普通じゃないから、そこへ行かせなければ収拾がつかなかったんじゃない?

アカシア:筒井康隆はもっとおもしろいはずなのに、って思った。ショートショートだったら、もっと考えて書くか、短いから破綻が来ないということがあると思うけど。これはただ書いただけで、何も推敲してないんじゃないかと思う。おもしろいタネはたくさんあるのに、つながっていないから、ちっともおもしろくないのよ。それに、女の子の古臭い言葉づかいはやっぱり気になった。

トチ:昔の作品より、質は明らかに落ちているよねー。

:『わたしのグランパ』なんか、スーパー老人が出てきておもしろい作品だったな。

アカシア:ドタバタで読ませようとするのなら、もっとエネルギーが感じられてもいいはずよ。これも、いっそスーパー老人の話にすればよかったのにね。

ペガサス:これはドタバタで読ませようとしているとは思えないね。

アカシア:だから中途半端なんじゃない?

愁童:さすがに手だれの職業作家だと思うよ。今の子にどう書けば受けるかということを、きちんと押さえて書いてる。文章もしっかりしているし、スイスイと、それなりにおもしろく読めるじゃない、あとには残らないけどね。以前とりあげた『海に帰る日』をおもしろく読んだという子に出会ったけど、暴走族の出し方なんか、『海に帰る日』とよく似てる。

アカシア:暴走族が必ずしも若者に受けるとは思わないけど、ストーリー展開が早いとか、人物をあまり深く描かないということは今風かもしれない。

愁童:若者に受ける要素をしっかりつかんでいるということはあると思う。

トチ:そこがすごく嫌だったな。

アカシア:筒井ファンはこれをおもしろいと思うのかな?

トチ:思わないわよ。

ももたろう:この本はどういうコンセプトで出したんでしょうね? 帯に「マジック・リアリズム」と書いた意味は?

:マジック・リアリズムとは、現実をマジックで敢えてゆがめる作風で、アンジェラ・カーターが自分の書くジャンルのコンセプトとして初めて使った言葉ですね。

アカシア:ラテン・アメリカにはもっと前からあったんじゃない?

:帯に書いてあるのを見て、日本でもこれをやろうとしたのかと思ったら、全然違った。

アカシア:現実に不思議な要素が入ってくるものは、何でもマジック・リアリズムと称するみたいなところがあるね。

ももたろう:最後までツルツルと読めたけど、残るものがなかった。妙に古臭いところを出して、あえて時間を下げて、テクニックを使って新しいところを出すようにしたのかな? リアリズムかなと思って読んだら違って、はぐらかされた。それに長編のわりには愛ちゃんの人物像が薄っぺらいと思った。ある意味では、クールさを出したのかもしれないけれど。どういう読者にどういう思いをぶつけたいのか、中途半端。子どもの本棚には並べられないと思う。

アカシア:本の最後のページに、『トムは真夜中の庭で』『モモ』『ホビットの冒険』などの広告が載っているけど、編集部ではこれらの本と同じと思って作ったのかな?

ペガサス:それはね、最後に「あっそうか、これは岩波の本だったんだ」って気付かせるためよ。

すあま:筒井康隆は好きだったけど、この本はこの装丁がどうしてもダメで、買う気になれなかった。子どもの本には見えなくて、どちらかというと連城三紀彦とか渡辺淳一って感じ。

ねむりねずみ:作品のなかにはいりこんで感動するということはなかった。デストピアを通り過ぎていく少女のロードムービーみたい。お父さんとの再会の場面など、愛ちゃんが一方的にしゃべるだけで、やりとりになっていないし。本当に人と人とがぶつかりあう場面は出てこないみたい。ただ通り過ぎていき、横に寄り添うだけ、といった感じ。愛ちゃんが唯一ウェットな関係をもっている相手が犬なんでしょうね。それから、女の子の一人称であることを、作者が完全に忘れているところがあって、シェイクスピアがどうとか、女の子の言葉ではあり得ない部分があった。「独特のお色気があり・・・」なんて、女の子の言葉ではないでしょう? 今の時代のゆがんでいる部分をうまく配置しているとは思うけど、それ以上にはなっていない。すべてが透けて見えてしまう。上手に書いているけれど、気持ちがはいってないという感じ。

もぷしー:最後まで、これが児童ものと認識しないで読んでしまったが、認識しないときのほうが、受け入れられた気がします。ひとつひとつを作者が思いをこめて書いたにしては、伝わってこないな、と思った。過ぎ去っていく出来事の中に自分が置かれている、という今の子らしいものを書いたということなんでしょうか?

アサギ:近ごろこれほどバカバカしい本は読んだことがなかったわ。何でこんだくだらない本を書いたのか、と作者に聞きたい。

アカシア:バカバカしい、と、くだらない、は違うよ。

アサギ:両方ってこと。こんなつまんないもの! 全部が気に入らないわ。たとえば「知的な」という言葉の使い方。大学を出ているから知的だ、という表現が二箇所もあるのよ。本気で書いているのかしら。まさか、と思ったわ。信じられない!

トチ:それはね、この本を出した知的な出版社を筒井康隆が皮肉っているのかも……

(2002年05月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)