『屋根裏部屋の秘密』
松谷みよ子/著 司 修/絵 偕成社 1988.7
偕成社文庫
2005.04

オビ語録(偕成社文庫):読みつがれる名作≪直樹とゆう子の物語≫シリーズ/エリコの死んだじじちゃまが屋根裏部屋にのこした秘密とは? 歴史の陰に秘められた悲惨な事実/戦後60年、若い世代にたくされた戦争の罪

しらす:読む前は敬遠していたのに、今回の3冊の中で唯一夢中で読みました。ゆう子とエリコとおばさんと直樹が交代で章が進んでいく。それぞれの思いが違うのに、ストーリーが分散していない。

アカシア:私はこのシリーズは『ふたりのイーダ』(松谷みよ子/著 講談社)しか読んでなくて、この本は今回初めて読みました。やっぱり松谷さんはうまいですね。人物の関係の描き方もうまいし、章ごとに語り手が変わるけど、ちゃんと読ませてしまうのもうまい。アウシュビッツもなかったことにしようというなかで、それに対して書かなきゃいられないと思って書いたと思うのですが、それだけが前面に出ることなく、遺言の謎を追って読ませていく工夫もいい。善良なふつうの人が実は戦争のときはこんなことをしていたと書くのは難しいし、イデオロギーが前面に出ると、物語としてつまらなくなる。でも、この作品では、「日本人も日本のアウシュビッツを持っていたんだ」という作者の驚きを読者が共有できると思います。自然の描写にも、リタ・マーフィーにはないリアリティが感じられました。

たんぽぽ:こういう作品は、これからも手渡していきたいと思いました。でもこの3部作は図書室ではぜんぜん動いてないんです。

げた:うちの図書館でも、閉架の場所にあります。恐ろしい事実が語られているのですが、重たいので、今の子どもたちにはなかなか手渡しにくいです。私の親世代の話なので、実感としても伝えにくい。伝えていかなければならないとは思うのですが、この装丁だと。今の子どもたちは気軽に手にとらないと思います。

しらす:私が敬遠していたのには、松谷さんの本だからという理由もありました。『ちいさいモモちゃん』(松谷みよ子/著 講談社)のシリーズは好きだったけど、この著者は戦争について語ることが多いと知っていたから。子どもには表紙が怖いかもしれない。ただ私は、今回読んで良かったと思いました。

ケロ:いわゆる、戦争の話、というと、私たちの世代は、戦争の話をそのまま素直にやるのを読んできた世代。でも、それが辛すぎる話だったということもあるし、とっつきにくさを自分たちで感じていたということもあって、今の子たちには、何かもうひとつ手法を介在させないと、もはや読んでもらえないのでは、と及び腰になるところがあります。この話は、ミステリーという要素。これがきちんと収まっている。他にも、タイムトラベルなどの手法をとって、こども達の身にひきよせて作るなど、戦争児童文学の試行錯誤はいろいろあると思いますが、それが最近はあまり成功していないんでしょうか?
挿し絵が写真をコラージュして起こしたような、特有の暗い感じなので、違う絵だったらどうだったのかと思いました。こういうドキュメンタリー風の絵って、こわそうでひいちゃうのかな? 戦争の時って、時間がたつとどんどん分からなくなってしまう部分がありますよね。高校のときに本多勝一の『中国の旅』という本を読んで読書会をしたのですが、ある人のお父さんが、この本に書かれていることはまったくのでっちあげなので読む必要はない、と言ったと聞いて、びっくりしたんです。事実を知っている世代がいなくなるので、戦争の話をどういうふうに読んでもらうのかが、私たちの課題の一つだなと思いました。

ポロン:『ふたりのイーダ』を読んだときに、楽しい話かと思って読んだら、ガーンッときて「だまされた」と思ったことあるんです。この本は「あのシリーズだから要注意よ」と思って読んだのでよかったのですが、子どものとき、こういう戦争の残酷なことが出てくるって知らずに読んだらやぱり「だまされた」と感じると思う。謎にひっぱられて、ストーリー展開のおもしろさで読んじゃうと思うけど、戦争のことを知りたいと思って手にとったのではないのに、こんな衝撃的なことを聞かされて、びっくりしちゃう。表紙も「戦争」って顔してないし。こういうのって知らなくてはいけないことだと思うけど、なかなか難しいですね。

チョイ:戦争を子どもに向けて著した本には、やはり色濃く時代性があります。今西祐行さんや竹崎有斐さんみたいに自分自身が戦争に行き、その体験を書いた世代、もう少し若くて、銃後での戦争や疎開体験を書いた人々、第二次大戦は知らないけど、その時起きてたベトナム戦争なんかを書こうとした戦後世代の飯田栄彦さんや岩瀬成子さんたち…というふうに。戦争がどんどん風化していく危機感の中で、どうすれば少しでも子どもに読まれ易い形で戦争の実相を伝えていけるのかって試みのひとつに、タイムトリップとか幽霊とかを使うってのもあったんですね。そういう流れの中で考えると、この本も、書かれた当時としては、精一杯の試みをしてたんだと思います。

たんぽぽ:『泥かべの町:アフガンを生きぬく少女』(デボラ・エリス/著 もりうちすみこ/訳 さえら書房)は読める子がたくさんいますが、これは、読む力が育っていないと途中で投げだしてしまいます。

チョイ:アプローチが長いんですね。高い山は山裾が大きいように、正統な文学的手法で書こうとすると、アプローチが長くなるんでしょうが、それが今の感覚ではもどかしくなってるのかもしれない。

アカシア:読むスピードが速ければ長く感じないと思うけど、今の子どもは読むスピードも遅いですからね。

ポロン:アプローチの長さで、軽薄ではない重さや奥行きが生まれるんでしょうけどね。

アカシア:逆に、この書名だと、戦争の本を読みたいという読者を逃がしているかもしれないね。

むう:まじめな作者だし、じょうずだなと思いました。さまざまな描写もとてもじょうずだし、一人称の語り口もうまい。それに、先の戦争で日本が何をしたかを伝えなくてはというまじめな意図もある。なるほどなあと思って読みました。だから、それなりに納得して読んだのだけれど、最後の章がなあ……。ゆう子が語る二幕目、文書をちり紙交換に出しちゃったというあたりは、おい!という感じでした。チープに落ちたな、という気持ちで残念でした。じゃあ、どうすればよかったのかというと、よくわからないのですが。

トチ:こういうことを書くのに、フィクションとノンフィクションのどちらがいいのかなと思いました。子どもに読ませる力を持った作家がノンフィクションとして書けば、古くならずに残っていくと思うし、いっぽうではフィクションで書いたほうが、子どもがまず手に取るし、心の奥底まで染みこんでいくと思うし……どちらにせよ、こういうことを繰り返し繰り返し次の世代に伝えていくのが、児童文学の役目だと思うのですが、今の日本の児童文学は自分のまわりの狭い世界を描くものが多くて、大きな問題をとりあげるのはかっこ悪いと作家が思っているのかもしれない。そういう印象があるのですが、どうでしょう? こういう作品が今の時代もたくさん出てくれば、それじゃあ手法として『弟の戦争』(ロバート・ウェストール/著 原田勝/訳 徳間書店)はどうか、『二つの旅の終わりに』(エイダン・チェンバーズ/著 原田勝/訳 徳間書店)はどうか、どちらが今の子どもたちの心に届くかという議論ができると思うんだけど。松谷さんのあとをひきつぐ作家はいないのかしら?
ひとつ疑問だったのは、中国の女の子の幽霊が、どうしてこんなにも日本の女の子に友好的なのかということ。もう少し恨みがましくてもいいのでは……と。

紙魚:作者自身が、この物語を書くために中国へ取材に行ったときに、現地の人に申し訳ないほどの歓待を受けたというのを、何かで読んだことがあります。人間って、つらい思いをさせられたから反抗的になるというような、一方的な表現はできないと思うんですね。いつも相反する気持ちを同時に持っていて、そのことが何かの解決につながったりする。作者はそんな願いを持っていたのでは?

アカシア:中国の場合は、日本という国家や政治家を非難しても、ひとりひとりの日本国民はまた犠牲者であったという考えを中央がとっているので、個人で行けば熱烈歓迎されると思います。フィクションかノンフィクションかという点ですけど、ノンフィクションだと「特定の時期に特定の場所であったこと」という視点が強くなるので、子どもが自分に引きつけて読むのは、なかなか難しいですよね?

むう:自分との関わりを持たせるには、フィクションにしないとだめなんだろうと思います。でも、下手にフィクションにすると、今度はトチさんがおっしゃったみたいに古くなっちゃうんですよね。この本もそうだけど。エリコみたいな子なんて、今いないですよね?

アカシア:でも、少女漫画には出てくるじゃない。

むう:この本が古さを感じさせるのは、やはり読者に距離感を感じさせているからじゃないかと思うんです。本来ノンフィクションにすべき資料がフィクションに埋め込まれたような構造になっているから、ちょうど木に竹を接いだみたいな感じになって、読者を引き込みきれない。フィクションになりきっていないんだと思います。たとえばウェストールの『弟の戦争』なら、あれは人の意識が入れ替わるなんていう、絶対に起こりっこなさそうな設定にしている。それが逆にフィクションの強みなんだけれど、この本は、子どもに身近な日常を語っている中に、どすんと事実をはめ込んでいる。その中途半端さがあるから、古く感じるんじゃないかと思います。

アカシア:戦争一般について描くのではなく、731部隊が本当にあったということを伝えるとすると、どうしてもこういう作品になると思うし、これはこれでいいと思います。

むう:731部隊の事実を伝えるという意図はすばらしいと思うし、たしかこれは80年代の作品ですよね。つまり、20年以上前に出されているわけで、その時期にこういう作品を書こうとしたという姿勢は立派だったと思う。この作者に文句をいうというよりも、そのあとに、これを超える形で何か書かれているか、ということが問題なんだと思います。

愁童:戦争体験世代の作家が免罪符を手に入れるために書いているみたいな感じを受ける作品。じじちゃまが箱を子どもに手渡しちゃう設定は、どうかと思った。そんなものポンと渡されたって子供は困惑するばかりでしょう。体験世代がきっちりと決着を付けて次世代に渡す責任があると思うけどね。戦争体験を伝えることは大事かもしれないけど、「ウザイ・キモイ・クサイ・死ね!」みたいな言葉が飛び交っている現在の小中学校の教室の状況を直視する姿勢が無いと、731部隊のようなことを作品として書いても、子供達の対人侮蔑語ボキャブラリーに「まるた」をひとつ加えただけで、書き手の自己満足に終わりかねないような気がするな。

チョイ:さっきも言ったように、自身の体験だけでなく、その後わかってきた戦争の様々な事実を、1980年代という時代に児童文学として表現しようとした試みの一つがこの本で、この本が出たこと自体は無意味だとは思いません。今読むと、古くさいとか、ノンフィクションの方がいいとか言われるかもしれないけど、松谷さんは作家としての自分なりの手法で731を残したかったのではないのかな。ここには、現代の民話や怪異を追いかけてきた松谷さんなりの表現があったと思います。それが成功しているかどうかはまた別ですが……。例えば、桐野夏生さんなんかが731を書いたら、また全然違うこわーい話になって読者がついたりしてね。

アカシア:松谷さんや早乙女さんを超える手法を持つ若い日本の作家って、いるんですか?

チョイ:戦争とか社会問題とかを子どもの本で扱うのはとても難しいから、なかなか成功しないんです。成功しにくいから売れないし、作家も消耗する。で、つい身近なテーマに行くんじゃないでしょうか。

愁童:このあいだ偶然、宮部みゆきの『ICO:霧の城』(講談社)を読んだんだけど、これプレイステーション、ゲームソフトのノベライズなんだってね。立場を越えた生きる者同士としての連帯感や共感、思いやりみたいなものが根底にしっかり書き込まれていて、『オオカミ族の少年』(M・ペイヴァー /著 さくまゆみこ/訳 評論社)と同じように、書き手が読者である子供達に伝えたい人間としての思いみたいなものが良く伝わってくるんですね。ゲームソフトのノベライズ仕事に宮部みゆきを選ぶ編集担当の方の眼力に拍手したいけど、その方の視野に児童文学分野の書き手が浮かんでこない現状というのは、かなり淋しいですね。

しらす:私は戦争を実際に体験した世代と交流がないので、実体験を聞いたことがないんです。人を「丸太」と呼ぶことだって、今の若い人にはショックだと思います。私の周りにも「靖国神社」や「A級戦犯」がなぜあれほど騒がれるのかよくわかっていない人はけっこういます。でも彼らもドキュメント番組やノンフィクション読み物は好きだったりするので、隠された真実を知りたいという気持ちは共通しているように見えます。アウシュビッツやベトナム、イラク戦争で行われていたことを自分たちの国でもつい数十年前にやっていたという真実は、若い人ほど衝撃的かもしれないけれど、その分深く受け止めるんじゃないかなと思います。

紙魚:先日初めて、広島の「原爆資料館」に行ったんです。そのときに、地元の人から聞いたのですが、資料館の展示が年々変わってきているというんですね。見学に訪れた修学旅行生などが気分を悪くしたりすると問題になるそうです。その人いわく、おどろおどろしい展示を少なくしているように感じるのだそうです。もしそれが本当だとしたら、それでよいのか? と疑問です。もうすでに、戦争を体験していない人が、戦争を伝えていかなければならない時代に入ってきています。私自身、「編集された戦争」しか知らない。戦争があって幸せになる人はひとりもいないはずなのだから、戦争はいけないんだ、戦争は不幸なのだという、たったひとつのことをどう伝えていくのかを、若い作家といっしょに考えていきたいです。

カーコ:細部の描写のかげんなど、書き方はうまいですね。でも、現代とのつなぎ方として、舞台がお金持ちの子の山荘だったり、「じじちゃま」と呼んだりとか、今の子が続きを読んでみたいと思うかな、と疑問に思いました。

うさこ:まさに戦後児童文学が生まれた背景を背負っているような作品。文章のなかに「天皇の命令だったんです」とはっきり書いてある。最近の児童文学は、自我の物語ばかりなので、新鮮に読めました。でも、エリコの描き方が真実味がない。じじちゃまから手渡された箱をちり紙交換に出すのは、作家が逃げているような印象がある。こういうまとめ方にすると、読者の中で問題意識として考えることなく、物語が素通りしてしまうのではないでしょうか。

チョイ:一般の文学では、若い世代もいろんな手法で戦争を書いています。例えば福井晴敏さんは、第二次大戦末期に最終兵器にされていく日独混血の人間を設定した「終戦のローレライ」なんかを書きましたが、「創る」ことであの戦争をとらえなおし、新しい読者を獲得しようとする底力を感じます。その点子どもの本は、小さくなっているかもしれない。世界がどんどん狭くなっているこういう時代だからこそ、物語の新たな仕掛けが出来そうだし、作家も編集者も「創る」ことをおもしろがれるんじゃないかと思うのですが。松谷さんは「現代民話考」という大きな仕事も残しているし、過去の作品を今更あれこれ言ってもねえって感じです。

小麦:表向き、戦争の本という顔をしていないので、「だまされた!」と思う読者がいるというのは頷けます。でも逆に、子どもの頃って「こういう気分だから、こういう本が読みたい」と思って本を手にすることってそんなにないと思うので、いい意味で「思ってもみなかった本との衝撃的な出会い」にもなり得るのではないかな? 鮮烈な印象を残す一冊として心に残るというような。まあ、いずれにしてもショックには変わりないんですが。
私自身も子どもの頃、シリーズ第一作の『ふたりのイーダ』を、てっきり楽しい本だと思って読んで、内容にびっくりしたのを覚えています。内容に関しては、かなり前の本だけど、未だに訴えかける力があると思う。戦争というのは、気づいたら始まっていて、どうにもしようがない大きな渦の中に、状況を把握する間もなく巻き込まれていくものだと思います。渦中はもちろん、戦後どれだけ経っても「あの戦争は何だったのか」と正しく説明できる人はどこにもにいない。全貌が掴めないそういった強大な「戦争」を描くなかで、梨花が刺繍した青いスリッパだけは、あたかも自分のそばにあるかのような、生々しい手触りを持ってせまってくる。実体の把握できない大きなものを描こうとする時ほど、身近でささやかな事柄を丁寧に描くのって効果的なんだな、と思いました。
「戦争文学」を読もうとすると、どうしても構えてしまうというか、戦争を知らない私たちと戦争の間に隔たりができてしまう。でもこの作品は、戦争を知らない世代のゆう子たちも、実はじじちゃまを通して戦争とつながっているということを意識させてくれる。「戦争は決して他人事じゃなくて、すぐそばにあるもの」というのは、今現在にも通じるメッセージだと思います。ただ、正直、ゆう子と直樹がいい子すぎる。やっぱりどこかで戦争との間に一線が引かれてしまっているような。実際戦争が始まったら、生きのびるために自分だってどんなに残酷なことをしてしまうかしれない、という切迫感は彼女たちにはやっぱりなくて、「過去の過ちを伝えていく」の善人の立場に立っている。まあ、それは頁数や対象年齢を考えると、仕方のないことなのかもしれませんが……。

ケロ:「だまされて、よかったー。だから出合えた」と思う場合もあるのかな?

きょん:設定は、そんなに目新しいものはないのですが、文章の力があって、松谷さんの世界に引き込まれて読んでいきました。途中で直樹を呼び寄せるところは、段取りっぽくてしっくりこなかったのですが、全体として訴える力がありました。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年1月の記録)