ネズ:この本は、出版されてすぐに原書で読みました。内容はおもしろいし、作者の意気込みも感じられていいなと思いましたけど、2つほど問題があると思ったのを覚えています。ひとつは、ADHDの子どもを薬で治療しているという点。文中では、ADHDという言葉を意識的に出さないようにしていますが、後書きにもあるように、この子は明らかにそうですよね。ちょうど同じころ、ADHDの子どもがいるクラスを持っている、小学校教師の話を聞く機会があったのですが、日本では(当時はということですけど)、医療に頼らずに、ありのままに育てたいという親が多くて、学校側が病院に行くことをすすめても、かえって反発されるということでした。治療の内容や、程度の問題もあると思うけれど、日本とアメリカとの医療に対する考え方の違いもあるし、もし日本で翻訳出版ということになると、どうやってクリアしていくか難しいなと思った記憶があります。第2巻では、薬がさらに重要なファクターになってくるし……。それと、主人公のおばちゃんやお父さんも、非常にハイになりやすい性格に描かれているし、お母さんもエキセントリックなところがある。だから、ADHDが遺伝するものだとか、環境によるものだとか、単純に思われてしまうのでは……という危惧も感じました。障碍や病気を扱った本って、とても難しいから、皮肉でもなんでもなく、徳間書店は勇気があるなと思いました。
でも、女の子の鼻先を切ってしまう場面は、ちょっとね。どぎつい印象を与えるし、この女の子にとっては大変なことなのに、さらっとしすぎていない?

みっけ:ADHDの原因については遺伝という説とか、いろいろと説があるみたいだけれど……。『夜中に犬に起こった奇妙な事件』(マーク・ハッドン/著 小尾芙佐/訳 早川書房)はアスペルガー症候群の男の子が主人公の一人称だし、E.R.フランクの短編集『天国にいちばん近い場所』の中にもADHDの男の子が主人公で一人称で書かれた話が出てくるんですが、この本を読んでいて一番気になったのは、主人公が3年生でしかも一人称でここまで説明できるだろうか、という点でした。ほかの2作品では、そのあたりにあまり違和感がなかったのですが……。ふーん、なるほどなあと思いながら読み進みはしたものの、そこはひっかかりましたね。最後に作者があとがきに書いているように、まわりにこういう子たちがいるにも関わらず、そういう子たちの物語がなかったというのはなるほどなあと思うのだけれど、私のなかで今ひとつ納得できませんでした。この子自身はいい子なんですけれどね。

紙魚:ADHDはこういう子だという書き方ではなく、こんな子どもがいるという個人の個性からアプローチしている書いているのはいいと思いました。とくに、本文中にADHDという言葉は1回も出てこないのですよね。やはりこういう言葉は強いので、ADHDという言葉が1度出てしまうと、ADHDを読むというようになってしまうのですが、そう陥らずに最後まで読めました。ただ訳者は、あとがきで「ADHDという障害」という言葉をつかっています。こういうところの表現は難しいですね。実際に子どもたちはどう読むのかなと気になりました。それから、全体として散漫な感じがしたのですが、それが、この子の性質・性格によるものなのか、物語が散漫なのかは、わかりません。

げた:私は、ADHDという病気自体をよく知らないんですけどね。主人公の男の子の特異な行動は、先天的なものだけでなく、環境という後天的な影響があったわけですよね。かなりひどいことをおばちゃんにされていたんだから、そういうことが資質を高めたかもしれないとは考えられませんか?

みっけ:ADHDも自閉症も、脳の一部の問題とされていますよね。お母さんが妊娠中に麻薬をすると、率が高まるとアメリカでは言われています。

サンシャイン:お酒を飲んで妊娠した場合は、酩酊児とも言われるそうですね。

ネズ:エジソンもそうだったっていうじゃない。

げた:この病気のことを知らないと、突然変わった行動が出てくるのには、ついて行きづらいんじゃないかな。鼻を切ってしまうのも、ちょっとずれていたらと思うと怖いしね。こういう子どもたちの本を読んだ、まわりの子どもたちは、どう思うんだろう? この病気についての理解と思いやりが深まるのかどうかは疑問だな。

アカシア:この本については「よくぞ訳してくれた」という手紙も来ているそうですよ。ただ、薬さえ飲めば大丈夫と受け取られかねないですね。

みっけ:学校に行かせないで育てられれば、それはそれでいいのだけれど。そういうわけにはいかないとなると、集団の中で過ごすために薬の力も借りよう、ということなのでしょうね。とにかく集団として教員が見ていけるようなレベルにまで、ぎりぎり症状を抑えようという感じではないかしら。薬を飲むか飲まないか、ではなくて、集団の中である程度はみ出さないでいられるようにしておいて、ほかの子との交わりの中で成長していくという感じではないかと思いますけど。

アカシア:いろいろなケースがあるのでしょうが、この子が集団の中にいたらほかの子を傷づける可能性もあるわけだから、先生はたいへん。

みっけ:ここに書かれているような行動をとる子がクラスにいたとすると、担任としては、一時も気が休まらないんじゃないかな。

紙魚:何かやってしまったあとに割合けろっとしているのは、この子の個性なのか、それともADHDの特徴なのか、作者はどの程度、そのあたりを意識して書いているのでしょう?

アカシア:ここまでの症状が出ると病気だから何らかの治療をしたほうがいいのかもしれませんが、今は、ちょっとほかの子と違うと、自閉症とか多動児とか、いろいろな名前をつけて障碍だということにされてしまうような気もします。学校では、ADHDっていう言葉を使うのかな?

サンシャイン:ADHDとまでは言わなくても、「多動性がある」という言葉は、よく使いますね。幼稚園に入る前からゲームを野放図にやらせているとそうなるとか。

アカシア:鼻を切られてしまった女の子については、読者の子どもも心配すると思うんですが、その後どうなったかは書かれてませんね。

みっけ:この作品は、複眼にした方がよかったんじゃないかな。説明的な部分も、ほかの人の視点が入ってくれば、無理なく収まったんじゃないかしら。

アカシア:一人称でも、できなくはないと思うけど。

サンシャイン:私は、カバー袖に書かれているあらすじを先に読んでしまったので、支援センターに行くことを前提として読んでしまったんですね。だから、支援センターに行って初めて救われる話なのかなと思ってしまいました。

アカシア:この子は、変わったおばあちゃんと暮らしていたので、必要な情報がなかったんですよね。情報がなくて困っている人たちに、手をさしのべる物語とも考えられるわね。

紙魚:こういう子どもたちのことを考えてもらおうとする真面目に姿勢は、伝わってきますよね。

ネズ:自分の子どものころのことを思い出すと、今だったら「ADHDだから、病院に相談に行ったら?」と教師にすすめられるような人は、たくさんいたんじゃないかな? 落ち着きが無かったり暴れたりするのが、その子の個性かどうかっていう線引きは難しいわね。

アカシア:その子がハチャメチャなだけならいいいけど、他人に危害が及ぶかもしれないとなると問題ですよね。アメリカには専門の人がいるから、こうした場合アドバイスできるんですね。日本にも、適切なアドバイスができる専門家がいるんでしょうか?

サンシャイン:となると、これはアメリカならではの物語として読んだほうがいいのかもしれないですね。

アカシア:一度レッテルを貼られたら、特殊な施設に入れられてしまうだけだと怖いですね。この作品の中では、クラスの中で手に余ると判断されたら支援センターへ行って、そこでその子にあった訓練を受けてまたクラスに戻ってくるということになってますけど、それでうまくいったら、いいですね。

みっけ:特別なクラスに入れて、そのまま戻って来られない、というのはよくないですよね。その点この本では、行ったり来たりできているけれど。

アカシア:今の日本にはまだないのでしょうが、こういう形があるというのは、その本を読んでわかりました。

ネズ:大人が読んだ方がいいっていう本なのかな。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年11月の記録)