日付 2002年5月23日
参加者 トチ、裕、羊、アカシア、愁童、ももたろう、すあま、ねむりねずみ、もぷしー、ペガサス、アサギ
テーマ 一般書の作家が書いた子どもの本

読んだ本:

『ハルーンとお話の海 』
サルマン・ラシュディ/作 青山南/訳   国書刊行会   2002.01
HAROUN AND THE SEA OF STORIES by Salman Rushdie, 1990(イギリス)
<版元語録>ある日突然物語る力を失った父のために、ハルーンはお話の力を司る「オハナシー」の海へと旅立つ。死滅しつつあるその海をハルーンは救えるのか。死刑宣告を受けたラシュディが、悲痛な思いをこめたファンタジー。


『愛のひだりがわ 』
筒井康隆/作   岩波書店   2002.01

<版元語録>幼いとき犬にかまれて片腕が不自由な少女,月岡愛.母を亡くした愛は,行方不明の父をさがす旅に出る.大型犬のデンとダン,不思議な老人や同級生サトルに助けられながら,少女は危機をのりこえてゆく.プロットのうまさが光る書き下ろし.


『四十一番の少年 』
井上ひさし/作   汐文社 (文藝春秋社)   1998

<版元語録>孤児院で暮らす兄のもとに、ラーメン屋に一人預けられた弟からの葉書、そこには、しみが…。弟の生活を思いやり、孤児院に引き取ることにした兄は、弟を迎えに行くが…。作者の自伝的要素の強い小説三編を収録。


『ハルーンとお話の海』

サルマン・ラシュディ/作 青山南/訳
国書刊行会
2002.01

愁童:一応全部読みましたが、全く我が世界に関係ないというか、共感がわかなかった。縁なき衆生という感じ。作者の思いはわかるんだけれども……。日本の子どもにダジャレめいた言葉づかいでダラダラ書かれても、しょうがないんじゃないか、という感じ。

:太字で書いてある部分は、原書ではどうなっているのかしら?

ねむりねずみ:原書ではイタリック体になっています。

アカシア:私は、この本は、イメージはおもしろいと思うけれど、こういう言葉遊びの文章は、日本の子どもには伝わらないと思う。翻訳もむずかしい。訳者が工夫してダジャレ風に訳しているところも、私はあんまり面白くなかった。ルイス・キャロルのアリスだって、日本の子どもにはわかりにくいじゃない? もともとは著者が自分の息子という特定の読者のために書いているものだとすると、よけい日本の子どもには難しいと思うんだけど。

:私は、最初から最後までおもしろく読みました。最初は淡々としてるけれども、水の精が出てくるところ、2932をフクザツーというのや、ブスでどうしようもないお姫様とか、馬鹿馬鹿しいところもおもしろかった。名前もおもしろいし、最後まで笑いながら読めた。だんだんお話の海がにごってくるというのは、文学の衰退を感じさせた。また、子どもも親に対して幸せであることを願っている、というところもよかった。

:私は1800円出して買って、損した。雰囲気的には、スティーヴン・キングの『ドラゴンの眼』に似ているけれど、また少し違って、『フィネガンス・ウェイク』的なところもある。「語る」こととは何か、ということを語っているわけで、子どもには無理だし、第一、この翻訳で読ませるのも無理があるわね。原作にはそれなりの意味があるとは思うけど、子どもに読ませる物語としては、翻訳の路線が間違っていると思う。子どもにむかって、行きつ戻りつしながら、「語る」ということを語っているんだけれど、ひとつの物語としては、飛んでしまっているわけです。

トチ:「飛んでいる」という意味が、よくわからないのだけれど……

アカシア:飛んでいるというより、ゴチャゴチャしていて、ラシュディの他の作品と違う。

:しっかりとプロットの構築がされていない、ということでしょ?

トチ:私はすごくおもしろかった。54ページまでは、たしかになかなか話に入っていけなかったけれど、主人公の男の子がバスルームでとんでもないものに出会う場面から、俄然おもしろくなりました。夜中に、自分の慣れ親しんでいるはずのバスルームや台所でとんでもないことが起こるというのは、子どもにとって本当にわくわくする物語で、私もタイトルは忘れたけれど、こういう場面が出てくる物語を子どものころ読んで、楽しかったのを覚えているわ。この物語は、いくつもの層が重なり合ってできていて、子どもの目でストーリーを追って読めばそれはそれで楽しいし、大人の目で読むと、あんなにアンハッピーな境遇にいたラシュディがこんなにハッピーな話を書いたということに感動する。小さいころにこの話を読んで楽しんだ子どもが大人になって読み返すと、昔は気づかなかった深い意味に気づく、そういう本だと思います。私自身も、また読み返してみたいと思いました。
訳については、みなさんのおっしゃるとおり、おそらく原文で字体を変えている部分をそのままゴチックにしているのでしょうが、字面が汚くて読みにくかった。作者が字体を変えている意味を訳者が汲みとって、それを訳文に生かすべきだと思うのだけれど。でも、訳者はさぞ楽しんで訳したことでしょうね。人名や地名も苦しみつつ、楽しみつつ訳している様子がうかがえました。ハリポタのロシア語訳が出たときに「人名や地名のおもしろさも魅力のひとつなのに、露語訳は英語をそのままロシア語の綴りに置き換えただけで、原作の魅力が半減している」と批評されたけれど、邦訳もそうですよね。少なくともハリポタの訳者より青山南さんのほうが何倍も丁寧に訳しているし、努力していると思う。不発に終わっているところもあるけれどね。

ねむりねずみ:原作が出た時に読んだけど、半分まででパスしてしまった。構造がわかって、それで満足、という感じだったみたい。雑誌 Books for Keeps (2000年3月号) に著者のインタビュー記事が出ていて、そこに2000年にイギリスで出版された愛蔵版の表紙と挿し絵が出ていた。これを見ると、楽しいイラストがたくさんあって、日本語版より魅力的。この本は、ドタバタがおもしろいと思う。イメージが、コラージュを見ているみたいに非現実的で、そういう世界が持つおもしろさがあると思う。表には出てきていないけれど、物語に対する作者の価値観がわかるのもおもしろかった。荒唐無稽な感じは、ロアルド・ダールの『チョコレート工場の秘密』がイギリスで映画化されたときの、やたらぴかぴかきらきらしていて、すべてが非現実的なおもちゃみたいに感じたのとよく似ている。

すあま:私はあまりおもしろくなかった。途中で挫折して、また読み始めたけれど、結局最後まで読めなかった。音楽でいえば現代音楽といった感じかな。だいたい言葉遊びで生きている話っていうのは、翻訳されておもしろいものにはあまり出会ったことがないですね。それにゴチック体がうるさくて、一生懸命はいりこもうとして読んでいる時に気が散ってしまい、だんだん頭が混乱して、ついていけなくなった。イラストがあるともっとよかったかも。

ももたろう:私も最後まで読めなかった。すごくテンポが早く、登場人物が次々に出てきて、ついていけなかった。気持ちがはぐらかされてしまう、というか、お話が上滑りしている感じで、自分の心にストンと落ちてこない。やはりゴチック体には邪魔されてしまった。3分の1くらいゴチックで、すごくうるさいページもある。旅に出るところまではスローなのでまだついていけるが、そのあとはどうも……。今の子どもたちは、エキサイティングに感じて読むのかしら?

ねむりねずみ:漫画のなかでも、ラフな描き方というのがあるでしょう? 走っている足を描かずに、砂煙だけを描くとか。そういうドタバタの面白さだと思うけれど。

アサギ:私も愁童さんと全く同じ感想で、途中でわからなくなって、しょっちゅう前に戻ったり……。翻訳としては訳しにくいものだと思ったけど、ゴチックにする意味は私も全く理解できないわね。アルファベットの字体を変えるのと、日本語をゴチックにするのとでは全く意味が違うので、危険だと思う。一応最後まで読んだけど、最後まで読んだ本当の理由は、最後まで読めばこのゴチックの意味がわかるのかと思ったからなの! たとえばゴチックの部分だけつなげたら、別の文章ができるとか……。

一同:あー、それだったらおもしろいのにねー!

アサギ:でも、結局最後まで読んでもわからなかったわ。お話もおもしろくなかった。「語る」ということについての哲学はあると思ったけど。カタカナがたくさん出てくるのも、字づらとして汚くなりがちよね。視覚的にディスターブされて、はいっていけなかった。でも、とてもおもしろかった、と言う人がいるってことは、本の読み方って本当に人それぞれってことよね。子どもは何歳くらいから読むのかしら?

トチ:著者も、いろいろなレベルで読んでほしい、と言っているわね。

:大人向きに解説してくれている部分はあるけど、子どもにはわからないと思う。

愁童:この本には、送り手側の熱意の欠如をものすごく感じるな。これを本当に今の子どもに読ませたいと思うのだったら、もっとわかるように努力すべきだよ。作者のネームバリューに乗っかって出してるだけみたいな気がする。

トチ:たしかに、編集者と訳者には子どもに読ませたいという熱意は欠如しているかもしれないわね。でも、作者には絶対にあったと思う。作者のその熱意を編集者と訳者は汲み取れなかったのか、それとも無視したのか……

アカシア:物語について語っている部分も確かにあるけれど、余計な部分もたくさんあって、その部分がおもしろいと思えるかどうかは、読み手の感性に会うかどうか、ということだよね。作者というより、訳者の感性と合わないとだめっていうことかも。

ねむりねずみ:原文では、冒頭がもっと物語る人の語り口調になっているんだけど、訳文はその感じが出ていないというのはあるかもしれない。民話などによくある荒唐無稽なものでも、語り手の口を経ることによって、すっと聞き手にはいってくることがあるけど、これは訳文がそこまで達していないのかな。冒頭の部分なんか、日本語としてはやるなあ、うまいなあって思ったんだけど。

トチ:そういわれてみれば、青山さんの得意のニューヨークものみたいな感じね。

:インドの子どもたちにとっては、魚とか鳥とか、いろんなメタファーがもっと身近なのかもしれないわね。

アサギ:荒唐無稽な話でも、その中に整合性があるものは、本来私は好きなんだけどな。

アカシア:アリスだって、原文で読まなければ絶対に伝わらないものがあるじゃない、これもそういう類の話なんじゃない?

:こういうジャンルの翻訳ものの難しさなのかしらね。

愁童:お父さんがお話できなくなるのは、結局お話の海が汚れているからだ、みたいなこと言われても日本の子どもは困っちゃう。

トチ:んー……もっと重層的意味を持っているんじゃないかしら?

:もっと深いところが侵されてきているからで、原因はいろいろあって、だからおもしろかった。

アサギ:読み手の感性に合えば、本当におもしろいでしょうね。

ももたろう:もともと子どもに語ったものなので、楽しみながら語ったものに後から思想がついてきたのかな?

:いやもっとシリアスで、お父さんどうして語ることをやめないの? という問いかけに答えたものでしょ。

(2002年05月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


『愛のひだりがわ』

筒井康隆/作
岩波書店
2002.01

ペガサス:かなり期待して読み始めました。最初のうちはリアリズムの話かと思っていたら、次々に変なことがおこって、だんだんウソっぽくなってきた。あとでこの本に関する作者のコメントを読んだら、「近未来」が舞台、と書いてあったけど、あまり近未来という感じもしないのよね。妙に昔っぽい情景などもあって。各章に、登場人物の名前をつけて、次々にいろいろな人が出てくるという構成はおもしろいと思うけど、物語全体としてはちっともうまくまとまっていない。犬姫さまになって、野犬を引き連れていくところなんかはおもしろいから、もっとそれを中心にするとかしたらよかったのに。それからすごく嫌だったのは、いとも簡単に人や犬を殺すシーンが全編を通してたくさん出てくること。しかもみんな、殺すということにさほど罪悪感をもっていないでしょ。こういうものは、どうしても子どもに薦める気になれないわね。

トチ:筒井康隆の作品は好きで片っぱしから読んだので、期待して読んだんだけど……。本というものは、作者の声が聞こえてくるものなのに、この作品からは全然聞こえてこなかった。近未来ということにつながるかもしれないけど、J文学風の香りがしたわね。

アサギ:たとえばどんな?

トチ:藤野千夜とか、『ぶらんこ乗り』(いしいしんじ作)とか。実感がしない世界というのかな。それから、女の子の言葉づかいが、おじいさんみたいだと思った。

一同:そうそう、古臭いよねー。

トチ:いちばんびっくりしたのはね、次郎が死ぬ時、歌子さんと一緒に主人公も泣きながら、「次郎が死んだだけでこんなに悲しいのだから、もっと親しいひとが死んだらどんなに悲しいことだろう……」なんて書いてるところ。だって、この子、前にお母さんが死んでるじゃない。作者はそのことを忘れちゃったとしか思えない。もうびっくりしたわ、ずいぶんいい加減よねえ。

:タイトルには何か抽象的な意味があるのかと思ったら、何のことはない、単に愛ちゃんの左側。たまたまこの著者のドタバタの短編集『近所迷惑』と同時に読んだので、『愛のひだりがわ』もショートショートのおもしろさとして読めば、すごくおかしいんじゃないかと思った。ショートショートのドタバタこそがこの人の持ち味だから。作者は、子どものJ文学というジャンルに挑戦したんじゃないかな。まじめな人だから、何かテーマを設定しなければいけないと考えて、「大人の世界への反逆」をテーマにしたのでは? そのテーマと、読者へのサービス精神で書いたものじゃないかと思う。だから筒井ファンにとっては、新しい試みをしたというところでおもしろいわけね。

:おもしろく読みました。前半は近未来みたいなのに、えらくやぼったい横丁が出てきたりするのもおもしろかった。皆がエゴに走って、自分たちのことは自分たちで守ろうという社会が絶対に興らないとはいえない、と感じた。主人公は、殴られたら殴ればいいわ、というように妙に淡々としているところがあるが、志津恵さんが男を捨てて出るときのセリフを聞いて、なんてやさしい人だと思うところなどに、主人公が少しずつ成長していることがわかる。

アカシア:そこはちょっと苦しくない?

:作者は志津恵さんや愛ちゃんみたいな女性が好みなんだな、と思う。

ペガサス:それは確かにあるね。

:野犬の女王になるところあたりまではおもしろいんだけど、3年たったところからは急速にまとまらなくなった感じはした。書き急いでいるみたいで。だいたいサトルが、何で新興宗教の教祖を支える子になってしまうのか、納得できないわ。

:髪が水色で、普通じゃないから、そこへ行かせなければ収拾がつかなかったんじゃない?

アカシア:筒井康隆はもっとおもしろいはずなのに、って思った。ショートショートだったら、もっと考えて書くか、短いから破綻が来ないということがあると思うけど。これはただ書いただけで、何も推敲してないんじゃないかと思う。おもしろいタネはたくさんあるのに、つながっていないから、ちっともおもしろくないのよ。それに、女の子の古臭い言葉づかいはやっぱり気になった。

トチ:昔の作品より、質は明らかに落ちているよねー。

:『わたしのグランパ』なんか、スーパー老人が出てきておもしろい作品だったな。

アカシア:ドタバタで読ませようとするのなら、もっとエネルギーが感じられてもいいはずよ。これも、いっそスーパー老人の話にすればよかったのにね。

ペガサス:これはドタバタで読ませようとしているとは思えないね。

アカシア:だから中途半端なんじゃない?

愁童:さすがに手だれの職業作家だと思うよ。今の子にどう書けば受けるかということを、きちんと押さえて書いてる。文章もしっかりしているし、スイスイと、それなりにおもしろく読めるじゃない、あとには残らないけどね。以前とりあげた『海に帰る日』をおもしろく読んだという子に出会ったけど、暴走族の出し方なんか、『海に帰る日』とよく似てる。

アカシア:暴走族が必ずしも若者に受けるとは思わないけど、ストーリー展開が早いとか、人物をあまり深く描かないということは今風かもしれない。

愁童:若者に受ける要素をしっかりつかんでいるということはあると思う。

トチ:そこがすごく嫌だったな。

アカシア:筒井ファンはこれをおもしろいと思うのかな?

トチ:思わないわよ。

ももたろう:この本はどういうコンセプトで出したんでしょうね? 帯に「マジック・リアリズム」と書いた意味は?

:マジック・リアリズムとは、現実をマジックで敢えてゆがめる作風で、アンジェラ・カーターが自分の書くジャンルのコンセプトとして初めて使った言葉ですね。

アカシア:ラテン・アメリカにはもっと前からあったんじゃない?

:帯に書いてあるのを見て、日本でもこれをやろうとしたのかと思ったら、全然違った。

アカシア:現実に不思議な要素が入ってくるものは、何でもマジック・リアリズムと称するみたいなところがあるね。

ももたろう:最後までツルツルと読めたけど、残るものがなかった。妙に古臭いところを出して、あえて時間を下げて、テクニックを使って新しいところを出すようにしたのかな? リアリズムかなと思って読んだら違って、はぐらかされた。それに長編のわりには愛ちゃんの人物像が薄っぺらいと思った。ある意味では、クールさを出したのかもしれないけれど。どういう読者にどういう思いをぶつけたいのか、中途半端。子どもの本棚には並べられないと思う。

アカシア:本の最後のページに、『トムは真夜中の庭で』『モモ』『ホビットの冒険』などの広告が載っているけど、編集部ではこれらの本と同じと思って作ったのかな?

ペガサス:それはね、最後に「あっそうか、これは岩波の本だったんだ」って気付かせるためよ。

すあま:筒井康隆は好きだったけど、この本はこの装丁がどうしてもダメで、買う気になれなかった。子どもの本には見えなくて、どちらかというと連城三紀彦とか渡辺淳一って感じ。

ねむりねずみ:作品のなかにはいりこんで感動するということはなかった。デストピアを通り過ぎていく少女のロードムービーみたい。お父さんとの再会の場面など、愛ちゃんが一方的にしゃべるだけで、やりとりになっていないし。本当に人と人とがぶつかりあう場面は出てこないみたい。ただ通り過ぎていき、横に寄り添うだけ、といった感じ。愛ちゃんが唯一ウェットな関係をもっている相手が犬なんでしょうね。それから、女の子の一人称であることを、作者が完全に忘れているところがあって、シェイクスピアがどうとか、女の子の言葉ではあり得ない部分があった。「独特のお色気があり・・・」なんて、女の子の言葉ではないでしょう? 今の時代のゆがんでいる部分をうまく配置しているとは思うけど、それ以上にはなっていない。すべてが透けて見えてしまう。上手に書いているけれど、気持ちがはいってないという感じ。

もぷしー:最後まで、これが児童ものと認識しないで読んでしまったが、認識しないときのほうが、受け入れられた気がします。ひとつひとつを作者が思いをこめて書いたにしては、伝わってこないな、と思った。過ぎ去っていく出来事の中に自分が置かれている、という今の子らしいものを書いたということなんでしょうか?

アサギ:近ごろこれほどバカバカしい本は読んだことがなかったわ。何でこんだくだらない本を書いたのか、と作者に聞きたい。

アカシア:バカバカしい、と、くだらない、は違うよ。

アサギ:両方ってこと。こんなつまんないもの! 全部が気に入らないわ。たとえば「知的な」という言葉の使い方。大学を出ているから知的だ、という表現が二箇所もあるのよ。本気で書いているのかしら。まさか、と思ったわ。信じられない!

トチ:それはね、この本を出した知的な出版社を筒井康隆が皮肉っているのかも……

(2002年05月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


『四十一番の少年』

井上ひさし/作
汐文社 (文藝春秋社)
1998

ねむりねずみ:私の数々の引越しの中で処分されなかった、数少ない文庫本の一冊。井上ひさしでは『ブンとフン』など、ユーモラスなものを中心に一時期のめり込んで読んでいたけど、こんなものも書くのか、と一目置くきっかけになった一冊でした。淡々とした語り口だから、逆に起こっている事のすごさがこっちに迫ってきて、すごく強く印象に残る。作者の意図や作品の構造がどうとか読者に考える隙を与えない。読者が自然に入ってゆけるところが、やっぱりうまいと思いました。文学作品を読んだ、という手応えがあった。終戦後の状況を描いた話だけれど、必死に這い上がってゆくハングリーさとか、今の子が読んだらどうとらえるのかなっていうのが興味あります。これは、子ども向けに書かれたわけじゃないんでしょ?

アカシア:でも、汐文社のは「井上ひさしジュニア文学館」シリーズとして出てるのよ。

すあま:私は、J文学の無い時代に育ったから、文庫本の中から自分が読めそうなものをさがして『ブンとフン』などを読んでいたのですが、養護施設でボランティアをしていた頃に読んだ思い出深い一冊がこれです。時代は違っても共感して読めた。今の養護施設は、児童虐待の保護施設のようになっていて、本の中の養護施設とは、子どもたちのバックグラウンドがずいぶん違ってきましたよね。みなさんは、バックグラウンドが古いという印象を持ちました?

ももたろう:養護施設の状況は違うかも……でも、いじめは今でもあって、子どもの世界にも力関係がある。恐怖を感じながらも、何とか取り入って生きていこうとする姿勢なんかは、今にも通じると思う。だから、主人公利雄の気持ちに従って読めました。子ども時代の気持ちを、大人になっても体が震えるほど怖い、という形で、さかのぼって表現しているところが面白い。こういう作品から、主人公の気持ちを読み取れる読書力のある子ども読者がどこまでいるかな? 読ませてみたいな。

愁童:今回の3冊の課題の中で、いちばん文学を読んだという感じがした。時代背景が違っても、いじめの本質は昔と今で変わらないから、今の子にも結構読まれるのではないか? 子どもたちに日本語で小説を読ませるなら、こういう文章を読んで欲しいなってしみじみ思った。

アカシア:『ハルーンとお話の海』『愛のひだりがわ』vs『四十一番の少年』という構図で考えると、登場人物の内面を描くか描かないかという点で、対極的な作品だと思いました。もし、登場人物の内面を描かないで、外側のおもしろさだけで引っ張っていくのなら、それはゲームでもいいんだから、本なんか無くてもいいことになってしまう。本の未来はないでしょうね。この本の「解説」で、「ユーモア作家井上ひさしには珍しい、笑いの無いシリアス作品」というようなコメントがあったけど、それは的外れだと思った。私は、この作品に井上ひさしのユーモアの部分が随所に見られると思った。不謹慎だとは思うけど、ナザレトホームの歌とか、昌吉の未来の履歴書とかは、哀しいなかにも笑える要素がずいぶんあると思う。『愛のひだりがわ』の場合は、「作者はプロなのに子どものだからといってこんなの書いていいのか!」と思ったけど、これは逆だった。いじめについても、良いとも悪いともいわないで、今も昔も同じようにあるんだよと言うふうに扱っていて、井上ひさしはやっぱりプロだなと思った。

愁童:それを排除しようとするのが今の教育体制だけど、そんなことしても状況は変わらないよね。こんな本読んで、人間理解を深めることが先決。

アカシア:いじめは、仲良くするように努力すれば止むんだと思っているほうが悲惨。

:これを読んだ感想は、一言でいうと、面白かった。安心して読むことができました。いじめなんかも必ずあることだし、昌吉の人をうらやんでちょっと意地悪しちゃう気持ちも、切ないくらいわかる。良し悪しは別として、人の心の動きを書いているのがいいと思う。利雄が舟に乗って冒険に行くところも、本当は誘拐の手助けになっちゃうところで、良いことではないんだけど、妙におかしい。少しずらした視点で考えると、もっと大きなものが見える。これが文学なんだな、と思って読めた。

:『ハルーンとお話の海』は、何か読み取れるはずなのに読み取れなくて、肩透かしな感じだった。井上ひさしを読んで、やっと前の2作で感じたフラストレーションがおさまりました。この作品は、登場人物の内面を自分自身の内的体験をコアにして書いているところに強みがあると思う。子どもの主人公を、大人になってから自嘲的に自己省察させるという、その距離がユーモアを生んでおり、シリアスな中にも救いがある。子どもの主人公を、大人になってから自己省察させることによって、子どもというものを使った大人の小説家の手法を見た。テーマ性をしっかりもった作品で、他の二作と違って、純文学が子どもを使ってとして成功した例だと思う。ただ、母親に書いた手紙など、古臭さが感じられ、どこまで今の子の読書に耐えうるかは疑問。今の大学生でもどうかしらねえ……。

もぷしー:「作者の新しい試み」や「新しい文体」など、一種のファッション性を追求する最近のJ文学を読んでいるさなかにこれを読んで、久々に、読者が作者の意図に振り回されずに、内容だけを味わえる作品だな、と思いました。話のバックグラウンドが古いのでは?ということも、いじめなど現代に通じるテーマもあるし、それはそれで受け入れられるんじゃないかな。この本は私が生まれた年に書かれたものですが、自分が体験していないことでも、描かれている感情が今もリアルに生きていることなので、のみこめました。ただ、現代は人と人との距離がかなり離れているけれど、この作品の時代は、係わり合いになりたくない人の生活や内面まで知ってるような感じだから、人間との距離のとり方はずいぶん違っているなという感じを受けましたが。子ども時代にはかなり深刻であったろう出来事を、消化してから描かれているところに作品の余裕を感じ、子どもたちに読んで欲しいなと思いました。

トチ:みなさんと同じで、とにかくうまい、文章といいプロットといい、まさしくプロの作品だと思いました。冒頭部分など、地理的にも描写が難しいところを主人公の目の位置で描いているから、ありありと読み手の目にうつってくる。構成も、牧歌的な雰囲気ではじまり、ところどころちくっと刺のようなものはあるけれど、ユーモアもあり、ぐいぐいひきつけられていく。丸木舟の冒険で、主人公の気分も晴れ晴れとしてくるところで、一気にどん底まで落ちていく。そこの展開は、すごいと思いました。でも、子羊のように純真無垢な男の子が死んでいく場面はとてもショックで、ああ読まなければよかったと思うくらい、落ち込んでしまいました。ストーリーの上では無くてはならない場面だけれど。
もぷしーさんは、子ども時代に深刻だった事件を大人になって消化して書いているところに余裕を感じたということだけれど、私は少し違った感じを持ちました。昌吉は救えなかったのに自分はいまこうして生きているということに、主人公は子どものころには感じなかった罪の意識を覚えているのではないかしら。カソリックのことはよく知らないけれど、悪とか罪というものに対するカソリック的な考え方(感じ方)がうかがえたような気がする。曽野綾子の『天上の青』も悪と許しを書いた文学だと思うけれど、悪の描き方や感じ方が少し違っていて、そこのところも興味深かった。

ペガサス:さっき、笑いのポイントとして挙がっていた未来の履歴書のシーンでは、私は涙が出て、とても笑えなかった。胸が痛くなった。昌吉は確かにひどい子だけど、子どもの純真さと冷酷さの両方をを併せ持った子として描かれている。だから読者に「憎い」という気持ちを起こさせない。それは作者が人間愛(人間を良い悪いの2つの尺度だけで測らない)をもって昌吉像を描いてるからだと思う。大人になってから書いているからそれができたのではないか。いじめられてるさなかでは、主人公利雄は昌吉をあんなふうには温かく見られなかっただろうし。そういう点で、このお話は、人間の両面性を理解できる大人になってから読む本じゃないかと思った。

トチ:でも、人間の両面性を気にしないでいられる年齢って、今どんどん下がってきてるんじゃない?

一同:うんうん。

アサギ:井上ひさしはやっぱりうまい!って、私も思いました。でも、このお話読んでると、どんどん辛くなってくるのね。確かにユーモアは、対象との間に一定の距離が無ければ生まれないんだけれど、このお話には、かえって距離をとってユーモアにしなければ語れなかったっていう、切実な感じがある。それがこの作品に深みを与えているのね。未来の履歴書も、読んでて胸がいっぱいになった。井上ひさしのユーモア作品と演劇の作品は知ってたけど、これを読んで新たな発見をしました。ただ、いい作品だけど、読んでいてかなり辛かった。若いうちはショックを受けても跳ね返せるけど、だんだん、こういう作品は辛すぎて読みたくないって思ってしまった。

トチ:そういうショックには、子どもの方が強いんじゃないの?

アサギ:絶対強いと思う。でも子どもには、この作品の切実さは、わからなくてもいいんじゃないかしら。

アカシア:切実とはいっても、ユーモアの中にある切実さは、子どもにも通じるものがあるのでは? 「子ども」の年齢によると思うけど、中学生より上には、こういう作品も読んで欲しいと思う。ハッピーエンドでない作品もね。

トチ:私は、本を読んで落ちこんだって、ショックを受けたっていいと思うのよ。じゃなければ、本を読む意味なんてないもの。

アサギ:これは、作品が優れている分、よけい辛かったの。

アカシア:今の子は、本を読んでも、落ち込むまで感じ取れないみたい。

愁童:昔は、中学生といえばもう大人扱い。純文学でも古典でも、難しいものをたくさん読まされた。わからない文学も背伸びして読んでいたものだったけど、今の子は、等身大のものばかり読んで育っている。そもそもあまり読んでいないから、フィクションに共感して、疑似体験をするという経験が少ないし、本を読んで落ち込むこともできない。第一落ち込むような本は読まないよね。

トチ:級友の女の子の家の運転手など、ほんの少ししか出てこない人でも、描き方が非常にうまい。全ての登場人物を温かく、まあるく描いている。それだからこそ、ストーリーの切実さがよけいに増してくるのよね。

アサギ:心に残るんだけど、辛さのほうがたくさん残ってしまうのよ。それを跳ね返せるのは、若さのパワーなの。

愁童:映像ばかり見て育つと、出来上がった他人の既製イメージばかり蓄積されるわけで疑似体験には成りにくいよね。活字でそれを読んでいる子は、自分でイメージを構築しなければならないから、しんどいけど、そのプロセスが体験につながるもんね。

:いや、子どもにはもっと正常なポテンシャリティがあると思うわ。

アカシア:でも、映像だけで育ってきた子は、人間と人間の関係性がうまく結べなくなっているように思う。親子関係だけじゃなくて、他人との間にどれだけ深い関係が結べるか、っていうことが大事なのよ。そして人と人との関係って、文学から吸収できるところがたくさんある。映像文化だけでは、育ってこない力だと思う。ハリポタみたいなのばかりを読んでいると、内面を描いた文学に出会ったとき、暗いだけで面白くありませんでした、っていうことになっちゃう。本は、自分で世界を構築しなければいけないから、ある程度その力がないと楽しめない。結局、力がなくても読めるハリポタみたいな作品ばかりがもてはやされるようになってしまう。

もぷしー:出版社のほうも、たとえ本当は『四十一番の少年』のような本を出していきたくても、そういう本はなかなか読んでもらえないから、どうしてもハリポタのようなものを多く出版する傾向があると思う。映像的な本ばかり出版していたら、読書の楽しみが子どもに育たないのを助長しているようなものなのだけど……ジレンマ。

ももたろう:読書経験の少ない読者に、いきなり『四十一番の少年』を読みなさいといってもそれは無理。やはり、絵本や幼年文学からはじめて、幼い頃からの読書体験を積み重ねていかないと。

:ずっと映像だけで育ってきた子どもでも、大学に入ってから文学に開眼することもある。それからでも遅すぎるわけじゃないと思う。ポテンシャリティはあるわよ。

愁童:最近、学校での10分間読書がきちんと行われてきていて、それでだいぶ変わってきていると思う。この間見学したけれど、その10分は、大人も含めて、学校中全員しーんとして本を読んで、音が全くしない。そういうふうに一日10分何かに集中するということだけでも、何かが変わると思う。問題のある子は、その10分も耐えられないんだけどもね。でもとにかく活字に触れて、考えることが大切だと思う。それから、昔にくらべて、生徒に立って声をだして教科書を読ませるとことが減ってきているようだ。先生が、区切りのいいところで、はい次、と言うことができなくなっているんだよ。文脈と全然違うところでぶちっと切ったりする。あれじゃあ、子どもの読解力は育たないよ。先生が、本が読めなくなってきているわけだ。

ももたろう:究極的に言うと、大人が本を読むべき、ということかな。

(2002年05月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)