日付 2004年1月22日
参加者 トチ、カーコ、ブラックペッパー、紙魚、アカシア、むう、羊、愁童、ケロ、Toot、すあま
テーマ 日英の児童文学の現在

読んだ本:

いしいしんじ『麦ふみクーツェ』
『麦ふみクーツェ』
いしいしんじ/作
理論社
2002

版元語録:音楽にとりつかれた祖父と、素数にとりつかれた父、とびぬけて大きなからだをもつぼくとの慎ましい三人暮らし。ある真夏の夜、ひとりぼっちで目覚めたぼくは、とん、たたん、とん、という不思議な音を聞く。麦ふみクーツェの、足音だった。――音楽家をめざす少年の身にふりかかる人生のでたらめな悲喜劇。悲しみのなか鳴り響く、圧倒的祝福の音楽。坪田譲治文学賞受賞の傑作長篇。
エイダン・チェンバーズ『二つの旅の終わりに』
『二つの旅の終わりに』
原題:POSTCARDS FROM NO MAN`S LAND by Aidan Chambers, 1999
エイダン・チェンバーズ/作 原田勝/訳
徳間書店
2003

版元語録:アムステルダムを訪れた17歳のジェイコブはオランダ戦線で戦った同じ名前をもつ祖父の秘密を知ることになった。祖父の青春をたどり直し、さまざまな形の恋などが展開する。 *カーネギー賞、マイケル・L・ブリンツ賞受賞


麦ふみクーツェ

いしいしんじ『麦ふみクーツェ』
『麦ふみクーツェ』
いしいしんじ/作
理論社
2002

版元語録:音楽にとりつかれた祖父と、素数にとりつかれた父、とびぬけて大きなからだをもつぼくとの慎ましい三人暮らし。ある真夏の夜、ひとりぼっちで目覚めたぼくは、とん、たたん、とん、という不思議な音を聞く。麦ふみクーツェの、足音だった。――音楽家をめざす少年の身にふりかかる人生のでたらめな悲喜劇。悲しみのなか鳴り響く、圧倒的祝福の音楽。坪田譲治文学賞受賞の傑作長篇。

トチ:今回読んだ本は、どちらも大きな賞の受賞作でヤングアダルト。でも、『ふたつの旅のおわりに』のほうは作者がはっきりと言っているように、明らかに十代の子どもに向けて書いている。『麦ふみクーツェ』も十代の少年が主人公だけれど、こちらのほうはどうかな?……というわけで、本を選ぶ係になった私とむうさんは、子どもに向けて書いたものと、子どもをテーマにして書いた(らしき?)ものを選びました。
 さて『麦ふみクーツェ』ですが、前に同じ作者の『ぶらんこ乗り』を読んだときに、どうもわけがわからなかったんですね。はっきり言えば、嫌いだった。この読書会でも、あまり評価は高くなかったような記憶があるんですが、読書会の外ではけっこう評価が高かった。それで、自分自身の読書力(?)がにわかに心配になり、いわば敗者復活戦といった気持ちで読みはじめました。まあ、身構えて読んだってわけ。
数ページ読んだところで、どうしてこの作者はこうも日本的なものを必死になって排除しているのかと腹が立ってきたのね。最初の舞台は漁港だけれど、漁師とか船乗りは出てこないで、水夫。縄のれんも、焼酎も、演歌も、ニシンの匂いもなし。だいたい私は、欧米ファンタジー風の事物を次々に登場させて、そういうものが好きな読者をくすぐっていくような作品が大嫌いなので、これもそうかなと思いました。それから、最初のほうではクーツェのほかには、登場人物の名前が出てこないのよね。「郵便局長さん」とかになっている。『クレーン男』(ライナー・チムニク文・絵 矢川澄子訳 パロル舎)の真似してる!なんて思っちゃって……。
 ところがところが、半分くらい読んだところから、この世界にはまっちゃったのよね(笑)。いしいしんじの作った世界にからめとられてしまった。なぜ『ぶらんこ乗り』がだめでこっちは良かったのか考えたんですけど、ひとつには『ぶらんこ〜』のイメージは寒色系で冷たい、死とか負のイメージが強かった。ところが『麦ふみクーツェ』は、海やネズミといった、暗い、ネズミ色っぽいイメージが、作者の成長につれて、麦畑や、冬の日差しを思わせる暖かいものに変わっていく、そこが良かったんだと思うの。明るい、生命力を感じさせるもので、最後をまとめている。これは主人公のアイデンティティ探しの物語ですよね。最初は自分がこの世に生まれたことに、後ろめたい、暗いものを感じていた主人公が、物語の終わりでは自分の音楽や、おじいちゃんを通じて脈々と流れている暖かい血を発見する遍歴の寓話。そう考えると、日本的なものを排除しているところも、ちょっと変てこなところも気にならなくなりました。作者は子ども向けにと意識して書いたのではないかもしれないけれど、児童文学と言えるんじゃないかな。ひとりの子どもが生きていくときには、様々な人の人生がモザイクみたいになった中を進んでいくんだなと、気障な言い方をすれば、ひとりが生きていくってことは、自分がめぐりあう様々な人の人生をも生きていくってことなんだなと思わせるような作品でした。

カーコ:この2冊は対照的でした。気づいたことは2つあって、1つは、固有名詞というのは、読者をいかに作品によりそわせるものかということ。一般名詞の名前だと、読者がその身になりきりにくいですよね。作者が、意図的に読者をつきはなし、フィクションだということを意識させて物語が進んでいく感じ。もう1つは、感覚に訴える表現の多さ。見えないこととか、音とか、匂いとかの生々しいイメージが押し寄せてくる。物語全体としては、よくまとまっているけれど、私は作品としては好きになれませんでした。いちばん気にいらなかったのは、音楽の扱い。音楽ってこんなにかんたんに身につくものじゃないだろうとか、楽器(チェロ)をこんなに粗末にしないだろうとか。音楽関係の身内がいるせいかもしれませんが。

ブラックペッパー:私、みんなが突然音痴になるというのは、ちょっとおかしいと思いました。だって音痴って歌を正しく歌えないっていうことでしょ。楽器の演奏がうまくいかないのは、一般的には音痴とは言わないのでは? それと音痴はもともとのもので、急になったりしないと思う。

トチ:変だと言い出したら、なにもかも変だよね。

カーコ:変な世界にとりこまれていきますよね。この本の奇妙さにひたりきれなければ、読み進めるのはたいへん。フィクションのおもしろさを感じたら、読み進められるのかしら。『海辺のカフカ』(村上春樹著 新潮社)を思い出しました。

Toot:タイトルからして変てこで、中身もいい意味でひきつけるものがある。でも、読みながら違和感があって地に足がついてない感じ。第三者として観劇しているようで、入りこめなかった。セールスマンのあたりからは、そそられて読んでいったのですが、それも一瞬。作品との距離感があって、ストーリーを受け入れられなかった。創作するというよりは、自分のなかの感性で書いている印象。用務員さんとか、「みどりいろ」とか、生まれかわり男とか、何を意図しているかつかめなかった。

紙魚:私はね、なんととてもよかったのです。読むと知識が増えるとか、ためになるとかではなくて、ただ読書のためだけにある本だと思って、感動しました。機知に富んでいて、ところどころで自分の目線がふっとかわる喜びを味わいました。微視的に見ていたものが、急に巨視的につかめたり。例えば、144ページの「スクラップブックのページをながめていると、そのことばどおり、独立した特殊な事件など、この世にはなにも起きていないような気がしてくる。すべての事故が、どこか遠いなにかと関連もっている。」なんて文章につきあたると、それまでバラバラだったいろいろな小さな物事が、急に列をなすように感じられるんですね。この物語では、いくつかそういう場面に遭遇し、物事の本質を一瞬垣間見るような興奮を覚えました。これって、教養小説ですよね。この、いしいさんがつくりだした世界の中では、クーツェはこうやって自分を見つけていくのだと思います。それから、音楽について、なんて気持ちよく書かれているのだろうと思いました。体が楽器だとか、コンサートホールが楽器だとか、そのつど共感しながら読みました 。読後、1つの曲を聴き終えたような静かな興奮がありました。

ブラックペッパー:今回の2冊をくらべると、印象がとってもちがっていて、『二つの旅の終わりに』は、きゅっきゅっとかたい四角の中にまた小さい四角がすきまなくぎっちりつまっているような感じ。『麦ふみクーツェ』は、形の定まらないものの中に羽のようなものがふわふわふわーっと漂っているような感じ。こちらは、私はちょっとつきあいきれないと思っちゃった。『ぶらんこ乗り』もそうだったのですが読みにくくて。出来事もオリジナリティがあるし、表現もオリジナリティがある。一般的な法則と違っているところが、私の小うるさ心を刺激するんですね。たとえば38ページの「ゆきだるま」。「ゆきだるま式におおきくなっていった」と言われたら、横に大きくなったのかとパッと思っちゃうんですけど、ここは縦に伸びているという……。こういうところで、こつんこつんとつまずいちゃってね。ふつう法則のようになっていることって一字一字読まないでするーっと行けるけど、これはその法則にぴったりこないの。予想が裏切られることになるから、読むのに時間がかかっちゃうのかなと思いました。主人公がすごく大きいのに、オーケストラに入ってから「劇団員のだれよりも背が高い」ことに気づくのもおかしい。この本の世界の法則についていけなかった。

紙魚:『二つの旅の終わりに』は、何か問題を出したら必ずおさめるという感じ。『麦ふみクーツェ』は出しっぱなしという感じ。

アカシア:私は、この本を悪い条件で読んだんですね。時間がとれなくて、寝る前に読んだの。それで、ちょっと読んでは眠ってしまったので、なかなか世界に入っていけなかった。もっと集中して読めたら、違ったかもしれないけど。波長が合えばとてもおもしろいし、波長が合わなければ最後まで入っていけない作品。ありえない話だし、登場人物の固有名詞もほとんど出てこないという意味では、『穴』(ルイス・サッカー著 幸田敦子訳 講談社)を思い出しました。でも、『穴』のほうがおもしろかった。セールスマンが村の人々を騙すところだけ、なぜかリアリティがありましたね。それに、おじいさんが実は大工だったということに、主人公がショックを受けるのは意外だった。

トチ:そうね。主人公が尊敬していたのはおじいちゃんの音楽の才能であって、ティンパニ奏者であったことではないものね。作者と波長の合う読者は、しっかりと書けているように思えるセールスマンの物語の部分にかえって違和感を感じるんじゃないかしら。ここは、前に聞いたことあるような、よくある話って感じだった。

むう:私は『ぶらんこ乗り』はまるでだめだったんだけど、これはよかった。かなりおもしろかったです。読んでよかったと思えた。最初の麦をふんでいるあたりが暖色系だというのもあるし、私にとって大きかったのは、異形の人ばかり登場するんだけれど、彼らがつまはじきになることなくそれぞれに居場所を見つけて生きているということ。355ページで「へんてこで、よわいやつはさ。けっきょくんとこ、ひとりなんだ。ひとりで生きていくためにさ、へんてこは、それぞれじぶんのわざをみがかなきゃなんない」という先生のせりふがあるけれど、こんなに露骨に言うかどうかは別として、この世界全体がそういう視線で描かれている。生きてていいんだよ、というのかな。取っつきは妙な話だなと思ったけれど、ああそういう話なんだと思ったので、細かい箇所はあまり気にしないようにして読み進みました。最初は主人公の生活の真ん中にすごく大きな穴がぽっかりと開いていて、その周りで三人がそれぞれに生きていた。主人公がルーツをたどっていくことで、その大きな穴が最後はちゃんと埋まってすべてがかちゃっと収まるところに収まる。そういう意味では大団円で、読者も安心できる。それにしてもチェンバーズとは対照的で、とん たたん とん という心臓の音からして孤独で寂しい感じ。寂しいよう、寂しいよう、でも一生懸命生きてるんだよう、ということを、ひりつくようでありながら暖かい目線で書いていて、それはそれで気持ちいいのだけれど、それだけでいいんだろうかと思わなくもない。この人は、社会というか大状況をすべて捨て去ったところで人間存在を書いている。だから逆にセールスマンのところが気になったんです。その前後は社会とまるで無縁な、地に足がついていない世界で完結していたのに、そこだけ地上に降りかけたみたいだったから。あと、数学の取り上げ方はちょっと気になりました。でも、『ぶらんこ乗り』にくらべるとずっとよかったです。

すあま:最初は読みづらく、進まなくて大変でした。ただ、だんだん整理されてきて、最後にはクーツェが名前ではなくて、「ずいぶんな変わり者」っていうことがわかる。クーツェな人がたくさん出てきて、スクラップブックに貼られるのもクーツェな人で、でもその人自身は一人しかいないんだ、というようなところに落ちつくと、それはよくあるような話にも思える。わかんないままにそのまま終わるかと思っていたら、最後、けっこういろいろと説明してくれるんですね。冒頭の部分で入院していた理由も知りたくて読み進んだのですけど、想像したよりも普通に入院していたことがわかって拍子抜けした感じですね。出てくる人たちにあまりいやな人がいないから、読んでいていやな気持ちがしない。おもしろかったのか、自分が好きなのかは、いまひとつ整理できません。吹奏楽の部分で、イギリスの映画『ブラス!』を思い出しました。それから、ちょうちょおじさんの盲学校の話がおもしろかった。

カーコ:いっぷう変わった人たちのことを、差別語をつかわずに書くって、たいへんなことですよね。

むう:この本には葛藤がないですよね。人間と人間が生でぶつかり合うと時には互いに傷つけあうこともあるのだけれど、ここにはまったくといっていいほどそういう場面がない。さっきのセールスマンの挿話の違和感もそこにあるのかもしれない。あそこは本当ならその後いろいろな葛藤が起こっていいくらいのエピソードなのに、その葛藤がないから肩すかしを食らったような嘘っぽい気分になってしまう。他のところは周到に葛藤が避けられているからそういう違和感が起こらないんだけど。

ケロ:この本は、ずいぶん前に買って、そのままにしていて、夜眠れないときに出してきて読むというのを繰り返していたのですが、読むたびに拒絶される、というか、作品世界にはいっていけないものを感じていました。最初の「とん、たたん、とん」という音も、状況がよく把握できないので、よけいに入りづらかったのだと思います。一つ一つのエピソードはおもしろく読めるのですが、のめり込むという感じにはならない。なのに、最後まで読んで、涙が出てくるほどの感動があったんです。でも、その感動の正体がわからなかった。今回、『二つの旅の終わりに』と一緒にもう一度読んだら、なにか謎がとけたような気がしました。私は、この主人公が「いろいろあるけど生きていっている」ということに感動していたんだとわかったんです。

愁童:実際の「麦ふみ」って、「とん たたん とん」って音がしないけどな……。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年1月の記録)


二つの旅の終わりに

エイダン・チェンバーズ『二つの旅の終わりに』
『二つの旅の終わりに』
原題:POSTCARDS FROM NO MAN`S LAND by Aidan Chambers, 1999
エイダン・チェンバーズ/作 原田勝/訳
徳間書店
2003

版元語録:アムステルダムを訪れた17歳のジェイコブはオランダ戦線で戦った同じ名前をもつ祖父の秘密を知ることになった。祖父の青春をたどり直し、さまざまな形の恋などが展開する。 *カーネギー賞、マイケル・L・ブリンツ賞受賞

:久しぶりにページが減っていくのが寂しくなる本でした。おもしろいので、もっとゆっくり読まないともったいない気分になりました。主人公のジェイコブのオランダでの日々と、ヘールトラウの手記が交互に出てきて、これがどんなふうに繋がっていくのか、楽しみでした。物語の最初からジェイコブの不安、苛立ちや不快感が伝わってきて、どんなお話になるのかと思ったけど、ヘールトラウの手記に惹きこまれ、156Pのディルクの農場に移るあたりから、手記だけを読んでしまった。手記だけでも、ひとつの物語として読むことができましたね。戦争から開放されると喜んだ矢先に戦争の実態を思い知る場面や、一家が巻き込まれていく様子が、映像のように浮かんできて。トンとか、助けてくるおばさんとか、出会った人たちの存在感があって、心の通い合いが伝わってきました。ジェイコブとダーンの会話の引用文のとらえかたも、おもしろかった。

すあま:去年読んだ本のなかでは、とても印象に残っています。一昨年オランダに旅行に行ったので、ジェイコブと一緒に、追体験しました。以前友人がちょうどこの作品に出てくる記念式典の時にアルネムを訪れていて、ホテルに勲章をつけた人たちがいた、と言っていたのを思い出して、その友だちにこの本をすぐに紹介しました。そんなこともあって、私にとっては個人的に興味深かった。物語が二重構造になっていて、いったいこれからどうなっていくんだろうという謎の部分があり、どんどん読んでいった。昨年末にチェンバーズが来日した時、講演会に行ったんですけど、北欧やオランダの人たちに人気があるという話がありました。

むう:私ははっきりいって苦手でした。なんかてんこ盛りで、げっぷが出そうだった。作者の思いを受け止めきれないという感じ。それと、出てくる人がともかく饒舌でしょ。恋人候補とでもしゃべるしゃべる。彼我の差を感じちゃった。ヨーロッパの人は言葉で言わなくてはわからないという思いが強いんですよね。その通りだと頭ではわかるんだけど、こっちの体力がないときに読んだせいか、すごくしんどかった。それに、ジェイコブの言葉が著者の言葉に聞こえて来ちゃって。あんまり好きじゃないんですよね、ジェイコブが。この人の本を読んで若い人がいろいろなことを考えさせられるという感想を持つのは納得できます。たしかにいろいろな問題が扱われていて、それもオープンエンドになっているから、いろいろなことを考えるきっかけになる。この本は構造がダブルになっていて、しかも現代のほうにはホットな問題が山盛り。「人間には過去もけっして無縁でないし、今生きていくこと自体じつに大変なんだ」というのはよくわかる。でもあまりに問題が多いから印象が拡散している。たいへん誠実な本だとは思うんですが。ところで、日本には、こういうふうに社会的な存在としての人間を書いた本は何があるのかな。それと、原題は「緩衝地帯からのハガキ」じゃないですか。それが訳書では『二つの旅の終わりに』となっている。それと、訳書で章タイトルが「ジェイコブ」となっているところは、原書では「ハガキ」となっている。このあたりはどうなんだろうなあと思いました。チェンバースさんの講演会に行って、作者のすごさ、誠実さを感じて、この本が今回課題になったのをきっかけに著書を3冊も読んだんですけど、たとえば『おれの墓で踊れ』と比べても、これが最高峰という感じは受けませんでした。

カーコ:「ハガキ」とか「ポストカード」となっていたら、もう少しジェイコブのほうに、読者の目線がいったかもしれませんね。

:でも、あんまりジェイコブって魅力的じゃないのよね。

アカシア:すごい本なんだけど、ふつうの中学生とか高校生に読ませるのは難しいんじゃないかしら。確かに緻密で骨が太いんだけど、ユーモアがないと思ったの。子どもの本だったらユーモアがほしい。原書は、もっと文体に変化があるし、緩急があるんじゃないかな。オランダ人のしゃべる英語も、いかにも文法に忠実な外国人の英語という感じで、そこはかとないユーモアがある。イギリス人の子どもが読んだほうが、おもしろいのかもしれない。

トチ:最初の章で、ジェイコブがアムステルダムのカフェに入っていくところなど、原文で読むともっと軽い感じがしたんだけど。

ブラックペッパー:タイトルから真面目な本なんだと思って読み始めたら、イケイケ青春ものっぽくなってきて、「よしっ」と思ったら戦争の話で、やっぱりそうよね……と思った。ヘールトラウと祖父の間に子どもが生まれてたことも、やっぱりとは思うものの、それもよしよしという感じで、満足感がありました。ぎっちり中身がつまってるけど、重たすぎるということはなくて、いやではなかった。ただちょっと、これはどうなのかなと思ったのは、17歳の男の子が、アンネ・フランクを恋人のように思ってること。それから、おじいさんのジェイコブの死が突然すぎる。まあ、戦場で死んでは遺品が残らないけど。あと、ダーンは両刀で、そうか、両刀はやっぱりカッコいいのかとか。でもね、全体としては、満足。

紙魚:『麦ふみクーツェ』が「生きる」ことを書いた作品ならば、『二つの旅の終わりに』は「よく生きる」ことを書いた作品。少し長く生きた人が、次の世代や、次の世界に対して持つ「願い」のようなものがこめられていて、それがいいなと思いました。児童文学って、やはりそういうものがあってほしい。しかも、とてもこの作家はきちんとした人なので、尊厳死とか、同性愛だとか、生きるうえで考えるべきことを、ちゃんと物語の中に組み込んでいる。ただ、それがなんだか「はい、ここで問題です」と言われているような感じもしなくはありません。先に読んだ『麦ふみクーツェ』に、あまりにも人が生きる熱を感じてしまったので特に、この本にそういった空気を感じましたね。しかも、とっても配慮がゆきとどいているんですね。たとえば、165ページの「オランダにもナチスがあったという事実」なんていうのは、非常に配慮を感じます。お手本のような作品です。それから、17歳という年齢設定は違和感を覚えますが。自分が何を好きなのか、自分が何者であるかまだわからない少年の心の動きは、よく書けていると思いました。

アカシア:「オランダのナチス」の部分は原書と少し違って、日本の読者のためにわかりやすくしたんだと思う。

Toot:『麦ふみクーツェ』は、今生きている人。『二つの旅の終わりに』は、生きることを振りかえった人。やっぱり、ヘールトラウが胸にしまっておけないところが小説になっていると思う。途中からは、手記の方に興味が出てきて、ジェイコブの方は軽く斜め読みしてしまった。これは、児童文学にあてはめないほうがいいんじゃないかな。

カーコ:私は生真面目な性格なので(笑)、好きでした。読み応えがある作品。夫婦のあり方の問題、戦争の問題、性の問題、安楽死の問題など、たくさんの問題を投げかけますよね。ダーンのおばあさんが戦争中にこういう体験をしていることを提示しているのも、モラルどおりにならない、生きることの複雑さが見えて、いいなあと思った。あと、会話がうまいですね。会話をしながら、話題が変化していくでしょう。例えばジェイコブとアルマとの会話。どこに行きつくんだろうという感じがあって、確かに会話ってそうだなと感心しました。高校生くらいで読んでほしい、手渡したい本ですね。どうでもいいばかりじゃない、人生には大事なことがあるんだよと、考えさせられる。それにしては、装丁が子どもっぽいかな。高校生が自分で買うようなつくりにしてほしかったですね。

アカシア:チェンバーズさんとしては、中学生くらいから読んでほしいのよね。

カーコ:でも、日本の中学生にはどうでしょう。長いけれど、最後に物語がどこに行きつくのか気になって、読めました。これぞリアリティって本。

トチ:チェンバーズは、書く前の下調べにとても時間をかけるという話を聞いたことがあるのね。だから、ヘールトラウの話を書くにあたっても、オランダの女性からどっさり話を聞いたんじゃないかしら。その事実の重みも感じられて、ヘールトラウの告白のほうは、ぐいぐい引き込まれて読みました。女性の生理的な衝動や感じ方がよく書けていると世界各国の読者から言われるということだけど、私もそう思いました。407ページの「人は、なぜこうも、告白せずにはいられないのでしょうか・・・・」という下りも——作者自身日本での講演で引用したところを見ると、とても気に入っているんでしょうけど——とても美しい個所だと思ったし。ところが、ジェイコブの章になると、あまりにも盛りだくさんで、どうも人物も物語も立ち上がってこないのよね。混沌としていて。
でも、この作品で私がいちばん感動したのは、「どうしても自分はこれを子どもたちに語りたい」という、作者の志の高さ。これはロバート・ウェストールの『弟の戦争』(徳間書店)でも感じたことですけど。作者は自分の語りたいことを子どもに伝えるにはどういう手法が良いか考えぬいたすえに、現代と過去をつなぐためにこういう語り口を使ったのよね。内容ももちろんだけど、手法そのものに作者の熱い気持ちを感じる。『麦ふみクーツェ』もすばらしいけれど、社会的な存在としての人間を描く、こういった大きな作品も児童文学には無くてはならないものだとつくづく思いました。

ケロ:『二つの旅の終わりに』の中で、『過去』の話の方にみなさんどうしてもひかれるのは、戦時下という状況はある意味とてもわかりやすい価値観があるからでしょう。いつまで生きられるかわからない、という中で巡り会った二人は、他の状況に左右されない強さを持つし、説得力もある。それに対して、現代にはいろいろな問題があって、混沌としている。その中で、若者はどれを選ぶか、どう生きるか、つねに選択を迫られている。『現代』の方の描き方が盛りだくさんすぎるという意見がありましたが、それだけ混沌として「おまえはどうなの?」と問いつめられる脅迫観念があることが伝わるので、対照的で良いのではないかと思いました。それから、一度も出てこなかった「おばあちゃん」に、会ってみたかったですね。読んでいてもはっとしましたが、たしかにこのおばあちゃんは知っていたのではないかな? などと思ったので、(おそらくカッコいいであろう)本人に登場して一語りしてほしかったです。
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