ペガサス:オーストラリアに住むベトナムの難民の子の話なんだけど、親ではない人に育てられる子の話だというところに他の2冊との共通点があると思って課題本に選びました。子どもの気持ちがまっすぐで健気な感じが、気持ちよく読める。ナムフォンはつらいことが多すぎてなかなか言葉を発することができないのだけど、「黄色いカナリアさん」とか動物たちを心の友だちにして、自分の気持ちを伝えていくのが印象的。事態は好転するわけではないけれど、少しずつ前を向いて歩いていくという印象が残る。短いながらも、子どもの気持ちが出ている。

むう:作者や訳者の善意がとてもよく伝わってくる本ですね。ただ、低学年向けの短い本だからというのもあるかもしれないけれど、細かい表現がほとんどなくて、読んでいてすっとすべっちゃう感じ。共感するところまでいかなかった。たとえば自転車を家に入れるところも、2階まで上げるんだからとても大変なはずなのに、大変さが伝わってこないんですね。「大変でした」と言われて、「はあ、そうですか」と言うしかない。細かいところの描写がもうちょっとあれば全体が起きあがってくるのかなと思いました。『モギ』もそうなのだけど、自分と文化の違うこういう人たちがいるんだよ、ということを子どもたちに紹介するという姿勢はいいと思いますが……。それと、これはあくまでも好みの問題ということでなんだけれど、あまりに女の子っぽいっていうんですかね。この子は木登りが好きという活発な女の子なのに、こんなべたべたの一人称になるかなあと思います。手紙の語尾もそうだし。苦手だなあという感じでした。

愁童:ぼくもむうさんとほぼ同じ。はっきりいって、つまんなかった。外国人によりそうのではなく、かわいそうだなあと冷たく書いている感じ。親に別れ祖父の死を目撃して、本当にひとりになった子が、「カナリアさん」なんて呼びかけるけど、親や祖父には直接呼びかけないのはなぜ? この子、この国でこれからどう生きていくのかなというところが見えてこない。

カーコ:私はあんまり批判的には読まなかったんです。オーストラリア方面に流れていったベトナムのボートピープルの話を児童書で見るのは初めてだったので、こういうテーマを伝えていくということは大事かなと。ストーリーに起伏はないけれど、ナム・フォンという名前の意味の謎にひかれて、最後まで読めました。オーストラリアの子だったら、ナム・フォンと聞いたら、自分たちの名前じゃないと思うのでしょうね。でも、日本の子が読むとほかのオーストラリア人の子の名前との違いがはっきりわからないかも。それに、オーストラリア社会の中で、ベトナム人がどんなふうにとらえられているか、どんなふうに暮らしているかなど、イメージがはっきりしませんでした。

紙魚:この本を読んでいちばん感じたのは、異文化の人間同士が結びつくには、やっぱり食べ物の力が大きいなってこと。私が小さい頃には、ベトナム料理なんてどんなものだか想像もつかなかったけれど、この頃はいろんな国のお料理が味わえて、とても身近に感じられるようになりました。私も、ナム・フォンが動物や自然宛てに手紙を書くのはちょっと気になりましたが、故郷を思い出すときに、しぜんとそういうものが浮かぶほどベトナムは自然が豊かなのかととらえて読みました。

ケロ:私も食べ物がおもしろかったです。この子が、まわりの人たちに強烈に傷つけられることがなく、色々な助けを借りながら心を癒していく様子がきちんと書かれているなと感じました。確かに物足りない感じもあったけれど、たとえば難民問題への入り口にはなっていくのかと思います。果物の味がじゅるじゅるっと濃かったりして、自分が見たことのない国を知るうえで、味覚はすごいですね。

Toot:私は快く読みましたね。この子は、家族や自然を愛していたんだなというところがうかがえるし、状況は違うかもしれないけれど、ひきこもりの子たちは、ナム・フォンに重ねて読むのかな。私の印象に残ったのは、鳥。鳥を使って、気持ちなどもよく表現されている。12ページの「おじいちゃんが木の小鳥を彫って」なんかも。タイトルがいまいち強くないのが、もったいないですね。

トチ:原題の“ONION TEARS”というのは、最後に主人公が流したのは、タマネギを切ったときの涙ではなくて本物の涙だった……ということでしょうね。でも、邦訳のタイトルからは、そういう原作者の思いが汲み取れないのでは?

アカシア:ナム・フォンがどうして話さないのか、オーストラリアの子どもたちはふしぎに思うけど、それにはちゃんと理由があるんだよ、ということをこの作者は書いているんですね。できれば日本の子どもにも読んでもらいたい。でも、こういうテーマ性のある作品ほど、敬遠されないためにはきちんと書いてほしいと私は思ってるんですね。気になったのは、人物描写が少ないことで、子どもの読者にはイメージがとらえにくいと思う。それに、お祖父さんのことは書いてあるけど、お父さんやお母さんやほかの兄弟とはどうして別れてしまったのかという肝腎なことが書かれていない。私たち大人は、なんとなく状況が想像できますけど、子どもはわからない。それから、ずっと口をきかなかったナム・フォンがついに心を開いて先生に「何から何までしゃべりだす」(p89)場面がありますけど、ここは英語でぺらぺらしゃべれたのかしら? ナム・フォンはオーストラリアに来てから何年くらいになるんでしょうね? 必要なリアリティがきっちり押さえられていないように思いました。このままでは、学校の先生は読むように薦めるかもしれないけど、子どもには理解しにくい本で終わってしまう。それが残念。

トチ:善意あふれる本ですね。自国の子どもたちに、なんとかベトナム難民の子どもたちを理解してもらいたいという作者の気持ちは感じられるけど、もうワンクッション置いて日本の子どもに読ませるとなると、いろいろ難しい点が出てくる。本当にすばらしい作品だと、自国の子どもに向けて書いたものでも、その他の国の子どもにもじゅうぶんに理解できるのだけれど。登場人物がベトナム語で話しているのか、それとも英語なのかとか、分からない点が多々ありますね。たびたび出てくるゴックさん夫妻とはいかなる人物かとか……。

アカシア:この本の冒頭でおばさんが「ナム・フォン! ゴックさん夫婦が見える前に、早く部屋を片づけておしまい! これじゃ野ザルのすみかだよ」と言ってますね。ゴックさん夫婦はどうもレストランのお客らしいとなると、どうして「部屋」を片づけなければならないのか、それもわからない。

トチ:いちばんひっかかったのが、主人公のベトナムにいたころの回想で「兵隊が来て、こわかった」というところがあるでしょ? この兵隊って、アメリカ兵かしら、それともベトコンかしら? それがわからないと、作者がどういう姿勢で書いているかもわからない。もし、この本を授業であつかって、そのことを子どもに質問されたら、教師はどう答えればいいのかしら?

アカシア:子どもにとっては、どっちでも同じなんじゃないかしら? どっちにしても子どもは被害者なのよ。

トチ:たしかに、戦時の子どもはいつも絶対的な被害者なんだけれど、戦争を自然災害やなにかと同じとらえかたをして、「かわいそうなんだよ、ひどいめにあったんだよ」とだけ書いていていいのかしらね。少し前の日本の児童文学にもよく見られる書き方だけど。それから、白人である作者が難民の子どもを優しい眼差しではあっても上から見ている、パトロン的な目で見ているという感じがどうしてもしちゃうのよね。
もうひとつ、しゃべることができない子どもにモノローグで語らせるという手法も、気になった。モノローグというのは、読者にたいしては饒舌に物語っているわけでしょ。だから、この子がしゃべれない子だということを、読んでいるときにすぐに忘れて、混乱しちゃうのよね。そのうえ、手紙は「カナリアさん」宛てだったりするけど、本当は自分宛ての手紙もはさみこまれているし。地の文を三人称で書くとか工夫すれば、手紙の部分ももっと引き立ってくるんじゃないかしら。

ペガサス:この子の言葉で書いているから状況がわかりにくい、っていうのはあるね。別の人、たとえばおばさんから見て書いた章があるとかすると、もっとわかりやすいのにね。

アカシア:地の文と手紙の部分の文体が、ほとんど同じだから、よけいにメリハリが出ない。

トチ:だから、手紙は感傷的にするしかなかったんでしょうね。あと、細かいことだけれど、「サフランのようなオレンジ色の太陽」ってあるけど、サフランの花はオレンジ色じゃないわよね。紫だもの。たしかに英語ではサフランといえば雌しべで染める黄色のことを指すけれど、日本の子どもには分からない。このへんのところ、翻訳にもうひと工夫ほしいわね。あと、主人公がベトナム料理をみんなに配って「お気に召すといいけど」と言う。この言い方にも違和感を持ちました。

アカシア:日本の子どもは、こんな言い方はしないわね。

愁童:それから日本人だったら、花に「目がない」とは言わないよね。「バラに目がない」とか具体的に言うよね。人物をうまく描きだせるところなのに。花に目がないなんて言われても、人物が立ちあがってこないよね。

トチ:花の名前なんて、小さな子にだってちっとも難しくないのに。作者の頭の中に実際の花が浮かんでなかったのかしら?

アカシア:ナム・フォンの手紙が「黄色いカナリアさん」「雲のように白い羽根のアヒルさん」と始まるから、よけい甘ったるい感傷的な印象になる。

カーコ:「カナリアさん」とするか、「カナリアさんへ」とか「カナリアへ」とするかでも、目線やイメージが変わってきますね。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年2月の記録)