日付 2004年2月20日
参加者 ペガサス、むう、愁童、トチ、カーコ、紙魚、ケロ、Toot、アカシア
テーマ アジアの子ども

読んだ本:

『ナム・フォンの風 』
ダイアナ・キッド/著 もりうちすみこ/訳   あかね書房   2003
ONION TEARS by Diana Kidd,1989
版元語録:戦火のヴェトナムからオーストラリアへ逃げてきたナム・フォンはなにもしゃべらないし、笑いも泣きもしない。兵隊を見ると隠れる少女の物語。


『モギ〜ちいさな焼きもの師 』
リンダ・スー・パーク/著 片岡しのぶ/訳   あすなろ書房   2003
A SINGLE SHARD by Linda Sue Park,2001
版元語録:親もなく、家もない、本当の名前も知らない少年モギ。ある日、高麗青磁の美しさを知り、焼きもの師になることを夢みます。どんな境遇でも将来を信じる少年の物語。 *2002年ニューベリー賞受賞


『狐笛のかなた 』
上橋菜穂子/著 白井弓子/画   理論社   2003

版元語録:〈使い魔〉の霊狐・野火を助けた〈聞き耳〉の才をもつ少女・小夜。政争にまきこまれた少年・小春丸との因縁の呪いの物語が展開。


『ナム・フォンの風』

ダイアナ・キッド/著 もりうちすみこ/訳
あかね書房
2003

ペガサス:オーストラリアに住むベトナムの難民の子の話なんだけど、親ではない人に育てられる子の話だというところに他の2冊との共通点があると思って課題本に選びました。子どもの気持ちがまっすぐで健気な感じが、気持ちよく読める。ナムフォンはつらいことが多すぎてなかなか言葉を発することができないのだけど、「黄色いカナリアさん」とか動物たちを心の友だちにして、自分の気持ちを伝えていくのが印象的。事態は好転するわけではないけれど、少しずつ前を向いて歩いていくという印象が残る。短いながらも、子どもの気持ちが出ている。

むう:作者や訳者の善意がとてもよく伝わってくる本ですね。ただ、低学年向けの短い本だからというのもあるかもしれないけれど、細かい表現がほとんどなくて、読んでいてすっとすべっちゃう感じ。共感するところまでいかなかった。たとえば自転車を家に入れるところも、2階まで上げるんだからとても大変なはずなのに、大変さが伝わってこないんですね。「大変でした」と言われて、「はあ、そうですか」と言うしかない。細かいところの描写がもうちょっとあれば全体が起きあがってくるのかなと思いました。『モギ』もそうなのだけど、自分と文化の違うこういう人たちがいるんだよ、ということを子どもたちに紹介するという姿勢はいいと思いますが……。それと、これはあくまでも好みの問題ということでなんだけれど、あまりに女の子っぽいっていうんですかね。この子は木登りが好きという活発な女の子なのに、こんなべたべたの一人称になるかなあと思います。手紙の語尾もそうだし。苦手だなあという感じでした。

愁童:ぼくもむうさんとほぼ同じ。はっきりいって、つまんなかった。外国人によりそうのではなく、かわいそうだなあと冷たく書いている感じ。親に別れ祖父の死を目撃して、本当にひとりになった子が、「カナリアさん」なんて呼びかけるけど、親や祖父には直接呼びかけないのはなぜ? この子、この国でこれからどう生きていくのかなというところが見えてこない。

カーコ:私はあんまり批判的には読まなかったんです。オーストラリア方面に流れていったベトナムのボートピープルの話を児童書で見るのは初めてだったので、こういうテーマを伝えていくということは大事かなと。ストーリーに起伏はないけれど、ナム・フォンという名前の意味の謎にひかれて、最後まで読めました。オーストラリアの子だったら、ナム・フォンと聞いたら、自分たちの名前じゃないと思うのでしょうね。でも、日本の子が読むとほかのオーストラリア人の子の名前との違いがはっきりわからないかも。それに、オーストラリア社会の中で、ベトナム人がどんなふうにとらえられているか、どんなふうに暮らしているかなど、イメージがはっきりしませんでした。

紙魚:この本を読んでいちばん感じたのは、異文化の人間同士が結びつくには、やっぱり食べ物の力が大きいなってこと。私が小さい頃には、ベトナム料理なんてどんなものだか想像もつかなかったけれど、この頃はいろんな国のお料理が味わえて、とても身近に感じられるようになりました。私も、ナム・フォンが動物や自然宛てに手紙を書くのはちょっと気になりましたが、故郷を思い出すときに、しぜんとそういうものが浮かぶほどベトナムは自然が豊かなのかととらえて読みました。

ケロ:私も食べ物がおもしろかったです。この子が、まわりの人たちに強烈に傷つけられることがなく、色々な助けを借りながら心を癒していく様子がきちんと書かれているなと感じました。確かに物足りない感じもあったけれど、たとえば難民問題への入り口にはなっていくのかと思います。果物の味がじゅるじゅるっと濃かったりして、自分が見たことのない国を知るうえで、味覚はすごいですね。

Toot:私は快く読みましたね。この子は、家族や自然を愛していたんだなというところがうかがえるし、状況は違うかもしれないけれど、ひきこもりの子たちは、ナム・フォンに重ねて読むのかな。私の印象に残ったのは、鳥。鳥を使って、気持ちなどもよく表現されている。12ページの「おじいちゃんが木の小鳥を彫って」なんかも。タイトルがいまいち強くないのが、もったいないですね。

トチ:原題の“ONION TEARS”というのは、最後に主人公が流したのは、タマネギを切ったときの涙ではなくて本物の涙だった……ということでしょうね。でも、邦訳のタイトルからは、そういう原作者の思いが汲み取れないのでは?

アカシア:ナム・フォンがどうして話さないのか、オーストラリアの子どもたちはふしぎに思うけど、それにはちゃんと理由があるんだよ、ということをこの作者は書いているんですね。できれば日本の子どもにも読んでもらいたい。でも、こういうテーマ性のある作品ほど、敬遠されないためにはきちんと書いてほしいと私は思ってるんですね。気になったのは、人物描写が少ないことで、子どもの読者にはイメージがとらえにくいと思う。それに、お祖父さんのことは書いてあるけど、お父さんやお母さんやほかの兄弟とはどうして別れてしまったのかという肝腎なことが書かれていない。私たち大人は、なんとなく状況が想像できますけど、子どもはわからない。それから、ずっと口をきかなかったナム・フォンがついに心を開いて先生に「何から何までしゃべりだす」(p89)場面がありますけど、ここは英語でぺらぺらしゃべれたのかしら? ナム・フォンはオーストラリアに来てから何年くらいになるんでしょうね? 必要なリアリティがきっちり押さえられていないように思いました。このままでは、学校の先生は読むように薦めるかもしれないけど、子どもには理解しにくい本で終わってしまう。それが残念。

トチ:善意あふれる本ですね。自国の子どもたちに、なんとかベトナム難民の子どもたちを理解してもらいたいという作者の気持ちは感じられるけど、もうワンクッション置いて日本の子どもに読ませるとなると、いろいろ難しい点が出てくる。本当にすばらしい作品だと、自国の子どもに向けて書いたものでも、その他の国の子どもにもじゅうぶんに理解できるのだけれど。登場人物がベトナム語で話しているのか、それとも英語なのかとか、分からない点が多々ありますね。たびたび出てくるゴックさん夫妻とはいかなる人物かとか……。

アカシア:この本の冒頭でおばさんが「ナム・フォン! ゴックさん夫婦が見える前に、早く部屋を片づけておしまい! これじゃ野ザルのすみかだよ」と言ってますね。ゴックさん夫婦はどうもレストランのお客らしいとなると、どうして「部屋」を片づけなければならないのか、それもわからない。

トチ:いちばんひっかかったのが、主人公のベトナムにいたころの回想で「兵隊が来て、こわかった」というところがあるでしょ? この兵隊って、アメリカ兵かしら、それともベトコンかしら? それがわからないと、作者がどういう姿勢で書いているかもわからない。もし、この本を授業であつかって、そのことを子どもに質問されたら、教師はどう答えればいいのかしら?

アカシア:子どもにとっては、どっちでも同じなんじゃないかしら? どっちにしても子どもは被害者なのよ。

トチ:たしかに、戦時の子どもはいつも絶対的な被害者なんだけれど、戦争を自然災害やなにかと同じとらえかたをして、「かわいそうなんだよ、ひどいめにあったんだよ」とだけ書いていていいのかしらね。少し前の日本の児童文学にもよく見られる書き方だけど。それから、白人である作者が難民の子どもを優しい眼差しではあっても上から見ている、パトロン的な目で見ているという感じがどうしてもしちゃうのよね。
もうひとつ、しゃべることができない子どもにモノローグで語らせるという手法も、気になった。モノローグというのは、読者にたいしては饒舌に物語っているわけでしょ。だから、この子がしゃべれない子だということを、読んでいるときにすぐに忘れて、混乱しちゃうのよね。そのうえ、手紙は「カナリアさん」宛てだったりするけど、本当は自分宛ての手紙もはさみこまれているし。地の文を三人称で書くとか工夫すれば、手紙の部分ももっと引き立ってくるんじゃないかしら。

ペガサス:この子の言葉で書いているから状況がわかりにくい、っていうのはあるね。別の人、たとえばおばさんから見て書いた章があるとかすると、もっとわかりやすいのにね。

アカシア:地の文と手紙の部分の文体が、ほとんど同じだから、よけいにメリハリが出ない。

トチ:だから、手紙は感傷的にするしかなかったんでしょうね。あと、細かいことだけれど、「サフランのようなオレンジ色の太陽」ってあるけど、サフランの花はオレンジ色じゃないわよね。紫だもの。たしかに英語ではサフランといえば雌しべで染める黄色のことを指すけれど、日本の子どもには分からない。このへんのところ、翻訳にもうひと工夫ほしいわね。あと、主人公がベトナム料理をみんなに配って「お気に召すといいけど」と言う。この言い方にも違和感を持ちました。

アカシア:日本の子どもは、こんな言い方はしないわね。

愁童:それから日本人だったら、花に「目がない」とは言わないよね。「バラに目がない」とか具体的に言うよね。人物をうまく描きだせるところなのに。花に目がないなんて言われても、人物が立ちあがってこないよね。

トチ:花の名前なんて、小さな子にだってちっとも難しくないのに。作者の頭の中に実際の花が浮かんでなかったのかしら?

アカシア:ナム・フォンの手紙が「黄色いカナリアさん」「雲のように白い羽根のアヒルさん」と始まるから、よけい甘ったるい感傷的な印象になる。

カーコ:「カナリアさん」とするか、「カナリアさんへ」とか「カナリアへ」とするかでも、目線やイメージが変わってきますね。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年2月の記録)


『モギ〜ちいさな焼きもの師』

リンダ・スー・パーク/著 片岡しのぶ/訳
あすなろ書房
2003

むう:おもしろかったです。もう、1行目の「おーい、モギぼう! たーんと腹ぁへらしとるか?」で、あちゃあ、つかまっちゃった!という感じでしたね。前半はわりとほんわかと人と人との交流や何かで読ませて、後半は旅に出るところから畳みかけるように次々といろいろなことが起こるので、ぐいぐい引っぱられて転がるようにラストに行き着きました。これも、アメリカにいる人が韓国という異文化を書いているんだけれど、お話自体がきちっとできていて人物にも共感できておもしろい。だからこそ、お話を楽しむなかで、へえ、こうなんだとか、どうしてこうなのかなあというふうに疑問が広がっていくし、よく書けてると思います。訳もとても読みやすかった。みごとです。ここに書かれている生活はとてもハードなんだけど、ユーモアがあるから決して重たくなく、気持ちよく読めました。よく考えると、追いはぎをのぞくと悪人も出てこないんですよね。これは青磁の話ですが、今までけっこう好きで自分でも見ていた青磁の器にこういう秘密があるってはじめて知りました。象嵌っていうのはすごい技法で、それが作り出された時に舞台を設定するというのもとてもドラマチック。思わずインターネットで青磁の写真を見直してしまいました。物語の筋や表現が特に新しいというわけではないのだけれど、いわば定番の安定感がプラスに働いていると思います。個人的には橋の下のおじいさんがとても好きです。

愁童:ぼくも、同じような感想です。韓国の文化に着いての描写も違和感なく読めた。焼きもの師夫妻の主人公に対する気持ちの近寄り方も、すぐハグハグするんじゃなくてね。少々、通俗的だけど、子どもの本て、こういうわかりやすさとハッピーエンドって大事だと思うので、『ナム・フォンの風』に比べれば、ずっといいと思った。

カーコ:人物がくっきりしていて、筋もドキドキしてとてもよかったです。弟子入りしたモギが、だんだんに焼き物のことがわかってくる過程がとてもうまく書かれていて、すごいなあと思いました。特に、99ページの、粘土の漉しのことがわかる場面。修行を積むうちに、ふっと上に行けた感じが伝わってきて、とても印象的でした。名人の師匠なのに、焼成だけは思うようにいかないというのも、人生の一面が出ていますね。モギがわからなくても考えるのが好きと言って、あれこれ考えるのがおもしろかったですね。ひとつ難を言うなら、絵がきれいすぎるかなと思いました。表紙の絵も中の絵も、貧しい感じが私はあまり感じられなかったので。

紙魚:私も、モギが粘土を漉していて、ふっと指先が全てを感じた部分では、かなり興奮しました。まるで私の指も何かに触れたかのように感じたくらい。私は、好きなことを懸命に志し、手に職つけていく話って大好きなんですよね。今、『13歳のハローワーク』(村上龍著 幻冬社)が話題になっていますが、あの本の考え方はとても大切だと思うんです。ついこの前までは、日本には、学校に行って企業に勤めることが幸せにつながるという幻想がありましたが、「好きなことを仕事にする」ことこそが、個人にとって幸せだし、国家の経済や未来のためにもなるという考え方は、大人こそが身につけるべきです。「好きなこと」を手がかりに自分の生き方を選んでいくという考え方は、モギの姿にも重なり、フィクションでもノンフィクションでも、そういうことを伝えていくって、すばらしいと思いました。

ケロ:翻訳ものだとは思わず読んでましたね。日本的だと感じたのは、おじいちゃんの教えを身にしみこませていくような感覚のせいでしょうか。何かができるようになる、修練をつんでうまくなっていく話というのは、ある意味、カタルシスになるというか、読んでいて気持ちいい。ゲームをクリアしていくのと根はいっしょなのかもしれないけれど、現実の地に足がついているところが違う。このような話は、小さい頃から好きでした。これまで青磁ってあまり変化が無く、魅力を感じなかったんですよね。すみません、という感じです。韓国で書かれたものって触感が違うかと思っていたんですけど、アメリカを経由しているからか、さらりとした触感に変わっていて読みやすいのかな。

Toot:小さな希望と絶望がくりかえされていく。それぞれの人物が、ひがんだりせず凛として書かれている。トゥルミじいさんの言葉が、作者のメッセージなのかな。おかみさんにしても、だらだらと語ってはいないのだけど、1行であらわすのがうまい。確かに、絵はきれいすぎますね。あと、タイトルは、手にとって読みたいという気持ちになりにくい。

アカシア:ストーリーの進め方は、児童文学の定石どおりで、貧乏だけど気立てのいい少年が精一杯努力をした結果幸せをつかむ。でもリアリティが感じられて、気持ちよく読めました。作者は、親の世代がアメリカに移住してきたコリアン・アメリカンですよね。扉に「青磁象嵌雲鶴文梅瓶」の写真(イラストかな?)がありますけど、きっと作者はこれを韓国の美術館で見てイメージをふくらませていったんじゃないかしら。いったん物語が終わったあとで、「韓国の国宝のひとつに、高麗時代に作られた青磁の梅瓶がある。象嵌で仕上げたその美しさはほかに類がない。意匠の主役は鶴(トゥルミ)である。四十六個の丸文のひとつひとつに、のびやかに翼を広げて鶴が飛ぶ。(中略)その名を『青磁象嵌雲鶴文梅瓶』という。作り手については、なにもわかっていない。」と、作者は書いて、モギがこの作品を作ったのではないかという可能性を読者に想像させる。うまいですよね。この作品を書くにあたって作者はいろいろと調べたんでしょうけど、翻訳者も実際に韓国を訪れて細かく取材している。だから作品が嘘っぽくないし、しっかりしたリアリティに支えられている。とても好きな作品です。

トチ:翻訳がすばらしい! アカシアさんの話を聞いて、ずっと前に聞いたアラン・ガーナーの講演を思い出したの。ロシア語の翻訳者がガーナーのイギリスの自宅に来たとき、「〜〜という木はどんな木ですか?」ってきいたんですって。ガーナーが、近くの森に連れていって、その木を教えてあげると、翻訳者はその木に抱きついて手触りを確かめ、葉っぱの匂いをかぎ、五感でその木を知ろうとしていた。ガーナーはそれを見て、翻訳者ってこういうものなんだ、翻訳ってこんなにすごいことなんだって感激したっていうのね。ガーナーがそんな風に感激したって話を聞いて、私もまた感激しました。作品の魅力はみなさんがおっしゃったとおりすばらしいものだけど、その魅力を十二分に引き出しているのは、片岡さんの翻訳の力だとつくづく思いました。
それから、こういう職人話って私も大好きなんだけれど、児童文学にとってはとっても大切なことよね。指揮者の大町陽一郎が音楽を志したのは、子どものときに『未完成交響曲』っていう映画を見たからだっていう話を聞いたことがあるけれど、1冊の本、1本の映画が子どもにとっては未来につながる力を持っているのよね。
紙魚さんと同じように、わたしも「日本の児童文学者はなにをしてるんだ。こんなに書くことはたくさんあるのに」と思ったわ。

アカシア:日本の児童文学作家も書いてはいるけど、これだけ力のあるものは出てきてないんじゃない。

紙魚:日本の作品は、社会問題と物語が、なかなか溶けこんでいかないんですよね。物語の中で、急に「はい。ここからが問題です」という感じになり、問題提起する部分が浮いてしまう。

ペガサス:極貧の生活をしていながら、人間として豊かな生活をしていたというところが、それこそ今の日本児童文学にはない点ですね。そうそう、疑問に思ったのは、「モギ」って何語?

一同:韓国語でしょ。「きくらげ」っていう意味の。11ページにそう書いてある。

ペガサス:原書だと、”tree ear”ってなってるので。じゃあ、訳す時に日本語でなく、韓国語にしたのね。トゥルミじいさんも原書では"crane man"だけど、日本語の「鶴」ではなく韓国語のトゥルミにしている。主人公の名前が「きくらげ」だと変だからかしら。あとね、青磁とか象嵌とかって、子どもにはよくわからないと思うので、絵を扉だけでなく他にも入れたほうがいいと思う。それから韓国と日本の位置関係がわかる地図も入れたほうが子どもにはわかりやすい。

トチ:コリアン・ジャパニーズの子にとっても、力になる本よね。

ペガサス:私ね、サブタイトルに「ちいさな焼きもの師」ってあるから、いつモギが焼くのか、焼くのかと思ってたのね。だから、あ、ここで終わってしまうのかという感じだった。焼きもの師になる前の話だからこのサブタイトルは少し違うよね。それからキムチの入ったお弁当がとてもおいしそうだった。白いご飯と赤いキムチと干物、それに箸がわたしてあって。このお弁当は印象的だった。

紙魚:モギが半分残しておいたお弁当を、おかみさんが毎日いっぱいにしてあげますよね。あそこの部分を読んだとき、ふと、今の我々の日常に、相手に見返りを望まないで何かをするという気持ちが、薄れてきているのではと感じました。すっかりギブ&テイクが当然という風潮になっているような。

アカシア:サブタイトルだけど、日本語の「焼きもの師」っていうのは陶工のことだから、必ずしも焼かなくてもいいのよ。それから、表紙の絵の服装が貧乏な子に見えないという意見が出たけど、私はこれでいいと思うの。だって、親方の代理で偉い人に会いにいくんだから、いい服を着てて当然なのよ。


『狐笛のかなた』

上橋菜穂子/著 白井弓子/画
理論社
2003

愁童:すごくおもしろかったです。上橋さんってすごくうまいと思うんだけど、「守り人」シリーズだと、主人公が人間で、その生き方や苦悩がしっかり書き込まれているのに、この作品はそういう要素が希薄になってきている。お話としてはとても面白いだけに、なんかもどかしさを感じた。こういう方向に行っちゃうのかなって、ちょっと寂しい思いもしました。

カーコ:一気に読みたくなる作品でした。構成もストーリーもうまいですね。「守り人」シリーズの中の1冊を前にこの会で読んだときは、どこか物足りなさがあったのですが、こっちの方が、ひとつの作品として緻密に組まれている気がしました。それと、独特の表現が随所にあるでしょう。作者の文体が匂ってくるようで、翻訳ものにない味わいがありました。上橋さんが「日本児童文学」2003年11月号に、遥かな神話的過去を思うこと、遠くを見やることが、「時」と「世界」を見ること、「何か大きなもの」の中で生きている、小さな自分に気づくことにつながる、というようなことを書いていらっしゃって、なるほどなあと思いました。この物語には、女性的な強さを感じました。運命を変えていこうというよりは、運命を受け入れながらたくましく生き抜いていく。ひとつ気になったのは、「桜の花の香りがして」ってあったんですけど、桜の花って香るものですか。

トチ:匂い桜っていうのがあるのよね。

カーコ:あと、イラストの使い方がよかったですね。作品のイメージを限定せず、じょうずにふくらませてくれて。

ケロ:ファンタジーで、もともと力を持っている者がそれを自覚していく物語ってありますよね。これも小夜がそうなんだけど、持っているものに対して自分がどうしていくかというところは、獲得していく『モギ』とは対照的ですね。作者独特の語り口は、古典的な中に新しさを感じます。ドキドキハラハラしながら読んでいたら、途中からラブストーリーになりましたね。小夜のお母さんの話を含めて、女が生きていくという話になり、色が変わっていった印象を持ちました。軸がぶれたという感じではなく、楽しませてもらいましたが。最初、序章があってから地図が出てくるのは、自然でうまいなと感じました。

Toot:ふしぎな世界につれていってもらったようでした。最後は、愛するってことは命がけなんだなという感想をもちました。まず、装丁にひかれますよね。カバーと表紙の絵がちがうんですよ。タイトル文字も凝っている。もうこういう造本しかないという本ですね。人物がたくさんいるにもかかわらず、あまり途中でごちゃごちゃしないですね。上橋さんの異空間って、すごくおもしろい。

アカシア:2度目に読んだら、さらに、ああそうなのかという部分がありました。1度目は、プロットのおもしろさで読ませる部分も感じたんだけど、やっぱりそれだけじゃなくて、リアリティの厚みがすごいんですよね。みんなで楽しくお花見をする場面に「ぶよが、ぷうんぷうんと、かぼそく鳴きながら目によってくる」(127ページ)とか、「蝿が現れて飛び交いはじめた」(129ページ)なんて入れてくる。竹の灯しの作り方、市の雰囲気、呪いのやり方、あわいの様子、闇の戸の繕い方なんて、いかにも目に浮かぶように書かれているし、霊的な結界が張られたところを通ると小夜の耳がぴいんと痛むところなんかも、とてもリアル。読む人も五感で感じられるように書いてある。「聞き耳」「使い魔」「葉陰」のような不思議な響きをもつ言葉と、「昼餉」「廚」「出作り小屋」「蔀戸」などの昔の暮らしの言葉があいまって、世界をつくりだしている。「霊狐」など、日本の伝説に出てくる存在もうまく登場させている。渡来人の子どもである「大朗」と「鈴」は、呪いの技ではなく魔物から身を守るオギという技しか使えないという設定もおもしろい。それから単純な善玉悪玉の図式でないのもいい。いちばんの悪役である「久那」にしても、人を殺さなければいけない定めに縛られていることが書かれている。ラブストーリーも、2度読んでみると、その過程がものすごくうまく書かれているんですよ。やっぱり9年かけて書かれたっていう重みがありますね。これまでの上橋さんは、運命は甘んじて受けるというところで終わっているんだけど、これはそれにとどまらず、定められた運命を断ち切って、自分で選び取った自由を獲得する。アニミズムの復権みたいなものも感じますね。

ペガサス:私もおもしろく読みました。作者の中に、大事にしたいシーンがいくつかあって、それをうまく物語に仕立てていったという感じ。登場人物のネーミングもうまくて、野火、影矢など、日本語のニュアンスをよく生かしている。「闇の戸」なんていう言葉にも雰囲気がある。木縄坊がとてもおもしろいキャラクターだと思ったので、最後にもう一度出てきて野火ともっとかかわってもよかったのにと残念だった。全体としては、呪者と守護者という役割に分かれているんだけど、どちらの側にも心の揺れがあって、それを描いているので共感をもって読める。たとえ霊狐であっても、あやつられているだけではないというのが、玉緒などにも表れている。2つの一族の攻防は、かなり入り組んでいるわりには、途中でわからなくなったりせずに読める。それから、私は野火は主を裏切ったからには死ぬより他ないと思って、悲しい結末になるんだなあ、と思いながら読んでいたので、こんな手があったのか、とほっとした。

むう:これも第1行目というか、最初の野火のシーンでつかまった!という感じ。とても躍動感のある風の匂いまでかげそうなシーンで、一気に引き込まれてあとはぐいぐいと筋の展開と世界のおもしろさに引っぱられて読みました。発想がおもしろいなあと思いました。「あわい」という場所や小夜が光を織るシーンや「闇の戸」とか。著者が文化人類学者でもあるから、きっとそういう蓄積がこういったイメージを裏打ちしているんだろうなあと思いながら読みました。それに、こういったおもしろい発想が、ぷつぷつと孤立して途切れているのではなく、全体としてまとまった世界になっているところに著者の力量を感じました。ちょっとしか出てこない脇役もおもしろかったです。半分天狗の木縄坊の存在なんかとってもおもしろくて、逆にあれだけしか出てこないのはずいぶん贅沢だと思いました。小夜が光を織るところでも千の眼が出てきますよね。すごく怖いイメージで、ええこれってどうなっちゃうんだろうと思ったら、小夜は呪者にならないから、あれでおしまいになっちゃう。これも贅沢というか、みごとに期待を裏切っている。それと、宮部みゆきの書いている超能力者は能力が突出していなくて等身大の人間という感じがするけれど、この本も、小夜の聞き耳の能力が突出していないのがいい。最後にどちらかが死ぬしかないと思わせておいて第3の道が出てくるあたりにも感心しました。愁童さんがおっしゃった、こういう力のある人がリアルなものを書いてほしいということも確かにあるけれど、力のある日本のファンタジーも大事だと思いました。

紙魚:『ナム・フォンの風』は、具体的な描写が少なくて、どちらかというとイメージ先行というように感じましたが、この本を読んでイメージというのは、丹念な描写の積み重ねがあってこそ浮かぶんだと改めて感じました。『ナム・フォン〜』は、イメージというより気分なんですね。ある像やイメージを読者に伝えるためには、やはり具体的な情景描写が大切で、この本はそれがとても行き届いている。だから、単なる物語舞台の箱の中で物語が動いているのではなく、この物語の外側にも地平が続いているように世界が広く感じられる。それに、物理的に説明できないことを、納得させちゃう強さがあるんですよね。映画『千と千尋の物語』以降、日本の神話的な物語世界は、外国の人にとって神秘的で、注目を集めていますが、きっとこの作品などもおもしろがられると思う。日本の創作は、このところずっと海外ファンタジーにおされてきたけれど、こんなに力がある作品もあるんですよね。

愁童:小説としては「守り人」シリーズ(上橋菜穂子著 偕成社)よりこっちの方が面白いかもしれないけれど、小夜は結局、読者とはちがった存在で、その能力は母親から受けついだという設定でしょ。ゲームのキャラ作りと同じような発想に思えて、ちょっと残念。

アカシア:でもそこは、『ホビットの冒険』や『指輪物語』(J.R.R.トールキン著 瀬田貞二訳)といっしょなのね。ビルボは、たまたま魔力をもつ指輪を手に入れるんだけど、それを捨てることによって自由になる。小夜も自分の力を捨てて狐になることによって自由になる。あとね、霊狐なんていうのは、お稲荷さんの伝説なんかにも出てくる存在。単なる思いつきではなくて、伝承を踏まえているから、ちゃちな他の物語よりぐっと深みがある。

トチ:そういうのを伝えていくのって大事よね。私は、なにしろ「りょうりょうと風が吹き渡る夕暮れの野を、まるで火が走るように赤い毛なみを光らせて、一匹の子狐が駆けていた」っていう冒頭の一文がすばらしいと思った。日本の児童文学には、朝起きて、台所からお母さんが大根切る音が聞こえるなんていうのが多いけど、そういうのはやめてほしいですからね。先日、文楽「義経千本桜」を観たんだけど、狐の動きがすばらしかった。やっぱり日本人のDNAに入っているのかしらね。外国の人から見れば、映画『千と千尋の物語』で千が河だったというのはショックだったんでしょうけど、この物語の結末にも、きっとショックを受けると思います。キリスト教では、動物は人間より下等な存在としか見てないからね。日本人は、ラブストーリーの結末として狐になっちゃうなんていうのも、すばらしい世界にたどりついたと思うところだけど、西洋の人は現実から逃げたと思うかもね。朝日新聞の書評に、主人公がこういう社会からどう逃げたかが書かれていると説明されていたらしいけど、本当にそうなのかどうかという見方をしてもおもしろい。

アカシア:最後狐になって野を走るところも「桜の花びらが舞い散る野を、三匹の狐が春の陽に背を光らせながら、心地よげに駆けていった。」と書かれていて、小夜が狐の存在を選んだところを含めて、すごく肯定的なイメージですよね。キリスト教世界だったら、人間が身を落として狐になるのが幸せだとはて考えられないかもしれないけど。

トチ:いえ、最近では違う考え方も出てきていると思いますよ。

アカシア:そうか、プルマンの「ライラの冒険」シリーズも、足に木の実の車輪をつけた馬なんていう不思議な存在に高い位置をあたえてましたね。

トチ:『ナム・フォンの風』は残念ながら他の文化の紹介にとどまってましたが、児童文学も、それにとどまらず、別の価値観を提示するという時代になってきたんですね。