日付 2019年9月17日
参加者 アンヌ、鏡文字、サマー、しじみ71個分、田中、西山、ハリネズミ、ハル、マリンゴ、まめじか、ルパン、(ネズミ)
テーマ 新たな仲間と

読んだ本:

マイケル・モーパーゴ『たいせつな人へ』表紙
『たいせつな人へ 』
マイケル・モーパーゴ/作 バルー/絵 杉田七重/訳   あかね書房   2019.04
IN THE MOUTH OF THE WOLF by Michael Morpurgo, 2018
弟の戦死をきっかけに、戦うことを決めたフランシス。厳しい訓練を受け、ナチスドイツに占領されたフランスへ向かうが…。イギリスの児童文学作家、モーパーゴが、叔父フランシス・カマルツの生涯を描いた物語。


佐藤まどか『つくられた心』表紙
『つくられた心 』
佐藤まどか/作 浦田健二/絵   ポプラ社   2019.02

新設のモデル校では、イジメ防止のアンドロイドが1クラスに1体配置されている。やがてクラス内でアンドロイド探しが始まり…。近未来の東京を舞台に、AIと人間が共存する社会を描く。


マカナルティ『天才ルーシーの計算ちがい』表紙
『天才ルーシーの計算ちがい 』
ステイシー・マカナルティ/著 田中奈津子/訳   講談社   2019.04
THE MISCALCULATIONS OF LIGHTNING GIRL by Stacy McAnulty, 2019
ルーシーはある日、雷に打たれて、数学の天才になってしまいました。でも、変わったのは良いことばかりではなく、潔癖症になり、学校に行けなくなりました。大学進学だって可能な12歳のある日、おばあちゃんがルーシーに課題を出します。それは、中学校に1年間通い、友だちを1人作ること、課外活動1つに参加し、数学の教科書以外の本を1冊読むことでした。このミッションが、ルーシーの人生を大きく変えるのでした。


『たいせつな人へ』

マイケル・モーパーゴ/作 バルー/絵 杉田七重/訳
あかね書房
2019.04

ルパン:これはノンフィクションなので、事実の迫力はやはりすごいな、と思いました。一番食いついて読んだのは登場人物のプロフィールです。

アンヌ:モーパーゴは私の苦手な作家で、いつも感動の波にうまく乗れません。今回は主人公が平和主義者で徴兵拒否者として農場にいられたのに、なぜ戦争に行ったのか、ということばかり考えてしまいました。戦中の日本では考えられない権利ですよね。それなのに、戦死した弟の復讐ではないにしろ、遺志をついで戦争に行き、人を殺したくないと言いながらも対独協力者のフランスの民兵は殺してしまう。老後は英雄としてフランスの村に迎えられているけれど、主人公のプロフィールを読むと、実人生では戦争に行ったことを悔やんでいたのではないかとも思えます。そこが書かれていないようで、何か物足りない感じがしました。

マリンゴ:モーパーゴの本の多くは、語り手と著者が近くて本人の体験が投影されている印象を受けます。実際は違うんですけれど。でも、今回は本当に自分の親族の話なんですね。いつもよりさらに、リアリティを感じました。登場人物のプロフィールが巻末にありますし。ただ、実際の話だからこそ、普段より登場人物が多いし、実在の人物だからキャラ立てがしづらいせいか、人物像が立ち上がってこない人が何人かいたように思います。ところで、レジスタンス、スパイ活動をやった人は、何かの戦いで華々しく活躍した人と違って、戦後に報われないのだなぁ、と感じました。デンマークの少年たちのレジスタンスを描いた『ナチスに挑戦した少年たち』(フィリップ・フーズ著 金原瑞人訳 小学館)のことを思い出しました。なお、1つ誤植と思われる個所を見つけました。p104の6行目「合った」は、正しくは「会った」ではないかと。

西山:表紙のこれ、オオカミの顔なんですね。子ども時代の父親と弟のピーターと3人で森をハイキングしたときのエピソードから来ていますよね。オオカミが来たら戦って追い払うのだといつも棒を持っていたというピーター。「ぼく」は「戦う必要なんてない、ふりかえって正面から堂々とむきあい、手をパンパンと打ち鳴らしてやれば、逃げていく」(p17)と。この2つの考え方が、その後ファシズムとの戦いに自ら飛び込んでいったピーターと、兵役免除審査局へ行って平和主義を貫こうとした「ぼく」という対照的な行動につながるわけですが、結局、「ぼく」は非戦を貫けなかったわけです、叔父が背負ったその生き方をモーパーゴも背負って、それが作品に通底しているのかなと思いました。今までの作品をふりかえらせるような作品だと思います。兵役拒否という制度の存在を子どもに知らせるのも意味がある作品だと思います。レジスタンスの過酷さを読むに付け、抵抗の闘争が冒険の延長のようだった『ナチスに挑戦した少年たち』はのんきだったなあと改めて思い返しました。それと、ヨーロッパでのナチスへの市民の抵抗の規模を垣間見て、作品からは離れるのですが、オリンピック会場で旭日旗なんてひらめかせたら、ヨーロッパの人々に「ナチスと組んでいたファシズム国家日本」という記憶を呼び覚まさずにはおかないだろうと思いました。あと、クリスティーンの最期が悲しすぎる・・・・・・。p96でレジスタンスにおける女性たちが「無名の勇者」で「こういった女性たちを讃える勲章はない」と書いていることとで、モーパーゴがクリスティーンに深く心を寄せ、苦い記憶として継承しているのだと思いました。

ルパン:クリスティーンの最期は本当に切ないですよね。そこがノンフィクションのつらいところ、重いところ、ということでしょうか。

まめじか:まず、いいなと思ったのは、インドから来た移民の女の子が出てくるなど、時代とともに変わっていく村の様子が描かれていることです。モーパーゴは細部にまで心を配る作家ですね。女性に光を当てているのはいいのですが、その人たちも戦っていたわけで、それを考えると複雑な気持ちになりました。読者がいろいろ感じて、考えればいいのでしょうけど。

アンヌ:ドイツでも反ナチスの本は多く翻訳されていますか?

まめじか:はい、英米文学児童文学にはホロコーストものが多いし、英語からの翻訳はドイツではメジャーなのでドイツ児童文学賞の青少年審査員賞にもよくノミネートされていますよ。ジョン・ボインの『縞模様のパジャマの少年』(千葉茂樹訳 岩波書店)とか『ヒトラーと暮らした少年』(原田勝訳 あすなろ書房)とか。マークース・ズーサックの『本泥棒』(入江真佐子訳 早川書房)は同賞をとっていますし。

しじみ71個分:モーパーゴの物語はいつも比較的短いですが、この作品も短い物語の中で、90歳のおじいさんが自分の人生を振りかえるという形式になっていて、語られる内容は大変に壮絶なので驚きました。おじいさんが寝床でしゃべる話を孫が聞くような淡々とした語り口ですが、平和主義の人が教練を受け、命をかけて軍事スパイになるという、とてもハードな内容ですね。でも、オブラートがかかっているように、読み終えた後の印象が割とソフトです。一人の男の一人称語りで、戦時中に関わった様々な人々の人生を描きつつ、それを通じて戦争の時代を描いていて、うまいなぁ、手慣れているなぁ、と感じます。まさに老練という感じですが、読んでいて、物語の中身よりもその印象が先に立ってしまうなとは思いました。それから、私は、大変にお恥ずかしいことに、原題まで考えが及ばなかったので、表紙の白い顔をキツネだと思ってしまって、なんでキツネの顔が表紙に描いてあるんだろうと思っていました・・・・・・。オオカミなんですよね。

ルパン:原題のほうが、手に取りたくなりますよね。

鏡文字:150ページ程度と短めで挿絵もとても多いけれど、内容はYAといってもいいような作品です。読書対象をどのあたりに設定しているのかが、本の作りから少しわかりづらい気がしました。ノンフィクションなので、正直なところ、内容についてあれこれ言ってもしかたがないかなと思う一方、もしも、児童書としてでなく、一般向けのものとして書かれたらどうだったのだろうか、そのほうが読み応えがあるものになったのでは、という思いがぬぐえませんでした。クリスティーンとの関係など、人間ドラマや心のひだのようなものをもっと知りたかったです。回想形式なので淡々としていますが、さすがに手練れというか構成などはよくできている、とは思いました。スパイというものをどう捉えるか、レジスタンスとしての暴力をどう考えるか、悩ましい問題で、『ナチスに挑戦した少年たち』のときも思いましたが、自分の中でも明確な答えが出せていません。結局暴力なのか、という割り切れなさがどうしても残ってしまいます。ただ、『ナチスに挑戦した少年たち』は、当事者が子どもでしたが、こちらは大人の行動なので、より緊迫感や切実さがありました。とはいえ、また反ナチスか、という思いもあって、欧州は、多かれ少なかれ、ナチスを台頭させたことへの後ろめたさがある分、「絶対悪」ナチスに対置する物語(創作という意味でなく)は作りやすいのではないかと思ってしまい、いつももやっとします。

しじみ71個分:軍事スパイとして殺し、殺されという凄惨な経験をした人が、終戦後には学校の先生になるわけですよね。自分のおじいさんという、とても身近な存在の人が、戦争中の暴力に加担していたのを知るのは、考えると非常に重くて深いことなので、そういう意味で、自分たちの身に置きかえて考えてみるきっかけとして読むのはおもしろいとは思います。

ルパン:そのわりには葛藤の部分が描かれてないような。

サマー:表紙の絵が動物の怖そうな顔なのに、タイトルがふわっとしていてマッチしていないような気がします。内容としては、言葉としてしか知らなかった「レジスタンス」がどういう活動をしていたのか、武器や食料などの荷物をどんなふうに投下していたのかがわかって、大人としては興味深かったです。ただ、これを日本の子どもたちが読んで、背景が理解できるのか疑問です。日本の子どもたちのどの年代に向けているのか? ヨーロッパの子どもたちなら、歴史教育で勉強しているでしょうから、背景がわかるのでしょうけど。

ルパン:子どものころドーデの『最後の授業』を読んだのですが、時代背景などまったくわからないなりに、強い印象を受けました。後年、世界史やほかの小説などで「アルザス・ロレーヌ」という言葉を聞いたときに、小説のイメージがまざまざと浮かび、歴史も物語もリアルに迫ってきました。歴史を知らなくても物語の持つ力が強ければちゃんと心に残るのだと思います。それにしても、今90代の、戦争の生き証人がひとりもいなくなる時代がすぐそこに迫っていますよね。10年後、20年後、世界大戦を知っている人間がひとりもいなくなったときが怖いです。その時代に向けてこういうものはできるだけ残していかなければ、と思います。

ハリネズミ:それぞれの章がべつの人に向けて書かれていますね。最初の「フランシス」は自分の紹介ですが、「子ども時代のイギリス」はお父さんに宛てたメッセージ、「スター街道まっしぐら」はピーターに宛てたメッセージ、それ以降も妻のナン、ハリー、オーギュスト、クリスティーン、ポールと、それぞれフランシスが深くかかわった人を思い出してその人に対して何か言うという形を取りつつ、そのなかで彼がやってきたことや彼が考えていたことを浮かびあがらせる。それがまずうまいなと思いました。それに、ただ出来事を紹介するのではなく、p44やp71など想いをところどころにはさんで物語に深みを持たせています。この作品にどの程度フィクションが含まれているのかはわからないのですが、この本にも戦争に反対するというモーパーゴのポリシーが通奏低音のように流れていると思います。「心を凍らせないと戦場には出ていけない」という言葉があったと思いますが、フランシスは軍事スパイとして戦場に出て行く。そして戦争が終わったとき、日常生活に戻るのに苦労します。ナンのおかげで自分はなんとか日常の暮らしに戻ることができますが、とても勇気のある、戦場で大活躍していたクリスティーンというワルシャワ生まれの女性は、平穏な日常には戻れないという姿も描いています。それでも、このテロリストをカッコいいと思う子どもも出て来るかもしれません。訳し方もあるけど、自分の叔父の生涯というノンフィクションにしばられている部分もあるかもしれません。
表紙の絵は原題に即しているので、日本語の書名にはちょっとしっくりしませんね。あと星空の絵が何度も出てきますが、そううまい絵でもないので、どうして繰り返し同じ絵が出てくるのかな、と思いました。ドイツでは小学生にも戦争で何をしたかを教えているという話を聞きますが、日本の子どもはほとんど教わっていません。なので、この本を読んでも日本の子どもにはピンと来ないところが多いかもしれません。でも、だから出版しないでいいのかと言ったら、それは違う。ちょっと違和感をおぼえたのは、p11でパンジャブ州からの転校生の女の子が、カウラは大切な人を呼ぶときにつける敬称だと言うんですね。アジアの子が自分の名前を言うときにこうは言わないような気がして原文を見たら、カウラはプリンセスという意味だとなっていたので、親がこの子につけてくれた名前がこうだったということなのかな、と。ただ、アマゾンでは最初の部分しか読めないので、実際がどうなのかはわかりません。

しじみ71個分:p144で戦争から帰ってきて、主人公が戦争の後遺症に悩まされ苦しんだことや、妻のナンのサポートでやっと日常生活に復帰できたということが植物の比喩を通して短く語られますが、表現が非常に抽象的なので、それがどれほど大変なことだったのかが想像しにくいです。これを読んでその大変さが分かる子どもがどれほどいるかなぁ、という疑問を感じますね。

ハリネズミ:語りのうまさには感心しますが、日本の子どもがこの作品からどれほどのものを読み取れるかは、もう少し説明がないとわかりにくいかも。まあ、手渡す人にかかっているかもしれませんね。

ルパン:クリスティーンはどうしてもとの生活にもどれなかったのでしょうか。

西山:クリスティーンの母国ポーランドは「新たにソ連が占領して」「帰る国はなく」(p144)なってましたから。

ハル:私は、長く生きて、一緒に生きたひとがみんな先に逝ってしまうというのはこんなにも切ないものなんだなぁと、童謡の『赤とんぼ』のような感覚で、しんみりひたってしまいました。幼いころ、弟に冷たくあたってしまったことへの後悔とか、レジスタンスの太陽だった、今は亡き女性についての思いとか、後から振り返れば、あのときああすることもできたんじゃないか、こうすればよかったんじゃないかって思うけど、仕方ないよね、みんなそのときを精一杯に生きていたんだから・・・・・・なんて、戦争の場面すら、若かりし日々の1ページのように読んでしまって、これでよかったんだろうか、と読後に思いました。これ、日本語版のタイトルが『たいせつなひとへ』だからっていうのもあるんじゃないかなぁと思います。原題の“IN THE MOUTH OF THE WOLF”(章タイトルに「オオカミの口の中」がありました)に近いものだったら、また違った入り方で読めたのかも。でも、『オオカミの口の中』というタイトルだったら、私はちょっと手に取らなそうだし・・・・・・難しいところです。あと、「兵役免除審査局」で、なぜ自分は軍服を着て戦場で戦うつもりはないのかを説明し、それが認められたところがとても印象的でした。

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ネズミ(メール参加):そつのない語りでさらさらと読めましたが、モーパーゴの作品の中でとびきりよいとは思いませんでした。冒頭のフランスの場面で「フランシス・カマルツ大佐殿」とありますが、p.64は少尉なので、どこで大佐になったのかと疑問に思い、なぜ、人生の終わりにフランスにいたのかは、プロフィールを読むまでわからず、やや消化不良でした。

(2019年9月の「子どもの本で言いたい放題」


『つくられた心』

佐藤まどか/作 浦田健二/絵
ポプラ社
2019.02

マリンゴ:装丁が非常に魅力的で、目を引きます。導入部で一気に引きこまれますし、AIという、児童書として比較的新しい材料を料理しているそのアイデア力は素晴らしいなと思います。ただ、全体的に描写が少なくて、どういう世界なのかわかりづらい部分がありました。サイエンスフィクションは、ディテールが緻密で、目に浮かぶように描かれないと、プロットっぽい感じになってしまうのかもしれません。もっとも、物語の分量的にはちょうど子どもが読みやすいボリュームだとは思います。あと、誰がアンドロイドなのかという謎で引っ張ると、読者はミステリーとして読むと思うので、はっきりとした結論がある、もしくは結論のない理由が明確であるほうが、ミステリーのルールにはかなっている気がしました。ちなみに、わたしはミカかなと思って読んでいました。

西山:おもしろく読みました。最初に座席表を見て、日本以外のルーツと分かる名前が16人中3人もいて、まずおもしろそうだと思って、期待とともに読み始めました。出だしの会議の様子は、なかなか現代社会に対して批判的で小気味よさを感じました。ITがらみの未来小説として『キズナキス』(梨屋アリエ著 静山社)を思いだして、『キズナキス』のいろんなことをぶちこんだ重層的なボリュームと比べて、一つのテーマだけでドラマを引っ張っていることから、薄い印象を持ってしまいました。p154「冷酷な人と慈悲深いアンドロイドなら、どっちを信用する?」というところを子どもにも考えさせることになるでしょうか。私は、p150の最後の行のミカが「いいにおいのするあたたかい母の胸」に顔を埋めて泣き止む場面で、瞬間的にアンドロイドはミカだと思ったのですが、中学生の読書会で使うと、誰がアンドロイドだろうと盛り上がるだろうと思います。

まめじか:AIと人間はどこが違うかという議論は、バーナード・ベケットの『創世の島』(小野田和子訳 早川書房)にも出てきますね。『創世の島』では、人類はすでに滅びていて、人間の記憶を移されたAIだけがいる世界だと、最後にわかります。

しじみ71個分:子どもたちが学校にいる監視用アンドロイド探しをする中で、友だちとは何かとか、心とは何かなどいろいろ考えるストーリーが、冒頭と末尾にある、大人の会議描写に挟まれる形になっていて、種明かしをすれば大人の思惑どおりになりました、という物語になっていて、正直、読後感はあまりよくなかったです。伝えたいのが、監視社会の恐怖や不安なのか、それを乗り越える力なのか友情なのか、子どもに何を伝えたいのか、今ひとつ重点の置きどころがはっきりしなかったような印象です。表現は、抽象性が高くて、『泥』(ルイス・サッカー作 千葉茂樹訳 小学館)を思い出しましたが、欧米のフィクションっぽいという印象を受けました。人物の背景等を書きこみ、心情を描写して人物像や関係性を描くいう手法をとらず、ほぼ子どもたちの背景を語らないまま、会話だけでアンドロイド探しの話を読ませていくという表現は新鮮でした。抽象性が高いので舞台劇にしたらおもしろいんじゃないかとも思いました。大人との対話があるのは、物語終わりかけのお母さんとミカとの会話の場面だけですが、その中で人の心とはとか、友情とはとかについて話すのですが、あまり深く掘り下げないまま薄い感じで終わらせ、かつ大人の会議の場面が最後に結末として呈されて、友情やら心やらの問題が重要だったのではなかったんだと、もやもや感を残したまま終わるようになっています。テーマの重要性はよく分かるのですが、最終的に子どもたちがそれをつかめるかなぁ、という疑問は残りました。

鏡文字:再読する時間がなく、細部は忘れてますが、全体の印象は残っています。座席表というと、『なりたて中学生』(ひこ・田中著 講談社)を連想させますが、名前に外国ルーツの人が何人も入っているところなど、イタリア在住の作者ならでは、と思いました。はっと目につく表紙で、中表紙もきれいですね。現代の監視社会への問題意識に共感します。冒頭とラストの会議の場面がいかにも嘘くさくてリアリティを感じなかったのですが、でも、現実はもっと嘘くさいことがまかり通っているという気もします。監視社会といっても、きれいな監視社会・・・・・・エネルギーは太陽光だったりと、今風な部分もありますが、会議のいかにも昭和なイメージ(ザ男社会!)は、敢えてのことだったのでしょうか。冒頭とラストが、真ん中に挟まれた子どもたちの物語とは、必ずしもうまくリンクしていないような印象でした。どんな物語が始まるのかな、と期待しながら読んだけれど、やや肩すかしをくらってしまったという感じでしょうか。子どもたちがある意味、無邪気なんですよね。その分、人物造型が薄く物足りない気がしました。こういう社会の下で、それなりに友情が育まれるけれど、それを希望と呼べるのかどうか、作者の意図はどうだったのでしょうか。アンドロイドが誰かということが話題に上りました。読み手としては知りたいところかもしれませんが、私は、それはどうでもいいような気がしました。人間そっくりのアンドロイドなんて、これまでいくらでもフィクションに登場しているし、恋愛の対象にさえなり得るもので、それを否定できるものでもありません。現実には、監視社会がアンドロイドという形を要求しているわけではなく、監視や管理はもっと違う方法で進行していると認識しています。物語に会議が入る構成に『泥』を思い出しました。あれは怖かったけれど、この物語からは、あまり恐怖は感じませんでした。

サマー:おもしろく読みました。監視社会や管理社会ということで思い出したのは『ギヴァー:記憶を注ぐ者』(ロイス・ローリー著 島津やよい訳 新評論)でした。『ギヴァー』は色のない世界で、いらなくなった人間はリリースされるという恐ろしい未来社会でした。『つくられた心』はそこまで恐ろしくはないけれど、子どもたちが疑心暗鬼になってアンドロイドを探す構造になっています。推理、なぞ解きを楽しむ要素があるので、教室で読書会をするといろんな意見が出ておもしろいのかなと思います。登場人物が大勢出てきますが、作者は工夫してそれぞれ口調を変えたりして、人物がキャラ立ちしていると思います。ただ、この物語は何年先の設定にしているのか。50~60年先のことだとしたら、主役に近い仁の口調が今どきすぎないでしょうか? はたして数十年後に今の子どもたちが使っているような口調がそのまま残っているのかな? と疑問を感じました。

ルパン:タイトルにすごく惹かれたんですけど・・・・・・私はこれは失敗作かと思ってしまいました。テーマは何なのか・・・・・・。読み始めてすぐにミカがアンドロイドなんだな、と思ってしまったので、ガードロイド探しの部分も楽しめなかったし。時代設定のちぐはぐ感もあります。スマホを「おばあちゃんがもってる長方形のもの」といったり、レストランや介護の従業員がみなアンドロイド、など、未来社会を思わせる設定で入ったわりには、家が飴屋とか、昭和感があったり、生活ぶりが今と変わらなかったり。物語の世界に入り込めませんでした。最後の会議のところも今ひとつピンときませんでした。ガードロイドがいなくても、子どもたちはこうなるのでは? 信じられないような理想教育クラスというほどでもないので中途半端に終わった感じです。物語世界のイメージがわいてこなかったんです。

アンヌ:わたしは、アンドロイドは鈴奈だと思いました。読者もいっしょにアンドロイドを探す推理小説仕立ての作品だと思い、それならば作者が出したヒントを使おうと考えて、親が役者、でも現実には姿を現わさない、そして実生活が話すことと違うという点がアンドロイドっぽいかなと推理しました。でも答えはないし、大人の会議場面は妙に薄っぺらくて管理社会の恐さがそれほど見えてこないし、どこに向かっているのかわからない奇妙な物語だと感じました。

ハリネズミ:今私たちが気づいていないけれど、確実に存在するAI社会の危険性を提示してくれているという意味で、とてもおもしろかったです。日本にいると自分がいる場がすごい管理社会だということは見えにくいですが、イタリアにいる著者だからこそ見えるのかもしれません。この作品で象徴的に描かれているのと同じようなことはすでに起こっている、あるいはもうすぐ起ころうとしているのではないでしょうか? 一時AIが人間を超える時代は来るのかということが問題になりましたが、今見ていると人間のほうがどんどん劣化して、感覚も麻痺してきて、自分の頭で考えることをやめて、管理社会に対しても疑問を持たなくなっている。人間にはAIにはできない複雑なことができるはずなのに、考えるのは面倒臭いと思って「まあいいか」と思ってしまうと、AIにのっとられる。あるいはAIを使って権力を握ろうとする人の思うままになってしまう。たとえば見守りロボットは、いじめを防止するという目的で導入されますが、盗聴や監視を行うスパイで、それを管理する権力者は、いくらでも都合のよいようにまわりの人間を操作していくことができるわけです。無邪気にアンドロイド探しをする4人の子どもたちは、結局友だちは信頼するしかないという結論に達します。でも、怖いのはその後で、p172では、人間と見分けがつかないようなアンドロイドをつくって、その心もリモコンで操作し、しかもそのアンドロイドには自分は人間だと思い込ませるという仕掛けまでしていたことが明かされます。このシステムは、「友だちを信頼しよう」と思っている子どもたちをあざ笑っている。ガードロイドの正体はわからないままですが、作者はあえてそうしているのでしょう。だからこそよけいに管理社会が子どもを裏切っていく様子が浮かびあがってきて、読んでいてゾッとしました。『ギヴァー』とは時代もつくりも違ってきて、スマート管理が進んでいる社会の恐ろしさ。深読みかもしれませんが、子どものうちから思想を管理しようとする権力者のありようを、鋭く描いているように思いました。日本もこのままいくと、ちょっと先にこれが立ち現れるような気がします。

西山:「深読み」かも知れないとおっしゃっていたけれど、ものすごく「深い読み」だと刺激されました。ベンサムの円形監獄の世界なのですね。監視塔を中心にぐるりに作られた監房。囚人からは看守の姿は見えないので、たとえ監視塔の中に看守がいなくても、囚人は監視されていると考える。これ、「パノプティコン(全展望監視システム)」という言葉があるようです。監視されていると思わせるだけで行動を自粛させ管理下に置ける――本当に怖い現代批評になっていると思います。ただ、エピローグ的最終章の「理想教育委員会」の会議内容が、ガードロイドを紛れ込ませなくても生徒の管理はできるという成果を語るのではなく、最新型アンドロイドの存在の拡大を不穏な未来像として示して終わるので、監視社会の気持ち悪さより、AIの進化の方に目が向くように思います。学生の読書会テキストにしたとしても、私のようにアンドロイドは誰?みたいな興味に議論が集中してしまう気がします。

しじみ71個分:誰がアンドロイドなのかはどうでもいいという描き方ですよね。アンドロイドが紛れているという情報の効果はすごく出ていて、大人の掌の上で子どもの心を弄んでいる感じですよね。最後のところでも親が言いくるめて終わっていて、子どもたちは完全に大人たちにやられちゃってますよね。事実としてアンドロイドがいてもいなくても、相互に監視し合って、それを納得させられてしまって、完全に管理されてしまっていますよね。そこが何とも気持ち悪いですよねぇ。

サマー:子どもの本は、もっと後味がいいものだと思っていたのですが。

ハリネズミ:起承転結がはっきりしてハッピーエンドの物語も必要ですが、考える種をまいているようなこんな作品があってもいいと思うのですが。

しじみ71個分:この作品の気持ち悪さは、子どもたちの力で問題を乗り越えるとか、何か問題を解決できたり、超越できたりという希望がないところなのかなぁ。『泥』は、まだ、友だちを助け出せたというところにカタルシスがあったような気がするのですが・・・・・・。

西山:ものすごく未来の設定のはずなのに、会議の「昭和感」がすごい。それこそブラックですよね。

ハル:これはまた、いかにも課題図書的なタイトルだなぁと警戒しながら読んだのですが、おもしろかったです。このままAIが進化していったら、未来の世界はこうなっているのかな? と考えさせられるところもありますし、このごろなんでも「厳罰化」そして「監視強化」に世論が向かっているようで、それも怖いなと思っていたところでしたので、とてもタイムリーな感じもしました。いじめにしても、監視カメラや会話の録音で管理すれば、子供たちが守られる面も当然あるでしょうし、反面、表面的に抑圧されるだけなのかもしれません。実際にいま現在、いじめや暴力に苦しんでいる人の前ではきれいごとかもしれませんが、そうやって管理されることによって育まれていく心は、アンドロイドとどう違うのか。タイトルの『つくられた心』も、アンドロイドは誰か? ではなく、私の心はつくりものではないと、本当に言えますか? という問いかけなんだと思います。

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ネズミ(メール参加):管理された社会のおそろしさ、薄気味悪さを感じながら、ぐいぐいとひきこまれて一気に読みました。後味が非常に悪かったのは作者の意図したことでしょうから、それだけ作者の力量があるということか。あとで振り返ると、登場人物たちはみな立場と状況だけしか与えられていなくて、中学生の頃のぐちゃぐちゃした感情は描かれていません。観念的に書かれた作品という感じがしました。

(2019年9月の「子どもの本で言いたい放題」)


『天才ルーシーの計算ちがい』

ステイシー・マカナルティ/著 田中奈津子/訳
講談社
2019.04

アンヌ:この物語は大好きで、落ちこんだときに読むと元気になれる本です。このところ主人公が天才という本を何冊か読みましたが、たとえば『世界を7で数えたら』(ホリー・ゴールドバーグ・スローン作 三辺律子訳 小学館)に比べたら、数字で頭の中が混乱する描写等で、天才でもできないことがあるというイメージがわかりやすく書けています。3回も座りなおさないと座れないとか、除菌シートを手放せない等というのは、日本の小学生や中学生にもよくあるので、周囲が慣れてしまえば大丈夫だろうとあまり深刻にならずに読んでいけたし、いじめにあっても先生から理解されなくても、いっしょに教室を出てくれる仲間が2人もいれば怖くないなと思いました。苦手な犬に好かれたせいで世界がどんどん広がるというところは、私も身に覚えがあって、初めてなめられたり、犬の糞を拾ったりするときの気持ちとか、笑いながら楽しめました。いじめっ子のマディーが受けているストレスも書きこまれていて、ルーシーが気づくところまでいくのは見事でした。気になったのは、p54、p272で、パソコンのチャットにルーシーの気持ちが書きこまれているところ。チャットの書き間違いかと一瞬思いました。字体は変えてあるけれど、つまっていてわかりにくいです。欲をいえば、もう少し数学的な挿絵とか用語解説があればいいのにと思いました。

ハリネズミ:後天的なサヴァン症候群の子どもを主人公にして、リアルな描写でとても読ませる作品だと思いました。どの子も悪く書かないとか、助けてくれる大人も出て来るというところが王道の児童文学で、安心して読めますね。この子がわざとらしくない自然なきっかけで視野を広げていくのがいいですね。翻訳もとても軽快でどんどん読めました。

マリンゴ:数字が得意、という天才的主人公の物語はときどきありますが、天才ぶりについていけなかったり、数式の羅列が読みづらかったりするので、この本もそうかな、とちょっと警戒しました。でも、実際にはそうではなく引きこまれていきました。ルーシーの数学の活用法が非常に物語にうまくはまっていると思います。犬が引きとられるまでの日数の分析、数値化など、とてもわかりやすいし、親近感のわく数学ですよね。友情の輪が、わざとらしくなく、変に感動的ではなく、静かに温かく広がっていくのがいい感じで、読後感もとてもよかったです。気になるのは表紙のイラストですが、主人公の実年齢よりも幼い気がして、ギャップを感じました。あとは、助けてくれる先生のハンドルネームが「数学マスター」だったというところですが、たしかに数学マスターは出てきているんですけれど、印象が薄い登場だったので、「ああ、あの人か!」と手を打つ感じではなかったです。もちろん、わざとらしくならないよう、あえて著者がそうしたのだとは思いますが。

ハル:中学生くらいのときに、こんな本を読みたかったなぁと思いました。ルーシーは数学の天才だけれど、実生活に生かせるような数学的とらえ方を紹介してくれているので、当時の私が読んでいたら、数学の授業ももう少し頑張れたかもしれなかったです。ウェンディやリーヴァイも「いい子」ではなく、それぞれ何かしら癖があるところもリアルでいいですね。おもしろかったです。

西山:みなさんのお話を聞くまでページの多さは気にしていませんでした。意外と長かったんですね。今回の選書テーマが何だったのか、案内を見返しもせず、『たいせつな人へ』に続けてこれを読んで、「兵士」つながり?なんて思ってしまいました。アフガニスタンに2度も行っているポールおじさんの話にハッとして、ハロウィンでもルーシーがおじさんのお古の戦闘服(あ、いま、「せんとう」と打ったら、まず「銭湯」とでました!平和~(^_^))を着ますよね(p181)。「退役軍人の日の振り替え休日」(p237)とさらっと出てくるし、ものすごく異文化を感じました。日常の風景の中に「軍人」がいるんですね。もどかしかったのが、先生に事情を明かさないこと。ストウカー先生は話せば理解してくれるだろうことが、最初から結構はっきりしていますよね。おばあちゃんだって、うまい具合に伝えてくれてもよかったのに、おとなたちはもっと適切な連携やサポートができるはずなのにと、思いました。それによって全てが円満解決するはずもなく、しんどさは依然として残るでしょうし、新たな困難も生まれるかも知れません。それをドラマ化した方が読みたいと私は思います。対人関係ぬきにも、潔癖というのはルーシーの不自由さでもあって、でも、その点はパイがほどいていく。文学的ドラマが無くなるわけではないと思います。ルーシーがパイのうんちをひろったとき、おばあちゃんが感動するのはよくわかります。誕生日パーティーで友だちを招待してスイートルームにお泊まりなんて、これまた異文化体験でしたが、自分だけ簡易ベッドでそれだけでも十分惨めなのに、そこに悪口が聞こえてくるなんて、どんなにつらいか・・・・・・そういう感覚が素直に伝わってきました。スライダーも意外とおもしろかったりなど、ルーシーを設定優先でない、ひとりの女の子として伝えてくれる場面がたくさんあったと思います。全体に読みやすかったのだけれど、p268〜p269の仲直りのシーンはちょっとおいていかれた感じはしました。

まめじか:成長物語というだけでなく、子どもたちが自分たちにできることを考えて、社会をよい方向に変えていこうとする姿が描かれているのがいいですね。p201、クララがパイを里親に出せないと言いながら、「子どものころね、大人たちが『人生は公平じゃない』っていうのが大きらいだった」と語るのが、そうだよなぁと思いました。ウィンディはルーシーの秘密をついしゃべってしまいます。こういうのって、子どものころありましたよね。それで傷ついたり、傷つけたり。なにかひとつでもそういうことがあると、もうこの人は信じられないと、子どもは思ってしまいますが、けしてそうではなくて、許すことを学んで大人になっていくんですよね。

しじみ71個分:表紙の絵がポップだったので、割と小さい子向けの本なのかしらと思ったら、字が小さくてビッシリ書いてあったので、ギャップにびっくりしました。アスペルガーやディスレクシアなど障がいのある子たちが天才的な能力や賢さを持っていて、周囲との軋轢を超えて、友だちや家族の中で成長していくというような物語は、『レイン 雨を抱きしめて』(アン・M・マーティン作 西本かおる訳、小峰書店)、『世界を7で数えたら』(ホリー・ゴールドバーグ・スローン作 三辺律子訳、小学館、2016)、『木の中の魚』(リンダ・マラリー・ハント著、中井はるの訳、講談社)など、前例が多いので新鮮味はないなぁ、という感じはありました。ディレクシア、主人公と心を通わせる重要な存在としての「犬」も、既視感があったのは否めませんでした。でも、過去に読んだ作品より、主人公がポジティブで力強いところは新鮮味がありました。ウィンディが誕生日パーティで、ルーシーは天才なのだと周囲にバラしてしまったときにも、怒りを表して立ち向かっていくし、自分は天才だから、と自認もしています。最後のパイとのお別れの場面で糞を拾わざるを得なくなって、「わたしの犬じゃないし!」と正直に言ってしまうところなどとてもユニークでユーモラスでした。ただ、こういう作品によくある、障がいのせいで周囲となじめない、理解されない場面は読むと切なくなってしまって、理解ある先生なんだから正直に事情を話せばすむのに、とはいつも思ってしまいます。言わないことでドラマを作るのが英米文学なのかな。でも、この作品はそういった点も含めて明るく読めました。それから、友だちのリーヴァイの人物像は非常に好ましかったです。

鏡文字:おもしろく読みました。物語の方向が予想を裏切るものではなく、ある意味、安心して読み進めることができました。動物が苦手な私としては、また犬か、というか、犬のエピソードに長くひっぱられた感はあったものの、全体的に一つ一つのエピソードがうまくかみ合っていたと思います。人物像という点では、中学生としては、全般的に幼いな、という印象を持ちました。カバーイラストのイメージで、小学校中~高学年向けかと思ったのですが、中学生の物語で文字量も多く、なんと1ページ17行。きつきつ感が否めず、かなり無理して詰め込んでいますが、たとえページ数が増えたとしても、ゆったり作ってほしかった気がします。翻訳物にはたいてい添えられている、訳者のあとがきも読みたかったです。

ルパン:一気読みでした。とてもおもしろかったです。読み終わってから、サヴァン症候群について調べてみたりもしました。習ったことも聞いたこともないことがわかったりするって、とても不思議なことですが、実際に存在するんですね。

田中:この本の訳者として裏を明かすと、原書はかなりのボリュームがありますが、仕上がりのページ数を減らすために、編集部からの注文で原作を削ったところがだいぶあります。字が小さいのも、行間を取ったほうがいいところで取ってないのも、ページ数を減らすためです。一部分を削ると前後のつながりがおかしくなるところが出てくるので、そこは流れがつながるように文章を工夫しました。それと、p275の数学マスターの顔文字「T_T」ですが、原書では「:(」となっています。悲しいという意味だそうで、日本式に涙の顔文字になりました。

ハリネズミ:教育現場の人たちが読むと、障碍があることを言えばいいのに、と思われると思いますが、そうすると「障碍があるから助けなくては」という認識になります。ところが、この本の中ではサヴァン症候群と言わなくても、ウィンディやリーヴァイは、折に触れて助けようとしたり、思いやったりしていますね。そこがすばらしいと思いました。今、日本の学校では、この子はこういう問題をもってる、あの子はこういう障碍をもってるという腑分けが進んでいて、先生たちもそれを知って配慮していく。それが悪いとは言えないですが、その子の前面に問題や障碍が出てしまうような気もします。文学作品ではあえてそれを取っ払って人間を描くというのもありだと思います。それから、リーヴァイにはお母さんが二人いる家庭だというのがさりげなく出てくるのが、いいなあと思いました。

西山:べつに、全員にカミングアウトしろということではないんです。この作品では、先生も感づいているので、もっと助けを求めてもいいし、理解者のサポートがあってしかるべきだろうと思いました。『きみの存在を意識する』(梨屋アリエ作 ポプラ社)を読んだばかりなので、なおのことそういう風に考えたのだと思います。理解し、適切な支援ができる教師がいても、それでも困難は残るし、生徒同士の関係は複雑なまま残るでしょうから、ドラマはそこから始まってもいいのではないかと思います。これは、様々な作品に対して常々思うことです。現実とリンクする困難を描くときには、それに対する現実の制度やなんとかしようとしている存在も描いてほしい。学童の運営に苦労していたとき、学童などなきがごとき作品にがっかりした体験を思いだして、そんなことを考えます。

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ネズミ(メール参加):特殊な状況にある子どもを主人公にした作品って、近年英米ではよく書かれるのでしょうか。おもしろく読みましたが、こういうテイストのものに、やや食傷ぎみです・・・・・・。4年間も人と交わらずに過ごしていたなら、適応にもっと苦労しそうなものだけれど、そこはエンタメだから、おもしろおかしいところだけとってきているのかな。アメリカの文化を知らないとわかりにくいなと思うところや、文章としてひっかかるところがちらちらとありました。読書量の多い子どもには勧めてもいいけれど、年間に何冊かしか読まないような子どもには、勧めようと思わないかなと思いました。

(2019年9月の「子どもの本で言いたい放題」)