月: 2018年6月

TOTO BONA LOKUA

TOTO BONA LOKUA(トト ボナ ロクア)

アーティスト:Richard Bona, Lokua Kanza, Gerald Toto
レーベル:Sunny Side

 

 

 

リチャード・ボナはカメルーン出身(ベーシストとしても有名)、ロクア・カンザはザイール(コンゴ出身)、ジェラルド・トトは西インド系のフランス人(生まれたのは、マルティニクという説とパリという説があります)。

この3人はふだん別々に音楽活動をしているのですが、ここではユニットを組んで、一緒に歌ったり演奏したりハモったりしています。それぞれの母語で歌っている曲は、私には意味がわからないのですが、英語で歌っている曲もあります。

小鳥の声や口笛や子どもの声が入っていたりして、うっとうしい季節に聞くと、さわやかになれます。

この3人がLugano Jazz Festivalに出演したときの映像が、以下にあります。

 

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Rough Guide to African Lullabies

Rough Guide to African Lullabies
(アフリカの子守唄入門)

アーティスト:Various
レーベル:World Music Network

 

前に紹介したAfrican Lullabyは、アフリカ各地の伝統的に子守唄を取り上げていましたが、こちらは、アフリカ各地の多彩なミュージシャンや楽器を紹介するのがメインの目的で、夜聞くのにふさわしい落ち着いた曲を集めてあります。

1曲目は南アフリカの男性アカペラ・グループのレディスミス・ブラック・マンバーゾ、3曲目はベナンのアンジェリック・キジョー、4曲目はマリのグリオの家系でンゴニを弾くバセク・クヤテ、5曲目はマリの二人の巨匠、ギタリストのアリ・ファルカ・トゥーレとコラ奏者のトゥマニ・ジャバテ、15曲目は南アフリカのミリアム・マケバと有名なアーティストを入れています。

国で言うと、南アフリカ、コンゴ、ベナン、マリ、モザンビーク、カーボベルデ、ソマリア、エチオピア、ガーナ、ジンバブウェ、セネガル、ギニア、タンザニアとこちらも多様だし、聞ける楽器も、本来はグリオの楽器だったンゴニやコラ、ギター、シンセサイザー、セプレワ(古いガーナの弦楽器)、ンビラ(親指ピアノ)、バラフォンなど様々です。歌が入っている曲もあるし、楽器だけの曲もあります。

私は個人的には、African Lullabyの方が好きなのですが、こちらも夜などにボリュームをおさえて聞くと、なかなかいいのです。最後は、タンザニアの歌「マライカ」を南アフリカ出身のミリアム・マケバが歌っています。

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2018年04月 テーマ:好きなものがある子どもたちの話

日付 2018年04月20日
参加者 アカシア、アンヌ、カピバラ、コアラ、さららん、西山、ネズミ、ハル、マリンゴ、ルパン、
レジーナ、(エーデルワイス)
テーマ 好きなものがある子どもたちの話

読んだ本:

(さらに…)

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佐藤まどか『一〇五度』

一〇五度

さららん:「椅子をつくる」というテーマを新しく感じました。モックアップ(原寸模型)など専門用語がいっぱい並び、覚えきれないほどでしたね。主人公の真と出会い、椅子づくりの同士となるのは、スラックスをはいて登校する女の子梨々。梨々の造形が理知的でさわやかでした。真はというと、「LC4」という歴史的な椅子に座って、その良さと悪さを自分の頭と体を通して考えます。大好きな椅子であっても、そうした分析的な目がクールでいいな、と思いました。でも一方で、二人ともお金持ちの通う私立の学校に通っていて、真は勉強もできるし、椅子のデザインまでできる。真の強権的な父親以外、まわりがほぼみんな二人に協力的で、フィクションとはいえ恵まれすぎた環境のようにも思えます。椅子職人だった真のおじいちゃんが、まっこうから父親とぶつかる真に、そのときどきに必要な言葉を(「オヤジをだましときゃいい」などと、ときにはどきっとするような言葉も)発してくれるのがうれしかったです。

アカシア:著者がプロダクトデザイナーだけあって、イスがどのように考えられて作られているかがわかったり、現場での工程がわかったりする部分は、とてもおもしろかったです。一〇五度が少しリラックスしてすわるイスの背もたれの角度だとわかって、なるほどと思いました。真の祖父はそれに加えて、人間もおたがいに軽くよりかかるのがいいと言ったりして、象徴的な角度としても使われているんですね。できる子の真と、できない子の力という兄弟の対比が描かれ、できる子だって「なんでもできるんじゃなくて、無理してるんだよ。がんばっても認められない。それでまた無理をする。ストレスがたまる。この悪循環から抜け出せないんだ」と、そのつらさを書いています。そのあたりもいいな、と思いました。できる子の真は、勉強もがんばる、イスのコンクールでも高評価を得る、弟や梨々の勉強の面倒もみる、と「できすぎ」少年ですが、これだけ出来過ぎだとリアリティがなくなってエンタメになるかも。出来過ぎくらいにしておかないと、成立しない物語なんでしょうか?

コアラ:おもしろく読みました。椅子のことがかなり詳しく書かれていて、こういう世界があるのかと、知らない世界を知る楽しさがありました。ただ、主人公が中学生で、確かに中学生でも職人的なものに興味を持って詳しい人もいると思いますが、レベルが高校生くらいのような気もします。p134の7行目「結局女ってヒステリーだよな」という言葉は気になりました。p220で偏見を自覚する場面があるので残しているのかもしれませんが、p134では無自覚に言っていて誰も注意をしていません。そのほか、ご都合主義なところもいくつかあって気になりました。例えばp139で梨々の家に行こうとしていた真の前にちょうどおじいさんの早川宗二朗さんが現れるところとか。梨々についても、できすぎな女の子のように思いました。それから、タイトルになっている一〇五度という関係について、ちょっと寄りかかったほうがいい、というのは大人の関係かなという気がします。椅子の製作の過程はいいのですが、弟や父親との関係は、ストーリーにあまりなじんでいないというか荒っぽい感じがして、勢いで書いているようにも思えました。

アカシア:p134のところは、この子がそういうことを言うのはふつうじゃない、とそこでおじいさんが気づくというストーリーの運びになっているので、あえて言わせているのだと思います。それと、梨々ですが、私は女の子のオタクとして登場させているんだと思いました。ふつう、オタクは男の子がほとんどなので。

アンヌ:大人でも知らない、「プロの椅子づくりの世界」が描かれているのが楽しくて、モデラーという仕事や、工具や材料の名前などに漢字にカタカナのふり仮名をふってあるところとか、ある意味SFを読むときのように、わからなくてもどんどん読める感じがおもしろかった。主人公が15歳だとすると、お父さんは40代。おじいさんは70代かな。少し、おじいさんが年寄りに書かれすぎているかもしれません。真がまっすぐすぎて、勉強まで頑張って上位に入るなど、葛藤がなくて納得がいかない気もします。友人に失敗話をさせようとしたり、コンペで賞を取っても喜ばないお父さんというのは、あまりリアリティがない。親も未熟なんだろうなというのは大人にはわかりますが。少し一面的に感じました。

ルパン:「105度」については、なるほど!と思いました。でも、椅子を作るシーンは……空間図形に弱いせいか、イメージがわかず、あまり物語に入り込めませんでした。恵まれた環境にいる中学生が、大人の手を借りてやっている、という感覚がぬぐえず、等身大の共感は得られないと思いました。

アカシア:大人の手はできるだけ借りないようにして、この二人はがんばってた、というふうに私は理解しましたけど。

ルパン:それから、p251で真の父親が「将来は飢え死にする覚悟でやれ。茨の道を自分で選ぶ以上、泣き言を言うな」というところ、あれ、椅子づくりの道を選ぶことを許したのかな、と思ったのですが、次のページではどうやらそうではないような感じで、よくわからないまま終わってすっきりしないものが残りました。

アカシア:このお父さんは、一見子どものためを思ってアドバイスしているかのようですが、本当の真のことは、何も見ていないですね。真や、弟の力が、今何をおもしろがり、何に情熱を注いでいるかはまったく見ていない。賞をもらっても、まだ気づかない。だから真はがっかりするのだと思いますが、でもそれでもやろうと最後には思う、という終わり方なんじゃないでしょうか。

ルパン:ラストシーンで父親に「途中で放り投げても、助けてやるつもりはないぞ!」といわれた真は、「よし、放り投げずにやってやる!」ではなく、「ワクワクしていた気分が一気に萎えてくる」といっています。なんだか、助けてほしかったのかな、と思ってしまうシーンです。

アカシア:そこは、それでもこの子はやろうとしている、というところを浮き彫りにするための布石だと思います。

ハル:特に同世代の読者が読んだら、好きなものがあるってかっこいい! オタクってかっこいい!と思うでしょうし、自分も何か見つけてみたいと思わせてくれる本だと思いました。失敗しながら学んでいく姿にも、父親の反対を押し切って突き進んでいこうとする姿にも、読者は勇気づけられるだろうと思います。ただ、なぜか、登場人物の会話が無機質というか、血が通っていないような印象を全体的に受けました。いかにもせりふっぽいというか。そこが私は気になりました。

レジーナ:美大の工業デザイン学科に入学した友人の、初めての課題が椅子でした。4本の脚で体重を支えなきゃいけないから、椅子は難しいと言っていましたね。この本は、専門知識に基づく描写を通して、ものづくりのおもしろさが伝わってきました。家族の描き方は少し物足りなかったです。子どもを理解しない父親、そっと応援するおじいちゃん、というふうに、大人の描写が一面的で、生身の人間に感じられなかったからかな。

ネズミ:職業小説や部活ものというのでしょうか。『鉄のしぶきがはねる』(まはら三桃作 講談社)を思い出しました。椅子にのめりこんでいくのはとてもおもしろいけれど、こんなに成績にしばられている中学生や、ここまで子どもに期待する親がいる家庭って実際には1割もないんじゃないでしょうか。とすると、この主人公にどれだけの中学生が気持ちを寄せて読むのだろうと思ってしまいました。個性があるゆえに肩身の狭い思いをしている子どもは共感できるのかな。

西山:すごくおもしろく読みました。生身の子っぽくないのは、たしかにそうだけど、それは中学生らしくなかったということでは?と思ってます。高校生っぽい。進路の問題としては、中学生という設定が必要だったのでしょうけれど。中学生らしい「おバカさん」さがなくて、生身な感じを欠いている気がします。p47のスラックスをはく理由を語る梨々のせりふは、中学生としてはなじまないかもしれないけれど、「権利を行使した」と書いてくれたのは気持ちよかったです。なにより、物語が椅子にまっすぐ進んでいくのがすがすがしかったです。冒頭のからかいとか、梨々のスラックス姿とか、学校の友人関係のぐちゃぐちゃに展開するかと思いきや、すぱっと見切って、椅子づくりに進む潔さが新鮮な印象でした。病弱で、親から溺愛される弟への屈折が出てきて、あさのあつこの『バッテリー』を思いだしもしましたが、真と対照的な存在として、うまく書かれていたのか、最終的に二番煎じ感は消えていました。賞もとったのに、じゃあやっていい、と最後まで言わない父親も新鮮な気がしました。好きなもので食べていけるわけじゃない、ということを子どもにつきつけているシビアさが新鮮。昨今「子どもの夢を応援」する物わかりのよい親像が、実際はどうかは別として、建前としては主流のように私が感じているからでしょう。でも、真は負けていない。そこが、児童文学としての、作者の子どもへのエールかもしれない。あと、なにしろ、本がきれい! カバーをはずすと地模様が方眼紙だし、見返し遊び紙や扉がなんか上等だし、おしゃれな造本だなぁと愛でました。

ネズミ:お父さんの昔の友だちが死んでしまうというエピソードは、そこまで言うかなと思いましたが。

西山:それでも好きなことをやる方を選ぶんですよね。

マリンゴ:今回の3冊のなかで一番好きでした。佐藤さんの『リジェクション 心臓と死体と時速200km』(講談社)には、いまいちハマれなかったのですが、これはとても好きです。登場人物たちが高校生レベルなので中学生の読者が共感できるのか、といった話が先ほど出ていましたが、私はこれは、自分に重ねるのではなく、突き抜けたものとして読めばいいのだと思います。ここに出てくる中学生たちのことは、要するに藤井聡太六段だと思えばいいのです(笑)。椅子界の藤井聡太。読者は、そのエネルギーに引っ張られて、自分も何か打ち込めるものを見つけたいと思うのではないでしょうか。ただ、唯一、気になったのは、最後のコンテストの場面。エンタテインメントとしての盛り上がりを期待したんですけど、ライバルの描写が少ないんですよね。p240「繊細なラインで、ひと目見てすわりたくなるイスだ。斬新なアイディアはとくにないけど、細部まで気を抜かずに徹底して計算されてデザインされている」。具体的な描写がないので、どんな椅子かわかりません。ライバルの人物造形もない。敵が強く、ちゃんとイメージが湧くほうが、盛り上がるのに……とそこは残念でした。いずれにしろ、全体的に読みごたえがあるので、これが夏の課題図書として、たくさんの中学生たちに読まれるのはいいなと思います。

エーデルワイス(メール参加):「105度」ってなんだろう?と思っていたら椅子の角度だったのですね。新鮮です。椅子のデザイナーを目指す主人公は新しい視点。作者がプロテクトデザイナーらしいからその道を描いたのでしょうか。椅子に関するエピソードは興味深いです。父と息子の対立や、その父と祖父の関係も描かれてはいますが、この二人は対話を避けて逃げている感じです。もうちょっと深く描かれたら、もう少し納得できる感じがします。ところで、「スラカワ」こと早川梨々は女子ながらいつもスラックスをはいて目立っている設定ですが、私の中高生時代、あたりまえに制服の下に女子がスラックスをはいていました。ただの寒冷地ということかもしれませんが。

(2018年4月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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三輪裕子『ぼくらは鉄道に乗って』

ぼくらは鉄道に乗って

さららん:ちょっと昔っぽい印象を受けたけれど、物語自体は好感が持てました。昔っぽいのは、時刻表を使うという理由だけでなく、人物造形のせいかもしれません。ともあれ、時刻表を具体的に使って、子どもたちが自分の頭と足で歩こうとしているところはいいですね。悠太の近所に引っ越してきた理子が、なぜ時刻表を見ていたのか、その謎が後半で解けます。離れ離れになった弟に会いに行きたい理子。親の都合で、がまんを重ねている子どもはいっぱいいますよね。子どもだって、自分で動いていい。心理の描き方は地味かもしれないけれど、次の電車に乗り遅れないように主人公の悠太がじっと待つところなど、よく理解できました。

レジーナ:インターネットで調べる場面を見て、鉄男もそういうのを活用するんだなと思いました。弟に会わせてもらえなくて、会いにいくというのは、ひと昔前の児童文学にありそうですね。

ネズミ:時刻表や図書館がきっかけになるのがおもしろいなと思いましたが、お話自体、とりたてて驚きや感動はありませんでした。理子は、案外活発で面倒見のよさそうな女の子なのに、弟に会ったあとに泣き崩れるというのが、ピンとこなくて、登場人物にもっと魅力があればいいのになと思いました。

マリンゴ: かわいらしい話で、好感を持ちました。好きなものがある子たち同士で惹かれあう……そういう人間関係の広がりが、いいなと思いました。読んでいると、電車に乗りたくなります。青森に行ったとき、気になっていたローカル線に乗らなかったことが今さら悔やまれたりして。ただ、小道具の時刻表ですけど、見ている時間が長すぎるのではないかと思いました。引っ越し当日、つまり冬休み最後の日に見ていて、春になって学年が上がってもまだ見ている。そんな何か月も時刻表を見てたら、さすがに千葉への行き方、わかるのでは?とツッコミを入れてしまいました(笑)。それはともかくとして、読書をする子はやっぱり女子が多いので、この本のように、男子に向けて書かれた本はとてもいいと思いました。この本をきっかけに読書好きになる男の子もいるかもしれませんよね。

カピバラ:今回のテーマ「好きなものがある子どもたちの話」っていいですよね。物語の設定として魅力があると思います。悠太は日本の児童文学に良く出てくるタイプの男の子。主人公がどういう子かというのは、物語を読んでいくうちにその子の行動や言葉を通して少しずつ見えてくるのがおもしろいのに、冒頭でぜんぶ説明しているのはつまらないですね。鉄道ファンにとって時刻表はとても魅力あるものだけど、その魅力があまり伝わってこないのが残念でした。鉄一のことを1歳しか違わないのに「鉄一センパイ」と呼ぶのはどうかと思いました。理子は自分のことをしゃべる子じゃないのに、p110では自分の境遇を聞かれもしないのにぺらぺらしゃべっているのがとても不自然でした。会話でぜんぶ説明しようとするとリアリティに欠けてしまいますね。

アカシア:私も時刻表などのおもしろさがもっと書かれているといいな、と思いました。それから、物語世界のリアリティをもう少し考えてほしいと思いました。鉄男の二人が、理子の弟に会いに行こうとするのも不自然だと私は思ってしまったし、保育園の先生が知らない子どもから受け取ったものを園児に渡すなんて、現実にはありえません。

コアラ:鉄道が好きな子どもの心理がうまく描かれていると思いました。例えばp39の「古い車両の列車が、夜じゅうかけて遠い町まで走り続けていくって想像すると、心がときめくっていうのかな」という隼人のせりふ、好きな気持ちがこちらにも伝染して、確かにいいよね、と思います。気になった場面は、p139からp141あたりの、保育園で悠太がヨッチに理子からのプレゼントを渡して、写真も撮るところ。ヨッチにとって悠太は知らない人なわけで、知らない人から物をもらって写真を撮られる、というのは危険だと思いました。それから、p55で悠太が「鉄道ファン」付録のメモカレンダーの2月のところに、隼人の名前と電話番号を書くところも気になりました。「鉄道ファン」は自分では買わずに図書館で読んでいますよね。誕生日に買ってもらったのは8月なので、その号には2月のメモカレンダーは付いていないはず。いつ買ったのかなと思いました。全体としてはおもしろかったです。

アンヌ:私は、鉄な従弟がいて、時刻表の魅力や乘った電車について語り合った事があるのですが、鉄は一日中でも時刻表を見ていられるそうです。もう少し、時刻表を見る楽しみなど書いてあると、その後の理子を鉄子と間違えたあたりがスムーズに展開したと思います。今回、そんな鉄の心を打つ名場面をあげますと、p20のパソコンの乗り換え検索と時刻表で「これで日本中どこでも旅ができるんだ」と思う場面、p38からp39の寝台車とローカル線という隼人と悠太のそれぞれの趣味を語り合う場面、p44からp47にかけての、大曲まで行くルートについて話すところ等があげられると思います。また、もはやない寝台電車での幻の旅を語り合うところも素敵です。気になったのは、理子についての描き方です。しっかりしているようなのに後半泣いてばかりいて、家族関係なども古風だと感じました。その他には、子どもにとって、鉄道博物館に行く在来線のルートもドキドキするものだという事が描かれているところも、うまく後半の大原行につながっています。ここは、東京以外に住んでいる子にとってもおもしろいかもしれません。隼人も悠太も何か事故があった時の対処法とかを考えていて、電車の道は一本ではないという事が書き込んであるところもいいなと思えました。

ルパン:おもしろく読みました。私は全然鉄道に興味がないのに、ワクワク感を共有できました。一番好きなシーンは、p25で理子の家が千葉の大原から越してきたと聞いた瞬間、それまでふてくされて黙っていた悠太が、「大原? いすみ鉄道が通ってる?」と反応するところです。こういう、何かひとつのことにマニアックに精通している小学生とかって、すごくおもしろい。今回のテーマにもある「好きなもののある子ども」の、魅力全開シーンだと思います。

ハル:私はもうちょっとワクワクしたかったなと思いました。鉄道博物館に行ったところとか、時刻表のこととか、鉄道好きじゃない読者も巻き込むほどのインパクトはなかったかなと思いましたが、鉄道好きな子が読むとまた全然違うでしょうか。理子の弟が登場したシーンはぐっときました。結局解決はしていないけど、線路でつながっているというところが、鉄道のロマンなのかな……。

カピバラ:目次の章見出しを読むだけで筋が全部わかってしまいますね。もっと工夫してほしいです。目次ページは右と左でフォントの大きさが違っています。それからもう一つ気になったのは、悠太が新幹線を見たことがないという点。これだけ鉄道が好きな子どもなら、お父さんと見に行ったりするんじゃないかな。

エーデルワイス(メール参加):私の文庫にこの本を入れたら、鉄道大好きな小6の男の子が借りていきました。挿絵もよかったのでしょう。家庭の抱える深刻な問題も、『鉄道』というフレーズで暗くならずにすんでいます。鉄道が大好きで乗り継いで目的地までゆくドキドキ、ワクワク感が出ています。東京の新宿の圧倒的な人混みを、子どもだけでよく頑張りましたね。小学生の頃、電車というより汽車に乗り一人で祖父母の家に行ったことを思い出しました。一日がかりだったように思います。冒険感でいっぱいでした。

(2018年4月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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ジョー・コットリル『レモンの図書室』

レモンの図書室

さららん:本だけが友だちのカリプソが主人公です。お母さんの死後、お父さんとの二人暮らしが始まり、カリプソはお父さんに暮らしの面倒を見てもらえません。でもメイという本好きの友だちが現れて、物語の世界を通して、カリプソの心の扉が開きます。レモンの研究書の執筆に打ち込むお父さんが、非常に子どもっぽいと感じましたね。現実を逃避するお父さんの心の問題が次第に明るみに出て、閉ざされた家庭に外からのケアが入ります。イギリスには、大人の世話をする子どもの会があることを初めて知って、新鮮でした。p188に「正常か異常か、その判断は人によってちがうんじゃない」とメイが言います。そんな言葉がこの物語を単純なものにせず、救っていますよね。幸せの形を自分で探すカリプソの物語になっています。ただ、いいところもたくさんあるけれど、わかりにくいところもありました。私にはお父さんが謎の人で、共感を抱けず、血の通う人間としての像が結べませんでした。子どもが大人をここまで理解し、包容する必要があるのかと、疑問も感じました。なお本文に出てくる本のタイトルが巻末にリストで出ているのは、とても親切ですね。でも文中には「未邦訳」の注をつけなくてもよいと思いました。それを見たとたん作品の世界の外に、放り出されてしまいます。

アンヌ:とても魅力的な表紙で、レモンの背景の地色の灰色がかったベージュの色に不安が表わされているようで見入ってしまいました。二人が出会う場面で、メイがカリプソの名前を木で組む場面とか、授業で、言葉を知っていることに尊敬の念を抱くところとか、古典的な児童文学について二人が夢中で話すところとかに、とても惹かれました。でも、カリプソはいつも空腹で、食事だけではなく洗濯も自分でしなくてはならない状況で、読んでいてつらく、父親への怒りを感じました。物語の後半は、あまりうまく描かれていない気がします。父親の状況を、父親とカリプソが交互に物語を書き合う事で説明してしまうところや、大人の面倒を見ている子供たちを支援する組織が妙に無力だったりするところとか。そして、これだけいろいろあったのに、最後はカリプソも父親と家庭を作るという結論には、なんだか昔『ケティ物語』(クーリッジ作、小学館)のラストを読んだ時のように、がっかりしてしまいました。気になった言葉がp10『少女ポリアンナ』(エレナー・ポーター作 角川文庫)の「よかったさがし」。本の内容を知っていても違和感のある感じがしました。村岡花子版では「喜びの遊び」「喜び探し」だったので、最近の訳はどうなんだろうと調べたら「幸せゲーム」「幸せさがし」などの訳があり、確かに「よかったさがし」としている本もありました。

ネズミ:p10のせりふだけ見ると、「よかった探し」と『少女ポリアンナ』は結びつかないですね。

コアラ:主人公は10歳ですが、本のつくりは大人っぽいと思いました。カリプソが赤毛でメイが黒髪で、物語の中でも『赤毛のアン』(モンゴメリー作 講談社他)が出てきますが、他にも『赤毛のアン』を思い出させるところがありました。例えばカリプソが学校を休んでメイがさびしがるところや、p239からの部分で大切なことに気付くところとか。それから、物語の中で本がたくさん出てくる割には、あまりワクワク感がありませんでした。やっぱりp10の「未邦訳」で気持ちが削がれたのかもしれません。それでもカリプソが本を大切にするところとか、共感できる部分もありました。巻末の「読書案内」は親切だと思いました。

アカシア:原文は、よく練られた美しい文章だったのですが、訳はかなりはずんだ元気な調子になっていますね。訳文の文体に私はちょっと違和感がありました。お話はおもしろく読んだのですが、いくつか引っかかる点がありました。一つは、この父親の状態ですが、大人なら想像がつきますが、子どもに理解できるのかな? 母親の本を全部外に出して、書棚にレモンを並べていたところも、父親が母親の思い出と訣別したかったのか、それとも単に精神が錯乱しているのか、そのあたりもよくわかりません。二つ目は、ダメ親と子どもの関係なのですが、現実では子どもが、「親がダメなのは自分のせいか」と思ったり、「自分がしっかりしないと家庭が崩壊する」と思ったりして、がんじがらめにされてしまうことも多いのではないでしょうか。たいていの児童文学では、作家はそうした子どもの側に立って、「もっと自分のことを考えてもいいんだよ」というメッセージを送りますが、この作者は逆に父親の側に立って愛情をもっと注ぐことを娘に奨励しているように見えます。そこに引っかかりました。表紙やカットの入れ方はいいですね。

カピバラ:10歳の子どもらしい感覚が描かれていると思いました。対象年齢がYAよりちょっと下に思えたのは、弾んだ訳文のせいかもしれません。子どもの気持ちや、パパやメイの描写は、ありきたりではなくおもしろかったです。例えばp198、パパの様子を「つかまるとわかって、身をかたくするハムスターみたい」という表現とか。自分にとってメイがどんなに大切な存在かと気づくことによって、パパには自分が必要なんだと気づくところが、すっと理解できました。ゲームに夢中になる子ども、パソコンから目が離せない大人など、今の子どもを取りまく現実がよく描かれ、その中にいながらカリプソは紙の本の価値を信じている昔ながらの子というのがほほえましかったです。知っている本のタイトルがたくさん出てくるのも読者にはうれしいと思います。

マリンゴ: 非常によかったです。冒頭で実在のいろんな本が紹介されていたので、図書室で子どもたちがさまざまな本を読む話かと思っていました。こんな物語だったとは! 親が大変な状況にあって、子どもが苦労する……こういうことは日本でも身近にあると思います。この子自身も相当個性的なのですが、そういうキャラクター、そして親との関係性を、一人称なのによく描けているなあと感じました。三人称のほうがきっと書きやすいはずですけど……。先ほど話題になっていましたが、「レモン」の解釈が日本と欧米で違って、ネガティブな意味があるところも、おもしろいですね。あと、余談ですけど、メイのお母さんのアイコって日本人ですよね。ステレオタイプな東洋人ではない描かれ方をしているのが、ちょっとうれしかったです。

ネズミ:母親が亡くなってから立ち直れない父親や、子どもの面倒を見られない親は、『さよなら、スパイダーマン』(アナベル・ピッチャー作 偕成社)や『紅のトキの空』(ジル・ルイス作 評論社)、『神隠しの教室』(山本悦子作 童心社)にも出てきますね。子どもがそれぞれの環境でそれぞれに親と向き合って生き延びていくというのは難しいテーマだけど、必要だと思うし、おもしろく読みました。ですが、この主人公は10歳で、感じ方など小学生が読んで、うんうんと思いそうなところがいっぱいあるのに、本のつくりが大人っぽくて、小学生が手に取るかどうかが疑問です。一人称の語りが、せりふの部分はいいけれど、地の文ではしっくりこなくて、三人称のほうがすっと入れたのではという気もしました。作者はこの子の目線を大事にしたかったのでしょうか。それと、結局、カウンセリングのゆくえがよくわからないですよね。リアルなのかもしれないけれど。日本だとマンガ『Papa told me』(榛野なな恵作 集英社)が1988年に出て、新しい親子像が描かれてきたけれど、この本のような父親は今もよくいるということなのかな。

カピバラ:カウンセリングは、与える側と受ける側にずれがあるところをうまく描いていると思います。受ける側は、なんとかしてほしい、と思って行くんですけどね。

レジーナ:とてもきれいな表紙です。YAにしても、大人っぽいつくりだと思いました。「大人を世話する子どもの会」というのはおもしろいですね。せりふはところどころ、しっくりこなかったです。p24「だめだめ! いえない!」「読んでる本の先をバラされるって、すっごく頭にくるよね。ほんとうにごめん! お願い、ゆるして!」、p133「もちろん知ってたよ! ここには本なんて一冊もないの。ふざけてみただけ! 怒らないで!」など、感嘆符が多いのは原書のままなのかもしれませんが、日本語で読んでいると、浮くというか、大げさに聞こえて。本棚のレモンを投げる描写もヒステリックで、読者はついていけるのか……。父親も、そういうのが嫌いなのはわかりますけど、カリプソがハロウィーンのお菓子をもらいに行きたがっているのに、頑なに反対します。いくら精神が不安定だとしても、自分の本をだれかが買ってくれたと喜んでいるカリプソに対して、ひどい態度をとるし。一人称は、その人の目に映る世界なので、すべてを描けないとしても、描写によっては、立体的な人物像になると思うのですが。

アカシア:このお父さんは出版業界にいるんですよね。だから、新人の原稿がそうそう採用されないのは知っているはず。なのに、送った原稿がある社から採用されなかっただけで、こんなに落ちこむなんて。リアリティという点でどうなんでしょう?

ハル:すごくきれいな装丁で、しっとりとしたお話かと思って読み始めたら、予想外の展開で。そのためか、お父さんは「おかしい」人なのか、ただ「心を閉ざしている」人なのか、どっちを意図して書かれているんだろうと少し戸惑いました。本を捨てていたことがおかしいのであって、レモンの歴史をまとめることや、レモンを棚に並べていたこと自体は「異常」ではないですよね? 絵面は衝撃的ですけど、レモンを研究していたわけですから。……でもやっぱりおかしいのかな。よくわかりません。でも、こういう、子どもが自分のことに集中できず、家のことや親の面倒を見なくてはいけないというような問題は確かにあるんだと思うし、このお話よりもっと切迫した状態の家庭もあるということも、この本を読んで想像することができました。主人公の女の子はとても大人びたところもあり、年相応に幼いところもあるので、読者には主人公の考え方や答えを丸のみにしないで、自分だったらどうするだろう、友達だったらどうしてあげることができるだろうと考えながら読んでほしいなと思いました。

ルパン:私はのめりこむようにして読みました。父親が書棚いっぱいにレモンを並べているシーンは、まるで本当に目に飛び込んできたように残像が残りました。強烈なシーンだったので、よほど書き込まれていたのかと思いましたが、あとで見返したらほんの半ページほどの出来事なんですね。それだけでリアルに壮絶さを見せる筆力はすごいと思いました。ところで、お父さんがここまで壊れてしまう原因はお母さん、つまり奥さんの死にあるわけですが、このお母さんも有名な画家で、ふつうの主婦ではないですよね。どんな女性だったんだろうと興味がわきました。それから、メイがとてもいい子ですね。カリプソに寄り添うメイの姿にとても共感がもてました。見守るメイのお母さんにも。p222にあるように、星を「濃紺の空にピンで刺したような穴が五つほど点々と光っていた」と表現するように、うまいなあ、と思えるところが何箇所もありました。救いがあるけれどご都合主義が鼻につくことはなく、後味も悪くなくて好感が持てる本でした。

カピバラ:p182の4行目の改行位置は、間違いではないでしょうか。カットの上ではないのに短く改行されています。

エーデルワイス(メール参加):親が心の病気で、その子どもが親を世話をする「ヤングケアラー」がいるんですね。そそれで「大人を世話する子どもの会」をつくっている。イギリスは進んでいるのか深刻なのか。日本も同じです。子どもは衣類を洗濯もしてもらえず食事も作ってもらえない。子ども時代を安心して過ごすことができない子が増えていることに怒りを覚えます。カリプソのように父親に対し憤りを覚えながら自分がなんとかしなければならないと頑張ってしまうことが本当に切ない。レモンに「欠陥品」「困難」という意味があることは初めて知りました。すっぱいからかな? カリプソは親友のメイとその家族の温かさに触れ、幸せになる・・・。良き人間同士の触れ合いが大事とのメッセージでしょうか。

(2018年4月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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2018年03月 テーマ:学ぶということ

 

日付 2018年3月15日
参加者 アザミ、アンヌ、オオバコ、コアラ、さららん、西山、ネズミ、ハル、レジーナ、ルパン、
(エーデルワイス、しじみ71個分)
テーマ 学ぶということ

読んだ本:

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今村夏子『こちらあみ子』

『こちらあみ子』より「こちらあみ子」

さららん:一人称の物語なので、すみれの花を一生懸命掘って小学校の女の子にあげようとしている冒頭の場面、これだけの描写ができることができる主人公は、十分に考えることができる人物だと感じました。しかし読み進むうちに、あみ子のイメージが変わっていきます。周囲からは、どこか障害のある子どもといった見方をされていることがだんだんにわかってきました。あみ子には、義理の母さんの悲しみも、父さんや兄さんの気持ちも理解できない。長い間、慕っていたのり君に、ついに思いきり殴られたあみ子は、けがをして歯も抜けてしまう。しかしその歯をあえて直さず、歯茎に触るたびにのり君のことを思い出すあみ子の感覚に、唸らされました。だれかが初めて本気で、人間としてのあみ子に丸ごとぶつかってくれたことは、あみ子にとっては喜びなのです。たとえ完全な否定であれ、憎しみであれ、その瞬間生まれて初めて、「こちらあみ子……」と発信しつづけていたあみ子は、だれかと本当の意味でコミュニケーションできたのだと思います。淡々とあみ子に話しかける別のクラスメイトの少年がいることが、この話の救いになっています。児童文学ではなく、大人が読む本だけれど、人間の生きる矛盾、切なさ、その奥にある輝きを感じました。

レジーナ:発達障害か、何かそうしたものを抱えている子を主人公にして、その目に映る世界を描いているのはおもしろいと思いましたが……。子どもに向けて書いているわけではないですし、これは大人の本ですよね? 坊主頭の少年はあみ子のことを気にかけているようですが、全体としては救いがなく、目の前の子どもに手渡したいとは思いませんでした。

ネズミ:すべてを言葉で表していく『木の中の魚』(リンダ・マラリー・ハント作 講談社)と比べると、情景を切り取って、人物の心情をそれとなく浮き彫りにする、とても日本的でこまやかな作品だと思いました。何を考えているか状況もわからず、登場人物たちの動きを追っていくうちに、だんだんと全体像が見えてくるというのは、文学としてはおもしろいけれども、子どもに手渡したいとは思わないな。どうしようもないコミュニケーション不全が根底にあって、父親は存在感が薄く、継母も精神を病んでしまうわけだし……。高校生ぐらいだったら、他者と理解し合うことを考えるきっかけになるかもしれないけれど、それでも非常に読者を選ぶ作品なのでは?

ハル:今回の選書係として、この読書会の趣旨に添わず「子どもの本」ではない本を選んでしまいました。申し訳ありませんでした。あみ子は変わっているし、勉強もできないし、何も学習していないようにみえるけれど、じゃあ、みんなとどこがちがうだろうと言われると、案外、みんな似たようなところがあるんじゃないかと思うのではないでしょうか。本当ならあみ子に応答してくれそうな坊主頭のクラスメイトのことは名前すら覚えず、助けも求めない。あみ子はあみ子のまま、ありのままであるからこそ、人の心をざわつかせ、隠していた嫌な気持ちを引き出してしまう。 暴力はいけないけれど、殴りたくなるのり君の気持ちもわかります。それでも、読後振り返ってみると、あみ子はあみ子なりに確実に成長しているんだなとわかります。「子どもの本」ではないですね。

アザミ:子どもの本と大人の本の違いを考えてみるには、いい本だと思います。あみ子は、15歳になっても周りの状況がまったく把握できないので、今なら発達障碍とかコミュニケーション障碍などと言われるのだと思います。この本は、そのあみ子からは、周りがどう見えるのかを書いているのがおもしろい。ただ、子どもがもし読んでも、あみ子になかなか共感できないと思います。共感するのは、大人ですよね。継母は、あみ子が「弟の墓」を見せた時点で神経を病んでしまうけど、一緒に住んでいるのだから、あみ子が普通とは違う感覚を持っているとわかっているはずなので、リアルに考えると解せない気がします。それに、父親は仕事で子どもをまったく顧みず、兄は暴走族で、あみ子はドロップアウト。こういう状況が他者の介在もなくずっと続くのは実際にはあまりないと思うので、ある意味寓話的な設定と考えてもいいのかもしれません。

コアラ:大人向けの小説だと思いました。主人公は子どもで、母親が自宅で開いている書道教室をのぞいたり、チョコレートクッキーの表面のチョコだけなめとったりと、子どもがやりそうなことはよくわかっている作者だなと思います。ただ、あみ子がなめとったあとのクッキーをのり君が知らずに食べた場面は、ぞっとしました。全体としてどう読んでいいかよくわからなかったというのが正直なところです。

ルパン:なんか、衝撃的でした。せつなすぎるし……どう表現すればいいのか、読了してしばらく絶句でした。成長があって、救いがあって、希望があって、という児童文学に浸りすぎていたのか?と思ったほどに。ただただ、あみ子の姿が哀れで、読後感は「つらい」という感じでした。最終的にあみ子は家族と離れておばあちゃんのところへ行くことになりますが、おばあちゃんはあみ子の良き理解者なのでしょうか。そうだとしても、あみ子よりずっと先に死ぬだろうし、今の唯一の友だちらしき「さきちゃん」も、いずれ大きくなればあみ子を相手にしなくなるであろうことも想像がつきます。救いといえば、あみ子に親切だった「坊主頭の男の子」の存在があったけれど、あみ子のほうでは彼に興味がなく、もう忘れてしまっているし……。それでもあみ子は傷つかないのに、まわりにいる人々は父も、継母も、兄も、のり君も、みなあみ子のせいで傷ついてしまう……そのことが悲しすぎて、やはり子どもたちに読ませたいとは思わないです。いろいろなハンデを背負った人がいることは、いつかは知ってもらいたいけれど、いきなりこれを渡すことはできない。やはり児童文学とはいえないのでは、と思います。

オオバコ:私は、児童文学とはまったく思わないで読みました。児童文学は最後に希望があったり、もう少し生きていこうと そういうのを伝えたいというのがあるから、これは違いますよね。学習障害のある子どもの物語としても読まなかったな。もっと普遍的な、人と人とのコミュニケーションの物語として、身につまされるような思いで最後まで読みました。善意で、ピュアな気持ちを伝えたつもりが、不幸な結果になる。たいていの人は、少しずつ学んで世俗的な知恵を身につけていくのに、あみ子はまったくそうならない。読んでいくうちに、なにか天晴れというか、聖女のような存在に思われてきました。トランシーバーが、じつに効果的に使われていて切ないですね。暴走族になってしまったお兄ちゃんが、窓の外の鳥の巣をぶんなげるところも目に見えるようだし、あみ子にまともに話をしてくる隣りの席の男の子や坊主頭の子(このふたりは同一人物?)、いい子だなあと胸が熱くなりました。竹馬で近づいてくる子ども、なんの暗喩なんでしょうね? 最後の一節、ぞくっとしました。

アザミ:児童文学は最後に希望があったり、それでも生きていこうと思わせるというのは、ひと昔前の言い方のように思います。YAだと今は希望がない終わり方作品がけっこうあります。私は、大人の文学と子どもの文学の違いは視点だと思っていますが、この作品はあみ子の視点のように思えて、じつはもっと複雑なのだと思います。

エーデルワイス(メール参加):優れた小説だと思いました。文章に魅せられました。書かれていないところに、なんともいえない余韻があります。あみ子が「発達障がい」らしいことがだんだん分かり、あみ子自身の思考が伝ってきます。家族が崩壊してしまうのだけれど、あみ子自身がちっとも失望していないで、前をみている。中学校の同級生の坊主頭が、「おれだけのひみつじゃ」「卒業しても忘れんなよ」と言うのが温かい。きちんとあみ子と向き合ったのは彼だけかもしれない。

しじみ71個分(メール参加):非常に残酷なストーリーで、読んで苦しくなりました。大人を描いた本であれば、大概、どんな残酷なことが書かれていても割と平気で読めるのですが、子どものことになると、誰かに助けてほしい気持ちでいっぱいになってしまい、これも読んでいて非常に辛くなる物語でした。あみ子本人は辛くもなく、不幸でもなく、いつでも純粋な愛情や欲求のままに行動しているだけで、何で周りがうまくいかなくなるのかが分からないけれど、周りはあみ子のために傷つきどんどん壊れていくさまを、ぎりぎりと追い込んで書けるのは大変な作家の力量だと思いました。また、お兄さんと保健の先生、名前すら覚えてもらえない隣の席の男子などの造形は物語の中で救いになって、読んで少し息がつけるところでした。隣の男子があみ子の問いに真摯に向き合う一瞬も非常に深い余韻を残しました。また、ライオンのような金髪のお兄さんが鳥の巣を放り投げ、巣が壊れていく場面は非常に映像的で美しく、見事にそれまでのあみ子と家族の物語が昇華され、クライマックスとなった感があり、読み応えがありました。しかし、他の2篇も読みましたが、やっぱり今村夏子は怖いです…読んでいて苦しくてたまりませんでした…。

 

(2018年3月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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さとうまきこ『魔法学校へようこそ』

魔法学校へようこそ

ネズミ:うーん、子どもたちに読ませたくないことはないけれど、積極的に読ませたいとも思わなかったというのが正直なところです。ため息をついていた3人の子どもが魔法使いのおばあさんに出会って、その後どうなるのかと読み進めました。おばあさんが時を9秒止める、9センチ物を持ちあげる魔法を教えるというのは、少しのことで人生は変わるということの象徴なのでしょうか。おばあさんが最後に3人に言葉ですべて説明してしまうのが残念でした。物語のなかで気づかせてくれるといいのになあと。

西山:ネズミさんはこの言葉を避けておっしゃってた気がしますが、言っちゃいますね。あまりおもしろくなかった。魔法を使って、もっと楽しめばいいのに。にょろにょろした矢印はおもしろいのに、と。いぬいとみこが『子どもと文学』(福音館書店)で、小川未明の幼年童話「なんでもはいります」に対して、「ポケットにはなんでもはいります、という『発見』をしたところから、何か事件がはじまるべきなのです」(p31)と批判していたのを思い出しました。『子どもと文学』の主張を全面的に支持するわけではありませんが、これは中学年向きに作られていると思うので、そのぐらいの子どもにとっては9秒時間を止められる、9センチ物を浮かすことができる魔法で、どきどきわくわくすることこそ大事なのだと思います。作家の主張がストレートに書かれてもいいけれど、それと同じだけ、というか、それ以上に、読者の心を自由に遊ばせることはおざなりになってはいけないと思います。

ハル:書き手の「伝えたい!!」という熱意が前面に出ている感じがしました。物語の始まりはわくわくするし、魔法が妙に限定的なところもおもしろいと思いましたが、メッセージがわかりやすすぎるので、読者も「あ、これはおもしろい本と思わせて、お説教しようとしているな?」と気づくと思うんです。「だまされないぞ!」という気持ちにならないでしょうか。読書感想文は書きやすいかもしれませんけど。

アザミ:私もあまりおもしろく読めませんでした。昔の時代劇みたいに、リアリティから遠い感じがしてしまって。現実には、三人の異質でこれまでほとんど話もしたことのない主人公が、おばあさんにちょっとくらい魔法を習ったからって、すんなり仲良くなったりしないでしょ。作者には、もう少し真剣に子どもと向き合ってほしいと思いました。紅子の口調が「〜だわ」というのも、現代の子どもにしては不自然です。

コアラ:さらっと読んで楽しむ本だと思いました。舞台となっている千歳船橋は、よく行く場所なので、駅前を思い出しながら読んだりして個人的にはおもしろかったです。

アンヌ:主人公にまったく個性がなくて、普通の子という設定なんでしょうが、なんだか人間像が浮かび上がってきません。物語自体はかわいくておもしろいけれど、お説教くさい。魔法も9という数字がおもしろいのに、最後にどうなるかというところで、全然違っていて拍子抜けする感じです。魅力的な要素があるのになぜか退屈な感じにおさまっています。それでも、もし動く矢印がいたらどうするかと問われたら、追いかけますと答えます。嫌いな世界ではないけれど、物足りない感じですね。

ルパン:とりあえず最後までさらっと読みました。いちばん気になったのは、子どもたちを名前でなく特徴で呼ぶことです。「背の高い少年」とか。ほかにもたくさんいるうちのひとりのような、十把ひとからげの呼び方ではなく、ちゃんと名前で呼んでもらいたいです。良かったのは、クラスで相手にされていない紅子と男の子たちがだんだん仲良くなるところ。はじめのうち、「学校では口をききたくない」と言っていた子たちが、堂々と仲良くするようになるまでのプロセスは好感がもてました。ただ、ストーリーがありきたりすぎて、結局あまりおもしろくない。時間が止まる魔法も、ほかの人の動きが止まってその間に何かするとか……発想が古いなあ、と思います。

オオバコ:図書館にある本をかたっぱしから読むような、とにかく読むのが好きな子が、するするっと読むような本だと思いました。作者は、みみっちい魔法を書きたかったのかしら? それだったら、みみっちさに徹すれば良かったのに、終わりのほうでなんだか壮大な話になってしまった。魔法使いのおばあさんの長い演説ですが、こういうのは演説で書かないで物語で書かなきゃね。まあ私も、小さいころは、けっこうこういう演説が好きだったけど……。

アザミ:私は大人が何らかの意図をもって猫なで声で迫って来るような作品は大嫌いでした。

さららん:私もするするっと読みきりました。最後に魔法使いのおばあさんの家が空にむかって発射されるところは、ひと昔前に書かれた児童文学、例えば1953年に書かれた『アーベルチェの冒険』(アニー・M・G・シュミット作 岩波少年文庫)や、1963年の『ガラスのエレベーター 宇宙にとびだす』(ロアルド・ダール 評論社)を思い出しました。おばあさんが3人の子どもたちの名前を覚えないのは、どうしてでしょう。紅子のことを「顔をかくした少女」と呼ぶのには意味がありそうだけれど。ちょっとした悩みのある、どこにでもいる子、ということを強く打ち出し、そんな3人を主人公にすることで、読者に身近な物語にしたかったのかもしれません。

アザミ:どうしてこの子たちは、おばあさんに呼び出されたんでしょうか?

オオバコ:わたしも、この3人がどうして選ばれたのかなと思いました。特に「ぼく」なんて、なんの悩みもないような子なのに。

アザミ:特に問題がない子どもたちを呼んだのだとすると、このおばあさんは問題がある子がたくさんいて忙しいわけだから、物語世界が破綻するのでは?

レジーナ:同じ作者の『9月0日大冒険』(偕成社)はおもしろく読みましたが、この本は、登場人物もステレオタイプですし、絵もクラシカルで、ひと昔前の本を読んでいるような……。

エーデルワイス(メール参加):ユーモラスな絵が、シリアスな内容の物語を助けていると思いました。ちょっとお説教臭いかな?

 

(2018年3月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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リンダ・マラリー・ハント『木の中の魚』

木の中の魚

アンヌ:アリーが自分は字が読めないということを言い出せるまでに、すごく時間がかかっているのが印象的でした。お兄さんも同じ難読症だとすると、2人そろって学校でそのことを指摘されないのは奇妙なので、そのことが不自然ではないように、7回も転校するという設定にしたのだろうと思いました。最初に校長室で読めなかったポスターの内容が「人に助けを求める勇気」で、最後にはアリーが自分でその字を何とか読もうとして、さらに絵が示すようにお兄さんに手を差し伸べるまでになる。1つの物語の中で、問題をすべて回収して見せているのは見事だと思いました。最初のうちジェシカがシェイにあまりに従うので、シェイは男の子なんだと思っていました。翻訳の作品では名前だけでは性別が分かりません。子どもたちの会話が『ちびまる子ちゃん』(さくらももこ作 集英社)風なおばあさんっぽい言い方に聞こえたり、アルバートのけんかの場面のせりふが逐語訳的で、はきはきしていなかったりするのが気になりました。p241の「たより」のしゃれのように、苦労して翻訳したのだろうけれど、通じるかなと疑問に思うところもあります。『レイン〜雨を抱きしめて』(アン・M・マーティン作 小峰書店)や『モッキンバード』(キャスリン・アースキン作 明石書店)を思い浮かべたのですが、あの2冊の本を読んだときには、過酷な状況を描きながらも未来に進む子どもへの信頼が感じられて、海外の作品の構造はすごいなと思ったのですが、ちょっと、この作品には物足りなさがありました。もう少し、どのように難読症を克服していったかの描写がほしかったと思います。難読症へのサポートを知る人は少なく、例えば高校受験の際のiPadの持ち込みは、まだ2県でしか認められていないそうです。難読症が、もっといろいろな人に知られる手掛かりが、註とか「あとがき」にあればいいのにと思いました。

オオバコ:おもしろく読みました。主人公のアリーが、難読症に悩みながらも矜持を保ちつつ生きているところが、とても良いと思いました。でも、アリーのお母さんは、どうして子どもが難読症だって大きくなるまで気づかなかったのかしら? お母さん自身にも、なにか問題があったのかな。7回転校したという話だけど、教師もここに至るまでなんで気づかなかったんでしょうね。内容については以上のほかにはあまりないのですが、本作りに関しては「どうしてだろう?」と思うところが多々ありました。タイトルがおもしろいので原題はなんていうのかと思って調べたんだけれど、クレジットというのかしら、原題、著者名、原出版社などが、どこにも書いてない。また、作者自身が難読症だったのか、あるいはそういう子どもに接した経験があるのか知りたかったけれど、「あとがき」もない。ふつう、こういう本って、専門家に訳文をチェックしてもらったり、難読症がどういうものかという説明があったりするのだけれど、なぜなんでしょう? 日本語の場合と、英語の場合の難読症のあらわれ方の違いなど知りたいと思いました。良いテーマの本なので、特別の事情があって超特急で作ったのなら、もったいない話ですよね。タイトルの『木の中の魚』のもとになった言葉も、アインシュタインが言ったと広く信じられている言葉で(本当はそうではないという話ですが)、アメリカの読者は、タイトルを見たときになんの話かすぐに分かるのかもしれないけれど、日本の読者にはちょっとピンとこないのでは? あと、良い悪いの問題ではなく、単純におもしろいと思ったのは、アリーの父親が軍隊の戦車隊の隊長と知った男の子が「マジ? すごいや!」と言うところ。アメリカの作品だなあ!と、つくづく思いました。日本やイギリスの作家だったら、こんな風にさらっと、呑気な書き方はできないんじゃないかな。

レジーナ:日本語は1文字1音なので、読みの困難があっても、なんとか読めてしまう場合があるのに対し、英語は音韻の変化が複雑です。だから、英語圏ではディスレクシアが表面化しやすく、周囲の大人が気づくという話を聞いたことがあります。アリーは2年生のとき、先生の前で、自分の名前が読めなかったようですが、それでもディスレクシアだと気づかれなかったのでしょうか。今は学校現場でも、理解が進んでいるのではないかと。ディスレクシアだけでなく、多動の傾向の少年など、いろんな子どもが出てくるのは良かったです。でも、p89の「ばっちい」や、p128の「おっかない」など、読んでいてひっかかる箇所がありました。今の子どもは、こういう言い方はしないですよ。全体の文体は今風なのに、そこだけ浮いているような……。すぐに意味がとれない箇所も、ところどころにありました。たとえば、p102の「『バカ』と『赤ちゃん』って言葉なんかを考えて、やっぱりアルバートはまちがってるよ」ですが、これは、字が読めない自分は赤ちゃんかバカみたいなものだと、アリーが思っているということでしょうか? p146の詩は、そんなにいい詩ではないので、それで賞をもらうのには違和感があります。p110の「一週間に一度までしか」は、「一度しか」では?

ネズミ:日本の作品にはあまりない良さだと思ったのは、主人公のディスレクシアの少女だけでなく、クラス内にいろいろな子どもが出てくるところです。アルバートとキーシャのことも含めて、先が知りたくなる展開でした。ただし、「難読症」を扱っているので、テーマ的にとりあげられやすい本だと思いますが、この本の登場人物と年齢が重なる5、6年生が読むのは厳しいのではないかと思いました。会話が多用されていますが、表現の仕方が日本人とかなり違います。違っているからおもしろい部分もあるのですが、もともとの文章の問題か訳文の問題か、どういう意味かすぐにわからず、前後を読み返すことが何度もありました。たとえば、p115の5行目からの「あのね……五年生で」で始まるせりふ。チーズクラッカーをだれが持ってきたのか、なかなかわかりませんでした。描かれている内容からすると、中学生よりも5、6年生に近い感じがしますが。難読症に関しては、本の上にスリット状の補助器具をのせて、1行か2行だけ見えるようにすると読みやすくなるという話を聞いたことがあります。難読症の子どもがそれとなく使えるように、「集中して読みたい人へ」のような表示をして常備している学校図書館もあるそうです。そういった日本の難読症の事情をあとがきなどで説明するとよかったと思います。章ごとの改ページも、目次もあとがきもないというのは、ページ数を抑えようとしたのでしょうか。

西山:たいへんおもしろく、学生と一緒に読んでもいいかなと思っていたんですけど、今のご指摘を聞いていると、ちょっと立ち止まってしまうかなぁ。でも、難読症の人がどんな困難をかかえているかは示してくれる気がして、そこは意味があるかなと思います。それと、アリーが浮いてないでみんなと一緒のようにしたいと思うのは、若い人には近しい感覚で、共感できるところが結構ある気がします。『ツー・ステップス!』(梨屋アリエ作 岩崎書店)のサヨちゃんを思い出しました。空気が読めないと疎まれる子が、何も感じていないのではなくて、本人も苦しんでるんだということ。それを、この作品も伝えてくれるかな。箱の中のものをあててごらんとか、ちょっとワークショップでやってみたくなるような材料もたくさんありますし。難もあるけど、やっぱり捨てがたいかなぁ……。学生に勧める場合は、最初は、次々人名が出てきて、しかもそれぞれに病名がつきそうな子どもたちでわかりにくいけれど、とりあえず、何ページかがまんして読みすすめるよう声かけしたいなと思います。解説がほしかったというのは、確かにそう思います。詩のところはやっぱりまずいかな。すばらしい詩だとはまったく思えなかったので、同情で賞をあげたのかと読む子ども読者も出てくると思います。個性的でいい詩じゃないと成立しませんよね。学生も、とまどうかなぁ……。難しいですね。

ハル:難読症という、特に日本ではあまり知られないハンディについての理解を深めるだけでなく、他人は自分のものさしでははかれない、さまざまな困難や大事なものを抱えているものだ、という発見を読者に与える、そして助けを求める勇気についても気づかせてくれる、良いお話だと思います。ただ、難読症だから天才で才能豊か、ということではないですよね。そこを誤解してしまうと、難読症でなくても勉強が苦手だったり、ほかの不得手なものを抱えている読者からしたら、救いが半減してしまうのではないかと気になりました。あんまり先生が「アリーはすごい、アリーはすごい」と言いすぎるのもちょっと心配。天才じゃなくてもいいじゃないですか。みんながみんなと同じように可能性をもっているということだと思うんです。アリーが、自分だけじゃなくてみんなも何かしら重石を抱えていることに気づく場面がありましたが、そこが大事だと思います。シェイの今後も心配です。そして、全体的になんだか読みにくいのは、子供たちの独特な言い回しやユーモアを含んだ会話が続くからかなと思っていましたが、皆さんの意見を聞いていると、もう少し、翻訳で努力できるところもあったのかなと思えてきました。

アザミ:なんだか余裕のない本づくりだな、と私も思いました。この訳者は、「グレッグのダメ日記」シリーズも訳している方ですよね。口調が同じようなので、作家は違うのにイメージがダブってしまいました。難読症を主人公にした本は、アメリカやイギリスではたくさん出ていますね。しかも、難読症の子どもも読めるように書体や配列が工夫してあります。私は、障碍を持った子どもや特別な状況におかれた子どもの本に「かわいそう」という言葉が出て来るのは好きじゃないのですが、この本にはいっぱい出てきますね。アルバートが不良をやっつける場面は、ご都合主義的な感じがしましたし、女性を守らなきゃという発想に、マッチョ的な思想がにじみ出ているようにも思いました。詩で賞をもらう場面は、意外な展開になるのでおもしろいところですが、肝心の詩をもっと日本の子どもでもなるほどと思うように訳してほしかったです。翻訳については、p48の「水だって? マジ? それだけ?」というシェイのセリフは、意地悪というより驚いているようにしか感じられないし、p79の「靴の上をはじいた」は?でしたし、p194でアリーがアルバートの面前でアルバートについて「食べ物がないんでしょ。冷蔵庫にも。おなかがすいても食べられないなんて、かわいそうだよ。それに、アルバートは恥ずかしいでしょ。たぶん。きっとそうだと思うんだ。でしょ」と言っているのは、自分も差別されてつらい思いをしているアリーのセリフにしてはあまりにも無神経で、ひっかかりました。作り方、訳し方しだいでは、もっとみんなに読まれる本になったのではないかと、ちょっと残念です。

コアラ:最後の方は感動的でした。ダニエルズ先生は理解のあるいい先生だし、キーシャもアルバートもいい友達として描かれています。ただ、この本のあちこちにちりばめられているたとえや表現が、ユーモラスにも思えますが、私にはあまりピンとこないというか、おもしろく感じられなくて、読み始めてしばらく慣れるまでに時間がかかりました。あとは、タイトルが少し地味かな、と思いました。

さららん:アルバートにもキーシャにも主人公のアリーにも、いいところはいっぱいある。テーマや展開も悪くない。ただ表現面で少しひっかかりを覚えました。まずは献辞。「ヒーロー」という表現は確かに海外の本でよく使われますが、「あなた方はヒーローです」で日本の読者に受けいれられるのか? またトラヴィス兄ちゃんの「おれのお気に入りの妹は元気か?」という言葉も、日本語として固い。翻訳のとき、どうしても日本語にならない言葉は、「トゲ」として固い表現のまま残すこともあると聞いていますが、「お気に入り」を生かす意味があるのかどうか、わかりませんでした。

オオバコ:「ヒーロー」は単に「中心人物」っていう意味でも使いますよね。

さららん:例えば「ヒーロー」を使わず、「あなたがたの勇気をたたえます」など別の表現があったかも。全体にバタ臭さの残る本だと思いました。

ルパン:ディスレクシアの友人がいるので、だいたいどういうものか知っているつもりでいましたが、これを読んで、「ああ、本人はそういうふうに見えているのか」と認識を新たにしました。この本にあるアリーの描写が医学的にも正しいのであれば、多くの子どもたちや学校の先生に読んでもらいたいと思います。実際、この作者かあるいは家族がディスレクシアなのか、それとも調べて書いたのか、知りたい気がします。先生が理想的すぎる気がしましたが、逆にひとつの理想像というものがあって、これを読んだ教師がそれをめざす、というのであれば良いと思います。

エーデルワイス(メール参加):ダニエル先生の授業が魅力的です。「ひとり」と「ひとりぼっち」の違いについて質問したり。「難読症(ディスレクシア)」の文字の学び方が視覚的に進むところも興味深いですね。「IM  POSSIBLE」 不と可能も、何度も発音してしてみました。スペルは同じですが、Ally=アリー Ally=仲間も素敵です。いじめは世界中にあるのだと思うと乗り越えるのは並大抵ではないですが、アリーはきっと素晴らしい芸術家になるだろうし、アルバートは科学者に、キーシャは料理家になるだろうし、アリーのお兄ちゃんもディスレクシアを克服するだろうと思わせて、読後感がよかったです。余談ですが、友人の息子さん(27歳)がADHD(注意欠陥、多動性障がい)で、最近2回にわたって、自分のことをみんなの前で話されました。同じ症状をもつ小学生や中学生もきて熱心に話を聴いていました。一人の勇気がみんなに伝わった瞬間を目の当たりにしました。

(2018年3月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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