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自分らしく、あなたらしく〜きょうだい児からのメッセージ

障碍のある妹と、姉が抱き合っている写真
『自分らしく、あなたらしく〜きょうだい児からのメッセージ』
高橋うらら/作
さ・え・ら書房
2024.09

フキダマリ: よかったです。自分の状況や境遇を分かり合える人がきっといるから、探して出会おう、という主張がとても伝わってきました。すごくミラクルな事例ではなくて、現実的な事例であることもよかったです。いい言葉だなぁ、と思うところもありました。たとえばp52「待っているのではなく、自らおもむくことが大事なんだよ」というところ。ただやっぱり、きょうだい児は大変で、その重苦しさも伝わってきました。

西山:親が、もちろん悪意もなくさらっと放った言葉が、言われた「きょうだい児」にはそういうふうに刻まれていたかというのは、これは、親の立場で読むとかなりきついだろうなと思いました。このノンフィクションは、ヤングケアラーにも光を当てるようになってきているフィクション作品に対する刺激にもなると思うので、児童文学作家も読んだ方がいいと思いました。

エーデルワイス:本を買うときは(注文も)なるべく地元の書店へ行きます。注文してもネット注文と変わらず1日で届くのですが、この本は出版の関係か2週間くらいかかりました。読書会に間に合ってよかったと思いました。「きょうだい児」という呼び方を初めてこの本で知りました。「ヤングケアラー」という言葉が定着したように、少しずつ生きやすい世の中になっているのだと思いました。ミュージカルの力、参加して生き生きしている姿は素敵です。作者も体験者で3例が具体的にあり共感できました。「二度とがまんしない!二度とあきらめない!」はいいですね。恋愛、結婚のことも書かれていますが、わかりやすく安心感を持ちました。

ハリネズミ:今回この本が読めてよかったとは思いました。特にp75にまとめてあるきょうだい児の抱える悩みなどは、なるほどそういうこともあるのか、と。ただあえて言えば、実名や写真を出してのノンフィクションだと、ここまでしか書けないんだろうな、とも思いました。たとえばフィクションだと、ずいぶん前に出た丘修三さんの『ぼくのお姉さん』を読んだとき、こんなふうに書ける作家がいるのだということに、私は衝撃を受けました。それに比べ、こういうノンフィクションだと、どうしても光の部分を描いていくことになるので、陰の部分、闇の部分には筆が及ばない。タイプが違う本なので、それでもいいのですが。ただ、人間を立体的に描くのが文学だとすると、やっぱりこういう本は、「こんなふうにがんばっている子どもがいるよ」「そういう子どもたちをこんなふうに支えている人たちがいるよ」「きょうだい児でも、こんなに活躍している人がいる。だからみんなも応援しよう」というメッセージを届けるだけになってしまうのでは? と思いました。

きなこみみ:障碍を持つきょうだいに、親の視線が偏ってしまったり、きょうだいに我慢や支援を求めてしまいがちだったり、親の大変さを理解するがゆえに、複雑な事情を抱えてしまったりすることを、穂乃果さんと結衣花さんという兄弟に取材しながらていねいに描いてあると思います。とくにp75 からの、きょうだい児の子どもたちがどんな悩みを抱えているのか、という一覧は、ああ、こんなにたくさんあるんだ、結婚や老後のことまで考えて、自分を縛ってしまうことがあるんだと改めて感じることでした。障碍者への社会的な援助は、まだまだ足りないのだと実感します。そのなかで、弁護士の藤木さんも、穂乃果さんも、同じ境遇の人たちと話し合ったり活動したりすることで、精神の安定や居場所を得ているんだなあと。誰かが犠牲になるのではなく、支援も含めたネットワークの広がり、安心して自分の人生を生きることを実現する社会を作ることを考えさせられます。そういう、社会のほうから、障碍を持つ子どものいる家庭をどう支援するか、という視点も、もう少しあるといいなと思いました。また、穂乃果さんが、歌と踊りにのせて自分の思いを伝えて心を解放していくのは、芸術活動が人間にとってどんなに大事なのかという証左だなと思います。

ツミ:きょうだい児にとっても、そうでない子どもにとっても、大切な本だと思いました。p121の、障碍者福祉を仕事としている方たちの国家資格が無いという事実は知らなかったので、ショックを受けました。後半に、おとなになったきょうだい児、藤木さん、志村さんの話があるのは、きょうだい児の子どもたちにとって、とても励みになると思います。ただ、ノンフィクションの文体について、ちょっと考えさせられました。主人公である穂乃果さんの話は事実として感動したけれど、「  」のなかの穂乃果さんの言葉がお利口さんすぎるというか⋯⋯。作者の言葉ではなく、実際に穂乃果さんから聞いた言葉で<穂乃果さんは「⋯⋯」と思ったといっています>というように、客観的に書くべきじゃないかな。そのほうが、取材の対象としたひとに対するリスペクトになるのでは?

雪割草:きょうだい児がどんな思いを抱えているのか知らなかったので、この作品を読むことができてよかったです。特に、演劇など芸術活動を通じて自分を表現できるようになっていくところがいいなと思いました。それから、藤木さんの話もおもしろく読みました。アメリカに研修に行った際に、ジムで障碍のある人が暗証番号を忘れてしまったとき、正しい番号をすぐに教えるのではなく、ヒントを出して自分で試すことができるようにするという「失敗する権利」の話は、ローズマリー・サトクリフの「傷つく権利」の話を思い出しました。確かにノンフィクションで描けることの限界はあるのだと思いますが、きょうだい児として穂乃果さんや作者がどんなに大変な思いしてきたのか、特に我慢してきたことなどはリアルに感じることができました。

しじみ71個分:大変、意義深い作品だと思って読みました。きょうだい児については、物語でしか触れてこなかったのですが、今回、ノンフィクションで読んでみて、いろいろ考えることがありました。高橋うららさんは視点の温かさを感じる作家さんで、ほかのノンフィクション作品でも良い印象を持っています。職場の選書でさまざまなノンフィクション作品を読みましたが、書き手の想いがないと、通り一遍の事実の羅列になったりして、のっぺらぼうな印象のままで終わってしまうこともありますが、この本は、きょうだい児の当事者に寄り添った温かな視点が感じられたので、読んでよかったと思います。p75の悩みのリストは、きょうだい児がこんなに心のうちで悩んでいるのかと思って、衝撃を受けました。リストなので、簡潔にまとめてあるけれど、その裏にはとても重い実体験があるのではないかと思わされました。そこにたくさんの事例が隠れているのでしょうけれど、個人情報の観点などから難しいのかもしれないですね。穂乃果さんの物語でも、自己犠牲を自分に強いるのではなく、自分の生きたいように生きていいんだよ、という応援メッセージに集約されているように思いました。なので、ほかのポイントについて、書き込みが薄くなってしまったのかなとも思いました。おとなになったきょうだい児の方々の紹介もあり、希望を与えるメッセージになっているように思います。また、高橋さん自身がきょうだい児ということで、学校費用の支払いが未了だった事実を伝えただけなのに、お父さんに叱られたというくだりは、胸が痛みました。これは1つの具体例ですが、この作品の後ろにはどれほどのつらいことや苦しいことがあったのかなと想像すると、ノンフィクションだとどうしても個人の生活に踏み込まないといけないと思いますし、それによって傷つく人もいるかもしれないので、もしかしたら、フィクションで描く方がやりやすいのかもしれないなと感じました。

さららん:「多様性を認めあう社会」の章のp123で、すでに出たように、アメリカでは障碍のある人が暗証番号を忘れてしまっても、周囲の人が手出しをしすぎず、「失敗する権利を、奪わなかった」という一節があります。、雪割草さん同様、私もそこで立ち止まり、障碍のある人を一人の人格として見る視点が自分にも欠けていたのではと、ハッとさせられました。きょうだい児として育った人が、作者も含めて何人か登場しますが、私は弁護士になった藤木さんの話が興味深く感じられました。「いいところは、ぜんぶお姉ちゃんがとっちゃったのね」という何気ない母親の言葉が、ナイフのように胸に突き刺さったのがよくわかり、その言葉で母親は藤木さんと弟の両方を傷つけたことに気が付いてほしいと思いました。この本の中で、「心魂プロジェクト」と出会って、舞台に立ち、自分を解放できるようになった穂乃果さんのエピソードが出てきます。個人的な話になりますが、私も舞台の立ち上げに協力したことがあり、おとなも子どもも障碍のある子もみんな参加できる舞台にしたくて募集をかけたところ、障碍のあるお姉さんが妹と一緒に参加してくれました。主催側の私たちは、ふたりなら安心、と単純に思っていたのですが、この本を読んで初めて、きょうだい児の苦労を知り、自分は何もわかっていなかったことが、今さらながら恥ずかしくなりました。

ニャニャンガ:高橋うららさんの作品は『風を切って走りたい! 夢をかなえるバリアフリー自転車』(金の星社)を読んだことがあります。本書はナイーブなテーマだと思いますが、作者自身が高度難聴のある妹さんがいる「元きょうだい児」であるから書けたのだろうと想像しました。我慢することも多かった方たちが前向きにとらえて昇華させるようすが描かれているので、きょうだい児として悩んでいる子どもたちの一助になればよいなと思いました。とくにp75にある事例に心当たりがある人が、必要なところにアクセスできればと思いました。

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ハル(メール参加):なんというか、ちょっと語弊があるかもしれませんが、ああ、そうだったんだろうなという感じがあると言いますか、新たな発見はなかったのですけれど、共感できました。どんなときも「わかりあえるひとがいる」「ひとりじゃない」ことを知ることは、やっぱり大きな安心につながるんですね。そう考えると、このことに限らず、日本ももっと気軽にカウンセリングを受けられるように、カウンセリングの文化が根付くといいなと改めて思いました。問題が体や行動に発露する前から、誰かと話せるといいですよね。この本には登場しませんでしたが、反対に「きょうだい児」と呼ばれることに違和感を覚える人もいると思うんです。その人たちの気持ちも聞いてみたいなと思いました。

(2024年12月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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シンプルとウサギのパンパン

ぬいぐるみのウサギ
『シンプルとウサギのパンパン』
マリー=オード・ミュライユ/作  河野万里子/訳
小学館
2024.07

ハル:おもしろかったんですけど⋯⋯物語に出てくる施設って、どうしてこう、悪い場所になっちゃうんだろ、というのがひっかかりました。入所させること自体が「悪」だというような。周囲の人、近所、社会でつながりながらお互いに支えあっていく輪のひとつに、仕事として介入してくれる相談員や社会福祉士や、施設があればいいのにと思うんです。施設に入れることは悪であり、愛がないという思い込みは危険をはらむのではないかと思います。

雪割草:少し長いと感じましたが、会話中心にも関わらず、読者を引き込んでいく力があって巧みだなと思いました。原書のタイトルはSimpleですが、日本語版のタイトルも同じように主人公シンプルが前に出てくるかたちでもよかったのではと思いました。中身がYAなのに、表紙がウサギの絵でかわいすぎるように感じました。シンプルとまわりの人たちが心を通わせ、シンプルを好きになっていくところはいいなと思いました。一方で、クレベールが何かあるとすぐ「兄には障碍があるんです!」と叫ぶところは個人的に少し嫌で、自分も含めてですが社会の方の理解が足りないことを痛感させられました。

ツミ:私もハルさんと同じように、施設の描写は古いなと思ったのですが、出版年が古いので仕方がないのかもしれませんね。いちばんいいと思ったのは、「シンプル」という原書のタイトルです。シンプルって、もちろんシンプルという意味のほかに知恵が足りないという意味もありますよね。物語のあとのほうでは「シンプルでいくのがいい」という文章もあり、大切なのはひとりの人間の生き方を周りの状況で縛ってはいけないというシンプルなこと、という主張をタイトルが示していると思いました。河野さんの翻訳もうまいですね。工夫されていて、登場人物がとても生き生きとしていると思いました。私は、人間がしっかり描けていれば作者の主義主張などなくてもいいと思うほうですが、この本も一人一人の人物像が見事に描けていますね。特に頑固爺のヴィルドゥデューさんがはりきって恋の指南をするところなどおもしろくて、やっぱりフランスの本だなあという感じ。アンデルセン賞を受賞した作家だけあって、物語の作り方はさすがだと思いました。最後にシンプルを助けたのが娼婦であったというところなど、じーんと胸に沁みました。ザハの耳の聞こえない妹とシンプルの友情もいいですね。ただ、これだけ厚いと、YAの読者が手にとってくれるかな。一般書として出版したほうが、読者が増えたかも。

きなこみみ:YAというよりも、おとなの本に近い印象でした。ルームシェアする同居人たちが皆おとなで、彼らの恋愛模様も描かれているせいかもしれません。障碍のある子どもが生まれると、夫が逃げて母親と子どもが残されることが多い、というのは日本だけではなくフランスでも同じなのだなと思います。そのママが死んでしまったあと、弟であるクレベールがシンプルの面倒を見ることになって、フランスの福祉制度のことがよくわからないんですが、この物語の中では、施設に入るか否かの2択で、在宅のまま活用できる福祉制度、たとえばヘルパーさんに来てもらったり、デイケアや福祉作業所のような所に行くとか、そういう選択肢はどうなっているのかなと思ったりしました。また、p190で、ソーシャル・サービスのバルドゥーさんがクレベールを訪ねてくるんですが、シンプルと直接会っているのに、彼に知的障碍があると気づかないのは不思議だなと思ったり。薬などで入居者を管理しようとするマリクロワという施設から、シンプルが簡単に抜け出だしてしまうのも、設定がちぐはぐで、作品中に携帯電話は出てくるんですが、設定や障碍の捉え方や社会的な支援のあり方としては少し前の時代なのかもしれないと思いました。実際にフランスでは20年ほど前に出版された本で、今の時代とのズレはあるのかもしれません。
とにかく弟のクレベールの負担が大きすぎて、そこが読んでいてつらいところです。彼の責任感が、p296にあるように、母の遺言から生まれている部分もある、というところが「きょうだい児」としてのつらさ、責任を無意識に兄弟に背負わせてしまう親の責任についても考えざるをえませんでした。自分もつらいのに、どうしてもシンプルを施設に入れたままにしていけない気持ちが、認知症の母の介護を抱える自分と重なって、理屈では割り切れない彼の思いに共感したり、複雑な気持ちになったりしながら読みました。
その彼に、たまたまルームシェアしただけのエンゾやアリアが手を差しのべていくところ、またガールフレンドのザハの一家の温かさ、ザハの妹であるアミラと友だちになるところも素敵でした。クレベールがそのザハの家族にシンプルを預けてデートにいくのはどうかと思ったんですが、この物語の登場人物たちは皆それぞれにエゴイストで、自分勝手で、好き勝手に行動するのが魅力的だし、人間ってこんな風に生きてるんだよ、というありのままのところ、障碍を持っていたり、障碍のある兄弟がいたりすることと、個人が自由にふるまって生きることを、等価に描いてあるのが、この本の魅力だと思います。なかでも恋愛に非常に重きを置く、というか、男女の恋愛、アムールを大切にするのが、フランスっぽいんですが、エンゾのアリアに対するアプローチの仕方や、どんどん行けとけしかける管理人のおじいさんのアドバイスは、どうなんだろうと思っていたら、いきなりアリアがエンゾに首ったけになる展開にびっくりして。ただ、シンプルをうざがって、シェアハウスから出ようとする、医学生で男性という、社会的強者としてのエマニュエルではなくて、エンゾが愛の勝者になるのは、好ましかったと思います。訳者の河野さんも後書きで書いておられますが、シンプルの父親やエマニュエルと違って、シンプルに手を差しのべるのが、社会の周縁にいる人々だというのが、いいなと思います。「チョコレートドーナツ」(トラビス・ファイン監督、2012年)という、ドラアグクイーンが、ダウン症の子どもを愛する悲しい映画を思い出したりしました。

ルパン:こういう状況はリアルに考えたら、こんなにうまくいかないだろうなあと思うだけに、お話っていいなと思いました。お話だからこそ、こんなことがうまくいく。こういう世界を作れるお話の力ってすごいと思います。ただ現実をなぞるだけじゃなくて、すてきな世界を創ることで、読者に希望とか、幸福感を持たせられるのがお話の魅力だと改めて思いました。私もみなさんと同じで、ヴィルドゥデューさんがエンゾの恋愛相談にのって、楽しく生き生きしちゃうところが好きで、p206のあたり、人の恋愛に首をつっこんで生き生きしてきたのがおもしろかったです。
施設のマリクロワはシンプルにとって良くない場所、行かせるべきではないところ、という設定でしたが、p290-291で、マダム・バルドゥーがクレベールに語りかけるところでじんとしてきました。「あたくしたちはみんな、シンプルにいいことをしてやりたいんです。でもそれがあなたの犠牲のうえにしか成り立たないようでは、いけませんね」「あなたのは、若さゆえの理想主義です。…(中略)…あなたが考えるような向きあいかたが、非常に高い代償をともなうものであるのも知っています。いつかあなたも、結婚したい、子どもがほしいと思うようになるでしょう。そのときのことを考えてみて⋯⋯」「あたくしはあなたの力になれるよう、できるだけのことをしてきましたよ、クレベール。正しいことをしたつもりだったのだけど⋯⋯」これらのマダム・バルドゥーの言葉を読むと、この本には悪役はひとりもいない、と思えて読後感がよかったです。

ハリネズミ:私は「いい話」には疑いをもつタイプなので、この物語についても、ヤングケアラーであるクレベールから見たらどうなのだろうと、思ってしまいました。今はアパートをシェアしている人たちも好意的でうまくいっているとしても、クレベールはこの年代だとこれからいろいろな問題や悩みに遭遇し、大学に行ってそのうち結婚するということにもなるかもしれません。環境が変わっても、シンプルの責任をひとりで負っていくことができるのでしょうか。他の国のきょうだい児の物語だとイギリスのジル・ルイスが書いた『紅のトキの空』(さくまゆみこ訳 評論社)みたいに、手を差し伸べるちゃんとしたおとなが出てきたり、オランダのシェフ・アールツが書いた『青いつばさ』(長山さき訳 徳間書店)みたいに、家族の体制が整うまでとりあえず施設の力を頼ろうとしたりしています。施設を悪いものとして書いているのは、ほかの方たちもおっしゃるように20年前に書かれたせいでしょうか? でも当時だって、マリクロワ以外の場所もあったのではないかとか、施設以外になにかセイフティネットはないのかと、疑問に思いました。作家としても、ヤングケアラーにすべての責任を負わせる書き方でいいのでしょうか? といっても、作家の視点としては、若者の恋愛模様を描こうというほうが主なのかもしれません。アリアとエンゾとエマニュエルの三角関係、クレベールとベアトリスとザハの三角関係の間にシンプルのエピソードがはさまっている感じです。
この作家は、「知的障碍のある子どものお母さんにていねいな取材をおこなった」と訳者あとがきにありますが、それだけで書いたのだとしたら、高校生がおとなのシンプルの保護者になるとか、シェアアパートの人たちのシンプルに対する態度などを含め、リアリティがちょっと甘くなるのも仕方がないのかもしれません。

エーデルワイス:原作の発表が20年前の作品ですので、福祉もずいぶん変わっているように思いました。とにかくパリ! パリの香りがすると思いながら読みました。クレベールの高校生活も日本とは違います。発達障碍者が自宅か施設入居かというような二者選択は違うと思いました。例えば日本では、今はデイサービスも就労福祉施設などいろいろの選択があります。「しょうがい」の漢字を「障がい」と使うことは見ていましたが、作品の中では「障碍」と漢字を使っています。私は初めて目にしましたが、語源は仏教用語だそうです。物語は映画のシナリオを読んでいるようなテンポで、映像化されたらいっそうおもしろくなると思いました。「アホ」とか「あーらら、いけない言葉」がよくでてきますがフランス語だと、どんな感じかしら?と思ったりしました。

ニャニャンガ:フランスらしいエスプリと性に対してのオープンな描写にとまどいつつも、兄のシンプルといっしょに住みたいクレベールの複雑な気持ちが痛いほど伝わってきて、はじめのうちは読むのが苦しかったです(じつは2回、途中でやめていました)。その理由は文字の色だったかもしれません。くらはしれいさんの絵は物語にぴったりですし、ウサギのパンパンが悪さをしても憎めないのはこの絵のおかげかもしれません。
同居人たちとの生活が始まり、いろいろトラブルがありながらもシンプルやクレベールと家族のように接する様子がとてもよかったです。それに引き換え、父親の無責任なこと!に腹が立ちました。そして頑固なおじいさんヴィルデュドゥーさんとのかかわりはとてもよかったですし、クレベールがベアトリスに惹かれつつ、ザハ家族と親しくなりシンプルとザハの妹のアミラと仲良くなり、居場所ができたのも好ましく読みました。

さららん:ミュライユさんが国際アンデルセン賞作家賞を受賞したときの講演を覚えています。その中で「私は常識やタブーを打ち破る作品を書き続けてきた」と力強く語っていたのが印象的でした。この作品も、一見シンプルとクレベールをめぐるドタバタ喜劇に見えますが、障碍のある人=厄介者、という世間の偏見をくつがえし、トラブルメーカーのシンプルを、人間として実にチャーミングに、周囲に愛される存在として描いているところに好感が持てました。確かにマリクロワという施設は古めかしい感じがしますし、シンプルを拒絶する父親はサイテーの人物ですが、全体としては常識をひっくり返そうという作家の気概を感じます。エンタテイメントとして完成度が高く、恋愛が物語の要になっているところは皆さんがおっしゃる通り、いかにもフランス的ですね。「愛がすべて」というお国柄ですから恋愛は不可欠な要素、高校生のクレベールのトライアンドエラーの道筋としても読め、そう思うと、これはやはりYAらしい作品ではないかと私は思います。また以前、きょうだい児の弟を主人公にしたオランダの児童文学『青いつばさ』を読んだことを私も思い出し、この本との違いと共通点を比べてみたくなりました。物語には、セクシャルな表現やののしり言葉も散見されますが、おそらく原文のフランス語では、もっとどっさり入っていたのでは? 差別的にならないよう、そして読者がギョッとしないように、翻訳で巧みに料理してあって、読んで楽しい作品になっていました。

西山:今回のテーマから、「きょうだい児」の話なんだろうと思って読み始めたのだけれど、結局フランスのティーンエージャーの恋愛話でしたね。シンプルの性の話になるのかな、と思っていたら、これは弟くんの恋愛の話で、シンプルは狂言回し的にドタバタシーンの演出に使われてしまっているように感じるところもあり、ちょっと抵抗を感じました。障碍がテーマと思わなければ、そうでもなかったのかもしれないけれど⋯⋯。
p150に「男子の好きじゃないとこは、あたしたちをそういうふうにしか見てないってとこ。おしりとか、胸とか、自分がバラバラのパーツとしてしか存在してないみたいで。言いたいこと、わかる?」というベアトリスの言葉があって、よくぞ言ってくれた!と思いました。これまでたびたび、日本の児童文学に同様の視線が気になっていたところなんです。でもこの作品ではそれは大きな関心事ではなかったですね。ヴィルドゥデューさんの、古臭い恋愛指南と、今の感覚の違いがおもしろかったです。あと、ザハの家族のやりとりや,妹たちの様子に見られるムスリム像が新鮮でした。ただ、全体としては、福祉施設や関係者がこんなふうに作品に書かれてしまうと、しんどいなあという印象が強いです。

フキダマリ: おもしろかったです。シンプルの考え方とか、クレベールの苦労や思いとか、多角的に立ち上がってきて、読み応えありました。パンパンくんが要所要所でしゃべる構成がとてもユニークでしたし、シェアハウスに入ってから、さまざまな人間模様があっておもしろさが加速しました。伏線を緻密に張るタイプの小説ではないと油断していたので、ダストシュートが伏線だとわかったときは、びっくりしました。もっとも、日本とフランスの文化が違い過ぎて、おとなっぽい要素が多いですよね。2人の女子の間で迷うところは、日本だと完全に二股だけれど、パリが舞台だと許されてしまうというか(笑)。あと、おとながシンプルみたいな子とどう関わるかを描く場面が多いので、日本だと一般書で出した方がたくさんの人に届いたんじゃないか、とも思ったりしました。街の人々のシンプルへの態度がそれなりに辛辣で露骨ですが、20年前に刊行された本なので、今のフランスとはだいぶ違うんでしょうか。そのあたりも気になりました。

ツミ:西山さんがいうように、知的障碍のあるティーンエージャーの性の問題って、とっても難しいと思う。実際に、そういう悩みをお母さんから聞いたことがあります。だから、この物語はリアルな話ではなく、私は半ばファンタジーとして読みました。

サークルK: パンパンくんが生きているように、人間たちとの会話に入り込んでくる時、慣れないうちはスムーズに切り替えができずにいました。きょうだい児と呼ばれる関係には昨今理解が進められていますが、実際に児童文学に昇華された作品を読むのは初めてです。スヌーピーに出てくるライナスのあんしん毛布の様に、パンパンくんが主人公の力になってくれていることで、弟が1人で抱え込まなくても良いのは救いと希望があるのだなと思いました。

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しじみ71個分(メール参加): この本はとてもフランス的だと思って、興味深く読みました。まず、本当に個人主義が徹底しているんだなと思いました。お父さんが再婚して、兄弟の世話を放棄して悪びれないというのは、自分には自分の人生があると思えばこそできることなのかもと思いました。
それから、この物語がおもしろいなと思ったのは、シンプルと共に生きていくことで、みんなが幸せになっていく点です。エンゾとアリアの恋の仲介者もシンプルだし、クレベールがザハに対する自分の真摯な思いに気づくのもシンプルのおかげだし、シンプルは幸せを運んでくる使者のような位置づけになっています。
障碍者施設で虐待があることがほのめかされていることについては、私はあることなのではないかと考えました。障碍者施設が悪いという印象を与えかねないのは確かに心配ですが、日本でも障碍者施設での虐待の報告件数はたくさんあるので、フランスもゼロではないんじゃないでしょうか。
それと、クレベールがヤングケアラーとして兄の世話をひとりで抱え込んでしまうようにも見えますが、私は、共に暮らして、みんながシンプルを好きになり、シンプルに居場所ができたように読めました。公助でもなく、1人で抱え込む自助でもなく、コミュニティで支え合う共助の場ができたことに作者は力点を置きたかったんじゃないかと思いました。シンプルが幸せそうな姿を見て、クレベールが心から愛を感じる場面の描写が本当に美しいですし、シェアハウスのみんながだんだんシンプルを理解して、好きになっていく過程もとてもいいと思います。あと、とても面白いのがパンパンくんで、パンパンくんはシンプルのイマジナリー・フレンドのようにも見えますが、良くないことをしたいときは、パンパンくんにやらせるので、シンプルの正直な気持ちを代わりに発散する自分の片割れなのかもしれないなと思いました。
この作品は、悪くすると、知的障碍のある人を天使的な、無垢な存在として扱ってしまう危険性もはらんでいるような気がするのですが、パンパンくんがやりたい放題やってみんなに迷惑をかけることで、バランスが取れているように思えました。恋愛や性が若者の重要なテーマになっているというのも、フランス的なのかなとも思いましたが、日本でも同じかもしれないですね。長めの物語でしたが、いろいろなポイントでとてもおもしろかったので、割とすぐ読み終わりました!また、同じ作者の違う本も読んでみたいです。

(2024年12月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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図書館がくれた宝物

『図書館がくれた宝物』表紙
『図書館がくれた宝物』
ケイト・アルバス/作 櫛田理絵/訳
徳間書店
2023.07

西山:すごくおもしろく一気に読んでしまいました。余談ですが、親戚の葬儀の行き帰りで読もうと持参していて、そこで初めて本を開いてびっくりしました。1行目が「お葬式の日なんてそもそも、楽しいものではない」って……。ちょうど「児童文学と子どもの権利」というテーマの研究会を控えているときだったので、戦争はなんと子どもの権利を侵害するものかとつくづく思いました。ただ、この作品は大前提として主人公兄弟にお金の心配がないので、そこの安定感がエンタメとして読んでしまっていい背景を保証しているように感じました。『小公女』もしっかり登場していましたが、それと重なる古典作品のようなテイストを感じながらの読書でした。イギリスの疎開というのも、リアルでシビアな現実だったと思うのですが、こういう風に伝えるのもありかなと思っています。

雪割草:私もおもしろく読みました。作者が本のもつ力を信じているのが伝わってきました。本がいくつも紹介されるので、読者が興味をもつきっかけになるかもしれないと思いました。ミュラーさんが差別を受けていたり、主人公らが疎開児童としていじめられたり、読者に考えさせるところは含みつつも、兄弟3人が仲が良いせいか、「戦争」という現実の厳しさはあまり感じられませんでした。途中から、これはきっとミュラーさんのところに落ち着くのだろうと予想できて、安心して読めました。月のたとえで、アンナとミュラーさんの発言が一致するのはやりすぎかな。『わたしがいどんだ戦い1939』や『わたしがいどんだ戦い1940』(どちらもキンバリー・ブルベイカー・ブラッドリー著 大作道子訳 評論社)2019)のように、主人公が厳しい現実と向き合い、人に助けられながらそれを乗り越えていくといったことは描かれていないのは残念に思いました。

ニャニャンガ:ちょうど今読んでいる『アンナの戦争』(ヘレン・ピーターズ著 尾﨑愛子訳 偕成社)にもロンドンから疎開した子どもが登場するのですが、里親たちが預かる子どもを選んでいく様子はとてもシビアだと思いました。ただ、この子たちには資産があり、自分たちが信用できる保護者が見つかりさえすれば……という背景があるので、いわゆる疎開児童とは背景が少しちがいますね。作品全体としては、図書館のありがたみというかミュラーさんのありがたみをしみじみ感じました。そのミュラーさんは、夫がドイツ人であるために周囲から孤立している状況が『アンナの戦争』とも重なりよく伝わってきました。
ウィリアム、エドマンド、アンナの3兄弟がバランスよく、児童書の王道といった印象を受けました。本文とは関係ないのですが、作者のケイト・アルバスは謝辞を読むのが好きだとあとがきにあります。翻訳する側にとっては名前の読みを調べるのはたいへんなので、日本の読者も謝辞を読むのが好きなのか知りたくなりました。

オカリナ:謝辞は、人によっては取材の過程がわかっておもしろいのもありますが、関係者の名前だけが連ねてあるのは、日本の読者にとっては人物像もわからないので、つまらないですよね。ただ契約書ではそこも訳せとなっている場合もありますね。

ニャニャンガ:同じ綴りでも、出身によって読み方が違う場合もあるので判断が難しいです。

オカリナ:私も固有名詞発音辞典とかネットで固有名詞の発音を調べたりしますが、どうしてもわからないときは原著出版社とか著者に教えてもらいます。同じアルファベット表記の国の言葉に翻訳するときはそのままでいいのですが、日本語は発音を知らないとカタカナ表記ができないので不便ですよね。

アンヌ:ファンタジーっぽいのは、アメリカ人が書いたイギリスもののせいだろうかと、バーネットを頭に浮かベながら読みました。この主人公のきょうだいたちは莫大な資産を持つ大金持ちで、本当なら食費の心配などはしないでいいのがわかっているからです。エドマンドも菓子屋で買おうと思えばいくらでもお菓子を本当は買える身分なんだと思いながら読むと、この戦時下の苦労のリアリティが薄れてしまう気がしたのです。ただ、ウィリアムが最後に、自分はまだ12歳なんだと切れてしまうところ、長男はすべてに責任を持たされ弟たちは従うという典型的な描き方で終わらせなかったところはよかったと思います。とにかく疎開という親たちが過ごした時代の出来事を忘れてはならないと思いました。すべては戦争の一言で、繰り返されてしまうのですから。

きなこみみ:私はなかなか入り込めなくて、読むのに苦労していたんですけど、作品世界に名作たちの本の世界が重ねられているところを読んでいるうちに、だんだんおもしろくなって、途中から夢中で読みました。イギリスの戦争の物語としては、ウェストールがすごく好きなんです。ああいう厳しさからは遠いんですが、この作品はロンドンの都会育ちの子どもたちのお話なので、雰囲気は違って当たり前かと思います。冒頭でアンナが『メアリー・ポピンズ』を読んでいて、「アンナが今、そばにいてほしいのは、となりの長いすに座っている見知らぬおばあさんたちや、ほかのお客さんではなく、メアリー・ポピンズなのだった」というところを読んで、この作者が、本の力を信用しているのが伝わってきました。本読みとして、共感するところがとても多かった。疎開先でさんざんな目にあうのは、疎開物語はどうしてもそうなりますが、恐ろしいのはネズミ狩りのシーン。ネズミを次々に殺していく、ぞっとする残酷なところで、この物語には、直接的な戦争シーンはないんですが、ここは間接的にではありますが、戦争という暴力をちゃんと書こうとしているんだなと思ったんです。戦争の直接的な描写は、子どもたちにとっては怖すぎるので、こういうふうに戦争の恐ろしさを伝える工夫がされているんだな、と。この作品は小公女の世界が重ねあわされているので、最後はセーラみたいに、幸せになれるんだなと思って読めます。中学年の子たちが、安心感をもって読める。そこを、この作者は狙ってたんじゃないのかなと。ホッとするのは、物語として正解なんだと思うのです。
そして、血がつながってなくても、心でつながっている人たちが家族になる、というところがよかったです。ミュラーさんが村八分になって疎外されるのも、夫がドイツ人だから、という「血」の違いです。そして、最初に身を寄せた家も、おばさんは血の繋がった自分の子どもたちだけ、信用するんですね。いまの、イスラエルとパレスチナのことを考えても、血の違いや、人種の違いという属性で人間に線を引くのが、どんなに残酷で恐ろしいことを招くかがわかります。その属性を乗り越えるのが、「本」といいうものを通じて、というところが素敵です。「血」を信じている人たちと、ミュラーさんと3人の子どもたちのように、本と心でつながっている人たちの陣営、本を通じた世界へ子どもたちを招待する。そういう意味で素敵な作品だなと思います。

ANNE:物語はとてもおもしろく読ませていただきましたが、戦時中のエピソードとはいえネズミ退治の場面が苦しかったです。ミュラーさんのドイツ人の夫が音信不通になってしまった理由は書かれていませんが、きっと辛い状況があったのでしょうね。3人の子どもたちが幸せな結末を迎えることができて、ホッとしました。ミュラーさんが司書でよかった! 図書館は子どもたちに宝物をあげることができますね。

しじみ71個分:2時間くらいでサクサクと読めまして、とてもうまい物語だと思いました。図書館が背景に出てくる物語は、素晴らしい司書さんが登場することが多く、多少こそばゆいのですが、この物語のミュラーさんもとても魅力的な司書だと思います。また、ウィリアム、エドマンド、アンナのそれぞれのキャラクターが生き生きと、個性的に書き分けられていたところも魅力の一つで、ウィリアムが、厳しい疎開生活の中で弟妹の世話をするヤングケアラーとして苦労する姿にも共感できました。図書館の司書と、本が大好きな子どもたちが、心を通い合わせて、最後はハッピーエンドで家族になるという温かな展開にも安心感と安定感があります。
ただ、気になったのは、この子たちが遺産を持っているのを隠して、家族探しをしていた点です。もちろん、疎開が一番の目的ではありましたが、後見人が見つかりさえすれば遺産で不自由なく暮らせるというところに違和感を覚えました。この設定はどうしても必要だったのでしょうか。また、受入れ先の肉屋夫妻、寡婦のグリフィスさんの世帯では本を読む環境にはなく、本を読む、読めるというのは階級の問題かと思われたのも引っかかった点です。読書できるというのは、何かしらが恵まれているのかもしれないなと感じてしまいました。本や物語が辛いときにも心の支えになるというのは素晴らしいことで、それを推進する立場に私もあると思っていますが、物語を心の支えにできない人たちは苦しいままなんだろうかと、グリフィス家の描写を見て感じました。自分でもひねくれた読み方とは思いますが……。アンナが本を読んで、グリフィスさんの子どもたちがそれに聞き入る瞬間があったにも関わらず、結局本の価値がわからない子どもたちが本をビリビリに破ってしまいますが、そこに読める人と読めない人の間にギャップがあって、グリフィス一家が、本を読む教養がない人たちに見えてしまうのが悲しかったのかもしれません。
また、畑を荒らすネズミを駆除する仕事にウィリアムとエドマンドが出かけ、弟に辛い思いをさせないように、ウィリアムが頑張って2匹仕留めるという描写がありましたが、本当に困っている世帯は、どんなに嫌でも気持ちに蓋をして10匹、20匹取ってこないといけない状況に置かれているわけですよね。暴力、戦争についての考察もきちんとなされている箇所はとても優れていると思ったのですが、一方、そうせざるを得ない人たちが実際に存在していることについてどうとらえればいいのかがは、物語からはよく読み取れませんでした。なんというか、困難にある人たちとのギャップを埋める希望的な要素が見つからなかったのが、引っかかりのポイントかもしれません。あと、物語の中で良い物語を紹介したい作家の意図みたいなのも感じられて、図書館リストっぽいなと、思っちゃうところもありました……。
最後は、ミュラーさんに助けられるばかりではなく、エドワードの発案で学校に畑を作り、ミュラーさんと村の人たちの和解のきっかけをつくる場面が描かれますが、大人も子どもも助け合うという点で、作家の子どもたちの力への信頼が感じられてとてもよかったです。

wind24:お話がおもしろく、私も短時間で読めました。いろいろな出来事があっても引っかかりを持たずに読みましが、3人がいつも一緒にいられるのが良かったです。おばあさんの存在がちょっと謎で、ただただ子どもが嫌いで冷たい人なのか、自分が亡き後3人で生きていくために、わざと冷たくして自立心を身に付けさせようとしているのか、文面からは読み取れませんでした。この物語では、「図書館」の果たす役割が大きいです。戦時下のささくれた子どもたちの心を本との出会いで慰めるための場所であり、本を手渡す素敵な大人(ここではミュラーさん)がいる場所でもあります。
子どもたちは居場所を転々としていきますが、最初の肉屋の夫婦は慈善的な気持ちで預かるものの、実の子たちの意地悪がまるで絵にかいたように際立っています。しかしそれを知ってか知らずか、自分の子には盲目的です。貧しいグリフィスさんはお金ほしさに3人を預かりますが、自分の子たちの面倒を見させるだけでご飯もろくに与えません。そして、大好きな図書館のミュラーさんに引き取られることになり、ようやく幸せが訪れます。それまでモノクロの世界だったのが一気に色彩あふれる豊かな生活になっていきます。その後は多分養母になってくれるミュラーさんとの幸せな生活が待っていることでしょう。

オカリナ:古き良きイギリスの物語の伝統をくむ作品で、とてもおもしろかったです。私がいいなと思ったのは、3人きょうだいそれぞれの特徴や性格がうまく書かれているところです。長男はしっかり者、次男はきかん坊、末っ子の女の子はあまったれ、という点はステレオタイプに見えますけど、それぞれもっと人間が立ち上がってくるように描かれています。また意地悪な双子がいる肉屋さんですけど、お父さんのほうはp195などを読むと、おまけをしてくれたり、声をひそめて「この前のこと、本当にすまなかったな」と言ったりするので、かなりものがわかった人のよう。そういう細かい書き方にも好感が持てました。
この作家はアメリカ人ですけど、少し古い文体で書いたのではないかと推測します。たとえばp301には「読者のなかには、くつ下なんて、ずいぶん、ぱっとしない贈り物だと思う人もいるかもしれない」という文章がありますが、こんなふうに作者が顔を出したりするのも、一昔前の作品の特徴のように思います。また日本の読者が読むと、本が好きな人たちと、本を破ってトイレの紙に使ってしまう人に分かれるように思えるかもしれませんが、先程から出ているようにイギリスなので、階級がからんでくるかと思います。ピアーズ家は中流階級に属していて、この子たちを預かってくれるフォレスターさんやグリフィスさんはもっと貧しくて、特に戦時中は生活するだけで精一杯の労働者階級なのかと思います。グリフィスさんの家庭の描写は、ディケンズの作品を思い出させます。双子の意地悪も、「お高く留まりやがって」という中流以上の子に対する気持ちの表れでもあるのでしょう。ネズミ狩りの場面は中流階級の子供にとっては目の前で行われる大きな暴力ですが、日常的にネズミに食糧を荒らされて困っている貧しい人たちにとっては、退治するかしないかは死活問題でもあるわけです。
先程、この子たちはお金があるのだから何でも買えばいいじゃないか、という意見もありましたが、おそらく管理は保護者がすることになっていて、成人するまでは勝手に使うことはできない決まりになっているのかと思います。また中流以上の人たちは、子育てを乳母や家庭教師に任せることもあり、子どもや孫に対する自然な愛情も持たないで過ごす人もいます。なので、3人のおばあさんが愛情を持っていないのも、十分ありうることでしょう。

ネズミ:オカリナさんのお話をきいて、英文学に詳しい読書好きの人には、楽しめる点ところがたくさんあるのだなと、わかりました。登場人物の性格がみなはっきりしているので、読みやすさがありましたし、装画からも、幸せな結末が予想されて、安心して読めました。好きだったのは、最後に学校で菜園をつくることになるところです。ドイツ人の夫からミュラーさんが伝授されてきたことが生かされ、子どもたちもこの土地で受け入れていかれることを象徴する出来事をうまく描いていると思いました。

エーデルワイス:心がほかほかしてくるような物語でした。作者が絶賛していたイラストレーターのジェイン・ニューランドのカバーイラストが日本語版でも使われているのですね。図書館をテーマにした良いお話です。きょうだい3人、親がいなくて生きていくのは、戦争中でも現代であっても大変なことと思います。長男ウィリアムの重責を思うと切なくなります。優しいミュラーさんに出会い幸せになりますが、ミュラーさんが長い年月どんなに孤独だったかと想像します。
私が小学校低学年の時、『赤毛のアン』『小公女』など子ども向けに意訳された本を読んでいました。ウィリアムたちは原作どおりの文を読んでいたのでしょうか? だとしたらすごい!と思いました。特に9歳のアンナが読みこなしたとは! この物語に登場する本は名作ばかりですが、現在の子どもたちは読むのでしょうか? p181で、アンナがグリフィスさんの幼い子どもたち3人に『くまのプーさん』を読んであげる場面は、本の力を大いに感じることができます。本に接することのなかった子どもたちが、アンナの声から物語を感じ取り静かに聞き入り、ウィリアムとエドマンドも物語に浸るのですから。

ルパン:評判の良い本だし、実際とてもおもしろく読みました。3人のきょうだいが逆境にあっても助け合って生きていくところがとてもいいと思いました。ただ、日本の子どもが読んでどこまで状況を理解できるのかな、とは思いました。イギリスの階級社会のことやドイツを敵視する感情などが分からないと、どうしてミュラーさんの家に落ち着くまでにこんなに遠回りしなければならないんだろう、と不思議に思うかもしれません。

ハル:子どもの頃に読んだクラシカルな物語のような、ハラハラドキドキ感もあって、引き込まれて読みました。欲を言えば、急に視点が変わったり、人物の立ち位置が変わった?というところもあったり、ちょっとしたつまずきはありましたし、ミュラーさんの家は自給自足ができるように工夫されていたとはいえ、あまりにも素敵な暮らしで、少し出来過ぎな感じはしました。また、ミュラーさんの夫は、どうして手紙を返してくれなくなったのかも、はっきりとはしません。戦争でそれどころではなくなっただけなのか、何か意志があってのことなのか、気になりますが、ある意味リアルというか、実際、たとえ戦争がなくても、気持ちや時間のすれ違いって、そういうものだろうとも思います。とにかく、お兄ちゃんのウィリアムが健気で、ネズミ狩りの場面なんてほんとに泣けてしまいます。日本の子ども読者たちに、この子たちの健気さを読んでほしいという気持ちはないですが、物語を読みたくなる本、という意味で、ぜひこの本を読んでほしいなぁと思いました。

アカシア:エーデルワイスさんが、この子たちはダイジェスト版ではなく原作をそのまま読んでいるのかと疑問に思われていましたが、原作を読んでいると思います。日本でも私が子どものころは、小学館とか講談社から少年少女世界文学全集が出ていて、小さい活字のうえに2段組になっていてページ数も多かった。それを考えると、日本の子どもも今よりずっと多くの活字を読んでいたかもしれません。

(2023年10月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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