カテゴリー: 子どもの本で言いたい放題

ナム・フォンの風

ダイアナ・キッド『ナム・フォンの風』
『ナム・フォンの風』
ダイアナ・キッド/著 もりうちすみこ/訳
あかね書房
2003

ペガサス:オーストラリアに住むベトナムの難民の子の話なんだけど、親ではない人に育てられる子の話だというところに他の2冊との共通点があると思って課題本に選びました。子どもの気持ちがまっすぐで健気な感じが、気持ちよく読める。ナムフォンはつらいことが多すぎてなかなか言葉を発することができないのだけど、「黄色いカナリアさん」とか動物たちを心の友だちにして、自分の気持ちを伝えていくのが印象的。事態は好転するわけではないけれど、少しずつ前を向いて歩いていくという印象が残る。短いながらも、子どもの気持ちが出ている。

むう:作者や訳者の善意がとてもよく伝わってくる本ですね。ただ、低学年向けの短い本だからというのもあるかもしれないけれど、細かい表現がほとんどなくて、読んでいてすっとすべっちゃう感じ。共感するところまでいかなかった。たとえば自転車を家に入れるところも、2階まで上げるんだからとても大変なはずなのに、大変さが伝わってこないんですね。「大変でした」と言われて、「はあ、そうですか」と言うしかない。細かいところの描写がもうちょっとあれば全体が起きあがってくるのかなと思いました。『モギ』もそうなのだけど、自分と文化の違うこういう人たちがいるんだよ、ということを子どもたちに紹介するという姿勢はいいと思いますが……。それと、これはあくまでも好みの問題ということでなんだけれど、あまりに女の子っぽいっていうんですかね。この子は木登りが好きという活発な女の子なのに、こんなべたべたの一人称になるかなあと思います。手紙の語尾もそうだし。苦手だなあという感じでした。

愁童:ぼくもむうさんとほぼ同じ。はっきりいって、つまんなかった。外国人によりそうのではなく、かわいそうだなあと冷たく書いている感じ。親に別れ祖父の死を目撃して、本当にひとりになった子が、「カナリアさん」なんて呼びかけるけど、親や祖父には直接呼びかけないのはなぜ? この子、この国でこれからどう生きていくのかなというところが見えてこない。

カーコ:私はあんまり批判的には読まなかったんです。オーストラリア方面に流れていったベトナムのボートピープルの話を児童書で見るのは初めてだったので、こういうテーマを伝えていくということは大事かなと。ストーリーに起伏はないけれど、ナム・フォンという名前の意味の謎にひかれて、最後まで読めました。オーストラリアの子だったら、ナム・フォンと聞いたら、自分たちの名前じゃないと思うのでしょうね。でも、日本の子が読むとほかのオーストラリア人の子の名前との違いがはっきりわからないかも。それに、オーストラリア社会の中で、ベトナム人がどんなふうにとらえられているか、どんなふうに暮らしているかなど、イメージがはっきりしませんでした。

紙魚:この本を読んでいちばん感じたのは、異文化の人間同士が結びつくには、やっぱり食べ物の力が大きいなってこと。私が小さい頃には、ベトナム料理なんてどんなものだか想像もつかなかったけれど、この頃はいろんな国のお料理が味わえて、とても身近に感じられるようになりました。私も、ナム・フォンが動物や自然宛てに手紙を書くのはちょっと気になりましたが、故郷を思い出すときに、しぜんとそういうものが浮かぶほどベトナムは自然が豊かなのかととらえて読みました。

ケロ:私も食べ物がおもしろかったです。この子が、まわりの人たちに強烈に傷つけられることがなく、色々な助けを借りながら心を癒していく様子がきちんと書かれているなと感じました。確かに物足りない感じもあったけれど、たとえば難民問題への入り口にはなっていくのかと思います。果物の味がじゅるじゅるっと濃かったりして、自分が見たことのない国を知るうえで、味覚はすごいですね。

Toot:私は快く読みましたね。この子は、家族や自然を愛していたんだなというところがうかがえるし、状況は違うかもしれないけれど、ひきこもりの子たちは、ナム・フォンに重ねて読むのかな。私の印象に残ったのは、鳥。鳥を使って、気持ちなどもよく表現されている。12ページの「おじいちゃんが木の小鳥を彫って」なんかも。タイトルがいまいち強くないのが、もったいないですね。

トチ:原題の“ONION TEARS”というのは、最後に主人公が流したのは、タマネギを切ったときの涙ではなくて本物の涙だった……ということでしょうね。でも、邦訳のタイトルからは、そういう原作者の思いが汲み取れないのでは?

アカシア:ナム・フォンがどうして話さないのか、オーストラリアの子どもたちはふしぎに思うけど、それにはちゃんと理由があるんだよ、ということをこの作者は書いているんですね。できれば日本の子どもにも読んでもらいたい。でも、こういうテーマ性のある作品ほど、敬遠されないためにはきちんと書いてほしいと私は思ってるんですね。気になったのは、人物描写が少ないことで、子どもの読者にはイメージがとらえにくいと思う。それに、お祖父さんのことは書いてあるけど、お父さんやお母さんやほかの兄弟とはどうして別れてしまったのかという肝腎なことが書かれていない。私たち大人は、なんとなく状況が想像できますけど、子どもはわからない。それから、ずっと口をきかなかったナム・フォンがついに心を開いて先生に「何から何までしゃべりだす」(p89)場面がありますけど、ここは英語でぺらぺらしゃべれたのかしら? ナム・フォンはオーストラリアに来てから何年くらいになるんでしょうね? 必要なリアリティがきっちり押さえられていないように思いました。このままでは、学校の先生は読むように薦めるかもしれないけど、子どもには理解しにくい本で終わってしまう。それが残念。

トチ:善意あふれる本ですね。自国の子どもたちに、なんとかベトナム難民の子どもたちを理解してもらいたいという作者の気持ちは感じられるけど、もうワンクッション置いて日本の子どもに読ませるとなると、いろいろ難しい点が出てくる。本当にすばらしい作品だと、自国の子どもに向けて書いたものでも、その他の国の子どもにもじゅうぶんに理解できるのだけれど。登場人物がベトナム語で話しているのか、それとも英語なのかとか、分からない点が多々ありますね。たびたび出てくるゴックさん夫妻とはいかなる人物かとか……。

アカシア:この本の冒頭でおばさんが「ナム・フォン! ゴックさん夫婦が見える前に、早く部屋を片づけておしまい! これじゃ野ザルのすみかだよ」と言ってますね。ゴックさん夫婦はどうもレストランのお客らしいとなると、どうして「部屋」を片づけなければならないのか、それもわからない。

トチ:いちばんひっかかったのが、主人公のベトナムにいたころの回想で「兵隊が来て、こわかった」というところがあるでしょ? この兵隊って、アメリカ兵かしら、それともベトコンかしら? それがわからないと、作者がどういう姿勢で書いているかもわからない。もし、この本を授業であつかって、そのことを子どもに質問されたら、教師はどう答えればいいのかしら?

アカシア:子どもにとっては、どっちでも同じなんじゃないかしら? どっちにしても子どもは被害者なのよ。

トチ:たしかに、戦時の子どもはいつも絶対的な被害者なんだけれど、戦争を自然災害やなにかと同じとらえかたをして、「かわいそうなんだよ、ひどいめにあったんだよ」とだけ書いていていいのかしらね。少し前の日本の児童文学にもよく見られる書き方だけど。それから、白人である作者が難民の子どもを優しい眼差しではあっても上から見ている、パトロン的な目で見ているという感じがどうしてもしちゃうのよね。
もうひとつ、しゃべることができない子どもにモノローグで語らせるという手法も、気になった。モノローグというのは、読者にたいしては饒舌に物語っているわけでしょ。だから、この子がしゃべれない子だということを、読んでいるときにすぐに忘れて、混乱しちゃうのよね。そのうえ、手紙は「カナリアさん」宛てだったりするけど、本当は自分宛ての手紙もはさみこまれているし。地の文を三人称で書くとか工夫すれば、手紙の部分ももっと引き立ってくるんじゃないかしら。

ペガサス:この子の言葉で書いているから状況がわかりにくい、っていうのはあるね。別の人、たとえばおばさんから見て書いた章があるとかすると、もっとわかりやすいのにね。

アカシア:地の文と手紙の部分の文体が、ほとんど同じだから、よけいにメリハリが出ない。

トチ:だから、手紙は感傷的にするしかなかったんでしょうね。あと、細かいことだけれど、「サフランのようなオレンジ色の太陽」ってあるけど、サフランの花はオレンジ色じゃないわよね。紫だもの。たしかに英語ではサフランといえば雌しべで染める黄色のことを指すけれど、日本の子どもには分からない。このへんのところ、翻訳にもうひと工夫ほしいわね。あと、主人公がベトナム料理をみんなに配って「お気に召すといいけど」と言う。この言い方にも違和感を持ちました。

アカシア:日本の子どもは、こんな言い方はしないわね。

愁童:それから日本人だったら、花に「目がない」とは言わないよね。「バラに目がない」とか具体的に言うよね。人物をうまく描きだせるところなのに。花に目がないなんて言われても、人物が立ちあがってこないよね。

トチ:花の名前なんて、小さな子にだってちっとも難しくないのに。作者の頭の中に実際の花が浮かんでなかったのかしら?

アカシア:ナム・フォンの手紙が「黄色いカナリアさん」「雲のように白い羽根のアヒルさん」と始まるから、よけい甘ったるい感傷的な印象になる。

カーコ:「カナリアさん」とするか、「カナリアさんへ」とか「カナリアへ」とするかでも、目線やイメージが変わってきますね。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年2月の記録)


モギ〜ちいさな焼きもの師

リンダ・スー・パーク『モギ:ちいさな焼きもの師』
『モギ〜ちいさな焼きもの師』
リンダ・スー・パーク/著 片岡しのぶ/訳
あすなろ書房
2003

むう:おもしろかったです。もう、1行目の「おーい、モギぼう! たーんと腹ぁへらしとるか?」で、あちゃあ、つかまっちゃった!という感じでしたね。前半はわりとほんわかと人と人との交流や何かで読ませて、後半は旅に出るところから畳みかけるように次々といろいろなことが起こるので、ぐいぐい引っぱられて転がるようにラストに行き着きました。これも、アメリカにいる人が韓国という異文化を書いているんだけれど、お話自体がきちっとできていて人物にも共感できておもしろい。だからこそ、お話を楽しむなかで、へえ、こうなんだとか、どうしてこうなのかなあというふうに疑問が広がっていくし、よく書けてると思います。訳もとても読みやすかった。みごとです。ここに書かれている生活はとてもハードなんだけど、ユーモアがあるから決して重たくなく、気持ちよく読めました。よく考えると、追いはぎをのぞくと悪人も出てこないんですよね。これは青磁の話ですが、今までけっこう好きで自分でも見ていた青磁の器にこういう秘密があるってはじめて知りました。象嵌っていうのはすごい技法で、それが作り出された時に舞台を設定するというのもとてもドラマチック。思わずインターネットで青磁の写真を見直してしまいました。物語の筋や表現が特に新しいというわけではないのだけれど、いわば定番の安定感がプラスに働いていると思います。個人的には橋の下のおじいさんがとても好きです。

愁童:ぼくも、同じような感想です。韓国の文化に着いての描写も違和感なく読めた。焼きもの師夫妻の主人公に対する気持ちの近寄り方も、すぐハグハグするんじゃなくてね。少々、通俗的だけど、子どもの本て、こういうわかりやすさとハッピーエンドって大事だと思うので、『ナム・フォンの風』に比べれば、ずっといいと思った。

カーコ:人物がくっきりしていて、筋もドキドキしてとてもよかったです。弟子入りしたモギが、だんだんに焼き物のことがわかってくる過程がとてもうまく書かれていて、すごいなあと思いました。特に、99ページの、粘土の漉しのことがわかる場面。修行を積むうちに、ふっと上に行けた感じが伝わってきて、とても印象的でした。名人の師匠なのに、焼成だけは思うようにいかないというのも、人生の一面が出ていますね。モギがわからなくても考えるのが好きと言って、あれこれ考えるのがおもしろかったですね。ひとつ難を言うなら、絵がきれいすぎるかなと思いました。表紙の絵も中の絵も、貧しい感じが私はあまり感じられなかったので。

紙魚:私も、モギが粘土を漉していて、ふっと指先が全てを感じた部分では、かなり興奮しました。まるで私の指も何かに触れたかのように感じたくらい。私は、好きなことを懸命に志し、手に職つけていく話って大好きなんですよね。今、『13歳のハローワーク』(村上龍著 幻冬社)が話題になっていますが、あの本の考え方はとても大切だと思うんです。ついこの前までは、日本には、学校に行って企業に勤めることが幸せにつながるという幻想がありましたが、「好きなことを仕事にする」ことこそが、個人にとって幸せだし、国家の経済や未来のためにもなるという考え方は、大人こそが身につけるべきです。「好きなこと」を手がかりに自分の生き方を選んでいくという考え方は、モギの姿にも重なり、フィクションでもノンフィクションでも、そういうことを伝えていくって、すばらしいと思いました。

ケロ:翻訳ものだとは思わず読んでましたね。日本的だと感じたのは、おじいちゃんの教えを身にしみこませていくような感覚のせいでしょうか。何かができるようになる、修練をつんでうまくなっていく話というのは、ある意味、カタルシスになるというか、読んでいて気持ちいい。ゲームをクリアしていくのと根はいっしょなのかもしれないけれど、現実の地に足がついているところが違う。このような話は、小さい頃から好きでした。これまで青磁ってあまり変化が無く、魅力を感じなかったんですよね。すみません、という感じです。韓国で書かれたものって触感が違うかと思っていたんですけど、アメリカを経由しているからか、さらりとした触感に変わっていて読みやすいのかな。

Toot:小さな希望と絶望がくりかえされていく。それぞれの人物が、ひがんだりせず凛として書かれている。トゥルミじいさんの言葉が、作者のメッセージなのかな。おかみさんにしても、だらだらと語ってはいないのだけど、1行であらわすのがうまい。確かに、絵はきれいすぎますね。あと、タイトルは、手にとって読みたいという気持ちになりにくい。

アカシア:ストーリーの進め方は、児童文学の定石どおりで、貧乏だけど気立てのいい少年が精一杯努力をした結果幸せをつかむ。でもリアリティが感じられて、気持ちよく読めました。作者は、親の世代がアメリカに移住してきたコリアン・アメリカンですよね。扉に「青磁象嵌雲鶴文梅瓶」の写真(イラストかな?)がありますけど、きっと作者はこれを韓国の美術館で見てイメージをふくらませていったんじゃないかしら。いったん物語が終わったあとで、「韓国の国宝のひとつに、高麗時代に作られた青磁の梅瓶がある。象嵌で仕上げたその美しさはほかに類がない。意匠の主役は鶴(トゥルミ)である。四十六個の丸文のひとつひとつに、のびやかに翼を広げて鶴が飛ぶ。(中略)その名を『青磁象嵌雲鶴文梅瓶』という。作り手については、なにもわかっていない。」と、作者は書いて、モギがこの作品を作ったのではないかという可能性を読者に想像させる。うまいですよね。この作品を書くにあたって作者はいろいろと調べたんでしょうけど、翻訳者も実際に韓国を訪れて細かく取材している。だから作品が嘘っぽくないし、しっかりしたリアリティに支えられている。とても好きな作品です。

トチ:翻訳がすばらしい! アカシアさんの話を聞いて、ずっと前に聞いたアラン・ガーナーの講演を思い出したの。ロシア語の翻訳者がガーナーのイギリスの自宅に来たとき、「〜〜という木はどんな木ですか?」ってきいたんですって。ガーナーが、近くの森に連れていって、その木を教えてあげると、翻訳者はその木に抱きついて手触りを確かめ、葉っぱの匂いをかぎ、五感でその木を知ろうとしていた。ガーナーはそれを見て、翻訳者ってこういうものなんだ、翻訳ってこんなにすごいことなんだって感激したっていうのね。ガーナーがそんな風に感激したって話を聞いて、私もまた感激しました。作品の魅力はみなさんがおっしゃったとおりすばらしいものだけど、その魅力を十二分に引き出しているのは、片岡さんの翻訳の力だとつくづく思いました。
それから、こういう職人話って私も大好きなんだけれど、児童文学にとってはとっても大切なことよね。指揮者の大町陽一郎が音楽を志したのは、子どものときに『未完成交響曲』っていう映画を見たからだっていう話を聞いたことがあるけれど、1冊の本、1本の映画が子どもにとっては未来につながる力を持っているのよね。
紙魚さんと同じように、わたしも「日本の児童文学者はなにをしてるんだ。こんなに書くことはたくさんあるのに」と思ったわ。

アカシア:日本の児童文学作家も書いてはいるけど、これだけ力のあるものは出てきてないんじゃない。

紙魚:日本の作品は、社会問題と物語が、なかなか溶けこんでいかないんですよね。物語の中で、急に「はい。ここからが問題です」という感じになり、問題提起する部分が浮いてしまう。

ペガサス:極貧の生活をしていながら、人間として豊かな生活をしていたというところが、それこそ今の日本児童文学にはない点ですね。そうそう、疑問に思ったのは、「モギ」って何語?

一同:韓国語でしょ。「きくらげ」っていう意味の。11ページにそう書いてある。

ペガサス:原書だと、”tree ear”ってなってるので。じゃあ、訳す時に日本語でなく、韓国語にしたのね。トゥルミじいさんも原書では"crane man"だけど、日本語の「鶴」ではなく韓国語のトゥルミにしている。主人公の名前が「きくらげ」だと変だからかしら。あとね、青磁とか象嵌とかって、子どもにはよくわからないと思うので、絵を扉だけでなく他にも入れたほうがいいと思う。それから韓国と日本の位置関係がわかる地図も入れたほうが子どもにはわかりやすい。

トチ:コリアン・ジャパニーズの子にとっても、力になる本よね。

ペガサス:私ね、サブタイトルに「ちいさな焼きもの師」ってあるから、いつモギが焼くのか、焼くのかと思ってたのね。だから、あ、ここで終わってしまうのかという感じだった。焼きもの師になる前の話だからこのサブタイトルは少し違うよね。それからキムチの入ったお弁当がとてもおいしそうだった。白いご飯と赤いキムチと干物、それに箸がわたしてあって。このお弁当は印象的だった。

紙魚:モギが半分残しておいたお弁当を、おかみさんが毎日いっぱいにしてあげますよね。あそこの部分を読んだとき、ふと、今の我々の日常に、相手に見返りを望まないで何かをするという気持ちが、薄れてきているのではと感じました。すっかりギブ&テイクが当然という風潮になっているような。

アカシア:サブタイトルだけど、日本語の「焼きもの師」っていうのは陶工のことだから、必ずしも焼かなくてもいいのよ。それから、表紙の絵の服装が貧乏な子に見えないという意見が出たけど、私はこれでいいと思うの。だって、親方の代理で偉い人に会いにいくんだから、いい服を着てて当然なのよ。


狐笛のかなた

上橋菜穂子『狐笛のかなた』
『狐笛のかなた』
上橋菜穂子/著 白井弓子/画
理論社
2003

愁童:すごくおもしろかったです。上橋さんってすごくうまいと思うんだけど、「守り人」シリーズだと、主人公が人間で、その生き方や苦悩がしっかり書き込まれているのに、この作品はそういう要素が希薄になってきている。お話としてはとても面白いだけに、なんかもどかしさを感じた。こういう方向に行っちゃうのかなって、ちょっと寂しい思いもしました。

カーコ:一気に読みたくなる作品でした。構成もストーリーもうまいですね。「守り人」シリーズの中の1冊を前にこの会で読んだときは、どこか物足りなさがあったのですが、こっちの方が、ひとつの作品として緻密に組まれている気がしました。それと、独特の表現が随所にあるでしょう。作者の文体が匂ってくるようで、翻訳ものにない味わいがありました。上橋さんが「日本児童文学」2003年11月号に、遥かな神話的過去を思うこと、遠くを見やることが、「時」と「世界」を見ること、「何か大きなもの」の中で生きている、小さな自分に気づくことにつながる、というようなことを書いていらっしゃって、なるほどなあと思いました。この物語には、女性的な強さを感じました。運命を変えていこうというよりは、運命を受け入れながらたくましく生き抜いていく。ひとつ気になったのは、「桜の花の香りがして」ってあったんですけど、桜の花って香るものですか。

トチ:匂い桜っていうのがあるのよね。

カーコ:あと、イラストの使い方がよかったですね。作品のイメージを限定せず、じょうずにふくらませてくれて。

ケロ:ファンタジーで、もともと力を持っている者がそれを自覚していく物語ってありますよね。これも小夜がそうなんだけど、持っているものに対して自分がどうしていくかというところは、獲得していく『モギ』とは対照的ですね。作者独特の語り口は、古典的な中に新しさを感じます。ドキドキハラハラしながら読んでいたら、途中からラブストーリーになりましたね。小夜のお母さんの話を含めて、女が生きていくという話になり、色が変わっていった印象を持ちました。軸がぶれたという感じではなく、楽しませてもらいましたが。最初、序章があってから地図が出てくるのは、自然でうまいなと感じました。

Toot:ふしぎな世界につれていってもらったようでした。最後は、愛するってことは命がけなんだなという感想をもちました。まず、装丁にひかれますよね。カバーと表紙の絵がちがうんですよ。タイトル文字も凝っている。もうこういう造本しかないという本ですね。人物がたくさんいるにもかかわらず、あまり途中でごちゃごちゃしないですね。上橋さんの異空間って、すごくおもしろい。

アカシア:2度目に読んだら、さらに、ああそうなのかという部分がありました。1度目は、プロットのおもしろさで読ませる部分も感じたんだけど、やっぱりそれだけじゃなくて、リアリティの厚みがすごいんですよね。みんなで楽しくお花見をする場面に「ぶよが、ぷうんぷうんと、かぼそく鳴きながら目によってくる」(127ページ)とか、「蝿が現れて飛び交いはじめた」(129ページ)なんて入れてくる。竹の灯しの作り方、市の雰囲気、呪いのやり方、あわいの様子、闇の戸の繕い方なんて、いかにも目に浮かぶように書かれているし、霊的な結界が張られたところを通ると小夜の耳がぴいんと痛むところなんかも、とてもリアル。読む人も五感で感じられるように書いてある。「聞き耳」「使い魔」「葉陰」のような不思議な響きをもつ言葉と、「昼餉」「廚」「出作り小屋」「蔀戸」などの昔の暮らしの言葉があいまって、世界をつくりだしている。「霊狐」など、日本の伝説に出てくる存在もうまく登場させている。渡来人の子どもである「大朗」と「鈴」は、呪いの技ではなく魔物から身を守るオギという技しか使えないという設定もおもしろい。それから単純な善玉悪玉の図式でないのもいい。いちばんの悪役である「久那」にしても、人を殺さなければいけない定めに縛られていることが書かれている。ラブストーリーも、2度読んでみると、その過程がものすごくうまく書かれているんですよ。やっぱり9年かけて書かれたっていう重みがありますね。これまでの上橋さんは、運命は甘んじて受けるというところで終わっているんだけど、これはそれにとどまらず、定められた運命を断ち切って、自分で選び取った自由を獲得する。アニミズムの復権みたいなものも感じますね。

ペガサス:私もおもしろく読みました。作者の中に、大事にしたいシーンがいくつかあって、それをうまく物語に仕立てていったという感じ。登場人物のネーミングもうまくて、野火、影矢など、日本語のニュアンスをよく生かしている。「闇の戸」なんていう言葉にも雰囲気がある。木縄坊がとてもおもしろいキャラクターだと思ったので、最後にもう一度出てきて野火ともっとかかわってもよかったのにと残念だった。全体としては、呪者と守護者という役割に分かれているんだけど、どちらの側にも心の揺れがあって、それを描いているので共感をもって読める。たとえ霊狐であっても、あやつられているだけではないというのが、玉緒などにも表れている。2つの一族の攻防は、かなり入り組んでいるわりには、途中でわからなくなったりせずに読める。それから、私は野火は主を裏切ったからには死ぬより他ないと思って、悲しい結末になるんだなあ、と思いながら読んでいたので、こんな手があったのか、とほっとした。

むう:これも第1行目というか、最初の野火のシーンでつかまった!という感じ。とても躍動感のある風の匂いまでかげそうなシーンで、一気に引き込まれてあとはぐいぐいと筋の展開と世界のおもしろさに引っぱられて読みました。発想がおもしろいなあと思いました。「あわい」という場所や小夜が光を織るシーンや「闇の戸」とか。著者が文化人類学者でもあるから、きっとそういう蓄積がこういったイメージを裏打ちしているんだろうなあと思いながら読みました。それに、こういったおもしろい発想が、ぷつぷつと孤立して途切れているのではなく、全体としてまとまった世界になっているところに著者の力量を感じました。ちょっとしか出てこない脇役もおもしろかったです。半分天狗の木縄坊の存在なんかとってもおもしろくて、逆にあれだけしか出てこないのはずいぶん贅沢だと思いました。小夜が光を織るところでも千の眼が出てきますよね。すごく怖いイメージで、ええこれってどうなっちゃうんだろうと思ったら、小夜は呪者にならないから、あれでおしまいになっちゃう。これも贅沢というか、みごとに期待を裏切っている。それと、宮部みゆきの書いている超能力者は能力が突出していなくて等身大の人間という感じがするけれど、この本も、小夜の聞き耳の能力が突出していないのがいい。最後にどちらかが死ぬしかないと思わせておいて第3の道が出てくるあたりにも感心しました。愁童さんがおっしゃった、こういう力のある人がリアルなものを書いてほしいということも確かにあるけれど、力のある日本のファンタジーも大事だと思いました。

紙魚:『ナム・フォンの風』は、具体的な描写が少なくて、どちらかというとイメージ先行というように感じましたが、この本を読んでイメージというのは、丹念な描写の積み重ねがあってこそ浮かぶんだと改めて感じました。『ナム・フォン〜』は、イメージというより気分なんですね。ある像やイメージを読者に伝えるためには、やはり具体的な情景描写が大切で、この本はそれがとても行き届いている。だから、単なる物語舞台の箱の中で物語が動いているのではなく、この物語の外側にも地平が続いているように世界が広く感じられる。それに、物理的に説明できないことを、納得させちゃう強さがあるんですよね。映画『千と千尋の物語』以降、日本の神話的な物語世界は、外国の人にとって神秘的で、注目を集めていますが、きっとこの作品などもおもしろがられると思う。日本の創作は、このところずっと海外ファンタジーにおされてきたけれど、こんなに力がある作品もあるんですよね。

愁童:小説としては「守り人」シリーズ(上橋菜穂子著 偕成社)よりこっちの方が面白いかもしれないけれど、小夜は結局、読者とはちがった存在で、その能力は母親から受けついだという設定でしょ。ゲームのキャラ作りと同じような発想に思えて、ちょっと残念。

アカシア:でもそこは、『ホビットの冒険』や『指輪物語』(J.R.R.トールキン著 瀬田貞二訳)といっしょなのね。ビルボは、たまたま魔力をもつ指輪を手に入れるんだけど、それを捨てることによって自由になる。小夜も自分の力を捨てて狐になることによって自由になる。あとね、霊狐なんていうのは、お稲荷さんの伝説なんかにも出てくる存在。単なる思いつきではなくて、伝承を踏まえているから、ちゃちな他の物語よりぐっと深みがある。

トチ:そういうのを伝えていくのって大事よね。私は、なにしろ「りょうりょうと風が吹き渡る夕暮れの野を、まるで火が走るように赤い毛なみを光らせて、一匹の子狐が駆けていた」っていう冒頭の一文がすばらしいと思った。日本の児童文学には、朝起きて、台所からお母さんが大根切る音が聞こえるなんていうのが多いけど、そういうのはやめてほしいですからね。先日、文楽「義経千本桜」を観たんだけど、狐の動きがすばらしかった。やっぱり日本人のDNAに入っているのかしらね。外国の人から見れば、映画『千と千尋の物語』で千が河だったというのはショックだったんでしょうけど、この物語の結末にも、きっとショックを受けると思います。キリスト教では、動物は人間より下等な存在としか見てないからね。日本人は、ラブストーリーの結末として狐になっちゃうなんていうのも、すばらしい世界にたどりついたと思うところだけど、西洋の人は現実から逃げたと思うかもね。朝日新聞の書評に、主人公がこういう社会からどう逃げたかが書かれていると説明されていたらしいけど、本当にそうなのかどうかという見方をしてもおもしろい。

アカシア:最後狐になって野を走るところも「桜の花びらが舞い散る野を、三匹の狐が春の陽に背を光らせながら、心地よげに駆けていった。」と書かれていて、小夜が狐の存在を選んだところを含めて、すごく肯定的なイメージですよね。キリスト教世界だったら、人間が身を落として狐になるのが幸せだとはて考えられないかもしれないけど。

トチ:いえ、最近では違う考え方も出てきていると思いますよ。

アカシア:そうか、プルマンの「ライラの冒険」シリーズも、足に木の実の車輪をつけた馬なんていう不思議な存在に高い位置をあたえてましたね。

トチ:『ナム・フォンの風』は残念ながら他の文化の紹介にとどまってましたが、児童文学も、それにとどまらず、別の価値観を提示するという時代になってきたんですね。


2004年02月 テーマ:アジアの子ども

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『2004年02月 テーマ:アジアの子ども』
日付 2004年2月20日
参加者 ペガサス、むう、愁童、トチ、カーコ、紙魚、ケロ、Toot、アカシア
テーマ アジアの子ども

読んだ本:

ダイアナ・キッド『ナム・フォンの風』
『ナム・フォンの風』
原題:ONION TEARS by Diana Kidd,1989
ダイアナ・キッド/著 もりうちすみこ/訳
あかね書房
2003

版元語録:戦火のヴェトナムからオーストラリアへ逃げてきたナム・フォンはなにもしゃべらないし、笑いも泣きもしない。兵隊を見ると隠れる少女の物語。
リンダ・スー・パーク『モギ:ちいさな焼きもの師』
『モギ〜ちいさな焼きもの師』
原題:A SINGLE SHARD by Linda Sue Park,2001
リンダ・スー・パーク/著 片岡しのぶ/訳
あすなろ書房
2003

版元語録:親もなく、家もない、本当の名前も知らない少年モギ。ある日、高麗青磁の美しさを知り、焼きもの師になることを夢みます。どんな境遇でも将来を信じる少年の物語。 *2002年ニューベリー賞受賞
上橋菜穂子『狐笛のかなた』
『狐笛のかなた』
上橋菜穂子/著 白井弓子/画
理論社
2003

版元語録:〈使い魔〉の霊狐・野火を助けた〈聞き耳〉の才をもつ少女・小夜。政争にまきこまれた少年・小春丸との因縁の呪いの物語が展開。

(さらに…)

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麦ふみクーツェ

いしいしんじ『麦ふみクーツェ』
『麦ふみクーツェ』
いしいしんじ/作
理論社
2002

トチ:今回読んだ本は、どちらも大きな賞の受賞作でヤングアダルト。でも、『ふたつの旅のおわりに』のほうは作者がはっきりと言っているように、明らかに十代の子どもに向けて書いている。『麦ふみクーツェ』も十代の少年が主人公だけれど、こちらのほうはどうかな?……というわけで、本を選ぶ係になった私とむうさんは、子どもに向けて書いたものと、子どもをテーマにして書いた(らしき?)ものを選びました。
 さて『麦ふみクーツェ』ですが、前に同じ作者の『ぶらんこ乗り』を読んだときに、どうもわけがわからなかったんですね。はっきり言えば、嫌いだった。この読書会でも、あまり評価は高くなかったような記憶があるんですが、読書会の外ではけっこう評価が高かった。それで、自分自身の読書力(?)がにわかに心配になり、いわば敗者復活戦といった気持ちで読みはじめました。まあ、身構えて読んだってわけ。
数ページ読んだところで、どうしてこの作者はこうも日本的なものを必死になって排除しているのかと腹が立ってきたのね。最初の舞台は漁港だけれど、漁師とか船乗りは出てこないで、水夫。縄のれんも、焼酎も、演歌も、ニシンの匂いもなし。だいたい私は、欧米ファンタジー風の事物を次々に登場させて、そういうものが好きな読者をくすぐっていくような作品が大嫌いなので、これもそうかなと思いました。それから、最初のほうではクーツェのほかには、登場人物の名前が出てこないのよね。「郵便局長さん」とかになっている。『クレーン男』(ライナー・チムニク文・絵 矢川澄子訳 パロル舎)の真似してる!なんて思っちゃって……。
 ところがところが、半分くらい読んだところから、この世界にはまっちゃったのよね(笑)。いしいしんじの作った世界にからめとられてしまった。なぜ『ぶらんこ乗り』がだめでこっちは良かったのか考えたんですけど、ひとつには『ぶらんこ〜』のイメージは寒色系で冷たい、死とか負のイメージが強かった。ところが『麦ふみクーツェ』は、海やネズミといった、暗い、ネズミ色っぽいイメージが、作者の成長につれて、麦畑や、冬の日差しを思わせる暖かいものに変わっていく、そこが良かったんだと思うの。明るい、生命力を感じさせるもので、最後をまとめている。これは主人公のアイデンティティ探しの物語ですよね。最初は自分がこの世に生まれたことに、後ろめたい、暗いものを感じていた主人公が、物語の終わりでは自分の音楽や、おじいちゃんを通じて脈々と流れている暖かい血を発見する遍歴の寓話。そう考えると、日本的なものを排除しているところも、ちょっと変てこなところも気にならなくなりました。作者は子ども向けにと意識して書いたのではないかもしれないけれど、児童文学と言えるんじゃないかな。ひとりの子どもが生きていくときには、様々な人の人生がモザイクみたいになった中を進んでいくんだなと、気障な言い方をすれば、ひとりが生きていくってことは、自分がめぐりあう様々な人の人生をも生きていくってことなんだなと思わせるような作品でした。

カーコ:この2冊は対照的でした。気づいたことは2つあって、1つは、固有名詞というのは、読者をいかに作品によりそわせるものかということ。一般名詞の名前だと、読者がその身になりきりにくいですよね。作者が、意図的に読者をつきはなし、フィクションだということを意識させて物語が進んでいく感じ。もう1つは、感覚に訴える表現の多さ。見えないこととか、音とか、匂いとかの生々しいイメージが押し寄せてくる。物語全体としては、よくまとまっているけれど、私は作品としては好きになれませんでした。いちばん気にいらなかったのは、音楽の扱い。音楽ってこんなにかんたんに身につくものじゃないだろうとか、楽器(チェロ)をこんなに粗末にしないだろうとか。音楽関係の身内がいるせいかもしれませんが。

ブラックペッパー:私、みんなが突然音痴になるというのは、ちょっとおかしいと思いました。だって音痴って歌を正しく歌えないっていうことでしょ。楽器の演奏がうまくいかないのは、一般的には音痴とは言わないのでは? それと音痴はもともとのもので、急になったりしないと思う。

トチ:変だと言い出したら、なにもかも変だよね。

カーコ:変な世界にとりこまれていきますよね。この本の奇妙さにひたりきれなければ、読み進めるのはたいへん。フィクションのおもしろさを感じたら、読み進められるのかしら。『海辺のカフカ』(村上春樹著 新潮社)を思い出しました。

Toot:タイトルからして変てこで、中身もいい意味でひきつけるものがある。でも、読みながら違和感があって地に足がついてない感じ。第三者として観劇しているようで、入りこめなかった。セールスマンのあたりからは、そそられて読んでいったのですが、それも一瞬。作品との距離感があって、ストーリーを受け入れられなかった。創作するというよりは、自分のなかの感性で書いている印象。用務員さんとか、「みどりいろ」とか、生まれかわり男とか、何を意図しているかつかめなかった。

紙魚:私はね、なんととてもよかったのです。読むと知識が増えるとか、ためになるとかではなくて、ただ読書のためだけにある本だと思って、感動しました。機知に富んでいて、ところどころで自分の目線がふっとかわる喜びを味わいました。微視的に見ていたものが、急に巨視的につかめたり。例えば、144ページの「スクラップブックのページをながめていると、そのことばどおり、独立した特殊な事件など、この世にはなにも起きていないような気がしてくる。すべての事故が、どこか遠いなにかと関連もっている。」なんて文章につきあたると、それまでバラバラだったいろいろな小さな物事が、急に列をなすように感じられるんですね。この物語では、いくつかそういう場面に遭遇し、物事の本質を一瞬垣間見るような興奮を覚えました。これって、教養小説ですよね。この、いしいさんがつくりだした世界の中では、クーツェはこうやって自分を見つけていくのだと思います。それから、音楽について、なんて気持ちよく書かれているのだろうと思いました。体が楽器だとか、コンサートホールが楽器だとか、そのつど共感しながら読みました 。読後、1つの曲を聴き終えたような静かな興奮がありました。

ブラックペッパー:今回の2冊をくらべると、印象がとってもちがっていて、『二つの旅の終わりに』は、きゅっきゅっとかたい四角の中にまた小さい四角がすきまなくぎっちりつまっているような感じ。『麦ふみクーツェ』は、形の定まらないものの中に羽のようなものがふわふわふわーっと漂っているような感じ。こちらは、私はちょっとつきあいきれないと思っちゃった。『ぶらんこ乗り』もそうだったのですが読みにくくて。出来事もオリジナリティがあるし、表現もオリジナリティがある。一般的な法則と違っているところが、私の小うるさ心を刺激するんですね。たとえば38ページの「ゆきだるま」。「ゆきだるま式におおきくなっていった」と言われたら、横に大きくなったのかとパッと思っちゃうんですけど、ここは縦に伸びているという……。こういうところで、こつんこつんとつまずいちゃってね。ふつう法則のようになっていることって一字一字読まないでするーっと行けるけど、これはその法則にぴったりこないの。予想が裏切られることになるから、読むのに時間がかかっちゃうのかなと思いました。主人公がすごく大きいのに、オーケストラに入ってから「劇団員のだれよりも背が高い」ことに気づくのもおかしい。この本の世界の法則についていけなかった。

紙魚:『二つの旅の終わりに』は、何か問題を出したら必ずおさめるという感じ。『麦ふみクーツェ』は出しっぱなしという感じ。

アカシア:私は、この本を悪い条件で読んだんですね。時間がとれなくて、寝る前に読んだの。それで、ちょっと読んでは眠ってしまったので、なかなか世界に入っていけなかった。もっと集中して読めたら、違ったかもしれないけど。波長が合えばとてもおもしろいし、波長が合わなければ最後まで入っていけない作品。ありえない話だし、登場人物の固有名詞もほとんど出てこないという意味では、『穴』(ルイス・サッカー著 幸田敦子訳 講談社)を思い出しました。でも、『穴』のほうがおもしろかった。セールスマンが村の人々を騙すところだけ、なぜかリアリティがありましたね。それに、おじいさんが実は大工だったということに、主人公がショックを受けるのは意外だった。

トチ:そうね。主人公が尊敬していたのはおじいちゃんの音楽の才能であって、ティンパニ奏者であったことではないものね。作者と波長の合う読者は、しっかりと書けているように思えるセールスマンの物語の部分にかえって違和感を感じるんじゃないかしら。ここは、前に聞いたことあるような、よくある話って感じだった。

むう:私は『ぶらんこ乗り』はまるでだめだったんだけど、これはよかった。かなりおもしろかったです。読んでよかったと思えた。最初の麦をふんでいるあたりが暖色系だというのもあるし、私にとって大きかったのは、異形の人ばかり登場するんだけれど、彼らがつまはじきになることなくそれぞれに居場所を見つけて生きているということ。355ページで「へんてこで、よわいやつはさ。けっきょくんとこ、ひとりなんだ。ひとりで生きていくためにさ、へんてこは、それぞれじぶんのわざをみがかなきゃなんない」という先生のせりふがあるけれど、こんなに露骨に言うかどうかは別として、この世界全体がそういう視線で描かれている。生きてていいんだよ、というのかな。取っつきは妙な話だなと思ったけれど、ああそういう話なんだと思ったので、細かい箇所はあまり気にしないようにして読み進みました。最初は主人公の生活の真ん中にすごく大きな穴がぽっかりと開いていて、その周りで三人がそれぞれに生きていた。主人公がルーツをたどっていくことで、その大きな穴が最後はちゃんと埋まってすべてがかちゃっと収まるところに収まる。そういう意味では大団円で、読者も安心できる。それにしてもチェンバーズとは対照的で、とん たたん とん という心臓の音からして孤独で寂しい感じ。寂しいよう、寂しいよう、でも一生懸命生きてるんだよう、ということを、ひりつくようでありながら暖かい目線で書いていて、それはそれで気持ちいいのだけれど、それだけでいいんだろうかと思わなくもない。この人は、社会というか大状況をすべて捨て去ったところで人間存在を書いている。だから逆にセールスマンのところが気になったんです。その前後は社会とまるで無縁な、地に足がついていない世界で完結していたのに、そこだけ地上に降りかけたみたいだったから。あと、数学の取り上げ方はちょっと気になりました。でも、『ぶらんこ乗り』にくらべるとずっとよかったです。

すあま:最初は読みづらく、進まなくて大変でした。ただ、だんだん整理されてきて、最後にはクーツェが名前ではなくて、「ずいぶんな変わり者」っていうことがわかる。クーツェな人がたくさん出てきて、スクラップブックに貼られるのもクーツェな人で、でもその人自身は一人しかいないんだ、というようなところに落ちつくと、それはよくあるような話にも思える。わかんないままにそのまま終わるかと思っていたら、最後、けっこういろいろと説明してくれるんですね。冒頭の部分で入院していた理由も知りたくて読み進んだのですけど、想像したよりも普通に入院していたことがわかって拍子抜けした感じですね。出てくる人たちにあまりいやな人がいないから、読んでいていやな気持ちがしない。おもしろかったのか、自分が好きなのかは、いまひとつ整理できません。吹奏楽の部分で、イギリスの映画『ブラス!』を思い出しました。それから、ちょうちょおじさんの盲学校の話がおもしろかった。

カーコ:いっぷう変わった人たちのことを、差別語をつかわずに書くって、たいへんなことですよね。

むう:この本には葛藤がないですよね。人間と人間が生でぶつかり合うと時には互いに傷つけあうこともあるのだけれど、ここにはまったくといっていいほどそういう場面がない。さっきのセールスマンの挿話の違和感もそこにあるのかもしれない。あそこは本当ならその後いろいろな葛藤が起こっていいくらいのエピソードなのに、その葛藤がないから肩すかしを食らったような嘘っぽい気分になってしまう。他のところは周到に葛藤が避けられているからそういう違和感が起こらないんだけど。

ケロ:この本は、ずいぶん前に買って、そのままにしていて、夜眠れないときに出してきて読むというのを繰り返していたのですが、読むたびに拒絶される、というか、作品世界にはいっていけないものを感じていました。最初の「とん、たたん、とん」という音も、状況がよく把握できないので、よけいに入りづらかったのだと思います。一つ一つのエピソードはおもしろく読めるのですが、のめり込むという感じにはならない。なのに、最後まで読んで、涙が出てくるほどの感動があったんです。でも、その感動の正体がわからなかった。今回、『二つの旅の終わりに』と一緒にもう一度読んだら、なにか謎がとけたような気がしました。私は、この主人公が「いろいろあるけど生きていっている」ということに感動していたんだとわかったんです。

愁童:実際の「麦ふみ」って、「とん たたん とん」って音がしないけどな……。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年1月の記録)


二つの旅の終わりに

エイダン・チェンバーズ『二つの旅の終わりに』
『二つの旅の終わりに』
エイダン・チェンバーズ/作 原田勝/訳
徳間書店
2003

:久しぶりにページが減っていくのが寂しくなる本でした。おもしろいので、もっとゆっくり読まないともったいない気分になりました。主人公のジェイコブのオランダでの日々と、ヘールトラウの手記が交互に出てきて、これがどんなふうに繋がっていくのか、楽しみでした。物語の最初からジェイコブの不安、苛立ちや不快感が伝わってきて、どんなお話になるのかと思ったけど、ヘールトラウの手記に惹きこまれ、156Pのディルクの農場に移るあたりから、手記だけを読んでしまった。手記だけでも、ひとつの物語として読むことができましたね。戦争から開放されると喜んだ矢先に戦争の実態を思い知る場面や、一家が巻き込まれていく様子が、映像のように浮かんできて。トンとか、助けてくるおばさんとか、出会った人たちの存在感があって、心の通い合いが伝わってきました。ジェイコブとダーンの会話の引用文のとらえかたも、おもしろかった。

すあま:去年読んだ本のなかでは、とても印象に残っています。一昨年オランダに旅行に行ったので、ジェイコブと一緒に、追体験しました。以前友人がちょうどこの作品に出てくる記念式典の時にアルネムを訪れていて、ホテルに勲章をつけた人たちがいた、と言っていたのを思い出して、その友だちにこの本をすぐに紹介しました。そんなこともあって、私にとっては個人的に興味深かった。物語が二重構造になっていて、いったいこれからどうなっていくんだろうという謎の部分があり、どんどん読んでいった。昨年末にチェンバーズが来日した時、講演会に行ったんですけど、北欧やオランダの人たちに人気があるという話がありました。

むう:私ははっきりいって苦手でした。なんかてんこ盛りで、げっぷが出そうだった。作者の思いを受け止めきれないという感じ。それと、出てくる人がともかく饒舌でしょ。恋人候補とでもしゃべるしゃべる。彼我の差を感じちゃった。ヨーロッパの人は言葉で言わなくてはわからないという思いが強いんですよね。その通りだと頭ではわかるんだけど、こっちの体力がないときに読んだせいか、すごくしんどかった。それに、ジェイコブの言葉が著者の言葉に聞こえて来ちゃって。あんまり好きじゃないんですよね、ジェイコブが。この人の本を読んで若い人がいろいろなことを考えさせられるという感想を持つのは納得できます。たしかにいろいろな問題が扱われていて、それもオープンエンドになっているから、いろいろなことを考えるきっかけになる。この本は構造がダブルになっていて、しかも現代のほうにはホットな問題が山盛り。「人間には過去もけっして無縁でないし、今生きていくこと自体じつに大変なんだ」というのはよくわかる。でもあまりに問題が多いから印象が拡散している。たいへん誠実な本だとは思うんですが。ところで、日本には、こういうふうに社会的な存在としての人間を書いた本は何があるのかな。それと、原題は「緩衝地帯からのハガキ」じゃないですか。それが訳書では『二つの旅の終わりに』となっている。それと、訳書で章タイトルが「ジェイコブ」となっているところは、原書では「ハガキ」となっている。このあたりはどうなんだろうなあと思いました。チェンバースさんの講演会に行って、作者のすごさ、誠実さを感じて、この本が今回課題になったのをきっかけに著書を3冊も読んだんですけど、たとえば『おれの墓で踊れ』と比べても、これが最高峰という感じは受けませんでした。

カーコ:「ハガキ」とか「ポストカード」となっていたら、もう少しジェイコブのほうに、読者の目線がいったかもしれませんね。

:でも、あんまりジェイコブって魅力的じゃないのよね。

アカシア:すごい本なんだけど、ふつうの中学生とか高校生に読ませるのは難しいんじゃないかしら。確かに緻密で骨が太いんだけど、ユーモアがないと思ったの。子どもの本だったらユーモアがほしい。原書は、もっと文体に変化があるし、緩急があるんじゃないかな。オランダ人のしゃべる英語も、いかにも文法に忠実な外国人の英語という感じで、そこはかとないユーモアがある。イギリス人の子どもが読んだほうが、おもしろいのかもしれない。

トチ:最初の章で、ジェイコブがアムステルダムのカフェに入っていくところなど、原文で読むともっと軽い感じがしたんだけど。

ブラックペッパー:タイトルから真面目な本なんだと思って読み始めたら、イケイケ青春ものっぽくなってきて、「よしっ」と思ったら戦争の話で、やっぱりそうよね……と思った。ヘールトラウと祖父の間に子どもが生まれてたことも、やっぱりとは思うものの、それもよしよしという感じで、満足感がありました。ぎっちり中身がつまってるけど、重たすぎるということはなくて、いやではなかった。ただちょっと、これはどうなのかなと思ったのは、17歳の男の子が、アンネ・フランクを恋人のように思ってること。それから、おじいさんのジェイコブの死が突然すぎる。まあ、戦場で死んでは遺品が残らないけど。あと、ダーンは両刀で、そうか、両刀はやっぱりカッコいいのかとか。でもね、全体としては、満足。

紙魚:『麦ふみクーツェ』が「生きる」ことを書いた作品ならば、『二つの旅の終わりに』は「よく生きる」ことを書いた作品。少し長く生きた人が、次の世代や、次の世界に対して持つ「願い」のようなものがこめられていて、それがいいなと思いました。児童文学って、やはりそういうものがあってほしい。しかも、とてもこの作家はきちんとした人なので、尊厳死とか、同性愛だとか、生きるうえで考えるべきことを、ちゃんと物語の中に組み込んでいる。ただ、それがなんだか「はい、ここで問題です」と言われているような感じもしなくはありません。先に読んだ『麦ふみクーツェ』に、あまりにも人が生きる熱を感じてしまったので特に、この本にそういった空気を感じましたね。しかも、とっても配慮がゆきとどいているんですね。たとえば、165ページの「オランダにもナチスがあったという事実」なんていうのは、非常に配慮を感じます。お手本のような作品です。それから、17歳という年齢設定は違和感を覚えますが。自分が何を好きなのか、自分が何者であるかまだわからない少年の心の動きは、よく書けていると思いました。

アカシア:「オランダのナチス」の部分は原書と少し違って、日本の読者のためにわかりやすくしたんだと思う。

Toot:『麦ふみクーツェ』は、今生きている人。『二つの旅の終わりに』は、生きることを振りかえった人。やっぱり、ヘールトラウが胸にしまっておけないところが小説になっていると思う。途中からは、手記の方に興味が出てきて、ジェイコブの方は軽く斜め読みしてしまった。これは、児童文学にあてはめないほうがいいんじゃないかな。

カーコ:私は生真面目な性格なので(笑)、好きでした。読み応えがある作品。夫婦のあり方の問題、戦争の問題、性の問題、安楽死の問題など、たくさんの問題を投げかけますよね。ダーンのおばあさんが戦争中にこういう体験をしていることを提示しているのも、モラルどおりにならない、生きることの複雑さが見えて、いいなあと思った。あと、会話がうまいですね。会話をしながら、話題が変化していくでしょう。例えばジェイコブとアルマとの会話。どこに行きつくんだろうという感じがあって、確かに会話ってそうだなと感心しました。高校生くらいで読んでほしい、手渡したい本ですね。どうでもいいばかりじゃない、人生には大事なことがあるんだよと、考えさせられる。それにしては、装丁が子どもっぽいかな。高校生が自分で買うようなつくりにしてほしかったですね。

アカシア:チェンバーズさんとしては、中学生くらいから読んでほしいのよね。

カーコ:でも、日本の中学生にはどうでしょう。長いけれど、最後に物語がどこに行きつくのか気になって、読めました。これぞリアリティって本。

トチ:チェンバーズは、書く前の下調べにとても時間をかけるという話を聞いたことがあるのね。だから、ヘールトラウの話を書くにあたっても、オランダの女性からどっさり話を聞いたんじゃないかしら。その事実の重みも感じられて、ヘールトラウの告白のほうは、ぐいぐい引き込まれて読みました。女性の生理的な衝動や感じ方がよく書けていると世界各国の読者から言われるということだけど、私もそう思いました。407ページの「人は、なぜこうも、告白せずにはいられないのでしょうか・・・・」という下りも——作者自身日本での講演で引用したところを見ると、とても気に入っているんでしょうけど——とても美しい個所だと思ったし。ところが、ジェイコブの章になると、あまりにも盛りだくさんで、どうも人物も物語も立ち上がってこないのよね。混沌としていて。
でも、この作品で私がいちばん感動したのは、「どうしても自分はこれを子どもたちに語りたい」という、作者の志の高さ。これはロバート・ウェストールの『弟の戦争』(徳間書店)でも感じたことですけど。作者は自分の語りたいことを子どもに伝えるにはどういう手法が良いか考えぬいたすえに、現代と過去をつなぐためにこういう語り口を使ったのよね。内容ももちろんだけど、手法そのものに作者の熱い気持ちを感じる。『麦ふみクーツェ』もすばらしいけれど、社会的な存在としての人間を描く、こういった大きな作品も児童文学には無くてはならないものだとつくづく思いました。

ケロ:『二つの旅の終わりに』の中で、『過去』の話の方にみなさんどうしてもひかれるのは、戦時下という状況はある意味とてもわかりやすい価値観があるからでしょう。いつまで生きられるかわからない、という中で巡り会った二人は、他の状況に左右されない強さを持つし、説得力もある。それに対して、現代にはいろいろな問題があって、混沌としている。その中で、若者はどれを選ぶか、どう生きるか、つねに選択を迫られている。『現代』の方の描き方が盛りだくさんすぎるという意見がありましたが、それだけ混沌として「おまえはどうなの?」と問いつめられる脅迫観念があることが伝わるので、対照的で良いのではないかと思いました。それから、一度も出てこなかった「おばあちゃん」に、会ってみたかったですね。読んでいてもはっとしましたが、たしかにこのおばあちゃんは知っていたのではないかな? などと思ったので、(おそらくカッコいいであろう)本人に登場して一語りしてほしかったです。
【】


2004年01月 テーマ:日英の児童文学の現在

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『2004年01月 テーマ:日英の児童文学の現在』
日付 2004年1月22日
参加者 トチ、カーコ、ブラックペッパー、紙魚、アカシア、むう、羊、愁童、ケロ、Toot、すあま
テーマ 日英の児童文学の現在

読んだ本:

いしいしんじ『麦ふみクーツェ』
『麦ふみクーツェ』
いしいしんじ/作
理論社
2002

版元語録:音楽にとりつかれた祖父と、素数にとりつかれた父、とびぬけて大きなからだをもつぼくとの慎ましい三人暮らし。ある真夏の夜、ひとりぼっちで目覚めたぼくは、とん、たたん、とん、という不思議な音を聞く。麦ふみクーツェの、足音だった。――音楽家をめざす少年の身にふりかかる人生のでたらめな悲喜劇。悲しみのなか鳴り響く、圧倒的祝福の音楽。坪田譲治文学賞受賞の傑作長篇。
エイダン・チェンバーズ『二つの旅の終わりに』
『二つの旅の終わりに』
原題:POSTCARDS FROM NO MAN`S LAND by Aidan Chambers, 1999
エイダン・チェンバーズ/作 原田勝/訳
徳間書店
2003

版元語録:アムステルダムを訪れた17歳のジェイコブはオランダ戦線で戦った同じ名前をもつ祖父の秘密を知ることになった。祖父の青春をたどり直し、さまざまな形の恋などが展開する。 *カーネギー賞、マイケル・L・ブリンツ賞受賞

(さらに…)

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笑わっしょんなあ

廣畑澄人『笑わっしょんなあ』
『笑わっしょんなあ』
廣畑澄人/作 佐藤真紀子/絵
国土社
2003

アサギ:私ね、作品をいいとか悪いとかいうまえに、こういうお笑いの世界が理解できないの。お笑いは「きらい」だというと、うちの子どもたちは、「それは、わからないってことだよ」って言うの。だから、テーマが非常に遠くて公正に評価できなかったような気がする。さーっと読めちゃうけど、感銘を受けたわけではない。私は関西とまったく接点がないしね。それにしても、こんなにルビが必要なのかしらね。

紙魚:まず、笑いって、文章で表現するのって難しいですよね。おもしろい! というところまでは、残念ながら行きませんでした。ちょっと時代的に古い気がします。今の子どもたちにとっては、漫才ってもう古典に近い感覚だと思うんです。子どもたちを振り向かせるには、今のバラエティ番組の笑いを、書くか書かないかは別として、もうちょっと研究してほしいなと思いました。それから、高砂が、主人公のコネを使ってオーディションに受かろうとするところは、あまり好きになれませんでした。私、好きなものや好きなことに向かって進んでいくのって、すてきなことだし、実際の子どもたちもそうしてほしいなと思うのですが、できれば、自分の力で好きなことをつかみとっていくという姿勢を見せたいと思う。

カーコ:図書館司書の人に薦められて手にとりました。『笑わっしょんなあ』は「笑わせるなー」という意味ですよね。今の子どもたちが自分の将来を考えていくために、どんな物語があるかなって考えることがあるんですが、この本はそういうきっかけになる本の1つかなと思います。簡単すぎるかもしれないけれど、何かのきっかけで1つのことにうち込んでいくというのがよかった。お母さんとお父さんの関係、兄姉の関係が、昔風だけどやわらかというか、ゆるやかにつながっている家族像があって、両親が見守っている感じもいい。こういう日常の物語は、読む子はけっこう読んで日々の栄養にしていくと思うので、書き手の方にがんばってほしいですね。私は関西育ちだから、ぱっと読めますが、関東の人はどうでしょうね?

むう:私はずっと関西にいたので、違和感なかったです。ごくふつうの人が笑いをとりにいくという感じは、とてもよくわかる。ありそうだなと思いながら読んでいました。ただ、なんとなくお行儀がいいというのかな、おさまっている感じがしました。作者の意図とかそういう枠を超えてあふれ出すものが感じられない。児童文学としておさまりかえっているような。あちこちに、日本語として変だな、という違和感がありました。それにしても、『ビート・キッズ』(風野潮作 講談社)もそうだけど、関西弁というのは独特のノリがあって、それだけで感じががらっと変わってしまうんですね。

:私は、けっこうすいすいとおもしろく読みました。大阪ってボケとツッコミの世界。こんなしゃべり方は普段からしてるんだろうし、物語の流れも自然で、お父さんとの距離もよかった。「コネを使わないほうが」っていう意見もあったけど、夢のためなら、のしあがるためなら、手段を選ばずというのはよくわかった。コンビ別れするときも、コーンさんと組むためにあっさりバイバイするのも、この二人の熱の違いがわかって、その後の二人の近づき方を楽しめながら読めた。それから、学校の先生がおもしろかった。

トチ:昔だったら映画俳優に憧れていたところを、いまの子どもたちは「お笑い芸人」に憧れる。そこをテーマにしているところはおもしろいと思いました。ただ、お笑いがテーマなのに文体が生真面目で、重苦しくって、ちっとも笑えないのよね。「児文協的」っていうか。物語って最初の1行がとっても大切だと思うのに、主人公が朝起きたときからじわじわっと始まっていく。エイダン・チェンバーズは、いかに書くかということはテーマと同じくらい大切だから、この内容をどういう書き方で書くか、1つの作品について5年くらい考え、それぞれ違う文体や構成で書くって言ってる。そういうことって、とっても大事だと思うのよね。お笑いの世界を書くなら、それなりの文体や、手法があるんじゃないかな。
もう1つひっかかったのは、主人公が2世議員みたいにお笑いの世界に強力なコネのある子だってこと。なんかフェアじゃない気がする。もうひとりの、コネなんか何もない、ハングリーな子のほうを主人公にしてもらいたかった。
関西のお笑いの世界って独特の歴史があると思うんだけど、そこのところを書き込んでいってくれれば、もっと深いものになったんじゃないかしら。そこは残念。1つの職業についての話って、大人にも子どもにも興味のあることだし、特に子どもの本には大切な要素だと思うのよね。後書きの「横山やすし」だけじゃ物足りない。関西弁については、特に気になりませんでした。

アカシア:けっこう軽快に読んだんですけど、いちばん気になったのは、充がどうして漫才をやりたいのか動機や理由が書いてなかったこと。そこが原動力になって、まわりが動いていくんだろうのに。私は、望のコネは気にならなかった。『笑わっしょんなあ』っていうタイトル、東京人にはアクセントわからないから言いにくいし覚えにくかったけど、関西の人はそうでもないの? 図書館で借りようとしても、正確なタイトル思い出せなくて。あと、挿絵描いてる佐藤真紀子さんは、『バッテリー』(あさのあつこ作  教育画劇)にも描いてた人ですよね。違う人のほうが、この作品には合ってるんじゃないかな、と思いました。

ケロ:漫才とかお笑いとかのコンビを組んで友情をあたためあうって、パターンとしてあると思うんですね。書きやすいモチーフでいろんな人が書いているけど、そのなかで、この本がどういうふうにいいのかはわからなかった。ただ主人公がまじめでいい子だなという感じはするんだけど、お笑いがもつ力が出てなくて、平坦な印象でした。

(「子どもの本で言いたい放題」2003年11月の記録)


HOOT

カール・ハイアセン『HOOT』
『HOOT』
カール・ハイアセン/作 千葉茂樹/訳
理論社
2003

トチ:前から読みたいなと思ってた本で、読んだらおもしろかったです。「週刊朝日」でミステリーって紹介されてたから、その印象が災いして、誰かが殺されるのかなーなんて思いながら読んだんだけど、フクロウがどうなるかというスリルと、女子プロみたいな女の子がどうなるのかなんて、ミステリータッチでおもしろかったです。あと、こういうフクロウがいるんだなってわかっただけでも、得した気分。ただし、これは途中までの感想。謎の少年の正体がわかってからは、もういかにもアメリカ的っていうか、荒っぽい展開で、「こうなるんだろうな」と思ったとおりの結末でした。

アサギ:ストーリーが次々と展開するので、どんどん読めたんだけど、好きじゃないの。アメリカの作品のなかで、好かないタイプのグループに入っているの。風土がわかっていないというのもあるんだろうけれど。なんだかざらりとした感覚があった。理屈じゃなくて生理的に好きじゃないな、こういうの。主人公のロイは150センチでアメリカならとても小さい。小さい者が活躍するっていうステレオタイプみたいで、好感がもてない。まず、「主な登場人物」欄がよくない。ダナ・マザーソンの紹介に「頭がよくない」って書いてある。「勉強がきらい」とか「劣等生」とかって、もっと書きようがあるじゃない。

ペガサス:アメリカ的にすごく大げさにしているんじゃない? おもしろかったのはおもしろかったんだけど、この本、すごい前宣伝だったでしょ。JRの吊広告まであったのよ。『トラベリングパンツ』『セカンドサマー』(アン・ブラッシェアーズ作 大嶌双恵訳 理論社)といっしょにね。子どもの本でここまでするんだなーとびっくりした。だからとても期待して読んだんだけど、「アメリカからすごい本がやってきた」というほどすごいとは思わなかった。おもしろいと思ったのは、とにかく対比の妙を強調するところ。主人公はとにかく目立ちたくないと思ってるのに、まわりの人物がどれも強烈な個性の持主だというところがユニーク。主人公の家庭、ダナの家庭、マレットとベアトリスの家庭と、3つの家庭と親子関係が見えてきて、いろいろ考えさせる。巡査と上司、チャック・マックルの怒ってる場面とか、極端なところがおもしろい。エディ・マーフィーの映画みたいなノリよね。「走る少年」を何だろうと思わせるところもうまい。結局「走る少年」が何だったのかは、今ひとつ腑に落ちないけれどね。

トチ:これぐらいの本だったら『穴』を読める子どもにもすらすら読めるのに、近所の図書館には大人の本の棚に置いてあったわ。

アカシア:中学生になると、子どもの本のコーナーには行かないから、大人の棚でいいんじゃないの。

紙魚:装丁の魅力ほどには、おもしろくなかったです。登場人物はみんなデフォルメされていて、いまひとつ体温がないし、物語ものれなかった。でも、なんだか売れていそう。どういう人たちが、読んでいるんでしょう?

カーコ:構成も筋運びもうまいなあと思ったけれど、心に残りませんでした。ひとりひとり人物に特徴があって興味深いし、主人公の物語と、ドジな巡査の物語など、いくつかの旋律で物語をひっぱっていくのもうまいし、フクロウや環境アセスメントといった話題性もあり、次々読まされるけれど、おもしろいエンターテイメント映画を見ているみたいな感じ。それと、私は主人公と両親の関係がずっとつかみきれなくて、両者の距離に違和感をおぼえてしまいました。268ページの「両親がおやすみをいいにきたとき〜かたい絆で結ばれている」みたいな内向的な家族が、アメリカの家族像なのかなと疑問でした。フィクションとしては、マレットもおもしろいし、うまい。でも、ダナをおとしいれるところは、好きになれませんでしたね。

ケロ:この厚さでソフトカバーというのが、本の内容そのまま。ひとつの事件が解決するんだけど、それによって主人公が変わったかな。そういうのを期待しちゃいけない本なのかな。大人向けのミステリー作家だからなのか、あんまりいい子ども像がなくて、むしろ大人の描き方がおもしろい。最後の方で出てくるキンバリー・ルー・ディクソンも売名行為をしたり、端役がおもしろかった。あと、この出版社のヤングアダルト作品への力の入れようはすごいですね。ヤングアダルトというのは、子どもも大人も読んでくれるという意味で、市場があるのでしょうか? それとも中途半端になってしまうのでしょうか?

アサギ:大人の読書力が落ちてるってことかしら?

:最近、大人の小説書いてる人が子どもを書いた作品も多いですよね。

ケロ:子どもがおもしろいからなのかな? 子どもが生きにくいからなのかな?

むう:海外の本屋さんで山積みになっていて、装丁がすごく目立っていたので、一度は素通りしたんだけど、やっぱり気になって思わず原書を買ってしまったんです。作者のHPを見ても、すごい人気だと書かれていました。ハリウッドの映画にありますよね、すごくおもしろくてすごくドキドキさせるんだけど、見終わってしまったらそれでおしまいという映画。そういう感じですね。この人は職人的にとてもうまい人だから、綿密に構成されているし、いろいろとゆきとどいている。だからすらすらと読めちゃうんだけど、別に後に何かが残るわけではない。それと、この話には、ネイティブとか黒人とかが出てこなくて、話が白人の中で終始している。一昔前のぴかぴか冷蔵庫にカラーテレビ、お母さんは朝ご飯のときから小さな真珠の首飾りをして……という型にはまった憧れのアメリカを連想させる雰囲気がある。環境の話も特に深まっているわけでなく、トレンドなので使ってみましたというレベルを出ていない。全体として軽いエンターテイメントだと思います。職人芸としてのうまさがある人だから、たとえばアン・ファインみたいにこれに中身がしっかり入ったらすごいものになるんじゃないかと思います。残念。

アサギ:原書と翻訳の感じは違うの?

むう:わりと同じ感じでしたよ。軽くて。受けた印象はきちっと重なってます。カーコさんが言ってた「家族」像も同じイメージです。これで、作者にちゃんと言いたいことがあれば、おもしろかったと思うんだけど。やっぱり大人向けのミステリー作家の作品ということなんでしょうね。この本に出会って、子どもの何かが変わるという本ではない。

アカシア:私も期待して読んだんだけど、あんまりおもしろくなかった。ロイが親に心配かけないでいたいというような人物造形はおもしろかったけど。最後のところなんかも、イメージとしてはいいんだけど、環境問題でこんなに簡単に村の人たちが勝利するわけないじゃないですか。その辺は、こんなの読んで感動してちゃいけないよな、と思ったわね。でも「走る男の子」ってリアルじゃないわけだし、作者は環境問題にしてもわざとリアリティから距離をおいているのかしら? それと、ダナは最初から最後までデブの悪役として書かれてて、しかも無実の罪で少年院に入ってるわけでしょ。児童文学の作家だったら、この子を見捨てたままでは終わらないでしょうね。後味悪い。やっぱり、この人は大人の本の作家なんですね。本好きな人は読まないだろうなと思ってたら、ある図書館司書が推薦していたので、認識をあらたにしました。

きょん:私も、アメリカンな感じは苦手です。全体的には、文章がテンポよくてスムーズに読み進めましたが、この「テンポよくスムーズ」な文章が、軽すぎて苦手です。ワニが出てきたり蛇が出てきたり、仕掛けがあって、おもしろいのかもしれませんが、主人公がなかなか生き生きと動き出さなかったのが、物足りなかった。ベアトリスが出てきてやっと動き出したところで、タイムリミットとなってしまい、まだ読むのが途中です。


影の王

スーザン・クーパー『影の王』
『影の王』
スーザン・クーパー/作 井辻朱美/訳 小西英子/絵
偕成社

トチ:これは、私の大好きな作品。今回、読み直してみても、やっぱりおもしろかった。スーザン・クーパーの夫って俳優だし、本人もすごくお芝居が好きなんでしょうね。作者の芝居に対する熱い気持ちが行間から感じ取れるような作品でした。ストーリー自体もおもしろいんだけど、シェイクスピアの時代のロンドンの描写とか、お芝居の演技のしかたとか、細かく書き込んであって、少しづつどこをかじっても美味しい。本当に好きなことを物語に書くって、素晴らしいことよね。それに比べると、『笑わっしょんなあ』の作者は、本当に漫才が好きなのかな?

きょん:タイムトラベルファンタジーなのに、ナットが過去に行ったとき、あまりもすんなり入ってしまったのが気になりました。突然過去に飛んでしまったら、もっととまどったり、びっくりしたりすると思うのですが、その辺のリアリティがなかった。時代や街の描写などは、ちゃんと書きこまれていたので、目にうかぶようで心地よく、シェイクスピアのところに下宿してからは、より生き生きし始める。また、ナットの気持ちが、とても良く伝わってきて、この時代にいつまでいられるかわからないという不安感や、切なさが良く描けていて、おもしろかったです。

アカシア:私も2度読んだんですが、2度ともおもしろかった。でも日本の中学生くらいだと、バーベッジの存在もあまり知らないし、時代背景にもなじみがないので、どうなんでしょうね? 『夏の夜の夢』も出てくるし、シェイピクスピアを知ってる大学生が読んだら、とってもおもしろい。最後にアービーがナットに話をするところで、なるほどそういうことが言いたかったんだな、って納得できるし。ただ、シェイクスピアゆかりの地名の日本語表記がところどころ違ってるのは気になりましたね。

:『夏の夜の夢』のストーリーを知らずに読むのはつまらないだろうなと思いました。ナットより未来に来ちゃった子のほうが驚くんじゃないかと思うけど、それは書かれてなかったわね。

トチ:でも、頭を洗うのはいやがってたわよ。

ペガサス:ペストで面会謝絶だったから、驚いてたとしても誰も気づかないのよ。

むう:今回の本なかでいちばん心に残った作品です。原書の表紙はずいぶん不気味だったんですけれど、翻訳はずいぶん感じが違いますね。それにしても、向こうの人ってこの時代が好きなのかなあ。けっこうこの時代を書いた作品が多い。最近もフリークショーを扱った本が出たみたいですし。でもそれって、日本だと大人が読んですごくおもしろいという部分だと思うんです。向こうの子どもなら、今のロンドンを知っていて、それとの対比でおもしろいと思ったりするのかもしれない。だけど、日本ではシェイクスピアにもロンドンにもそれほどなじんでいない子が多いから、今を知ってるから昔もおもしろいという読み方ができないでしょ。そこはちょっと心配です。それにしても、主人公の受けてきた傷がきちんと書かれているし、アービーやシェイクスピアといったさまざまな「父親」と出会うことでその傷を乗り越えていく過程がきちんと書かれていて説得力があるし、それでいてアービーがいったい誰だったのか、タイムスリップがどうして起こったのかというあたりを説明しきらずに最後まで謎を残しておくあたりは、じつにみごと。思わずじーんと来てしまいました。
もうひとつ、最初の入りがとても気に入りました。演劇の世界へさっと読者をさらっていく手際の良さ。演出家であるアービーが絶対的な存在としてひっぱっていくというあたりも最初にちゃんと書かれていて、物語の入り口がしっかりしている。ここですっと入れたから、あとはほとんど一気で、最後の謎めいた終わり方に、あらためて「やるなあ!」と感心して本を閉じたといったところです。結末がわかっていても、もう一度読みたくなる本ですね。

ケロ:構成がみごと。最後にかちっとはまる感じもみごと。最初読んだときは、とっつきにくかったんですね。劇団がファミリーだとか、ふたりの先輩が劇団のなかでどういう位置付けなのかとか、つかみづらかった。むしろ大人が読むものなのかな? 男の子が内面にいろいろ感じながらパックを演じているのも伝わってくる。『影の王』という書名はわかりにくくないですか? シェイピクスピア的な存在って、日本では何でしょうね。

カーコ:古典なら、たとえば光源氏がさまざまな形で書かれていますよね。私も今回読むのは2回目でしたが、とてもよかったです。前に児童文学の研究をしている人が、「子どもの本には、人類の文化的遺産に、若い読者を導く役割がある」と言っていたのですが、この本は確かにそうですね。英語を習いはじめると、シェイクスピアって必ず出てくる題材でしょう。でも、すぐに戯曲には行けない。この本は、シェイクスピアがとても魅力的に描かれているから、へえって思うじゃないですか。芝居の部分が実によくて、客席から「その人じゃないよ。」とアドリブが出るシーンなんて最高。タイムスリップ後に平然としすぎという意見が出ましたが、私はそうは思いませんでした。みんなにばれないだろうか、このあとこの子はどうなってしまうのだろうと、サスペンスでひっぱられました。表紙は、中学生の息子の例でいえば、『HOOT』がいいって。この絵は、具体的すぎるのかも。高校生でも自然に手をのばすような装丁にしてほしかったです。

紙魚:あらすじばかりが先走る物語とちがって、じっくりと読ませてくれる本でした。単なる作家としての才能だけではなく、人間的な厚みみたいなものを感じます。というより、やはり作品って、作る人のすみずみまでの力が反映されるものなんですね。だけど、実際、子どもたちが読むかとなると、かなり難しいと思います。児童書の体裁をとっていますが、どういう人が手にとるのかな。私も絵の印象があまりよくないように思いました。

ペガサス:私も2回読んだんですが、この本って、お芝居の魅力がたっぷり描かれているのよね。400年前のセリフと今のセリフが出てくるのは、長いことロングランになっているセリフの魅力をいっているのかなと思いました。過去へのタイムファンタジーはたくさん書かれているけど、それにお芝居の魅力が加わっている。ここに出てくるセリフは、イギリスの子どもたちならみんな知っているわけよね。日本では、大学生とか、少しでもシェイクスピアをかじった人とかが読者対象なのかな。その点、イギリスの子どものほうがもっと楽しめるのは確かでしょうね。それから、気になったところがいくつかありました。27ページの「アメリカのスクールでの講習をライス・プディングとすれば、ここのはチョコレートケーキみたいなものだった」っていうのは、どういう意味かわかりにくいと思う。47ページの「シェパード・パイ」の注「羊飼いがお弁当にしたパイ」っていうのもひどいわよね。どんなパイなのか知りたいのに、これじゃちっともわからないでしょ。わざわざ注をつける意味がない。175ページの「レヴィアタン」も、リヴァイアサンだったら、そう注釈をつけるべきじゃない。あと、205ページに「かたじけのう見せてもろうたぞ」って、女王が言うところがあるんだけど、女王は「かたじけない」という言い方はしないんじゃないかしら。

(「子どもの本で言いたい放題」2003年11月の記録)


2003年11月 テーマ:男の子が主人公の本

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『2003年11月 テーマ:男の子が主人公の本』
日付 2003年11月27日
参加者 アサギ、紙魚、カーコ、むう、羊、トチ、ペガサス、アカシア、きょん、ケロ
テーマ 男の子が主人公の本

読んだ本:

廣畑澄人『笑わっしょんなあ』
『笑わっしょんなあ』
廣畑澄人/作 佐藤真紀子/絵
国土社
2003

版元語録:漫才師をめざす転校生の高砂充と漫才作家の父を持つ北野望。高砂の頼みで二人は漫才コンビを組むのだが・・・。充と望の友情物語。
カール・ハイアセン『HOOT』
『HOOT』
原題:HOOT by Carl Hiaasen, 2002
カール・ハイアセン/作 千葉茂樹/訳
理論社
2003

オビ語録:アメリカからすごい本がやってきた!!/全米書店員が選んだ「いちばんお気に入りの本」
スーザン・クーパー『影の王』
『影の王』
原題:KING OF SHADOW by Susan Cooper,1999
スーザン・クーパー/作 井辻朱美/訳 小西英子/絵
偕成社

オビ語録:ファンタジーの女王、スーザン・クーパーの最高傑作/とつぜん400年前のロンドンにタイムスリップした少年は、シェイクスピアと共にグローブ座の舞台にたつ。

(さらに…)

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GO

金城一紀『GO』
『GO』
金城一紀/作
講談社 

むう:おもしろかったです。すごい勢いで読んでしまったので、うまく感想がまとまらないけれど。この作家がコリアン・ジャパニーズだからこそ書けたと言うか、読み終わってまず、まいったなあと思いました。同じようなことでも、日本人が書いたら違っちゃうだろうし。差別される側に生まれついた人の作品だからこそ、存在自体で差別されるということが実感として読み手に迫ってくる。私はわりと社会問題には関心があるつもりなのだけれど、英語の本を読む関係もあって、黒人の差別のほうが目配りしやすく、在日の問題などは逆に知らないんですよね。でもその差別の重たさをぐいっとはねかえしていく力強さが気持ちよくて、そこが他の作品と違うように思いました。ドラマというのはどうしても矛盾のあるところに発生しやすいわけだけれど、そのドラマを、怨念とかによりかからず書いているところが、とても気持ちよかった。主人公が桜井と知り合ってから後は、「在日」であることをどうするんだろうというのに引っぱられて一気に読めたというのもあります。在日の人って韓国人としても認められない部分があるんですよね。アイデンティティの問題はほんとうに大変なんだろうなと思うけれど、この本にはそういう安易な同情をスカッとはね返すパワーがある。後味のいい作品だからこそ、逆に読者も読んだ後でそういう社会的なことまで考える気持ちになれそうな気がする。ともかく、「国家権力」という言葉が浮かずに日常におさまってしまう状況というのはすごいと思った。

:私は、この作品が直木賞とる前に、なんかのきっかけで読んだのね。これは情景描写がなくて、この男の子の感情のうねりだけで進んでいくのに、重くない。濃い内容なのに気分よく読めた作品。だから、直木賞をとったときはうれしかった。

トチ:本を読む前に映画の批評をどっさり読んでいたので、いまさら読んでも新鮮味がないかなと思ったのですが、どうしてどうしてとても面白かった。第一に主人公の両親をはじめ、登場人物のキャラが立ってるっていうのかしら、おもしろかった。実際に「在日」の友だちもいるし、「在日」の人と結婚した友だちもいるので、なんとなくわかったつもりになっていたけれど、知らないことがどっさりあってショックでした。ただ、私の好みとしては、最後に桜井とまた仲良くならなくてもよかったのに、と思いました。なんとなく、ここらへんが直木賞的。よりをもどさないほうが、すがすがしかったのでは?

紙魚:もうずいぶん前に出た本だし、映画化されたりして、読んでいなくてもあらすじをご存知の方もいると思うのですが、今回わざわざこの本を選んだのは、「これがカッコいい」という新しいイメージを強烈に打ち出した作品だからです。刊行時読んだとき、おもしろかったし衝撃的でしたが、今回読み直してみても、やっぱりよかったです。差別について考えましょうという姿勢じゃなくて、がつんと若者に伝わる文体、物語だったことが、よかったんだと思います。今、何をしたいのかとか、どういう大人になりたいのかっていう像が見えにくいと思うのですが、こういう新しい感じ方とか考え方が「カッコいい」んだというのが伝わってくるのって、すばらしい。若者には重要なポイントだと思う。なんだか小説に世界を変える力があるんじゃないかと感じられる。

むう:この主人公のように「在日朝鮮人」として民族学校で育つと、ときには20歳くらいでも日本語が拙いままといった人も出てくるんですよね。実際知り合いにそういう人がいたんですが。それってすごく堅い殻に閉じこもっている姿勢にも取れるけれど、そうさせるだけの差別が日本にはある。ところがこの本では厳しく差別されているという被害者意識をふりかざしてない。あくまでポジティブだから、在日ではない人、それほど社会問題に対する意識の強くない人の心にも迫ってくるんだと思う。

ペガサス:装丁の感じや映画の宣伝などから、もっとずっと熱い話だと思ってたのね。でも、ものすごく真面目で、第一印象とは違った。おもしろかったんだけど、青春小説としては、もっとユーモアがあってもいいかなと思った。リアルなところとしては、はじめて会った人と、会話をかわすわけでもないのに、空気感を感じる様子がうまく伝わってくると思った。どのシーンも印象に残るので、映画になるのもわかる。ジョンイルが死んでしまうところなんかも、三人称を使ってうまい書き方だと思った。

アカシア:私は、おもしろかった。何年か前に、アフリカ人や韓国人の文学者と「在日」の文学者が集まってシンポジウムがあったのを聞きにいったんです。アフリカの作家たちは、多くの場合母語で作品を発表することができなくて、英語やフランス語など旧宗主国の言葉で書いてるんですね。だから不自由は不自由なんだけど、自分たちの英語、自分たちのフランス語で書けば、そこら辺のへなちょこイギリス人作家やフランス人作家が書いたものよりもっと面白いものができるっていう、いわば開き直りの誇りみたいなのがある。でも「在日」の人はなかなかそういうふうに思い切ることはできないらしいし、そこに来ていた韓国の作家たちも、まず「怨」を語っていた。差別されてきた歴史を初めに言う。日本人があまりにも無知だから、そこを言わないと共通の基盤で理解しあえないからなんでしょうけど。学校で昭和史をちゃんと教えないと、日本人は国際人になんてなれっこないな、と思いましたね。でも、今の日本の若い人たちが「怨」の文学をつきつけられても、何のことやらわからないでしょうから、『GO』のような作品はありがたいな、と思いました。でも、もしかしたら、そのシンポジウムに出てた作家たちからは、金城さんも「差別への闘い」がないって批判されたりするんでしょうか?
気がついたんですけど、金城さんは、〈在日〉〈韓国人〉〈在日朝鮮人〉〈在日韓国人〉〈韓国系アメリカ人〉っていうふうに、全部カッコをつけてますね。普通の言い方では人間の本質は語れないっていう意識があるんでしょうね。日本人の女の子である桜井は、「在日」だろうとなんだろうと杉原の「その目」に惹かれているっていう設定がリアル。それから、今の日本の男の子って、どう生きたらいいかわからなくて大変だと思うんですけど、『池袋ウエスト・ゲートパーク』(石田衣良著 文芸春秋)や『GO』は、一つのロール・モデルを提供してるような気がします。ただね、どちらもちょっとマッチョ系のかっこよさだけど。
もう一つ、私は文章にユーモアがあると思いましたね。タワケ先輩のあだ名の由来とか、「ノルウェイ人になることにした」とか、「マルクスの悪口は言うな。あいつはいい奴なんだよ」とか、フフフって笑っちゃった。

ペガサス:まじめに書いてるところが逆におもしろいという感じはあったけど、私は表現におもしろいところが少ないと思ったの。お父さんのおもしろさが、映画の山崎努とは全然ちがうと思った。

トチ:窪塚もこの本の主人公とはイメージが違うわね。

アカシア:どうして『GO』という書名なんだろうと最初は思ったんですけど、読んでいるうちにわかってきました。作品のなかに「行く」という言葉が大きな意味をもつ箇所が4つくらいあった。最初は暴走族とにらみ合ったとき、タワケ先輩に「行け」と言われて独りでつっこみ、ボコボコにされるところ。そしたらタワケ先輩には「本当に行く奴があるかよ。おまえ、クルパーだな」って言われるんだけどね。二つ目はタワケ先輩との別れの場面で、タワケ先輩が姿を消す前に僕の背中に向かって「行け」と言う。三つ目は元秀(ウォンス)が「行けよ。ぶん殴るぞ。俺はおまえの生き方が気に入らねえんだ」と言うので見ると、元秀は泣き笑いのような顔をしてた、というところ。そして最後は、桜井がこれまで見たこともないような微笑みを浮かべて、僕に「行きましょう」というところ。"GO"っていうのは、作者が自分にも仲間にも向けた言葉なのかもしれませんね。

トチ:私の「在日」の友だちとか、その子どもたちはけっこう海外へ行って暮らしたりしているけど・・・・・・

アカシア:でも国籍変えれば違うんでしょうけど、日本の法律にはいろいろ制約があって入国出国ともに大変みたいですよ。

ケロ:この本は、出たころに一度読んでいたのですが、主人公と「桜井」とのことだけがイメージに残っていて、今回読んで、それ以外のところが結構重かったので、ちょっとびっくりしました。この小説が、「差別」ということを大上段に振りかざした小説でなく、若者のドラマとして読めたからでしょう。読み返してみて、あらためて私は、桜井がきらいだなと思いました。自分の名前を言わないとか、思わせぶりな態度がハナにつくし、あげく、「名前が椿? えっ、だからー?」という感じでした。こんなに桜井を嫌わなくても良いようなものだけれど、もしかしたら、杉原がカッコよすぎて、嫉妬していたのかも…(とかいって、よく考えたらわたしゃ、杉原の母親と同じくらいの年齢だぞ〜)。そのくらい、杉原はカッコよかった。カッコよすぎてこんなやついるか!というくらい。この小説の全体に流れる「カッコよく生きる」というか、「カッコいいもんさがし」っていうのは、いいですね。

ペガサス:男の子って、とにかくカッコいい男になりたい、っていうことしか考えてないのよね。

ケロ:若いときにいくつカッコいいものに触れられるかって、とても大きいですね。自分がどう生きていくかを考えるとき、とても大事なことだと思う。

ペガサス:あと、携帯電話がない恋愛小説っていいわね。新聞とペンを買って電話番号を交換するじゃない。

アカシア:連絡したくても、しないで我慢してるなんて、今はないものね。

:直接言いたくないことは携帯メールで伝えればいいしね。

アカシア:手軽にメールですませてると、結晶する恋愛なんてできないと思うけどな。

紙魚:会えない時間が愛を育てるというのに……

(「子どもの本で言いたい放題」2003年10月の記録)


11の声

カレン・ヘス『11の声』
『11の声』
カレン・ヘス/作 伊藤比呂美/訳
理論社
2003

トチ:内容はとても良いし感動したけれど、決して読みやすいとは言えないですね。11人という数はかなり多くて、すぐに誰が誰だかわからなくなる。ヴァージニア・ユーワー・ウルフの「バット6」(未訳)という作品も、ふたつのソフトボール・チームのメンバーの手記で構成されていて、内容はとても素晴らしいんだけど、ともかくわかりにくかった。アメリカではこういう書き方の小説が流行っているのかしら。読者がそれぞれの登場人物の語りを想像力でつないで物語を作っていくわけだから、相当の読書力がないと、なかなか理解できないでしょうね。クークラックスクランに入っていた男の子が、だんだんに変わっていくさまが、ひとつの大きな物語になっているわけよね。でも、大人の男の人たちの違いが特にはっきりしなくて、ごっちゃになってしまう。

ペガサス:写真も古いし小さいから、はっきりしないのよね。

トチ:帯には、ヘレン・ケラーとの文通なんてうたわれてるけど、手紙を受け取っただけだわよね。志は高いけれど、それに読者がついていけないという感じ。内容的には、文学的な志にしても、伝えたいことの志にしても、私みたいによき読者じゃないと、意が通じない。詩人が訳したものにはどうしても遠慮があって、訳語がどうこうとこっちも言いにくいけれど、エステルの言葉遣いに違和感があったわ。セアラも「妙な話し方」と言っているけれど。

ケロ:「いったです」とか。

アカシア:セアラは少しネジがゆるんでるっていう設定だから、わざとそういう言い方になってるんじゃないかな。

ブラックペッパー:私は、ユダヤ系だから英語が上手じゃないのかと思った。

アカシア:小さな子はすぐに上達するから、それが理由ではないんじゃない?

ペガサス:ピュアな存在には思えるけど。全体に、ちょっと芝居を見てる感じよね。最近見た新劇で、1つの場面に入れ替わり立ちかわり人が出てきて、それぞれに全然違うことを言うので最初は意味がわからないんだけど、だんだんそれが1つの事件に関係してるとわかってくるっていうのがあったの。これも、そういう感じなのよね。題名が『11の声』っていうから、ドキュメンタリー風なものを予想していたんだけど、原題はWitness。だったら、もっと初めに事件があったほうが、よかったんじゃないかな。なんなんだかよくわからなくて、行きつ戻りつ、読むのが難しかった。この時代のアメリカに興味はもったんだけど、そういう興味がなければ、子どもにおもしろいから読んでごらんとは言いにくい。子どもはおもしろいと思うかな? 英語で読むのと、翻訳書として日本の若い子が読むのでは、ずいぶん隔たりがあるように思う。試みとしてはおもしろいけど、それも作者が思っているほど日本人の私たちには届きにくいのではないかしら。

アカシア:私はすごくおもしろかった。アメリカの社会にいろんな立場の人がいるっていうのが、よくわかった。この作者は、まあいわば性善説ですよね。そして、いろんな人が1つの社会をつくらなければならない状況で、どうしていったらいいのかを複合的な視点で描いている。ひとりひとりをもう1度見ていくと、それぞれにドラマを抱えているのもわかってくる。ただ原文は口調や言い回しにそれぞれ特徴があるのかもしれないけど、日本語だけだとそれがあまり浮かび上がらないので、いちいち人物紹介と引き合わせながら読まなくちゃいけない。やっぱりそれは大変でしたね。

ペガサス:芝居ならもっとわかりやすいけど、これは浮かびあがるまでに時間がかかるじゃない。

トチ:ひとりづつ、もう一度たどって読み直してみればわかるだろうけど、通して読んでいると間違えちゃうのよ。

アカシア:たしかに子どもが読むにはしんどいかもね。高校生くらいでアメリカに興味がある子だったらおもしろいと思うけどな。

ペガサス:この写真も、アメリカの子が見ればもうちょっと特徴がわかるかもしれない。日本の子どもだって日本の大正時代の風俗だったらわかるけど、これ見せられても一人一人の特徴はわからない。そういうところがハンディだよね。

トチ:時代背景だってわかりにくいからね。あと、タイトルを変えちゃったのも問題よね。

ペガサス:いろんな声が聞こえてくるってだけじゃないのよね。

ケロ:一つのドラマとしてみたとき、もうちょっと盛り上がりがほしい気がしました。また、みなさんのおっしゃるとおり、登場人物が一人一人浮き立ってこない。写真があるのに、ジョニーはあまりいい男じゃないとか、そのくらいしかわからない。わざとわかりにくくしているのかな? でも、会話だけというのは、少し距離を置いて読めるところがあるなと思います。夫婦のボケとつっこみもおもしろいし、エステルを預かるセアラが、差別について意識していく過程もわかりやすいですね。わたしは、レアノラとフィールズさんの関係で、フィールズさんが分かっていてくれているのが感じられるところが、とても好きでした。あと、202ページで、死んだはずのジョニー・リーヴスが生き返っているかのようになっているのは、どうしたわけなのでしょう?

ブラックペッパー:「念」みたいなものかしら。

むう:この本には、KKKで実際に人を吊したり殺したりする極悪人は出てこないですよね。出てくるのはちょっと気の弱いところもあるジョニー・リーブスくらいで。

アカシア:北部が舞台なので、KKKも南部ほどしっかりした拠点がなかったんでしょうか。

ケロ:「差別する人」に特定性はなく、ごく一般の、尻馬に乗っちゃう人の集まりだってことですよね。

むう:それを書くのがうまいよね。

ケロ:だから、わざと登場人物が、わかりにくく描かれているのかな? 「一般人」ということで。

トチ:帯には「アメリカの良心」ってあるけど、ちょっときれいごとすぎるんじゃない?

アカシア:ふつうのアメリカ人のなかには、今のイラク戦争についても疑問視してる人はたくさんいると思うのね。アメリカの良心はどこにいったかと憂えてる人にとっては、こういう本にも存在価値があるんじゃない?

ブラックペッパー:最初は、この人はええっとだれだっけ、とやっていたのですが、途中から細かいのを見るのはやめて、自分のインスピレーションで読んでしまいました。全体の雰囲気とか空気がそのおかげでわかったような気がする。『GO』と共通して思うのは、「人間ってやつ……」はほんとにもう、ってことです。どうしてこんなに生きにくくしてしまうんだろう。KKKもよく知らないのだけど、その辺共通の印象を受けるってことは、パワーがあるからかな。ただ、ぐぐっと中まで入って何かもわかるというタイプの本ではないですね。

むう:ロイス・ローリーにも古い写真をもとにつくった話(『サイレントボーイ』中村浩美訳 アンドリュース・プレス)がありますね。古い写真は作家の創作意欲を刺激するのかもしれないけれど、子どもが読むとなるとちょっとしんどいかな。

ブラックペッパー:あんまりつきつめなければ、読めちゃうかも。理解度は低いかもしれないけど。

むう:なんといったらいいのか、この本には自信満々の悪という人間がほとんど出てこなくて、それでいて悪いほうにぐっとうねっていき、すれすれの所まで行くかと思うと、そこから立ち直る。その流れをきちんと描けている点が、すばらしい。別に全員が個性的だったりするわけではなく、ごく普通の人たちなのだけれど、ひとりひとりがリアリティを持った個人としての声で語っていて、そういう声がいくつも集まって大恐慌時代の小さな町の差別がらみの事件を語るから説得力がある。それと、この構成力に感心しました。翻って今のアメリカを考えたとき、ブッシュを支持してない人がたくさんいるとはいっても、マスコミを通して伝わっていることと、ここに書かれているようなアメリカの良心とはどうつながるのかなあ、と考えてしまう。もうひとつ、エステルの言葉などを見て、いったい原文はどういうふうに書かれているのだろうと、とっても気になりました。

紙魚:部分的な地図をわたされて、それをつなぎあわせて1枚の地図にしていくのがしんどい読み物ですね。バスの中で読みながら、めんどくさいながらも何度も人物紹介ページをめくっていたのですが、途中であきらめて、あまり厳密さを求めない読み方にきりかえたところ、なんだかそれぞれの差別の認識のちがいがうかびあがりました。バスの揺れも影響したんでしょうか、それがまた乗り合わせたバスの乗客たちと重なって、不思議な心地になりました。エステル・ハーシュがかわいらしくて、彼女の言葉に導かれて最後まで読んだようなものです。

アカシア:あとがきを読んでわかったんですけど、伊藤さんが最初から訳しているんじゃなくて、ほかの人が全体の下訳をしてるんですね。

トチ:翻訳って仕事は、原文を読むところから始まっていくのに……。

アカシア:下訳者がまず最初に解釈をして……

むう:いったん他の人が解釈したものをもう一度解釈することになるから、いわば重訳になってしまいますよね。
『11人の声』では、町のほとんどの人は、KKKみたいな大上段に振りかざした信念でなく、結局は自分の日常の感覚にこだわって動いていますよね。だからどうっと雪崩を打ってリンチ!とならない。雑貨屋の夫婦の場合でも、おじいさんは簡単にKKKにかぶれるけれど、おばあさんはそれまでの周囲の人との関係の中で培ってきた感覚を大事にしようとして、結局はおばあさんの路線に落ち着く。『GO』の中でも、主人公は頭でっかちにイデオロギーや運動に絡め取られるのではなく、日常を生きている個人としての実感に立脚して動いている。あのたくましさや明るさはそこから出てきてると思うんです。この2冊に共通して、社会というのは高邁な思想やなにかで動いていくのではなく、日常に根を張って地べたを這いずるように生きている人々が集まって動かしていくんだ、という視点があるような気がします。
*『11の声』の翻訳については、理論社編集部から以下のようなご指摘をいただきました。「言いたい放題」だけをお読みになって誤解なさるといけないので、こちらもお読みください。
 前回、同じカレン・ヘスのOut of the Dustを伊藤比呂美さんが訳したときにも、主人公のビリージョーと同年代ということで娘さんに下訳を(アルバイトとして)やってもらったそうです。もちろん英文読み自体は訳者本人もやっているのですが、その下訳文が日本語として青臭くてすごくおもしろく刺戟になったということがありました(といってもそこから詩人の語感でどんどん手をいれていくのですが)。そういったいきさつは、前作『ビリージョーの大地』の「あとがき」には少しくわしく書かれています。その流れがあって今回も娘さんに下訳をたのんだわけです(理論社編集部)。

(「子どもの本で言いたい放題」2003年10月の記録)


2003年10月 テーマ:11+1人の声

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『2003年10月 テーマ:11+1人の声』
日付 2003年10月23日
参加者 むう、羊、トチ、紙魚、ペガサス、アカシア、ケロ、ブラックペッパー
テーマ 11+1人の声

読んだ本:

金城一紀『GO』
『GO』
金城一紀/作
講談社 

版元語録:広い世界を見るんだ―。僕は“在日朝鮮人”から“在日韓国人”に国籍を変え、民族学校ではなく都内の男子高に入学した。小さな円から脱け出て、『広い世界』へと飛び込む選択をしたのだ。でも、それはなかなか厳しい選択でもあったのだが。ある日、友人の誕生パーティーで一人の女の子と出会った。彼女はとても可愛かった―。
カレン・ヘス『11の声』
『11の声』
原題:WITNESS by Karen Hesse, 2001
カレン・ヘス/作 伊藤比呂美/訳
理論社
2003

オビ語録:1920年代、黄金期のアメリカ 小さな町で何が起こり人々は何を考えたのか 普通の人々の中に息づくアメリカの良心とは?

(さらに…)

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4TEEN

石田衣良『4TEEN』
『4TEEN』
石田衣良/作
新潮社
2003

トチ:今回は私とカーコさんが選書の係です。『4TEEN』と『永遠の出口』は「本の雑誌」で、たしか今年上半期のベストテンの中に入ってました。この会ではいつも一般書と児童書の境目が話題になるので、そのことを考えるには最適の2冊だと思ったのね。特に『4TEEN』は作者がテレビのインタビューで「私はいつも子どもを応援したい気持ちで作品を書いている」と言っていたことと、本について語る語り口が私の考える児童文学者の語り口そのものだったことから、今回選んでみました。さて、この『4TEEN』は、文章に透明感があるし、特に過食症の少女を書いた章など、ティーンエイジャーの恋愛を描いたもののなかでも最も美しいもののひとつではないかと思いました。ただ、一篇ずつ書いたものを後で本としてまとめたせいか、最後のほうは作者の生の声が出すぎていて、いただけなかったですが……「月島」という舞台も魅力的に、よく描けていた。好きな作品ですね。

:文章がすごくうまい。エイダン・チェンバーの対談相手に石田さんと交渉中らしいんだけど、何を話させるつもりなのかしら。そんなことを考えながら、私は読者に何を期待しているのかという視点で読みました。お父さんが過失致死になっちゃうでしょ。あの辺で、読者は子どもじゃなくて大人だなと思ったんですね。だから、チェンバーズと石田さんの読者は重ならないなあと思いました。子どもたちも読める文章ではあるけれど、石田さん自身が、むちゃくちゃな青春時代を過ごしてきた人だろうから、もっともっと書けるはず。でもきちんとしすぎてる。整合性がありすぎる。心の闇みたいなものが出ていないところが物足りない。整理してしまったなかの青年記という感じがしました。自転車が届いちゃうところなんかも、日本の作家のウェットさを感じました。

カーコ:スッとおもしろく読みました。それぞれ家庭環境も性格を違うけれど、4人がどこまで行っても文句なく友達だというところに、『トラベリングパンツ』(アン・ブラッシェアーズ作 大嶌双恵訳 理論社)との類似性を感じました。いいとか悪いとかではなくて、現実の子どもたちを温かく見つめて描いている感じ。でも、友達の病気とか、癌のおじさんのエピソードとか、あまりにたくさんのことが起こりすぎて、おとぎ話みたいな印象がありました。このあたり、同世代の読者はどう感じるのかなと思って、中2の息子に読ませたら、「おもしろかった。現実味がある。キャラ設定がうまい。こういうやつはいそうという気がした。自分はナオトがよかった」と言うんですね。

ペガサス:おもしろかったです。表紙もいい感じ。映画の「ウォーターボーイズ」もそうだけど、男の子の世界っておもしろくて。こんな子いそうって男の子がいて、章ごとにまとまっていて、一瞬一瞬切りとった感じはうまいんだけど、全体としての方向性は弱いかなと思いました。中学生が読めば、その世代の言葉とかが描かれているので共感をよぶと思う。いちばん成功しているのは、月島の空気感がすごくよく書かれてること。

紙魚:私は、おとぎ話でいいと思います。本を読んで、多少「こんなことってないよなあ」と思っても、少しでも「生きていくのって、悪いもんじゃない。なかなかいいもんだなあ」と思えることができれば、それがいちばん大切。この本は、まさにそういう本でした。私はもともと石田衣良さんの熱狂的なファンですが、これまでの著作のなかでも、圧倒的に好きです。石田さんの小説の登場人物には、しぜんと愛着を持ってしまうのですが、その愛着が本のなかだけにとどまらず、実生活のまわりの人たちへの愛情にひろがっていくような感じになるんです。

せいうち:かつて14歳の男の子だったぼくは、単純におもしろいというよりは身につまされて辛かったです。今となっては、なんてばかばかしいことにとらわれていたんだ、と思いますけど。子どもの世界の狭さというものが書かれていたような気がします。大人は簡単に夢をもてと言うんだけど、子どもは身の丈をわかってるんですよね。子どものとき、若いときって辛かったんだということを思い出しました。俯瞰でみると、おもしろいかもしれないけど。ぼくは単純に14歳に戻った気分で読んでしまったので、本を読んでいた電車を降りるとき、不思議な感じがしましたね。今の子に向けて書いているんだろうけど、20数年前の中学生が読んでも、普遍的にわかる部分がありました。自分が14歳のときに読んでいた本と違うのは、軽みを感じたこと。昔の本は、もっと現実から遠かったですよね。その子の将来の基本、あったらいいよねという基盤をつくる本が多かったと思います。書き手が歩み寄ったんでしょうか。これで、これからは今までとは少しずつ違う人間ができていくんだろうなあ、という寂しさもありますね。

愁童:たしかに文章はいいし、読後感はさわやかだし、印象は悪くないんですけど、直木賞と言われると、ちょと物足りない感じ。地元の読書会では、『永遠の出口』は微妙な年代差を理由に共感しない女性が多かったんだけど、『4 TEEN』は好感度が高かったですね。これは、ある意味で、女性からみた理想の少年像じゃないのかな。

紙魚:たしかに、石田衣良さんって、ホストになったらすごくもてそう。女性の感情の機微をとらえてますよね。

愁童:これって、様式美みたいな感じ。実際の男の子って、もっとどろどろしたところがあったり、理由無き反抗みたいなイライラ感の中で生きてると思うんだよね。そういうの、もてあまし気味で苦労してる母親って結構いるから、これだけさわやかにぴたりと決まった少年像を提示されると、ほっとして作品への好感度は高くなるだろうね。

紙魚:直木賞受賞後の記者会見で、記者たちが、最近多発している少年犯罪についての質問を浴びせたんですが、石田さんは、「子どもたちの力を信じたい」というようなことを言ったんですね。このところ、そういうまっとうなことを言う大人がいなかったので、とても気持ちよかったです。

せいうち:ぼくは男だからか、カッコつけようとしてもカッコわるい情けなさみたいなものはわかった。

アカシア:「月の草」の章なんかはあまりリアルだとは思わなかったんだけど、敢えてカッコつけて書いたと考えれば、これもリアルなのかもしれませんね。少年たちの若い世界観や正義感、それに今いる場所からどこにもいけない不自由さなんかはよく出てる。『スタンド・バイ・ミー』(スティーヴン・キング作 山田順子訳 新潮文庫)を思い出しましたが、4人のキャラがくっきり描かれていておもしろい。

愁童:まあ、そうだけどね。ぼくは、「歌舞伎町」っていう既成のイメージによっかかって書いてるなって感じがしてね。ちょっと…。

トチ:私は子どものころ親に黙って中野から新宿のけっこうディープな界隈に冒険に行ってたから、ここで作者が「歌舞伎町」って書いた感じ、よくわかるわ。

せいうち:ぼくの場合は、奈良市から郡山市でした。

むう:『永遠の出口』より子どもの目線に近い作品だと思う。とてもおもしろく読めました。確かにおとぎ話だし、いたって好都合にできているけれど、それでいいんじゃないかと思う。今の子どもたちの思いをすくい取っているとも思うし。最初の章で重力のことをGとか、ヒットエンドランみたいな笑顔とか、私にすればとても今風の言葉がどんどん出てきて、時代に置いてきぼりを食らったようなショックを受けたけれど、読み終わってみればそういう恐れは杞憂だった。今回の3冊のなかでは、いちばんぐちゃぐちゃと考えながら読みました。4人を主人公にして章ごとに時代を象徴するトピックが盛りこまれているのに気づいて、今度はどんなトピックだろうと考えるのも楽しみでした。もともと、ひこ・田中さんの『ごめん』(偕成社)みたいに、この年代の男の子が描かれているものが好きなんです。たしかに大人にも受け入れられるきれいなところだけを集めたからこういうかたちになっているんだろうし、「十四歳の情事」なんかいかにもカッコよすぎ。でもそれはそれでいいんじゃないかと思う。必ずしも大人が子どもの全部を理解していなければいけないとは思わないし、大人が誤解していても、それはそれで幸福な誤解というのもあって、そのなかで子どもがちゃんと育つのならいいと思うから。「ぼくたちがセックスについて話すこと」の章で、同性愛者のカズヤに対して、「だってカズヤが誰を好きになるかなんて、考えたらどうでもいいことだからね」と突き放したような優しい物言いがあって、さらに最後でカズヤがバレンタインにたくさんチョコレートをもらうという落ちも気に入った。ただし、最後の「十五歳の旅」の章はいただけない。特に最後の数ページは蛇足。こういう時代があったことをいつまでも忘れないでいようなんて、今を生きている少年たちがそんなこと言うかよ、という感じ。これでそれまでのいいイメージががらがらと崩れちゃった。なんだ、大人目線の懐古趣味じゃないかって。残念です。

:私は住んでいるところが月島に近いので、それがきちんと書かれていて雰囲気がよく伝わってきた。高校生だとやめて働くような出口があるけど、中学生くらいでは、そこでしか暮らせない感じはよくわかる。さわやかすぎるかもしれないけど、それでもいいかなと気持ちよく読める。この子たちには大人との接点があまりないけど、中学生くらいって、親ってそう身近に存在してなかった。友だちと「昨日、親と何回話した?」っていう話が出て、「おはよう」しか言わなかったのを思い出したこともある。さっき、歌舞伎町が意味があるかって話になったけど、同じ本を買うのでもある街に行って買うことが大事だった時代を思い出す。

ブラックペッパー:今回の3冊はどれも読みやすかったのですが、『4TEEN』は遠くから見てる感じで、あんまりひりひりするようなものは伝わってこなかった。上手すぎて、すーっといっちゃう。たまたま、テレビの「真夜中の王国」に石田衣良氏が出ていて、司会の鴻上尚史が、「この本、事実関係でちょっとまちがってるとこがありますよね」って言ったんです。「ストリップの場面で『誰も見てない』って言ってるけど、『ひとりは見てる』でしょ」って。実際はふたり見てるんですけど、石田氏は「いいんですよ。小説は生きものですから」って答えたのが、すごくよかったんですよ。不遜な感じもなく、力が抜けてて……。ゆとりある風情でした。修行時代には、1日に3冊読むことを決めていたとか、励んでいたらしいんですけど、なんだか新しい人だなあと思いました。ところで、石田衣良の名前の由来って誰か知ってますか? 本名なの? 大島弓子の『バナナブレッドのプディング』(白泉社)に「いらいらのいら」っていうのがあって、それからとったのかと。

紙魚:たしか、本名が石平(いしだいら)さんっていうんですよね。

アサギ:朝日新聞の書評で、川上弘美がほめてたでしょう。こんな文章を書く人がいるなんて信じられないというような書き方をしていたのね。私、川上弘美が好きだから、すぐにこの本読んだんです。私ね、これは大人の書いた14歳の少年像だと思ったの。だから子どもは共感するかどうか疑問だったのね。綿矢りさの『インストール』(河出書房新社)は、17歳が17歳を書いているでしょ。あれは、私には全くわからなかった。でも、この『4TEEN』の14歳は、ずっとわかりやすかった。その違いはなんだろうと考えたんだけど。たとえば『4TEEN』は、ページを開いたときの字面だけで大人が書いたと思う。あと、さっき話題になった歌舞伎町については、私にはリアリティがあったわ。子どもの行動半径は狭いからね。ブラックペッパーさんがおっしゃった「いいんですよ」っていう話について言うと、ドイツの本も細かいところは間違いだらけなのよね。紅茶と珈琲が話の途中で入れ替わっていたりね。でも編集者は、「そんなこと本質的じゃないから」っていうのね。ドイツの読者も気にしないらしいのよ。

(「子どもの本で言いたい放題」2003年9月の記録)


ヘヴンアイズ

デイヴィッド・アーモンド『ヘヴンアイズ』
『ヘヴンアイズ』
デイヴィッド・アーモンド/作 金原瑞人/訳
河出書房新社
2002

:フライトニング・フィクションという、読者にエモーショナルなリアクションを起こさせるジャンルでは、デイヴィッド・アーモンドは非常に評価が高いのね。ポジティブなフライトニングをもってきてるんですよね。『肩胛骨は翼のなごり』(デイヴィッド・アーモンド作 山田順子訳 東京創元社)でもそうでしたが、この作品の中でも水かきのある少女とかグランパとか、ゴシック的な要素を読者が美しいものとして捉えられるポジティブな方向にもっていっている。心のなかにハッとさせる、現実とはちがう領域をつくっている。現実の中の非現実にリアリティがある。金原さんの訳もうまい。でもいっぱい難点はあって、たとえば親から遺棄された子どもたちの施設で働くモーリーが子どもの世界をわかっていないというあたり、単純な図式ですよね。子どもの世界を美化したロマン派の児童像を踏襲している。でも、難点はあっても、私は好きな作家です。

カーコ:ふしぎな読後感のあるお話。出てくる人もふしぎだし、お話もふしぎだし。おもしろいなと思ったのは、視点の置き方。一般の人々の中で生き難くて、筏にのって冒険に出る子どもたちは、最初、自分達対大人という世界で苦しんでいるのだけれど、グランパと出会って、グランパの目で、一般の人間や世界を見ることを迫られますよね。さらに、ヘヴンアイズの独特の視線が交錯する。自分だけじゃ気づかなかった視点で、ものを見ていくでしょう。ただ、誰にでも薦められる本ではありませんね。出会うべき子が出会ったら、印象に残る作品でしょう。

ペガサス:ひとことで言えば奇妙な読後感。なんで奇妙かっていうのは、カーコさんの話を聞いてわかった。『肩胛骨は翼のなごり』もそうだけど、ほかのどの作家にもない奇妙さにオリジナリティがある。子どもだけが体験することのできる、現実なのか非現実なのかわからない状況を描くのがうまいと思う。優しくてせつないというか……。文体も奇妙で、1文が短く、一見関連性のない文が次に来ることがある。はかない雰囲気を出しているのだろうか。意図的につくられているのかな。静かな心にしみる描写がところどころにあって、どんどん読む作品というよりは、合間合間に何かを見せてくれる物語。

紙魚:感想が言いにくい物語です。ともに筏で川をくだり、へヴンアイズと時間をともに過ごした感覚が残っているような不思議な体験でした。泥がまとわりつく感じとか、非常に体感的なんですよね。その筆力がすごいなと思いました。行間にとじこめられている匂いとか空気が、とても濃厚に感じられ、読後、その世界に包まれている感触が残りました。

せいうち:ぼくは、途中までしか読めなかったので、本質をつかめていなかったのが残念。

愁童:ちょっと方向は違うけど、宮沢賢治の作品の作り方に重なる部分があるような気がした。個性的な風景描写で、その中に登場人物の内面をさりげなく投影しちゃう。泥炭地の描写もいいね。

トチ:情景描写っていうより心象風景よね。

アカシア:このへヴンアイズは、『肩胛骨は翼のなごり』のスケリッグと同じような存在として書かれているのよね。でも、隔靴掻痒観というか、しっくりこない感じがあった。たとえばこの女の子の「だねだね」っていう口調が、すごく気になったの。スケリッグと同じイメージだとしたら、「だねだね」じゃなくて、もっと透明な存在を思わせる口調じゃないのかな? 奇妙な感覚ってしっくりくれば楽しめるけど、そうじゃないと読者の気持ちを遠ざけちゃうでしょ。原書で読んだらその奇妙な部分がもっと楽しめるのかな?

むう:原書を持っていたので、照らし合わせながら読みました。ひとつにはやはり「だねだね」口調に違和感を持ったのでそれを調べたり、あと何カ所か意味がよく掴めなくてそれを原書に当たったり。「だねだね」は、原書で言葉を重ねているところをそう訳しているみたいだけれど、ちょっと甘ったれた感じになってしまっている。出来事がどんどん起こってその勢いで読ませるタイプの本なら多少の不鮮明さがあっても大丈夫だけれど、イメージでつなぐタイプの本だと、一カ所不鮮明に訳したがために全体のイメージが不鮮明になることがある。この作品はぷつぷつと切れていながらつながっていくところに味があるタイプの作品。それがアーモンドの持ち味なんだと思うけれど。これを訳すのは大変だったと思う。
 それにしても、あとがきの「ハンカチの用意を!」というのはちょっと違うと思います。『肩胛骨〜』もそうだけれど、これもひゅうひゅうと寒い感じや、汚いものが書かれているにもかかわらず透明感を感じさせる作品であって、そこが、アーモンドらしい。ハンカチが必要になるような熱いものじゃない。この人が異形の者を使うのは、この世界、つまり現実とは違うという印なのかな。『肩胛骨〜』もそうだったけれど、聖人の書き方なんかもデリケートで、現実と非現実の間をたゆたうように行ったり来たりするところがほんとうにうまい。それと、いつも縁のところにいる者に目線があっているのがいい。ただし、最後の施設に帰ってからのところはどうなのか、よくわからなかった。あくまでもあくの強い主人公の目線で書かれているということからすると、ジャニュアリーの話よりも、モーリーンがヘヴンに慰められるところなんかがよかったと思う。ともかくすごい作家だと思う分、訳のことは気になった。

ペガサス:じゃ、ヘヴンのしゃべりかたは、舌ったらずなわけじゃないのね。

むう:うん。違うと思いますよ。

:よく考えてみれば、家出して向こう側に日常の世界が見えているわけですよね。ひょっとしたら違う世界に入っていくお話かと思ったら現実になったり、妙な世界にひきこまれたり、落ち着かない気分だった。泥のべたつく感じは、読んでいてすごく伝わってきた。グランパとヘヴンアイズの関係はどうなってるの? 痴呆症っぽいおじいさんが、ヘヴンアイズを拾ったってことなのよね?

一同:うんうんうん。

:妙な空気ばかりが残ってしまったわ。

ブラックペッパー:私はこの訳はひっかからずに読めました。ヘヴンの言葉もおかしいなとは思ったけど、読めちゃった。最後はどうなるかなんてことは気にせず読む物語。強く思ったことが2つあって、コンビーフとチョコレーはもうしばらく食べなくていいな(彼らがコンビーフとチョコばかり食べてるから)っていうことと、謎を解明したくなる気持ちが強いってこと。グランパとヘヴンアイズの正体はいかに?

すあま:夢に出てきてしまいました。最初、ジャニュアリーは「いまここにはいない」と書いてあるので、死んでしまうのかとずっと気になっていました。ジャニュアリーだけは馴染めないようなので心配してたのに、最後お母さんが迎えにきたので、なんとなく拍子抜けしてしまった。ヘヴンアイズは、カッパの女の子を思い描いてしまった。魚っぽい感じかな。でも、意外ときれいに収束してしまったのが、気になりました。ふしぎな世界の話って、もやもやとしたものが残るのに、水かき以外のことはきれいに片付いちゃった。超現実のようでリアリティがある話になってしまった。

トチ:アーモンドが書いているのは、『肩胛骨は翼のなごり』(ああ、なんて変な邦訳タイトル!)にしても、この作品にしても「奇跡の物語」なんじゃないかしら。普通だったら嫌悪感をもよおす人物や物体が奇跡を起こす。『肩胛骨〜』では、それが納屋にいるホームレスのような男だし、この作品では泥の中から出た死体というわけ。だから、最後にお母さんが現れるという個所も、私は「奇跡」と考えて感動しました。未訳の『カウンティング・スターズ』なんかも素晴らしいし、どの作品も文学的価値が高く、私は大ファンなんですけれど、ファンとしてはもう少し違うテーマのものも読みたいな。あと、この作品は一人称で、女の子の目から書かれているんだけど、心象風景の部分は高度に文学的な、大人の目で書かれているのね。女の子の子どもっぽい言葉と、心象風景の大人っぽい語り口のギャップが、訳すうえでとても難しいんじゃないかな。原文を読んでないからなんとも言えないけれど、そのギャップが訳を読んでいて少しひっかかりました。冒頭の女の子の言葉なんか、そんなに子どもっぽく訳さなくてもよかったのでは? ところで、「ヘヴンアイズ」ってなんなんでしょうね? 感動しながら読んだんだけど、非キリスト教国に生まれた私には、根っこの根っこまでしっかり理解できていないのかも。

(「子どもの本で言いたい放題」2003年9月の記録)


永遠の出口

森絵都『永遠の出口』
『永遠の出口』
森絵都/作
集英社
2003

せいうち:ぼくは森絵都さんのファンなんですけど、これは最初のほうからかなり嫌悪感があったんですね。嫌なんだけどやめられない、という……。自分の爪の臭いをかぐような感じ、というか。『4TEEN』の男の子たちと対比して、女の子たちにはこんなものすごく恐ろしい世界が拡がっていたのかと、空恐ろしくなってしまいました。男の子だっていろいろと考えてはいるんだけど、友だちの数が奇数だとか偶数だとかなんて考えたこともなかった。恋愛みたいなものも、ここまでの比重はなかったし。ある種ホラーに近いショックを受けました。日本の女の子の文化を勉強するより、イギリスの文化を勉強しているほうが違和感がないくらいです。あんな童話を書く人がこれを書いているのかと思うと……。でも、結局はいいものを読んだような気もします。

愁童:『4TEEN』はうまい演出家のお芝居を観たという感じだけど、これは作者の骨格が見えてくるような作品ですね。ある意味、ユーモア小説で、笑っちゃう。誕生日会で優位に立とうとしたら、かえって……とかね。大人が読むと笑っちゃうけど、本人たちはまじめ。その辺の人生の機微みたいなものがうまく出ていて好感を持って読みました。

アカシア:図書館で借りられなかったんで買ったんですよ。なのに、読めないほど嫌だった。私、中・高は女子校だったんですけど、いっしょに連れ立ってトイレに行くとか、誕生日にプレゼント何あげるとか、お互いに遠慮しあったり牽制しあったりとか、そういうちまちましたことにいつもうんざりしてたのね。だから、せっかく遠ざかった世界をまたつきつけられるのかと思って嫌だったんです。最後まで読めなくて途中でやめました。まあ逆に言うと、それだけリアルに思い出させるうまさ、ってことかもしれないけど。私、森絵都のほかの作品は好きなんだけどね。

むう:私もこの本は嫌でした。理由は、児童文学じゃなくて大人のノスタルジーだから。たしかに「永遠」で子どもをくくるあたりは目のつけどころがとてもいいしうまいんだけど、郷愁だというのが致命的。『樹上のゆりかご』(荻原規子著 理論社)と一緒で、きちんと功なり名遂げた大人がぐちゃぐちゃだった子どものことを、あああのころはたいへんだったなあ、とばかりにふりかえって書くというスタンスが嫌だった。もう、最後のエピローグで爆発しちゃいました。

アカシア:私はね、この作品は文章も巧くないと思ったの。陳腐な表現もいっぱい出てきてね。わざとなのかな。それに比べれば、石田衣良のほうがずっとうまい。たとえば『池袋ウエストゲートパーク』(文春文庫)には、体言止めがじゃんじゃん出てくる。体言止めの文章って、へたな人が書くと読めないんだけど、石田衣良はうまいんですよね。

むう:これ、書かなくていいところまで書きすぎてますよね。

:私はおもしろく読んだんですよ。たしか、森絵都さんは、今いる私が知っている子どもなら書けると言ってたんですよ。講演会で、万引きをしたことなども話されてたので、自分が体験したエピソードだと思って笑いながら読みました。お父さんとお母さんが微妙にすれちがっている顛末も素直に笑えた。

ブラックペッパー:私はそんなに嫌じゃなかったんです。陳腐な表現もあるんだけど、「永遠の出口」なんて、キャッチーな言葉をつくるのがうまい。そういうきらめきがあった。小学校くらいの話は自分のことを笑いすぎで、それは嫌だった。お姉さんのいやらしさは、私だったら許せん! 中学生からはよくなった。

すあま:中学生のころって、先生を絶対視してたんだけど、同窓会でクラスの人たちに会ってみると、実はみんなはそうでもなかったりすることがわかる。この本は、読みながら自分の回想ばかりをしてしまい、本がおもしろいのか、思い出すことがおもしろいのか、わからなくなってしまいました。主人公に同化するのではなく、そのときどきで気持ちが重なるところに、カチッとスイッチが入るような感じ。でも、物語としては、読んだ後に残るものがなかった。結局、この作品じゃなくて自分の物語を読んでいたんですね。佐藤多佳子とかもそうだけど、世代が近いとそれだけで読んじゃいますね。

ブラックペッパー:体験がないと身近に感じられないものばかりなんですよね。

アサギ:私はおもしろくてうまい人だなと感心したわね。私、小学生のとき、はずれていて、教師のせいもあって「クラス八分」になったのね。だからなのか、新鮮でおもしろかった。『4TEEN』では、不良は向こうの別の世界にいるって感じだったけど、この本では、ふつうに暮らしていても「枝道」に入ることがあるというリアリティを感じた。ふっと向こうへ行ってしまう境界線が印象的。ただ、ぐれた生活のなかで、性的なことが何も起こらないのは、きれいごと。「恋」のデートなんて楽しいもんじゃないというのも新鮮だった。ただ、最後の「エピローグ」はよくなかったわね。連作ものって、最後をうまく行かせようと思うので無理が生じるのよね。あと、手垢のついた表現でも、ぴたっとはまればいいんじゃないかしら?

トチ:森絵都さんは、本当に「児童文学作家」なんだなと思いました。言葉をかえれば、児童文学を書くときほど、この作品は真剣に書いてないみたい。小説版「ちびまる子ちゃん」みたいでね。すらすら読めるけど、決して傑作ではない。友達同士で、本当に辛いことは隠して、楽しいことばかり言い合うような関係みたい。わたし、今は世に名を知られるようになった人が「昔、万引きしたことあるんですよね」って懐かしそうに話するの、大嫌いなのよね。タイトルには「永遠」ってあるけれど、あんまり「永遠」がのぞけるような作品じゃない。『ヘヴンアイズ』には永遠を感じたけど。

カーコ:私もだめでした。一般の読者向けにしては、展開も文章も、やや物足りない感じもするし。こういう世界自体、わかるからよけい嫌だというのがあるのかも。私は、小中学校時代、転校を何度も経験して、地縁の壁や集団の暴力を感じて育ったから。この子の場合、最後は救いがあるけれど、ずっと苦しいじゃないですか。また、連作短編という作りから、『黄色い目の魚』(佐藤多佳子著 新潮社)を思いだしたんですが、比べると、『黄色い〜』のほうが、読み応えがある。この本の場合、章が変わると、主人公が別人のように見えることもあって、全体にばらけた感じがしました。

すあま:同じ子には思えないですよね。違う子だといわれても納得しちゃう。

ペガサス:私は、『樹上のゆりかご』の方がおもしろかったな。大人の醒めた目で子ども時代をふりかえる話だけど、自分が思い出したくないようなことを如実に思い出させるから嫌なのよね。これを読むと、ますます男の子の世界のほうがいいなと思う。中途半端な年頃の、はっきり言葉では説明しにくいような微妙な気持ちや感覚をいちいち丁寧に説明してくれてるの。そんなこと別に事をわけて説明しなくてもいいですよ、って思う。「例えば、ここに一本の木があるとしよう。」なんてふうにね。ユーモアのタイプが児童文学と違うのね。

トチ:大人の読者には新鮮に映ったのかもね。大人の文学と子どもの文学のボーダーにあるかのような作品だから。

紙魚:そうですね。今、児童文学は、一般の文芸からすごい注目を集めていますよね。子どもの本をふだん読まない人にとっては、きっと児童文学には「新しい世界」を感じられると思うんです。だた、この本は、やっぱり連載ものだからか、ぷつぷつ途切れる感じが気になりました。もっとぐっとひきこまれる物語が読みたかったかな。ただ、感覚を言いあてるのがとってもうまいし、きらめく言葉がちりばめられているので、すらすらと軽く読めました。いやーな感じを、これだけいやーに表現できるのって、やっぱりすごいと思います。忘れていた嫌な気持ちを、これでもかこれでもかと、わざわざ掘り起こされました。

すあま:子どものときって、些細なことが特に気になったりするじゃないですか。思えば、嫌なことの連続でしたよね。

カーコ:大人が懐かしむには、よくできているってことじゃないですか。

アカシア:森絵都さんにとっては、一時期の少女特有の世界が嫌なことじゃなかったのかもね。

せいうち:もっと血みどろだったら、気持ち悪くなかったかもしれませんね。

トチ:同窓会に行ったらあんまりしゃべりすぎる人がいて、「あなたばかり話してないでよ」って感じだわ。

(「子どもの本で言いたい放題」2003年9月の記録)


2003年09月 テーマ:子どもをえがいた文芸書と、児童文学の境界をさぐる

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『2003年09月 テーマ:子どもをえがいた文芸書と、児童文学の境界をさぐる』
日付 2003年9月24日
参加者 トチ、裕、カーコ、ペガサス、紙魚、せいうち、愁童、アカシア、むう、羊、アサギ、ブラックペッパー、すあま
テーマ 子どもをえがいた文芸書と、児童文学の境界をさぐる

読んだ本:

石田衣良『4TEEN』
『4TEEN』
石田衣良/作
新潮社
2003

オビ語録:14歳は、空だって飛べる。恋をし、仲間と語らい、性に悩み、旅に出て…。これが今どきの中学生。瑞々しい8つの物語。月島青春ストーリー
デイヴィッド・アーモンド『ヘヴンアイズ』
『ヘヴンアイズ』
原題:HEAVEN EYES by David Almond, 2000
デイヴィッド・アーモンド/作 金原瑞人/訳
河出書房新社
2002

オビ語録:月の明るいその晩に、あたしたちは、ヘヴンアイズを見つけた——カーネギー賞、ウィットブレッド賞受賞作家、『肩胛骨は翼のなごり』の著者が放つ、待望の新作! やさしく美しく純粋な、冒険の物語。
森絵都『永遠の出口』
『永遠の出口』
森絵都/作
集英社
2003

オビ語録:あの頃の私、<永遠>という響きにめっぽう弱かった。青々とした10代。翔けぬけた少女の季節は、想い出がいっぱい 『カラフル』の感動から5年。初めて描く≪大人への物語≫

(さらに…)

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伝説の日々

ジェマーク・ハイウォーター『伝説の日々』
『伝説の日々』
ジュマーク・ハイウォーター/著 金原瑞人/訳
福武書店
1989

アカシア:アマナが女になったり男になったりするというのはアイディアとしておもしろいんですけど、ジェンダー的には、新しい女性像を打ち出すのではなく、従来の価値観どおりの男と女を行き来するだけ。特に目新しさがないんですね。先住民と白人の相克で言うと、白人の食べているものをまずそうと書いているのがおもしろかった。

愁童:ハイウォーターはわりに好きだが、これは印象に残らなかった。切り口に新味がない。アカシアさんが言ったように、男が入りこんできたと言っても、そこで新しい価値観を提示していない。馬を駆る高揚感を描いているが、わざわざ出してくることはない。

カーコ:私は、アマナの成長物語として、北米先住民の世界観を描いた物語として、結構おもしろく読みました。慣習的な女性のあるべき姿にあてはめられるのを拒否する奔放な精神は、いろいろな作品で語られてきたテーマだと思います。新しい女性像が提示されていないと言われて、今、そうかなあとふりかえっているのですが。
それから、先住民の文化ということで言うと、訳者あとがきで、作者の希望によって、あえてあまり説明をしなかったと書いてあるように、わかりにくいところもあるのですが、それが逆にひっかかりにもなっている。名前のつけかたや、自然との向きあい方など、白人とぜんぜん違う世界を持っているのに、保留地に追いやられて、白人の世界にとりこまれていく時代のようすが興味深かったです。

(2003年07月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


神の守り人 帰還編

上橋菜穂子『神の守り人』
『神の守り人 帰還編』
上橋菜穂子/著
偕成社
2003.01

:来訪編がおもしろかったので、バルサのこれまでの話も読みたくなって、1から読み始めました。おもしろいと思ったのは、バルサが30くらいの女性で、恋人がいて、師がおばあさんで……そういう人々の中にいろいろな子どもたちが関わりをもってくるところ。バルサは、悲しいものを背負っているのだが、カッコいい。

カーコ:シリーズを全部読まないといけないと思いながら、結局これしか読めなかったんですよね。第一印象として、読者を選ばないファンタジーなのかな、と思った。『アースシーの風』に比べると、こちらは格調高そうでいて、それほど深くない感じがしました。テンポがよく、文も短く、情景が次々に描かれていく。最低限のイメージを与えて、物語をつなげていくのがうまい。だから、それほど読書に慣れていない子どもたちにも読めるのかなと。私は、いろいろな物が独特な名前で呼ばれているのになじめませんでしたが。バルサとアスラについては、女でなければいけない必然性をあまり感じなかったんですよね。だから、女の物語という印象はなかった。女の子が読んだときに、女主人公のほうが身を寄せて読めるのかな? 全体として、栗本薫の『グインサーガ』シリーズ(早川書房)とイメージが重なって、私としては、それほど評価が高くなかった。

アカシア:バルサがなぜ用心棒になっているのか、そこのところを知らなければ、この作品はわからないかも。苦しみを乗り越えてきているから、バルサはアスラに心を寄せる。やはりシリーズの最初から読んでいくと、それが理解できる。文の一つ一つが、文学的に際だってすぐれているわけではないかもしれないけど、お話を作っていく構成力はすばらしいと思う。絶対的な力が目の前にあって手に入りそうなのに、人は意志の力で拒否することができるのか、というテーマは、『指輪物語』と同じですね。それを日本人作家が、エンタテイメントとして書いた作品だと思う。ハリポタのように、何でも魔法を使ってしまえ、というのではないところがいい。タンダとバルサの関係は、思わせぶりに書いていて、ちらっちらっと出てくるので、これからどうなるのかな、と読者をひっぱっていく。ハイウォーターの作品では、敵を殺すことに高揚感を感じているけれど、バルサは殺し続けることに対して、うしろめたさをいつも感じている。その辺は、新しい人物像かもしれませんね。

愁童:自分の力を維持するための努力や、他人に対する恩義といったものが、うまく書けている。人間臭さがちゃんとあるところがいいね。

アカシア:単にエンタテイメントではなくて、深い「ゆれ」のようなものが描けている。

愁童:女用心棒としての、バルサの大変さがよく書けている。説得力があるね。

アカシア:体力のない女ならではの戦い方もするのよね。

:養父との関係に折り合いをつけなければならない、というところに、せつない厳しさを感じた。アスラに接するうちに、父とのことも理解していく。とても傷つき、重いものを背負っているんだけれど、生きなければならない。そこがとっても悲しいのね。

カーコ:バルサが谷から落ちて、冷たい川に落ちても生きているところ、私はちょっと気になりましたね。

アカシア:この場面だけ見ると、ご都合主義の筋立てように思えるかもしれないけど、バルサに心を寄せていれば、生きていてよかった、と思うんじゃない?

:終わり方ですけど、アスラが死んでしまうのでなく、まだ目がさめない状態で終わらせている。このおさめかたは、よかった。

アカシア:意識を消さなければ、生きられないからだと思う。このシリーズは、文が短くて読みやすいし、本の嫌いな子にも読めるのでは?

ペガサス:友人が、20代の社会人の娘と一緒に、このシリーズを熱心に読んでいるんだって。児童文学に関係ない主婦の人なんだけど、続編が出るたびに娘が買って来て、争って読むとか。とにかく、バルサがカッコいいって。

愁童:カッコよくはないんじゃないの? いろいろと悩んでいるし、チャーリーズ・エンジェルみたいなカッコよさは、ちっともないじゃない。カッコいい女性を描こうという意識は、作者にはないのでは?

カーコ:何て強い人だ、と他の登場人物が評する場面はありますよね。

アカシア:アスラが呼び出してしまったものを、バルサだけはよけることができたりするんだから、カッコいいと思うよ。ところで、この表紙の絵は、バルサなのかな? 神がのりうつったアスラなのかな? わかりにくい。

愁童:挿し絵が多すぎると思うな。もっと、読者の自由なイメージで読ませてほしかった。

ペガサス:でも、挿し絵がないと、子どもには読みにくいんじゃない?

アカシア:いろんな人が登場するしね。

(2003年07月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


アースシーの風 ゲド戦記V

ル・グウィン『アースシーの風』
『アースシーの風 ゲド戦記V』
アーシュラ K. ル/グィン著 清水真砂子訳
岩波書店
2003.03

アカシア:この巻では、英雄ゲドは魔法を使う力をなくして普通の人になってます。でも、4巻目の時ようにただ力を失っただけではなく、日常生活をしているがゆえの知恵をしっかり身につけているのね。ハンノキが市の国に呼ばれることから始まって、レバンネンなど、たくさんの登場人物が出てくるけど、最後にはみんなが解放されて、それぞれ自分の道を選び取るのがおもしろかった。

ペガサス:これは、1冊だけ読むのではなく、最初からのつながりで考えないといけない作品。4巻目が最後の書と言われながら、読者を混乱に陥れて終わっていたのが、この巻で希望をもって進んでいけるというので、やっと納得できたと思う。作者が最初の巻を書いてから何十年もたち、主人公も年老いるわけだが、全巻を通してみると、一人の人間が人生をどう生きるかという物語とも読めるし、人類全体の変遷の物語とも読めると思う。また、作者の世界観の変遷が見られる。魔法使いとしてこれほどまでに修行して力を獲得していくのに、結局その魔法はよほどのことがないと使えないわけね。使えば宇宙の均衡を崩してしまうから。河合隼雄さんが『ナバホへの旅 たましいの風景』(朝日新聞社)のなかで、魔法使いになる修業をナバホのメディスンマンの修業と結び付けて、「結局のところ大魔法使いになればなるほど何もしなくなるのだ」と述べている。確かにこの物語には、人類が築き上げてきた文化的な価値でなく、アニミズム的なものや、動物の本能的行動など、もっと違うところから学んでいくという態度も描かれていて、おもしろいと思った。力を獲得するために奮闘して、目的を達成して終わり、というのではない。

愁童:アカシアさんみたいな読み方があったのか。「ゲド戦記」の大切な部分は3巻までに書かれていて、これはキャンディーズのさよならコンサートみたいなもんだと思ったんだよ。文章でいくつか気になるところがあって、編集者も翻訳者ももう少し気遣いをしてほしかったな。

アカシア:4巻目は、作者がジェンダー的に全体を考え直して書かずにいられなかったんだと思うのね。だけど思想が前面に出すぎてた。だから作者についての研究をするには面白いけど、物語としてはあまりおもしろくなかった。でも、この5巻はおもしろい。

愁童:作家が若い頃書いた作品と、いろいろ考えて年を経て書いた作品では、迫力も違う。2巻目でテナーが、自分で自分の道を選び取っているときに、すでにジェンダーの意識はあったと思うんだ。それが、4巻目で薄汚いおばさんに書き直されなければならなかったのか。

アカシア:私はテナーが薄汚いとは思わなかったな。ル・グィン独自の視点は、影をどう扱うかにあらわれてますよね。今のネオ・ファンタジーは「主人公は善であり正義であって、悪は外にいる」という、ブッシュみたいな単純図式が多いけど、この作者は、闇や悪は自分の分身という認識ですよね。3巻目までは、頭で考える知識(男の領域)と、日常の暮らしの中から学ぶ知恵(女の領域)とが分離していた。それが、4巻からあとは違うのね。

愁童:でも、3巻めまでの輝きが4巻、5巻にはないじゃない。

アカシア:その輝きって何? ヒロイズム?

ペガサス:4巻、5巻がなければ、3巻までで輝いているけれど、5巻まで読んだときに感じるおもしろさは違ってくる。5巻まで読んで、もう一度前をふりかえりたくなる。

愁童:4巻で一番納得がいかなかったのは、最後に竜が出てくるところ。

アカシア:竜は5巻につながるカギなんです。この巻では、幼いときに虐待されひどい火傷を負って生きてきたテハヌーが竜になって空にのぼっていく。そこのイメージがいいんですよ。「テハヌーは両手を高くあげた。炎が手を走り、腕を走り、髪の毛に入り、顔に入り、その胴体に入り、大きな翼となってその頭上に燃え上がると、テハヌーのからだが宙に浮いた。全身火と化した生き物は、今、空中に美しく光り輝いていた。テハヌーはことばにならない、澄んだ叫び声をあげると、首をのばして、高い空へと、まっしぐらに飛んでいった」っていうんだけど、テハヌーが自分らしさを回復し、解放されるのがよく出てると思った。

ペガサス:4巻、5巻を読んで意見が分かれるところも、この本の価値なのでは。

(2003年07月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


2003年07月 テーマ:神話や伝説とのかかわり

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『2003年07月 テーマ:神話や伝説とのかかわり』
日付 2003年7月24日
参加者 アカシア、ペガサス、愁童、羊、カーコ
テーマ 神話や伝説とのかかわり

読んだ本:

ジェマーク・ハイウォーター『伝説の日々』
『伝説の日々』
原題:LEGEND DAYS by Jamake Highwater, 1984(アメリカ)
ジュマーク・ハイウォーター/著 金原瑞人/訳
福武書店
1989

<版元語録>アマナが男に変わったのは、10歳の冬のことだった。力強い戦士がアマナの中に入りこみ、出ていこうとしなくなったのだ。同じ冬、白い巨大なフクロウがアマナの父のテントを襲い、テントは炎上した。その晩から父は、原因不明の病にたおれ、村人たちも次々に同じ病に侵されていった…。一族にしのびよる滅びの影の中、大きな霊力を与えられて、生き、成長しようとする少女の姿を描く、心をうつ物語。白人侵入の時代に生まれたインディアンの女性アマナの、数奇な生涯を描く〈幻の馬〉物語、第1巻堂々の登場です。
上橋菜穂子『神の守り人』
『神の守り人 帰還編』
上橋菜穂子/著
偕成社
2003.01

<版元語録>アスラは自らの力にめざめ、サーダ・タルハマヤ“神とひとつになりし者”としておそろしい力を発揮しはじめる。それは、人の子としてのアスラの崩壊を意味していた…はたして、バルサたちはアスラを救うことができるのだろうか。
ル・グウィン『アースシーの風』
『アースシーの風 ゲド戦記V』
原題:THE OTHER WIND by Ursula K. Le Guin, 2001(アメリカ)
アーシュラ K. ル/グィン著 清水真砂子訳
岩波書店
2003.03

<版元語録>待望の最新作/故郷の島で、妻テナー、幼い時から育てた養女テハヌーと共に静かに余生を楽しむゲド。ふたたび竜が暴れ出し、緊張が高まるアースシー世界を救うのは誰か?

(さらに…)

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楽園のつくりかた

笹生陽子『楽園のつくりかた』
『楽園のつくりかた』
笹生陽子/著
講談社
2002.07

愁童:傷ついた都会の子どもが田舎にいって癒されるという、よくあるパターンなんだけど、この本では、田舎といっても、学校にいる子どもは山村留学している都会の子どもが多いという設定。自然豊かな田舎の環境だけに寄りかかってないところに工夫があるし、うまいと思います。ただ、父親が死んでいることを隠して読み進めさせて、あとでばらすというのは読者に対してフェアじゃない気がするな。かなり作りすぎの感じがするけど、今の子にはこのぐらいでちょうどいいのかな。

ケロ:登場人物がいろいろとおもしろおかしくて、結構楽しく読みました。あとで父親の死がわかるどんでん返しのところも、始めの印象とは見方がぐるっと変わって読めてきて、そこがおもしろかったな。特に、母親の印象は変わりましたね。最初は、田舎を楽しむお気楽なイメージで読み進んだけど、どんでん返しのあとは、いろんな辛いことがあっても、表には出さないで健気にがんばっている人だということになる。この母親は、このどんでん返しがあるために最初の設定がちょっとぶれていておかしい。はじめはブランド志向で偏差値志向なのかと思っていたら、途中から物事の真価が大切と言い始めて、どんな人だろうと興味を引かれ、さらに最後のどんでん返しで、そういう人だったんだと納得する感じ。テーマ的には、重たいけど、キャラクターが魅力的に描けていたので、読めたし、映像が目に浮かぶようで楽しかった。

むう:前にこの会で取り上げた『きのう、火星に行った。』がおもしろかったんですよね。同じ作者だから、やっぱり読ませる迫力があって、おもしろいおもしろいと思いながら読んでいったんです。全体としては、いい印象でした。でも、『きのう、火星にいった。』のほうがいいと思いました。というのは、父親のマブダチなる松島さんが出てくるところで、ゲッとなったんです。なんじゃこりゃ、安直すぎるじゃないかって。父親が死んで、それを認めたくないがために自分だけの虚構の世界を作り出してという、この設定にはそれほど抵抗ありませんでした。むしろ、おっと、そういうことか!と感心したくらい。おじいちゃんが梨園を再生させるのにつきあって、挿し木が根付くあたりで主人公が田舎に根を生やすという将来を予感させだぶらせるあたりも、なるほどなあと思いました。ともかく松島さんが、私はだめでした。最初登場したところで、いったいなんだこの人は、と思ったのですが、特に最後でからまれてるところに助けに入って、しかもそれが父親の親友だなんて、これはやりすぎじゃないかな。

すあま:私はどんでん返しがおもしろかった。だまされるタイプなので、しっかりとだまされてしまいましたが、よくできたお話だと思いす。最後は、終わらせるために主人公に無理に語らせていたり、決めの一言もちょっとクサイのが、気になりました。読み終えてから初めて、そもそも父親とひねくれた子どもがメールのやりとりなどするのかなど、主人公の自作自演だったとはいえ、疑問に思う点がいろいろと出てきましたね。

アカシア:どんでん返しも、一人称だからありかなと思いますね。メールの使い方も上手。本来黙っている子はコミュニケーションをとれないけど、メールを使えばコミュニケーションをとることもできるし、しゃべらすこともできるんじゃないかな。だから、設定はよくできてると思いました。松島さんはやはりふしぎな存在。それと、4人クラスで1人だけ土地の子がいるんだけど、その子が方言を使ってないのが不自然に感じてしまいました。外見的にも田舎の子として描かれているのに、と。松島さんも言葉使いが標準語。方言にすれば、もう少しリアリティが出るんじゃないのかな。

:私は、この作品には評価できるポイントがあげられません。読むのにはおもしろく読めるかもしれないけど、それだけでした。登場人物が4人しかいなくて、小さな学校で、お話を作るのは簡単だと思うんですけど、話の筋は決まりきっていて安易だし、小説としては安易なんじゃないかしら。先ほど映像がうかぶという意見がありましたけど、その通りで、ドラマ仕立てなら良いけど小説はまた違いますからね。老人と子どもの心の通い合いとか、父の死をどうとらえるかとか、深めていくべきテーマはいっぱいあるのに、残念です。

トチ:日本の創作児童文学というと、「○○山の頂に、黒い雲が広がっていた。いまにも一雨きそうだ。○○は・・・」といった情景描写に始まる、まじめくさった、陰気くさい文体のものが多いような気がして、読みたくないなという気持ちが先に立つのですが、この本は文章が短くて、リズミカルで、すらすらおもしろく読みました。お父さんが送ったとされるメールの部分だけ、なんでこんなにおもしろくないのかと思ったけれど、最後の種明かしを読んで、なるほどと感心しました。裕さんのいうように、たしかに深みはないかもしれないけれど、この本のように、子どもが気楽に手に取ることができて楽しく読める本があってもいいのでは・・・と私は思います。こんな風に文章も、構成もうまく書けている本を、山のように読んで楽しむというのも、子どもの読書法のひとつとして認めてもいいのでは。私自身も、子どものときにそういう読み方をしてきたような気がするし。おじいちゃんが農園の仕事をしているときに、接木の方法を語るところもおもしろかった。こういう職業的な薀蓄って、子どもの本のひとつの要素として大切なんじゃないかしら。

せいうち:今日読んだばかりです。読む人によっては、そんなに評価されないと思いますが、個人的には結構気に入っています。この主人公には、個人的に感情移入できて読めました。自分も子どものころに、この子に近いところがあったので。男の子の中には、おとなしくて快活ではないけど、自分の意志ははっきりしていて、そんな自分を社会の中でうまく出せず、他人から見れば自分勝手だとかわがままだとか言われてしまう子がいるんです。この子は、そういう子だと思いますが、好きですね。確かに利己的で自分勝手なところはありますが、それでも自分を正直に出せるところは、とてもいいと思います。
私は、都会がとても好きなのですが、どうも世の中には田舎を美化する傾向があって、都会派が不当に悪く言われてしまうことが多いような気がします。この本は、田舎に行ったら田舎に同化した方がいいとか、はじめは、そういうことが書かれた話なのかと思いましたが、単純にそれだけの話ではないのでよかったです。はじめのうちは「やっぱり、都会の子は負けてしまうのか」と思って読んでいたんです。僕としては、都会の子がただ田舎の子と仲良くなってしまってもつまらないし、仲良くならなくて、とけ込めなくても、話としてつまらないと思いますね。それから、この話の主人公は成績のいい優等生タイプの子ですが、この種の子は、普通、あまり主人公にはされないんです。それを不満に感じていたので、よかったと思います。ただ、やはり、もっと都会の良さも書いてほしかった。田舎で癒されるということもあるかもしれないけど、都会で癒されることもあるわけで、都会ばかり悪く言われるのは心外です。
松島さんの登場は、たしかにとってつけたようですね。でも待ってましたという感じがしてけっこう嬉しかったのも事実です。何といってもバイクに乗って現れるヒーローですから。仮面ライダー世代はこういうのに弱いです。最後に、松島さんが送っていってくれるというのもイヤではないです。「この話を読んでも何も残らない」という意見もあるでしょうが、残らなくてもいいような気もします。一点、残念だったのは言葉づかいですね。現代風、ということなのかもしれないですが、今の子どもが読む本がこういう話し言葉的な軽い文体になっているのかと思うと、ちょっと寂しいです。

きょん:最初に、お父さんとのメールのやりとりで始まるんですが、子ども側のメールも、お父さんのメールもすごく不自然で、なんだこれは?という感じでした。要するにどちらも嘘のメールということなんですが、私にはあんまり効果的には感じられませんでした。おじいちゃんのところに行かなければいけないのは決定事項だから、そのことを自分なりに説得するためにお父さんからのメールもそのようにサジェスチョンしたということなんでしょうか。自分の息子と勘違いしているおじいちゃんに誘われて、半ば無理矢理に農園に出かけていって、なにかを感じ始める優の姿は、よく書けていると思いました。はじめ、父親の名前「博史」と呼ばれて返事もしなくて拒絶していたのが、まあ仕方ないかとあきらめ、適当にあわせていく。先ほど、深めていくべきテーマはいっぱいあるという意見が出ましたが、ここでのメインテーマは「突然死んでしまった父親の死を、子どもなりに受け入れていくまでの心の葛藤」なのではないか? おじいちゃんに合わせて農園に出かけ、何となく受け入れていく過程が、父の死を受け入れていく心の準備なのかもしれません。『楽園のつくりかた』というタイトルは、あまりそぐわないような気がします。ここでいう楽園は、自分の居場所という意味でしょうけど、自分の居場所を作るということと、父の死を受け入れるということがイコールになるはずなのに、学校生活のこと友達のごたごたなど、エピソードがあまり効果的でないので、かえってテーマが散漫になってしまった感があります。松島さんの存在も、とってつけたようでしっくりきませんでした。

トチ:せいうちさんの意見をきいて、私がこの作品に好感を持てたのは、書き方によっては嫌らしくなる主人公を、うまく書いているからだということが分かったわ。

むう:『きのう、火星に行った。』の主人公もそうだったけれど、この人、鼻持ちならない子どもをうまく書くんですよね。親が教育パパとか教育ママでなくても、こういうタイプの子って、けっこう多いと思うんです。少子化で大人に対する子どもの数が減ってきているので、大人の目が行き届きすぎる。だから大人と子どもの力関係が昔とかなり変わってきて、子どもはどうしても自意識過剰になる。その結果、勝手に(ありもしない)期待に応えちゃったりするんだと思うんです。

アカシア:成績がいい子だって、ゲーム感覚で良い点を取りにいってるのかも。

せいうち:成績とか偏差値にものすごく執着する子もいます。ぼくは子どものころ、偏差値ってすごく好きでしたね。努力したことが反映されるというところが。報われた気がして快感でした。

愁童:でもこの人は作家なんだから、その偏差値とかばかりで、人間の人格に触れてないところでお話を書こうとしているところが嫌だな。ウケねらいのドラマつくりのようでさ。うまく書けば、それでいいのかな。

アカシア:でも、こういうエンターテイメント性が、ほかの創作児童文学には足りないんじゃないかな。

カーコ:母子だけでいきなり父親の田舎に引っ越すというのも、メールの親子関係も不自然で、「なんだこれは」と思って最初読んでいたけれど、どんでん返しのところで納得しました。わがままな子どもとして父親にメールを書く視点と、父になりすましてたしなめるメールを書くという二重の視点に、この年齢の男の子の心の揺れがよく出ていて、私はおもしろかった。新しい学校のクラスメートとのつきあい方は、キャラ設定をして友達関係をつくる、今の子どもの様相を反映していますよね。この人はおもしろキャラ、この人はいじめられキャラというふうに、分類して固定してしまう。でも、この作品では、キャラの印象が途中で破られて、柔軟な人間関係への作家のメッセージが感じられました。全体に悪い人があんまり出てこないので、子どもは安心して読めるのかもしれません。軽くて、物足らない感じもありましたが、メールという小道具をうまく使った、感じのいい作品だと思いました。

愁童:この子が、死んだ父親にメールを書き、自分で返事を書いているっていう設定は、ちょっと気持ちが悪い。母親の言うことは聞くけど、父親には反発するものだと思う。

カーコ:父親は死んでいるから、こんなふうに書けるのでは?

せいうち:子どもが想像で書いていたから、こんな変なメールになったのだなと思います。

トチ:そこのところがうまいんじゃない? 実在感がないから。こんな、紋切り型のことばっかり言ってる「もんきり父さん」が物語の中に本当に登場していたら、それだけで物語はつまらなくなっちゃうもの。けっこう、そういう本もあるけどね。

(「子どもの本で言いたい放題」2003年6月の記録)


ノリー・ライアンの歌

パトリシア・ライリー・ギフ『ノリー・ライアンの歌』
『ノリー・ライアンの歌』
パトリシア・ライリー・ギフ/著 もりうちすみこ/訳
さ・え・ら書房
2003

カーコ:状況が厳しくて、ほんとうに辛いお話なんですけど、こういう本は好きです。妖精が息づいているアイルランドという舞台も興味深かった。こういう世界があるんだなあと。ただ、『ホワイト・ピーク・ファーム』(パトリシア・ライリー・ギフ著 もりうちすみこ訳 さ・え・ら書房)では家族一人一人の像がとてもはっきりしていたのに対して、こちらは、姉妹の年齢の違いやそれぞれの性格などがすっきりと頭に入ってこなかったのが残念でした。原文の問題なのか、翻訳の問題なのかわかりませんが。

アカシア:『サンザシの木の下に』(マリータ・コンロン・マケーナ著 こだまともこ訳 講談社)や『アンジェラの灰』(フランク・マコート著 土屋政雄訳 新潮社)のような似た設定の本をおもしろく読んで時代背景が頭に入っていたので、情景がありありと浮かんできました。それと、さ・え・らの今までとは違った路線のこの表紙からは、工夫の跡がうかがえて評価できると思いました。主人公が大変な状況のなかで積極的に生き抜こうとするリアリティがあって、ほかの、深刻な問題を深刻に取り上げただけの、ありがちな本とはひと味違う。主人公がしょっちゅう歌を歌っていたりして、辛さに溺れていないところがいいですね。

ケロ:あまり読んだことのないタイプの本で、ひたすら辛くて、飢えにつきあっておなかがすいてしまったり。主人公がなんとか生き延びられてよかったよかったという感じです。でも、アメリカでのアイルランド系移民の貧しさの背景を知ることができたような気がします。後書きにある、作者の思い入れにも納得しました。タイトルが『ノリ—・ライアンの歌』となっていて、妖精の話も出てくるので、本文中にもっとそれらしい歌詞がいろいろ出てくれば楽しめたし深みが出たのではないかと思います。それと、アンナという老婆から主人公へのさまざまな知識の伝達が、たとえば誰々を助けたとか、もっと具体的に書かれていると良かった。それがあれば、文化が確実に継承されていくという感じがもっとしっかり出たと思います。表紙を描いた画家さんは、アイルランドに惚れ込んで絵そのものが変わったような人なので、なるほどなあとしみじみと表紙を眺めました。中のイラストは息子さんだそうです。

アカシア:アンナの一人称が「わし」というので、相当な年齢かと思ってしまいましたが、老婆ではないのでは? なぜ「わし」にしたんでしょう?

愁童:いい作品だけど、冒頭の描写で気勢をそがれた感じ。訳の問題かなと思うけど、霧雨なのに、さっと晴れて海が見えるから、霧なのかなと思うと、その割には髪が濡れて水滴がたれるほどだったり、雨だか霧だかイメージが混乱しちゃう。似たような部分が散見されて、素直に作品世界に入れなかった。

すあま:この訳者の方は、アフガニスタンの少女の話(『生きのびるために』デボラ・エリス著 さ・え・ら書房)など、社会派の作品を手がけているのが、いいと思います。ただ、大人ならそういう時事的な関心があって本を手に取り、理解を深めるということもあるだろうけれど、子どもの場合はまた違うと思うんです。イギリスの子やアイルランドの子など、アイルランド問題を知っている子が読むのと、日本の子どもが読むのとでは違ってくる。もちろん、知識がなくて読んでも魅力のある本はありますが、この本は、日本の子が読むにはちょっと難しいのでは。それから、p82の「フォアファー」というアイルランド語の意味が、ダッシュ(−)の後に書かれているのですが、最初は言葉の意味なのかどうかよくわかりませんでした。他にも、カサガイなど、イメージできないものが出てきて、作品世界に入りにくかったですね。また、登場人物の印象があまりはっきりしていないので、それも読みづらかった。主人公は次々と失敗して困難な状況が続いていくので、読んでいて辛くなる本でした。

むう:私は時事的なものに非常に関心があるもんですから、アイルランド問題とかアイルランドの歴史とかもある程度知っていて、そういう目でこれを読みました。じっさいアイルランドに行ってみると、不自然なくらいイギリスにそっぽを向いて、大西洋を越えたアメリカに目を向けているんですね。それに、アメリカ人が故郷詣でのように大挙してアイルランドに来てる。そういうのを目にすると、どうしてもその背景や歴史に考えが及ぶわけです。で、アメリカにはアイルランドからたくさんの人が移民として渡っているわけですから、アイルランドの人やアイルランド系アメリカ人にとって、ここに書かれていることはとても身近なことだと思うんです。イギリスのアイルランド支配といった歴史的知識もあるわけだし。アイルランド系アメリカ人にとっては、この本は自分たちのルーツの物語、祖先の苦労話として大変興味深いんだと思います。でも、日本人にとってはあまりに遠いと思うんです。今の日本の子どもたちの置かれている状況から、かけ離れすぎていて、とても取っつきにくい。そういう歴史や時事から離れたところで、なおかつぐっとくる普遍的なものがあれば、それはそれでいいと思うんですが、この本にはそういう魅力があまり感じられない。そういう意味で、日本で出す必要があるのかなあと思いました。

:たしかに渋い本だし渋いテーマだけれど、こういう本があってもいいのではないかしら。イギリスの歴史を教える立場にいる人間としてそう思います。地味だけれど、出版されていい本だと思うんです。こういうふうにある時代設定で展開する人間の物語があるのとないのとでは、歴史理解が全然違ってくるから。それと、これは時代を描いた物語ではなく、ファミリー・サーガだと思います。前面には出てこないけれど連綿と伝えられていく女の歴史を描いたという側面があります。文化がどう受け継がれていくか、その様子が、たとえばお姉さんから届いた小包の包装についてのエピソードなどで表現されているわけです。時代を時代としてではなく家族の伝統として扱うこのような本の存在によって、歴史観が深まると思います。ほかの方もおっしゃっていたように、翻訳は少し気になりました。それと、日本の読者がどう受け取るのかということ、つまり本の普及の度合いについては、難しいものを感じます。

トチ:アイルランドの作家が、同じジャガイモ飢饉のことを書いた児童文学があって、欧米ではとても評判がよくてテレビドラマにもなったりしたけれど、日本ではさほど評判にならなかったんです。そのへんが、子ども向けの歴史読み物の難しいところでしょうね。まだ、世界史を勉強していないし、アイルランドって大人にとっても遠い国ですものね。

せいうち:この本は、やっと図書館で見つけて読みました。学生時代の先生がアイルランド専門家でしたから、アイルランド問題のことはいろいろと学んで、イギリスの悪辣さに悲憤慷慨していたんですが、当時の気持ちを思い出しました。まず、後書きを読んで、感動したんです。ファミリー・サーガという色合いを強く感じました。私は壮大な物語に弱いところがあるもんですから。家族からは自分のルーツについて十分な話が聞けずに、自らアイルランドに渡って尋ね歩いたということ、そのときに現地の人に、飢饉がなければあなたもアメリカ人ではなく、アイルランドの少女だったんだね、と言われるくだりは感動的でした。アイルランド系は今でもアメリカで地位が低く、主流になれずにいます。今でもどこにも居場所がないという感じの国民で、しかも、「祖国」と言われる場所でも、厳しい自然と闘ってきたわけです。ただ、アイルランドの歴史に関心があって後書きで感動したわりに、実は作品そのものにはあまり感動しませんでした。まず、表紙の絵からイメージした話と違っていた点で、がっかりしてしまいましたね。読むのも辛かったし、翻訳文体も気になりました。雰囲気を伝えようとしてこうなったのかもしれませんが、たとえば、人を呼ぶのにフルネームでばかりというのもどうかなあと思います。日本語としてぎこちない。それと、これだけの違和感を持たせてでも、アイルランド語を日本語訳の中に出す必要があったのかどうか、そこも疑問です。

カーコ:アイルランド語の発音をルビにして処理すると、すっきりするような気がします。(一同うなずく)

せいうち:今のアイルランド人やアメリカ人なら、アイルランド語が出ていることに感激するんでしょうが、日本人だとそういうこともないし。時代背景が分からなくても感動できる本は実際にあるわけで、そういうふうに書けなかったのかと思います。ひどい目に会った人の気持ちに沿いきれないからか、どうしてアイルランド人が書くとこう(悲惨なテーマばかりに)なるんだろうと思ってしまう。作者はこのテーマで書きたかったんだろうけれど、もうさんざん書かれているわけだし、もう少し何とかならなかったのかなあ。あってもいい本だし、なければならないとは思うけれど、自分が読みたいかというと・・・。

アカシア:売れるか売れないか、という点だけで判断すると出せなくなってしまう本かも。ファミリー・サーガという見方もあるけど、サバイバル物として見ることもできる。そう考えると、アイルランドのことは日本の子はほとんど知らないからこそ、こういう本も出したほうがいいと思います。アイルランドに行ってみると、羊ばかり、ジャガイモばかりで、そこにケルトの遺跡などが散在している。飢饉になれば生きていくのは大変だったろうなあ、とアイルランドに行ってみて実感しました。いまや、イギリスやアメリカの本ばかり紹介していてもしょうがないという状況でもあるし、出せれば出したほうがいい。でも、海鳥の卵を取りに行くところの状況がわかりにくいのは事実ですね。

:情景描写が分かりにくいというのは翻訳の問題じゃないかしら。

アカシア:でも、私は全体がリアルでないとは思いませんでしたね。ジャガイモがどんどん腐るあたりの描写なんかは、この本を読んでリアルに理解できました。今までイメージできていなかった飢饉の状況がこれでわかった。

愁童:部分的な齟齬が気になるんですよ。よく書けているところ(たとえば男の子が手にけがしているのを押して、女の子の命綱を引き受けるというところなどは、信頼関係が良く書けている)があるのに、その直後に大事なところでいいかげんな書き方をされると、実にもったいないと思っちゃう。ジャガイモの腐れの描写もすごいと思いますよ。だからこそ、肝心のところが軽くなっているというのはまずいと思う。
(この後、ひとしきり海鳥の卵を取りに行く崖の場面の解析が続く。)

きょん:最初は、アイルランドとか時代ということをあまり意識せずに読みはじめてしまって、途中で分からなくなってしまったんです。それで、あとがきを読んでから、もう一度読みはじめたんですが、あちこち小さいこと(みなさんが指摘されたようなこと)が気になってなかなか作品に入り込めませんでした。3分の1くらいのところ、姉が結婚してアメリカに渡ったあたりからぐいぐい引き込まれて、あとは順調に読み進めました。私は歴史的な知識がまったくなかったので、裕さんがおっしゃったように、歴史の副読本のようにこの本で知識を得たという感じです。気になったのは、ノリーがよく歌をうたっているはずなのに、その描写が出てこないこと。だから、歌が生きてこないんですね。唯一p46では歌詞が出てきていますが、こういうふうにして受け継がれていったものが、どういう風に生きる支えになったのかが具体的に散りばめられていればよかったと思います。そこが物足りないしもったいない。じゃあどうして歌なの?と思ったら、たしかにアンナの知識を受け継ぐに必要な記憶力というふうにつながっているんだけれど、それだけじゃあもったいない。この訳者さんの選ぶ本は、テーマに強く引きつけられて読み進めることができるけれど、アイルランド語のこともそうですし、訳の細かいところは粗いと思います。

カーコ:ダッシュの使い方など、整理されるともっと読みやすいかも。

せいうち:原文で使っているからなんでしょうが、やっぱりうるさいですね。

きょん:セリフがしっくりこなかったりして、そういうのが多いのが気になります。

せいうち:日本語の姿をした英語なんですね。

きょん:アンナとノリーの関係が深まっていくのはいいし、未来に向かうエンディングもいいと思ったんです。悲惨な状況だから訳す必要がないということではないと思います。これもひとつの現実なんですから。ただ、アイルランドの悲惨な歴史やアメリカに向かった移民の気持ちはわかったけれど、領主の描写が一辺倒なのが気になりました。このあたりももっと多角的に書いたほうがよかった。

すあま:前書きで一言状況を説明してあればいいんですよ。そうすれば背景がわかるから。私の場合、読み取れたのはジャガイモ飢饉のことだけで、イギリスとアイルランドの関係まではわかりませんでした。裕さんがおっしゃるように、副読本や教材として、他の本と合わせて使うといいのかもしれない。

せいうち:訳文を読んでいると、気合いが入ってるなあと思うんですが、その割に、訳者後書きがないのは意外でした。自分で時代背景などの解説を書きそうな勢いを感じたんですが。

トチ:歴史的背景の解説はたしかに必要だと思うけれど、最初にあると物語世界にすっと入れないし、かといって最後に入れると物語自体が理解できないかもしれないし・・・難しいわよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2003年6月の記録)


ホワイト・ピーク・ファーム

バーリー・ドハーティ『ホワイト・ピーク・ファーム』
『ホワイト・ピーク・ファーム』
バーリー・ドハーティ/著 斎藤倫子/訳
あすなろ書房
2002.12

トチ:ドハーティは大好きな作家だから、わくわくしながら読みました。登場人物がひとりひとり、くっきりと描けているし、人生の奥深さを感じさせる。訳者の斎藤さんは、とても優れた翻訳者ですね。ドハーティは詩集も何冊か出しているし、もともとの文章も美しいけれど、訳文もその美しさを損ねていない。

:『アンモナイトの谷』(バーリー・ドハティ著 中川千尋訳 新潮社 のちに『蛇の石 秘密の谷』に改題)もポイント高かったけれど、これもいいですね。「少女の気持ち」という視点から読みました。そういう意味では、成功してる。

むう:うまいなあ、と思いました。最初の、インドに行くといってホスピスに入るおばあちゃんのエピソードはへええ、と、どんでん返しに感心してしまった。おばあちゃんの元気の良さもいいし。とてもきれいな訳文ですしね。全体の印象としては、すごく強烈に何か動くとかひとつのドラマをぐっと掘り下げるというのではなく、穏やかで抑えた感じでした。この女の子の成長物語というよりは、家族というか、ひとつの農場が否応なく変わっていく歴史を書いた作品なんだろうと思いました。

すあま:印象としては、連作短編集という感じ。特に最初の話がインパクトがあります。短い中で、ストンと落ちて終わる。児童文学として出ているけれど、大人の短編集という感じがしました。読んでいて思い出したのは、モンゴメリの『赤毛のアン』シリーズにある短編集(『アンをめぐる人々』など)です。ただ、この表紙の絵は、物語から受ける印象と違ってちょっと子どもっぽいような気がします。

トチ:でも、この表紙なら小学生も手にとるかもしれない。読書力のある小学生だったら読めるかもしれない。

愁童:いい本ですね。でも、この手の本はたくさんあって、新しい感動はなかった。これを今子どもたちに渡そうとする側の思いはなんだろう。ただ今回の3冊の中でこれがいちばん好きです。本を読んだという感動がありますからね。はっきりとした実在感を与えてくれる本で、説得力もありました。

ケロ:16歳くらいの女の子が主人公です。人間の根っこになるようなものを訴えかけている作品だと感じました。家族というのは、時を経るとともに変わっていくものです。今が絶望的でも、未来永劫その状態が続くわけではない。読者となる思春期の子は、今が変わらないかのように思いつめて絶望してしまう傾向があると思うけど、家族のそれぞれが成長しながらその関係も時とともに変わっていくものだということを、読者が感じてホッとできるといいなあ。最初の章の祖母ですけど、みんなが演じていたお芝居だったというのが、ちょっとしっくりきませんでした。どこでみんなが知ったのか? お芝居をする必要があるのか?「インドへ行く」といったとき、カッコいいじゃんと思ったのに・・・。また、「復活祭の嵐」の章で、お父さんとお母さんが踊るシーンですが、それを見た主人公にとっては裏切りのような複雑な気持ちになるのかも知れないけど、以降の父母の仲へつながる重要なシーンだと思いました。

アカシア:2回読んだんです。最初読んだときはとってもいいなと思ったんだけど、2回目読んだら情緒的に流れるところが目についてしまって、どうなのか、と考えてしまいました。インドへ行くと言ってホスピスに入るおばあちゃんですけど、家族の者たちはそれがわかっているのに、その後おばあちゃんの存在は忘れられてしまう。それに家族観が古いのも、ちょっと気になりました。みんながお父さんに気兼ねしてて、崩れかけた家父長制をどう支えていくか、みたいなところもある。ドハーティなので当然文章はうまいし、翻訳もうまい。「このホワイト・ピーク・ファームはいつだって、あなたの帰ってくる場所よ」という最後のしめくくりも泣かせる。うーん、だけどね。

すあま:私も、さっきモンゴメリを例に出したのは、同じような時代の話なのかと思っていたからです。

トチ:私は、もともと家族って理屈じゃ割り切れない、ぐじゃぐじゃで、どうしようもないものだと思ってるから、違和感はなかったわ。でも、課題図書になっているって聞いて「えっ、どうして?」と思った。この本を子どもに読ませて、どういう感想を期待しているのか、選んだ大人たちのおなかの中が見えるような気がして、白けちゃう。

:ノスタルジーの物語ですね。

カーコ:私はいいお話だと思いました。等身大の主人公の女の子が、迷いながら、自分の道をさがしていく話なので、中・高校生の読者がすっと入っていけそう。人物が多面的に、一つの型にはめこまずに描かれていて魅力的でした。文学として質の高いこういう作品が、課題図書として読まれるのはいいことでは? 主人公の家族が古典的なので、その辺をみなさんはどう読まれるかなあと思っていたのですが。現代の日本のリアリズム作品って、大人も子どもといっしょになっておろおろしていたり、気分ばかりが重視されるようなものが多いから、こういう一見あたりまえの家族の機微を描きこんだ作品は安定感があっていいなあ、と私は思いました。

きょん:ずいぶん前におもしろくさらっと読みました。おもしろく読めるけれど、あとに残らない。お話としては質がいいけど、インパクトは弱い。『若草物語』(オルコット著)とか、『大草原の小さな家』(ローラ・インガルス・ワイルダー著)とかは、一人一人家族が描かれているけれど、インパクトは弱くない。どうしてかなと思いました。

せいうち:途中までしか読んでいないのですが。非常にいい小説だと思います。小説としてちゃんとしたものを久しぶりに読んだなあと。すごく感じたのは、家族のことを描いているのだけれど、複数の人間がいると何かが思い通りにいかないということ。おばあちゃんが、いったん大学に行って、やむを得ず戻ってきたことを、一切口にしなかった、というところで、非常に無念だった思いが伝わってきましたね。

(「子どもの本で言いたい放題」2003年6月の記録)


2003年06月 テーマ:のりこえていく子ども

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『2003年06月 テーマ:のりこえていく子ども』
日付 2003年6月19日
参加者 愁童、ケロ、きょん、トチ、すあま、アカシア、むう、せいうち、裕、カーコ
テーマ のりこえていく子ども

読んだ本:

笹生陽子『楽園のつくりかた』
『楽園のつくりかた』
笹生陽子/著
講談社
2002.07

版元語録:エリート中学生に転校の悲劇。しかもド田舎の学校で、同級生は3人。バカ丸出しのサル男、いつもマスクの暗い女、アイドル顔負けの美女(?)…。ああ、ここは不毛の地? それとも楽園なの? *第50回産経児童出版文化賞受賞
パトリシア・ライリー・ギフ『ノリー・ライアンの歌』
『ノリー・ライアンの歌』
原題:NORY RYAN'S SONG by Patricia Reilly Giff, 2000(アメリカ)
パトリシア・ライリー・ギフ/著 もりうちすみこ/訳
さ・え・ら書房
2003

版元語録:新生アメリカへの大量移民を促したアイルランドのジャガイモ飢饉。その渦中にあって,家族のために逆境をはね返した少女の物語。
バーリー・ドハーティ『ホワイト・ピーク・ファーム』
『ホワイト・ピーク・ファーム』
原題:WHITE PEAK FARM by Berlie Doherty, 1984(イギリス)
バーリー・ドハーティ/著 斎藤倫子/訳
あすなろ書房
2002.12

版元語録:イギリスの背骨といわれるダービーシャーの丘陵地帯にある農場の娘ジーニーが語り手となって、祖母がシェフィールドのホスピスに入ったことや、ジェシー伯母の事を語る。 *2002年度課題図書

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バドの扉がひらくとき

クリストファー・ポール・カーティス『バドの扉がひらくとき』
『バドの扉がひらくとき』
クリストファー・ポール・カーティス/作 前沢明枝/訳
徳間書店
2003.03

トチ:ニューベリー賞をとったときから、おもしろそうな本だなと思っていました。『穴』(ルイス・サッカー作 幸田敦子訳 講談社)や『シカゴより怖い町』(リチャード・ペック作 斎藤倫子訳 東京創元社)と同じような、ストーリーと歯切れのよい文章で読ませる本。トム・ソーヤーやハックルベリー・フィンのころから脈々と続いている、アメリカ文学の伝統のようなものを感じました。深刻な内容なのに、ほら話のノリで、読者をじめじめさせない。いまのアメリカの児童文学は元気がいいと思います。「バドというのは、つぼみという意味なのよ」と主人公の母親が語るところで、ジーンときました。

カーコ:とても楽しく読みました。まず、どこまでも子どもの視点で書かれていることが目をひきました。「バドの知恵」で、大人の世界のたてまえと本音をユーモラスに指摘しているのもおもしろかった。それから、大人の人物がとても魅力的ですよね。バドを車に乗せてくれるおじさんもすてきだし、ジャズバンドの人たちもいい。訳も、歯切れがよくてよかった。作品のおもしろさを、よく引き出していると思いました。

ケロ:『穴』に似てたんですね。鉛筆を鼻につっこまれたり、蜂にさされたり、辛い状況にいるのだけれど、運を自分の味方につけちゃう。励ましてもらえる。どんどん辛いまま落ちこんでいく作品もあるけれど、こういうふうに元気づけられるのもいい。

:施設からいろんな家に送られたりすると、「バドの知恵」というようなのが身に付くようになるんですね。おもしろかった。

ブラックペッパー:私はあまりのれなかった。10歳というのはどういう年齢なんだろうとか思ってしまった。自分突っ込み型の一人よがり。『はいけい女王様 弟を助けてください』(モーリス・グライツマン作 唐沢則幸訳 徳間書店)のときと同じように、のれなかった。6歳で母親は死んでしまったのに、こんなにおぼえているのも不思議でした。

きょん:私はすっきりとおもしろく読めた。「バドの楽しく生きる知恵」は、サイコーだと思う。うまくごまかしながら、適当に合わせて、でも自分の価値観やプライドを失わずに、自分なりにユーモアで大波をのりこえていく。マーク・トウェインの『ハックルベリーフィン』と似てるといわれて、そうだな、と思った。そういうのがアメリカンスタイルなのですか? また、バドが、純粋に誠実に生きている姿は好感が持てます。全体に流れる「臨機応変に困難を乗り越え、まわりの人々ともうまくやりながら、大波を乗り越えて生きる」という思想にとてもひかれました。今の子どもたちには、いいメッセージだなあと思って。どこにいても、「潔癖にいい子」を求められて、過剰に干渉され、管理されているのが今の子どもたち。そんな子どもたちも、「適当に」「臨機応変に」でも「誠実に」生きていってほしいというメッセージが感じられますね。でも、「ママの持っていたチラシから、バンドマンがおとうさんだと確信して、遠路旅に出る」ところとか「バンドマンがおじいちゃんだったところ」「家出した娘を思って悲嘆にくれるおじいちゃん」などは、ちょっと安易だなあと思いました。その後、ハーマンがどうなったのかもちょっと気になりました。

ねむりねずみ:魚の頭と出くわすところなんか、かなり大げさに書いているんだけれど、それがいかにも子どもの早とちりのドタバタらしくていい。いろいろ苦労していて、それなりに抜け目がなかったりたくましかったりするのに、それでいて純情だったり言葉づかいがていねいだったりと、この主人公の作り方がおもしろいですね。ぎっちょさんとのやりとりで、労働組合のことを知って危ないところに近寄るまいとなんとか逃げようとがんばるあたりも、リアリティがあります。人がよくしてくれると、うまくそれに乗っていつもその場に居場所を確保する。とてもじょうずにその場にとけこむのに、その一方で決してかばんを手放さずいつも放り出されることを覚悟しているあたりも、主人公の苦労がしのばれます。だから、最後にかばんの中身を広げるところで、ぐっと胸に迫るものがあるんですね。同じ作家の『ワトソン一家に天使がやってくるとき』(唐沢則幸訳 くもん出版)も読んだけれど、たいへんなことをおもしろく書いてしまう人だなあと、好感を持ちました。作者のあとがきでモデルがあると知ってびっくり。大変な時代のリアルなモデルを土台にして、明るい雰囲気のフィクションを作り上げたところにひたすら感心しました。

アカシア:『ワトソン一家〜』は英語で読んで、新しい作家だと感じました。文体がとても軽快でユーモアたっぷりなのだけど、歴史とか家族とか人種などのこともまじめに考えているのがわかる。アフリカ系アメリカ人の作家ですけど、差別とか抑圧を声高に言ったりはしない。『ワトソン一家〜』では、黒人の教会が爆破される事件が登場しますけど、エピソードとして出していて、糾弾したりはしない。この作家は、むしろ誰もがかかえる日常を書いていくのだけれど、文体のリズムだとか、生活の描写に、アフリカンアメリカンらしさが強く出ています。それに、この作家は、しかつめらしい顔をして書くのじゃなくて、自分も笑いながら書いているんじゃないかってところがありますね。こういう作品は、ユーモアにしても文体のリズムにしても、翻訳でその雰囲気を出すのは難しいですよね。この日本語訳も、最初だけ重いなあと思いましたが、だんだんに軽くなって読みやすくなりました。

ペガサス:久しぶりに、子どもらしい楽しい本を読んだなあと感じました。子どもらしい感覚をもとにした記述が随所にあるところがいいですね。p102の4行目、ママが持っていたチラシが気になってどうしようもなくなるというのを、カエデの大木にたとえているが、どのくらい高い大木になっていくかを子どもらしい表現で書いています。p154の後ろから4行目、お父さんに会いに行って、いよいよ扉をあけたと思ったら、「なんだ、中にまた扉がある」なんて、とてもユーモラス。そういうところも楽しかった。最後は、単におじいちゃんとバドの感動の対面という形で終わるらせるのではなく、素敵なバンドの仲間たちに一人前に扱ってもらって、仲間にしてもらうという形にしたのがよかったです。このように扱われるのは子どもにとってとても満足のいくことだし、読者には、ここで終わりではなく、この子のこれからの人生までが目の前にぱーっと見えてくる感じがします。訳は、名前で「ネボスケ・ラ・ホーネ」とか、うまく日本語にしているなと思いました。

愁童:すごく微妙な感じ。いいお話だなと思う反面、「ユーモア」って感じはぜんぜんしなかった。苛酷な環境を生きてきたということが、どんな場面でもきちんと読者に感じられるように書かれているのは、すごいなって思った。最後、いい大人ばかり出てきて、調子いいなって感じもあるけど、そこに到るまでのパドの描写に説得力があるので、素直にほっとしちゃうね。ほっとして読み終われる本て、今、必要なのかもな、って思いました。

トチ:孤児院にいても、プライドを失わない主人公の生き方とか、歴史的な背景は知らなくても、日本の子どもにじゅうぶん伝わるところがあるのでは?

愁童:一人称で書かれているのに、客観描写のようにジャズマンや運転手の人物像がはっきりとイメージ出来る。うまいなって思いました。

アカシア:アフリカ系の作家だと、ミルドレッド・テーラーが『とどろく雷よ、私の叫びをきけ』(小野和子訳 評論社)のシリーズで、同じ時代を舞台にしてますよね。そっちは深刻な差別を、まなじりを決してえぐり出すように書いています。でも、カーティスは若い世代ということもあって、差別は随所の記述から推し量れるけど、それを正面から糾弾するわけではない。原文はもっとユーモアがあるのかも。でも、同じ質のユーモアを日本語で表現するのは無理ですよね。

すあま:気持ちよく読めたし、読んでいて楽しかった。安心して終わるしね。「何かが閉じても新しい扉が開く」と信じて進んでいくから、ロードムービーのように、どこに行きつくかなと思いながら読み進めていきました。現代の本だと、大人も不安定で自信がなく描かれていますが、時代が前のものだと、大人がしっかりしていて、子どもたちにきちっと接しています。バンドの人たちの子どもとの距離感がいいですね。最後は、うまくいきすぎかもしれないけれど、謎解きのようになっていて、すっきりとして読み終えられました。装丁の絵もいいな。

(2003年05月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


父のようにはなりたくない

阿部夏丸『父のようにはなりたくない』
『父のようにはなりたくない』
阿部夏丸/作
ブロンズ新社
2002.06

トチ:子どもの本かな、大人の本かなと首をかしげながら読んでいたのですが、後書きをみて納得。子どもと親の両方が対象だったんですね。対象にあわせてうまく書くという、職人技のようなものは感じたけれど、内容はねえ・・・作者の言いたいことがまず先にあるようで、物語よりもエッセイにしたほうが良かったのでは。それと、なんでこんなにつまらない母親ばかり書くのかしら。ナイフを子どもに持たせるとキャアキャア騒いだり。それに、周囲にはいろいろな事件が起こっても主人公の家庭にはさほど影響がないという物語の展開も、フェアではないような気がしました。だから、エッセイみたいな感じがするのかも。

ケロ:私はちょっとだめでした。軽いという意味では、「バド」と似ているかもしれないけど、一緒にしないでって感じ。父親は釣りからいろんな人生訓を学んじゃって、息子に教えたがるんだろうな。その言いたいことが地で出てる感じ。浅田次郎みたいだけど、そこまでいってない。ちょっといいシーンもあるんだけどね。子どもは、「うちも、こんなこと、あるある」みたいに読むのでしょうか。

:みなさんおっしゃったとおり。タイトルと表紙で期待して、いいところを探そうとしたんですけど、お父さんが出てきて「これかよ!」と、がっかり。お母さんは、みんな同じふうで。

:私も、これは困ったな、と思いましたね。タイトルは普遍的な命題なのに、この本の中のどの話にも問題提起がない。なぜかというと、一つ一つの家族にリアリティがない。大人の側の言い訳と押しつけがある。小説なら小説を世界をきっちり構築しなければならないのに、言い訳が勝っている。同じ世代のお父さんたちを代弁しているんでしょうね。気弱というか、意地もなく、言葉も持たないお父さんたちね。

きょん:同じ作者の『ライギョのきゅうしょく』(講談社)や『見えない敵』(ブロンズ新社)がなかなかよかったので、今回この作品を読んでみようと思いました。まじめな作家なんだと思うけど、お父さんのエッセイみたいな内容でしたね。

ねむりねずみ:みなさんのおっしゃったとおり。読んでいて、前にこの会で取り上げられた『ハッピーバースデー』(青木和雄作 金の星社)を思い出しました。著者のメッセージがベタでぶわーっと出ている。作品世界になっていないし、フィクションになっていない。こんな事が言いたいんだろうなあというのが見え見え。作品を書く動機はとてもいいのだけれど、ちゃんとした作品世界を作り上げられなければ、せっかくの善意も空回りになってしまうのでは?「泣き虫のままでいい」だけがお母さんの立場なんだけど、それだからといってたいした工夫があるとは感じられませんでした。

ペガサス:これは1編だけしか読んでいないんですが、ほかの2冊が構成などとても工夫されていて、新しい児童文学だという気がしていたのに、これはなんの工夫もない。この第一話の父と息子の会話からして、こんなこと言うかしらと思いました。

愁童:少し前なら、「こんな甘いお話!」って切り捨ててしまったかもしれないけど、まわりを見ると、この本読ませたい親がいっぱいいるんだよね。短編の作り方としてはうまい。ちょっと読み手の虚をついておいて、最後ぽんと落とす。説得力あると、ぼくは思うけどな。野球の話の、コーチと子ども達の関係なんか、いいとこついてると思う。

きょん:野球の試合で、三振しても「ドンマイ」「がんばったね」っていうのが、今の子どもたちを取り巻く現状だけれど、やっぱり試合には勝たなければ意味はないし・・・とか、メッセージには共感をおぼえました。言ってることは、とってもシンプルでわかりやすい。そこのところが優等生的なんだと思います。

(2003年05月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


うそつき

マロリー・ブラックマン『うそつき』
『うそつき』
マロリー・ブラックマン/作 冨永星/訳
ポプラ社
2002.12

トチ:おもしろく読みました。ジェンマとマイクが交互に出てくる構成がうまいし、坂道をころげおちていくようなスリリングな展開が楽しめる。ただ、どんな風にまとめるのか、読んでいる最中から気になっていましたが、結末がちょっと苦しい感じがしました。この本でいちばん迫力があって、光っているのは冒頭の部分ね。バドといい、この本といい、子どもの本の翻訳者はいい仕事をしていると思う。

カーコ:最近英米で賞をとるものは、たいがい構成がしっかりしているというか、どこか「おっ」と思わせるような構成の工夫があると常日ごろ感じているのですけど、これも、しっかりとした構成がある作品。2人の主人公が、どんどん追いつめられていく感じがうまく出ていておもしろかったですね。

ケロ:追いつめられていく側や追いつめる側を一方的に書いているものはよくあるけれど、これは両側から、ある一つの言葉がどうして出てきたかまでが書かれていますね。バドと対照的で、マイクっていうのがどういう子なのか、最初はつかみにくかった。お母さんと子どもとの関係が、オーバーラップしながら見えてきます。母親から捨てられたんではないかとか、母親から離れるという体験は今は多いから、読者が自分にひきよせて読めるかな。

:今回のテーマは男の子の気持ちでしたよね。マイクに感情移入して読みました。「ありがたいって思ってるんだろうな」とおじいちゃんに言われるシーンでは、どんなに傷ついたかと思って、読んでいてズキリときました。大人にとってちょっとした誤解でも、子どもにとっては全世界になってしまうんですね。いろんな現象があって、子どもがかかえている問題の重さはなかなかはかれない。カバー袖に「互いに好感を持ちながらも」とあるけど、この子たちはどこでひかれあったのか疑問でした。マイクもジェンマにひかれてたんですか?

ブラックペッパー:私はジェンマにひかれた。たくさんのお母さんの記事をスクラップをするところから、ひかれて。構成が細切れなので、途切れたところでどうなってしまうのかと心配になってしまう。みんなたいへんで、痛々しい。最後、ジェンマがみんなに告白するところは、ちょっと人間が変わりすぎかなと思ったし、マイクのおじいちゃんが最初すごいことを言っていたのに、どの辺からこんないいおじいさんになったのかと疑問に思いました。

ペガサス:マイクの側から書いているからじゃない? マイクの心の動きで、変わって見えてきている。

愁童:老人夫婦はとてもうまく書けていると思う。マイクに対して、きついことを言ったりするおじいさんの後で、おばあさんがマイクをやさしくフォローしたりして、長年連れ添った老夫婦が、ごく自然に書かれているね。

すあま:急いで読んでしまったのですが、お母さんを失った男の子と女の子の話で、それぞれに傷の深さは違います。特に、ジェンマはぼろぼろという感じで始まって、その後お互いに傷つけあうのがなまなましくて、読んでいて辛かったです。最後のハッピーエンドを求めて読んでいくという感じでした。楽しい本ではないから、好き嫌いはあるでしょうね。最後、ジェンマの解決が簡単すぎると思ったけど、傷ついている子どもが、ちょっとしたことで立ち直ることもあるので、安易とも言いきれないですね。二人の両方の立場で書かれているので、場面がぱっぱっと切り替わる感じがよかったです。

:この本は、大人の小説でも扱えるくらいテーマがありますね。大人の本だともっと書き込めるだろうけど、子どもの本だから難しかったんでしょう。大人の本だと、言葉に限定して表現できないことは、メタファーを使って表現する手法を使えますが、子どもの作品だとそれが難しい。作者は、構成が見えて書いているから、途中、加減をしながらほのめかしていく。両方の側から見ていけば読者は受け入れられるけれど、マイクの立場だけで見ていくと、ジェンマにされていることは理不尽。えぐいですよね。不自然なところが出てくる。チャレンジングな作品だけれど、そういうところに疑問が残りますね。

きょん:いじめる側といじめられる側の心理が描かれていて、対話のように交互に入っていく構成がおもしろかった。早く解決を見たくて読み進みました。マイクとジェンマの心のすれ違いが、なんともいえずイライラしました。子どもの心の描写、移り変わりが、しつこいくらい細かく書かれています。ジェンマの心のゆがみは、あまりにひどくて救いようがないし、こんな子っているのかもしれないけど、あまり好きになれませんでした。ジェンマは、マイクを脅迫したある日、「誰のせいでもない自分のせいなんだ」って気づきますが、何が自分のせいなのかがはっきりしてこないのが気になります。また、子どもの気持ちと、ちょっとずれがあると思いました。高学年の子なのに、お母さんの手紙を読んだときお母さんは会いたくないと思っていると考えてしまうところとか。ジェンマとマイクの関係が深みにはまっていく姿は、説得力があって、すごくいやでした。最後、川のほとりで話すとき、「お互いが安全弁になってくれた」というのは、すっきりきませんでした。また、ジェンマは「自分のせい」だから、自分を変えようと行動するけど、最後にあまりにもガラッと積極的に変わりすぎるので、それもどうなんだろう、と・・・。

アカシア:ちょっと前に読んだので、細かいことを忘れてしまっているのですが、翻訳は会話のところが特に、いきいきしていていいなと思いました。でも、作品の中で作者の視点がずれるんじゃないかな。おじいちゃんが嫌みを言って、その後いいおじいちゃんに変わるように取れるというところも、このおじいちゃんが最初にどうしてこんな言い方をしたのか、作者はきちんと考えているのかどうか気になります。考えているのなら、ちゃんと書いておいたほうが読者も納得します。山場の、マイクがジェンマにそそのかされて盗みを犯すところも、ジェンマは自分の心の内を探っているだけで、マイクに対してはどう思ったのかきちんと描かれていません。母親が祖父にあてた手紙をマイクが読んでしまったところも、手紙そのものは誤解される余地なく愛情あふれるものとして書いているのに、読んだマイクの方は「会いたくないんだから、ぼくを責めてるんだ」と思ってしまう。母親の手紙がどちらにもとれるようなものであれば、マイクの誤解もわかりますが、そうでないので読者はとまどうでしょうね。ジェンマとマイクの関係も、ひかれあうというなら、もう少し読者に納得できるようにそこも書き込んでほしいと思いました。

ペガサス:構成がすごい。ちょっとずつちょっとずつしかわからないから、どんどん先を読みたくなります。ただ、2人がとことんすれ違って、とことん傷つけあうところはひじょうにうまく書けているのに比べて、回復していくところが弱いかも。だから、これほどまで痛めつけられたマイクが、最後にジェンマとここまで急に好意的に話ができるというのはどうかと思っちゃう。話なんてしたくもないだろうと思うのに。またp165で、ジェンマがガラスに映る自分の顔を見て、急に、こうなったのは自分のせいだと気づくところは唐突に感じました。書名の『うそつき』というのは、ジェンマがマイクに言っていることなんでしょうか? 途中でわからなくなりました。ジェンマが、クラスの子の前でマイクをかばうために勇気をもって発言しますが、自分がゆすっていたことは言わなかったし、本当のことを言っていないのですっきりしません。ジェンマもうそつきなわけだから、書名の意味は両方のこと?

愁童:父親もうそをつき、母親もうそをつき、みんながうそをついている中で四苦八苦し、結果として自分たちもうそをつかざるを得ないところへ追い込まれる子ども達の真実を書きたくて『うそつき』という題名になったのでは? ジェンマとマイクを交互に書いているから、女性はマイクに肩入れし、男性はジェンマに肩入れする傾向があるかな?

複数:男性だからどっち、女性だからどっちとは言えないのでは。

アカシア:終わり方はどう?

愁童:何も解決はしていないよね。でもそれでいいんだと思う。

ペガサス:どちらかに肩入れするというより、どちらも読んでいくところにおもしろさがある。

ウェンディ:マイクが、父親を殺したのは自分だということを隠している(したがって読者にも明かされない)とわかった時点で、マイクの気持ちや言動をふりかえると、しっくりしません。それに、ラストで2人があそこまであっけなく考え方や行動を改められる点も、みなさんがおっしゃるように、できすぎのようにも思います。けれど、ふとしたすれ違いが積もり積もって、思いもよらない事態に発展してしまったり、逆に、ひょんなことがきっかけでわだかまりが解けたりとなんていうことは、現実には意外とあるのかもしれませんね。それにしても、結末を知ってから読み返しても、2人がどんどんすれ違っていってしまうあたり、もどかしくてたまらなかったんです。でも、いろいろ粗削りのところはあるけれど、一人一人の心の動きみたいなものをここまで丁寧にリアルに書けていて、書ける作家だなあ、価値のある作品だなあと思いました。

ねむりねずみ:特に中学ではいじめは日常茶飯事で、学校では一番の問題なんだけど、いじめを扱うのは非常に難しくて、児童文学でいじめを正面から扱って成功しているものにはほとんどお目にかかったことがありません。いじめの本質をついていなかったり、単なる舞台背景になっていることが多くて。実際のいじめでは、半分は自分自身の思いこみから子どもが勝手に追いつめられ、極端な行動に走ることで状況が突然悪化するというケースが多いわけだけど、この作品はそのあたりがよく描けていると思いました。いじめる側からといじめられる側からの二つの視線が平行して進んでいくことで、両者のすれ違いがはっきり見えるのは、着想の勝利だと思います。結末も、実は何も解決していないというところがリアルじゃないですか。ひょっとしたら、ジェンマは自分の行動を変えようとがんばりすぎて破綻するのかもしれないけど、ジェンマが何とかしようと思ったという一点が救いになって、読後感が暗くならずにすんでいます。細かく見ていくといろいろと不自然なところもありますが、正面からいじめを取り上げつつ、暗いままで終わらせず、リアリティを保っているところは評価できるんじゃないかな。

(2003年05月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


2003年05月 テーマ:少年の現実

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『2003年05月 テーマ:少年の現実』
日付 2003年5月22日
参加者 愁童、羊、ケロ、きょん、ブラックペッパー、トチ、すあま、アカシア、ねむりねずみ、裕、ペガサス、カーコ、ウェンディ
テーマ 少年の現実

読んだ本:

クリストファー・ポール・カーティス『バドの扉がひらくとき』
『バドの扉がひらくとき』
原題:BUD, NOT BUDDY by Christopher Paul Curtis, 1999
クリストファー・ポール・カーティス/作 前沢明枝/訳
徳間書店
2003.03

<版元語録>ニューベリー賞受賞  バドが六つの時にママが死んだ。10歳になったある日、バドはひとりで、まだ見ぬお父さんを捜しにでかけることにした。ママが遺してくれたジャズバンドのチラシを手がかりにして。一九三〇年代の大恐慌のまっただなか、もちまえの明るさと知恵で困難を乗りこえていく黒人少年の姿を、ユーモア溢れる語り口で描いた感動的な物語。
阿部夏丸『父のようにはなりたくない』
『父のようにはなりたくない』
阿部夏丸/作
ブロンズ新社
2002.06

<版元語録>父親不在?母親失格?いや父親だって母親だって頑張っています! 今だからこそ考えたい家族のリアル。2児の父でもある著者が、家族の中でおきる小さな事件を等身大で描き出す。
マロリー・ブラックマン『うそつき』
『うそつき』
原題:TELL ME NO LIES by Malorie Blackman, 1999(イギリス)
マロリー・ブラックマン/作 冨永星/訳
ポプラ社
2002.12

<版元語録>学校でも家でも居場所のない少女ジェンマと、重すぎる過去を隠して学校にとけこもうとしている転入生マイク。たがいに好感を持ちながらも、ふとした言動から思わぬ誤解が重なり、思いもよらないいじめがはじまる…。

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カメちゃんおいで、手の鳴るほうへ〜友だちになれる亀の飼い方

中村陽吉文 アトリエ・モレリ絵『カメちゃんおいで、手の鳴るほうへ』
『カメちゃんおいで、手の鳴るほうへ〜友だちになれる亀の飼い方』
中村陽吉/文 アトリエ・モレリ/絵
講談社
2002.12

カーコ:カメを飼っている子や、カメを飼おうと思っている子が喜んで読みそうな本だと思いました。へえーと思うことがたくさんありました。でも、すっきりとした絵が入っていてとっつきやすい一方で、全体に漢字が多いのが気になりました。

ブラックペッパー:私、カメって、甲羅の中のことを考えるといやだったの。図書館から借りてきて、しばらく読まずにいたんだけど、おもいきって読んだらおもしろかった。カメと友だちになれるよという姿勢がよかった。笑ったところは、「煮えてしまう」ところ。これを読んだ子は買いたくなるだろうなと思った。ただ、タイトルはいいのか悪いのか。ほかに思いつかないからいいのかな。

愁童:今、カメを飼っている子って多いですよね。これ1冊あれば、カメ飼育のエキスパートになれるというような本だと思いました。

ペガサス:同じ著者が大人向きに以前書いた『呼べば来る亀』(誠信書房)もおもしろかった。この人のほのぼの路線が出てる。こちらは、カメを飼おうとしている子どもに読ませる本として作られている。この人とカメの付き合い方みたいなのが、本文に書かれて、下段には豆知識が書かれている。子ども向けに書いている作家ではないから、編集の人が手を入れているんだろうけど、「和室」なんて言葉の注釈もある。親切な編集の人だなあと思いました。この先生って、自分ではそうは思っていないだろうけれど、ユーモラスなところがある人。51ページのコメント「知らないカメの鼻は、押さないようにしましょう」なんていうのも、おもしろい。このあいだ、あるタレントがカメを数匹飼っているが見分けはつかないと言っていたけど、この本を読むと、こんなに親密につきあえることがわかって興味深かった。カメが人間を見分けるというのも意外だったし、まちがえて他人のところに行っちゃうと恥ずかしそうな顔をするというのも、おもしろかった。

アカシア:私は前にカメを飼っていたことがあるんですけど、その頃この本を読んでいればもっとうまく飼えたのにって思いました。でも、どのカメも犬みたいに馴れるっていうわけじゃなくて、この「カメちゃん」っていうのが特別なのよね。「ガマちゃん」と「シンちゃん」は「カメちゃん」ほど馴れなくて、それでも一生懸命やっているこの先生がほほえましい。近所のカメがいっぱいいる池から一匹もらってきたくなりましたね。ただ、冬眠用の水槽の用意のしかたがちょっとわかりにくかった。落ち葉と水を入れると最初にあるけど、「あたたかいベッド」って書いてあるし、27ページには「落ち葉の中から」って書いてある。水は途中で蒸発してなくなるの? カメの観察記録なんだけど、書き方はおもしろかった。「ときどきシンちゃんが、ガマちゃんの前に出て、鼻を押しつける。まるで『姫、しばしおとどまりを。』と、家来が言っても、『そちはうるさいのう、わらわは先に行くぞえ。』というように、ガマちゃんはドンドン行ってしまう。」なんていうの。

ブラックペッパー:この冬眠用水槽の「水を同じくらい入れ」って、何と同じくらいなんでしょうね。落ち葉と同じくらいということ?

アカシア:カメ飼育の実用書として見ると、絵に出てくる敷居とカメの大きさの比率がページによって違ったりもして、??と思ってしまう。

紙魚:私は動物のなかでも、カメはかなり上位に入るほど好きなんです。だから期待して読みました。動物もののおもしろさって、もちろん作者のその動物に対する愛情の度合いとかもあるのだけど、やっぱり生態がきちっと興味深く書かれていることが、私にとっては大切なんですね。この本は、カメを飼う人のための本なのか、カメに興味をもたせるための本なのか、焦点にちょっと揺れがあるように思いました。ただ、作者の人柄や、カメの気持ちの読み取り方がおもしろいので、楽しく読みきってしまいます。あと、イラストレーションがちょっとわかりにくいところがありました。カメちゃん、ガマちゃん、シンちゃんの顔のちがいとかって、もっとちゃんと見たいし、75・99ページのイラストなどはわかりにくかったです。

アカシア:この本はノンフィクションというよりは、読み物なんでしょうか。

すあま:『呼べば来る亀』は、大人向けで、大の大人の心理学者がカメを飼うっていうおもしろい本だった。こっちも、カメの飼い方の本というよりは、ノンフィクションの読み物にすればよかったのかも。

:うちの近所に、リクガメを散歩させてる人がいるのよ。『どろぼうの神さま』(コルネーリア・フンケ著 細井直子訳 WAVE出版)にも、くしゃみするカメが出てるじゃない。あれって、本当だったのね。生きものを飼う人って、こんな気持ちで飼うんだなということがわかりました。

カーコ:これはノウハウの本じゃないんじゃないかしら。これを読んだだけでは、カメを飼うのは難しそう。私も小学生のときミドリガメを飼ったことがあるんですけど、世話がすごくたいへんだったの。掃除をさぼるとすぐ臭くなるし、病気にもなるし。でも、この本からは苦労は伝わってこない。実際には、なかなかこんなにおおらかには飼えませんよね。おふとんをよごされたなんて、さらっと書いてあるけれど。

:カメってもっと獰猛じゃなかったっけ。かつて、うちのベランダに上の階からカメが落ちてきたことがあるんだけど、けっこう獰猛でしたよ。

(2003年04月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ビッビ・ボッケンのふしぎ図書館

ヨースタイン・ゴルデル『ビッビ・ボッケンのふしぎ図書館』
『ビッビ・ボッケンのふしぎ図書館』
ヨースタイン・ゴルデル&クラウス・ハ−ゲルップ/作 猪苗代英徳/訳
NHK出版
2002.11

すあま:おもしろく読めたので読み物といえば読み物だけど、教育目的で作られた本でもありますよね。現実の本づくりともシンクロしてる。ただ、ビッビさんは、怪しい存在だったのが、実はいいお姉さんだったのも気になるし、最後の種明かしもなーんだという感じ。図書館の分類でも、日本には日本十進分類法というのがあって、この本に出てくるデューイ分類法とはちがうのよね。その辺の説明が、日本の子どもたち向けにほしかったと思いました。最後にわざわざ日本の読者に向けて加筆してるんだから、そのことにもふれてほしかった。

ペガサス:ノルウェーの6年生に配る本としてはよく考えられているなあとは思うけど、日本の子どもたちが読むにはどうかな。手紙のやりとりで構成するところは工夫されているけど、文面があまりにも饒舌な感じで、こんなこと書くかなあ、と思うところも多かった。最初は不思議な要素をとりこんでいるので、どんどん次を読みたくなるんだけど、ビッビがあまりにも良い人になっちゃうのは物足りないし、最後に自分でべらべらしゃべってしまうのもね。翻訳では、図書館の目録のところを、カード式索引と書いてあるんだけど、それは、カード式目録とかカード目録といったほうがいいんじゃないかな。203ページの「システム分類がされていない」というのは、よくわからない。分類法が整っていない、ということか?

アカシア:これはノンフィクションじゃなくて、教育的ファンタジーっていうやつかな。ノルウェーの子どもだったらおもしろいかもしれないけど、日本だと、図書館もコンピューター化されているところが多いし、レターブックのやりとりも、今ならメールでしょうね。なじみがなさすぎて、日本の子どもはなかなか入っていけないんじゃないかな。それに、ファンタジー物語としては、あんまりおもしろくない。図書館の仕組みを知るにはいいのかもしれないけど、それにしてもこんなに長々と読まされなくちゃいけないのかという感じ。挿絵に不思議な雰囲気があって、それに引っぱられて最後まで読めましたけど。NHK出版は、『ソフィーの世界』(ヨースタイン・ゴルデル著 池田香代子訳 NHK出版)を契約するとき、ヨースタイン・ゴルデルの本を全部契約しちゃって、出さなきゃいけないのかな。

紙魚:先日ある講座で、スプートニクショック後、アメリカが科学技術教育に力を入れるために、何冊かの本を子どもたちのために選定したという話を聞いたんですけど、その本というのは、3歳児向けがルース・クラウスの『はなをくんくん』(邦訳は福音館書店)、4歳児向けがエッツの『わたしとあそんで』(邦訳は福音館書店)だったというんですね。日本であれば、直球の科学絵本が選ばれそうだと思いませんか。これは、図書館学の本だけど、もし日本でそれを学ばせたいと思ったら、いきなり十進分類法が入ると思うんですね。だから、ここまでまわり道をしながら図書館の全貌をつかんでいこうとする姿勢には、どこか豊かなものを感じました。でも、ちょっとこれはまわり道しすぎです。結局、物語としての広がりが感じられないので、おもしろく読めなくて残念でした。

カーコ:本についての本を書いてくれるように依頼されて書いたとあったので、そう思いながら読んだんですね。ミステリー仕立てで読者をひっぱって、本の世界を紹介していこうというのが作者の意図なのでしょうけれど、私は、ミステリーのキーとなる「ビッビ・ボッケンの図書館」に魅力を感じられず、苦しいかなと思いました。気になったのは、主人公の二人の言葉遣い。12、3歳の子が書く手紙って、こんなふうかしら。とくに女の子の言葉遣いが、昔のお姉さんみたいで入りにくかった。原書で読むと、もっと軽い感じなのかも。それに、中でいろんな本が紹介されるわけだけれど、唐突さが目につきました。とくに、この子たちが、詩や戯曲まで話題にするというのは無理がないかしら。作為が見えて興をそがれました。それから、161ページのリンドグレンの本について語っている部分で、当の男の子が、こういう本は大人になってから読み返してもおもしろいだろうというようなことを言うのは、大人の視点じゃないかしら。260ページの「ぼくは、生まれてはじめて、本とはどういうものなのかを知った。本は、過去の人たちを生き返らせて、いま生きている人たちを永遠に生かす、小さな記号で満たされた魔法の世界なんだ。」ってところを読んだとき、これが作者の言いたかったことかな、と思いました。

アカシア:私はへそ曲がりだから、本に作者の「教えてやろう」とか「面白がらせてやろう」という作為が見えるのはいやなんですね。『はなをくんくん』とか『わたしとあそんで』には、そういう作為は見えませんよね。私がノルウェーの子どもでも、こういう「教えてやろう」式の本はいやだったかも。

(20031年04月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


エンデュアランス号大漂流

エリザベス・コーディー・キメル『エンデュアランス号大漂流』
『エンデュアランス号大漂流』
エリザベス・コーディー・キメル/作 千葉茂樹/訳
あすなろ書房
2000.10

紙魚:釘付けになったのは、写真です。どの写真も一枚一枚、非常に興味深かった。こういう物語って、私は細部が知りたくなります。だから、本文はちょっとあっさりしすぎているように感じました。食べ物がないといっても、どんな食べ物を食べていたか、味付けはどんな感じだったのかとか、どんな服を何枚着て、どんな状態になっていったかとか……。すでに回想録となってしまっているので、そういう細かいところが出てこないところ、それから最初の方に航路の図が出ていて、読み終わる前にどうなるかわかってしまうところが、ちょっと残念でした。でも、おもしろかった。写真を撮りつづけて、それをきちんと所持し保管していたことだけでも、本当にすごいと思います。

アカシア:私は、おもしろく読みました。漂流そのものよりも、失敗しつづけて家族を省みず、それでも探検がやめられないという、影の部分ももあるシャクルトンの人物像がおもしろかった。千葉さんの訳も読みやすかった。この時期、評論社からもエンデュアランス号についての本が出たわよね。どうしてそんなにシャクルトンが出てきたの?

ブラックペッパー:シャクルトンの映画が来たからだと思いますよ。

ペガサス:子ども向きの冒険物語で薦められるものは何かと考えた時、『ロビンソン・クルーソー』などの古典的冒険ものか、そうでなければ今はファンタジーになってしまうのよね。でもファンタジーの冒険と、現実の冒険とはちがう。だからといって、昔の冒険小説って、つまるところ強者が弱者を征服する話でしょ。そういうものを今の子どもたちにそのまま薦めていいものか、という思いがある。そうなると、今、子どもたちに現実の冒険として手渡せるのは、ノンフィクションなのかな、と思う。この本には本当にすごい冒険があって、魅力的な人物にも出会える。子どもが読めるこういうノンフィクションがもっと出てもいいと思う。

:去年の夏に息子が読書感想文を書かなくちゃいけないとき、親としてお薦めの本を選んだんだけど、その中にこれも入れておいたの。結局、息子は「教科書みたいでつまんないから」と言って読まなかったのね。どういうものがアピールしたかというと、チベットを旅する高僧の話(井上靖だったと思う)なのね。ヒューマンドキュメントなんですよ。いわゆる、ノンフィクションのドキュメントと歴史小説はどうちがうんだろう。たとえばサトクリフは、英雄のそばにいる人がどう生きたかを書いてるし、『ジョコンダ夫人の肖像』(E・L・カニグズバーグ作 松永ふみ子訳 岩波書店)のベアトリーチェなんかも面白いですよね。ノンフィクションであっても、物語性のあるなしに面白さの鍵があるのかなと思いました。

アカシア:歴史小説はフィクションよね。でも、この本はノンフィクション。ノンフィクションは事実しか書けないから、それなりの重みもあるのでは? 本当にこんなことがあったのだ、というのはやっぱり強いわよね。

カーコ:そうそう。沢木耕太郎が、ノンフィクションには実際に起こらなかったことはつけ加えられないって、どこかで書いていましたよね。

:塩野七生とかは、フィクションだものね。

アカシア:これが教科書的と思われたのは、レイアウトのせいじゃないかしら。ちょっと見では古くさい硬い感じがするけど、読んでみると最初の印象よりは、ずっとおもしろかった。

すあま:私はエンデュアランス号について知らなかったんですけど、食料に困ったりすることもなく、波がきても、奇跡的に助かって、と事実が淡々と述べられているので、そのまま淡々と読んでしまった。全員が生還するのはすごいことだし、実際に困っているんだけれど困った感じがあまり伝わってこない。そして、シャクルトン以外の人たちの見分けがつかなかった。もうちょっとエピソードで、ひっぱってほしかった。へたにイラストを入れないで写真だけにしたのはよかったと思います。冒頭、「南極大陸は」というよりは、「アーネスト・シャクルトンは」というように人物の紹介から始まっていれば、入りやすいかもしれない。

アカシア:私は淡々としているとは思わなかった。アウトドアが好きなせいもあるかもしれないけど、けっこうドラマティックだと思って読んだな。

すあま:自分が死んでも記録を残そうとしたのはすごいですよね。もうちょっと読みたいと思うところが、さらっと終わっているので、物足りなく感じたのかもしれない。ノンフィクションが好きという子には、いいよね。うまく紹介すれば、ちゃんと読まれる本だと思います。

ブラックペッパー:作為の反対側にあるんですよね。私はそれがいいと思いました。

ペガサス:ノンフィクションの場合は、自分の経験とか、これまでに読んできた本で、読者の受け取り方がちがうのよね。

ブラックペッパー:私は「人間って!」と思ったんですよね。シャクルトンのリーダーとしての人柄がいいと思ったんです。隊員がこの人についていけば助かるんだと信じていた、そこがいい。シャクルトンは、食べ物がなくなったときに隠していた食べ物をふるまうとか、たいへんなところは自分が引き受けるぞという精神にあふれていて、そこを読んでほしいんですよね。お話としては、はらはらどきどきを求める人には、だめだったかもしれないけど。

カーコ:おもしろかったです。我慢ができない読者なので、最後どうなるんだろうって、読み始めてすぐ、後のほうの写真などを見ちゃったんですけど。文章は、作者がわざとおさえて書いているという印象を受けました。びっくりさせるような書き方をしていない。ゲーム的なすばやい展開に慣れた人には、あっさりしているかもしれませんね。人生の不思議さ、自然と人間の不思議さを感じさせられました。嵐が突然やむところなんか、フィクションだったら、逆にリアリティがないって言われてしまうでしょう? でも、本当にあったこと。歴史の表舞台には出てこないけれど、すごい人がいるんですね。写真がすごくよかった。1914年から1916年でしょ、明治の終わりですよね。28人もの野郎どもが、こんなに長い間、閉鎖的な状況でサバイバルするなんて、すごいですよね。

ブラックペッパー:そうですよ。それなのに、お楽しみとかしながら、過ごしていくんですよね。

カーコ:時系列的な図がどこかに入っていても、よかったのかな。そのほうが、一年半という時が流れていたすごさが、もっと感じられたかも。人間ってこういうこともできるんだなって。

紙魚:楽器をとりに帰るところ、いいですよね。こんな極限の状態でも、人間って音楽を聞くんだって、じわりときました。

すあま:この本、ビジネスマンに売ってもいいんじゃない。雑誌『プレジデント』なんか読んでる人のために「家族に顧みられないあなたへ」とかの帯つけて。

ペガサス:「リーダーになるための条件」とか「この春部長になったあなたへ」とかね。失敗を極度に恐れる傾向があるから、失敗するということを言わずに「負け組を勝ち組にかえる」とか。そういう言葉に弱いんだから。

(2003年04月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


2003年04月 テーマ:ノンフィクション

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『2003年04月 テーマ:ノンフィクション』
日付 2003年4月24日
参加者 カーコ、ブラックペッパー、愁童、ペガサス、アカシア、紙魚、すあま、羊、裕
テーマ ノンフィクション

読んだ本:

中村陽吉文 アトリエ・モレリ絵『カメちゃんおいで、手の鳴るほうへ』
『カメちゃんおいで、手の鳴るほうへ〜友だちになれる亀の飼い方』
中村陽吉/文 アトリエ・モレリ/絵
講談社
2002.12

オビ語録:先生のカメは、呼べば走ってくるらしい/亀ってそんなにかしこいの?/ほんとう?
ヨースタイン・ゴルデル『ビッビ・ボッケンのふしぎ図書館』
『ビッビ・ボッケンのふしぎ図書館』
原題:BIBBI BOKKENS MAGISKE BIBLIOTEK by Klaus Hagerup and Jostein Gaarder, 1993(ノルウェー)
ヨースタイン・ゴルデル&クラウス・ハ−ゲルップ/作 猪苗代英徳/訳
NHK出版
2002.11

<版元語録>ニルスとベーリットがレターブックの交換を始めてから奇妙な出来事が続く。謎の女ビッビだけがその場所を知る「ふしぎ図書館」、レターブックをつけねらう男…。これから書かれる本を探してふたりの冒険ははじまった。
エリザベス・コーディー・キメル『エンデュアランス号大漂流』
『エンデュアランス号大漂流』
原題:ICE STORY by Elizabeth Cody Kimmel,1999(アメリカ)
エリザベス・コーディー・キメル/作 千葉茂樹/訳
あすなろ書房
2000.10

<版元語録>南極探検の歴史に埋もれた「偉大な失敗」の記録!  すさまじい漂流の中、決して希望を失わず、またユーモアを忘れず、さまざまな困難を乗り越え、シャクルトン隊は28名全員が奇跡の生還を果たした。読むものに生きるよろこびと勇気をあたえてくれる物語。

(さらに…)

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ハッピーバースデー〜命かがやく瞬間

青木和夫『ハッピーバースデー』
『ハッピーバースデー〜命かがやく瞬間』
青木和雄/作 加藤美紀/画
金の星社
1997.01

もぷしー:じつは私、この本読むの3度目なんです。いいかげん飽きてもいい頃ですけど、こういう話は好きなんですね。心の問題を抱えている主人公あすかが、最後に元気になるという変化が植物のように無理なく書いてある。けっして劇的ではなく、ゆっくり変化していくのが、すごく好き。ただ、お決まりだなあと思うのは、最後の大団円。それから、何度読んでも、副題が邪魔に感じますね。古臭いです。

ペガサス:私はあまり好きじゃなかった。どの人のセリフも著者に言わされている感じでうそくさい。『葉っぱのフレディ』(レオ・バスカーリア著 童話屋)とか『一杯のかけそば』(栗良平著 角川書店)と同じようなものを感じてしまって。物語自体がうわすべりしていて、母親のことが言いたいのか、それともあすかのことが言いたいのか、はっきりしていないのもやっぱり評価できないな。今って、「泣ける本」みたいなのがもてはやされる風潮があるけど、そういう意図が見え見えで、反発を感じちゃった。

紙魚:私も好きになれない本です。道徳の教科書を読んでいるみたいで、アンダーラインがひかれて、ここで主人公はどう思ったのかなんて設問がうかんできそう。ただ、何が言いたいのかとてもわかりやすいので、というより、作者がそれをわざわざ言ってくるような本なので、きっと読者は読みやすいんだと思います。このところ、書店に並んでいる本が、これはこういう本ですって、帯やポップで、あらすじまで書いてあったりするんだけど、ひとつひとつ小さな扉をひらきながら読み進めていくような本が好きな私にとっては、もうちょっと読書の不思議を感じられる物語が読みたいな。

愁童:まあ読みやすいし、実際にこういうことってあるなとは思いながら読みました。『うそつき』(マロリー・ブラックマン作 冨永星訳 ポプラ社)と似た設定なんだけど、較べると、こっちはやっぱりカウンセラーが書いた本って感じ。それにしても、「おまえなんか生まれてこなければ……」と冒頭から書ける神経って、すごいね。

アカシア:私は、子どものころ、こういうタイプの本、けっこう読んでましたよ。その後いろいろな本を読んできて今読むと、なんだか困ってしまうのだけど。困るっていうのは、実体験に基づいているんだろうと思うから嘘っぽいとは言えないし切ないんだけど、作者がまじめに書いてる分、微妙な部分が逆に抜け落ちて紋切り型になってしまったりする。そうすると、文学とは言えないからね。

トチ:私は、最初から文学としては読まなかったわ。前に、関口宏の「本パラ」で紹介されていたのをテレビで見たけれど、そういうところからわっと火がついたのかしら。これは文学というより、カウンセラーとしての事例研究を読み物風にまとめたものね。どうしてここまで売れてるのか分からないけど。

もぷしー:読者にとっては、文学かということより、わかりやすいというところがいいんだと思います。相田みつをのストーリーバージョンという感じ。

ねむりねずみ:なんか読者に説明しすぎていて、それが一面的なので、作品としてつまらない。いかにもカウンセラー経験者が書きましたという感じ。精神分析の事例報告っていうのは、読みようによってはワイドショー的というのか、興味本位に半端なドラマを見るように読めるのだけれど、それに通じるところがあるように思う。作者の善意は認めるけれど……。最近、なんとなくすべてわかるようにしなくちゃだめという傾向を感じるのだけれど、なにかわからない部分もありつつ読み進め、何年も後になって、ああ、あれはこういうことだったんだ!というような読み方はできなくなっているのかな。もしそうなら、かなり深刻だと思う。

すあま:まあ、読書感想文を書きやすい、楽しくない本ですね。ユーモアのセンスがまるでない。いろんなことをつめこみすぎです。娘を愛せない母、というテーマでは、萩尾望都の『イグアナの娘』(小学館)というマンガを思い出しました。前半と後半は、シリーズの別の本にしてもよかったのかも。

紙魚:いやいや一冊にしてあるからこそ売れるんだと思います。すべて味わえるもの。

(2003年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


エルフギフト(上)復讐のちかい/エルフギフト(下)裏切りの剣

スーザン・プライス『エルフギフト』
『エルフギフト(上)復讐のちかい/エルフギフト(下)裏切りの剣』
スーザン・プライス/作 金原瑞人/訳
ポプラ社
2002.07

ねむりねずみ:もともと、スーザン・プライスは好きなんです。『500年のトンネル』(創元推理文庫)なんかもすごく好きだし。これもキリスト教が入ってくる前の世界が、匂いまで込めてよく書かれているなあと思います。そういう意味では力量に感心しちゃう。でも、突き放しすぎている気もして、それにすごく肉食的というかこれでもかこれでもかというところがあって、うむむむむ、これを子ども向けで出すというのはどういうことなんだろうと思いましたね。子どもの本として売るのは難しそう。

:今回のテーマは、子どもに支持されている本ということですけど、『エルフギフト』は、子どもに支持されるかどうかの可能性を考えるってことですよね。ほかの本は、支持されてることがはっきりしてますけど。

すあま:胃もたれしましたよね。こういう血なまぐさいのって、日本ではあまり好かれないんじゃないかな。楽しい話でもないし。

ねむりねずみ:登場人物がいっぱいなので、上巻の巻頭にもリストがあればなあと思いました。ときどき、ごちゃごちゃになっちゃって。あと、時代がそうだったからしょうがないんだけれど、男尊女卑がすごくてちょっといやな気分になったなあ。

ペガサス:人間と妖精のあいだに生まれたエルフギフトという存在にまず非常に興味をそそられるけれど、どうも彼のことがよくわからない。心で理解しても好きになれない。妖精だから仕方がないのか? 生と死が隣り合わせで、すぐに死んだり生き返ったりするのは神話の世界のおもしろさだけど、勧善懲悪というわかりやすい図式じゃないので、よくわからないところがあった。神話なんだからと割り切ってしまえばいいのだろうけど。だんだんエルフギフトについていけなくなるので、エバ、アンウィン、その妻ケンドリータ、ウルフウィアードなどについていこうとするんだけど、どの人にも途中で裏切られる感じがある。私は、人間ドラマを楽しみたいと思うほうなので、親子、夫婦、兄弟の関係が今ひとつ納得できなかった。

もぷしー:私も生理的に厳しかったです。そこまで人体を壊さないと語れないものでしょうか。サトクリフを読んでいるときは、きびしい現実を描いたお話でも自然に受け止められるのですが、『エルフギフト』では、キャラクターの理解をこえた行動に共感できなかったです。ずっと不安定感がつきまといますよね。全員がクールなキャラクターのなかで、エバだけが生身のキャラだということをかなり強く感じさせる。どちらも、そこまでクールでなくても……、そこまでグロテスクでなくても……と思ってしまって、消化不良な感じです。

アカシア:私はきっと少数派ね。これ、とても好きな作品なんです。スーザン・プライスは全体に好きなの。さっき感情移入しにくいっていわれたけど、主人公のエルフギフトは、半分しか人間じゃないんだから、当然人知では計り知れない行動をとるのよね。キリスト教の力と、それ以前のゲルマンの神々への信仰がぶつかり合う時代を、こういうかたちで描くなんてすごい才能ですよ。血なまぐさいという声も当然あると思うけど、こういう描写でしか伝えられない不思議なエネルギーが伝わってきますね。ほかの作品を見るときと同じ目線で見ると、わかりにくいと思うけど、この作家の作品はそういう尺度では計れないのでは? 私はわかりにくいとはちっとも思わなかった。エルフギフトは、キリスト教的近代の価値観につぶされていった原初的な価値観や素朴なエネルギーを象徴しているともとれますよね。でも、そう考えると、表紙の絵はちょっと違うという気もしました。

カーコ:上巻の最初の方は、次はどうなるんだろうと先の展開にひかれて読み進んでいったんだけど、下巻を読みはじめたくらいで、この世界はもういいやって、挫折してしまいました。なぜかといえば、残酷な場面を、これでもか、これでもかと克明に書きこんであるでしょう。うまいだけに、生々しいんですよね。血なまぐさいことをそこまでたたみかけて書く意味ってなんだろうと、途中から拒否感をおぼえてしまいました。それと、この物語の世界観についていけなくなってしまったんですね。王位継承の争いの中に、宗教の違いや、妖精と人間との関係がからんでくる。最後まで読めば、エルフギフトの特別な意味がわかっておもしろかったのかもしれないんですが。
文学としては上等だと思いながらも、ついていけませんでした。

ペガサス:人間関係がすごく冷たいのよね。背中から誰かが襲ってきても不思議はない世界。

きょん:予想していたのとちがって、なかなか入っていけなかったですね。なにしろ血なまぐさい。下巻に入ってやっとおもしろくなって、3人の関係がどうなるかという興味から、人の気持ちの揺れをたどっていけた。予測がつかないところが、おもしろかった。

トチ:私はとってもおもしろかった。特に上巻が。残虐だという話だけれど、残虐な話もこれだけ筆力のある作家が書くと、その残虐さがストーリーや表現の力強さを後押しする力になって、ますます圧倒されてしまう。キャラクターやイメージもくっきりしているし、背景になっている神話を知らなくても人間のドラマとして読んでいける、素晴らしい作品だと思います。人間の裏表がはっきり書けているので、登場人物の誰かに感情移入して読むのは難しいかもしれないけれど、私はスーザン・プライスという語り手を信頼して、ぴったりくっついて読み進んでいったのね。訳者の金原さんも、かなり力をいれて訳していると思います。例のプルマンの3部作(「ライラの冒険」シリーズ)もこれくらいの訳で出してもらえれば、日本でも欧米と同じくらいの話題作として取り上げられたのに・・・・

紙魚:私は、上巻読むのがやっとで、これから下巻を読む気にはとてもなれません。読みながらずっと、何か読み落としているんじゃないかと不安でした。最後まで、エルフギフトが何なのかくっきりとイメージを持てなくて、つらかったです。これって、子どもが読むのかな。

愁童:上巻はおもしろく読めたんだけど、下巻になると、どうもかったるかったな。でも、描写に勢いがあるんで読まされちゃうね。

(2003年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


デルトラ・クエスト(1)沈黙の森/デルトラ・クエスト(2)嘆きの湖

エミリー・ロッダ「デルトラ・クエスト」
『デルトラ・クエスト(1)沈黙の森/デルトラ・クエスト(2)嘆きの湖』
エミリー・ロッダ/作 岡田好惠/訳
岩崎書店
2002.09

トチ:読者の年齢が低くてもわかりやすい本ね。主人公の男の子が出てくるまでは、なかなか話に入っていけないけど、途中からは、作者もなかなかやるなと思わせられる筋立てでした。エミリー・ロッダの本は、主人公が素直よね。

きょん:わかりやすい話ですよね。エピソードがいろいろあるので飽きさせないし、主人公がよい子なので安心して読める。次はどんな怪物が出てくるんだろうと、男の子なんかは興味を持って読むと思う。

カーコ:すごく話題になって、売れていると聞いていただけに、かえって私は期待せずに読んだんですよね。でも、予想がいい方に裏切られて、「えっ、意外とおもしろいじゃない」と思いました。キャラクターが魅力的だし、宝さがしのストーリーにひっぱられながら、1冊1冊達成感を持って読めるでしょう。おもしろいと思ったのは、キャラクターにしてもしかけにしても、お話というもののさまざまな要素があちこちにちりばめているところ。作者が、昔話やお話の世界をよく知っていて、それをうまくとりこんでいるんだなあと感心しました。エンターテイメントとして、気持ちよく子どもたちに手渡したくなります。それと、言葉がらみの謎解きやパズルって、翻訳の場合むずかしいですよね。それが、ここでは自然に仕上がって、よく生かされているところに、編集の人のがんばりを感じました。

きょん:読者を裏切るおもしろさがあるのが『エルフギフト』。予測がつくおもしろさが『デルトラクエスト』。

ペガサス:中学年くらいの子が楽しく読める本よね。最初から、主人公にぴったりついていけるし、悪人が出てきたとたん、悪人だとすぐわかる。それを倒すためには何をすればいいかもはっきりしている。昔話の構造をそなえていて、とてもわかりやすい。なぞなぞも、ちょうど子どもが解きやすいように作られている。7巻一気に読むのはたいへんだけど、1巻分がちょうどいい分量で、アイテムを一つ一つゲットして次へ進んでいくうちに、全部読んでしまうというわけ。子どもは、キラキラのカードを集めたりするのが本当に好きなので、これはそういう気持ちを満足させるものがあると思う。7つの宝石は、絶対に全部ゲットしたいもの。大人としては全部読むのはちょっと苦労だけど、子どもはこれを全部読んだら、長い物語を読破した気分も味わえるし、とても満足できると思う。

すあま:小2の男の子も読んでいるんですよ。低学年でも本が好きな子なら、1冊1冊が短くて読みやすいと思う。何よりあの光る表紙が気に入っているみたいです。

ねむりねずみ:今回は途中までしか読めなかったんです。対象年齢が低いからだと思うんですが、今ひとつぴんとこなくて。でも、女性の書き方が、ロッダさんらしいなあと思ったのと、逆に対象年齢に合わせた本を書ける人なんだなあ、すごいなあと思いました。

紙魚:おもしろかったです。本当に飽きさせない。ところどころで暗号やらクイズが出てきたりするのも、小学生の時分だったら夢中になって読んだと思います。読者をぐんぐんひっぱっていく力があって、なにしろ子どもに読ませたいという作者の意志が伝わってくるようでした。それから、この装丁にするのは勇気がいるでしょうけど、やはり意志を感じました。これって、男の子にストライクなデザインだと思います。男の子が夢中になる幼児誌とか学年誌って、まさしくこれなんですよね。男の子に読ませたいという作り手のなせる技だと思います。
もぷしー(じつは担当編集者):読書経験がゼロの子でもおもしろさが味わえる本になればいいなと思って。私は、ずっと「本が好きでない子の、本を読むきっかけをつくりたい」と思っていたんですけど、このテキストに会ったとき、これなら! と思ったんですね。1巻ずつ少しずつ読んでいくうちに、結果として全8巻の長編を読めるようになっています。この装丁にしたのは、もともと男の子には、キラカードが人気があるということもあって、まず男の子に「面白そうだな」と感じてもらいたいと思って。書店に8巻並ぶと、男の子が見に来てくれているようです。どんな装丁がいいか、対象読者層にいろいろ聞き取りをしたりもしました。この本は、女の子より男の子の読者が多いのが特徴的。編集的には、作者のロッダさんとこまめに連絡をとりながら、日本の読者にもわかりやすく読んでもらえるよう、クイズやパズルの部分など、できるだけ工夫をしました。愛読者カードから、「クラスで競って読んでいる」とか「本を読むようになった。他におもしろい本があったら教えて」など、本を中心に遊ぶようになってくれた子どもたちの様子を知って、うれしく思っています。

(2003年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


2003年03月 テーマ:子どもたちに支持されている本など

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『2003年03月 テーマ:子どもたちに支持されている本など』
日付 2003年3月27日
参加者 もぷしー、ペガサス、紙魚、愁童、アカシア、トチ、カーコ、きょん、羊、すあま、ねむりねずみ
テーマ 子どもたちに支持されている本など

読んだ本:

青木和夫『ハッピーバースデー』
『ハッピーバースデー〜命かがやく瞬間』
青木和雄/作 加藤美紀/画
金の星社
1997.01

<版元語録>多忙で、アダルトチルドレンの母のひと言から言葉を失ったあすか。そんなあすかが、祖父母の母や友の死を経てはばたくまでの物語。 *第44回青少年読書感想文全国コンクール課題図書
スーザン・プライス『エルフギフト』
『エルフギフト(上)復讐のちかい/エルフギフト(下)裏切りの剣』
原題:ELFGIFT, ELFKING by Suzan Price 1995, 1996(イギリス)
スーザン・プライス/作 金原瑞人/訳
ポプラ社
2002.07

オビ語録:英国カーネギー賞作家による本格ファンタジー/ゲルマン神話を背景に、王とエルフの血をひく青年をめぐって人と神々とが織りなす、愛と憎しみの物語。
エミリー・ロッダ「デルトラ・クエスト」
『デルトラ・クエスト(1)沈黙の森/デルトラ・クエスト(2)嘆きの湖』
原題:DELTORA QUEST 1: The Forests of Silence, 2: The Lake of Tears by Emily Rodda, 2000(オーストラリア)
エミリー・ロッダ/作 岡田好惠/訳
岩崎書店
2002.09

<版元語録>ここはデルトラ王国。王家に伝わる7つの宝石が、国を守っている。その宝石が、影の大王にうばわれた!デルトラを救うため1枚の地図をたよりに、少年が冒険の旅に出る…。

(さらに…)

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真実の裏側

ビヴァリー・ナイドゥー『真実の裏側』
『真実の裏側』
ビヴァリー・ナイドゥー/著 もりうちすみこ/訳
めるくまーる
2002

もぷしー:ずいぶん前に読んだので印象論ですが、一気に読めました。最近、もりあげよう、あきさせないようにしようと演出したファンタジー系の本ばかり読んでいたので、久しぶりに現実に基づいてしっかりかけているこの作品を、夢中になって読みました。主人公シャデーの感覚を通して物事が描かれていたのが臨場感があっていい。外から描写しようとすると、お母さんのことなどは感傷的な描写になると思う。でもこの作品では、シャデーが困ったときなどにお母さんの言葉を思い出す形でしか、お母さんは登場しない。そこが、めそめそしている暇もなく生き抜くことだけを考えているシャデーの心情を表す、すばらしい方法だと思いました。あとがきには、大人だけでなく本離れしている若者にも読んでほしいとありましたが、本離れしている若者には簡単には読めないかもしれませんね。ただ、自分の今持っているものを最大限に活用して生き抜こうとする強さと姿勢は、日本の子どもが読んでも共感できると思います。ナイジェリアの言葉がカタカナで書いてあって、意味がかっこに入っている。そこが、ちょっと作品のリズムを乱すようで気になりました。すべて日本語にしてしまってはいけないのでしょうか? 個人的に、152ページのお母さんの言葉「悲しみは貴重な宝物と同じ。本当の友人以外には見せないものよ」というのが、すごくいい言葉だと思いました。

ウォンバット:題材に圧倒されましたが、あんまりのめりこむことはできず、ちょっと……。イマ一つでした。よく知らない国のことだし題材は衝撃的だけど、物語としては『少女パレアナ』的な「私はこんなにいい子なのにどうして?! どうして?!」みたいなのが鼻についちゃって。ニュースキャスターに会えてしまったのも、ちょっとできすぎで、つくられた感じ。すぐ夢を見ちゃうのも、なんだかなあ……という感じで、お話の中に入れなかった。母の言葉も、いいなと思うのもありましたが、ゴチック体で出てくると教訓ぽくて。訳のことですけど、私はちょっと気が合わない感じ。堅いというのかな。『アルテミス・ファウル』の訳にも同じような傾向を感じたんですけれど、原文に忠実に一語一語きちんと対応させて訳してる感じ。私はそういうタイプの訳を、心の中で「置き換え派」と呼んでいるのですが、このお二人は「正統的置き換え派」かなと思いました。正確を期そうという誠実さは感じますが、たとえば原文に強調の言葉があるとき、それを「とても」とか「すごく」とかにしてしまうと不自然な感じになってしまうことがある。日本語では必ずしも「とても」や「すごく」を使わなくても、強調することはできるんじゃないかと思うんですね。

きょん:3冊の中では非常に興味深く読めたし、2人の子どもの心情表現が対照的で理解しやすかった。困難に立ち向かうときの子どもの態度や反応については、母親が目の前で殺されたといった異常事態だからというより、もっと普遍的なように感じました。まわりの人がずいぶん親切だったり、都合よくストーリーが運ぶな、と思うところはありましたが、現状を切り開くのは自分の力しかないんだというメッセージが感じられたのでよかった。お母さんの言葉は少し教訓的なところもありますが、一つ一つが心にひびいてくるいい言葉だったので、ぐっときました。シャデーがいい子すぎるんだけど、最後に爆発するところでほっとします。「出てって」と叫ぶところですね。この「いい子」というのは、長女にありがちな側面のように思います。弟が全然だめな分イライラしながらも、よけいにがんばっちゃうところは、いかにもそうだろうなあという感じ。お母さんが作ってくれた思い出の品物をなくしちゃうところでは少し悲しくなったけど、お父さんがオコとイヤオを持ってきてホッとしました。この作家のほかの作品も読みたくなりました。非常に好きでした。

アカシア:この本でゴチック体になっている部分は、とても強い印象で目にとびこんでくるけど、原書ではイタリック体で、そんなに強くない。

トチ:ゴチック体だと、看板みたいだものね。

アカシア:区別をつけつつ、ゴチックほど強くない書体があればいいんだけど、この辺が日本ではなかなかむずかしい。

ペガサス:まず筋立てがドラマチック。お母さんが殺害されるという、これ以上ないような悲劇がおこり、それを受け入れることもできないうちに事態はどんどん先へと進む。一難去ってまた一難で、自分ではどうしようもない運命に翻弄される子どもたちの行く末が心配で、先を読まずにいられない。筋立てで読者をひっぱっていく強さがあると思いました。そのような状況下で、自分を見失わない主人公の強さが感じられ、それを描くのに、テクニックとして夢や記憶の断片を織りまぜて、しっかりと心理描写をしている。また、子ども対大人の図式がはっきりしていて、子どもの子どもらしいところがよく書けている。次々知らない人に会っていくんだけど、自分なりのあだ名をつけたり、自分の敵なのか味方なのかを本能的に察知するなど、子どもらしい目が感じられました。また、常に自分が悪いんじゃないかと思って自分を責めたり、反省したりするところも、子どもらしい。12歳にしては子どもっぽくは感じられるんだけどね。
新鮮だったのは、西欧的ではない視点でロンドンの町の暮らしが描かれていたことですね。緑がない、汚い町の様子、非人間的な人々、学校で出会う女の子たちも醜悪に描かれている。それと対照的にナイジェリアの人々の豊かさを感じさせています。アフリカの人たちが、言葉や、お話を大切にする心も描かれている。主人公の中でも、自然や色が、大きなものとして存在している。また家族の強い結びつき、大家族の中の幸せが感じられ、それに対してイギリスの家庭は、グラハム婦人の家庭もどこかゆがんでいるようだし、子どもが出ていって二人だけになったロイおじさん夫婦もアフリカの家族とは対照的に描かれているように感じられましたね。
日本語版の装丁は、子どもにとっては手にとりやすい感じではない。もっと子ども向けに出してもいい本なのに。中学生くらいの子どもに読んでほしい。

トチ:出版社はどういう読者を想定して作っているのかしら。

アカシア:読者対象をしぼりきれてないのかな。題名も直訳風でかたい。これでは、大人にも子どもにも手に取ってもらえないんじゃないかと思うと、もったいないな。

カーコ:今回の3冊の中では、いちばんおもしろかった。視点を子どもに持ってくる手法が成功していると思いました。日本の子どもの現実とはかけはなれた題材を扱っていて、残酷な事件で始まるけれど、主人公の視点にひきつけることで、読者は世界に入っていける。フェミが心を閉ざしてしまうのにイライラしたけれど、それもこの年の姉弟の関係としてはリアルだと思った。シャデーがいい子すぎるという意見があったけれど、最後のほうに、自分のせいでお母さんは死んでしまったのではないかと思ったというところが出てくるじゃないですか。そこでストンと納得できた。伏線がきちんと引かれているんですね。子どもにわかるように書かれているのだから、子ども向けに出してほしかったです。
訳は気になるところがいろいろありました。たとえば、289ページのお父さんの手紙の中、「永い永い時をへだてて、言葉は剣よりも強いのだから」の「へだてて」は原文はどうなっているのだろうと思いましたね。

ねむりねずみ:acrossとなってるから、「超えて」って感じ?

アカシア:アマゾンなんかで見ると、原書は小学校高学年向きとか中学生向きなんて書いてあるけど、日本語版は読者をもっと上に想定してますよね。ルビも少ないし、訳も子ども向けならもっとしなやかにしてもいいと思いました。171ページに「ナイジェリア語」とあり、284ページに「ナイジェリア語の新聞」というのが出てきますが、ナイジェリア語というのはないから、ここはナイジェリアの言葉、ナイジェリアの新聞と訳してほしかった。
まわりの人が親切すぎるという意見が出てたたけど、イギリスは難民を保護するいろいろな手段があるので、そこはリアルなんじゃないのかな。子どもが子どもっぽいというのも、ナイジェリアの階層が上の人は親が権威を持っていて、保護されている状態の子ども時代が長いんだと思う。
イギリスには今外国から入ってきている子どもも多いから、そういうのがリアルタイムでどんどん作品に取り込まれてきているんですね。イギリス児童文学のダイナミズムは伝わってきますね。

ねむりねずみ:私は、うーんという感じ。一つは訳にひっかかって読みにくかったのと、話ができすぎていて、都合よく行き過ぎる。なんかきちんと始末がついていないのがいやでイライラした。お母さんが自分のせいで死んでしまったのでは、という罪悪感にしても、ちゃんと解決したのかどうかわからない。いじめにしても、現実はもっとエスカレートしていくものだと思うのだけれど、なんとなく消えてしまっている。こういう題材で書くのはたしかに大事なことだけど、これならアフリカの少年兵の話(Little Soldier)のほうがリアリティがあったと思う。

アカシア:バーナード・アシュリーの作品ですよね。慈善団体に保護された少年兵が、イギリスの家庭に引き取られるという設定で、その子が、イギリスの若いギャング同士の抗争に巻き込まれていく。

愁童:ぼくは、ウォンバットさんと同じ印象でのれなかった。お話の枠組みが、ああ、またかと言う感じ。飛行機で外国に亡命できる子どもを通じての体制批判。日本の子どもに通じるのかなぁ? この10歳の弟は、幼く書かれ過ぎている。目の前で母親が殺されたのに、同じ条件にある、たった3つしか年上でない姉のお荷物になるばかり。反骨のジャーナリストである父親の子にしてはリアリテイが感じられない。けなげな姉の引き立て役としてしか機能してない男の子。やだね。戦後は日本にも孤児がいっぱいいたけど、もっとたくましく生きてたよ。

アカシア:でも、まわりにもいっぱい同じような運命の子どもがいる時代ではないのに、突然目の前で自分の親が殺されるのだから、パニック状態で自閉的になるのはリアルなのでは? ナイジェリアの、賄賂が横行する社会を書くだけでジャーナリストが殺されるという状況は、日本では文化的なギャップがあるから理解しにくいかもしれませんね。イギリスでは、ナイジェリア政府に楯突いて死刑になったケン・サロウィワのことは大きく報道されたので、読者もそれとだぶらせて読むことができると思うんだけど、日本では難しいね。あとがきでもう少し詳しく説明してもよかったかもしれない。


ガラスのうま

征矢清作 林明子絵『ガラスのうま』
『ガラスのうま』
征矢清/作 林明子/絵
偕成社
2001.10

ねむりねずみ:すごく安心して読めた。冒頭の「すぐりがうまれたとき……」の運び方はなるほどなあと思わされたし、日本語もいいし、とても気持ちよかった。ガラスのうまを走らせたくなって壊しちゃうとか、そういう大人とは違った子どもの世界、日常と不思議の世界が入り交じっているような子どもの世界が、なつかしい感じでした。すぐに手を出してつまみぐいするところなんかも、いかにも子どもだなって思ったし。表現としても、「じゅうじゅういうねぼけ声」とか、面白いところがいっぱいあった。ただ一つ気になったのは、ガラス山で、すぐりの体が半分ガラスから全部ガラスになったでしょう、あれに特別な意味があるのかと思ったんだけど、ちょっと肩すかしだった。火の玉がおどりまわるところも日常を別の観点から見てるんだなって思って面白かったし、最後に「どうして、ぼくがここにくるってわかったの?」「それは、すぐりのおかあさんだもの」というのが、幼年期にぴったりなんだなあと思いました。

アカシア:『卵と小麦粉、そしてマドレーヌ』と争ってこっちが賞をとったのは、なるほどなと思った。でも、ずいぶん前に読んだせいか、イメージが弱くなっちゃってる。ガラスの馬を追っていくというのが縦糸なんだろうけど、あっちの話、こっちの話とばらけてしまう感じがして。久しぶりに林さんの絵を見て、また、いいなあと思いました。

カーコ:ほかの2冊を読んでからこの作品を読んだから、美しい日本語だなとホッとした。言葉が形づくっていくイメージが美しくて。特に、かめに12杯水を汲むところで、星がかめの中にたまるというのが好きでした。異界に入って、いろんな試練をこなしていくところは、『千と千尋の神隠し』を思いださせました。勇気を持ってがんばったら、目的を果たせるというところが。ただ、美しいのだけれど、どこか印象が弱い感じがして、それはどうしてだろうと考えたけれど、理由はわからなかったんですよね。

ペガサス:この作品は、林さんのカットに助けられているなあ。本当に子どものしぐさをよくとらえていると思う。だからとても良さげな感じがするんだけれど、どうも物足りない。なぜかというと、この子のガラスの馬への思い入れが、最初にしっかりと書かれていないから。ここまですごい冒険をするんなら、もっとこの子と馬とのエピソードを書くなりして、馬に対する思い入れが納得できないといけないと思う。足を折るというのも、ただ落ちただけで、そこにドラマがないのが弱い。それから、疑問が一つ。ガラスやまのかあさんは、結局おかあさんだったのか。

きょん:強烈な印象があるわけではないけど、美しい文体と、その世界にひかれた。正統派の児童文学って感じですね。ガラスの馬が突然走り始めたりするのが唐突で、すこし不満だし、ねむりどり、ガラスやまというのが、ちょっと古いかな。でも、読み進めていきやすい。ガラスやまのかあさんが出てくるあたりから引き込まれる。ひかれたところは、文体が読者の想像力を刺激するようなところとか、擬音の使い方。「ぎしぎしきしんで、戸はあきました」とか「火にあぶられて、じりじりぶつぶついっていました」など、うまく表現していくのが魅力的。でも、こういう文体だと、体験も想像力も乏しい子には、かえって難しいのかなあ? すぐりが、ガラスやまで跡継ぎになってくれないかと言われたとき、すぐにお母さんの顔が浮かびますよね。子どもの心の中にある支えがお母さんなんだということは強く表現されているけど、ちょっと正統派(素直)すぎて、気恥ずかしい感じがした。こういう作品を読むとあらためて、子どもが感じる世界は、そんなに変わっていないのかなあと思いますね。

ウォンバット:すっと読めた。ガラスって美しいイメージなので、美しいイメージの物語世界がひろがっているけれど、よくも悪くもゴールデンパターンかな。会う人会う人が、すぐりに課題を与えて、「あれやれ」「これやれ」と上から言うのが、ちょっと嫌でした。あんまり楽しい気分になれなくて。最後のところは、「それは、すぐりのおかあさんだもの」よりも、「ガラスのうまは、うれしそうにすぐりをみました」に、ぐっときましたね。

もぷしー:最初に読んだときは、急いで読んだせいもあって、イメージだけしか残りませんでした。でも、気になっていて、2度目を読み返す前に『もりのへなそうる』(渡辺茂男/作 福音館書店)を読みました。『もりのへなそうる』も、本来存在するはずのないものが、子どもの想像力を通して、あたかも存在するかのように描かれている世界。そう思って読み返すと、『ガラスのうま』の馬が突然動きだすというところについても、「子どもにはこう見えた」というのをシンプルに追っていくと、こうなるのかなと思えました。お母さんと子どもの結びつきが強いから、お母さんが読みたくなるお話。お母さんが幸せな気持ちで読めるから、子どもに読んであげたときに、いいお話になる。内容的に弱いようなところは、私も感じました。これは、子どもが「悪いこと(失敗)をしちゃった」と認識したとき、初めて自力で問題を解決しようとする、というお話でしょう。自分で問題を解決する中に、こわいこともあるし、やめたくなっちゃうときもあるんだけど、一つ一つ自分に課題を与えては、こなしていく。達成できたとき、最後に報告したい人、戻りたいところはお母さん。無理やり考えると、そんなところでしょうか。イメージとしてはきれいに読めたけれど、つっこんで考え出すと、火の玉はどうして二つだったんだろう(何を表しているのか)とかわからないことがあって、気持ちいいところには落ちつけませんでした。

愁童:今回の3冊の中では、これが一番透明感があって安心して読めた。ただ、ちょっと線が細い感じ。べつに目新しい作品ではないと思うけど、でもほっとする。若い人はどう読むのか、すごく関心があります。今の子が、どこまで読んでくれるか、この日本語として上品な、響きの良い文章を読んでくれるといいんだけど……。

紙魚:オーソドックスな幼年童話なんですよね。それも、自分の力で読み始めたばかりの、年齢の低い子どもたちへの物語。目の前の数珠を一粒ずつ追っていくと、いつのまにか、ぐるりとつながっていて、安定したまま、しぜんと物語を読み進めていくことができる。物語の先から、おいで、おいでと呼ばれるような、ていねいな物語はこびだと思いました。いきなり何か衝撃的な事件が起きて、物語が動いていくというような本が多いなかで、この本は、次の世界に行くまでの距離が短いので、本を読むことに慣れていない子どもでも、読みやすいのではないかしら。日本語も美しい。こういう本って、新作では案外出にくいので、野間賞の選考でも、幼年童話への評価という声があったようです。主人公のすぐりが、ガラスの馬を追って、ふしぎな世界へ入っていくのと同時に、読者も物語世界へすっと入っていくという、まさに物語の入口といった本でした。

愁童:『One Piece』(尾田栄一郎/作 集英社)や『クレヨンしんちゃん』(臼井儀人/作 双葉社)が大好きな子どもにも、作者の世界が通じてくれるといいんだけど……。文章はいいし、行間からにおい出てくるものもある。若い編集者はこういう本をどう考えているのでしょう。

紙魚:姪っ子(小一)に読ませても、さくさく読んでいましたね。

トチ:私もペガサスさんと同じように「なぜ、山のおかあさんがおかあさんになるのかな?」って思ったけれど、これは「ごっこ遊びの世界なんだ」と思ったら納得がいきました。「ごっこ遊び」ってこんな風にすうっと現実に戻ることがあるものね。たしかに完成度は高いし、美しい物語だと思うけれど、印象が薄いのは、善意にあふれていて、ワサビがきいていないから? 幼年童話にはワサビはいらないのかしら?「はかせ」が出てくるところあたりから、話の運びがちょっと苦しいかなと思いました。私の考える理想の幼年童話というのは、幼いころ読んだときは「楽しいな、面白いな」とだけ思って読んだ(あるいは聞いた)けれど、大人になって思い返したとき「ああ、こういうことだったのか」と感じられるようなものだと思うのだけれど、違うかしら?

アカシア:児童文学の向日性ってよく言われるけど、私は幼年童話には向日性やハッピーエンドが必要だと思ってるのね。年齢の高い子どもの作品は、また違うけど。小さい子どもにとっては、「ここはすてきなところだよ」「生きてていいんだよ」と、まわりの世界から言ってもらうことが、とても大事。小さいときにそういうメッセージを受け取ってないと、年齢が高くなったときに自分の足で外に向かって踏み出せない。だから、さっき気恥ずかしいという意見も出てきたし、ワサビが必要という意見もあったけど、私は「それは、すぐりのおかあさんだもの」と臆面もなく出てくるところが、いいんだと思う。これが必要なんだと思う。

トチ:フェアリーテールとかは、もっとこわいんじゃない?

アカシア:でも、昔話は象徴的なイメージを伝える語り口になっていて、怖いことも、具体的に描写してるわけじゃないですよね。

ウェンディ:遅れて来たので、まとめて感想を言います。『ガラスのうま』は、すらすら読めました。確かに完成度は高いし、こういうお母さんの書き方もあるなあと思いました。『アルテミス・ファウル』は、ぜんぜん子どもの作品とは思えなかった。中途半端というか、子どもにはわからない言葉や、大人しかわからないブラックユーモアがぽんと投げ出されていて、気になるところがたくさんあった。訴えたいことがたくさんあるんだと思うけど、羅列しても言いたいことは伝わらないのでは?

(2003年02月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


アルテミス・ファウル〜妖精の身代金

オーウェン・コルファー『アルテミス・ファウル』
『アルテミス・ファウル〜妖精の身代金』
オーエン・コルファー/著 大久保寛/訳
角川書店
2002.08

愁童:これも、のれなかった。ゲーム本を読んでいるよう。主人公も最初の設定のまま何も変わらない。まさにゲームのキャラクター。一番感じたのは、あちらでも妖精がこんな形で書かれるようになっちゃったのかということ。でも、『真実の裏側』よりは、今の日本の子どもには受けるかもね。

もぷしー:ぜんぜんのれなかったです。装丁は好き。『はてしない物語』もそうだけど、本の表紙に本を再現しているのは、けっこうワクワクする。けれど、せっかく表紙に妖精の「ブック」を使っておきながら、物語の中でそのブックに立ち返るところがほとんどないので残念。キー・アイテムなのだから、ブックを読み解く興奮をもっと書いてくれるほうがいい。それに、読んでいても、どうしてもキャラクターの顔が見えてきませんでした。文章や行動から像がうかびあがってこない。だから、本が長く感じました。映画になると聞いたけど、文字で読むより、映画で見るほうがおもしろいものなのかな、と。あと、妖精の本というのは日本ではどういう受け止め方をされるのでしょう? この作品は、妖精が意外にもハイテクだったという設定に面白さがあると思うんですけど、妖精がこういうものだという既成概念がない日本の子どもが、それを楽しめるのかどうかが疑問だと思いました。

ウォンバット:私は古いタイプの人間なので、こういうのを味わうことが難しくてですね……。読むのも、苦しい戦いでした。読むことは読んだんですが、この場面がよかったというのはなくて、訳も「置き換え派」で読みにくかった。こういうお話って、「大人の干渉を受けない自由な子どもの気持ちよさ」があるんだろうけど、それがおもしろくてどんどん読めるというほどではなくって……。29ページ「きらめくマスカラ」は、マスカラをたっぷりつけた瞳がきらめいたんじゃないかと思うんですが。もしかして、ラメたぷりのマスカラなのかもしれないけど。そういうの、パーティでもなければつけないような気がするし、それともブロンドの睫毛に赤とかピンクとかのマスカラつけたりすると、きらめくのかな?

きょん:私も古い人間で、ぜんぜんおもしろくなかった。魅力を感じなかった。「悪のハリーポッター」と宣伝されても、主人公アルテミスがぜんぜん魅力的じゃない。有能とか、賢いとか、天才的とか書いてあるけど、言葉だけで、行動などで実証されていない。妖精が妖精なのに疑似人間社会みたいなのを作っているところも、魅力を感じない。これなら、なにも妖精である必要はないのではないでしょうか。それ以外のキャラクターも理解できない。トロールくらいかな、すんなり入ってきたの。納得いかなかった。訳が、テンポよく入ってくるけれど、だれが何を言っているのか、何をさしているのかがはっきりしなくてわかりにくい。妖精の書だって、アイテムとしては魅力なのに、どうなっちゃったのかよくわからない。このブックをめぐって事件が展開するのかと思ったのに、残念だった。

ペガサス:これだけ批判が出ると、私はすごく面白かったわと言いたい衝動にかられるけれど……。でも半分くらいまでは、ハリーポッターよりも面白いかなと思って読んだ。ハイテク化された妖精というのも面白いじゃないですか。半分くらいからは、雰囲気に飽きてしまって流し読み。やはり日本では妖精のイメージ自体が確立してないから、面白味も半減するということはあるでしょうね。でも、ところどころユーモアのある描写がよかった。満月の夜に何千人もの妖精が地上に出たがるから入国管理局は大忙しとか、秘密工作員をユーロディズニーの白雪姫と小人のところに送りこんでいるとかね。「紙に印刷した」ではなく、「A4の紙に印刷した」とか、「4倍に拡大した」とか具体的に書いてあるのは、思い描きやすいと思った。ハリーポッターの映画を思い浮かべつつ、これも映画になったらどうなるかとつい考えながら読んでいった。アルテミスは、最初は謎めいていたが、弱点が母親だとは陳腐。アルテミスの魅力が中途半端で、子どもの読者は、この主人公についていっていいのかどうか迷ってしまうと思う。また、ページの両側の妖精文字が、読むときにいつも目の隅にちらついて邪魔だった。

アカシア:この妖精文字は、解読しようとする読者にとっては面白いんだと思うな。

カーコ:私ってファンタジーは苦手なんだなあ。入っていけませんでした。妖精のイメージがないから、パロディになっていても、きっとアイルランドの読者のように楽しめないのかと。また、主人公のアルテミスが、これだけの事件を経てもいっこうに成長していないので、充実感がありませんでした。ピカレスク小説って、主人公の成長はあまり問題にしないのかしら? 成長への期待って、いつも読者は持っていると思うのだけれど。

アカシア:私も面白くなかった。アルテミスが、妖精のお金を奪って何をしたいのかがわからない。たとえば宇宙を支配したいとかのモチーフがあるなら、もっと「悪のハリー・ポッター」らしくなるんでしょうけど、今のままでは中途半端。それに主人公は12歳の少年なのに、「時間が停止しているあいだは、やらんよ」(180ページ)なんて言うの。「やらんよ」なんて、おじさんしか使わない言葉でしょ? だからよけい魅力が感じられないのかも。妖精についてだけど、『指輪物語』などは、ちゃんとその妖精ごとの特徴だとか歴史だとかを踏まえて物語に登場させているでしょ。その下敷きがあってハイテクにするなら面白いと思うけど、ここでは、たとえばケンタウロスもケンタウロスである必要性がない。だからイメージが重層的にならなくて、つまんない。

ねむりねずみ:表紙でプルマンと同じ訳者だと知って憂鬱になり、読みはじめてもっと憂鬱になった。最初のところだって、大風呂敷を広げてもったいつけて、どんな面白い話が展開するのかと思うんだけど、肩すかしをくらわされる。ハリポタと同じで、ディテールでくすくすと笑わせるやり方がうまく使われているとは思ったし、ハイテクファンタジーもありだと思うんだけど、何しろ中身がなかった。

トチ:主人公の苗字のファウル(Fowl)は鳥という意味だけれど、発音の同じfoul(汚い、不正な、ゆがんだ)という意味をほのめかしているし、バトラーは執事という意味だし、原書にはそういった言葉の面白さも存分に盛り込んであるんでしょうね。そういう面白さを翻訳で伝えようとするのは、非常に難しいことだとは思うんだけど……でも、登場人物の口調の統一がとれてないので、読みにくくなかったですか? たとえば、13ページでベトナム人のグエンが「……あっしは知ってますぜ」って言うでしょう。その2,3行あとで「そ、そんなことするもんですか。ほら、見てくださいな」とやけにかわいらしい口調になっている。「あれ、これは誰が言っているんだっけ?」と、もう一度読み直してしまった。

ウォンバット:ずっと気になっていたことが一つあるんですけど、ホリーのことを助けようとする上司ルートには、ホリーへの愛があったんでしょうか?

一同:???

ウォンバット:ならず者っぽい上司なのに、どうしてあそこまでして助けてやろうとするのか、わからなくて。そうだ、これは愛よ、愛にちがいないと思ってたんですけど。

アカシア:それはともかくとして、プロットだけで物語を構築していくと、キャラクターは破綻をきたしかねないのかも。

(2003年02月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


2003年02月 テーマ:賞をとった本

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『2003年02月 テーマ:賞をとった本』
日付 2003年2月27日
参加者 もぷしー、ウォンバット、きょん、アカシア、トチ、ペガサス、カーコ、ねむりねずみ、愁童、紙魚、ウェンディ
テーマ 賞をとった本

読んだ本:

ビヴァリー・ナイドゥー『真実の裏側』
『真実の裏側』
原題:THE OTHER SIDE OF TRUTH by Beverley Naidoo, 2000
ビヴァリー・ナイドゥー/著 もりうちすみこ/訳
めるくまーる
2002

オビ語録:英国カーネギー賞受賞/一発の凶弾——/それは幼い姉弟から母を奪い、父との離別を強いた。太陽と暗黒の国ナイジェリア(1995年当時)を密出国、冬霧のロンドンへ逃れた姉弟を新たな苦難が待ち受ける。愛と勇気を振りしぼって掴む一条の光
征矢清作 林明子絵『ガラスのうま』
『ガラスのうま』
征矢清/作 林明子/絵
偕成社
2001.10

<版元語録>自分のせいで足をおったガラスの馬を追って、すぐりは、ガラスのいきものたちの世界へ飛びこんだ! 幼年向け冒険ファンタジー
オーウェン・コルファー『アルテミス・ファウル』
『アルテミス・ファウル〜妖精の身代金』
原題:ARTEMIS FOWL by Eoin Colfer, 2001(イギリス)
オーエン・コルファー/著 大久保寛/訳
角川書店
2002.08

<版元語録>アルテミス・ファウルは、伝説的な犯罪一家に育った12歳の天才少年。コンピューターを駆使して「妖精の書」を解読したアルテミスは、妖精の黄金を手に入れようともくろむ。だが本物の妖精たちは、物語に登場するような可愛らしい連中ではなく、ハイテクで武装した危険な集団だった!アルテミスと妖精たちの激しい戦いが始まる―。

(さらに…)

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サンサン

曹文軒『サンサン』
『サンサン』
曹 文軒/作 中 由美子/訳 和歌山静子/絵
てらいんく
2002.06

もぶしー:これは、『草ぶきの学校』っていう映画になって、日本でも上映されてますよね。私は、これまでアジアの文学をあまり読んでこなかったのですが、湿度を感じました。皮膚感が日本人に近いのかな。いろんなエピソードがあるけれど、人間が生きていく正直さがそのまま書かれていて、それがおもしろかった。キャラクターが書き分けられている児童文学が多い中で、いろんな人がたくさん描かれているのが印象的だった。あとがきにも「今の子どもをいかに感動させるか」と書いてあって、確かに文化がちがうのに、すとんと落ちてくるものも多く感じられたので、それが時代とか、国のちがいにもいえると思う。そこがうまく表現されている作品だった。

カーコ:私も中国の児童文学を読むのは初めてで、興味深々だったけど、ストーリーの太い流れがないからか、読み進みづらかった。よかったのは、風景の描写や動植物の記述。中国ってこんなふうなのかとおもしろかった。でも、途中でひと昔前の話だと気づいて、じゃあ、これが今の中国だなんて勘違いしたらいけないんだと考えさせられました。人物はそれぞれおもしろくて、人のとらえ方が、西欧の個人主義より日本に近い感じがしました。でも、このプロットの妙と無縁の淡々と書かれた世界を、日本の子どもが興味を持って読むかというと、ちょっと苦しいかもしれないと思いましたが。

紙魚:私も途中まで読みにくかったんですね。なかなか、物語を読み進める視点がつかめなくて。章ごとに、焦点のあたる人物がちがうので、サンサンの気持ちで読んでいく感じでもなかった。本のつくりも、物語の導入も、もうちょっと親切だったらよかったのになと思います。チンばばの話なんかは、とってもよかったです。それから、よくわからなかったのが、作者のあとがき。「永遠なるものを求めよ」「今の子どもをいかに感動させるか」って、前置きもなくいきなり書かれていて、さっぱり意味がわかりませんでした。中国の児童文学について何も知らないので、物語の背景などを書いてほしかったな。中国の児童書に詳しいウェンディさん、これってどういうことなんでしょう?

ウェンディ:私、中国ものは結構背景がわかってしまうので、背景がわからない日本人が読むとどうなんだろう、っていうのが、わからなくなっちゃってるんですけど……。この作家は、中国ではかなり評価されているんです。あとがきについては、私にとっては、ああなるほど、っていう感じなんですね。中国はこの1世代で時代がまるっきり変わったので、ひと世代前の苦労話を書いても、今の子にはわからないという議論に対して、時代を越えて共感できる普遍的なものを書いていこうという立場なんだと思います。中国の作品としてはヒットといっていいと思います。子どもが大人の恋愛を垣間見てしまうとか、家が没落しているいくさまだとか、そういう負の部分って、今でもタブー視されるところがあるんですよ。そういうものを子どもなりに垣間見て、受け止めながら、笑ったり悲しんだり恥をかいたり、そんな子ども像がリアリティをもって描かれることはなかなかないんです。作者の自伝的作品といわれてますが、そういうものを、肩に力を入れず書いているところは、画期的だと思います。

紙魚:この本、中国では、子どもたちに好まれて読まれてるんですか?

ウェンディ:大人が評価する児童文学という側面が強いかな。中国では賞を総ナメにしましたね。

アカシア:このあとがきも、原書そのままじゃなくて、日本人向けに、今のウェンディさんの説明のようなことを入れてくれたほうが親切でしたね。

ウェンディ:あと、気になったのは、中国の作品では、人名の漢字にそれぞれ意味があるので、その漢字を出すかカタカナにしちゃうかは、よく議論になるんですけど、この作品では漢字だったりカタカナだったり混在していて、どうしてかなあって。そういったところ、もう少し編集の手が入れば、もっとよくなると思うのに、ちょっと残念ですね。

もぶしー:こういう作品が出てから、中国の児童文学って変わってきてるんですか?

ウェンディ:むしろ、ファンタジーとか、「ハリー・ポッター」の世界的フィーバーの影響のほうが目立つかな。中国では児童文学を童話と小説とに分けていて、一言でいうと、非現実が描かれるのは童話で、童話はいかに荒唐無稽でもOK。小説はリアリズムでこれっぽっちも非現実があってはいけない——という伝統があったんですね。でもこのところ、ファンタジーを幻想小説と訳して、小説的な技法で書かれる非現実的な物語も試みられるようになってきました。あと、これまでの児童文学の「子どもを正しく導く」作品と違って、思春期からまだそれほど隔たっていない年代の作家による、子どもの心の葛藤だとかを描く作品も書かれて、評判になっていますね。

きょん:じつは途中までしか読んでないんですけど、まず、読み始めてすごく中国的だなと思いました。原文の二重否定とか反語表現などをそのまま訳しているので読みにくいんじゃないでしょうか。読み進めていく視点がつかめなかったという話がありましたが、心情的なものを入れず物事をたんたんと描写していくので、つかみづらいと思うんですね。でも、その続いていく描写からにじみ出るあたたかさのようなものが、この本のよいところなのでしょうね。描写が細かいという点で映画的なので、映画の方がわかりやすいかもしれない。あと、もう一つ中国的だと思う点が、人と人とのかかわり方です。子ども対大人、子ども対先生など、極端に言えば、権力者VS服従者という構図が、とても中国的だと思います。ただ、今の中国もそうなのかどうかちょっとわかりませんが……。絶対的権力を持つ先生というのを、今の子どもたちが読んだときに、お話の世界に入っていけるのかな、と疑問を持ちます。現代社会とのギャップがどうしてもありますよね。

アカシア:私も途中までなんだけど、最初『サンサン』ていう題なのに、ハゲツルという強いキャラクターが出てくるので、とまどいました。でも、途中から短編集として読めばいいのだということがわかってきた。日本や欧米とは、感情の書き方がちがうんだということがわかって、作者のペースにのってからは、割合すいすい読めますよね。せっかく志があるように思える出版社から出ているのだから、日本の子どもに手渡そうとする編集者の目も入れて本づくりをしてほしいなと思いました。クレジットに原題が入ってないのは、ミスかしら?

紙魚:この本て、私が小学生のときに手にとっていたら、中国の作家が書いたってことも、わからなかったかもしれない。作者の名前も漢字だから、「難しい漢字の名前だなあ」と思うくらいで。オビには説明があるけど図書館などでは取ってしまうので、カバー袖にちょっとでも物語を読むまえのヒントというかガイドみたいなものを書いてあげれば、もう少し親切だったんじゃないかしら。

アカシア:図書館で借りた子は、中国が舞台だってこともわからないかもしれないね。

ペガサス:不可解よね。

カーコ:私も、あとがきに戸惑いましたね。たとえば、「生存環境」って言葉が使ってあるのは「生活環境」かなとか、言葉もわかりにくくて。

きょん:直訳なのかしら?

アカシア:中国では、このままでも後書きとして成立するんでしょうけど、日本版は、もう少し工夫してほしかった。

ペガサス:一つ一つの文章がぷつんぷつんとして短いというのは、中国の特徴なのかしら。

ウェンディ:うーん、そういうわけでもないと思うんですけど、それは、あえて区切って訳しているからかもしれない。

ペガサス:かなりしっかりと読まないと入ってこない感じよね。おもしろいところだけ読もうと思ったけど、これ、斜め読みできない本ですね。最初の出だしは、ハゲツルの話でおもしろくて、引きこまれる。自分の大事な消しゴムなどを差し出してまで、ハゲツルの頭に触りたくて触りたくてたまらない、なんていうところは、今の日本の子どもたちになくなってしまった子どもらしさが出ているし、大人も怒るときには怒るというストレートな感情表現をしていて新鮮でした。それから、比喩が変わっているわよね。22ページの「サンサンは一個のナツメみたいだった。おいしいおいしいと食べられ、いまは役立たずの種になって地面にはきすてられている」なんていうのは、なかなか珍しい表現よね。

愁童:ぼくは、『第八森の子どもたち』(エルス・ぺルフロム/作 野坂悦子/訳 福音館書店)を読んだときと同じような歯がゆさを感じた。読者に伝えたいのは、過酷な生活の中にある今なのか、そういう時代を生き抜いて、遠い過去を振り返っている作者の感傷を込めた思いなのか。どちらの作品も、作中や後書きで、その場所を懐かしんでいるけど、そういう立場に立てなかった登場人物もたくさん書かれてるよね。そういう時代を今に繋ぐメッセージは何なんだろうって思った。子どもの読者は作者のように振り返る立場にないわけだし……。

:読みにくいところもあったけど、私はおもしろかったです。途中、一つずつ短編のように、サンサンの6年間を読んでいけばいいとわかってから、それぞれのキャラクターもおもしろく読めた。人と人との関わりは、淡々と書かれているからこそ伝わってくる作品。校長先生にしても、妙にけちけちしていたりするけど、自分がのしあがってきたときのことを大事にしてきたり、解放されていく様もよかった。チンばばもよかった。大地に足をつけてたくましく生きていく母の姿に重なった。さっき、過酷な状況が書かれてないって感想があったけど、子どもがどういう状況の中でも楽しいことを見つけ出す楽天性、力強さが感じられてよかったです。

(2003年01月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


魔女の血をひく娘

セリア・リーズ『魔女の血をひく娘』
『魔女の血をひく娘』
セリア・リーズ/作 亀井よし子/訳
理論社
2002.10

きょん:最初読むのがつらかったけど、途中からすーっと話の中に入って、つられて最後まで読んでしまった。

アカシア:歴史の中の庶民を時系列で書いていった本ですね。くじらが出てくるところとか、ところどころ描写がおもしろい。でも、114〜115ページに「私にはその力がある。それを疑う人はいないかもしれない。わたしがこれまでに何を望んできたとしても、運命を逃れることは不可能なのだ。きょう起きたことは、それを証明するできごとだった」って書いてあるけど、この女の子にどの程度の魔力があるのかはっきりしなくて、もどかしかった。中途半端な設定だと思いました。歴史的には魔女として糾弾されてきた人がいて、もう片方にはキャラとしての魔女がいるわけですけど、その両者の間のギャップを考えるにはいい本かも。

ペガサス:私はね、おもしろくないわけじゃないんだけど、おもしろかったわけでもない。

きょん:そうそう!

ペガサス:歴史として大人として興味があるから、おもしろくないわけじゃない。最初のうちひきつけられておもしろいんですよ。本当にこの子は魔女なの?と思いながら読むから。いちばん知りたいのは、この子の出生の秘密なのに、最初のうちで、もうお母さんとは会えないこともわかっちゃったりして、謎解きが中途半端になってしまうのが物足りない。これって、本当に出てきた日記なんでしょ。

カーコ:ええっ、フィクションでしょ。

:371ページのあとがき見て。「この日記が発見されて以来、メアリー・ニューベリーをはじめ、ここに登場する人々の足跡をたどる作業がつづけられています」って書いてあるじゃない。情報があったら教えてくれって、メールアドレスも書いてあるわよ。フィクションだとしたら、ええっ! 私、だまされたわよ。

カーコ:物語に枠があるのよね。本当っぽく見せるための。

:なんだよー。

アカシア:紙切れの1枚くらいは本当に見つかったことがあるかもしれないけど、物語自体はフィクションでしょ。メールアドレスも、巧みな宣伝よね。

:(がっくりしながら)日記と史実をもとに書かれていると思って読んだのにな。

ペガサス:これって、もう続編が出てるのよ。それ読むと、もうちょっとわかるかもね。

:(まだがっくり。立ち直れないでいる…)

ペガサス:私は、本当の話だから、多少はおもしろくなくてもしょうがないと思ったのよね。

:(……脱力)

カーコ:そういうふうに読ませようと思って書かれてるんだからいいじゃない。

アカシア:中学生や高校生だったら、真に受けて読むと思うな。羊さんは読者として正しい読み方をしてるのよ。

カーコ:昔、喫茶店で隣に座った高校生が『キッチン』(吉本ばなな/作 角川文庫)の話をしていて、「これって実話かなー」って言ってたの。そういうふうに読ませているのよね。

:(まだ立ち直れず)創作なの……? ショック。

もぷしー:私、途中までしか読んでないんだけど、その辺気になってきちゃった。

カーコ:私はけっこうおもしろく読みました。ところどころきれいな描写があって楽しめたし、最後、この女の子がどうなるんだろうっていう興味も続いたし。最初99章もあるのを見て何なんだろうと思ったのだけれど、日記という設定だからなんですね。構成が凝ってますよね。今は異文化を理解しようって流れが主流だけれど、西洋の歴史の中で異なるものを排除していた時代は長いんですよね。異なるものを忌み嫌う世界のこわさが伝わってくる話でした。確かに、この女の子が本当に魔女だったかどうかは、はっきりしませんよね。殺されたおばあさんが本当に魔女だったかどうかもわからなかったし、この子がどこまで不思議な力を持っているかもわからないままだった。森に入ってから、この子は何もしていないのに、邪悪な気があるとか言われるけれど、マーサも魔女なのかと思ったら、そうでもないみたいで、最後にマーサは当たり前の人になるし。ジョーナは、宗教に対して科学の象徴で魔法ではないし。

アカシア:もし未来が見えるんだたら、ジャック以外の人の未来も見えるはずよね。シーアーとか言われている人って。

カーコ:そうそう、目で見てのろいをかけたってとがめられるシーンでも、実際はそんな力は使ってないんですよね。

きょん:昔は、何か不都合なことがあると「おまえのせいだ」と言われて魔女扱いされ、迫害された人たちがいましたよね。この少女も、それと同じように魔女扱いされていたのだから、プロット的には本当に魔法を使う必要はないのでは?

紙魚:私は、最初のほうでこれはフィクションなんだろうなと思ってしまって、それもあってか、あんまりおもしろくは読めなかった。キャラクターとしての魔女じゃなくて、糾弾される対象の魔女の話って、もっとどきどきする物語だと思うんですよ。中学生のころ『魔女狩り』(森島恒雄/著 岩波新書)を読んだとき、すごく恐ろしくって、しかも、魔女という存在をつくる社会のシステムについてもぐっと考えさせられたんですね。それにくらべると、この物語、装丁ほどは恐ろしくない!

アカシア:ふつう、魔女としての嫌疑がかけられる要素があるはずなんだけど、この子が不思議な力を発するのは1回。だから、本当に魔力があるから魔女とされたのか、そうじゃないのにあらぬ嫌疑をかけられたのか、中途半端な描き方ですよね。

:でも、これだけフィクションかノンフィクションか、魔女なのか魔女じゃないかで、これだけ話がもりあがるんだから、みんなで読んでみて、よかったですよね。

(2003年01月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


黄色い目の魚

佐藤多佳子『黄色い目の魚』
『黄色い目の魚』
佐藤多佳子/作
新潮社
2002.10

ウェンディ:人物には感情移入できないのに、1行目からストーリーに入りこめて、不思議に夢中で読めて、おもしろかった。みのりには感情移入できなかったな。誰でもかんたんに嫌いになれちゃうところなんか、私は逆だから。こういう絵の話ができる叔父さんや友だちがいていいなあ、っていう気持ちはありましたね。絵は好きだけど描けないっていう部分とか。感情移入できたわけではないのに、モチーフにひかれて読んだという感じかな。本としての作りは、児童書じゃないんだけど、あとがきを読むと、作家自身は児童文学として書いているんですよね。高校生くらいを想定しているのかな。そういう年代の人が読むと、みのりの感覚とかも、すうっと伝わるのかも、とも思うけれど、むしろトレンディドラマじゃないけど、こんなふうになれたらいいなというような、あこがれの部分をくすぐる要素が強い気がしてしまいます。

紙魚:わたしは佐藤多佳子さんの大ファンなので、「小説新潮」に連載していたときから、この作品群を読んでたんですね。各回、登場人物が共通してはいるものの、立場が作品によってかわるので、1冊の単行本になるときは、どうやってまとめるんだろうと思ってました。読者層をどのあたりに設定するのかも気になったところ。ウェンディさんが言うように、人物に感情移入はしにくいかもしれない。どっぷり入りこむんじゃなくて、心地よい距離をたもちながらで並んで走るという感じ。にもかかわらず、佐藤さんが書く登場人物って、かならず好きになっちゃいます。『しゃべれどもしゃべれども』(新潮社)や、『神様がくれた指』(新潮社)でもそうですけど、登場人物に「恥じらい」みたいなものがあるんです。いい人だから好きになるんじゃなくて、恥じらいがちらっと見えたときに、つい好きになってしまう感覚がいいんですよね。恥じらいって、書きすぎるとあざとくなったり、こちらが恥ずかしくなっちゃったりもするけれど、彼女の作品は、好きになってしまう頃合なんです。おそらく、佐藤さん自身が、そうした恥じらいを持ちあわせている人なんだろうなと思います。

カーコ:夢中で読んでしまいました。2番目の話まで読んで、普通の短編集かと思いきや、次々話がつながっていくので引きこまれて。全体的に人物が魅力的。もっとこの人のことを知りたいという気持ちにさせられるんですよね。その一方で、なぜみのりがそこまで家族から疎外されていると感じているのかとか、みのりの絵が描けないと木島に言わしめるほどの強いこの子の個性って何だろうとか、なぜ通ちゃんがそこまで魅力的なのかとか、描かれていなくて、物足りない気もしました。あえてそこを描かないようにしているのかもしれないけれど。高校生くらいが読むとリアルに感じるのかな。54ページで、家族が「通ちゃんのところに通うのをひどくきらう」というのは、通ちゃんではなく、みのりが疎外されているということなのかな。ただ、私は通ちゃんのことは、よくわからなかった。この人のどこがそんなに魅力的なのか、とか。自分の家族とちがうとか、悩んでいるときにアドバイスをくれるとかはわかるんだけど、あまり魅力的とは思えなかった。

もぷしー:家族が描かれてないですよね。通ちゃんの魅力も、想像しながら読んでいました。もしかして、あえてそこを描かないようにしているのかな。そこを描いちゃうと、読者が想像できる範囲が限定されてしまうから。あるいは、年代的にそこをストレートに書くことをしないのか。実は家族はもっと思いや伝えていることがあるのに、みのりの気持ちがストップしているということで、あえてそう書いているのかとも。でも、それぞれのエピソードが、肌感覚でわかる気がして、すらーっと楽しく読めました。本の作りとしては、むしろおとなのノスタルジー。あえてみずみずしさを表現しようと狙っているのかと思いました。高校生を対象にしていたら、こういうふうに書かないのでは。でも、若い世代にも読んでもらえるように作ってあったらよかったんじゃないかな。もし自分がこの原稿を受け取ったら、どういう本作りをするだろう。もう少しだけライトテイストな感じにするんじゃないかな。と思うので、皆さんの感想が聞きたいと思いました。

:佐藤多佳子の作品は、白百合のシンポジウムで話を聞いたのがきっかけで、文庫を読んだんですが、興味深く読んで、気に入ってました。スリや落語を題材にしてたりと、視点のもっていき方がいいなと思ってました。この作品では、木島とみのりの出会い、みのりが木島の絵の才能に惹かれていく、そしてお互いに惹かれあっていく、この関係もいいな、うまいなと思いました。あと、おじいちゃんの一言一言がきいていると思いました。

愁童:前に一度読んだんですが、今回はすごい人気で図書館で借りられなかったので、印象が薄くなってるんだけど……。才能のある方だなあと思った。でも、紙魚さんと同じで、大人向けなのか、子ども向けなのか、わからなかった。ときどき、視点が動いて、中年女性的感性が生で出てくるような感じがあるね。新潮社の売りとしては、児童文学的スパイスも入れておけば、大人の小説としても、児童文学としても売れるという狙いなのかな。その分、大人の小説として読むと、弱いところもあるよね。おじいちゃんのセリフなんか、児童文学としてはOKかもしれないけど、大人の小説として読んだら、ダサイよね。どちらかに割り切った方が、読み応えのある本になったんじゃないかな。木島がサッカーチームの少年達のあこがれである年上の女性と寝てしまうっていうところも、大人の視点でも、子どもの視点でも中途半端だよね。子どもの視点ならば、もう少し書きようがあると思うけど。

紙魚:確かに、「小説新潮」で読んでいたとき、他の作品に比べると、これだけすごく異質な感じでした。新潮に限らず、最近の文芸誌って、新しい風を吹かせたいという気持ちが強いように感じます。そして新しい風を求める先が今、児童文学に来ていると思うんです。少し前までは児童文学と大人の文学はちがうぞ!っていう意識が強かったんですけど、それが変わってきて、児童文学の中にもおもしろい作家がいる、どうして今まで気づかなかったんだろうというふうになってきている。これは、文芸の方から意識が変わっていったというより、児童文学の読者の力がそうさせたんじゃないかと思います。

:佐藤さんは、子どもの本を書くときと大人の本を書くときで、意識を変えているそうなんです。『ハンサム・ガール』(理論社)などは、子どもに楽しんでほしいと思って書いているのがわかるんだけれど、大人の作品になると、自分が楽しめる作品を書いている。で、この作品では新潮社にしても、中間を狙っている感じですね

愁童:絵についての薀蓄なんかは、子どもの本としてはいいんだけど、大人が読むとある種のうるささがあるよね。

紙魚:他の作品で、調べながら詳細を書いていくのがうまいなあといつも感心していましたが、スリや落語とちがって絵の場合、表現するのがなんて難しいんだろうとは思いましたね。

:でも、絵を文章にしていくところ、わたしは、面白かったですけどね。

ペガサス:絵の描写についていえば、どういう絵を描いているのか、私はピンと来なかったですね。絵を言葉で表すのは難しいんだなあと思いました。愁童さんのお話ですっきりしたんですけど、私も最初の2篇くらい読んで、ああ、これは短篇集なんだ、すごくうまい人だなと思ったんだけど、やっぱり「私ってうまいでしょ」という感じがあって、全部読む気にならずに放っておいたんですね。で、今日の読書会が迫ってきて、もう1篇くらい読んでおこうかなあと思って読んだら、同じ人物が出てきたんで、あわてて全篇読んだんです。全篇通して読んでみると、二人を交互に描く構成は面白いと思いました。みのりの部分を読んだ限りでは、みのりが誰かをどう思っているかは書かれているけれど、相手がみのりをどう見ているかは全くわからなくて、みのりの「まっすぐな気持ち」だけが感覚的にわかるように書かれている。みのりが人からどう思われているのか、唯一わかるのが木島の部分だけ、という作りが面白かったです。わたしも、みのりが通を好きでありながら、木島をいいと思う気持ちはわかるんだけど、どうして通から木島に移っていくのかがあまりよくわからなかった。そんなの理屈じゃないといわれればそれまでですが、移っていくところが、いまいちピンとこなかったですね。もっと二人の気持ちを深く掘り下げた方がいいかな、と思いました。妹のエピソードは、ちょっと余計だったのでは? YA向けで、普通とはちょっと違うところのある高校生男女が接点をもつ、という話は最近多いような気がするけれど、「絵を描く」というモチーフでつなげたところは、うまいな、他と一味違うな、と思いました。

:みのりが通ちゃんのところから出ていかなければ、という思いは、私はよくわかる気がしました。文化祭の頃になると、最初の嫌味な子ではなくて可愛い女の子になる。友達にも話しやすくなったと言われるようになり、外に出ていけるようになるということがわかる気がします。通ちゃんのところにしか居場所がなかったみのりが、やっと自分の居場所を見つけたから出ていけたのだっていうことだと思います。

ペガサス:図式としてそう解釈すべきなんだろうなって、わかるんだけれど、感情としてわからないのよ。

愁童:そこが親切じゃないよね。通の描写はたくさんあるのに、どういう人なのかよくわからない。

ペガサス:一方通行な感じは書けているのかな?

愁童:通のところがなぜみのりの居場所なのか、そこがかなり弱いよね。それでも、こういう女の子っているなって納得して読んじゃう。時代の雰囲気を味方につけるっていうか、作者のうまいところだと思った。

:『しゃべれどもしゃべれども』は、完全に大人の小説よね。

紙魚:大人向けの小説では、人物がもっとくっきり描かれていますよね。この、ぼんやりとしている感じは『サマータイム』(偕成社)なんかにちょっと似てる。

もぷしー:一種『スターガール』(ジェリー・スピネッリ/作 千葉茂樹/訳 理論社)を読んだときの感じに似ていますね。あえて語らない部分を残したかったのかな、と自分では帰結させていた。ファッションと括ってはいけないんでしょうが、16〜17歳くらいに向けて描かれる場合、本当にそれが心地よいのか、どう意図されていたのかが気になりますね。

(2003年01月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


2003年01月 テーマ:最近気になった本

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『2003年01月 テーマ:最近気になった本』
日付 2003年1月16日
参加者 もぷしー、カーコ、紙魚、ウェンディ、アカシア、きょん、ペガサス、愁童、羊
テーマ 最近気になった本

読んだ本:

曹文軒『サンサン』
『サンサン』
原題:草房子 by 曹 文軒,1997(中国)
曹 文軒/作 中 由美子/訳 和歌山静子/絵
てらいんく
2002.06

<版元語録>鮮やかによみがえる少年の日々は、甘く、切なく、今もなお心が揺れる。/文化大革命直前の中国の田舎の村。少年サンサンを取り囲む世界はすべてが新鮮であった。小学校の級友たちとのあつい交わり、かげりを漂わす転校生の少女、かいまみえる淡いおとなの愛の姿、土地にまつわる記憶をひたすら大事にするおばあさん……。生の歓びを高らかにうたう傑作長編。
セリア・リーズ『魔女の血をひく娘』
『魔女の血をひく娘』
原題:WITCH CHILD by Celia Rees, 2000
セリア・リーズ/作 亀井よし子/訳
理論社
2002.10

<版元語録>おばあさんは魔女として連れていかれた。裸で歩かされ、水に沈められたあげく、首くくりにされた。次はわたしだ…。アメリカで発見された古びたキルトに、一枚一枚縫いこまれた謎の日記。そこには、十七世紀イギリスの魔女狩りを逃れ、新大陸に渡った娘の、驚くべき軌跡が綴られていた…。
佐藤多佳子『黄色い目の魚』
『黄色い目の魚』
佐藤多佳子/作
新潮社
2002.10

<版元語録>マジになるのって、こわくない?自分の限界とか見えちゃいそうで。木島悟、16歳。世界で最高の場所は、叔父の通ちゃんのアトリエ。ずっと、ここに居られたらいいと思ってた。キライなものを、みんな閉め出して…。村田みのり、16歳。鎌倉、葉山を舞台に木島とみのり、ふたりの語りで綴られるまっすぐな気持ちと揺れる想い。

(さらに…)

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ミラクルズ ボーイズ

ジャクリーン・ウッドソン著 さくまゆみこ訳 『ミラクルズボーイズ』
『ミラクルズ ボーイズ』
ジャクリーン・ウッドソン/作 さくまゆみこ/訳
理論社
2002.09

ねむりねずみ:ウッドソンの作品は『レーナ』(さくまゆみこ/訳 理論社)も読んだんだけど、すごく好き。黒人作家で、受賞歴もあるんだけど、黒人だというところがぎらぎらと表に出ていなくて、普通に等身大で生きている人たちが出てきて、それぞれにバックがある。やわらかいけど、シビアというのがいいと思う。今くらいになって、やっと書かれるようになったタイプの本なのかな。もっと前の公民権運動の頃は、シビアさが先にたって書けなかったのかな。ほぼ1日か2日間のことを取り上げていて、間に家族のことなどをはさみこみながら今に戻ってというリズムもいい。読み終わって、ずしっと充実感があったんだけど、後から感想をまとめようと思ってめくっていて、あれ、たった2日間のことだったんだ、とびっくりした。すごくさわやか。他の黒人作家でもそうなんだけど、社会状況がシビアな分家族があたたかい感じがするのは、ある種、伝統なのかな。

カーコ:翻訳者冥利につきるようないい作品ですね。ラファイエットの一人称の語りで成功していると思いました。12歳の少年の心理がうかびあがってくる。中に挿入されたお兄さんのエピソードも効果的。ラファイエットの視点に共感を持って読める。男兄弟って、大きくなるほど疎遠になったりするけど、このくらいの年代の兄弟のコンプレックスとかライバル心が、あたたかくえがかれていましたね。いつも子どもたちを見守っているお母さんもいい。エピソードのひとつひとつがリアルで、とてもすてきでした。

きょん:たんたんと書かれているけれど、印象としてはつらいなと思いながら読み始めた。最後、チャーリーは戻ってくるんだけど、もう少し救いがあるハッピーエンドでもよかったかな。いろいろなエピソードが入ってくるが、ディテールだけで、エピソードが入ってこない感じもした。さりげなさがよかった。

紙魚:私は、そんなにシビアだとか、つらいだとかいう感触をもたずに、普遍的な家族の物語として読めました。どんな社会状況にしろ、兄弟間のこと、親子のことって、共通していると思うんですね。すごくいい物語だなあと思ったので、たくさんの子どもたちに読んでほしいなあと思うんだけど、全体を見まわして、「物語のへそ」みたいなものがないので、本好きの子だったらともかく、読書に慣れていない人だとどうなんだろうとは思います。

ペガサス:静かな作品だと思いました。『どろぼうの神さま』が、場面が次々に入れ替わって映画を見ているようだったのに比べて、『ミラクルズボーイズ』のほうは、芝居の舞台の上に3人兄弟だけがいて、それぞれの長いセリフを聞いている感じ。言葉の重みを感じさせられた。男の子の兄弟っていうのは、おたがいにどこか一つでも認める部分を発見したときにはじめて、年上でも年下でも対等につきあえるようになると思うんだけど、それがよく出ていた。末っ子のラファイエットも、最終的にはお兄さんに認められる。この子を主人公にした意味がそこにあったんじゃないかな。

愁童:ぼくは、マイノリティみたいなものを全然感じなかったんだよね。いちばん感心したのは、作者が家族というものを信じていて、それを今の時代に書くっていくこと。今の時代の日本では、見かけは幸せな家庭はたくさんあるけどね。この本は、人間としてハッピーなことが書かれてる。だから、もっと前に書いてほしかったと思うね。大阪の池田小学校の殺人事件にしても、学校にカウンセリングを入れたりしてるけど、これだけ、母親、父親を子どもの目から書いたっていうのはすごいよね。あとさ、『どろぼうの神さま』とくらべても、子どもの年齢差がよく出てるよね。すばらしい。

:ラファイエットの視点で読み進めながら、「お母さん、目を覚ましてよ」なんてところで、涙腺がゆるんでしまった。チャーリーとの関わりで何か変わっていくのかなと思っていたら、少年院なんていうショッキングな事件があったりして。兄弟それぞれがそれぞれの重さを抱えていて、お兄さんはお兄さんでつらいし、いちばん下の子はその子なりにつらい。お兄さんも、単なる優等生じゃないし。ただ、お兄さんとラファイエットは、共通に話せることを持っている。最後、チャーリーが補導されて、物事が動く。語れなかったことを語っていけるようになる流れも、いいと思った。表現が情緒的で、落ち着いているんだけど、迫るものがあった。最後の写真の場面が好き。

アサギ:愁童さんの意見に似ているかしら。マイノリティというよりは、貧しい階層の家族の話。ところどころに、プエルトリコとかを感じるところもあるんだけど、全体としては静かでしみじみした物語。一人称小説で視点が「ぼく」になってるから、自分が生まれる前の話はお兄さんが語っているんだけど、ここだけは気になって、もう少しうまく処理できればよかったんじゃないかしら。ここが地の文で語り手がかわったのが、ういた感じになった。作者の工夫がほしかったな。それから、この子の12歳という目線で見て、タイレーの問題とか、子どもなりの感じ方が書かれていて、それがリアリティにつながっていた。最後、お話は静かで、大きなアクセントはないけれど、チャーリーのしこりがお母さんとお父さんの死にあったというのは、納得させられた。どちらの死にも立ちあえなかったというのは、疎外感を抱く、かなりのしこりだと思うのね。

ウェンディ:最初のうちは、チャーリーがもう1度悪さをしたら、3人で暮らせなくなってしまうというので、はらはらしながら読んでたんだけど、両親の死にたちあえなかったという事実があったことがわかて、とてもそれがかわいそうだった。それって、そういう材料をもっていない人にもきっと伝わる、伝わってほしいと思いました。『マーガレットとメイソン』(ジャクリーン・ウッドソン作 さくまゆみこ訳 ポプラ社)のシリーズは何度も読みました。確かにたんたんとしているんだけど、ああ、このセリフってこういう意味だったんだとわかるところがあって、きっとこの本も、くりかえし読んだら、たくさんの意味がつめこまれているにちがいないと思った。

愁童:ウッドソンって目線が深いよね。両親の死に立ちあえなかったことだけでなく、父親が公園に連れていくのはいつもタイレーで自分は連れてってもらえなかったりと、チャーリーがアウトローになりかけてるのを細かいことの集大成として書かれているのがすごいよね。家族のなかでも疎外感を味わっている。それをしぜんに書いてるのは、いいよね。

ねむりねずみ:チャーリーが金をとったのは、お母さんのいっていた楽園にみんなを連れていきたかったからでしょ。いってみれば、いつも何となく疎外感を感じていた人間が一発逆転を狙ったら、それが完全に裏目に出ちゃった。しかも結果として、お母さんの目にうつった自分の最後の姿が手錠をかけられた姿になったというあたり、すごく切なくて、すごくきいていると思う。

:お母さんと最後に何を話したかなんてところもね。

愁童:たださ、親父さんが死んだ原因っていうのは、ちょっとつくりすぎっていう感じもあるよね。違和感なく読めたけど。

ペガサス:なんで『ミラクルズボーイズ』っていうタイトルなの?

アカシア:お母さんのミラグロっていう名前が、英語だとミラクルとなって、その子どもたちっていう意味なんだと思うけど。

愁童:お父さんが犬を助けて、長男が「あの犬はだいじょうぶかな」ときいて、お父さんが「だいじょうぶだよ、ティー。おれは、もうあったかくなった」って答えるじゃない。長男は、犬のことをたずねたのに、お父さんは自分のことをきかれてるんだと勘ちがいする。そのすれちがいが、うまいよね。

アカシア:物語のへそみたいなのも大事だと思うけど、この作家って、プロットで読ませるのではなく、人間を描いていく作家だと思うのね。おさえた書き方をしている。チャーリーの側から、あるいはタイリーの側から書けば、もっとドラマティックになったのかもしれないけど。

愁童:いやいや、ラファイエットを主人公にしたのがよかったと思うよ。

カーコ:本のつくりもすてきよね。

すあま:最近、新しい本を読んでいて、筋はおもしろいんだけど、読後感が残る本は少ないと思ってたんですよね。でも、これは久しぶりに、それぞれの兄弟の実在感が残った。長編でもないのに、本を読んだという気持ちになった。友人が、兄弟の別の人から見るとおもしろいって言っていて、「ヒルクレストの娘たち」シリーズ(R.E.ハリス作 脇明子訳 岩波書店)みたいに、続編でそういうのがあるとおもしろいかも。

(2002年12月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


卵と小麦粉それからマドレーヌ

『卵と小麦粉それからマドレーヌ』
石井睦美/作
BL出版
2001

:読みながら肩透かしをくっている気分。この子と出会って、友だちになりたくないって言いながら、あっさり友だちになっていくのも、ええっ?って感じ。「ママ」を連発するのもおかしい。32ページの「だって、ママとふたり遊び暮らしていた時期は終わって、たったひとりで社会に出向いていくのよ。幼稚園にはいったのが……」なんていうセリフにも、脱力。聞き飽きたセリフの行列もむかつく! だけど、今どきってこういう感じなのかしらね。最後に、写真部の話が出てくるけど、この子が部活をしていた話なんて、それまでどこにも出てこない! 日常の描写などは細かくて、そんなところは細かくなくてもいいから、もっと感情を細かく書いてほしかった。

すあま:読み終わった感じが、まさに「マドレーヌ」のタイトルどおり。この題名は、カリスマ料理家の料理本のタイトルみたい。結局、品よくできたお菓子。マドレーヌのように、くせもなく、甘かったみたいな。21ページの挿絵は、これはマドレーヌじゃないよね。

愁童:あんまりおもしろくなかったですね。いちばんひっかかったのは、不登校になった友だちの父親が、いじめっ子のことを「やつら」と言ってくれたから救われたっていうところ。物書きとしては、雑すぎやしないかと思った。つくりがヤワで、あまい。お菓子つくるのに、フランスに行くというのも、情けない。もうちょっとがんばってほしいな。

アカシア:いつもやさしい羊さんがむかついているのは、初めて見ました(笑)。この作家は、子どもたちにどういう世界をもたらそうとしているのかが疑問。106ページなんかも、ぞぞっとしてしまった。子どもの誕生日が、パリの革命記念日っていうんだけど、この作家には革命なんてことは全然わかってなくて、スパイスがわりに使ってるんだろうな。半世紀前ならともかく、今の時代に、お菓子を習いに半年フランスに行く程度で、なぜこんなに家族が大騒ぎするのかがわからない。今だってこういう親や子どもがいるのはわかるけど、子どもの本の作家なんだから、どういう未来像を子どもに手渡したいのかをちゃんと考えたうえで書いてほしい。自己陶酔とか自己憐憫的なところも、不愉快だった。なんで長さんの絵なんだろうね。

紙魚:このシリーズはみんな長さんが絵を描いてるんじゃないかな。長さんのイラストじゃなかったら、もっとあまくなっちゃったと思う。

愁童:この物語って、「殴るのはいけない」みたいな短絡的な考え方に通じていると思うな。もっと複雑な人間関係に目を向けないとな。

アカシア:いじめにしても、いじめられっ子だけでなく、いじめっ子の側も見てみるっていうのが、少なくとも文学だよね。

ペガサス:おもしろい本っていうのは、必ずどこかしらに、こういうものの見方っていいなとか、こういうふうに考えられたらいいな、と思う部分があると思うんだけど、この本はそういう新しい発見がひとつもなかった。出だしは、インパクトのあるセリフをもってきて、おもしろいのかなと思わせるんだけど、読んでいくと、亜矢はこういうセリフを言うようなタイプの子じゃないから違和感を感じる。作者はこの時期の女の子特有の感情とか、母親に対する気持ちなどを書きたかったんだと思うけど、それを3人の女の子と3人のママたちにただ適当に振り分けて書いている感じ。人物の造形が浅いので、紙を切り抜いて作った人形を動かしてるような印象。「捨てられた子どもは、捨てられたからこそじぶんを獲得していくんだよ」とか、気のきいたセリフを言わせてるつもりだろうけど、どれも特に新鮮じゃないし、作家の自己満足のように思える。確かに、女の子同士で、新しい魅力をもつ友だちに夢中になったり、口調を真似たり、その子の薦める本を読んでみたりという感情があるのはわかるけど、「それで、あらためて亜矢を好きになっていたところだった」なんて言うかな? お母さんが、「亜矢と仲良くしてくださってありがとう」なんて、言わないでしょ。家庭の中の、パパやママの描き方も、いまどき何なんだろうと思った。子どもの親に対する思いは、『ミラクルズボーイズ』みたいには伝わってこない。

紙魚:私は、この物語って、リアリズムではなく、ファンタジーだと思う。非日常の物語を読んで夢を見るのではなくて、日常の物語を読んで日々のことに彩りをそえるというような本。確かに、くすぐったいようなところはあるんだけど、ある時期の、それも、この読書会のメンバーのように骨っぽくないような女の子だったら、この本を好きな子もいるんじゃないかなとは思う。この会は、骨っぽさ100%ですから!

ウェンディ:お母さんの立場で読んでしまったのは、娘に感情移入できなかったからだと思うんだけど、私が夫をおいて留学したときも、家族を犠牲にしたように言われましたよ。

アカシア:でも作家って、世間の古い部分をただ書けばいいってもんじゃないんじゃない?

ウェンディ:ただ、平均像からすると、留学するっていうのは、あとがきにあるように、「赤い靴」かもしれないですよね。

ペガサス:主婦のエッセイだったら、そういうのを書いてもそれはそれで読めるかもしれないけど……。

愁童:夫婦関係はそれでいいかもしれないけど、子どもはたまらないよ。なんで行くのかわかんないよ。

カーコ:家中がテレビドラマのセットみたい。でも、確かにこういうお母さんっていますよね。子どもを囲いこんでしまっているような人たち。

きょん:安っぽいテレビドラマみたい。エピソードがほどよく構成されている感じ。

カーコ:最初から最後まで、私はこの物語の世界になじめなかった。今の一般的な中学生がこれを読んで、こういう世界をすてきだと思うのかどうか疑問でした。こんなお父さんって、ほんとにいるのかな、いてほしいと思うのかな。この作者は、主人公の女の子よりも、むしろこの「赤い靴をはく」お母さんを書きたかったのかなと思いました。日本人の作家の描くリアリズムの児童文学って、こんなふうになるのでしょうか。

ねむりねずみ:なんなんだろうな。ぬくぬくと生きている社会を反映しているのかな。致命的なのは、この女の子に魅力が感じられないこと。駄々をこねている子どもをシラッと見ているようなスタンスになっちゃった。セリフに入ってくる言葉も、本人の肉声になっていない。設定もバブリーで、専業主婦で目覚めてパリに留学っていうのもいただけない。日本の社会っていうのは、創作を書きにくい状況なんだろうな。これを読んで絶望しなくてもいいんだろうとは思うけれど。

ウェンディ:自分が母親の立場に似たところがあるので、母親寄りで読んでしまうのかなと思っていたけれど、みなさんも同じだったんですね。そこには葛藤とか成長とかはきちんと描かれない。なんとなくふわっとしていて、なんとなくいいというのは、まさにトレンディドラマ。日本の親子はこういうのが現実的なのかな。

紙魚:経済的にはちがうと思うけど、精神的には、今の日本って、こういう家庭像なんじゃないかな。

:まあ、親もいっしょにプチ整形したり、ダイエットをすすめたりするんだっていうんだからね。

ペガサス:いいところを挙げるとすると、本文の組みが、下の空きが広くて読みやすかった。

アカシア:そうね、杉浦さんの装丁がいいよね。


どろぼうの神さま

『どろぼうの神さま』
コルネーリア・フンケ/作 細井直子/訳
WAVE出版
2002

ねむりねずみ:ちょうど英訳も出ていて、書評誌などでも好意的に扱われているようです。「大人はよく子どものころはよかった、という」という惹句にひかれて読んでいったんだけど、読み始めると、話がぽんぽん展開していくのでおもしろく読めた。リッチオは「カール」、モスカは「蚊」、ロベルトの相棒は「愛人」、バルバロッサは「赤いひげ」なんて、名前にもそれぞれ意味があって、知っている人はおもしろいんだろうな。スキピオだけが適度に大人になって終わるというあたりは、なるほどなって思いました。なんでかなあ、子どもたちが悪者を追いつめていく『エーミールと探偵たち』(ケストナー作 高橋健二訳 岩波書店)を連想してしまった。バルバロッサが小さくなった後で、子どもたちがうまいこと辻褄を合わせようとするあたりで、子どもってほんとうに冷たくはなれないんだなあと思ったりした。ひとつだけわからなかったんだけど、メリーゴーラウンドの翼がとれたのは、直せばいいのになと思った。

カーコ:粉々になったから直せなかったんですよ。この本は、ヨーロッパのほかの国でも翻訳が出て、わりと話題になっているみたいですね。ファンタジーですよね。読者をひっぱっていくストーリー性とベネツィアという舞台設定がすべてだと思いました。人物の深さは感じられないし、孤児の子どもたちの結束も現実ばなれしている。プロスパーの弟ボーに対する思いも唐突だし、大人たちが都合よく助けてくれる。でも、お話として、子どもたちが安心して読み進められるかなと思いました。作者のこだわりは、不思議なメリーゴーランドというモチーフとベネツィアという街にあったのかな。メリーゴーランドが壊れるシーンのあと、物語の緊張が途切れる感じがしました。

紙魚:私は、筋はおもしろいとは思うけど、ちょっと物足りなかったです。大人になったり、子どもになったりできるメリーゴーラウンドが出てきて、わー、これからおもしろくなりそうって思ったのもつかのま、それによって起こる、彼らの心の動きがぜんぜん出てこない。子どもの心をもったまま、体だけ大きくなったら、いろんな困ることや、葛藤があるはずでしょう。バルバロッサの方は、ちょっとおもしろおかしく書かれていたけど、肝心のスキピオについては、ほとんどなし。帯や巻頭の文句に、あれだけ、大人と子ども、どっちがいいのかなんてことが書かれているのに、単なる体の大きさしか伝わってこなかったのが残念。そここそ、書いてほしかった。

アサギ:この本ね、ドイツの雑誌で「なぜイギリスで好まれたのか」という特集を組まれたから、前から知ってはいたんです。ドイツで軽いエンターテインメント的なものを書こうとすると、ドイツを離れなくちゃいけないのよね。外国にいくと、想像の翼がはたらくんでしょうね。

ねむりねずみ:べネツィアだから描けたっていうところ、ありますよね。ベネツィアって、巨大テーマパークですもの。

ペガサス:短い章がいっぱいあって、連載ものを読んでいるような印象。『エーミールと探偵たち』を思わせるという感想もあったけど、大人対子どもという図式がはっきりした物語でしたね。描写も具体的。どういうものを持っていて、それがどこに置いてあってという、具体的な描写がきちんとしているので、情景を目に浮かべやすい。読者対象は、この本の造りでは、どんなに読書力があっても、小学校上級から中学生以上だけど、読みやすさや物語の内容からいって、もっと下の子どもたちにも楽しめるようにしてもよかったのに。

アカシア:最初入りにくかったけど、三分の一くらい進んでからは、電車を乗り過ごすほど夢中で読んでしまった。ただ、ゲームのノベライゼーションみたいなプロット重視の作品ではありますね。最後、どたばたで終わっちゃったのは、残念。

愁童:ゲームの骨子ってだいたい決まってるんですよね。強い人は最後まで強い。スキピオが大人になってどうするかっていうと、親父の威光で生きてるわけですよね。映画館を追われてどうするかったって、お金持ちの女の人に救われるわけだから、底が浅い。これだったらゲームにすればいいし、この内容だったら長すぎ。大人のぼくが読んでもかったるいので、子どもは読めないと思う。ゲームを経験しているような30代は、読むんじゃないかな。

すあま:最後、落ち着くところに落ち着いて、読後感もよしって感じの本ですよね。でも、あそこまで大きな話なのに、あっさりしている。まとまってはいるんだけど、シュッと終わっちゃう。メリーゴーラウンドまで広げなくてもよかったんじゃないかな。先に不思議なメリーゴーラウンドというのが作者の頭にあったのかもしれないけど。1冊ではあるんだけど、前半後半でまったくちがう話という感じがする。それから、人物の印象が薄いという話があったけど、最後、誰が主人公かと考えると、わからない。大人になってからの話もないし。いろんな子の顔は浮かぶんだけど、強烈な印象がない。しばらくたつと思い出せない。

:私は、兄弟2人を主人公にして読みました。弟を守ろうとしている姿とかね。子どもたちがそれぞれに事情をかかえているけど、そこにある危うさとか脆さは、あまり感じられなかった。プロスパーとボーが、2人きりでべネツィアまで逃げてくるっていうのは無理じゃないかしら。あとの3人も、どういうことがあって独りで生きなくてはいけないのかを書いてくれれば、もっと力強さが加わったのに。メリーゴーラウンドに乗るところあたりから、失速した感じ。私は、体だけじゃなくて心も子どもに戻るのかなと思っていたから、ここで、ずっこけました。べネツィアの風景は楽しめた。でも、子どもだけの生活が楽しいとは思えかったな。

ペガサス:みんなの感想をきいてても思ったけど、やっぱりちょっと長すぎるのよね。

ねむりねずみ:スキピオの謎がとけちゃったら、次はメリーゴーラウンドの謎というように、ちょっといきあたりばったりの感もありますね。

アカシア:けっこう読まれてるのよ。図書館でも貸出が順番待ちで、結局間に合わないから私は買ったの。

ペガサス:ジュンク堂では、寓話のジャンルに置いてあった。これこそ、児童書として認知されてほしいけど。

ウェンディ:私は初め、なかなか読み進められなくて、一昨日の夜、メリーゴーラウンドまで読んで、だから一昨日の夜がいちばん楽しかったかな。要するに、エンターテインメントですよね。「大人はわすれてしまっている 子どもでいるというのが、どういうことなのか」と書かれているので、きっとそれが言いたいんだろうけど、途中で、大人よりも子ども時代のほうがいいと言いすぎている気がした。大人は悪いヤツというステレオタイプが気になります。私は、兄弟のお兄ちゃんにくっついて読んだけど、印象的な子どもがあまりいなかったし、いい大人が出てこなかったのが残念。似たような話に『赤毛のゾラ』(クルト・ヘルト/作 渡辺芳子/訳 福武書店)があるけど、これは40年代のクロアチアが舞台なんですよね。現代にもこういうことってあるのかなと、ふと疑問に思いました。探偵や、骨董屋が出てきて、時代をぼかしているのかと思いきや、携帯電話が出てきて、いったい時代はいつなんでしょう?

カーコ:リアルであることを求めちゃいけない作品なのかも。

ペガサス:あとさあ、くしゃみをする亀っておもしろいわよね。『どろぼうの神さま』ってタイトルも子どもにとって魅力的だと思う。

:探偵と子どもの関係もおもしろかったわ。

愁童:終わりの方でえんえんと続く、バルバロッサの養子の話はおもしろくないよ。子どもが読んだら、なにこれって感じ。大人向けなのかな。

ウェンディ:日本だと、海外を舞台にした話は、どうしても作者の知識不足のせいで破綻があったりするけど、ヨーロッパの国どうしだと、どうなんでしょう?

アサギ:まあ、ドイツとイタリアは、近いからね。このあいだ、友人が平野啓一郎の『葬送』(新潮社)を読んだのね。フランスが舞台で、ドラクロアとショパンの物語なんだけど、会話がどうしても日本人の会話にしか思えないんだって。日本人作家が外国人を主人公にするのは、やっぱり難しいのね。


2002年12月 テーマ:最近の本

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『2002年12月 テーマ:最近の本』
日付 2002年12月5日
参加者 ペガサス、羊、ねむりねずみ、アカシア、カーコ、紙魚、きょん、愁童、ウェンディ、アサギ
テーマ 最近の本

読んだ本:

ジャクリーン・ウッドソン著 さくまゆみこ訳 『ミラクルズボーイズ』
『ミラクルズ ボーイズ』
原題:MIRACLE'S BOYS by Jacqueline Woodson, 2000(アメリカ)
ジャクリーン・ウッドソン/作 さくまゆみこ/訳
理論社
2002.09

<版元語録>両親を亡くした3人の兄弟。ミラクルを母とする息子たちの長男は頭もよく2人の弟の面倒を見ている。次男は非行を繰り返し末弟のぼくと話もしなくなった。そんな3人の兄弟愛を描く。
『卵と小麦粉それからマドレーヌ』
石井睦美/作
BL出版
2001

版元語録:ママが爆弾発言をした。わたしをおいて、パリに留学!?ママとは強い絆で結ばれていると思ってたのに。大ショックの菜穂は、亜矢に相談に行って……。突然やってきた悩みに奮闘する少女の、コミカルな自立白書。
『どろぼうの神さま』
原題:HERR DER DIEBE by Cornelia Funke, 1999
コルネーリア・フンケ/作 細井直子/訳
WAVE出版
2002

版元解説語録:チューリヒ、ウィーン両児童文学賞受賞作! ドイツから届けられた冒険ファンタジー —— 本邦初紹介! 「ハリー・ポッター」を発掘したイギリスの編集者が今最も注目している作家!

(さらに…)

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