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先生、しゅくだいわすれました

『先生、しゅくだいわすれました』
山本悦子/著 佐藤真紀子/挿絵
童心社
2014.10

げた:今の小学校には宿題の点検係っていう係があるんですかね。それはともかく、宿題を忘れた時、言い訳を話すことで許してもらえる。子どもたちにそれが受けて、わざと忘れてきて、おもしろい話をしようするようになるという展開になって、お話の発表会の場のようになってきちゃうんですよね。現実には、こんな風にはならないでしょうけどね。職場でも月曜の朝礼の時に、順番にフリーテーマで話すということをしていたことがあったんですが、なかなか大変だったことを思い出しましたよ。おもしろいと思わせる話をするのは難しいですもんね。

アンヌ:物語の枠にとらわれない「ウソ」というのがおもしろいお話でした。ファンタジーの決まり事では、物語の最後に何か証拠が残るような仕組みを置くのだけれど、ここではウソなので何もない。例えば、お話の中で頭をぶつけても「目が覚めたらたんこぶがあって昨日の話は本当だった」となるところが、ウソなので「たんこぶもありませんでした」 となるのが新鮮でした。先生のお話も、生徒たちが引き込まれていって新しいウソの目撃談を誰かが口にすると、それも物語の中にとり込んでしまう。そして、ぐんぐん伸びていく物語は「宿題が出来なかった、作れなかった」 という着地点に収まる。なんだか、一瞬の夢が言葉で語られ教室の中でふっと消えていく感じが、伝承されない物語という感じで新鮮でした。表紙の中にも隠し絵があるし、p.64、p.67の竜のお母さんの挿絵も、 みだれ髪といい裸足といい、怪しそうにおもしろく描けていると思いました。

ルパン:私はあんまりおもしろくありませんでした。子どもたちが「宿題をやらなかった言い訳」として作るお話が、つまらないんです。どれも陳腐でたいしたことないから、宿題忘れが帳消しになっていいと思えるほどの説得力がない。やっぱり、宿題って、やらなきゃいけないものなんです。ましてや、先生が自分で出した宿題を「やらなくていい」というからには、それでもいいやと思えるほどのあっといわせるものがないと。そこが中途半端だと、むしろ「読ませたくない話」になってしまいます。

アカザ:子どもがすらすら読める本だと思いました。特にいやだなという点はなくて気持ちよく読み進めましたが、おもしろかったかときかれれば、ちょっとね。宿題を忘れた言い訳を考えさせるというのはいいのですが、肝心のウソの話がつまらない。ウソ話が奇想天外にふくれあがって、学校が大変なことになるとか、いくらでも冒険できると思うのだけれど、肝心のファンタジーの部分がおもしろくないので、すぐに忘れてしまいそうです。

レジーナ:たわいのない話で、『きのうの夜、おとうさんがおそく帰った、そのわけは・・』(市川宣子作 ひさかたチャイルド)に少し似ていますが、私はこういう本はいろいろあっていいと思うし、読んだあとに満足感が得られる短い作品というのはなかなか見つからないので、積極的に子どもに手渡していきたいです。表紙にも工夫がありますね。今の学校現場は、いじめや貧困などいろんな問題を抱え、児童文学でもそうした問題が描かれることが多いですが、この本は、先生と子どものやりとりをほのぼの描いていて、「そういえば学校って楽しい場所だったよね」と思いださせてくれる作品です。

レン:さっと読めましたが、私はそんなにおもしろくありませんでした。宿題忘れちゃうというだけで、おもしろそうと思って子どもは手に取るのかな。中に出てくるつくり話を、私は楽しめませんでした。やらなくてもいい宿題なら、最初から出さなくていいのにって思っちゃいます。子どものときに読んだら、好きじゃない本だったと思います。生活童話のたぐいがとても苦手だったんです。そんなこと言ったって、学校なんて楽しくないのにって思っているヘソ曲がりだったから。

カピバラ:4年生の学級の話なので中学年向けですが、幼年童話かと思うほどの造りですね。4年生向けの本だともっと文章量のある本を想定してしまうけど、今の4年生の読書力が落ちていることを考えると、この薄さ、いかにもおもしろそうなタイトル、ほとんどのページに挿絵入りで、カラーページもたくさんあり、挿絵なしのページは下に余白をたっぷりとって字がぎっしり詰まっていない……読書が苦手な子も何とか読めるように、と考えたところに努力賞をあげたいです。

ハル:そうか、この本は、中学年向けなんですね! もう少し下の子向けかと。ちょっと今そのことに感心してしまって、感想が飛んでしまいそうです。えっと、タイトルから何か、古典的な名作といったものを期待しすぎてしまって、ちょっと物足りなかったなというのが正直なところです。つまらなくはないんですけど。途中で「宿題、もう忘れたくない!」という展開になったところで、新たな展開やオチを期待してしまったんですけど、そこで先生のつくり話がきて終わってしまったので、やっぱりちょっと、ぼやっとした印象を受けました。

マリンゴ: シンプルな話っていうのはこういうものなのだな、と。決して悪い意味ではなくて、むしろいい意味で、お手本になると思いました。自分だったら、みんなのついたウソが一つの物語につながる、というような、もう一段階凝ったストーリーを考えてしまいがちですが、そうなると文章が長くなって本が分厚くなって、中学年向けではなくなってしまう。このくらいの文章量と絵の多さが、中学年の子が楽しく読めるスタンダードなのかも、と感じました。今の子は読書力が落ちていると聞くので……。

西山:読みましたけど、よそに差し上げちゃって手元になくて、地元の図書館では貸し出し中で読み返せませんでした。いまさっとめくって、学校の息苦しい現状が進行していて、学校は重くなりがちだから、こういう軽さは意外と技が必要なのかもと思います。それと、「仕方ないねぇ」っていう緩さが、今回のテーマに沿うんだなと納得。先日テレビで「エイプリルフールズ」という映画を観ました。出てくる人物が全員ウソをついてて、それがちゃんと絡んでいくし、こっちが思っているウソと真相が逆だったり、とてもおもしろかった。作り話がからんでいくとか、どんでん返しがあるとか、中学年向きでも試みてもよかったのではと、欲が出なくもないです。

アカシア:さあっと読めて楽しかったんですけど、後には残らなかった。市川宣子さんの『きのうの夜、おとうさんがおそく帰った、そのわけは・・・』と同じつくりですが、あっちは、一人のお父さんがほら話をするので、お父さん像もだんだん浮かび上がってくる。こっちは、一人一人ばらばらに話をするので、ばらばらな感じ。小学生が次々にこんなうまい話を長々とするわけもないので、リアリティもない。想像力の訓練として、あなただったら、どんな話をする? という方向に持って行ければ、それもおもしろいのかもしれないけど。

(「子どもの本で言いたい放題」2016年4月の記録)


世界の果てのこどもたち

『世界の果てのこどもたち』
中脇初枝/著
講談社
2015.06

マリンゴ:非常にいい物語だと思います。私自身、満州での生活など、知らないことがいろいろあって勉強になりました。ただ、児童文学として子どもに積極的に推す気にはなれないかも。やっぱり大人向けの文学だと思います。というのも、引き揚げのとき、中国の人がいかに残酷だったかを描いているシーンがあまりに鮮烈で、そこが強く頭に残りそうだから。高校生以上だったら満州ができた経緯など、基本的なことを知っているので、その上でこの小説を読めるでしょうが、そのあたりの歴史をほとんど何も知らない中学生だと、日本はひどいことをされた被害者だ、という印象のみを強く持つようになってしまうかな、と。

ハル:途中読むのがつらくなるくらい、ドキュメンタリーのような写実性を感じるけど、小説として素晴らしい作品だと思います。一方で、日本人ってこんなに素直だったのかなぁとも思いました。当時のこの悲惨で過酷な状況の中で、「自分たちはこんなにひどいことをしたんだ」と、加害者としての立場をこんなに素直に受け入れられたのかなと、ちょっと主人公たちが都合よくまとまっているような感じもします。この作品にかぎったことではないですが、この先、戦争体験者もどんどんいなくなっていくなかで、記録や体験として残していかなければいけない。でもそこには、伝承者にも読者にも、主観や政治的思想もからんでくるので、戦争を語り継いでいく意義と責任と、改めてこわさも感じました。

カピバラ:育ち方や性格がまったく違う3人の少女が、3人3様の強さをもって困難を乗り越えていくところに感動しました。子ども時代は子どもの視点でよく描かれていて、例えば満州の広い広いトウモロコシ畑で働くシーンなど、ありありと情景が目に浮かびました。子ども時代の部分は児童文学でもいいかなと思ったけど、全体としては児童文学ではないと思います。とてもよく調べ、事実をもとにして書いていると思いました。わたしの母が子どものころ、叔父が朝鮮人の奥さんを連れて引き揚げてきた。その人が翡翠の腕輪をはめていたことや、「チョーセンジンと馬鹿にするな」とよく言っていたことを覚えているそうです。けれどそういう記憶をもってる人は、今はもう2世代前になってしまった。だからこういう本は貴重だし、広く読んでほしいと思います。

レジーナ:児童文学でないというのは、どういう点でしょうか。

カピバラ:戦争や人種のことなど、歴史的背景を知ったうえでないと、偏った印象をもつかもしれないという意味です。

アカシア:出し方が、子どもの本じゃない?

ルパン:出し方が児童文学じゃないというのは?

カピバラ:子どもには隠した方がいいというのではなくて、やはり描き方だと思う。後半、ショッキングな場面が続きますからね。

レン:非常に意欲的な作品だと思いました。最後にたくさん参考文献があるので、こういうことをこの作家さんは書きたいと思ったのだなと。でも、児童文学ではないと思いました。戦前、日本も貧しくて、国内では食い詰めて外国に出て行く人がいたこととか、学校でも政治の場でも暴力がまかりとおっていたのだなということなど、改めて考えさせられました。ただ、私もうは少しウェットに書いてくれるといいのになとも思いました。作者が意図的にそうしたのかもしれませんが、事実が積み重ねられていく感じの部分が多くて。読みながら、ロバート・ウェストールの『真夜中の電話』(原田勝訳 徳間書店)の、触ったものや匂ったものの感じが伝わる文章を思い出して、ひとつひとつの体感がもうちょっとあるとよかったなと。でも、朝鮮だから、中国だから、というのではなく、どこの国の人でもいい人もいれば、そうでない人もいるというのは、よく伝わってきました。もう少ししぼって書いたらYAになるのかなと思う反面、3人を描くことで、この当時の満州の群像劇になっているとも思います。なかなかないテーマに取り組んだ、力のこもった作品だと思いました。

レジーナ:この本は一般書として出版されているので、今回、みんなで読む本に選んでよいか少し迷いましたが、クラウス・コルドンの『ベルリン』(理論社)3部作や、マークース・ズーサックの『本泥棒』(早川書房)のように、戦争というものが多面的に描かれていること、日本人が中国人や朝鮮人の土地を奪ったり搾取したりしたことにも触れていて、加害者としての日本が子どもの目で捉えられていることを考えると、ぜひ中高生に読んでほしいと思ったので選びました。人が生きるというのはどういうことか、国を越えて人と人とが心を通わせるというのはどういうことなのか考えさせる作品です。日本がアジアの中で近隣諸国とどのように向き合っていけばいいか、そのヒントがここにあるように感じました。ウェットな描き方ではありませんが、凍りついたトイレなど、満州での生活の描写はリアルですよね。3人は、おにぎりのことを人生で何度も思いだしていて、その場面がリフレインのようにくりかえし出てくるので、最初はさらっと描かれているからこそ、あとになって胸に迫るように感じました。戦争の時代はすべてがつらかったように思いがちですが、けっしてそうではなくて、のどかな日常もあって、それを奪うところに戦争の悲劇性があるんですよね。

きゃべつ:日本の戦争児童文学では、これまであまり触れられてこなかった部分を描いています。角田光代さんの『ツリーハウス』(文藝春秋)は同じく満州から始まる親子三世代の話ですが、それが縦軸だとすると、これは立場の違う3者を主人公にしていて、横軸的。その当時の中国や朝鮮の人の暮らしを知らなかったので、とても新鮮でした。これだけのものを書きあげてくださったのは素晴らしいと思います。読んでいて、よく調べて書いたことが分かりますが、事実を積みあげていけばリアルに近づくのか、という疑問も持ちました。どんなに日本人の加害行為が描かれても、どこか、読んでいる日本人がほっとできるというか、やむをえないなどと責任転嫁できてしまう余地を残してしまうのでは? それが虚構だとしても司馬遼太郎の歴史小説のように、事実を積みあげているからこそ、読んでいてその部分を見抜くことができない。戦争を知らない世代が描き、戦争を知らない世代が読むということは、その恐れがつねにあるかもしれない。戦争に関する本に携わるとき、自分自身、事実を詰めこめば嘘にならないだろうと思ってしまうところがあります。まじめになりすぎて、当事者だったら入れられたであろうユーモアを入れられなくなってしまったりします。どうやって、軽みを出していくのがいいのか、考えていくきっかけになりました。

レン:先日、浅田次郎さんのお話を聞く機会があったのですが、戦争を知らない人間が戦争を書くのはおこがましいという人もいるけれど、生の形で伝わるように書かねばならないと言っていました。書くことは貴重だと思います。

アカシア:たとえばアメリカのアフリカ系でレズビアンの作家ジャクリーン・ウッドソンは、たとえば白人が黒人の問題を書くとか、レズビアンじゃない人がレズビアンを登場させるといったことについて、書いた人が自分の問題としてとらえているのなら、いいじゃないか、と言っています。表面的にとか、ファッションで書くんじゃなくてね。

きゃべつ:もっと、コミカルに描く作品があってもいいかと思います。

アカシア:当事者でも、そうでなくても、ユーモアを持って書ける作家はいます。ウーリー・オルレブなんか、ユダヤ人で戦禍に脅えているのに戦争ごっこなんかやってる子どもを描いているし、ソーニャ・ハートネットも『銀のロバ』(主婦の友社)で死にそうな脱走兵を子どもたちが興味津々で見に行ったりする。子どもはいつでも子どもだと捉えれば、そこにユーモアもおのずと出てくるような気がします。

アカザ:とても力のこもった作品で、感動しました。現代史を十分に学んでいない中高生もいると聞くので、ぜひ読んでもらいたいと思います。被害者としての子どもたちを描くだけでなく、バランスをとって書こうとしている作者の心配りが感じられました。3人の少女の個人史を語っているので、視点が広がっていると思います。児童文学として書かれたものではないけれど、3人が優等生すぎるというか、健気すぎるところが児童文学的。この作者には、もっともっと子ども向けの作品を書いてもらいたいと思いました。戦後の部分が駆け足になってしまった感じはしますけれど。

ルパン:たいへんな意欲作だと思います。子どもが読んでも、それほど善人悪人という色分けは感じないのではないかと思います。中国人が悪いとか日本人が悪いとかいう偏った書き方はしていないから。私がいちばん強烈に印象に残ったのは、にぎった手をこじあけられて、たったひとつのキャラメルを奪われる場面です。いろいろな意味で、リアルにぞっとしました。その記憶を持つ少女がおとなになって好きな人との結婚に踏み切れなかったのはせつなすぎました。児童文学という観点からすれば、主人公が必ず幸せになる予定調和がほしかった。

アンヌ:かなり読むのに時間がかかりました。児童文学だと思い込んでいて、ロシア兵に襲われる場面で違うと気づきました。3人のうちでいちばん心の傷が深いのが、ずっと日本にいた茉莉という設定には、少し納得がいきませんでした。孤児になってからの他人の仕打ちが心に残って、迎えに来た兄と慕う人と結婚しない。ここで茉莉が拒絶したかったのは何なのかが、うまく読み解けませんでした。私は祖父母や親の世代が、引き揚げてきた人たちについてこっそり話しているのを聞いた世代ですが、そういうことを次の世代にどう手渡せばいいのか、この小説を読みながら、考えさせられました。

げた:最初は、これってノンフィクションかなあと思いながら、読み始めました。フィクションなんだけど、ドキュメンタリーみたいだなあと思いつつ、一気に読みました。全編、泣きながら読みました。生命力の弱い幼い子から順番に亡くなっていくんですよね。ひどい話です。大人がいがみ合い、そのつけを幼い子たちが支払うなんてひどいです。許せません。こういった事態を作ったのは為政者、権力者ですよね。がそういう状況をつくってしまう。中国の人だけがひどく描かれているという風には思いませんでした。開拓団の土地はもともと中国の人たちのもの。それを奪ったのは日本人でしょ。作者は私よりずっと若い人なんですが、そんな若い人に書いてもらって申し訳ないという思いもありますね。この本は、歴史の勉強をしながら、高校生ぐらいの人たちに読んでほしいですね。

アカシア:おとなは、戦争はひどいことが常時行われていると知っていますけど、それさえほとんど知らない若い人が読むとどうなのか、という点に興味があります。さっき中国人の残虐性が強く印象にのこるんじゃないかという話がありましたが、珠子は、p265で「もうわらえない。わたしも日本人だから。酷いことをした日本人のひとりだから」と言ってるし、茉莉もp289から次のページにかけて「わたしの手を無理やりに開いてキャラメルを取っていったおばさん。わたしのお皿のじゃがいもを食べたおじさん。かっちゃんにみつけてもらうまで、だれもわたしを助けてくれなかった。養護施設ではひどい目にあわされた。/自分だけじゃない。道ばたで死んでいる人たちの懐から財布を盗んでいった人。空襲で親を失い、不自由な体になってなお、守られるどころか、いじめ抜かれた戦災孤児たち。/こんな日本人なんていらない。この世界に、憎むべき日本人を増やしたくない。/そして。/茉莉にはわかっていた。/日本人。それは、わたしも。/日の丸の旗を振って、進一お兄ちゃまをフィリピンに送り込んだ。鉄を集めて、弾丸切手を買って、鉄砲の弾を送った。シンガポール陥落のときも提灯行列をして祝った。『陥落』されたシンガポールの人たちがどうなったのか、考えもせずに」と思っています。だから二人の頭の中には中国人の酷さより日本人のひどさの方が強く印象づけられているんだと思います。でも、飢えの経験がない読者の中には、キャラメルやジャガイモを取られるより、権力者の宣伝に乗ってほかの国を侵略するより、引き揚げの際に満人が襲ってくる怖さの方を感じてしまう人がいるのも確かかもしれない。マリンゴさんがおっしゃるように。戦争が実感としてない世代にどう伝えればいいのか、難しいところだと思います。
 実際には戦争になると国家がおとなに加害し、おとなが子どもに加害するという弱肉強食の世界が生じる。で、より弱い立場の者がいちばん犠牲になるってことを、この作品はちゃんと書いてます。それと、立場も国籍も育ち方も違う3人の女性の生きていく様子を書いているので、視点が複合的になって全体がよくわかる。それがすばらしい。時代の流れの中で個々に人間の生き方を書くのは、日本の児童文学作家が苦手とするところだと思って来ましたが、この作家は書けますね。これからが楽しみです。それと、残虐なシーンがあるから子どもには読ませないというんだったら、『マザーランドの月』もだめですよね。あっちはもっと訳のわからない残虐さだから。

きゃべつ:『マザーランドの月』は、子どもがわかるだけの範囲で切りとられているので、そういう作品はもっとあってもいいのではないかと思います。読んだときにそれが何を指し示しているかわからなくても、大人になってからわかることもあります。興味を持つきっかけになればいいかと。

西山:私は、これは児童文学じゃないと考えています。私にとっての線引きは、残虐な描写があるかどうかとかいうことではなく、その作品の中心部分が、どういう世代にとっての切実か。それで考えたいと思っています。この作品は、子どもの切実がメインではない。ただ、児童文学を刺激する作品だし、作者も児童文学の人だと思うから今回みんなで読む本になったことにまったく異論はありません。好きな作品です。長いスパンで近現代史を描いているところが新鮮です。戦争を描くときにそれは必要だと思ってます。この作品には、いくつも屈折があって、戦争と人間の様がほんとうに多様で複雑だということを感じさせてくれるから、ネトウヨ云々の心配は感じません。珠子を育てた中国人の両親の印象が強いから、中国の兵隊が残酷だったなんていう印象がひとり歩きすることはない気がする。それと、過ごしてきた時間で家族ができるという家族観も貴重だと思いました。戦争を背景とする物語には、引き裂かれた家族の悲劇とか多いと思うんです。日本に帰ってきて母親含め肉親と再会したにもかかわらず、日本語をすっかり忘れてしまっている珠子の物語は厳しくて新鮮でした。3人の生活の違いもおもしろく、貴重だと思った点です。食い詰めて満州に行くような高知の寒村の暮らしと同じ時代に、おふろあがりにイチゴをつぶしてミルクをかけて食べるような暮らしもあったという。ほんとにおもしろいと思います。中高生と付き合ってて、戦争中は昔で、昔はみんな貧乏で、食べ物もなかったと思っているらしいと気づいたことがあるので、戦前のハイカラな生活が出てくるのは重要だと思います。あれが丸、バツというようにはならない、たくさんの側面が書かれているからこの作品を支持します。身体感覚に寄り添った表現がないと読むのがつらいという話もでてますが、私は、作品始まってまもなく、前の道路が広くて子どもたちが走ってしまうところなんかにあっという間に、心がわしづかみされた口です。多くの10代にはハードルの高い作品ではあるけれど、3人の人生に寄り添って読めるし、誤解しそうな子は最初から読まないから、どんどん紹介していっていいと思います。

レン:印象的な部分を2,3分朗読すると、読んでみようと思うかもしれませんね。この作品は方言がとてもいいですよね。

きゃべつ:きれいな日本語を話す美子が、方言をいっしょうけんめい覚えるところはおかしかったし、かわいかった。

アカシア:気の毒な人たちのことを代弁して書いてあげるという態度だと、自分のものにならないからだめですよね。子どもの時遠いお寺に三人で出かけて雨に降りこめられておむすびを分けあったエピソードですが、何度もくり返し思い出しては語られます。でも、最初の場面で、私はそれほど強い印象を持たなかったので、それを3人3様にことあるごとに思い出すのかなあ、と疑問に思ったんです。そこをキーにするなら、飽食の時代の若い人たちにももう少し強い印象が残るように書いたほうがよかったんじゃないかな?

きゃべつ:私も、饅頭の材料が小麦粉だと上等で、コーリャンだとあまりおいしくない、といった違いが、あまりよくわからないというか、身に迫ってきませんでした。

カピバラ:おにぎりを食べたとき、茉莉は特になにも感じずに大きいほうをもらって食べたけど、あとになっていろいろな体験を経るうちに気づくんですよね。それが美子たちとの唯一の記憶になるくらい大きなものになっていく。

アカシア:飽食の時代の読者にアピールするには、そこをもっと書き込んだほうがいいように思ったんだけどな。

西山:雨の中でのんきに歌ってる。あの場面も大好きです。おとなたちは村を挙げて生死を心配して駆けつけたというのに。そして、歌声を聞いて、おとなたちも笑ってしまう。あの、ほがらかな感じがとても好き。だから、そこにでてきたおにぎりも、場面丸ごとで重要な意味を帯びていくんだと思います。

(「子どもの本で言いたい放題」2016年4月の記録)


しゅるしゅるぱん

『しゅるしゅるぱん』
おおぎやなぎちか/著 古山拓/挿絵
福音館書店
2015.11

ルパン:タイトルがおもしろくて、前から読んでみたいと思っていたのですが、読んでみたらどうにも期待外れでした。急いで読んだせいか、腑に落ちないところが多々ありました。太一(三枝面妖)という作家の奥さんは人間なんでしょうか? 聡子は早死にしたそうですが、それには意味があるのでしょうか? そもそも、恋人同士がそれぞれ別の人と結婚し、互いの恋心だけが残ってしまって、「二人の子ども」として妖怪のしゅるしゅるぱんが生まれ、その別々の結婚によって生まれた本当の子どもたちの前に現れる、という物語のわけでしょう? 妖怪を産んでしまうほど想い合っていたのなら、なぜ結婚しなかったのかさっぱりわからないし、そこまで強い想いがありながらほかの人と結婚して、しかも近所に住んでいて…というのは、児童文学としていかがなものでしょう。面妖は妙さんを裏切る必要はまったくないのだから、しゅるしゅるぱんが生まれる必然性もないはずだし。『ユタとふしぎな仲間たち』(三浦哲郎著 新潮社)に出てくる座敷童のような悲しみがないから、共感できず、読後感も気分のいいものではありませんでした。

ハリネズミ:おもしろく読んだのですけれど、大きな疑問が残りました。解人が、川で溺れかけている自分の父親を助ける場面があります。p203には解人の思いがこんなふうに描かれています。
【(そうだ、パパは川でおぼれかけたことがある。それがこの時だったんだ。助けないと、ぼくが助けないといけないんだ。ここでパパが死んだら・・・。この手を放すわけにはいかない。ぜったいに放さない)/「きら、死んじゃダメだ!」解人はあらん限りの声をはり上げた。】
だけどね、解人が実際にこの世に存在しているということは、父親はこの時に死ななかったという事実が既にあるわけですよね。歴史的事実としては、父親の彬は、息子の存在と関係なくこの事故を生き延びている。そのあたり、時間的ファクターが矛盾していて、いい加減な感じです。それと、この家系の者ではない宗太郎には、しゅるしゅるぱんは見えないのですが、なぜか溺れかけている子どものときの彬の幻は見える。それもファンタジーの文法としてどうなのだろうと、疑問に思いました。ラノベだと時間軸の有り様を無視した作品がいっぱいあるでしょうけれど、これはラノベじゃないですからね。

アンヌ:SFでは過去の改変はいけないということが前提ですが、例えば『時間だよ、アンドルー』(メアリー・ダウニング・ハーン著 田中薫子訳 徳間書店)のように、過去の少年を現代に連れてきて病を治して過去に帰すというような物語もないわけではないので、私は、この場面にはそう疑問を持ちませんでした。ウェールズに直接影響を受けたネズビットも、かなり自由なタイムトラベル物を書いています。

ハリネズミ:ネズビットは家計の必要からじゃんじゃん書いた人なので矛盾もいっぱいあるのですが、この作品と同じような矛盾は私は感じなかったけどな。

パピルス:タイトル、表紙や目次がユニークで、この本は一癖二癖あるぞと思わせてくれる作りになっています。登場人物の名前(主人公の「解人」など)は意味がありそうで意味が無く、残念でした。描き方が中途半端と言う意見もありましたが、自分にはちょうど良かったように思います。活字を読むのが久しぶりで億劫になっていましたが、おもしろく一気に読みました。印象に残ったのは、太一と妙の出会いのシーンでした。

マリンゴ:たたずまいが素敵な作品でした。人から人へ、命が伝わっていくこと、遠い昔の誰かがいて、今の私がいるのだということ――そんなメッセージを受け止めました。ただ、これだけ丁寧な文章なのに、一部駆け足になっているところがあって、そこをもっと読みたいと思いました。例えばp189ですが、“同い年のいとこに去年負けたから、今年は勝ちたいとあせっていた”とさらりと説明していますが、もっとその部分を読みたかったです。ついでに言うと、結局リレーのシーンで、いとこに勝ったのかどうかわからず、そもそもいとこがまったく出てこない、というあたりはとても気になってしまいました。

ペレソッソ:冒頭を読んで、「好き!」と思ったのですが、読み進めると人物関係がこみいっていて、わかりにくかったです。一つの物語として、何がしたかったのかはっきりとした像を結ばないという印象です。それから、たとえばp203に出てくる「やばくね?」といった言葉は、全体の言葉の雰囲気を乱している気がします。

カピバラ:日本の古い村の風景、山、川、木などを見たときに、その風景を見ながら生きてきた人々の思いを感じるということがありますよね。特に古い家屋敷のなかに自分の身を置いたときに、そこに代々暮らしてきた人の息遣いを感じることがあると思います。私も子どもの頃父の故郷にあった古くからの家に泊まったり、蔵のなかを見たり、そばの川で遊んだりしたときにそんなことを感じたのを思い出しました。そういった、一つの場所に代々息づいて、今につながっている人々の思い、というものが描けていると思います。解人という現代の少年が主人公で、おばあちゃんが口にする「しゅるしゅるぱん」という言葉に読者もすぐにひきつけられる導入はうまいですね。聞いたことのない言葉なので、タイトルから「何だろう?」と興味をもたせます。この言葉の響きには不思議さもあるけれど、ちょっとユーモラスな感じもあって、悪いものではない、という印象があるのが良かったです。表紙のデザインもそういう感じを出していて好感をもちました。2章目で急に道子という読者には全然誰かもわからない少女の話に代わるのがちょっと唐突ですが、すべてはしゅるしゅるぱんという存在の謎ときにつながっていくことがわかり、だんだんおもしろくなってきます。この正体は、座敷童とか、風の又三郎的なものかなと予想しながら読むのですが、だんだんにそうではなく、予想以上に複雑な事情がからんでくるわけですね。これは小学校5、6年生から読んでほしい物語だと思いますが、子どもにとって両親、祖父母までの流れはわかるけど、さらに上の人の子ども時代の話までさかのぼるのはちょっと複雑すぎるのではないかと思いました。おばあちゃんが家系図を書いて説明してくれるのはとても良い工夫ですが、もう少し早めに説明してくれたら良かったのに。謎ときにつられておもしろく読めたのですが、最後に振り返ってみて何か釈然としないことが二つ。まず、結局しゅるしゅるぱんは、三枝面妖と妙の思いの強さから生まれた存在なのですが、この二人のことが、ほかのどの人たちよりもうまく書けていないのです。

ハリネズミ:祖先の因縁だけではなくて、群青池に身を投げたあやめという娘がたたるという伝説まで出てくるので、よけい複雑になっていますね。

カピバラ:お父さんであるアキラや、おばあちゃんである道子の子どものころの情景はよく書けているのに、現代まで死んでも死にきれない存在を生み出してしまうほどのことか、という点が伝わってこないんですよ。桜の木の使い方もいまいち。もう一つは、やはり読者にとって主人公は解人なので、解人の気持ちになって読むと思うのですが、結局解人にとってしゅるしゅるぱんは何だったのか。最後は競技会のリレーで友だちとの友情を確かめ合うわけですが、結局何がどうなったのかな…という疑問は残りました。細部をうまく書ける作家で、例えば道子のかすれたような低い声がしゅるしゅるぱんと似ているとか、そういうところはおもしろいと思いましたが、ゆるぎないストーリー性という点ではまだ弱いのかな。

レジーナ:妖怪が人の情念から生まれるものだとしても、面妖と妙が、それだけ強く想い合っているようには感じられなかったので、しゅるしゅるぱんの正体がわかった場面では拍子抜けしてしまい、違和感が残りました。桜の木としゅるしゅるぱんのつながりも弱いような……。

アカザ:私も、しゅるしゅるぱんの正体は、いったい何なのだろうと思いつつ最後まで読みましたが、肩すかしを食わされたような……。太一と妙の出会いと別れも、よくあるようなもので、座敷童が生まれるほどの執着というか、激情というか、念のようなものを感じなかったので、違和感がありました。そんなことで座敷童が生まれるんだったら、日本全国そこらじゅう座敷童だらけになってしまうのでは? 母を慕う子どもと、その子の気持ちに気づかない母の話というのは涙をそそるし、それに桜の木がからんでくると、なんとなく美しい場面になって、「ああ、いい話を読んだなあ」って感じるのかもしれないけれど。p175からの面妖の独白も、自己陶酔しているようで、あまりいい感じはしなかった。今の妻の正体が今でもわからないが、それでも彼女のおかげで小説が書けるようになった……なんて! 東京から連れて帰った、芸者さんをしていた妻の描き方に作者の愛情が感じられなくて、かわいそう。

カピバラ:伏線もないしね。

アカザ:解人にとってなにより大事なリレーと、しゅるしゅるぱんが結びついていないのよね。

カピバラ:解人中心に描かれているけど、現在父親との関係が悪いわけではなく、父親の子どものころを知ったことで何か関係が変わるわけではないし……。

シャーロット:挿絵に登場人物が描かれていないことで、想像がふくらみます。友だちの父と自分の母が恋人同士だったことがあり、しかも母は捨てられたのだということがわかってしまう場面では、児童文学でこの設定はいかがなものかと思いました。小学校高学年を読者対象としているようですが、系図や時間軸など小学生には理解しづらいところがあると思います。母親に気付いてほしくてイタズラをしていたしゅるしゅるぱんの心情を思うと、切なかったです。

アンヌ:この物語は、現実生活の場面、例えば、都会からの転校生である主人公が田んぼの泥に足を取られたり道に迷ったりするところとか、リレーのエピソード等は、とてもうまく書けています。川の場面等の情景描写も美しい。でも、肝心のファンタジーの謎がうまく描けていない気がします。しゅるしゅるぱんの存在の謎がうまく解けていかない。大人向けの怪奇ものなら、死んだ赤子の霊に桜の木の霊が混じり合うなんて感じですが、ここでは、妙と面妖の思いをもとに桜の木の霊が生み出したもののようです。でも、その割には二人をはっきり父母としている。どこでどう育ったのかもはっきりしないし、しゅるしゅるぱんが消えても桜の木が倒れたり枯れたりしないのも、なんだかすっきりしません。そのほか、面妖の妻の謎も解けないままです。「おひこさん」は、ひいおばあさんとか妙おばあさんで通していれば、家系図も必要なかった気がします。

ハリネズミ:私は、この作者はあえて最初は家系を説明してないんだと思います。バラバラに存在しているように見えた人物たちが実はつながっていたということが読んでいくうちにわかってくる。そこを狙っているんだと思うけど。

アンヌ:名前の謎は、キラ=彬だけでじゅうぶんだった気がします。作者は、面妖という作家を描きたかったのかもしれないけれど、その正体も謎のままなので、私は勝手に、今市子作の『百鬼夜行抄』(朝日コミック文庫)という漫画に出てくる蝸牛という作家と水木しげるさんを合わせたような人だと思って読んでいました。妖怪を見たり接触できて、描くこともできる人。でも、ここでは、その能力で何かしたとは書いていない。面妖や妙おばあさんの若い頃のこの土地はものすごく危険で、霊や妖怪がうごめく場所として描かれているのに、その後どうなったのかはわかりません。面妖が小説を書いたせいで変わったのかもしれませんが、蔵のなかの本もなくなってしまうので、何もわからないまま終わってしまうのが残念でした。

(「子どもの本で言いたい放題」2016年3月の記録)


戦火の三匹〜ロンドン大脱出

『戦火の三匹〜ロンドン大脱出』
ミーガン・リクス/著 尾高薫/訳
徳間書店
2015

マリンゴ:最初はなぜか読みづらかったのですが、終わってみれば登場人物がとても多いわりによく整理されていて、読みごたえがありました。空襲を受けていない時点のイギリスで、こんなに大量のペットの安楽死があったという事実を、初めて知りました。ただ、動物の心理を描く部分が、微妙に書体と字の大きさが違って、そこが読みづらいと感じました。出てくる回数が少ないので、いっそ違いをなくしちゃえばいいのに、と思って。翻訳ではなく原文に対しての意見なのですが……。あと余談ですが、読む前は表紙の印象から、3匹が人間を時に批判しながら、ぺちゃぺちゃしゃべりつつ旅する話だと思っていたので、若干「思っていたのとは違う」感がありました。

パピルス:私もペットの安楽死については知りませんでした。登場人物が多く、気を抜いて読んでいるといつの間にか知らない名前が入っているので、何度かページを戻って読み直しました。ロバートと妹のルーシーが疎開して、3匹がそこに向かうのが意外でした。

ハリネズミ:戦争が動物に与える影響が、うまく描かれています。動物の周囲にいる人間の様々な心情も描かれているしね。ただ、登場するキャラクターが多くて、視点がどんどん変わっていきます。これが映画だったらいいけど、文章だけだと読者の子どもたちがうまくついていけるかどうか、ちょっと心配になりました。動物だって犬、猫、馬のほかに伝書鳩まで出てきますからね。犬2匹と猫1匹の脱走ドラマと、捨てられたペットの保護活動だけでも物語は成立したように思います。それ以外にも、疎開先でのいじめだの、認知症の問題、脱走兵の問題など、テーマが盛りだくさんで、ちょっと間をおいて続きを読もうとしたら、メインの流れにうまく乗れない感じがありました。

ルパン:まだ最後まで読み終わっていないのですが、今のところ一気に読んでいるので、登場人物の多さはそこまで気になっていません。ローズは祖母の家の近くで生まれた、とあるので、帰巣本能(?)で、これからそこを目指していくのだろうと察しはつきます。動物が主人公のようですが、しゃべらないんですね。それから、今日話し合う3冊のタイトルを見たときは、これが一番ひきつけられました。

アカザ:でも、3匹は戦火をあびてないわけだから、変なタイトルですよね?

アンヌ:なんだか、散漫で、予測がつくエピソードだらけという気がしました。戦争を動物で描きたかったというのはわかりますが、これだけのストーリーのなかに、ナルパックや戦場の動物の話など盛り込みすぎな気がします。例えば戦場での伝書鳩の話は、途中まではリアルなのですが、そこでお父さんが無事に戻るところまでくると、おとぎ話風になってしまう。3匹の動物の大冒険だけでもおもしろいのに、戦争中の動物の話や、学童疎開や戦争のせいで認知症になったおばあさんの話とか、チャーチルの飼い猫とか山盛りすぎて。これは、もっと短い話の短編集にして、一つ一つのエピソードを混じり合わせず、積み重ねていったほうがおもしろかったかもしれません。

シャーロット:動物を主人公にした戦争の物語は、子どもが受け入れやすいと思いました。作者は動物たちに弱音を吐かせていないので、読者は辛い気持ちに押しつぶされず客観的に状況を捉えることができます。「戦争で傷つくのは兵士だけではない、愛する者を失う悲しみは人を変えてしまう」ということが、おばあさんの言動から伝わりました。動物たちの理不尽な死に対しては、登場人物が「動物たちが死ななければならない理由なんてどこにもない」というセリフを繰り返しています。この動物という言葉が、人に置き換えても読めました。戦争という過酷な状況のなかにたくましさや優しさが描かれていて、子どもたちに読んでほしいと思う作品です。

アカザ:最初は登場人物が多いし、それにつれて視点が移り変わっていくので読みにくいと思いましたが、3匹を擬人化せずに書くには、こうするよりほかなかったのでしょうね。エピソードも盛りだくさんで、ちょっともったいない気がしました。もっとも、他国の戦時下の様子がわかって、おもしろかったけれど。チャーチルのエピソードは、私もちょっと余計だなと思いましたが、英国の子どもたちにとっては身近な歴史的人物なのでしょうから、おもしろいと思うのでしょうね。安楽死させられた無名の犬や猫のほかは、登場人物(動物)の誰も死ななかったところに、良くも悪くも子どもの本の書き方を作者はよく心得ていると思いました。もうすぐ空襲が始まるロンドンに、母親に連れられて帰るチャーリーの話など、大人が読むと母子とも死んでしまうのでは……と思うのですが、そこまでは書いていない。特にこの作品についてということではないのですが、被害者にも加害者にもなる戦争を、被害者にしかなりえない子どもの目でどう描いていくかというのは、いつの時代も児童書の作家が抱える大きな課題だと、あらためて思いました。
 それからp89とp100にある「ご馳走にむしゃぶりつく」という表現は、明らかに誤用ですので、増刷のときに訂正されたほうがいいと思います。

レジーナ:一気に読んだので、話がわからなくなることはなく、盛りこみすぎだと感じることもありませんでした。動物を擬人化せず、3匹の行動から、それぞれの性格や特徴がちゃんと伝わってくるのがおもしろいですね。犬が木に登る場面は驚きました。

カピバラ:子どもの頃に『三びき荒野を行く』(シーラ・バーンフォード著 山本まつよ訳 あかね書房)という本があり、ディズニー映画にもなったんですが、やっぱり犬が2匹と猫が1匹で飼い主のもとへ苦難の旅をするというおもしろい話だったんですね。なので、タイトルからそういう話だと思って読みました。人間社会のなかにいる動物たちが、動物だけにしかわからない言葉で会話する物語って好きなんです。みなさんがおっしゃるようにエピソードが盛りだくさんではあるけれど、とにかく飼い主のもとに帰るという大きな目標に向かってただひたすら進んでいくという、1本大きな筋があるので、読みやすいと思いました。3匹が出会う人間には、動物が好きな人もいれば、そうでない人もいて、いろんな関わり方があるところがおもしろかったです。戦争が、いかに普通の人や動物の運命を変えたかがよく伝わってきました。チャーチルや伝書バトは、そんなことがあったのかと、私はそれなりにおもしろく読みましたけど。

ペレソッソ:動物の動き、個性、猫らしさはおもしろく読みました。立ち止まって戦争児童文学として考えてみると、「うん?」という感じです。第六章で、飼い主たちがあれこれ言い訳を並べながら、ペットを安楽死させるために列に並んでいる、あの部分が一番重く問題提起させられた部分でした。戦争と人間を描きたいなら、ここをもっと描くべき。本当は、あの人たちが抱え込んだものとか、どろどろしたことはたくさんあるはずだけれど、全体のトーンとしてはシビアな方向には行きませんよね。読みやすさ、軽さで読ませています。エンタメとして読めばいいんだと思いました。つい先日『かわいそうなぞう』(土家由岐雄著 金の星社)を読み直す研究会をやって、そこでも話になっていたのですが、動物だと、辛くならずにかわいそうがっていられるという面は確かにありますね。エンタメとしては、たくましく生きのびる3匹の様子がおもしろい。どんどん狩りがうまくなっていくところなど。あと、おばあちゃんの穴掘りの背景って書いてありましたっけ。よくわからなかったのですが。

ハリネズミ:さっきシャーロットさんがおっしゃっていたように、戦争の悲惨さや残酷さだけを描くと、子どもは恐怖感が先に立ってなかなか物語に入り込めなかったり、先を読むのが嫌になったりします。身勝手なおとなの有り様をもっと追求するべきという意見もわかりますが、これくらいでも子どもは十分感じとれると思います。『かわいそうなぞう』は、かわいそうを売り物にしているし、史実とも全く違うので論外ですが、今の子どもたちに戦争を伝えるのに、動物を持ってくるのは、私は「あり」だと思います。

ペレソッソ:兵役につきたくなくて自殺を選びそうになる青年がちょろっとでてきたり、戦争の側面があれこれ入れ込まれてはいますよね。

ハリネズミ:やっぱり盛り込みすぎなんじゃないでしょうか。

(「子どもの本で言いたい放題」2016年3月の記録)


スモーキー山脈からの手紙

『スモーキー山脈からの手紙』
バーバラ・オコーナー/著 こだまともこ/訳
評論社
2015.07

シャーロット:自分が選んでいない道を進まざるをえない寂しさや戸惑い、不安、怒りが細やかに描かれていて、それらの心情が痛いほど伝わってきました。これからの人生に心配事を抱えている3人のなかで、ロレッタの存在は異質です。この少女にはあまり魅力を感じませんでした。前半の登場人物の心理描写にはひき込まれましたが、その後の展開では心がほぐれていくエピソードが少し弱いと思いました。アギーと暮らしても良いという父親のセリフや、それをアギーに伝えたときの返事があっさりしすぎていると感じ、物足りなかったです。

アンヌ:今回は、各章ごとに違う登場人物の視点で書かれている作品ばかりでしたが、これは、うまくその方法がはまっていて、バラバラに示された問題が最後にすとんと落ち着く読後感が良く、何度も読み返したくなる本でした。最初、亡くなった実の母親の形見の腕輪のチャームを探す旅に出たロレッタについて、作者が「ピースがはまる」と書き、アギーさんに「ピースを探しに来た」と言わせているのがぴんと来ませんでした。でも、読み返しているうちに、ロレッタは、実の親を亡くしたということだけではなくて、自分のルーツについても知ることができなくなっていることに気づきました。だから、実の母親の腕輪のチャームを見つけられたこの場所が、ロレッタの故郷になったのだとわかりました。一見ふわふわして幸せそうに描かれたロレッタの心許なさが、伝わった気がします。どんどんワルになっていくという、悪循環にはまっていたカービーが、ここでは信じてもらえることによって変わっていく。そのことを、ブローチを「拾って、盗んだ」から「拾って、見つけてあげた」に転換して読者にくっきりと見せる場面には、感動しました。「ノサ言葉」とか、知らない人を排除して意地悪することもできるけれど、仲間内で使うと楽しくなる暗号風の言葉遊びも、うまく使われていました。

ルパン:私は、このなかで一番かわいそうなのはロレッタだと思いました。ほかの3人の悲しみはとてもわかりやすいのですが、ロレッタだけは満たされない思いを口に出すことができないからです。ロレッタの養母はことあるごとに「わたしたち、幸せね」と繰り返します。そのなかでロレッタは、産みの親に育ててもらえなかったから寂しい、とは言えません。実の母親が訪ねたであろう場所をすべてまわっても、この子は産み捨てられたという根本的な悲しみから抜け出せないのではないかと思うと、心配でたまりませんでした。でも、初めて訪れた場所がここで、そして、「母が来た場所だから」ではなく、「みんなに会えた場所だから」もうここにしか来ない、そして何度でも戻ってくる、と決めたロレッタに、心から「良かったね」と言いたい気持ちになりました。
 それから、冒頭のアギーの章では本当に泣けました。ハロルドが二度と帰ってこないことを1日に何度も思い出さなければならないアギーに、胸がしめつけられるようでした。

ハリネズミ:私はロレッタが一番かわいそうとは思いませんでした。日本の人は血のつながりを大事だと思っているから、養子のロレッタがかわいそうに見えるのかもしれないけれど、この子は、ママというのはずっと育ての母のことだと思ってきたわけですよね。そこに疑問を持って生きてはいない。自分を憐れんでもいない。今、英米の児童文学では家族は血のつながりより一緒に生きた時間だっていうのが前面に出ているから、著者もかわいそうな子として書いているわけじゃないと思います。でも、産みの母親が亡くなったという知らせを聞いて、自分のルーツを確認したいと思うのは当然のこと。ここは、バーリー・ドハティの『アンモナイトの谷』(『蛇の石 秘密の谷』中川ちひろ訳 新潮社)なんかと同ですよね。養父母が時としてやりすぎになるところも似ていますね。父親に不満で母親の愛情を確認できないウィロウや、家族から見放されているように思えるカービーは、どちらも血のつながりのある家族ですが、どの子が一番子どもとして守られているかを考えると、それはやっぱりロレッタだと思います。だからロレッタが一番幼いし、子どもらしい。ただしロレッタも、自分のルーツが確認できないという意味では、パズルのピースがきちんとはまらないような気持ちを抱えている。そこへ長い人生を生きてきたけど今は元気をなくしているアギーが加わって、孤立していた生身の人間同士がつながっていく。
 オビには「奇跡みたいな物語」とありますが、さまざまに満たされない思いを抱いている登場人物たちが最後にはお互いに補い合って、次の段階へと踏み出せるようになるというのは、それだけで今は奇跡のようなものかもしれません。でも、それぞれの人物の特徴が浮かびあがるように翻訳されているので、リアルに感じられるし、物語がすっと心に入ってきます。読むと温かい気持ちになるし、人間を信じられるようになるという意味では、クラシックな児童文学と言えるかもしれません。一つ疑問だったのは邦題の「手紙」で、この人たちはみんなが手紙を書いているわけではないから、どうして?と思いました。

パピルス:冒頭部分のアギーの描写にひき込まれ、アギーのことを親身に思いながら読み進めました。いろんな背景を持つ人がモーテルに集まり、それぞれの心情の変化が丁寧に描かれています。読後感も良かったです。モーテルというのは、ボロ宿、安宿のイメージですが、表紙画にはおしゃれな感じのモーテルが描かれていて、中学校時代にこういった感じの世界観が好きだったのを思いだしました。

マリンゴ: 今日話し合う3冊のなかで、一番好きでした。モーテルの情景、映像では見てみたいけれど、自分で泊まったらカビやサビが気になる古びた建物……そういうリアリティがあって良かったです。もっとも、視点が章ごとに次々変わっていくので、最初は何人出てくるのか、覚えきれるのかと戦々恐々でした。4人で良かった(笑)。人との出会いをポジティブに描いているところも、とてもいいと思いました。子どものなかには、新しい出会いを怖がる子もいると思うので。出会いは面倒なものや怖いものではない、むしろ素敵なものなのだ、というのが伝わるかと思います。ラスト、アギーが一人悲しみを引き受けるのかと思いきや、彼女にも救いがあってホッとしました。

ペレソッソ:最初にタイトルだけ聞いたとき、フィリピンのスモーキーマウンテンの話かと思いました。表紙を見たらそうじゃないことはすぐわかりましたけど。映画で観たいと思いました。景色や登場人物を映像として浮かべながら読めたからだと思います。ウィロウのお父さんが一番わからなかったんですが、全体として登場人物それぞれの過去を説明的に描いていないですよね。背景を描きすぎない。現在の様子を描くだけ。あと、目の端に子どもの存在が映るだけで、その場の景色が明るくなる。ふさぎ込んでいたアギーさんが、子どもが庭で駆けている姿を目にするだけで、ぱぁっと明るい気分に変わりますよね。なんだか、児童文学の初心に帰ったような気がしました。

カピバラ:4人それぞれの視点で描かれ、章ごとに別の人になる形なので、一人あたりの分量は4分の一になりますね。だから一人ずつの背景はじゅうぶん書かれているわけではないんだけれど、それはあまり気になりません。なぜなら、今その人、その子が何をどう見ているか、ということが読者に伝わってくるからだと思います。小さなことでも、各人のものの見方がわかり、ああこういう子いるな、と思わせる、上手な書き方だと思いました。アギーの家ではオレンジ色のカーペットにアギーの普段歩く道がついているところなんて、生活感があって、アギーの暮らしぶりが目に浮かびます。翻訳で、アギーの章では「アギー」なのに、子どもたちの章では「アギーさん」と訳されています。原文ではすべて「アギー」ですが、日本人の感覚に配慮した細やかな翻訳だと感心しました。

レジーナ:複数の視点から語られる物語というのは、少し物足りなく感じることがあります。でも、この本は、登場人物のせりふや行動から、それぞれの人生が透けてみえて、ひなびたモーテルの様子もリアルで、とても心に残りました。去年読んでから時間が経っていますが、みなさんのお話を伺っていたら一気に思い出しました。いろんな背景を抱えた人がホテルに集まり、それをきっかけに人生が動きはじめる話は、映画でよく見かけますね。児童文学ではめずらしいのでは。温くて、読後感のいい本なので、勤め先の学校のブックトークで紹介しています。

(「子どもの本で言いたい放題」2016年3月の記録)


リフカの旅

『リフカの旅』
カレン・ヘス/著 伊藤比呂美+西 更/訳
理論社
2015.02

ペレソッソ:アメリカへの憧れがさんざん書かれた果てに、入国審査で髪の毛が無いことで足止めを食うとか、「ロシアの百姓」への恨みに反して、目の前の少年を世話してしまうとか、いろんなものが相対化されていくのがおもしろかったです。「百姓」呼ばわりには、違和感を持ちつつでしたが・・・。でも、そうやって、目の前の隣人に憎悪や差別をすり込むのが国のやり方だったわけですね。

紙魚:同じ時に読んだ『マザーランドの月』(サリー・ガードナー 三辺律子訳 小学館)が散漫な点のような物語だとすれば、これは一直線の物語。主人公の視点が一貫していて、とても読みやすかったです。過酷な場面が続くので、主人公に寄り添って読んでいくのはつらいものの、ところどころで、つぎの一歩を進める力を感じることができたのもよかったです。p62の「手が、リュックの中の、プーシキン詩集にふれた。取り出して、考えてることを書きとめたくなった。トヴァ、この本のページはどんどん埋まっていくよ。こんなに小さい文字で細かく書いてるのに。」で、読むことと書くことが同時にあるのを感じ、胸にせまりました。人がたいへんな思いをしているときに、読むことと、書くことの両方が力になるのを感じました。p85で、シスター・カトリナがリフカに触れるシーンでは、ああ、この一瞬があってよかったと感じました。

アカシア:確かに主人公に寄り添って一直線に読んでいける作品ですね。辛いことはたくさんありますが、ベルギーでの人々との出会いとか、イリヤを助けるところとか、あたたかい部分も出てくるので、心に届きます。今問題になっている難民がテーマなので、そんなことも考えながら読みました。ユダヤ系の作家って、どこかで必ずホロコーストの物語を書きますよね。そのうえこの作者は多文化を体験しているから読ませる作品になる。日本でもホロコーストものはたくさん翻訳されています。でも、それが、今イスラエルがしていることから目をそらさせることにもなっている気がして、私は手放しでいいとは思っていません。でも、この作品はよかった。この本を読んで、今問題になっているシリアなど中東の難民の人たちにも思いを馳せられるようになるといいですね。ユダヤ系の人たちは行った先々で作家になっていたりして声が届きますが、今渦中にあるアラブ系の人たちの声はまだまだ届いてきません。書けるような状態にないので当然のことですけど。

ルパン:私がこの作品のなかで一番好きな場面は、p97〜99、リフカが道に迷って牛乳屋のおじさんに送ってもらうところです。リフカは外国語を覚えるのが得意なのですが、ここでは言葉が通じないまま心が通い合っています。とても心に残るシーンでした。悲しかったのは、髪がないリフカのことを好きだと言ってくれた船員の少年が亡くなってしまうところです。ずっといじわるだったお兄さんがラストで迎えに来るところもよかったです。ただ、物語中ずっとくりかえされているキーワード「シャローム」の意味が、さいごの註にしか出てこないのは残念でした。物語のはじめに意味がわかっていたらもっとよかったののに。私はもちろん知っていましたが、これを読む子どもたちはさいごまでわからないわけですから。

アカシア:註はわざと最後においているんじゃないかな。物語そのものをまず味わってほしいと考えると、途中で注が出てくるのは邪魔になりますからね。その場その場でわからなくて疑問を抱いたまま読んでいっても、ストーリーそのものが強ければ、大丈夫です。最後までいって、ああそういうことか、とわかってもいいと思うんです。物語は勉強ではないので。

カピバラ:作者の前書きに主人公のモデルであるルーシーおばさんが元気に電話に出てくる様子が書かれているので、どんなに過酷な状況にあっても、この子は今でも生きているのだ、死なないんだ、と安心できてよかったです。リフカのその時どきの気持ちがとてもリアルに綴られているので、最初からリフカにぴったり寄り添って読めました。とくにうまいな、と思ったのは、リフカが目で見たことだけでなく、耳から聞こえたこと、鼻でかいだ匂い、体で触れたこと……五感で感じたことを、子どもらしい表現で書いているところです。例えば55ページで、モツィフの人が「ワルシャワ」を「ヴァルシャーヴァー(はー)!」っていうふうに言うから、ワルシャワってきっとすばらしいところなんだと思う、という描写。大人は聞き逃すようなことですが、子どもの感性にはそういうところがひっかかる。そこをうまくとらえていて、リアリティがあると思いました。

シア:こういう本を求めていました! これは、第27回読書感想画中央コンクール中高生の部の指定図書なので、だいぶ前に読みました。今回一番安心して読める1冊でした。優しい表情で手に取りやすい表紙ですね。やはり生徒たちには一番人気がある指定図書でした。用語解説などもついていてわかりやすく、内容も重すぎません。『マザーランドの月』を読んで思いましたが、時代背景がわからないとやはり子どもたちには難しいように感じます。手紙形式なので、生徒たちには『アンネの日記』のハッピーエンド版だと紹介しています。時代のせいもありますが、「ハゲは結婚できない」というくだりが何度もしつこく、ジェンダー論まっしぐらなところは気になりました。生徒たちもその部分を気にしてそれを題材に絵にしている子もいました。しかし、このような歴史があるということもわかりやすいし、主人公もいい子で、イベントの起伏も少女漫画的な盛り上がりでおもしろく、かっちりとまとまった円熟した作品です。つらいシーンは、この本ぐらいのショッキングさが子どもには良いです。頑張るとか、希望を捨てないという意味を良く描けていると思います。ユダヤ人は元々とても勉強する民族ですが、リフカはさらに前向きさと迫力を持って勉強しています。こういうお手本になりそうな子が主人公の本が良いと思う私は、嫌な大人でしょうか? リフカとイリヤのやりとりの場面では、たとえ国同士が争っていても、個人間での敵対の無意味さも表していました。リフカは信じられないほどいい子です。隙があって苦労するけれど、親切で、知的好奇心のある少女は大好きです。YAのラストはハッピーエンドでお願いします!

マリンゴ:非常にまっすぐでひたむきな、冒険小説であり成長小説であると思いました。満足度はとても高かったです。ただ、作者がとても優しい性格の方なのか、冒頭でネタバレしすぎてくれているような気がしました。ルーシーおばさんが生きている、のみならず作者が直接会って、髪の毛を「おだんご」にしているのを見るシーンまであるので、終盤の、髪にまつわるハラハラする場面のときにも、「でもこの後を知っているからな〜」とつい思ってしまいました。

さらら:「この物語が生まれるまで」がとても親切だけど、いっぽうで主人公が生き延びることが最初にわかってしまいますよね。原書でも前書きとして、加えてあるんでしょうか?
ペレソッソ:カットが親切とも思いました。解説的なタイミングで。

レジーナ:紙さえ十分にない逃避行の間、たった1冊持っていたプーシキンの本の余白に、手紙や詩を書く場面には、胸がいっぱいになりました。トヴァへの手紙なのに、p91で、「トヴァの背中が曲がっているから結婚できない」と書いているのが、少し不思議でした。表紙の色合いや題字は、ちょっと古めかしい印象です。とても素敵な作品なので、もう少し、子どもが手に取りやすいデザインの方がいいのでは……。

アカシア:余白に書いていても、実際には手紙として出せないから独白みたいなもんなんじゃないかな。

レン:昨年の秋ごろに読んで、今回また読みましたが、好きな本でした。ところどころに、いいなあと思うすてきな表現があります。ユダヤ人なのにカトリックのお祈りを教えられるところが示唆的でした。自由な国アメリカなのに、髪の毛がないと結婚できないから入国が許されないというのは初めて知って、へえーと思いました。まるで最初から日本語で書かれたお話を読んでいるみたいで、訳文はみごとでした。伊藤さんはどんなふうにお嬢さんと共訳したのかなと思いました。

さらら:アントワープの牛乳屋のおじさんに親切にされたリフカは、そのおじさんと別れるとき、お別れのいえなかったゼブおじさんにお別れをいえた気がする。さりげない一文なんだけど、誰かと、別の誰かがどこかでつながっているように感じられる人生の瞬間を、見事にとらえています。最後のアメリカへの入国審査の場面で、それまでリフカが守っていたロシア人の子どもが、「リフカには詩が書けるんだ!」と言ってくれる。立場が逆転して、その子がリフカを守ってくれたところも嬉しかった。残念だったのは、例えばp99に出てくるアントワープの「キングストリート」という表現。名前のせいで、英語圏にある通りのように感じられます。翻訳の際に、「コーニング通り」(オランダ語でコーニング=キング)とか「王様通り」等に変更する配慮が必要だったかもしれません。また、あとがきに「フラマン語はオランダ語に近い」と出ていますが、フラマン(フレミッシュ、フランドル語とも呼ばれる)はオランダ語と言語的には同じです。関西弁と関東弁程度の違いしかないんです。ともあれリフカの目を通して、19世紀初頭の、人の行き来の要所となった、経済的にも豊かなアントワープを実感することができたのは、予想外の収穫でした。

ペレソッソ:今のお話を聞いて、インド映画『きっとうまくいく』(ラージクマール・ヒラニ監督)を思い出しました。これ、主人公たちがそれぞれに安定した生活を送っている現在から回想で過去のことが描かれるので、何があっても「きっとうまくいく」と安心して見ていられるんです。最初にハッピーエンドになると示しておくことで安心させる、エンタメのひとつのハードルの下げ方かもしれません。

シア:子どもは、本を読む前に最後を知りたがります。だから私は、ハッピーエンドだよ、くらいは教えてあげます。

(「子どもの本で言いたい放題」2016年2月の記録)


マザーランドの月

『マザーランドの月』
サリー・ガードナー/著 三辺律子/訳
小学館
2015.05

ペレソッソ:気になっていた本なので読めてよかったです。勤め先の司書さんから薦められていたんです。読みはじめるとやめられない。読んだことのないタイプで、どう読んだらいいのか、戸惑っているままです。何が子どもに、核となって残るか・・・・・・。勤め先の学校では、司書さんのおすすめで中学一年生が何人も読んでいて、最後に泣いたと言っていた子もいるそうです。

さらら:造本に工夫があり、数字の位置や、ページごとにレイアウトが変わります。内容のきついところを、装丁でやわらげようとしたのでしょう。ただ、左下に頻出する、ボールを蹴る男の子のイラストは不要だと思いました。近未来というか、ありえたかもしれない別の現実を舞台にした作品は、私は大好きなんです。ディスレクシアで、学校では知的に遅れていると思われている男の子が主人公なんですが、体制が嘘だと気付き、最後には自力でそれを暴きにいく。先生が生徒に対して振るう暴力が半端でないのに、驚きました。この作品は、単に暗い味わいのエンタテイメントではないでしょうか。とはいうものの誇張された架空の世界の中に、私たちの生きる管理社会と通じるところがあり、このまま沈黙を守り体制に押しつぶされてよいのか、という問いかけも潜んでいますね。

ペレソッソ:数字が上下したり、空き方が違ったりするのに、法則性はあるのでしょうか。気になったけれど、分からなくて。

レン:今回選書係だったのですが、この本は世界的に非常に高く評価されているのに、どう読んでいいか、まったくわからなかったので、ぜひみなさんの意見を聞いてみたいと思ってとりあげました。人や社会のシステムはどこまで残酷になれるのかとか、暴力でおさえつける支配社会の恐ろしさとかを訴えているのかなとか思いましたが、読者に何が伝わるのかよくわかりませんでした。最後どうなるのか気になって読んでしまったのは、この作品の力なんでしょうけれど。読みにくかったですが、短い章だてなので、なんとか読み続けられました。それから、この物語を一人称で書かねばならなかったのはなぜかなというのも思いました。これは手記ではなく、フィクショナルな語りですよね。主人公は最後死んでしまうのだから。これって死んでしまったんですよね?

ペレソッソ:読みにくいのは、主人公が難読症という設定だからでは。

レジーナ:ガードナーの本は、『コリアンダーと妖精の国』(斎藤倫子訳 主婦の友社)も好きです。『マザーランドの月』は、数年前にコスタ賞をとったときから、気になっていました。原作は、タイトルが「Maggot Moon」で、ウジ虫が月から出ている表紙です。気づいたときには取り返しがつかないほど、権力が大きくなっていて、民衆が情報操作される世界が描かれています。現代性があり、今、出版する価値のある作品ではないでしょうか。「ナチスが第二次世界大戦で勝ったとしたら、どうなっていたか」を想像する中で生まれた作品だと、作者は語っています。月面着陸の都市伝説を取り入れているのも、おもしろいですね。主人公が死んでしまう結末を含め、読者に妥協しないので、賛否が分かれる作品かもしれません。スタンディッシュの口調は、15歳にしては大人っぽい気がします。また、ディスレクシアのスタンディッシュの語りは、ときどき一字違う言葉になっていたりします。ディスレクシアの人は、読み書きが苦手なのだと思っていましたが、言い間違いもするのでしょうか? この本は、スタンディッシュの一人称で語られるので、書き間違いというより、言い間違いをしているような印象を受けます。

マリンゴ:最初、苦手でした。どこからどこまでが現実で、どの部分が妄想なのかわからなかったからです。たとえば、へクターも想像上の友達なのかと。それで、普段はこういうことはしないのですが、今回はあとがきを先に一部読んで、妄想ではないのだということを確認してから、先を読みました。100ページ目あたりから一気に引き込まれて、ページを繰るのが早くなりました。一般的に児童書は、ラストに救いがあって読後感のいいものが多いですが、これは読後感が悪いぶん、逆に尾を引きました。数日たっても「あのシーンはああいうことかな」と考えたり。そういう意味では異色のYAだと思いました。

シア:表紙を一目見て、少年たちの冒険小説かと思いました。しかし、場面がぶつ切りで非常に読みにくく、物語の時間の流れもわかりにくいと感じました。主人公が難読症ということでこの書き方なのでしょうが、果たしてこの設定はいるのでしょうか。難読症で文字が読めないというのはわかりますが(P53「4歳児並みの〜」)、それだから想像力が発達しているというのがよくわからないし、難読症ならではの想像力の持ち主であるから、主人公が重要人物であるという動機づけがどうも納得いきません。あとがきにありましたが、作者も最初から主人公のこの設定を意識して取り入れていたわけではないようですし、都合がよすぎて、RPGのお手軽な勇者設定みたいです。それでも、途中からサスペンス要素が多くなって俄然おもしろくなりましたが、内容としてはかなり大人向きだと思いました。あまりにも残酷なシーンが多すぎますし、おじいさんとフィリップス先生のラブロマンスなどもはいらないのではないかと思いました。フィリップス先生の行動が信念に基づいていたり、先生として生徒を愛するものであったりしてほしいのに、この設定では「愛する人の孫だから可愛がる」ようにも見えてしまいます。自分が教師なせいか、教師に対する目は厳しいかもしれません。とにかく、YAなわりには内容が難しいので、子どもには不可思議な気味の悪さくらいしか通じないではないでしょうか。この手のテーマの本では、『茶色の朝』(フランク・パヴロフ 藤本一勇訳 大月書店)くらいが丁度良いのではないかと思います。この本は1956年に起きた話という設定なのですが、だいぶ昔なのでこの年に何があったのか調べました。ロシアが無人宇宙船で月の裏側に行ったようです。アポロの月着陸は1969年です。作者は1954年生まれです。『カプリコン1』(真鍋譲司 新書館)や『20世紀少年』(滝沢直樹 小学館)など、月着陸の話が出てくる話は多くあります。この時代に生きる人々には、多大な影響を与えたんだなと思います。子どもたちには時代背景についての知識がないとわかりにくいかもしれません。訴えるテーマは重いし、個人的にはおもしろい本ではありましたが、YAと言われると違うのではないかと思いますし、子どもにはおすすめ出来ない本です。エンタテイメント性は高いのでサスペンス映画になったらおもしろいのではないかと思います。

ルパン:これは仮想世界ということでいいのでしょうか? 私の読解力不足なのかもしれませんが、理解に苦しむところが多々ありました。生理的に受け付けられない場面や表現も。子どもが目をえぐられて死んだり、母親の舌が切り取られたり、救いようのないシーンばかりだし。唯一興味をひかれたのは、アポロ着陸演出説。月面着陸が虚構だったかもしれないという説があるというのは初めて知りましたし、それに着想を得たらしい設定はおもしろいと思いました。

アカシア:私はサリー・ガードナーとは相性が悪いのかもしれませんが、大きな賞をたくさん取って世界各地で翻訳されているこの作品にも、あまり感動できませんでした。一つは、月着陸などのセッティングがあまりにもちゃちだったりして、物語中のリアリティが上出来とは言えないこと。1956年という設定で、米ソの宇宙開発競走が始まるのは翌年だとしても、室内の子どもの細工みたいなセットで人体を吊して撮影しているなんて、信憑性がないでしょう? アポロ陰謀説と照らし合わせれば笑えますが、子どもはそれも知らないから笑えないですよね。56年だと宇宙競争をするくらいの国なら録画もできてもおかしくないのに、どうして実況にこだわるのか、とか。放射線が着陸の障害になるはずと言っているところはヴァン・アレン帯のことを言っているらしいけど、障害があるとしても着陸時ではないし、今は影響がほとんどないと思われているわけだから、わざわざ持ち出す意味はどこにあるのか、とか。あと、家の中は盗聴されているかもしれないので、おじいちゃんが孫を外に連れだして話をする場面がありますが、後の方では大事なことを家の中でべらべらしゃべっていたりもします。
 二つ目には、この作品にはほとんどあたたかみがないこと。ユーモアもありませんね。それも楽しめなかった理由の一つかもしれません。三つ目は、訳のおさまりが悪いところがいくつかあって、気になりました。地下室、地下室通り、トンネルなど似たような言葉が出て来るので、どれがどれだかわからなくなりました。原文どおりなのかもしれませんが、少し整理してわかりやすくしてもらえるといいな、と思いました。それから例えば32ページに「気のきいた考え」と出てきますが、しっくり来ませんでした。たぶん、現実にはどこにも一度もなかった過去の話で、私たちは過去にこういう空間・時間はなかったと知っているわけだから、どっちにしても居心地悪い気がするのかもしれません。

紙魚:今回のテーマは、「わたしの声は伝わりますか」ですが、これは、主人公の声が読者に伝わるかということに加えて、はたして作者が伝えようとしていることが読者に伝わっているかどうかということでもあると思います。そういう意味では、3冊のうち、この本だけは、伝わりにくいと感じました。数々の賞をとっているので、おそらく、「伝わった」人も確かに、しかも大勢いたのだと思いますが、どうしても私には受け取れませんでした。読書って、読み進めながら、小さな納得が積み重なっていくと、作者への信頼につながっていくと思うのですが、この本は残念ながら最後まで、作者を信頼しきることができず、物語のかたちが見えないまま終わってしまいました。

レン:これって、気持ち悪がらせようとして書いているわけじゃありませんよね。

さらら:日本の若者に比べ、欧米の若者は不満を外に発散させることが多いですね。たとえば誰かの車に火をつけるなど破壊行為、暴力行為は日常茶飯事です。ひょっとしたら海外のほうが、暴力描写に対する感じ方が、日本より鈍いのかもしれません。話は変わりますが、ロアルド・ダールは『マチルダは小さな大天才』(宮下嶺夫訳 評論社)で、鞭をもって日常的に生徒に暴力をふるう校長先生を登場させ、コミカルなストーリーの中で猛烈に批判していますよね。

アカシア:でもYAものの受賞作でここまで暴力的な表現が積み重なったものって、ほかにないんじゃないかな。

シア:残酷な描写を好きな子もいますが、この作品の知的レベルにはついていけないでしょうね。

ペレソッソ:閉塞感とグロテスクな場面ということで『進撃の巨人』(諫山創 講談社)を連想しました。映画しか観てませんけど。そういうところが今の若い人の何かにフィットするということはあるのかもしれない。あと、勤め先の司書さんは、現在のきな臭い動きに危機感を抱いていて、生徒にも全体主義的な動きに問題意識を持ってほしいという気持ちもあって、この作品を薦めたと言ってました。それに共感もしますが、どうしてこういう世界になったのか、その課程が書かれていないので、戦争や平和を考える事ができる児童文学としては挙げないかな。

アカシア:今の時代に切り込もうという意図は見えていますが、そういう意図があるイコールいい作品だ、とは言えないですよね。私は、なぜこの作品が受賞したのか、よくわかりませんでした。

(「子どもの本で言いたい放題」2016年2月の記録)


うたうとは小さないのちひろいあげ

『うたうとは小さないのちひろいあげ』
村上しい子/著
講談社
2015

ペレソッソ:しばらく前に読んだきりで再読していなくて、みごとに忘れてます。部活ものだなというのと、歌がよかったという印象だけです。

レン:読後感のよい作品でした。好きなところもたくさんありました。この年代の主人公を扱った日本の作品は大人の存在が希薄なものが多いけど、この本は自分の親は出てこないけれど先生だとか清らさんの家族とか大人の存在感があって、信頼感を感じさせてくれるのがいいなと思いました。頼りなさそうな先生だけど、いいところもある。ただ、彩はなくてはならない登場人物ですけど、どうしてそこまで綾美を気にするか納得がいかなくて、わざとらしい感じがぬぐえませんでした。古の人が読んだうたに今の私たちも何かを感じる、時代も場所も超えて言葉で伝わるものがあるというのが、いいなと思いました。

レジーナ:おもしろく読みました。「うた部」というテーマも新しいですし、登場人物にリアリティがあって、キャラクター的でなく、等身大の姿を切り取っているように感じました。短歌は、わたしの好みとは少し違いましたが、詩や短歌は、人によって好き嫌いがありますもんね。

マリンゴ:最初の50ページくらいまでは、どの子がどういうキャラクターなのか、ちょっと掴みづらかったです。でも、その先は楽しく読みました。一番大事なシーンで出てくる大事な短歌の上の句が、本のタイトルになっているのだと、気づいたときに、そのリンクのおもしろさにゾクッとしました。とても効果的だったと思います。また、最初はヘタな歌が少しずつうまくなっていくなど、短歌の内容で成長を描けているのがすごいと思いました。たとえばスポーツものの小説だったら、いろんな技術を習得していくなど、成長の過程を描きやすいのですが、歌がうまくなっていくのを描くのは非常に難しいと思うので。

シア:最初の印象は、読みにくくてつまらないというものでした。同じ会で読んだ『マザーランドの月』(サリー・ガードナー 三辺律子訳 小学館)とは違う形ながらこちらも文章がぶつ切りなのが気になってしまって。ラノベや、今は懐かしい携帯小説のような感じで苦手でした。細かいところも気になってしまいました。高校行くのに片道410円って高すぎではないでしょうか。それから名前も、「清ら」というのは名前としてどうなんだと思ってしまいました。頑張っても「きよら」じゃないのかとか。女子の名前は多く見ていますが、漢字仮名交じりはさすがに見たことがありません。業平というのも安直ではないかなとか。ブログの台詞回しが痛いなとか。内容としては、短歌を取り上げたのはとても良かったと思います。古典嫌いの子が多いので、少しでも興味を持ってもらえるきっかけになれば嬉しいし。今の高校生の目線を大事にして描いているのを感じました。つまらないことで引きこもっていたり、「犯した罪は背負わなければならない」などの中二病なくだりは苦笑してしまいました。でも、「リス顔」はあまり聞かない言葉です。いつも思うのですが、リアルさを追求して今の時代の言葉を出すと、後で読んだときに古臭さが出るのが心配です。近頃の本はすぐ絶版になって消費されていくものだから、あまり気にしないのでしょうか。本がそこまで回転しない学校図書館としては少々困ります。それに、そのリアルさは作者のフィクションなので、現実とのズレや引っ掛かりを感じるときがあります。若い作家の感覚がリアルなどと言われて受賞したりしますが、単に読んだ側が知らない世界なだけではないかと思ってしまうんです。この本にしても、歌のせいか、恋、恋、恋、と男女関係が生々しく、なんだかんだ言って、そうではない子の方が多いのにと思ってしまいました。中高生がこれを読んで、学校生活の物差しにはしてほしくないと思います。最近、この手の青春ものが多い気がします。高校生を知っている側から見ると、妙な違和感がありました。中高生なら共感するでしょ、というのに悲しいズレ。ドロドロさせて引っ張ったわりにはあっさり終わりました。歌が大変だったのか、イベントが少ない気がしました。最後に、表紙の女の子はちょっとどうにかならなかったのでしょうか。いじめの話かと思いました。

カピバラ:この時期の子どもって、大人から見ればささいなことで身動きが取れなくなってしまう。そのこわばった心が短歌で少しずつほぐれていく様子がよく描かれていたと思います。今回の選書のテーマ「わたしの声が届きますか」にぴったりな内容でした。短歌とブログという二つの表現方法を対比させるような感じで、言葉の可能性を問いかけているかのようでした。ブログが気持ち悪いという意見があったけど、わざと軽々しい口調にして痛々しさを出しているのではないかと思います。登場人物たちのかかえているものは重いけど、書きぶりにユーモアがあるので楽しく読めました。部活ものは昨今たくさん出てきていますが、いろいろなタイプの生徒たちが出てくるのはどれも似たり寄ったりで、おもしろく読んでもすぐに忘れてしまう。その中で印象に残るのは、やはり部活の内容に興味が持てるものじゃないでしょうか。うた部というマイナーな部活をとりあげて、短歌のおもしろさを書いているところがとてもよかったと思います。

ルパン:おもしろく読みました。ただ、表紙の写真がなんだかぞっとするんですけど。教室で自殺した子の亡霊なのかなあ、と思っちゃいました。あと、彩という友だちがちょっと余計な存在に感じました。やたらと解説口調で、いろいろ語るし。作者が調べたことをそのままこの子に説明させている、というのが透けて見えていて、興ざめでした。

カピバラ:そういううざい子を描いているんじゃない?
ルパン:でも、この彩っていう子にはリアリティがない気がするんです。こういう子もいるかもしれませんが、いてもうまく仲間になれないでしょう。それから、競技会の高校生のアルビノーニの歌はものすごく気障で気に入りませんでした。清らの歌のほうがずっとよかった。あと、最後に先生がうた部のみんなを送っていかなきゃならなくて、そのために好きな人にフラれてしまうのが気の毒でした。

アカシア:私はこの本が出たときに借りてすぐ読んだのですが、だいぶん忘れているので、もう一度借りようと思ったんですね。でも、私の区の図書館は全館に入っているのに、すべて貸し出し中でした。多くの人に読まれているんですね。だからもう一度読むのに苦労したんですが、いちばんすごいと思ったのは、登場人物それぞれの短歌がだんだんじょうずになっていく段階をちゃんと書いていること。その上達ぶりが読者にもうまく伝わります。最後のまとめ方もうまい。短歌甲子園というのは知らなかったので、具体的に書いてあって、それもおもしろかった。それから、この年代はいろんな形ではみ出す子がいるので、綾みたいにおせっかいでうざい子もいると私は思って、リアリティがないとは思わなかった。表紙については、この子の表情が強すぎて、中身を読むときのじゃまになるんじゃないかと心配しました。

紙魚:読み終えて、いい本だなと思いました。最近、児童書にも、ネット上の人間関係を描いたものなどがみられるようになってきましたが、こうして、人と人が面とむかってぶつかり合うのは、やっぱりいいものだと思います。ユーモアいっぱいの幼年童話を書いてきた作者が、こうした長い読み物でも、読者を懸命に笑わせてくれるし楽しませてくれる。ちょっと謎があったりもして。いわゆる純文学とエンタテイメントのいい融合というような本でした。ひとりの作家として、幼年童話ではないものを書こうとした作者の姿勢にも、胸をうたれます。それから、作中の短歌が、だんだんうまくなっていくのが上手に表現されているという話が出ましたが、さらに、ひとりひとりの登場人物らしい歌になっていることにも、驚きを覚えました。

アカシア:さっき、今風にしたいつもりで、ちょっと古い表現になってしまっているという話がありましたが、使う言葉や言い方は地域によって違いますよね。ある場所では古くても、ほかの場所では違う。

紙魚:それに、現実の高校生をトレースしたようなリアルさがあればいい本なのかというと、必ずしもそうではないと思います。たとえ、完璧なリアルがなかったとしても、作者の真摯な願いがこめられているものにこそ、私は信頼を抱きます。

シア:あとがきのところですが、「嬉しい」という書き方について、ここまで編集者の方はツッコむんですね。驚きました。

紙魚:この本、多少、読書が苦手でも、読みやすいので読みきれるんじゃないかな。だけど、読み終えた後には、かならず、その人のなかに何かが残ると思います。

シア:高校生なら、もっと受験のことも短歌に読んだりするんじゃないかと思うんですが。3年生もいたのに、全然進路の悩みとか出てこないのが不思議でした。高校生の短歌コンクールの作品集なども見るのですが、そういうのには受験の歌が入ってますし。

(「子どもの本で言いたい放題」2016年2月の記録)


ウソつきとスパイ

『ウソつきとスパイ』
レベッカ・ステッド/作 樋渡正人/訳
小峰書店
2015.05

ペレソッソ:もとの言葉を、どう翻訳したのか、数字を織り込んだ暗号のような文とか、手が込んでいるなと思いました。今回のテーマ(選書のテーマは「困難を抱えた他者に寄り添う」)との関連はどういうことなのだろう?とそれが気になりました。

レジーナ:選書係ふたりで、まず読みたい本を挙げ、それから共通のテーマを探しました。『動物のおじいさん、動物のおばあさん』では、人間が、年をとった動物の世話をし、『まほろ姫とブッキラ山の大テング』では、主人公が、孤独な天狗を助けます。また『ウソツキとスパイ』では、母親が病気で倒れたとき、主人公は、その事実を受け入れられず、母親に会いに病院に行くことができません。どの話も、人や動物を助ける場面があったり、あるいは、大切な人が困難な状況に置かれたとき、どう向き合うか、主人公が試されたりするので、「困難を抱えた他者に寄り添う」というテーマに決めました。

ペレソッソ:冒頭はおもしろいと思ったんです。味覚のこと――そんなにはっきりと分けられるものではないということが、もっと全編を通して生かされていたら良かったのに・・・・・・。

ミホーク:日本語版の装丁は素敵だと思います。最後のどんでん返しは、そうだったんだ!とは思ったけど、引っ張った割にはインパクトが弱いといわれれば、そうかなぁ……。言葉遊び、暗号の部分は、原書ではどうなっているのか、気になります。セイファーの家族がヒッピー的で魅力があると思いました。「ウソか遊びか」の境界線はすごくあいまい。ここまで引っ張って「遊びだ」っていわれても、私ならその子に対する信頼がなくなっちゃう気がします。

マリンゴ: タイトルと装丁から、大活劇、こだわりのミステリーなのかと勝手に想像しすぎちゃいました。そのせいか、中盤まで同じことの繰り返しで、冗長な気がしました。ディテールの描き方がうまいので、読み進めることは苦ではないのですが、少し長すぎてダレた気が。もう少しストーリー的に、ミスリードするとか、読者サービスがほしかったかな。登場人物のなかではセイファーが魅力的で、主人公含めみんなが少しずつ扉を開けていくのがよかったと思いました。

サンショ:私も最初のスパイのところが引っ張りすぎだと思いました。子どもはスパイが好きだと言っても、ほかにおもしろいスパイ本はいっぱいあります。テーマは「困難を抱えた〜」だけど、この本の場合、セイファーが困難を抱えた子ってこと? 私はセイファーの状態が今ひとつつかめなかったんですよね。他者と話ができるんだから引きこもりってわけでもないし、ちょっとしたわだかまりで行かないことにしていたのなら、「困難」というほどのこともないと思って。翻訳も、ニュアンスがつかみにくいところがいくつかありました。たとえばp98の「行儀の悪いやつがいるよな!」ですけど、日本だと大人に子どもがこうは言わない。P264の「ほら、きた!」、p265の「もうそっとしておいてだいじょうぶ」という看護師さんの言葉も、ちょっとニュアンス違うんじゃないかな。すすっと入ってこないので、よけい読みにくかったかもしれません。クラスで存在の薄い子たちが団結するところは、『びりっかすの神様』(岡田淳 偕成社)のほうがずっとうまく表現できてるように思いました。

アンヌ:私は楽しくて何度も繰り返して読みました。1回目は、題名に引きずられて、スパイもののような謎解きの気持ちで読んでいったのですが、謎が解けてから主人公が絶望の淵に沈んでいく感じが独特の味わいでした。ひたすら受け身でものごとを曖昧なままにしている主人公の姿勢が不思議だったけれど、実は、親の病気という恐怖から目をそらすために上っ面だけの日常生活を必死にこなそうとしていたということがわかって、せつない気持ちになりました。読み直してみると、外食場面の多さに、日常生活が壊れていることに気づいてもよかったのにと我ながら思いました。父親といじめについて本当に語り合えるのが、初めて自分の家で食事をとる場面というところとか、食卓の情景をうまく使って書いていると思いました。そして、事実を受け入れた後に、セイファーの本当の姿を知って、少し手助けできるようになる。読者もちょっと騙されるところがおもしろい本だと思えました。

レジーナ:数年前、イタリアの翻訳者の人に、PDF版をもらい、おもしろく読みました。孤独な主人公が、風変わりな少年と友だちになり、スパイごっこをする内に、友だちの嘘に気づく、という流れは『魔女ジェニファとわたし』(E. L. カニングズバーグ 松永ふみ子訳 岩波書店)を思い出させます。実際、「カニングズバーグに影響を受けた」と、著者も言っていました。母親が不在の理由を、最後に明かす手法は『めぐりめぐる月』(シャロン・クリーチ もきかずこ訳 偕成社)に似ています。『めぐりめぐる月』では、私は「だまされた」と感じてしまい、やはり児童文学は、そう感じさせてはいけないように思いましたが。母親が倒れたという事実を認められず、病気の姿を見るのがこわくて、どうしても病院に行けないという気持ちは、よく伝わってきました。「ひとつひとつの出来事は辛く、理解できなかったとしても、スーラの絵のように、離れて見ると、その意味が見えてくる」というメッセージには、好感が持てました。決して甘いだけではなく、苦かったり、渋かったり、さまざまな経験を経て、ジョージは、最後は勇気をもって、自分の問題と向き合い、人生を丸ごと味わう喜びを知っていきます。先ほど、ペレソッソさんもおっしゃっていましたが、味覚障がいとストーリーがうまく絡み合っていれば、もっとおもしろい作品になったのかもしれません。スパイごっこも、楽しい要素ではあるのですが、中学生にしては、幼すぎるような……。登場人物の言葉づかいは、ところどころ気になりました。p112に「気を悪くしないで」「相手にしない」とありますが、十代の男の子が、こういう言葉を使うでしょうか? p146の「よっぽどキャンディが好きなんだね」は、前の文章とつながっていないのでは……。

レン:私はかなり苦手でした。出だしの「まちがいだらけの人間の舌の図がある。」というところから、つまずいてしまいました。まちがいだらけの人間って、なんだろうって。だからか、あとも素直な気持ちで物語にのっていけませんでした。名前の最後にsがついていることでからかわれることも実感として伝わってきにくかったですし、母親が不在で父親だけだからといって、何もいつも外食しなくてもいいのにとか。スーラの絵のエピソードはなるほどと思いましたが。

ペレソッソ:私、父親は心の病かと思ってました。お母さんは実はもう存在しないんじゃないかと思ったり、もっとヘビーな内容を想像してました。

(「子どもの本で言いたい放題」2016年1月の記録)


動物のおじいさん、動物のおばあさん

『動物のおじいさん、動物のおばあさん』
高岡昌江/著 すがわらけいこ/絵
学研教育出版
2014.09

アンヌ:全体の構造がよくできていると思いました。履歴書があって、本文である飼育員のお話があって、それから、その動物の写真がある。まず写真を持ってくるとイメージができてしまうけれど、履歴書で最初にその動物の生きてきた軌跡が見えるのがよかったと思います。好きな食べ物や、好きなことの項目もあって、例えばカバがプールの底の落ち葉を食べるとあって、動物園のプールではカバはただ泳いでいるだけと思っていたのに意外だったり、サイは角を磨くことが好きなんだなどと分かったりして、おもしろいと思いました。一番初めのシロクマのところで、生まれたのがドイツの動物園とあって、捕まえられたのではないと知りました。今動物園の役割は、動物を保護し繁殖することにあるのだなということが、色々な動物の履歴書を読んでいくうちにわかっていきます。ただ、今日欠席のルパンさんから、サイの出産履歴のところとか、ゾウのところの後継者争いとか、本文で説明されていないことが書かれているのがわかりにくいとのご意見もありました。私は、飼育員さんの「こわい」という気持ちについての説明や、動物が死んだ後に解剖し標本にするのも仕事だという言葉に、動物園で働くことへの思いや人間以外の生き物への尊敬の念を感じることができました。動物園についていろいろ知り、動物とともに生きることについて考えられるようになる本だと思います。

サンショ:この本は、老齢の動物だけを取り上げているのがおもしろいし、しかもラクダのツガルさんが前足だけで歩いていたなどという具体的な記述もあるので興味がわきます。ちょっと気になったのはバシャンの履歴書で、何匹かの子どもについてはどうなったのか記述がなかった点です。ルパンさんが指摘した「ラニー博子との別居を開始」という部分は、別に詳しく書かなくても状況がわかるだけでいいんじゃないか、と私は思いました。おもしろい本でした。

マリンゴ: すばらしい本ですね。小説でも成立したかと思いますが、やはりノンフィクションでよかった。国内最高齢にこだわって、本が出た時点で2頭死んでしまっているというリアルさに、子どもたちは動物の「命」を実感するのではないでしょうか。大人が読むと、老いた生き物の、人間に共通するせつなさを感じますね。子どもも大人も、それぞれの年齢で楽しめるという点でも、とてもいい本です。また、「動物園の動物」であることが大前提で、動物園を全面肯定している点を、面白いと思いました。動物園に閉じ込められた動物たち、というニュアンスで、否定的に描かれることも多いので。

ミホーク:「天才!志村どうぶつ園」を本で読んでいるようで、おもしろかったです。飼育員さんが、動物がいかに自然に死ねるか、というところを追求しているのが、興味深かった。ペットじゃないので、死んだら悲しいだけじゃなくて、解剖したりデータを残したりする。飼育員と動物の絶妙な距離感。どの飼育員さんも共通して動物に畏敬の念を持っているのが印象的でした。物語より図鑑好きの子どもは楽しめそう。

ペレソッソ:今回読んだ本の中では一番おもしろかったです。介護や子育てをしている人の読書会のテキストにしたらおもしろいんじゃないかななどと思いながら読みました。例えば、檻に入ってくれないクロサイでしたっけ? それを待つエピソードなど、自分の思いどおりに行かない他者としての老人とか、子どもとかとつき合うときの忘れてはいけない基本を教えてくれている気がして。こわいというのを忘れないということが、異口同音に出てきていましたが、それも、どんなに仲良くなっても、他者は他者ということを忘れてはいけないということだと思いました。
 履歴書の部分は、おもしろく読んだのですが、もしかしたら、少し「お話」っぽくなって、愛玩っぽくなっているかもしれない。履歴書を読んで、ほほえましいと感じた感覚は、本文で受けとった、敬意を持って、他者であることを肝に銘じてつき合うべき動物というイメージとはちょっと違うベクトルかもしれない。あと、まったく余談ですが、わたしは、わりと動物園は好きな方で外国へ行くと、その国の動物園にはなるべく行ってます。もう27年も前ですが、リマの動物園では、ゾウに芸をさせてましたよ。ボリビアのラパスの市内に動物園があったときは、ライオンとか猛獣はいなくて、そのえさになるはずだったヤギしかいなかったり・・・。サバンナの動物が標高4000近いところで馴化できずに死んじゃったとか聞いてますけど、正確なところは調べてません。動物園は、その国の親子の様子を観察出来たりして、おもしろいですよね。全然関係ない話でごめんなさい。
(追記:介護や子育てをしている人、つまり大人におもしろそうということを述べましたが、例えば認知症になってしまったおじいちゃんおばあちゃんと同居して戸惑う子どもたちにとって、老人問題は他人事では無いので、子ども読者にとっても、視野を広げてくれたり気を楽にしてくれたりする本だと思います。年を取っていずれ死んでいくという生をどううけとめるかという大問題とも向き合わせてくれる本だと思います。
 あと一つ言い忘れ。「交尾」があっけらかんと連呼され、写真まで出ていたので、なんだかおもしろかったです。フィクションではここまで言うかな?とか、学校での「性教育」はどの程度受けている子がこれを読むのかなとか・・・・・)

レン:感じよく作られている本だなと思って、おもしろく読みました。どこかゆったり感じるのはなぜかなと思っていたのですが、みなさんのご意見を聞いて、飼育員さんと動物の関係が人間の親子の関係とは違って、相手に対する敬意に基づいているからかなと思いました。自分のもののように支配したり、コントロールしたりしようとしない。あくまでも他者なんですね。92ページの「ぼくは、ハナが勝手に生きていてくれるときが、一番うれしいんです。」というサイのハナさんの飼育員さんの言葉が心に残りました。

サンショ:それでも、動物園の中で暮らすのと、自然の中で野生のままでいるのは全然違いますよね。だから、そこは違うと思って読まないと間違えるかも。サイのハナさんのところでも、ケニアで捕獲されたので、動物園で生まれた2代目、3代目とは違うことがはっきり書いてあります。人間とほかの動物が違うだけじゃなくて、飼われているのと野生のとではまた大きく違うんですね。私も、今日の3冊の中ではこれがいちばんおもしろかったです。普通の動物園の本と違って、お年寄りの動物を対象にするという視点もよかった。

レジーナ:ゴリラのドンが、重い扉を軽々と開けてしまうエピソードは、動物の圧倒的な力の強さを感じさせます。けれど、どの動物も、できないことが少しずつ増えていき、死を迎えるまで、飼育員の人たちは世話をします。ラクダのツガルさんは、注目されるのが好きで、年をとり疲れやすくなっても、プロ根性でお客さんにサービスしますが、初めから人間と信頼関係を築けたのではなく、動物園に来る前は、世話をしてもらえないまま、観光牧場に放置されていたそうです。サイのハナは、野生で生きていた時に、ハンターに捕まり、体を深く傷つけられました。それぞれの動物に歴史があり、人間と動物の関係性も考えさせられます。質素で少なめの食事の方が、ハナの健康にいいと書いてありましたが、先日、新聞で、粗食の方が、サルの毛艶がよくなるという記事を読みました。

サンショ:昔は自分の家でもいろんな動物を飼っている人がいましたね。中野の駅の近くにはトラを飼ってる人がいたし。先日は、都会でカイマンという種類のワニを飼っていた人に会いました。飼うのは研究に必要なのかもしれませんが、できたら自然の中で暮らしているのがいい。そのほうが動物も美しいように思います。私はずっと動物園というものに疑問を持ってきましたが、だれもが自然の中の動物を見られるわけではないので、異種の動物の存在感を子どもが知ったり、絶滅しそうな動物の保存を図ったりするには動物園も必要かもしれないと、今は考えるようになりました。ただ、捕獲はもうしなくなっているのでしょうね。それはいいことだと思います。それと、なるべくもともとの生態系の中で生きられるように工夫されるようになったのもいいと思っています。

(「子どもの本で言いたい放題」2016年1月の記録)


まほろ姫とブッキラ山の大テング

『まほろ姫とブッキラ山の大テング』
なかがわちひろ/作
偕成社
2014.11

レジーナ:物語の中に、昔話を織り込みながら、新月という現代の要素も上手に入れていて、日本のファンタジーのおもしろさを味わえる本です。砧やたる丸など、名前もおもしろいし、登場人物が、物語の世界を、自由に生き生きと動き回っていて、小学校中学年の子どもが楽しんで読める本だと思いました。「カチカチ山の刑」なんて、いかにも、単純でそそっかしいタヌキが考えそうなことです。狛犬に乗って滝をのぼったり、天狗の鼻が天井につかえたり、わくわくする描写がいっぱいあって、柏葉幸子さんの初期のファンタジーに通じます。挿絵も、なかがわさんが書いているので、物語の雰囲気によく合っています。目次の下の挿絵、砧の影がタヌキになっているんですね! 男の子もおもしろく読めると思いますが、表紙がピンクで、タイトルにもお姫様が出てくるので、手に取りづらい男の子もいるのでは? クダギヅネの存在感があまりないのが、少し気になりました。あとがきを読むと、続刊がありそうなので、これから活躍するのかもしれませんね。

アンヌ:ファンタジーの作りがゆるい気がしました。聞いたことがあるものを使って作り上げた感があります。昔の冒険ものにあるような、月蝕にうろたえるタヌキとか、最初に見たものを親と思う動物の習性を使ったクダギツネのところとか。今日欠席のルパンさんからも、p.135の子安貝の説明が「イヤホン」だったり、p.136の遠めがねで「テレビの生中継をみる」とあったりして、時代設定のしばりがゆるいというご指摘がありました。きれいだなと思ったのは、赤い皆既月食の中で砧が踊る場面です。ここは、挿絵も魅力的でした。

サンショ:さあっとおもしろく読んだし、子どもにも楽しめると思いましたが、欲を言えばお話の中のリアリティがもう一歩考えられているとよかった。たとえば天狗の鼻は、人に教えるとどんどん急激に低くなることが絵でも表現されていますが、だったら長い修行なんてしなくてもまたちょっと知識を仕入れれば急にまた長くなるんじゃないの、なんて突っ込みを入れたくなりました。あと、どのエピソードもどこかで聞いたような気がするのは年齢対象が低いからしょうがないのかな。

マリンゴ:第1章の登場人物の紹介が見事で、あっという間に惹き込まれてしまいました。まほろと、たぬきの茶々丸、母親の砧の関係って、ちゃんと説明しようと思うと、かなりややこしくページを要する気がします。それを、会話中心に無駄なくさらりと説明しているのがすごいと思いました。テングと出会ってからも、先の読めないのびのびとしたストーリーで、最後まで楽しめました。

ミホーク:かわいらしいお話ですね。昔話だけど、会話のやりとりは現代的なスピード感を感じました。「音楽は呪文のようなもの……とてもすてきなおまじない」など、ところどころ素敵なセリフが心に響きました。

ペレソッソ:出たときに読んでるんですが、今回きちんと再読できていません。ごめんなさい。絵は好きで覚えていたんですけど、中身はすっかり忘れてた。ただ、好感はもっていたとは思います。「イヤホン」とか「テレビ中継」というのが出てくるのは、昔話風の世界にそういうのが混ざるのは嫌いではないので、たぶん反感は抱かなかったと思います。

レン:するする読みました。読みはじめるとすぐ、こういう世界がありそうに思えて、物語世界にさっと入っていけるところ、どこも子どもに伝わるように表現されているところがうまいなあと。カステラやチョコリットなどのカタカナ語は、遊び心かなと思って、私は気になりませんでした。ただ、おもしろいことはおもしろいのですが、メタフィクショナルなたくらみをぶっちぎるような意外性を私は感じられず、物足りない感もありました。これは、私が大人だからかもしれませんが。

(「子どもの本で言いたい放題」2016年1月の記録)


岬のマヨイガ

『岬のマヨイガ』
柏葉幸子/著 さいとうゆきこ/挿絵
講談社
2015.09

マリンゴ:東日本大震災を描き、その心の痛みを正面から取り上げた骨太な作品です。発売された直後から気になっていて、みなさんの意見もいろいろ聞いてみたいと思いました。見知らぬ3人が出会って、一緒に暮らし始める序盤部分はとても魅力的でした。ただ、後半に行くにつれ、ちょっと要素が多すぎないかな、と感じました。もとは連載作品だったので、読者が楽しめるよう、サービス精神を発揮されたのかな。カッパ、狛犬、地蔵さま、そして遠野にも行くし……。それでも、メッセージはとても伝わってきました。特に、人の後悔、さびしさ、やりきれない思いを、アガメと海ヘビは喰らって化け物になっていく、という部分はひびきました。

パピルス:好きな作家さんですが、自分にとって柏葉さんの文章は独特で、慣れるまでに時間がかかります。本作も冒頭から言い回しに慣れなくて何度も読み返してしまいました。慣れたらどんどん世界に入り込めて、夢中で読みました。震災を物語として伝えようとしていますが、岩手の伝承と相まって深く心に刺さりました。

ヴィルト:柏葉さんの作品では『つづきの図書館』(講談社)が大好きです。本作は地元新聞に連載された作品ということで、震災を経験した子どもたちが辛い経験を乗りこえられるよう、被災地を舞台にしたのだろうなと想像しました。個人的には震災はまだ生々しいので、津波の場面など子どもたちは辛くないのかな?と心配になりました。おばあちゃんはとてもお元気そうなので、冒頭で遠野から老人ホームへ入居することになったといういきさつに少し違和感がありました。他の参加者からのご指摘により、核となる登場人物の3人とも、被災した地元の人たちではなく、たまたまその場にいて被災民になったんだとあとから気づきました。これだと、被災地に根差した物語とはちょっと違うような……。実は、挿絵がとても残念な印象を受けました。

ルパン:おもしろく読みました。残念なのは挿絵。物語の不思議感に合っていません。挿絵がよければ、もっと独特の世界をイメージできたかもしれないと思うと気の毒です。私には、この作品は震災を正面から捉えたものとは思えません。主人公3人のうち、一人はDVから逃げた横浜の人。一人は関東から来た女の子。おばあちゃんは遠野の人。3人とも震災とは関係ない孤独な人です。震災の時に居合わせたことによって出会うので、この3人にとっては、震災はむしろ都合が良かったことになります。これは被災地の人が読んで、いい気持ちのするものではない気がします。私自身は、この作品は不思議なものが存在する世界を描いたファンタジーだと思って読みましたが、ところどころ現実に引き戻される描写もあり、盛りだくさんすぎて何を書きたいのかがぼやけてしまっているところが残念です。

アンヌ:『遠野物語』(柳田国男著 岩波文庫他)が好きなので、手元に置いて読み進めました。まず「マヨイガ」の話がおばあさんの昔話として語られます。河童や、座敷童が出てきたり、動物系の妖怪たちにおばあさんが「ふったちさん」と呼びかけたりします。これも『遠野物語』に「ふったち(経立)」は獣が年を経て異様な姿や霊力を持つ姿になったものを表すと出てきます。こんな風に、その土地にある不思議な話、怪談や伝承をもう一度語り直して伝えていくということに、物語の力を感じます。明治時代に柳田国男が危惧したように、怪談なんていうものは、時代とともに消えてしまうかもしれません。だから、作者がこのようにその土地にある怪談や伝承を、物語の中に再編することには意味があると思っています。物語の中で、もう一度言い伝えを語り、語る者の解釈を付け加える。そうやって怪談や伝承は再構築され、読者に伝わっていくと思います。前半は津波の話や避難所の話で、題名と作者名がなかったら、読み続けられなかったかもしれません。最後に、家族がいったんはバラバラになっても、ひよりとおばあちゃんが「不思議を見る力」で繋がっているから、この不思議な世界は続いていくのだろうなと思わせて終わるのが、とても嬉しく、物語を伝えることの素晴らしさを感じさせる見事な作品だと思いました。気になったのは挿絵で、河童が本文の描写と違って、とても子供っぽく描かれていることです。

アカシア:河童はいろんな絵が伝わっていますよね?

アンヌ:ここでは、いろいろな川の主のような形で河童が書かれているので違和感がありました。ただ、地図があるのは良いですね。

アカシア:遠野は私も好きな場所です。物語の舞台になっている地域は、震災や津波の被害で大勢が亡くなっています。大きなトラウマを抱えている子もいます。柏葉さんはそういう子どもたちの心の傷をどうやったら癒せるのかと考えて、恐ろしい魔物に対して子どもや河童や地蔵や動物たちが力を合わせて戦って勝利をおさめるという、この物語をつくったのだと思います。そういう意味では激しい戦いのシーンも必要だったんでしょう。読んだ子どもたちが物語の主人公に気持ちを合わせて一緒に戦い、勝って魔物を退治するという展開が必要だと思われたのではないでしょうか。震災と正面から向きあってないとさっきどなたかがおっしゃいましたが、それは時間がたたないとできないことだし、傷が深いうちはなかなかできないことだと思います。これは、柏葉さんなりの子どもへの寄り添い方で、私は大きな意味があると思いました。挿絵は、ある意味目を引きすぎて、物語に集中できなくなるようで、そこは残念。それに、被災地の子どものことを考えずに純粋に物語だけを見ると、いろんな要素が入りすぎかもしれません。だけど私は、血のつながりのない者たちが家族をつくっていくという展開も好きです。

アカザ:読んでいる時はおもしろかったし、柏葉さんでなければ書けない作品だと思いました。つぎつぎに登場してくる妖怪たちも魅力的だし、血縁のない3人が新しい家族として暮らし始めるところも良かった。でも、読み終えてから2、3日たつと、おばあちゃん+妖怪たちの連合軍に対するウミヘビが哀れに思えてきてなりませんでした。なまじアガメとウミヘビの背景が描かれているだけに、なんだか可哀そうで……。そう思うと、夜空を飛んで出撃(?)していく光景が、空爆を思わせたりして。村上春樹がパレスチナ問題について語ったときでしたか「わたしはいつも弱者や少数者の側に立ちたい」と言っていたのを思い出しました。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年12月の記録)


なりたて中学生 初級編

『なりたて中学生 初級編』
ひこ・田中/著
講談社
2015.01

マリンゴ:テンポが非常に遅い作品です。250ページの本で、中学校の入学式が100ページあったり、っていう。ストーリーに特別な構造は何もありません。でも、だからこそ、小6、中1の子たちの心境に寄り添った作品になっていると思います。わたしも、中学に入学する前に不安だった記憶があるので、こういう本があれば勇気をもらえたかな、と。ただ、さっき『ネコのミヌース』(アニー・M.G.シュミット著 徳間書店)のところで、この本を小学校中学年の子が読めるのか、という話がありましたが、こちらの『なりたて中学生』も分厚いので、小6の子ならだれでも読めるのか、ちょっと心配。本が苦手な子にこそ読んでもらいたいのですけれど。文章は、関西弁がいい味を出していると思いました。地域性があると物語がよりリアルになりますし、トボけた感じもよく出ていて楽しめました。

ペレソッソ:私は中高一貫校で教えているのですが、中1の担当者に読ませたいと思いました。制服を着ている子たちをすっかり「中学生」として見てしまって、ついこの間までランドセルを背負って、半ズボンを履いていたということを忘れがちな気がするんです。ランドセル離れできない感じとか、小学生気分をひきずっている子どもの内面を大人に伝えてくれる作品だと思います。
ただ、マリンゴさんがおっしゃったように展開が遅いです。読むのに時間がかかりました。主人公のぼやきの一つ一つが大切で、それを楽しめるどうかでこの遅さへの評価も分かれると思います。あと、関西弁が音として聞こえる人とそうでない人とでは読みやすさが違うのかもしれません。勤め先の学校には、中一にぴったりだからということで、図書室に入れてもらいました。生徒にも勧めようと思います。「さすがひこさん」と思ったのは、子どもの身体感覚をしっかり書いているところです。例えば、バスに座るとき、「ランドセルを背負ったままだと、ちょうどよくて気持ちがいい」(10ページ)というような描写は興味深かったです。あと、一人称の作品は、語り手の主人公が賢く、どんどん洗練されている気がするので、『なりたて中学生』では哲夫の等身大のアホぽっさが良かった。中級編も読みたいと思っています。主人公の名前が成田哲夫で「なりたて」は絶妙。おもしろく読みました。

アカシア:学校の名前も土矢(どや)、瀬谷(せや)、南谷(なんや)、御館(おかん)、御屯(おとん)など、ユニークな命名ですよね。

アンヌ:ひこ田中さんは、書評しか読んだことがなくて作品を読んだのは初めてですが、おもしろさがわかりませんでした。校長先生の挨拶や送辞や答辞が、いくらヴィデオを見て書いたという設定であれ、全部で6ヶ所も一言残らず書かれている。退屈な儀式の言葉を延々と読まされて、読者が投げ出さないか気になりました。おもしろさを知りたいと、作者のファンの方のブログや書評も参考にして、もう一度読み直しました。例えば、登場人物のネーミングが絶妙との評があったのですが、やはり、あまりそういうふうには感じられません。ひたすら受け身の主人公の姿もうまく見えてこない。ただ、敵対関係だった隣の小学校出身の後藤君たちと仲直りするのかどうか揺れているというところには、リアリティがあるなと思いました。

ルパン:いつもはアンヌさんと意見が正反対になるのですが、今日はまったくの同感です。おもしろく読めませんでした。気になる部分もたくさんありましたし。たとえば73ページあたりの、突然天井と壁の間のカビをスプレーで取ろうとする場面などです。新築の家に引っ越したはずですよね? 新しく越してきた家に住んでいるのに、使わなくなった小学校の参考書が1年生の分から積み上げてあるのも不自然です。ふつうは引っ越すときに処分しますよね。それに、全体的に理屈っぽいところが鼻について。いかにも大人が書きました、というのが透けて見えるような。灰谷健次郎作品みたい。『天の瞳』(角川文庫)よりはずっとマシですけど。よく書けていると思える部分もありました。主人公が後藤の出方を伺う様子はおもしろかった。でも、やはり全体的にリアリティがないと思います。小学生が、「卒業式って保護者のためじゃん」とか言わないと思うし。ともかくあんまり楽しくなかったので、読むのに時間がかかりました。

ヴィルト:関西弁かつ、学校の仕組みなどが土地柄のせいか私の経験と違うので、異文化を知るような新鮮な感覚で読みました。教室の席順のイラストに名前が入っていく後半からだんだん乗ってきたのと、主人公である成田くんのこれからが気になるので「中級編」も読みたいと思います。成田くんのキャラが頼りなくてかわいらしかったです(「なりたて」が主人公の名前とかけていたり、学校の名前に遊びが入っていたりしたことには気づきませんでした!)。お母さんが入学のしおりを入学式当日に渡したせいで、事前情報がない成田くんが戸惑うところが気になりました。当地では、小学校在学中から同じ中学に進学する予定の小学校と交流して、中学進学後の生活がスムーズに送れるような配慮や、親子向けの中学校ごとの説明会もありました。入学のしおりが1部しか渡されていなければ、コピーするなどして本人に渡してあげればいいのにと思いました。母親目線で読むと気になる点があるものの、対象年齢の人たちには気にならないかもしれません。

パピルス:おもしろかったです。ひこ田中さんの作品は初めて読んだのですが、ひこさんの書評と似ているというか、斜に構えながらもしっかりと本質を捉えているような、ユニークながらも鋭さを感じました。展開の遅さは全く気にならずに、自分の中学時代を回想しながら夢中で読みました。「あのときもっとこうすれば良かった。」とかいろいろ考えちゃいました。そう考えると、主人公の成田くんは冷静すぎるというか、大人の視点が入っているのでしょうね。

アカシア:ひこさんの幼年童話は、おとなの視点だなあと思うところがあったんですけど、この作品はもっと自然でおもしろかった。関西弁もひこさんの文体も、私には合ってるのかもしれません。同じ台詞を標準語で書かれると、単なる饒舌になる場合でも、関西弁だから独特のノリとリズムがあって、おもしろくなる。それに、私の体験では、女の子より男の子のほうが変化に弱い場合が多いと思うので、小学校の参考書をいつまでも持っていたり、ランドセルと別れがたかったりするのも、わかります。お母さんは、ちょっと抜けたところもある人ですが、この子のことを愛しているのは伝わってきます。学校からのお知らせには注意が及ばないかもしれないけど、子どものことはちゃんと見ている。そこもいいな、と思いました。学校の関西弁的命名については、ちょっと悪ノリって気がしないでもないけど、気づかなかった人もいるならいいですよね。
 江國香織さんが好きな人っていますよね。大きな事件は起こらないし展開はゆっくりだけど、毎日の気持ちのひだみたいな描写を読みたい。男子の中にもいるそういう読者にはアピールすると思います。

ルパン:わたしの文庫にも、こういうのが好きそうな小学生の男の子がいます。わたしが好きでないだけ。

アカシア:送辞と答辞を延々と読まされるのはどうか、という意見がさっきありましたが、ここは、子どもたちの日常の会話とはまったく違う文体だし、学校の一面を描いているんですよね。形式的な儀式の退屈さを表現したいんだと思います。

アカザ:ていねいに書いてあるとは思いますが、正直いって退屈でした。以前にわたしが住んでいた地区は、二つの小学校から同じ一つの中学校に進学するので、熾烈な勢力争いがあって大変だという話は聞いたことがありますが、そういう読者にとっては身近でおもしろいのかもしれません。ひこさんの作品は、オモシロサビシイような雰囲気があって、そこが好きなんですけれど、この作品からはそれが感じられませんでした。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年12月の記録)


ネコのミヌース

『ネコのミヌース』
アニー・M.G.シュミット/著 西村由実/訳 カール・ホランダー/挿絵
徳間書店
2000.06

マリンゴ:非常にかわいらしくて、洗練された、構成の練られた作品だと思いました。ミヌースのしぐさの描写から、ネコらしさが伝わってきて、魅力的でした。ウッディ・アレンの映画のようなイメージで読んでいたので、「エレメートさん」という大きな悪が出てきた後半の展開に少しびっくり。でも、甘いだけではなくスパイシーな仕上がりになり、児童書としてもわかりやすい作品だったと思います。

パピルス:ストーリー、挿絵、装丁、どれをとっても可愛らしく、とても好きな本です。悪役も出てきますが、最終的に可愛らしくまとまってハッピーエンドのおはなし。安心して読めます。

ヴィルト:ネコから人間になったミヌースですが、ネコらしいしぐさが自然に描かれていると思いました。子どもが読みやすいストーリーかつ児童書らしい結末という、みなさんと同じような感想を持ちました。2000年刊行だったのに、どうして今まで読まなかったのか不思議なくらいです。気になったのは33ページ。ティベさんがミヌースに対し「あわれなネコを〜」と言った場面。この時点で、ティベさんはミヌースのことをネコとは思っていなくて、人間と思っていたのではないでしょうか?

ルパン:特に突っ込みどころなし。文句なく楽しめました。小さいときに本を読んでいたときの感覚を思い出しました。何も考えないで、全面的におはなしの世界にのめり込んでいたあの感じを、久しぶりに味わいました。児童文学の王道っていう感じですね。スカーっと一気に読めました。

アンヌ:リンドグレーンのカッレ君シリーズ(『名探偵カッレくん』他、アストリッド・リンドグレーン著 岩波少年文庫)を思い出しました。小さい町の中で物語が始まり、すべて終わってしまう。原作が1970年刊ということなので、「悪」というのが公害や環境問題。そういったところに時代を感じました。

ルパン:こういう本って懐かしいよね。

アカシア:ネコが人間になったけど、ネコっぽさが残っているという描写がおもしろかったですね。箱で寝たり、屋根づたいに移動したり、ほかの人の身体に頭をすりつけたり…。だんだん自分でも人間がいいのか、ネコのほうがいいのか、わからなくなっていくんですね。ストーリーがシンプルなので小学校中学年くらいで読むといいのかなと思うのですが、分量が多いのでその年齢だとなかなか読めない。たかどのほうこさんあたりだと同じ素材をもっと短くおもしろく料理できそうな気がしました。

ルパン:高学年が読んでもおもしろいと思いますが。

アカシア:たとえばミヌースは犬に追いかけられると、ハイヒールをはいて一気に木に登ったりしますよね。そういう部分、高学年になるといろんな現実がわかるから、しらけたりしないですか? 

ルパン:おなじ内容で中学年向けがあれば、長編を読み始める良い導入になるでしょうね。

アカシア:けっこうむずかしい漢字もルビ付きで使ってあるし、この文字の大きさだと中学年はしんどいかも。

アカザ:前からタイトルは知っていて、読みたいと思っていた本です。とてもおもしろく読みました。まさに児童文学の王道をゆく作品で、こういう作品で子どもたちは読む力を育てていくのだと思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年12月の記録)


路上のストライカー

『路上のストライカー』
マイケル・ウィリアムズ/著 さくまゆみこ/訳
岩波書店
2013.12

アンヌ:書評を読んだ記憶があるのに、このつらい国境を越える旅の終わりには、プロのサッカー選手となって活躍する結末が待っていると思い込んで読んでいました。そうじゃないと気が付いたのは、ようやく後半の主人公がシンナー中毒になりかかっている場面でした。ストリートサッカーについても知らなかったので、慌てて調べました。

ハリネズミ:日本のストリートサッカーのチームは野武士ジャパンというみたいですね。

アンヌ:一番気になったのはグリーンボンバーという少年兵に連れていかれるのを阻止するために、主人公が古来から伝わる歌を歌って、イノセントに何かの霊を憑依させるような場面。少年兵たちはもちろんその歌や現象を知っていて、怖がって逃げ去る。こういう文化も、戦争が起きると消えていくのだろうと思いながら読みました。国境の強盗団や違法移民を搾取する農場など、違法な移民が常態化すると、どちらの国も荒れていくということにも気づかされる物語でした。ストリートサッカーを通じて、スターになれなくても救われていく子どもたちがいる。読後感がよく、感動して何度も読み返しました。

パピルス:同じマイケルなので、この作品も著者はモーパーゴだと思って読んでしまいました。あとがきに、取材のために2ヶ月間、カフェで店員として働いたと書いてあったので、「モーパーゴってイメージと違ってフットワーク軽い!」ってびっくりしちゃいました(笑)。内容は面白かったです。人物描写も一人一人厚みがあってよく描けていて、ストーリーも無駄が無い。今まで読んできた小説の中には、ストーリーを繋ぐために登場人物を死なせたと思うような、無理のある描写のものもたくさんありました。しかしこの本は違います。イノセントが死ぬ場面は自然にストーリーの中にとけ込んでいました。終盤、イノセントの死をデオが告白する場面では、デオの気持ちに共感して、ミスドで読んでいたのですが店内で号泣してしまいました。

レジーナ:次々に場面が展開していきますが、主人公の気持ちに寄り添って読める作品です。イノセントの存在が光っていますね。ナチス政権下で最初に虐殺されたのは、障がいのある人たちでしたが、戦争で一番犠牲になるのは、イノセントであり、ポットンじいちゃんであり、子どもであり、弱い立場にある人なのだと改めて思いました。勤め先の中学校では、特に男の子が自ら手に取り、よく読んでいます。シリア難民のへの攻撃や、日本のヘイトスピーチのように、ゼノフォビアは今、実際に起きている問題なので、ぜひ多くの子どもに読んでほしいです。

ペレソッソ:モーパーゴが書いたのだったら、お父さんが出てきますかね(笑)。私もホロコーストを頭に浮かベながら読みました。ユダヤ人が自分たちの生活を圧迫していると考えることがエスカレートしていって一般市民の暴力行為に及ぶというのが。大きな問題として、ヘビーなのは読めないと言われることについて、改めて考えさせられています。私にも課題なんです。戦争児童文学は恐いから読みたくないと、子どもが避けてしまう、それをどうすればいいか、長年、学校の先生含め課題だと思います。そこで例えば、『ヒトラーのむすめ』(ジャッキー フレンチ著 さくまゆみこ訳 鈴木出版)のような手法が必要になってくるのではないかと、学習会なんかも重ねてきました。一方で、あまりにも戦争の現実がわかっていないということの危うさがあります。それは、残酷な描写をどう考えるか、ということにつながります。戦場ジャーナリストの方が、「戦争は、血であり、脳漿だ」と定義されたのですが、それが現実でも、それが描かれていると読まれない可能性が高くなる・・・・・・。「半袖がいいか、長袖がいいか」というシーンは、本当にわからない子どももいる。だからといって注を付けたりして明らかにすればいいという問題でもない。わからないけれど、なにか不穏なものは感じて、心に残り続けるということも大事だと思います。難しいです。
 あと、やはり、イノセントの存在がうまい。極限状態のさらに極限が現れる。かといって、エンタメ的な起伏でひっぱるのではなく、あくまでも少年の心に寄り添って読むことになるので、真摯な読書体験が出来たと感じています。

マリンゴ:タイトルと装丁で、貧しいながらもサッカーを頑張って成長していく話だと思っていたので、こんな物語だったのか!とびっくりしました。でも、終盤、たたみかけるように練習と試合のシーンが続き、サッカーという競技そのものの躍動感と相まっていて、読み終わってみれば、間違いなく『路上のストライカー』でした。わたしのように、勘違いして、中高生たちが本を手に取ってくれたらいいな、と思います。ジンバブエのこと、南アフリカのこと、残像は頭に焼きつきますから。あと、チームメイトがそれぞれの身の上話を語るシーンが、効いていると思いました。地の文でひとりずつ紹介していくと散漫になるところが、緊迫した場面で一気に語られるので、読み応えがありました。余談になりますが、『水曜どうでしょう』というバラエティで、ケニアの自然保護区をドライブする様子が放送されていました。のん気に見ていたのですが、その保護区を、車ではなく自分で、しかも裸足で走り抜けるとなると、どれだけおそろしい思いをするのか、と。すさまじい緊張を感じるシーンでした。

ハリネズミ:日本の戦争児童文学だと「こんなにひどいことがあった」というのを押しつけて来る作品が多いように思います。そう迫られると、読者はひいちゃう。でも、この本は、冒険物語として読めるのがいいですね。読ませるストーリーのつくり方をしてます。最初から、人が死ぬけど。

ペレソッソ:原題と日本のタイトルが違いますね。

ハリネズミ:原題そのままだとなんだかわからないし、状況としては重たいので、未来に向けた面を強調したほうがいいと思ったんじゃないですか。

マリンゴ:タイトルとストーリーに、たしかに最初ギャップを感じますが、「だまされた」という感覚は決してありませんでした。ストーリーに引き込まれて、どんどん読み進めてしまいましたから。

ペレソッソ:松谷みよ子の作品などに、たとえば猫の描写にひかれて読み進んでいたら、いきなり重いものが出て来て、ああ、これは子どもにとってだまし討ちじゃないか、これでびっくりして引いちゃう子もいるんだろうなぁと思ったことがあります。その点、最初からヘビーな出来事で始まり、読み進める子はそれを承知で進んでいくのだから、これは、だまし討ちにならないと思います(笑)。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年11月の記録)


戦争がなかったら〜3人の子どもたち10年の物語

高橋邦典『戦争がなかったら』
『戦争がなかったら〜3人の子どもたち10年の物語』
高橋邦典/著
ポプラ社
2013.11

マリンゴ:とてもいろいろなことを考えさせられました。戦争中の悲惨さのみならず、その後の後遺症……肉体的な障害やPTSDはもちろん、甘えや逃げなども起きてくるのですね。また援助の善意で歯車が狂う、という描写にはギクッとさせられました。写真は、さすが素晴らしい。ただ、個人的には、ノンフィクションのタイプとして好みではなかったです。ジャーナリストとしての視点と、エッセイストとしての視点が、入り混じっている気がして。

ペレソッソ:今おっしゃったのと逆になるんですが、例えば、ジャーナリストが初めて子ども向けにノンフィクションを書いた場合など、児童文学の新人賞の対象になることがあるんですが、そのときは、客観的なものより、語り手が表に出ている物語になっている方が、読み物として読めることで評価が高かったりするんです。子ども向けのノンフィクションのあり方について、詳しくはないんですけど。本の作りとしては、地図がほしかったですね。子どもが対象ならば、本の中でわかるようにしてほしかった。それとやはり、援助のあり方について問題提起されていることは意義深いと思います。あと、映画『イノセント・ボイス 12歳の戦場』を思い出しながら読んでいたのですが、ご覧になりました? 1980年代のエルサルバドル内戦を背景にした実話に基づく映画です。(2004年度メキシコ作品。2006年に日本公開)政府軍、反政府軍ともに少年を誘拐して、兵士にするんです。同じことがおきているんです。それで、『戦争がなかったら』と合わせて強く考えさせられたのは、同時代性とでも言うことです。日本で日本の戦争を題材とした戦争児童文学を書くとき、それは過去の話になる。それは、もちろんとても幸せなことです。それが、そう行かなくなるかもしれない状況ですが・・・・・・『戦争がなかったら』で、同じ地球を移動すれば、内戦で疲弊したリベリアと物にあふれたニューヨークが同時に存在しているんですね。『イノセント・ボイス』もそう。自分の体験を脚本にした俳優のオスカー・トレスは、13歳でアメリカに渡っています。同じ時代に、別の価値観で出来ている世の中がある、日々生き死にを迫られることのない世界があるということを知ったときの、安心と、そちらのアメリカならアメリカの人々には自分が経験してしまったことを想像すらしてもらえないことからくる乖離観・・・・・・。イランのマルジャン・サトラピのマンガ『ペルセポリス』(園田恵子訳 バジリコ)のことも思い出しながら読みました。

レジーナ:同じ作者の『ぼくの見た戦争』(ポプラ社)、『戦争が終わっても』(ポプラ社)を思い出しながら読みました。ムスの義手は、92ページに「金属のカニの爪のような二本指の機械」とありますが、98ページの写真では、手の形をしているのが不思議でした。

パピルス:平和ボケと言いますか、社会人となってから身の回りのことで頭がいっぱいで、こういったことはどこか遠い世界のような感覚でいました。この本を読んで目が覚めたと言った感じです。戦争をテーマにした「小説」はいくつか読んできたのですが、やはりノンフィクションは衝撃度が違います。リアルでした。

アンヌ:かなりきつい読書体験でした。片腕をなくしたムスという少女の話が一番胸にこたえました。実はこの読書会の前に『夢へ翔けて』(ミケーラ・デプリンス、エレーン・デプリンス著 田中奈津子訳 ポプラ社)という本を読んでいたのですが、そちらも内戦下のシエラレオネで孤児になった少女がアメリカ人の養女になる話でした。彼女は伸び伸びと育ち、バレリーナへの夢を叶えることができるのですが、この本でも、同じように両親を内戦で殺されてアメリカで養女になった少女たちが出てきます。彼女たちは、両親がいるムスが留学してくると、いじめたりします。その後、彼女たちはPTSDで苦しみ、著者は彼に会うことで戦場の記憶が甦るからと、養母に面会を断られます。豊かな環境を与えるだけでは救いきれない人の心を見させられた気がしました。それにしても、アフリカの国は内戦だらけで、これだけ貧しいのにどうしてこんなに武器だけはあるのだろうと思いました。

ハリネズミ:子どもの兵士を描いた本は、ほかにも後藤健二さんの『ダイヤモンドより平和がほしい』(汐文社)とか、『ぼくが5歳の子ども兵士だったとき』(ハンフリーズ&チクワニネ 汐文社)とか、イシメール・ベアの『戦場から生きのびて』(忠平美幸訳 河出書房新社)などいろいろ出ていますね。この本の著者は本職がフォトグラファーですが、写真の仕事とは別に文章でも書きたいという思いがあったのだと思います。『戦争が終わっても』では、戦争の被害者とも言えるリベリアの子どもたちに出会いますが、普通のジャーナリストやカメラマンだったらそれを報道して終わるところを、高橋さんはその後も追い続ける。そこが本当にすばらしいと思います。それによって、例えばムスとギフトはアメリカの善意の人に出会って養子になったり里子になったりするわけですが、だから幸せになったわけでもないというところまで伝えることもできる。少年兵が日常の生活に戻って終わりではなく、どうしても取り戻せないものがあることを伝えている。子どもの兵士はさまざまな心の問題を抱えてしまいますが、貧しい国だとその後のケアも万全にはできない。一度きりの報道で終わってたら、そこまではわからない。そこが高橋さんのすごいところだと思います。アメリカという国は、片方で銃を売って戦争をさせ、もう片方では犠牲者の子どもを引き取っているわけですが、それも大きな矛盾ですよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年11月の記録)


だれにも話さなかった祖父のこと

『だれにも話さなかった祖父のこと』
マイケル・モーパーゴ/著 ジェマ・オチャラハン/絵 片岡しのぶ/訳
あすなろ書房
2015.02

アンヌ:モーパーゴはうまいと思うけれど、なぜか苦手で、今回も設定の不自然さばかり気になって物語の中に入り込めませんでした。例えば、マイケルのお母さんは、生まれおちた時から自分の父親を見ているはずで、そういうものだと受け入れていると思うのに、大人になってからは目をそむけ続けているというところに納得がいかなかった。第2次世界大戦後に、もっと他の傷痍軍人にも出会っているはずだと思うし。ただ、この作品のように、戦争によって傷つけられ人生も変わってしまうのは兵士だけではない、その時代にその場にいた、ありとあらゆる人に起きるのだ、ということを語り続けるのは、とても意味があると思いました。

ハリネズミ:R.J.パラシオの『ワンダー』(中井はるの訳 ほるぷ出版)にも、顔が普通とは違う子どもが出てきましたね。その本でも、みんながチラッと見てすぐ目をそらすと書いてありました。よほど親しくなって表面の向こうの中身が見えるようにならない限り、普通の人は目をそむけるのではないかな。そこまで親しくないと、逆にそっちの方が礼儀だと思うんじゃない? この子のお母さんは、自分も心にわだかまりのある母親から接触を禁止されていたし、父親もアル中だったことから、そこまでお父さんと親しくなれなかったんでしょう。私はそこは不自然だとは思いませんでした。

ペレソッソ:単純に綺麗な本だなというのが第一印象です。先月『月にハミング』(杉田七重訳 小学館)を読んだばかりなので、ああ同じテーマと思って読みました。『月にハミング』もそうでしたが、モーパーゴは和解の話が得意なのだなあと思いました。読者を不快にさせない。そのあたりを甘く感じてか、『戦火の馬』(佐藤見果夢訳 評論社)をあまり好きになれないと言っていた人がいました。単にいい話で終わると・・・・・・うまさにちょっとひっかかったりします。

ハリネズミ:モーパーゴってうまいんですよ。最近とみにうまくなってます。戦争を自分のテーマにしている作家で、これもその一つだと思いますが、確かにうまいから綺麗に収まってしまうところがありますね。

ペレソッソ:そう言うのって危ない気もします。

レジーナ:私も、顔に先天的な異常のある男の子を描いた『ワンダー』を思い出しました。おもしろく読みましたが、大きなテーマを扱っている割に短い話なので、展開が早過ぎるように思います。主人公とおじいさんが心を通わせていく様子を、もっとじっくり書いてほしかったです。またテーマに対し、絵が少し浮いてしまっている気がしました。テーマの重さとバランスがとれるように、シンプルで、デザイン性の高い挿絵を使っているのかもしれませんが。モーパーゴの他の作品の挿絵を描いている、マイケル・フォアマンやピーター・ベイリーのように、温もりのある抒情的な挿絵の方がしっくりくるような……。

マリンゴ:とても味わい深い作品だと思いました。絵のトーンも好きです。不幸に見える人に会ったとき、じろじろ見たら失礼だ、というのは「本当に失礼だと思って遠慮する」のと「避けて通りたいから目を逸らす」のと、2種類あるのだということが、改めて明確に伝わってきました。当人が聞いてほしがっている、聞いてくれる人がいるなら話したい、と思っていることだってあるのですよね。そのとき、何もできないからと目を逸らすのではなく、向き合って話を聞くことだけでもできる……そんなことを考えさせられました。ちなみに、挿絵に1つ疑問が。人口80人の島と書いてあるわりに、島に戻ったときに訪ねた病院が大きすぎますね。別の大きな島の病院なんでしょうが、文と絵が合っていない気がします。全体的な絵のタッチは好きなのですが、大人の絵本のようなテイストなので、売れるのか、ちょっと心配です。余計なお世話ですけど。

アンヌ:これはヤングアダルト扱いですか?

ハリネズミ:ルビがたくさんふってあるので、小学校中学年くらいから読んでもらいたいんじゃないかな。

マリンゴ:中学生くらいが主に読むのかなぁ、と思いました。

ハリネズミ:主人公は大人になってから思い出して書いているという設定ですが、シリー諸島まで一人でおじいちゃんを訪ねて行ったのは12歳ぐらいとなっていますね。テーマは『ワンダー』と共通したところがあって、まわりの人々とのコミュニケーションを断たれている人がこの場合は祖父で、孫がその祖父とコミュニケーションを取る。親世代を飛び越えた祖父と孫の関係がうまく書かれています。きれいに終わりすぎているという意見も出ましたが、若い人の中には本当に悲惨なものは読みたくないという人も多いので、こういう作品から入るのもいいと思います。戦争は抽象的に描かれていて、絵も怖くないので、そういう人たちには入りやすいと思います。

ペレソッソ:原書もこのイラスト?これが原書のままだとしたら、縦書きだから、開きが逆ですよね。絵は裏焼きみたいに刷るんですか?

ハリネズミ:原書は当然横書きですよね。日本で出す場合は、縦書きにする場合もあります。出版社によって違いますね。絵はこの本の場合は、左右逆にはしてないんじゃないかな。縦書きにすると絵を左右逆にしなくちゃならない場合もありますよね。とくに動きが大事な絵だったりすると。その場合は、原著の出版社に断ってそうしていると思います。
*画家名の表記はこれでいいのか、という疑問が出たので出版社に問い合わせたのですが、原著出版社に確認した上でこの表記になったそうです。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年11月の記録)


コービーの海

『コービーの海』
ベン・マイケルセン/著 代田亜香子/訳
鈴木出版
2015.06

アンヌ:この物語は、いきなり大海原でモーターボートを自由に操る少女、コービーが登場するところから始まります。いきなり、コービーが義足であることや、片足だけ「ひれ」をつけて自由に泳げる場面が描かれていますが、そのことに読み手が慣れる前に、コービーがゴンドウクジラ(以下クジラ)と出会い、さらに出産を手伝うことになりました。そのあまりの展開の早さについていけず、物語にうまく入り込めませんでした。彼女の両親が喧嘩している理由も、いま一つはっきりしないまま離婚騒動が進んでいきます。ニッケル・ジャックとの友情も、学校での孤独な状況も掴めないままどんどん話が進んでいき、やっとコービーの気持ちに沿うことがきたのは、114ページに出てくるマックスが、「このクジラの赤ん坊の出産は昨夜ではない」とぴしゃりと言う場面でした。ここで、初めてコービーの体験やクジラとの友情は、専門家の人たちにとっても特殊なものなのだということが理解でき、コービーの立場に立って物語が読めるようになりました。コービーが、普段義足を着けている足の切断された部分を級友たちに見られてしまう場面。その時に、トレーシーが「コービーの心を見て」と語る場面からは、まるでパズルをはめるように見事に物語が展開していくと感じました。最後、クジラが海に帰る場面はとても美しく、ここでやっと、クジラの姿がちゃんと見えた気がします。コービーとパパのユーモアのセンスはなかなかきつくて、物語にうまく入り込めなかったのは、この感覚の違いにもあるようです。

アカザ:最初のうちは、私も物語になかなか入りこめませんでした。分かりにくいというより、「こういう物語は前にも読んだことがあるけれど、たぶんこんな展開になるんだろうな」という気がして先を読む気分になれず、途中で他の本を読んでしまいました。その後、また読み始めたら、クジラの親子が怪我をするところからハラハラしながら一気に読めました。ユーモアというか、ふざけ方はたしかにきついですね。それと、登場人物に奥行きがないのでは? ニッケル・ジャックにしても、どこかで読んだような……。テスだって、客観的に見れば親切で人のいいおばさんなのに、こんなに嫌っていいのかしら。

レジーナ:野生の生き物や障がいをテーマに書いている、マイケルセンらしい作品です。陸に打ち上げられ、動けなくなったクジラと、義足を使っていることで、いつもどこか窮屈な気持ちでいるコービーが重ねられています。学校では義足を気にして、のびのびと振る舞えないコービーも、海では体の不自由さを忘れ、ヨットを意のままに操ります。またコービーは、みすぼらしい身なりにとらわれず、ニッケル・ジャックと親しくしています。クラスメイトは、コービーという人間を「義足をつけている」ということだけで見ている――少なくとも、コービーはそう思っている。でもコービー自身も、はじめは人間性ではなく、外見で人を判断し、ベッキーをミス・パーフェクトと呼ぶんですね。しかしクジラはそうではなく、クジラと触れあうことで、コービーの心も自由になっていきます。クラスメイトが全員、片足でシャワーを浴びる場面は、描き方によっては嫌な印象を与えるかもしれませんが、さすがマイケルセン! とても好感が持てました。ローラースケート場で、義足をつけたスケートを滑らせたり、魚の頭を枕に入れたりするユーモアには驚きました。

:なくした足のこと、両親のこと、クジラのこと。いろんな要素が出てきますが、どれも深められきれずに並んでいる感じです。一番思ったのは、この子は足をなくす必要があったのかということ。何の喪失がなくても、クジラとはふれあえたのではないか、そのほうが、クジラとの関係がもっとクリアになるのではないかと思いました。でも、全体には海のイメージがとてもきれいで、フロリダを想像しながら読むことができました。

マリンゴ: とても好きな物語です。舞台となっているフロリダは前から“憧れの地”でしたし、船が家なんてうらやましいですし、自分用のモーターボートがあるなんて夢みたい、と冒頭から入り込んでしまいました。クジラの臭気が立ち上るシーンも印象的でした。匂いを強く感じさせる小説は、そう多くはないと思うので。主人公がクラスメイトと正面からぶつかるシーンは、アメリカならではの解決の仕方だと思いました。日本の児童文学でこれをやったら、リアルじゃないかもしれません。でも、だからこそ翻訳ものとして面白く読めました。映画化したら、一番“オイシイ”役はニッケル・ジャックですね。日本人がやるなら三上博史さん!と思いました(笑)

ハリネズミ:ぶつかるところが日本と違ってアメリカならではというのは?

マリンゴ:主人公がクラスメイトと、言いたいことをはっきり言い合って和解していくのが、アメリカ文学らしいな、という意味です。日本だったら、こんなふうにパーンとぶつからず、もっと婉曲的にやりとりして和解していくと思うので。

ルパン:主人公が片脚を失ったことが原因で、両親が不仲になるんですよね。でも、そのことを全然乗り越えられていないのが気になりました。クジラを助けたことと、家族のきずなの問題がきちんとリンクしていなくて、ちぐはぐな感じのまま終わるため、読後感がすっきりしませんでした。

ハリネズミ:コービの両親は、これからは経済的にはうまく行きそうなので、家族関係も好転しそうですよね。舟が沈んで保険金も入るし、お父さんも陸で働くことにして契約をとっているし。

アンヌ:そう、船の保険金や、お父さんは建築関係の仕事がたくさんできて、お金の問題は解決していますよね。

ルパン:たまたま経済的にどうにかなりそうだから一緒に暮らそう、という感じですよね。このままでは、「自分のせいで家族のきずなが壊れた」というコービーの罪悪感はなくならないと思います。

レジーナ:物語の中でコービーは成長するけれど、両親はきちんと問題に向き合っていないから、根本的な解決になっていないということでしょうか。

ルパン:そういうことだと思います。要は、家族の問題は何も解決していないし、クジラを助けたことも、そこでは何の役にも立っていない。お母さんも、テスの家がなくなったから仕方なく帰ってきたみたいだし。また家計が苦しくなって、そこへテスが戻ってきたら、お母さんは簡単に出ていってしまいそう。

: 寂しかったといいますが、ちょっと唐突ですね。

ハリネズミ:私はベン・マイケルセンが大好きなので期待して読んだのですが、『ピーティ』(千葉茂樹訳 鈴木出版)や『スピリットベアにふれた島』(原田勝訳 鈴木出版)と比べると、ちょっと弱い気がしました。もっと前に書いた作品というせいもあるでしょうが、様々に盛り込みすぎていたり、メロドラマみたいなシーンがあったりね。『ピーティ』や『スピリットベアにふれた島』は焦点が当たる場所がもっとはっきりしていたので、ぐんぐん引き込まれました。同じ時期にジル・ルイスの『白いイルカの浜辺』(評論社)も出ていましたね。イルカが登場するばかりでなく(※注:『コービーの海』にでてくるゴンドウクジラはマイルカ科の一種。クジラとイルカの明確な区別はされていない。)、障がいを持った子どもが出てくるし、主人公の家庭が不安定だし、女性の獣医さんも出てくるところなどもよく似ていました。『白いイルカの浜辺』のほうは作家が獣医でもあるので、イルカの吐く息を浴びると黴菌に感染するかもしれないとか、この先海に放すのであれば人間とはなるべく親しくしないほうがいいなど、もっとリアルに描かれていました。

パピルス:僕はこの本おもしろかったです。『クジラに乗った少女』という映画が好きなのですが、この話も同じ年くらいの女の子が、クジラと心を通わせて交流しますよね。主人公の状況や、家庭のトラブルなどいろいろ盛り込み過ぎているという感想もありましたが、YA小説として「このくらいの年齢の子は、こういうことを考えるんだろうな」と思いながら読んだので、気になりませんでした。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年10月の記録)


月にハミング

『月にハミング』
マイケル・モーパーゴ/著 杉田七重/訳
小学館
2015.08

マリンゴ: もしかして『コービーの海』より好きかもしれない!と思いながら、夢中でページをめくって、一気に読了しました。が、しばらくたってみると、意外と後に残らなくて、少し熱が冷めました。戦争はいけない、人種間で争いあってはいけない、という、いいテーマではありますが、そのためにストーリーが終盤やや教訓的すぎる気もしました。潜水艦に助けられるシーンも、意図が透けて見えてしまうというか。

レジーナ:ルーシーは、母親やセリアを助けられず、ひとり生き残ったことに負い目を感じています。今、国際児童図書評議会(IBBY)も、難民の読書支援プロジェクトをいろいろと行っており、別の国に逃れ、ルーシーのように感じている子どもの心を、本や読書で支えようとしています。辛い体験をした子どもが、異なる国に渡り、人との交わりの中で少しずつ立ち直っていく様子は、マイロン・リーボイの『ナオミの秘密』(若林ひとみ訳 岩波書店)を思い出しました。ルーシーの心を開く助けになるのが、馬や音楽です。音楽は、言葉や国を越えるものですが、戦争の中でそうではなくなり、敵国であるドイツの音楽を聴くことも許されなくなります。モリソン牧師の演説の場面は、言葉のイデオロギーを振りかざす怖さを感じました。しかし、そんな厳しい時代にも、心ある人はいて、イギリス人の家族や、ドイツの潜水艦の乗組員、アイルランド人のブレンダン、カナダ人のウォルターのように、国を越え、さまざまな人がルーシーを助けます。モーパーゴは、人という存在、人間のあり方や、その生きる姿を描ける作家ですね。素姓のわからない少女が発見される冒頭から、英国北部に伝わるセルキ―伝説が、物語にからむのかと思ってしまったので、そうではなかったのが少し残念でした。

アカザ:わたしは、もともと「モーパーゴびいき」なのですが、やっぱり3冊のなかではこれがいちばん好きでした。初期のモーパーゴの作品は「なんだかなあ!」と思うようなものが多かったけれど、どんどん上手くなっていますね。ちょっと上手すぎで、できすぎって感じもするけれど……。特に、最後のダメ押し的な部分は、くどい気もしました。それでも、ルーシー、ジム、お医者さんと、いろんな人の目線で書いているのに、ちっとも読みにくくなっていないし、ストーリーもはっきりわかる。翻訳が上手いせいもあるんでしょうね。ルーシーの毛布にヴィルヘルムというドイツの名前が書いてあったのは何故かというミステリーの要素もあって、長い物語なのに一気に読めました。戦時下の暮らしが細かく描かれているのも、興味深かった。

アカザ:盛りだくさんだけれど、それぞれの出来事がうまく絡みあっている。物語がしっかりと構築されているという感じがします。

アンヌ:ものすごくおもしろい本で、読んでいる最中は、もうワクワクして物語にひたっていたのですが、もう一度読み直したい気分にはなりませんでした。推理小説仕立てのせいかもしれません。島での生活をしていく場面はすべて魅力的で、島が霧でホワイトアウトになったり、裸馬に乗って島中を歩きまわったりする様子は魔法の世界のようなのですが、謎が解けた後では二度とその魅力が味わえないような気がしています。思い出すと、セント・へレンズ島の廃墟とか、海に浮かぶグランドピアノの上の少女とか、その向こうに浮かぶ黒々とした潜水艦とか、実に鮮やかに映像が浮かぶ場面が多く、それだけに、作者の頭の中が見えてしまうような気がしてしまい、作者と語り手の違いがとわかると、作り物じみておもしろ味がなくなった気がしました。

パピルス:おもしろく読みました。主人公にとって辛い部分はしっかり辛く描かれていて、幸せな部分は読み手の心が十分満たされるくらい幸せに描かれていまた。そういうストーリー構成が気持ちよかったです。読後感も良く、さわやかな気持ちになりました。あえていえばルーシーのお母さんの描き方に違和感を感じました。戦時中、お父さんにわざわざ会いに行くものでしょうか。あの状況下で娘と二人で。

アカザ:危ない、と言われても、そんなに危なくないと思っていたのでは?

ハリネズミ:私も前に読んでその時はたいへんおもしろかったのですが、後で思い出そうとしたら、かなり忘れてしまっていました。モーパーゴはうますぎて、仕掛けはあるし、謎もあるし、後日談もわかるようになっているし、物語の作り方にもすきがないので、落ち着くところに落ち着くので、読後の満足感も強い。だから、というのも変ですが、妙にひっかかるところがないので、忘れてしまうのかもしれません。本当にうまくできた、いい話です。モーパーゴは、これと同じ時期に『走れ、風のように』(佐藤見果夢訳 評論社)というグレイハウンドを主人公にした本も出て、そっちもとてもおもしろかったです。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年10月の記録)


岸辺のヤービ

『岸辺のヤービ』
梨木香歩/著 小沢さかえ/挿絵
福音館書店
2015.09

:すごく好きな作家さんなのですが、当たり外れはあるかも。これは久々の新刊なので期待して読んだんですけど…。いろいろ考えたり、まな板に乗せたりする分にはおもしろいという感じでしょうか。翻訳風の装丁といい、イギリス好きの匂いといい、パロディというか、作者の遊びのような本でした。当然、『床下の小人たち』(メアリー・ノートン著 林容吉訳 岩波書店)とか『だれも知らない小さな国』(佐藤さとる著 講談社)とかいろいろ浮かびますね。そういう素地があって生まれた話として海外に紹介してもおもしろいかもしれません。ただ、タガメのこともミルクのことも、いろんな問いかけをしていますが、答えを出さないところがいまどきというか、落ち着いているというか、投げたところで終わっている感じです。

レジーナ:わたしは、海外の児童文学を読んで育ちましたが、そうした翻訳作品に通じる雰囲気で、すらすら読みました。文体も、ネズビットやC・S・ルイスを思わせます。少しまどろっこしい言い回しもあって、子ども向けというより、梨木さんの作品が好きな二十代が読む作品だと思いました。ポリッジが出てくるような、イギリス児童文学の世界で、日本が憧れる、かわいらしい西洋が描かれていますが、実際の西洋とは隔たりがあるのでは……。佐藤さとるさんの『だれも知らない小さな国』と重なり、語り手は男性だと思っていましたが、女性なのでしょうか? 来年のカーネギー賞には、いぬいとみこさんの『木かげの家の小人たち』(福音館書店)がノミネートされています。海外に伝えるとすれば、そうした日本独自のファンタジーの方が良いのではないでしょうか。

アカザ:美しい本で、流れるような文章で、かわいい小動物がいっぱい出てきて、梨木さんファンには、たまらない一冊だと思います。でも、ずっと昔に読んだような……。ムーミンみたいな、『床下のこびとたち』みたいな……。梨木さんの世代の方々には、戦後の優れた翻訳児童文学が、すっかり身体のなかに入りこんで、それこそ血となり肉となっているんでしょうね。でも、わたしはファンタジーでもリアルな物語でも、今の日本の作家が今の日本の子どもに向けて書いた本を読みたい。でも、これって児童文学ではなくって、もともと大人向けの作品として出版したのかも。

ルパン:最初から最後まで、既視感がぬぐえませんでした。はっきりいって、新鮮さがまったくないです。すべてどこかで見たことのある設定・筋立てばかり。まさに私と同世代の人が、好きなように趣味で書いたみたいな作品、というイメージでした。今の子どもたちにとってはおもしろくないでしょうね。欧米文化へのあこがれがありませんから。それと、語り手として登場するこの人間は、いらないと思いました。

ハリネズミ:私はコロボックルより『床下の小人たち』を思い出しました。『床下〜』は冒頭で語り手の男の子が登場するので、それにならったのかもしれませんね。

ルパン:この作品では必要性がないと思うんです。ヤービの世界とかかわっていませんから。それに、随所に教訓を入れようとしていますよね。これも、言い古されたことばかりで新しさがないんです。テーマ自体は古くてもいいと思うんですよ。環境問題とか平和とか、永遠の課題ですから。でも、切り口は新しくしなければならないと思うんです。そうしないとせっかくの教訓が陳腐になってしまいます。

アンヌ:西洋の小人ものプラス佐藤さとるさんの『だれもしらない小さな国』のコロボックルという印象を受けました。冬眠の場面とか、様々な場面にトーベ・ヤンソンのムーミンを、語り手とボートの関係に、アーサ・ランサムの『ツバメ号とアマゾン号』(岩波書店)のシリーズを思い浮かべました。また、「おっそろしく」という言葉にモンゴメリーの『赤毛のアン』の村岡花子訳(新潮社他)を、お隠り谷の白い崖に宮沢賢治のイギリス海岸を思い起こし、それらへのオマージュなのかと思いました。作者が好きな世界をここでおもいきり展開してくのだ、いいなあと、読み手としてより書き手としてうらやましく感じました。けれども、地名が中途半端にカタカナ英語で、まるで外国の小説を翻訳しているような調子で語るのは、なぜだろうと思いました。佐藤さとるさんたちが始めたような、日本の新しいファンタジーを作るというわけではない気がします。小さなミルクキャンディをめぐる、小人ものにお決まりの食べ物場面や、思春期特有の拒食症じみた行動を、パパ・ヤービがさりげなく解決する言葉等は魅力的でした。後半に、環境の変化が物語の中で語られていて、ヤービの世界も変わっていく予感に満ちているのが残念です。もう少し、一つ一つの物語を積み重ねていき、この世界をしっかり作り上げてからでも良かったのではないかなと思います。

パピルス:時間がなくさっとななめ読みした後、他の本に移ってしまいました。すてきな本ですね。装丁も挿絵もフォントもしっくりきます。丁寧につくられているなと感じます。ストーリーは、自分のチャンネルを本の世界に会わせることが出来ず、字面は追っていても、内容が頭に入ってきませんでした。もう一度じっくり読み直します。

マリンゴ:文体も装丁も外国文学っぽいのは、「このまま外国語に翻訳して海外でどれだけ受け入れられるか」ということを考えて、戦略的につくられたためなのかな、と想像しながら読んでいました。ちょっと考えすぎかな? 緻密で素敵な物語だと思いました。ハイ・ファンタジーが苦手なので、語り手のウタドリさんがいてくれるおかげで、入りやすかったです。ただ、読みやすかったか、というとそうではなく、何度も読み返さないと頭に入ってこないシーンもありました。児童文学っぽくないと感じるのは、ミルク売りの仕事ができるのかできないのか、という部分が解決しないまま終わっているせいかと思いました。鳥の描写、虫のディテールなど、さすが説得力があって、魅力的な描写でした。

ハリネズミ:こういう世界をていねいにスケッチしているし、描写がうまいので梨木ファンは喜んで読むでしょうね。どこかで聞いたお話をもう一度読んでいる心地よさがあります。でも淡々と進んでいくので、子どもがおもしろいと思って読むかどうかは疑問です。さっき、慧さんが、いろいろな問題を取り上げているとおっしゃったのですが、ほんとに軽くふれているだけで、作者がそれについて一緒に悩んだり考えたりしているわけではないように思います。イギリスの伝統的な児童文学は、中流階級以上の作家が、中流階級以上の子どもに向けて書いてきたわけです。この本は、その部分のテイストを再現しようとしているように思えます。昔こういう本を読んだ人がなつかしく思って読む本なのかも。イラストがいいので子どもも手に取るとは思いますが、子どもが未来を切り開いていくための本とは思えませんでした。続編があるようなので、この先、もっと広がっていったりもっと焦点がしぼれてきたりするのかもしれませんが。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年10月の記録)


緑の精にまた会う日

『緑の精にまた会う日』
リンダ・ニューベリー/著 野の水生/訳 平澤朋子/挿絵
徳間書店
2012.10

アンヌ:妖精も妖怪も、その土地に根差したものとして考えられているのに、この物語のロブさんは、野菜畑が潰されると、道に出て歩き出します。こんな風に、新しい場所へ出かけて行く妖怪は、宮沢賢治の『ざしき童子のはなし』(宮沢賢治全集8 ちくま文庫 他)くらいしかないなと思いながら読みました。道中の冒険談も、捕まえて利用しようとする人が現れたり、川に投げ捨てられたり、なかなかハラハラさせられておもしろかった。ルーシーがロブさんを待ちわびて、その存在を否定したり、ロブさんの美しいコラージュを作り上げていくところなど、失恋が人を詩人にしたり芸術家にするという作用のようで、作者はとても魅力的に書いているなと思いました。ロブさんがまっすぐルーシーのもとに現れるのではなく、市民農園のお隣さんのところにいるという結末もさりげなくて、いい感じでした。死と再生を繰り返すこの地球という場所で、妖精と共存する魅力を伝えた物語だと思いました。

ルパン:私はロブさんの設定がよくわかりませんでした。見える人には見えるけど、見えない人には見えない…?おじいちゃんとルーシーにだけ見えるんですよね。あと、ロブは素早く移動したり消えたりできるのに、閉じ込められたり、ちょっとつじつまが合わない気がしました。あと、「グリーンマン」というものがよくわかりませんでした。

アカシア:グリーンっていうのは、イギリスでは妖精の色なんですよね。で、妖精っていうのは、いると信じている人にしか見えないんじゃないですか。

レン:私もそこでひっかかりました。神出鬼没だから、どこでも通れるのかと思ったら、ふたが閉められていると出られないんですよね。物質的に存在するってことですか? 体積がある、ということですよね。

ルパン:服も着ていますよね。フランキーが心配しているように、転んだりするし。でも、不死身。見えないだけで普通の人と変わらないとすると、矛盾する点がたくさんあります。

アカシア:旅をしていなくなったから、見えないのでは。

ルパン:「見える者」と「見えない者」の線引きががはっきりしないんです。

アカシア:『妖精事典』(キャサリン・ブリッグズ著 冨山房)を見ると、ロブはブラウニーの一種だって書いてあります。だから場所は移動するんでしょうね。イギリス人は妖精が好きで文学にもよく登場するし、妖精を撮った写真がまことしやかに出回ったりもしますよね。ここでは、いい人間だけに見えるわけじゃなくて、存在を信じている人になら見えるっていう設定になってるんだと思います。

レジーナ:以前、作者のホームページを見て、気になっていた作品です。日本語版は平澤さんの表紙画で、子どもが手に取りたくなるような表紙ですね。フラワーショーの場面は、女王様と庭という要素が、いかにもイギリスらしいですね。話の筋はシンプルで、絵本にもなりそうです。ストーリーがシンプルな割に、小さい子どもが読むには長めなので、大人が読み聞かせてあげるといいのではないでしょうか。

レン:表紙からして、最初に手に取りそうな本ですが、ちょっと物足りなかったです。ルーシーがおじいちゃんをなくし、おじいちゃんが住んでいた家もなくなったあと、ロブさんのことを思いつづけて、最後に市民農園で再会するというのは、よかったなと思いました。でも、ルーシーが喪失感をのりこえていったり、成長するところがが描かれるていると期待して読んだんですが、出会ってそこでおしまいという感じ。喪失感はどう決着がつくのだろうと、ちょっと期待はずれで残念でした。ネイティブの読者には、グリーンマンが歩くという冒険だけでも、おもしろいのかもしれませんが。

アンヌ:いろいろな人が、見たり、匂いを感じたり、声を聞いたりして、様々な感覚で、この妖精の存在を感じるところもおもしろいと思いました。

アカシア:妖精っていうとティンカーベルを思い浮かべる人が多いけど、さっきの『妖精事典』を見ると、日本なら妖怪の類に入りそうなものもたくさん出てきますね。自然の中にいるものはむしろ、かわいらしくはないかも。
 おじいさんが亡くなった後、ルーシーのところにすぐ行くのかなと思ったら、そうじゃなくて、星の王子さまみたいに、いろいろな種類の人間と出会って旅をする。そこが私はおもしろかったです。いつルーシーに会えるんだろうと、やきもきしながら読みました。ルーシーはロブさんに会いたいとずっと思っているけど、ロブさんのほうは妖精だから、なんとなくそっちの方には向かうけど、べつに会いたいわけでもない。そこもおもしろいと思いました。結局ロブさんは、ルーシーのもとへ行くのではなく、市民農園の、目の見えないアフリカ系のコーネリアスさんのところに落ち着く。えっ、ルーシーには会えないで終わるのかな、と思うと、最後の最後でうまく会えるように持って行く。その流れもうまいと思いました。私は子どもが読んでもおもしろいと思いましたが、妖精が両義的でとらえがたい存在だということを知らない日本の子どもには、わかりにくいでしょうか?

レン:タイトルはネタばれですね。

アカシア:だけど、会えると思わせておいて最後の最後になるまで会えないから、これでいいんじゃないかな?

アンヌ:ロブさんが歩き出すのは、ロブさんの本能と同時に、自分を求めるルーシーの声を聞いたからだと思えます。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年9月の記録)


あまねく神竜住まう国

『あまねく神竜住まう国』表紙
『あまねく神竜住まう国』
荻原規子/著
徳間書店
2015.02

アンヌ:この本を読んで、自分はなんて、頼朝について知らないのだろうと思いました。『風神秘抄』(徳間書店)の続きなのだと知り、そちらも読んでみました。ストーリーとしては、伊東で捕虜生活を送る少年頼朝が、土地神の人身御供になる運命を逃れて、鎌倉幕府を作る青年となっていく、というもので、明るさのある終わり方や、途中で村娘や白拍子に化けて、舞台で鼓を打つ羽目になるところなど、ユーモアのある冒険談はとてもおもしろく読めました。けれども、肝心のファンタジーの仕組みの部分が、もう一つ釈然としませんでした。2匹の龍と、2匹の蛇というこの物語の根底にあるファンタジー要素がうまくかみ合っていない気がします。もう少し、龍の踊りの意味を頼朝自身が言葉にして語ってくれたら、読者もわかりやすいのじゃないでしょうか? 蛇との闘いについても、万寿姫が変化した方と闘うのは、本当は草十郎の仕事なんじゃないか、いいのか頼朝?と、思ってしまったので。『梁塵秘抄』の選び方は、わかりやすくて、うまいと思いました。こういう物語の中で、読者が、少し古典の詩歌に触れて、調べたり、心の片隅に歌が残っていったりするというのは、いいなと思います。

ルパン:古典ファンタジーって、食わず嫌いで今まで読んだことがありませんでしたが、楽しく読めました。ただ、あとがきに行き着くまで、独立した話だと思っていました。終わり方が唐突で、あれ?と思ったのですが、前作を読んだ人にはわかるのでしょうか。単発の話として読むと、なぜ頼朝が主人公なのか、よくわかりませんでした。頼朝って、ダーティなイメージのはずですし。

アンヌ:『風神秘抄』では、頼朝は早々に草十郎とはぐれてしまって、物語の中に出てきませんでした。同じ登場人物が出てくるわりに、こちらの物語では『風神秘抄』の烏の王国のようなファンタジー要素や、はっきりした展開のおもしろさがありませんでした。曖昧模糊とした頼朝の意識のせいでしょうか。

レジーナ:いとうひろしさんの表紙画は、物語の雰囲気によく合っていますね。上下に2本延びた赤い線も、大蛇を表しているようで、センスを感じます。荻原さんは、伊豆という土地や、そこにまつわる歴史をよく調べた上で、矛盾なく丁寧に書いていらっしゃいます。ただ全体的にぼんやりした印象です。闇の中で竜と対峙する場面は物語の中で重要な部分ですが、少し盛り上がりに欠けます。自分のせいで周りの人が不幸になると思っている頼朝は、ぼんやりした性格で、あまり印象的な主人公ではありませんでした。

レン:つくりとして、袖にも「続き」とは書いていませんよね。読者には、わざと言わないようにしているんですね。途中までしか読んでこられませんでしたが、いつもながら端正な文章に魅せられました。

アカシア:作家ってどの方もそうなのかもしれませんけど、書けば書くほど文章がどんどんうまくなっていく気がします。私はじつは、他の人から「期待してたけどイマイチだった」と聞いていたので、逆に期待せずに読みました。なので、とてもおもしろかった。歴史上の人物って、教科書に出てくるだけだと無味乾燥でつまらないんですね。だから、こんなふうに生き生き書いてもらうと、イメージがいろいろ湧いてきていいなって思うんです。義経のほうはいろいろな形で物語になってみんながよく知っているけど、それに比べて頼朝は人間としてつまらないキャラ。それを敢えて取り上げ、しかも資料があまりない伊豆に流されていた頃を、想像力をふくらませながら書いてます。冒頭に登場する頼朝は、肉体的にも精神的にもとてもひ弱ですが、最後には自分を客観視し、意志をはっきりもち、死んだ姉の万寿姫の化身である大蛇とも対峙できるようになっていく。そういう意味ではおもしろい成長物語になっていると思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年9月の記録)


大江戸妖怪かわら版1、2〜異界から落ち来る者あり

『大江戸妖怪かわら版1、2〜異界から落ち来る者あり』
香月日輪/著
講談社
2011

アンヌ:1巻ではこの世界の仕組みが破たんしていて、2巻でそれを補っているので、余力のある方は、2巻を読んでくださいと提案しました。私自身は、おもしろくて7巻まで読んでしまいました。主人公のかわら版屋の雀という少年が、この不思議な世界のおもしろさや美しさを言葉で描いて見せるという物語で、この作者特有の食べ物についての場面も多数あり、主人公が夢中になって食事をとり、活き活きと生きていく糧とするところなど、好感を持って読みました。ただ、主人公の年齢設定が気になりました。15歳で、現実世界ではそれなりのワルだったという設定。それにしては、幼すぎる気がしました。それなのに、江戸時代からこの異界に落ちてきた人間の女の子の場面では、あまり勉強もしてこなかったような現代人の雀が、江戸時代の商家のお店事情を知っている。その他の登場人物も、外来語や現代語を何の疑問もなく理解している。少しご都合主義的だと思いました。雀が、妖怪や魔人等の異形の者に出会った時の恐怖も、2巻にならないと書かれていないので、読者にとっては1巻だけでは、この世界を想像しにくいと思います。

レジーナ:私の勤め先の中学校の生徒にもよく読まれています。若い読者がさっと読むのにはおもしろいのかもしれませんが、台詞が多いエンタメで、児童文学として読むと、何度もひっかかりました。15歳の雀が妙に幼く、お小枝の言葉づかいも不自然です。6歳の子どもが「ありがとう、桜丸。嬉しい!」と言ったり、鰻を食べて「うん、ふかふか! お口でとろけそう」なんて言ったりするでしょうか。口から紙を出すキュー太をはじめ、登場人物はマンガっぽいですね。百雷がゲームのキャラのようだと、雀が言う場面がありますが、まさにその通りで、たとえば雪坊主という登場人物についても、詳しい説明がないのでイメージできない。カフェがあり、魔人や化け鳥がいる江戸という場所についても、はっきりと心に描けない。虹のような蜃気楼も、よくわからなかった。百雷が地虫を捕まえる場面で、百雷が追っていた事件は、結局何だったのでしょうか? 江戸ならではの言葉遊びがあり、子どもが読んでわかるのだろうかと思っていたら、巻末に用語解説がありました。私が読んだのは講談社文庫の初版ですが、2巻の用語解説も1巻と同じになっています。

レン:今月の課題の本でなかったら手にとらなかったと思います。この手の本は慣れていなくて。「ふーん、こんなふうに書くのか」と珍しがって読みましたが、どう判断したらよいのかわからない感じでした。中学生は、こういうのだと手にとる気になるのかなあ。文体として、台詞が多いですね。台詞で物語が進んでいくところがマンガみたいでした。地の文は必要最小限で、マンガの絵で表されている部分を文字化しているような感じ。長音の使い方など、文字づかいも漫画的。体現どめが多くて、案外漢字が多いですね。最初は、江戸時代の話かなと思っていたら、読んでいるうちに違う世界の話だとわかって、変だと思うところもあるけど、この手のエンタメはこういうものかと思って読みました。先日ある編集者が「1000冊読むと、子どもの本が分かる」と先輩に言われたという話を聞きましたが、もっと幅広く読まないといけないと思いました。翻訳の講座で、関西出身の人に、「絵本を標準語で訳すのに違和感がある」と言われたことがあるけれど、この作者は和歌山の方。関西人なのに江戸の言葉で書くというのは、本当にこの世界が好きなんだなと思いました。自分の世界があるというのはいいことですね。

アンヌ:江戸言葉は、落語や時代劇、歌舞伎などで、音として残っているから、作りやすかったと思います。

アカシア:ひと昔前はテレビでも時代劇をしょっちゅうやっていたから、この作者の年代だとそういうものを見ていて、なじみがあったのかもしれませんね。それに今、エンタメ界は江戸ブームなので、結構読み慣れているのかもしれません。

ルパン:『妖怪アパート』を読んだことがあるのですが、そのときは児童文学とは思いませんでした。この作品も、エンタメとしてはよくできていると思います。挿絵がないけど、情景が浮かんでくるし。なにか、台本っぽい感じもしますね。短く、ポンポンせりふが進んで、テンポがいいと思いました。スピーディーで、畳み掛けるようで、江戸っ子っぽさが出ています。もったいなかったのは、6歳の子らしくないせりふとか。まあ、エンタメだと思って、リアリティは気にしなかったんですけど。子どもらしくなくて、作者の顔がかいま見えちゃうところが残念でした。

アカシア:雀は、幼いかと思うと老成している部分もあって、キャラとしてちょっと不安定ですね。

ルパン:「子どもは〜」と言っているのは誰なんだろう、とか…ところどころ違和感がありましたね。でも、「妖怪の目から見たら人間が異端」という着想はおもしろいと思いました。

アカシア:いろんな妖怪が登場しますけど、百鬼夜行絵巻とか鳥山石燕の妖怪の絵とか、小松和彦監修の『日本怪異妖怪大事典』(東京堂出版)なんか見ると、もっとおもしろいのがいっぱいありますよね。妖怪ならではのおもしろさのディテールがもっと伝わってくるといいのにな、って思いました。そういう意味では物足りなかった。それから、2巻目では1巻目より前の雀の過去が語られて、それから1巻目が終わった後になるわけですが、どこが境目なのかよくわかりませんでした。また、雀の過去がいったいどういうものなのか、あんまりよくわからない。だから後書きで「雀の成長」って言われても、とってつけたような感じがしました。それと、この作品では雀は現代の人間世界から江戸時代の妖怪世界に移動し、小さい女の子は江戸時代の人間世界から江戸時代の妖怪世界に移動してますけど、この物語の中のきまりごとってどうなってるんでしょうね。もっと後の巻を読むとわかるんでしょうか? 日本語としても「相撲をとったり甲羅干しをしている」(p40)など、気になるところがありました。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年9月の記録)


どろぼうのどろぼん

『どろぼうのどろぼん』
斉藤倫/著 牡丹靖佳/挿絵
福音館書店
2014.09

アンヌ:詩的な表現に満ちていて、すごいなあと思いながら読みました。盗みの場面で、どろぽんが口ずさむ歌が好きです。読み終った後、この感じに似ているのは何だろうと思っていたら、ふと、別役実の戯曲を初めて読んだ時のことを思い出しました。どろぽんの歌の原点に祖父が歌った歌があるんじゃないかという謎ときのような場面とか、生き物の声も、ものの声も聞こえる矛盾とか、後半にはいくつか、いらないと言えばいらない場面もありますが、あまり気にせず、好きな個所を読み返して楽しみました。

ひら:p204に「何をうばっても盗んでもイイ、良いこともないし、悪いこともない」とありますが、主人公のどろぼんの仕事は、全ての価値を相対化したうえで、世の中に善悪はないし、(たとえ相手にとって価値があるモノでも)それ自体本当に価値があるか分からないから、奪ってなくしてあげてもいい、という前提で存在する仕事。ただ、自分の人生ではじめて「よぞら」という絶対的な価値が出来たことで「世界が主(つまり神)のいない森だとしたら、じぶんであるじになるように生きるしかない」と、考えるようになる。つまり自分自身が自分の神として世界に対して意味づけし、価値体系を構築しなければならない立場になってしまう。今まで自分の価値体系を持っていなかったからこそ、そのために色々な人の価値体系の中からいらないモノの声を聴くことが出来たどろぼんにとって、「どろぼんはうまれてはじめて『いきる』とは恐ろしいと思った」と思うに至った(ここでの『いきる』というのは意味づけされた価値体系の中で生きる、という意味)。同項に「ひたすら道に迷いながら、いろいろなことをかんがえた」とも書いてあるが、よぞらという絶対的な価値に初めて出会うことで「迷い」が出てきているのがうまく表現されています。迷いというのはある価値体系から自分でそれぞれの価値に意味づけして、優先順位をつけて選択して行く際の心理的な難しさを表す言葉だと思いますが、そもそもどろぼんにとっては、あらゆる事象がすべて相対化されたまったく同価値だったので、「迷う」という行為そのものが存在しなかった。だからこそ、他の人の様々な価値を俯瞰的に見ることができ、相手にとっていらないモノの声がいつも向こうから聞こえてきた。ただ、自分で意味づけした「よぞら」という絶対的な価値を「どろばんは探し続けた。だって探すしかなかったからだ」という状況になってしまった。つまりどろぼんは相対的な価値だけでは世の中を生きていくことが出来ない、と初めて感じてしまった(あるいはそのような生き方に出会ってしまった)、それは児童文学として考えると、読者である子どもが自分の価値観、価値体系を模索しながら探していくプロセスにとてもうまく呼応しながら表現しているように思います(ちなみに「黒い犬」はエジプト神話ではアヌビスと呼ばれ死を導く神の使いの人型の犬で、黒い犬を探すプロセスはある意味、今までのどろぼんが死んで、新しい自分を探す、死と再生のプロセス=子供の成長も象徴しているように感じます)。また、どろぼんは価値を相対化することで、本当はその人にとって価値のないものを取り除くのが仕事なので、p4「いつも何かの中間にいるべきだし、どっちつかずでだれにもおぼえられないようになっている」という外見や、219ページの「みんなだれかの子供で、だれかのこどもじゃないひとなんで一人もいない、ということに驚いてしまう」プロフィールは、普通の人としてのアイデンティティーを持たないキャラクターとしてうまく書かれていると思います。逆に言えば、もしどろぼんがだれかの子供であれば、その生まれた背景のためになんらかの価値観を引き継ぐことになってしまうため、物語の整合性から言えば、どろぼんには例え拾ってくれたとしても両親は生きていてはいけないと思いますが、拾ってくれたお母さんが、どろぼんがいらないモノの声が聞こえてきた時から「声が出なくなった」こと、つまり声や言葉(=合理的な価値体系の象徴)を奪われる生贄となったことで、うまく物語のバランスを取っています。この続編はないと思うけど、この続きがあるとしたら、最終的にどろぼんはよぞらともう一人の女性パートナーを見つけることで、自分自身の絶対的な価値(と全体性)を手に入れ、モノの声は聞こえなくなって、そしてお母さんの声も戻って来るはず。どろぼんはその人が本質的に気にしなくてもいい、気にしない方が幸せな価値(それはある人にとってはお金、出世、結婚等かもしれない)を取り除いてくれる(あるいは軽くしてくれる)一種のカウンセラーのようなキャラクター。深く詩的で、好きな物語です。

レン:最初読んだとき、不思議な話だなと思いました。どろぼんがどうなるのか気になって、どんどん読めてしまうフィクションの力を感じますが、登場人物は大人ばかり。児童文学としてどうなんだろうと、みなさんの意見を聞いてみたくて今回の課題に選びました。どろぼんが「拾われた子」であることは、大事な要素だと思います。なぜ、親がわからないという設定にしないといけなかったのか。親子の関係を、所有から解き放ちたかったのか。「モノを持つこと」と、「モノを持つことから生まれる束縛」「大切にすること、されること」などを、考えさせられる物語だと思いました。

レジーナ:物語に雰囲気があり、装丁の美しい本ですね。以前『おうさまのおひっこし』(牡丹靖佳 福音館書店)を読んでから、気になっていた画家の方が挿絵を手がけています。とぼけた挿絵が、作品の雰囲気にぴったりです。物語の最後で、警察が泥棒を救おうとするところにおかしみがあります。ファンタジーの要素を入れながら、家族をテーマにしているのは、近年の柏葉幸子さんの作品を思わせます。公園もそうですが、「ただ存在すること」の意味を考えさせる本です。ものに魂が宿るというのは、日本に古くからある考え方ですが、この作品では、ものが人の心と結びつき、時に縛ってしまうのをどろぼんが解放してあげます。ところどころ気になる点はありました。ヨゾラを殴る場面で、混乱して思わず殴ってしまったのでしょうが、ここでどろぼんが殴る必然性や、そのときの気持ちが理解できませんでした。その後、228ページに「それは、ただしいとか、ただしくないとかじゃない。ただ、だれでもみんなまちがうし、その小さな無数のまちがいがあつまって、世界はできているというだけ」とありますが、人や生き物の関係では、決してしてはいけないことがあって、ヨゾラを殴るのも、してはいけないことだったのではないでしょうか。キジマくんのペンケースを見つけたどろぼんは、自分に聞こえるものの声は、「持ちぬしが、あったことさえおばえてもいないもの。なくなっても気づきもしないもの。そして、持ちぬしのところから、消えてしまいたい、と、願っているもの」と気づきます。忘れられたものと、なくなった方がいいものは違うので、分けた方がいいのではないでしょうか。またフリーマーケットで、がらくたのようなものがなぜ売れるのでしょう。44ページに「あわてて、キジマくんに向きなおった瞬間に、ゴミ箱が、立てかけてあったグラウンド整備のトンボに当たって、がーん、と鳴り、とおりかかった一年生の女の子たちが、わっといって、たおれた」とあります。よく読めば、倒れたのはゴミ箱だとわかるのですが、はじめは女の子が倒れたのかと思いました。「ころして」と、ものの声が聞こえる場面はこわいですね。

夏子:物の声が聞こえて、しかし生き物の声が聞こえるようになると、物の声が聞こえなくなるという設定は、すごくおもしろかった。「ヨゾラを盗む」など詩的イメージも豊かで、歌もなかなかおもしろかったです。でもどろぼんは、実の親ではないとはいえ、ギャンブラー夫妻に愛されて育ったんですよね? それなのに人間の声が聞こえず、人間とはコミュニケーションがないわけで、う〜ん、人と対応しないところが、いかにも現代の日本の作品らしいのかな。でも、そこに問題を感じます。嫌いな本ではないし、魅力のある作品ではあるんですけど・・・。あさみさんの話し方が「〜ですわ」というのは、古くさいですよね。それから勾留された場所では、もっとさまざまな声が聞こえるはずでは? ヨゾラを愛すると、ものの声が聞こえなくなって、そうなると普通のどろぼうになってしまうんですね。

マリンゴ:独創的ですばらしいと感じました。ファンタジーだけど、宙にふわふわ浮いていない、不思議なリアリティがあると思いました。ただラスト、新しい価値観をもって未来に踏み出す物語だと思っていたので、「まだ泥棒を続けるのかい!」とツッコミを入れたくはなりました。

ルパン:すみません、私はおもしろくなかったです。そういうことを言う私がおもしろくない人間なのかな。「人もものを盗るのはいけません」って思っちゃって。持ち主がいらないモノなら盗んでもいい、というのが、どうしても受け入れられないんですよね。犬の「よぞら」に愛情を感じるようになって、連れ戻そうとするのはいいんだけど、「よばれていくのではなく、自分の意志で」と言いながら、盗んだ指輪を売ったお金で買い取ろうとするわけですよね。それって、ぜんぜん正攻法じゃないです。そもそも、盗品を売って生計を立てるというのはいかがなものかと。

夏子:工場で働いていますよ。

ハリネズミ:どろぼうが仕事なのでは? 私は、「どろぼん どろぼん どろろろろ〜〜」というこの呪文みたいなものをおもしろいと思えるかどうかで、この本は評価が違ってくるだろう、と思いました。私はダサイな、と思ってしまったので、作品そのものにも乗れませんでした。なのでよけいにいろいろなところにひっかかったんだと思いますが、まず浅見さんの台詞が「〜ますわ」なんて、いつの時代なんでしょう? 44ページの最初の3行については、倒れたのはゴミ箱なんでしょうけど、女の子たちが倒れたようにも取れるので、なんでこの文が必要なの、と思いました。それから、モリサワのリュックを盗んだ件はそのままでいいのか、とか、いじめられているキジマ君が昔のことを思い出して、いじめっ子のモリサワに謝るんだけど、そういう解決の仕方でいいのか、なんていうところも引っかかりました。犬のよぞらが前の虐待した飼い主に「ふさふさ、ふさふさ。いっしょうけんめい」尻尾を振ったんだけど、実は犬が尻尾を振るのは不安な時や恐ろしいときも尻尾を振るということがわかって、どろぼんが取り返しにいくという場面も、なんだかリアリティが希薄だなあと思いました。犬は全身で感情を表現するから尻尾以外からも見てとれることはあるはずなのに。最後も、生きものの声が聞こえるようになってきたどろぼんなのに、「遠いまちに引っ越して、どろぼうをがんばってみようとおもいます」なんていう終わり方でいいんでしょうか? とにかく疑問がいっぱいわいてくる本でした。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年7月の記録)


庭師の娘

『庭師の娘』
ジークリート・ラウベ/著 若松宣子/訳
岩波書店
2013.07

夏子:この作品は、作中に登場するメスメル博士に興味を持っていたので、ぜひ読みたいと思って選びました。メスメル博士は、英語のmesmerize(催眠術をかける、魅了するという意味)の語源となった人物です。1768年にウィーンで10歳上の裕福な女性と結婚。お金持ちになったので、モーツアルトを初めとする芸術家たちのパトロンとなりました。「動物磁気」という概念と治療で知られていた医者です。今で言うと、「気」で直すという感じで、手かざしで治療したのね。当時の学会で否定されてしまったため、彼の晩年については何もわからないんです。ちょっと怪しい人物ではあるのですが、非常に興味深いですよね。作品のなかでどんな風に料理されるのか期待して読んだんですが、おもしろくも何ともない人物像に描かれていますね。メスメル博士も凡庸だし、せっかく登場するモーツァルト少年も、いきいきと迫ってこない。脇役に魅力がありません。主人公も、この子がなぜ庭師になりたいのか、という肝心なところにリアリティがありません。幾何学的なフランス式の庭園から、(自然な感じがする)イギリス式庭園へと流れが変わる、それを主人公は先取りするわけなので、この子はモーツアルトに匹敵する天才なんだわね。そこがうまく描かれているとはいえず、残念ながら力のある作品とは思えなかった。翻訳もちょっと硬い感じでした。

レジーナ:「主人公がなぜ、庭を好きなのかが描かれていない」というお話がありましたが、マリーは造園に関して、天才的な素質を持った少女なので、私はその点は気になりませんでした。マリーは夢見がちで、庭のことでいつも頭がいっぱいです。この物語では、マリーとモーツァルトという、ふたりの天才の姿が捉えられています。それぞれ豊かな才能を与えられていますが、周囲の環境は必ずしも、それを発揮できる場ではありません。モーツァルトは、周りの大人に実力を疑われたり、妬まれたりします。一方マリーは、父親が庭師ですが、女性のマリーは仕事を自由に選べません。ヤーコプとの恋はうまくいきすぎる気がしました。この時代、マリーが庭の仕事をするには、結婚するしかないので、仕方ないのかもしれませんが……。庭の描写は、「こんな庭を見てみたい」と読者に思わせるように、もっといきいきと描いてほしかったです。マリーが造ろうとしているのは、イギリス式庭園です。この時代、啓蒙主義という新しい考え方が入ってきて、博士のような先進的な人物を通じて、人々に広まっていく。人や社会の考え方が変わり、新しい時代になっていく。それが、このイギリス式庭園に象徴されています。ジャガイモやトマトがヨーロッパにもたらされ、食卓に上るようになるところや、ウィーンの町の描写も興味深く感じました。原書の表紙にはピンクと紫の花が描かれ、ポップな印象ですが、日本語版の装画には味わいがあり、より作品の雰囲気に合っています。

レン:ちょっと読みにくかったです。冒頭で、修道院で看護の仕事をするのではなく、庭師になりたいというのはわかりましたが、その後、造園に打ち込む描写は少なくて。修道院で薬草の世話をさせてもれえることになったとき、私はよかったなと思ってしまったんですね。そしたら、そうじゃなかった。火をたいて花を守る場面はおもしろかったけれど、結局好きな人と結ばれてハッピーエンドかって。後書きを読んではじめて、職業や結婚相手を選ぶのにも自由のない時代だから意味のあることだったのだとわかりましたが、ただお話を読んだだけだと、それが伝わらないかな。それに、人物のイメージがつかみにくい気がしました。せりふから、こういう人かと読んでいたら、次のせりふでは印象が違って。特にブルジがそうで、どういう立ち位置の人かがつかめず、落ち着きませんでした。

ひら:「好きなこと(仕事)をあきらめなくていいんだよ、そのうちうまくいくからさ」という物語で、教訓的なトーンが強くリアリティがなくて感情的に入り込めなかった。逆に言えば、よくある「主人公が、環境的なハンデを克服しようと努力し、成功した」というハッピーエンドストーリーでもないんですね。作者もあとがきで書いているように、「親の言う相手と結婚して、女性として決められた仕事をするのが普通(つまり倫理的)だった時代」において、「当時としては異端の価値観をがんばって持ち続けた」ということがテーマなんでしょうね(ある意味それだけではあるが・・・)。また「好きな仕事をする」という当時としては異端の価値観が、なぜ児童文学として成り立っているかというと、現代では一般的に流布していて、安心して親や教師が子供に伝えられる価値観だからでしょう。例えば同じ手法を転用すれば、人種差別について「昔は皮膚の色で仕事や結婚も決まっていたんだけど、そんな時でも、皮膚の色でなくその人の能力や性格で物事を色々と判断した人がいたんだよ」という美談を若干の事実も踏まえて50年後に児童文学として書くこともできる。文学と倫理の関係で考えると、例えば同性愛は今の時点で倫理的に広く受け入れられている価値観ですが、まだ児童文学としてはこなれていない価値観ですよね(逆に純文学が扱うテーマとしては少し弱すぎるかも。例えば「自殺」を「尊厳死」として肯定する価値観は十分に異端なので純文学として切り立つ可能性があるのでは)。

ゴルトムント:ドイツ語の作品ですが、筆者のアイデンティティは、オーストリア人でウィーンの人。推測ですが、モーツァルトは、本人の実態に近く描かれているのでは。天才ですからね。息をするようにメロディーが出てくる。楽譜に書くのが追いつかない。

レン:モーツァルトは12歳というわりに幼く感じました。私は、なぜモーツァルトを登場させないといけなかったのか疑問でした。時代性を伝えられますが、あれだけの天才のモーツァルトがひきあいに出されると、マリーのことも「結局、ものをいうのは才能」と読めてしまい、そうなると、平凡な読者は親しみを持ちにくいなと。

ゴルトムント:小説というのは描写が命。だけど今は、描写が細かいと読者はなかなかついていけないでしょう。例えば植物の具体的な名前がいっぱい出てくるけど、知らないと読者は飽きてしまいます。マリア・テレジア、モーツァルト、実在の人物をやはりうまく配しています。オペラのコシファントゥッテに博士が出てくるそうで、もう一度聴き直さなくては。主人公の女の子は、時代に負けずに自分の人生を歩もう、というテーマでしょうね。

アンヌ:何か、とても不器用な感じのする物語でした。前半の修道院生活に対する嫌悪感にはとてもリアリティがあるのですが、ウィーンの街の様子、モーツァルトの使い方、メスメル博士の言葉の中に現れる啓蒙思想やブルーストッキングなどの新思想などが、なんだか取ってつけたようで、それぞれについては、描いているけれど、物語の中で活きていない感がずっと最後までしました。ヤーコブとの恋も、一昔前の少女小説じみていて、もう一つ効果を発していない気がします。マリーの心の中が、夢みがちな少女という設定なので、はっきり描かれていないからなのかもしれません。マリーは、庭をスケッチし縮尺を使って設計図を描くことができたり、霜を防ぐ方法を考え出したりすることができる女の子には、到底見えません。もっと自然そのものへの愛着を示す場面などがあれば、いきなり彼女がイギリス式庭園を作り上げられるだけの考えを持っていることに納得がいくのにと思いました。何もかもメスメル博士が言い換えて説明し直して話が進んでいくという感じで、マリーの中にもうまく入り込めないまま、どんどん物語が展開していきました。メスメル博士は、もっと魔法使いのような人間に描かれてもおもしろい人なのに、市民階級のパトロンという役割ではもったいない気がしました。なんだか物語を回していく役割だけなのが残念でした。せっかくモーツアルトが登場するのに、マリーはモーツアルトへの反感を抱くばかりなのも奇妙な感じがしました。もっと、活き活きとお互いの人格を感じ合える場面があればよかったのにと、思いました。

ルパン:可もなく不可もなく、という印象をもってしまいました。メスメル博士は、皆さんのお話を聞いていると、どうやら本物のほうがおもしろそうですね。描かれた人物がみんな平坦で…。いちばん期待してしまったのはプレッツェル売りです。でも、「この人、何者!?」って思わせておいて、結局何者でもなかった。

アンヌ:このあたりから、モーツアルトがもっと活躍してくれるのかと思ったのですが、そうではなくて、がっかりしました。

ルパン:気になったのはP194のところです。寒いから火をたいて植物を温める、っていう発想は、「へえ」って思いましたが、火を燃やしたまま、草花を見守るでもなく、主人公もほかのみんなも家に入っちゃうんですよね。火事になるんじゃないかと心配しちゃいました。しかも、あとで見に行くのはマリーでなく、ほかの人。これでは庭園への愛も感じられず、クライマックスという気もしないまま終わってしまいました。それに、伯爵夫人の依頼はどうなったんでしょうね。結婚によって修道院に入らなくて済んだ、という結末は、マリーの夢とうまくリンクしていなくて、ひどくちぐはぐな印象でした。父親も、マリーの才能を認めているのかいないのかはっきりしないし。

ゴルトムント:父親は、女は庭師になどしないという古い価値観の持ち主。啓蒙専制君主のマリア・テレジア。ウィーンのシェーンブルン宮殿はベルサイユそっくりに作っているわけで、18世紀にはフランス的なものに高い価値を置いた時代だったのでしょう。その当時の空気をベースに書いているんですね。

ルパン:「その当時の空気」がきちんと描けてないから、よけいわかりにくいですよね。でも、本質的な問題は、そこではなくて、ストーリー展開にあるのだと思います。主人公に魅力があって、物語がおもしろければ、多少歴史的背景がわかりづらくても、子どもは気にしないですから。ファンタジーやSFみたいに、ありえないような設定であっても楽しめるものはたくさんあるわけだし。

夏子:庭というと、『秘密の花園』のイメージが強烈よね。『秘密の花園』では、主人公のメアリーの内面と庭が強く結びついているでしょ? ところがこの本では、読み進んでも、主人公と庭とがうまく結びついてこない。主人公の自立心や個性が感じられないために、魅力がないのだと思う。現代の読者が読むのだから、当時の時代背景は今とは違うとはいえ、読者が主人公に共感できるところがないと、読めないなぁ。

マリンゴ:何かがうまくいかないと日常で悩んでいる子どもが読めば、もっと“ままならない”時代もあったのだと感じ、自分も頑張ろうと思えるかも。ただ個人的には、マリーが天才すぎることに共感できませんでした。天才だからマリーは救済されたのか、そうでなければ修道院行きだったのか、とイマイチ感が残ります。ごく特例を描いた物語のような気がしています。

ハリネズミ:原題は、Marie mit dem Kopf voller Blumenですから、頭の中が花でいっぱいになっているマリー、というような意味だと思いますが、マリーの花に対する愛が、そんなに描かれていないし、しょっちゅう花のことばかり考えていました、という描写がもっともっと出てきてもいいんじゃないかと思いました。現状では、介護よりはガーデニングが好きだと思っているうちに、自分の努力ではなく運がよくて「足長おじさん」のような人が現れて憧れの仕事につけた、というふうに思えてしまいます。メスメル博士も癖があっておもしろそうな人物なのに、この作品では単なる好々爺になっていますね。ひらさんが児童文学はその時代の倫理観に左右されるとおっしゃっていましたが、私はあまりそうは思っていません。それよりも、どんな世界になったらいいかと考えて書いているのが児童文学なのではないでしょうか。

ひら:「米国人を殺すのは正しい」という価値観は現代では異端ですが、戦時では流布するべき価値観として成り立っていて、児童文学として成立できたと思います。逆に現代の日本において「米国人を殺すのは正しい」という価値観の児童文学を書く(売る)のは難しいのではないでしょうか。

ハリネズミ:戦時中は多くの児童文学作家も、お上の政策に協力してしまいましたね。ただ児童文学なるものが目指すものがあるとすれば、それは「お上に迎合して売れればいい」というのではなく、もっと本質的なものなんじゃないかと思いますが。

ひら:児童文学の主な消費者は親や図書館であり、ユーザーが子どもであるケースが多いと思っています。その際、例外はもちろんありますが、基本的に親や公共機関は保守的な価値観(言い換えればラジカルでない価値観)を再生産する本を購入、勧めることが多いと思います。

ハリネズミ:今の価値観を肯定してそれにのっとって書く人もいますが、一つの理想の姿を意識したうえで書く作家もいますよね。現状肯定してしまうと、未来には向かいませんからね。

レン:児童文学は、さまざまな考えの間の揺らぎも伝えているのでは?

夏子:児童文学は、既成の価値観を無力化するためにあるのでは?

(「子どもの本で言いたい放題」2015年7月の記録)


ブロード街の12日間

『ブロード街の12日間』
デボラ・ホプキンソン/著 千葉茂樹/訳
あすなろ書房
2014

ゴルトムント:歴史ものです。実在の人物や出来事をうまく取り入れています。コレラを研究した先生の実話が元になったとあとがきにもありました。もちろん主な登場人物は創作されたわけで、基本的にはフィクションですけれども。こういうお話は歴史上の事実をうまく取り入れるのが大事ですね。今日のもう一冊の『庭師の娘』(ジークリート・ラウベ著 若松宣子訳 岩波書店)も。伏線を結構たくさん置いて家族のことや、いろんなことがだんだん分かってくるようになっています。どんなことだろうと気になりながら読み進めました。コレラの原因が空気ではなく水だったこと。博士の研究成果をうまく伝えている本とも言えます。少年に関しては、明るい未来を暗示しつつ終わっています。

ひら:主人公が「小さな大人」として登場している状況から「子ども」として書かれていく描写がおもしろかった。フィリップ・アリエスは『〈子供〉の誕生』(みすず書房)という本の中で、16世紀以前は「子供」という概念(=世の中から庇護される社会的な存在)はなく、「小さな大人」という存在だけだった、と論評しています。その本の中では、かつて人間は7歳ぐらいから小さな大人になり、大人と一緒に労働力として働いていたし、逆に7歳以前はコミュニケーションも取りづらいし、当時は高い確率で死亡したため、大人は将来の労働力を効率的に確保するために、できるだけたくさん子どもを産み、7歳以前の子供は育児コストを下げるために「大きな動物に近い感じで養われていた」と書かれていたように記憶しています。この本の舞台になっているイギリスの世界はちょうど近代市民社会が成立し始める頃で、裕福な市民の家ではいわゆる「子供」という概念が誕生して普及していたと思いますが、まだ社会の底辺には「小さな大人」もたくさんいた時代でしょう。一方で、16世紀からなぜ「子供」という概念が誕生し、子供は大切にしなければならい、という社会通念、倫理観が普及したのか、社会的、経済的な合理性があったからだと思います。つまり自分の子供を「小さな大人」として育てるよりも、産業革命によって職業が高度化し、医療の進歩によって子供が死ぬ可能性が低くなった等から、一人ひとりの子供を丁寧に育て、学習させ、ある一定レベルの職業につけた方が親として(極論すれば人間の個体として)生存確率が上がり、楽ができる。そこから後付で倫理体系が組み立てられたように思います。儒教を広めた孔子やキリスト教を広めたコンスタンティヌスしかり、基本的には治世者の統治しやすさのニーズ、一人ひとりの個体の生き残るためのニーズの後追いの形で倫理感が構成され、経済的、社会的に合理性が高い倫理がその後自然淘汰的に普及していっているのではないでしょうか。主人公は物語の前半で「小さな大人」として非常に大変そうに描写されていますが、その後「子供」として保護されていく状況(倫理観の変遷のような状況)がうまく拾い上げられていて、おもしろく読めました。

レン:去年読んでおもしろかったので選びました。読み返せなかったので、細かいところは忘れてしまったのですが、コレラの謎、イールの家族のことをつきとめていくというミステリーの仕立ての展開でぐいぐい読めました。イールのまわりに、さまざまな大人たちが登場するのも印象的。大人の姿がくっきりと描かれていると思いました。

レジーナ:19世紀のロンドンの暮らしも、「青い恐怖」の謎を追う過程も、おもしろく読みました。イールがスノウ博士の研究を手伝い、助手としての仕事を認められる中で、周囲の大人に心を開いていく様子が、納得できるように描かれています。イールは少し、いい子過ぎる気もしますが…。平澤さんの装画も素敵で、日本の子どもが手に取りやすい本です。以前、ハリネズミさんがおっしゃっていたように、ジョーン・エイキンと比較すると、作品の弱さはあるかもしれませんが、この本はステッピングストーンになるのではないでしょうか。今の中学生を見ていると、エイキンまで読める子がなかなかいません。私は、この本が気に入った子には、エイキンの『ウィロビー・チェースのオオカミ』(こだまともこ訳 冨山房)を勧めています。

夏子:プロットが派手で、ミスエリーを読むような勢いで、先へ先へと読み進むことができました。翻訳も読みやすいと思います。伏線がいろいろあって、ひとつを除くと、後でよく活かされています。うまく活かされていない一つというのは、継父(母親の再婚相手で悪漢)に誘拐されたところ。主人公が最も恐れていた通りの結果となり、絶対絶命の危機を迎えたわけで、いちばんハラハラドキドキする場面ですよね。それなのに友人に救出されると、それだけで終わってしまって、悪漢の継父がその後どうなったのか、言及がまったくありません。最大の敵である継父との関係は、きちんと決着をつけておいてほしかったです。もうひとつクレームを言うと、主人公のイールは高潔で、ひたすら弟を守っていますが、いくらなんでも高潔すぎるのでは? また何もかもがイールの活躍で解決するのでなくて、ひとつの活躍だけで充分ではないかと思いました。そのほうがリアリティがあったのにね。時代やプロットにディケンズ作の『オリバー・ツイスト』の影響が見られますが、時代は『オリバー・ツイスト』の20年後で、ロンドンでコレラが大流行したころですよね。当時のロンドンの雰囲気、不潔さとか匂いが伝わってくると、もっとよかったな。無いものねだりで申しわけないけど。

アンヌ:私にとっては大変読みにくい本でした。まず、第一部で引っかかってしまい、なかなか前に進めませんでした。最初に提出される謎が多すぎるような気がします。ロンドンのテムズ川のどぶ浚いという仕事からして、うまくイメージがわきにくいのに、周りの大人たちや主人公がとても恐れているフィッシュという男の正体も、よくわからないまま話が進んでいきます。ビール醸造所というところもなかなか想像するのが難しいのに、舞台がすぐ近所の仕立屋さんの病人の部屋に移ってしまう。だから、主人公が何のためにお金をためているかという謎ときに行き着くまでに、時代や舞台が頭の中にうまく構成されていきませんでした。ディケンズから類推して何とか想像しましたが、そういう知識なしに、いきなりこの物語でその時代を感じるのは難しい気がします。その後、推理小説のようにコレラと水の関係を解き明かそうとする物語になっていくと、一気にすらすら読むことができました。ただ、フィッシュという悪人は捕まっていないのに、「スノウ博士が偉いから大丈夫」というような博士の家政婦さんの言葉で終わったり、どうみてもひどい引き取り手に思えたベッツィの叔母さんが実はとてもいい人だったりとか、物語を進めるために都合よくしてしまうように感じられる所には、疑問が残りました。

夏子:中流の家庭なんじゃないかな。

ルパン:今日みんなで話す三冊のなかで、私はこれが一番おもしろいと思いました。スピーディな展開でで飽きさせないし。コレラという深刻な問題を扱ってはいるのですが、どちらかというとエンタメっていう感じでした。ただ、いろんな大人がたくさん出てきすぎて覚えられないんですよね。最後、エドワードさんといういい人に引き取られることになり、めでたしめでたしなんですけど、このエドワードさん、最後しか出てこないじゃないですか。名前は出て来るけど、出かけてることになっていて、そのあたりは何ともいえずご都合主義ですよね。そもそも、こんないい人がそばにいたなら、これほど苦労しなくてよかったし。帰りを待っていればよかったわけで。あと、エイベルさんとエドワードさんが、紛らわしくて、どっちがどっちだかわからなくなったりしました。この話のなかでいちばんキャラが立っていたのは、博士の家政婦で、チョイ役のウェザーバーンさんです。

マリンゴ:これが課題図書!と信じられなかったほど、中盤まで過酷なストーリーでした。でも、途中から、現実(歴史)とリンクしていくおもしろさを感じました。ただ、物語のインパクトが強すぎて、これが真実のような気がしてしまうので、現実と架空の人物をブレンドする手法は難しいと改めて思いました。

ハリネズミ:出てすぐに読んで、なかなかよくできた物語だと思いました。庶民の人たちの人間模様がうまく描けているし、コレラをめぐる謎解きもおもしろかった。ディケンズに似ているという方がおいででしたが、私はむしろエイキンだと思いました。ディケンズは今読むと、とても冗長でわきのお話も詳しく書いたりするので、メインストーリーで読ませるエンタメとしてはエイキンに近いかと。気になったのは、著者が作り出した人物は生き生きと描かれていたのに、歴史上の人物のほうは厚みが欠けていた点です。実在の人物なのでウソは書けないため、想像にも限界があったのだと思います。

レジーナ:伝記も書いている作家なので、史実を変えるのには抵抗があったのでは。

夏子:この作家は、ディケンズの伝記も書いているのよね。

レン:イギリスの子どもが読んだら、人物名もぱっと覚えられるんでしょうね。

夏子:この本がすぐれた賞に価するとは思えないなぁ。サトクリフの作品だと、主人公の個性が歴史のなかに生きているでしょ。本当に過去にこういう少年がいたんだろうな、と深く納得させてくれるけれど、この作品はそこまではいっていない。作家はアメリカ人で、ロンドンの街にくわしくなかったのかも。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年7月の記録)


コケシちゃん

『コケシちゃん』
佐藤まどか/作 木村いこ/絵
フレーベル館
2014.11

レジーナ:特に気になるところもなく、さらっと読みました。地域にもよるのかもしれませんが、スイスの学校は、そんなにアジア人の生徒が少ないのでしょうか? 佐藤まどかさんはイタリアにいらした方で、以前、ミラノが舞台の『カフェ・デ・キリコ』(講談社)を読みました。 

ハリネズミ:異文化交流の話ですね。ただし、こけしちゃんはスイスのイタリア語圏の学校に行っていたという設定です。それなのに、ホット・エア・バルーンとか、イエロー・モンキーとか、イタリア語ではなく英語ばかりが出てきます。最後のくるみちゃんの手紙の最後の言葉もなぜか英語。そのあたりにちょっと引っかかりました。こんなふうだと、外国人はみんな英語で話しているという間違った概念を子どもがもつようになるかも。人物造型は、わかりやすいといえばわかりやすいけど、ヨーロッパ文化圏だから個人主義的という典型みたいな図式的な描かれ方ですね。もっと立体的に描いてほしいところだけど、中学年くらいが対象だとこのくらいでよしとしてしまうのでしょうか? 自分の意見が言えないくるみちゃんが、少しずつ変わっていくのはいいな、と思いました。 

ヤマネ:まず、表紙は子どもが好きそうで手にとりそうだと思いました。しかしカバーを取ると、表紙とのギャップに驚きました。中は、お話の中でクラス全員で描いた絵になっているのですが、それならばクラスの子全員描かれていればよいのにと思います。異文化を知る入口としていい本かなと思いましたが、とくに大きな感動があるわけではありません。出井君は、スイスから来た体験入学生の京ちゃんをあれこれいじめるけど、カラっとしていてあまり陰険に感じませんでした。それはなぜかと考えたところ、ひとつは、女同士、男同士のいじめの方が陰湿になりやすいのでは?ということと、いじめられている側の京ちゃんがきちんと言い返せる子で、出井くんの行為に対していじめだと思っていないからだと思います。 

アンヌ:比較的構成がはっきりしていて、すらりと読めたのですが、それだけ、特に思い入れを感じるところがありませんでした。一人一人について見つめなおしていくと、奇妙なところが、いろいろありました。主人公のくるみちゃんは、かなり内向的な性格で、自分も転校生でつらい思いをしたのに、京子ちゃんは、はっきりものが言える強い人間なんだと決めつけて、転校したての時でさえ、親切にしません。いじめっ子の出井くんは、日本では協調性が必要だと、もっともなことを言って、京子ちゃんをいじめ続けます。出井君が、家庭の事情で辛い思いをしているのがわかっていくのですが、だからといって、人をいじめていいわけではなく、出井君のいじめは曖昧なままです。京子ちゃんについては、コケシのストラップを買って、くるみちゃんに気を使う性格と、スイスで後天的に得た論理的な性格とが矛盾するような気がして、このストラップの場面が、すらりと飲み込めない気がしました。唯一、くるみちゃんが指導役になって、絵を描く場面が素敵でした。美術製作を個的な世界としてとらえる京子ちゃんに対して、ちゃんと反論し、共同作業で絵を描き上げるところがおもしろかった。それだけに、船を新聞紙で折って作るとか、廃物利用をするところが、まあ、現実なんでしょうけれど、なんで最後まで完全に美しいものに仕上げなかったのだろうかと残念に思います。 

ルパン:これは、異文化交流の話だと思うと、そんなにおもしろくない本です。掃除当番がない、給食がない、というのは、へえ、そうなんだ、とは思うけれど、それ以上のものではない。そこがポイントなのではなくて、この物語のこけしちゃんは、もっともっと壮絶な人生を体験しているのだ、ということに読者が気づかなくてはならないんだと思います。たとえば、金髪で青い目の本物のヨーロッパ人の子どもが「日本とヨーロッパは違うよ」と言うのであれば、確かに異文化交流の話であり、クラスの子も喜んでそういう話を聞くのだと思う。ところが、日本人以上に日本人っぽい「こけしちゃん」がそういうことを言うことでいじめられてしまう。自分たちと同じ顔をしている人間が、「ヨーロッパは違う」と言ったことで、自分たちの文化が否定された気がしていじめるんです。いっぽう、こけしちゃんは、ヨーロッパでは、地元の文化にはなじんでいるのに、みんなと外見が違うからという理由でいじめられている。ヨーロッパでも日本でもいじめられているんです。ただ、もったいないことに、そのシチュエーションの悲惨さが、この物語ではいまひとつ伝わってこない。これで読書感想文を書かせるのならば、おとなが問題提議をしてあげなければいけない、ちょっとわかりにくい作品だと思います。 

ハリネズミ:ツメのあまいところがあるんでしょうね。 

アンヌ:いじめも、例えば、出井君と原君のようなコンビでいじめるところなど、まるでジャイアンとスネ夫のようで、典型的で紋切り型のような気がします。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年6月の記録)


なんでそんなことするの?

『なんでそんなことするの?』
松田青子/作 ひろせべに/画
福音館書店
2014.03

ひら:絵が綺麗。久々に、こんなに綺麗な本を読みました。文章のディティールの表現がうまい。「人と違ってもいいんだよ(いじめはダメよ)」ということがテーマの本ですが、「心理的に他人と違う」というケースと「社会的に他人と違う」ということがあると思います。心理的な違いの部分で、最もいじめにつながりやすいのは、自分の心の中で抑圧している価値(行動、感情)を、相手が言動として表してしまっているケース。今回のケースでは、この主人公(トキオ)の年齢は、母親に甘えたいという感情を(特に人前では)かなり抑圧している年齢ではないか。それにも関らず、主人公のトキオは、甘えの象徴であるぬいぐるみを学校に持って来ていて、そのためにいじめられている(幼稚園児に人気の「しまじろう」をモチーフにした「トラのぬいぐるみ」を、象徴として使ったのはうまい。また、いじめは集団を維持するために、些細な差異を指摘することによって、集団の同質性を維持するための儀式だと思うので、特に学校のような「逃げ難い集団」では起こりやすいと思う)。一方、物語の後半で、他のクラスメートが「切手集め」や「おし花」を趣味として持っているケースが、「社会的に人と違う」こととして語られるが、上記の心理的な抑圧部分(自分の影=シャドー部分)を持つ場合に比べれば(「違い」の質が違うので)、いじめられる可能性や強度は低いと思います。そのあたりの「「人と違うこと」の差異」への視点がなく、「自分と違うからといって、その人をいじめてはダメよ」という一般的なテーマに物語が収斂していくため、読後感としては、やや教訓的すぎる感じがしました。 

レジーナ:ちょうど、松田さんが訳されたカレン・ラッセルの『狼少女たちの聖ルーシー寮』(河出書房新社)を読んだところです。『なんでそんなことするの?』は、人と違っていい、というメッセージをはっきり打ち出し、いじめられていることを認めたくない気持ちや、ちょっとしたからかいがどれほど人を傷つけるのかが描かれています。主人公がトラのぬいぐるみを持ち歩く理由も、ネコの正体もはっきり明かされず、不思議な世界が広がっています。シュールで、ナンセンスで、現実の枠組みの外にある世界です。教訓的という話がありましたが、あまりそう感じさせないのは、色鮮やかで魅力的な絵に助けられているからでしょうか。 

ハリネズミ:ミケはトキオの潜在意識だと思って読みました。いじめる相手に、トキオ自身は向かっていけないけど、ミケならどんどんやっつけてくれる。ひらさんは、周辺とおっしゃいましたが、私は特にトキオが周辺の存在だとは思わなかった。中心・周辺と関係なくだれにでも起こることなのではないでしょうか。「がまんしないで理不尽なことに対しては抗議すれば、すべてはうまくいく」と教えている本ですね。 

ヤマネ:初めて読んだときに、自分の気持ちを言えない子が言えるようになるのが、すっきりしてとても好きだと思いました。いじめについて書かれている本はたくさんあるけど、いじめられている側が、どうしたらいいか発見して自分の行動を少しだけ変えていって、いじめる人たちに立ち向かっていく、というところがおもしろかった。トキオは、はじめはミケに対して、「なんでそんなことするの?」と言っていたのが、46ページではじめて自分をからかう友だちに向かって「なんでそんなことするの?」と言います。ここに大きな転換点があり、はっとさせられました。タイトルの『なんでそんなことするの?』もここに繋がっているのか、なるほどと思います。ミケの言葉の中で、教訓的なところが繰り返し出てきて、少し言いすぎる感じもしましたが、この部分が作者のもっとも伝えたいところなのでしょう。トキオは、すごく悩んでいるわけではないけど(少なくとも悩んでいることに本人が気づいていない)、学校から帰ってきてモヤモヤしています。それはいい状態ではないですね。いろいろな問題が解決していった後、最後のページで、寝そべってマンガを読んで笑いながらポテチを食べている、これが子どもの平和で幸せな状態なのだと思いました。

アンヌ:最初から、これはホラー小説だと思いながら読みました。奇妙に昭和な感じの家のつくりとか、しんとした台所、部屋の扉の向こうには、ミケという、ぬいぐるみか、猫か、化け物なのか、よくわからないものがいるという設定。しかも、そのミケが学校について来て、ぬいぐるみのトラを持ってくるトキオのことを、変だと言っていじめる子供たちを、食べてしまったり変身させたりしてやっつける。ここら辺がホラーなのだけれど、妙に可愛いものに変身させるところが、絵の魅力とともに、恐怖よりユーモアを感じさせる作りになっています。ミケにやっつけられた子どもたちが、自分の異変に気づいているような、いないような感じも、奇妙でおもしろい。トキオが、「なんでそんなことするの?」とミケに訊き、いじめようとする子どもたちにも、同じ言葉を言うことができて初めて、トキオもみんなも変わっていくという話。もう一つ釈然とはしませんが、自分の気持ちをごまかし続けたトキオ君が、そういう辛さを抜け出せてよかったなと思いました。それにしても、一番怖かったのは、ミケの復讐する場面などではなく、10ページの「ぼく、トキオくんのことを思って言っているんだよ」という、コウキくんの言葉でした。 

ルパン:ちょっとストーリーと関係ないところですが、ひらがなと漢字で、字体が違うのって不思議じゃないですか。内容的には、なんだか中途半端な感じ、というのが正直な感想ですね。おもしろくないわけではないのだけど、絶賛したいほどでもなく。8ページで、「ぬいぐるみ=トラ」というのがよくわかりませんでした。絵がなかったらわからないですね。ミケはほかの人には見えないのは、しばらく読んでいるうちにわかってきました。46ページで、初めて友だちに「なんでそんなことするの?」って言えたとき、言われたレイコちゃんが、「ふしぎなものを見たような顔をする」という場面、ファンタジーのなかにリアリティが垣間見えて、とてもいいと思いました。 

ハリネズミ:文学というより、伝えたいメッセージをだれにでもわかるように書いた作品ですね。絵はとてもおもしろいけど。 

ルパン:これ、対象年齢はどのくらいを想定しているんでしょうね。ルビのふり方も、簡単な字にふってあるかと思うと、初出以降はふってなかったり。小さい子対象なのかな、大きい子なのかな。ちょっとピントがぼやけている気がします。
 
ハリネズミ:もう少し説明的な部分を省いて、文章を短くするともっとおもしろくなるかもしれませんね。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年6月の記録)


ぼくとヨシュと水色の空

『ぼくとヨシュと水色の空』
ジーグリット・ツェーフェルト/作 はたさわゆうこ/訳
徳間書店
2012

アンヌ:心臓病のヤンの気持ちに同化してしまって、文字通り、胸をどきどきさせながら読みました。同時に、ヤンのママの気持ちも、痛いほど感じました。手術の前で、体を大事にしなくてはいけないのがわかっているけれど、大事な本が入っている重い鞄を持って歩いて行く、という冒頭の場面から、引き込まれました。全編を通して、命あることの美しさや温かさを感じる物語です。家族もいい感じに描かれていて、手術に向かって息をつめているというのではなく、ごく普通のドタバタする日常が、うまく描かれています。その中で、いじめで傷ついたヤンに、姉がソファで寄り添う場面などで、家族の温かさが感じられます。また、猫の出産場面とか、川で遊ぶ場面とかで、ヤンが感じている命や世界の輝きが伝わってきます。手術で命が終わる可能性がありながらも、ヤンがそのぎりぎりまで、いきいきと生きているということを感じられる物語で、いわゆる難病ものとは違います。ただ、今回は、あまりにヤンに魅力を感じてしまったので、ヨシュの苦しみや孤独などに、うまく注意が向けられず、早く出てきてくれればいいのに、などと思ってしまいました。 

ヤマネ:この本を今回、課題本に選んだのは、まずタイトルに惹かれたからです。ドイツの原題では、ただ『ヤンとヨシュ』というだけですが、邦題では『ぼくとヨシュと水色の空』となっていて、より気になる、いいタイトルになっていると思いました。表紙も綺麗で惹かれます。お話は、ヤンの病気の重さやヨシュの家庭問題、後半でネズミばあさんが刺される事件が起こるところなど、重い内容が多く出てきますが、ヤンの家庭の温かさや、ヤンとヨシュの気持ちの繋がりや、ネコの場面がうまくお話の中に散りばめられていることで、お話がやわらかくなり温かみが感じられるように思います。ヤンは体は弱いけれど、ものをはっきり言えるところが気持ちいいですね。94ページで、ヨシュに「ぼくは友だちだよ」とはっきり伝える場面や、215ページで、ネズミばあさんにけがをさせたのがヨシュだとみんなに疑われる場面で、ヨシュをかばう場面など、読んでいて気持ちがよかったです。それにしても、ヤンに対するアキとフィルの嫌がらせがひどくて驚きました。中でもナイフを手術の跡に突きつけるところは、本当にひどすぎる。女の子のララゾフィーの存在が気になりました。算数を教えてほしいと言いながら、実はヤンに恋心を抱いているのでしょうね。ヤンは、最後の方では少しララゾフィーのことが気になるようになるけれど、最初はヨシュの方が大事で、男の子らしいなと思いました。ララゾフィーが、最後に大事な役割を果たすところがよかったです。

ハリネズミ:会話からすると主人公は4年生くらいに思えますね。ほほえましいことはほほえましいのですが、182ページに「今はまだ親に話せない」とあって、ずっと大人たちには内緒にしているんですね。ヨシュがネズミばあさんを刺したのではないかと疑われるところは、後半の核になっている部分ですが、大人に知らせないのがなぜなのか、とか、大人を信じない理由などがきちんと描かれてはいないと思います。だから、読者はいらだつかもしれません。ネズミ婆さんとか、ララゾフィーといった脇役が立体的に描かれているのがいいですね。それにしても、表紙のヤンはあんまりやせていない。 

ひら:「「普通」の意味」と「5、6年生特有の、大人になるためのイニシエーション」、「命の質感」がテーマだと感じました。3つを軸に重層的に読めるすばらしい本です。たとえば10ページで、コガネムシの死がいの表現において、命の質感が軽く描かれていて、(主人公のヤン自身の持病のこともあり)物語を通して、ヤン自身が納得できる命の質感を手に入れていく様がいい。またヤンは、肉体的には特殊な心臓の病気を抱え「普通(一般的)でない」が、社会の中心的な価値に対する「周辺(普通ではない)」という意味では、温かで豊かな家庭に育ったヤンは、社会的には「普通」に位置しています。一方、ヤンの親友のヨシュは、お母さんが昼間からビール臭かったり、母子家庭なのに、息子に何も言わずに家出をして、いつ帰ってくるかわからない状況。しかもエレベーターにはトルコ人が乗ってくる貧困エリアのマンションに住んでいるという意味で、社会的に「普通ではない(社会の中心部にいない=周辺に位置している)」。物語の中で、このふたりの「普通でない」が並走していきます。児童文学は、色々な意味で周辺部にいる子供が、主人公になるケースが多く、いくつかのイニシエーションを通して、「普通でないもの」を受け入れていくことが多いけど、この物語では、色々な社会的なセーフティネット(家族の愛情や社会的支援)が普通でないもの(周辺部にある人や事柄)を中心部へ導いていきます。また、普通でないもの同士のコミュニティー(ここではヤンとヨシュ)では、どちらかが中心部に近づくことによって(ここでは、ヤンが、ララゾフィーとデートした瞬間に)、もう片方のヨシュが、シーソーのように、辺境へ離れていく力学が働いています。その意味でこの物語の普通(社会的な中心部)、普通じゃない(周辺部)、のせめぎ合い=出し入れもおもしろい。また、物語の前半部分では、登場人物として、個性を持たない未分化な人物像が出てきます。例えばいじめっ子のアキとフィル、それと呼応するように、2人の姉の個性も見えにくい。一般的に大人になる過程で、悪の中にも正義があるということ(ある事柄には、常に両義性があること)がわかってきますが、未分化な原型としての悪や女性性が、物語の前半に現れ、後半のいじめっ子の四人組(象徴としての悪)がヤンをいじめる場面では、ふたりのいじめっ子(アキとフィル)に加えて、やや友好的な女の子や金髪の子のような、悪の中の個性が描写されるようになります。ふたりの姉も同様で、ジーンズをはくシーンでは、ふたりの肉体的な成長の差が象徴的に語られます。特に秀逸なのは物語の前半で、狂った人間(=最も社会の周辺にいる人間)の象徴として登場しているネズミばあさんに対して、ヤンは、自分と同じ普通でない(と思っている)人間として、親近憎悪を感じていたけれど(無意識的に、より周辺に引き寄せられることに、恐怖を感じている)、物語の後半では、ネズミばあさんに、人としての固有名詞がつけられ、一人の人間として受容されていくプロセスが、とてもうまく書かれていると思います。 

ルパン:すみません、切れ切れに読んだせいか、話の流れがいまひとつしっかりつかめませんでした。手術の前と後で、ヤンが劇的に成長した、ということ? 手術前の緊張感や、無事に成功して終わった後の内面的な変化があまり伝わってこなかった気がします。もう一度読まなければ……。ヤンの年齢については、エレベーターで、「8階のボタンに手が届かない」というシーンが出てくるので、小学校3、4年かな、と思いました。 

ハリネズミ:子どもがひとりでは解決できない問題を抱えている。そういう年齢なんでしょうね。ヤンは、もう何度も手術を受けているので、そうそう悲愴な思いは抱いていないのでは? 

ルパン:ヤンだけでなく、まわりの子までいつのまにか変わっているのが、なんだか理解しづらかったですね。ララゾフィーは自分で算数ができるようになっているし、アキとフィルも手出しをしなくなるみたいなんですが、それもヤンが大手術を乗り越えたことと関係があるのであれば、それがわかるように書いてもらいたい気がします。 

アンヌ:「水色の夢」の章が、よくわかりませんでした。天国や神様のイメージが少しちらつく場面ではありますが、ネズミばあさんが優しく歌を歌ってくれる意味などが捉えきれませんでした。 

ひら:物語中の夢の話は、基本的に、何かを象徴的に表しているように感じます。ネズミばあさんの子守唄は、ヤンにとって、ネズミばあさんが「恐怖」から「受け入れられるもの」への変容を象徴しているのでは。ヤンの中で未解決だった何かが、手術というイニシエーションを通して(あるいは夢を通して)、消化されていく様子がうまく書かれていると思います。 

ルパン:ヤンは幼く見える一方、223ページには、「ヤンはママのそういうところがすきだ」という一文がありますよね。大手術を受けなければならないヤンに、ママが気を回している。回しすぎて失敗したことを反省しているママに、今度はヤンが気を回している。そういう大人びたところもあるので、年齢がつかみにくいんです。ほかの子どもと違う問題を抱えていることで、自然と精神的に早熟になるのかもしれませんが。 

ハリネズミ:ここは、ヤンを病院に連れていく途中で話しているところですね。母親のほうは、ヤンが万一のことを考えて話しているのかと思うわけですが、ヤンの方は母親の勘違いを察してしまう。2人の思いが交錯して、それぞれの心理が読み取れるおもしろいところですね。 

アンヌ:病気の子供は、医者から自分の病気について説明を受け、理解しようとします。ある意味、大人びているところもあると思います。
 
レジーナ:でも、自然の中でのびのび育っているからでしょうか、子どもたちが素朴で、すれていないですよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年6月の記録)


きみは知らないほうがいい

『きみは知らないほうがいい』
岩瀬成子/作 長谷川集平/挿絵
文研出版
2014.10

アンヌ:いじめにあっている人を書く意味は何なのだろうと思いながら読みました。この物語のテーマは、「学校、そんなにえらいのか」に尽きるのかな、なんて思いました。

ルパン:これのテーマは「学校、えらいのか」ではないと思うんですよね。そうではなくて、どうしようもない、どこへも持っていかれない子どものつらさ、悩み、そういったものに寄り添う本だと思うんです。学校に行きたいのに行かれない、しかも暴力にあっているわけでも悪口を言われてばかりいるわけでもない。目に見える被害がないから、自分でも「これはいじめじゃないんだ。わたしはいじめられているわけじゃないんだ」って自分に言い聞かせながら、それでも学校に行こうと思うと具合が悪くなってしまう。おとなにも相談できない。自分でも解決できない。先生がかかわると逆効果になる。そんな八方ふさがりの子どもの状態がリアルに描かれていると思います。私は、この本は、こういう目にあっている子にもあっていない子にも、すべての子どもに手渡せる物語だと思います。だれもが「自分に関係ないこと」とは思わない。ほんの少しであっても、共感できる部分があると思うんです。一瞬たりともこういう思いをしたことがない、という子はいないと思うから。でも、ただ堂々巡りをしているだけではなくて。ホームレスのクニさんに憧れているようなことを言いながら、実はクニさんは社会から解放された自由人なのではなく単に社会から「逃げている」のだということに、主人公たちは気がついています。だから、この子たちは今つらくても、きっと前向きに生きていくんだろう、という希望がもてます。あと、タイトルがいいですね。『きみは知らないほうがいい』。どんなお話なんだろう、と興味をひかれます。

マリンゴ:本当に学校へ行きたくない子どもの心に寄り添う物語だと思います。私のまわりにも、周囲のおとなから見て大きな理由がないのに、登校しない子どもがいます。じゃあ、小さな理由はあるのか? そもそも「大きい理由」「小さい理由」ってだれが決めるのか……。その子自身、登校しない理由をはっきりと言葉にできないのかもしれない。この本は、そういう子が読んで、「私の気持ちをわかってもらえている」と思える物語かも。あと、個人的には、調子が良くて明るい叔父さんのキャラが好き。無責任なようでいて、いい味を出していました。ただ、夜中に来た子どもをちゃんと家に送って行ったほうがいいとは思いますが(笑)。

つばな:岩瀬さんの作品はどれも好きだけれど、これは大傑作だと思います。主人公のふたりだけじゃなく、おばあちゃん、お母さん、ホームレスのクニさん等々、ひとりひとりの人物を実に生き生きと、しっかり描いている。児童文学に限らず文学の価値って、大事なテーマを投げかけているとか、いいこと言っているとかそういうことじゃなくって、人間をしっかり描けているかどうかだと、あらためて思いました。だからこそ、昼間くんが最初に「きみは知らないほうがいい」といった意味が、最後に心にストンと落ちました。

レン:びっくりしました。今日取り上げたなかでは、これがいちばん印象深かったです。私自身何度も転校したりで、義務教育の9年間はずっとアウェー感の中で苦しんだ経験があります。いじめてくるクラスメートに対して、こんなことをして何が楽しいんだろうって思って、なんとか学校に通っていた。「xxちゃんが言ってたよ」ということからいじめが始まる感じがすごくリアルです。携帯電話やメールで、学校外の時間にも陰口が進行している今の子どもの息苦しさも描かれているし。お母さんも絶妙です。見ていなさそうでいて、おいしいものを作ったりしてくれる。味方だよと口にしなくても、孤立しているときにふっと同感だというのを示してくれる柳本さんのような存在って、いじめられている子には大きな救いなんですよね。白黒じゃなくこういうふうに書いているのがすごいです。おじさんとか、周りの大人もそれぞれの顔を持っているし。

レジーナ:問題に正面から向き合い、主人公の気持ちをていねいにすくい取った、力のある作品です。以前、「大人がわかったように書いていないのがいい」と書かれた書評を読みましたが、同感で、簡単に結論を出すのではなく、一貫して子どもの視点で、気持ちの揺れをそのまま描いていて、すばらしい作品だと思いました。ホームレスの人と交流する話では、中沢晶子さんの『ジグソーステーション』(汐文社)を思い出しますが、この本は、主人公の問題に焦点を当てています。学校という閉塞した空間で、みんなから外れてはいけないという圧力は、以前は森絵都さんの作品のように、中学生以上を主人公に描かれてました。でも今は、この本にもあるように、小学生から携帯電話も持ってるし、人間関係が複雑化してて、そうした集団の圧力は、小学校中学年ぐらいから感じるんでしょう。ついにここまで来たか、と思います。日本の子どもが抱えている、こうした問題は、海外の子どもにはピンとこないかもしれませんね。それでも、ぜひ多くの国の子どもに読んでほしい本です。「みんなと仲良く」と学校で言われるかぎり、いじめはなくならないでしょう。大人だって、全員と仲良くなんてできませんよね。苦手な人とも、少し離れれば、同じ集団の中でもやっていけるんだから、学校は、社会で生きていく上で、人との適切な距離の取り方を学ぶ場になればいいんじゃないでしょうか。

レン:小学生は逃げ場がないんですよね。中学生よりもさらに。

イバラ:一貫して子どもの視点で、書いてますよね。いじめの解決策が書かれてるわけじゃないけど、いじめられている子がどう感じているかがリアルに描かれてるし、二人が自分なりの乗り越え方を見つけようとしてるのも伝わってくる。

アンヌ:実際には、どういう子がこういう本を読むんでしょうか?

レン:いじめのあるなしにかかわらず、小学校の教室の生きにくさはだれもが何となく感じてると思うので、だれでも読んだら共感する部分があるのでは?

パピルス:傑作だと思いました。学校の何とも言えない空気感が非常によく伝わってきました。これは自分が日本の学校を経験したから伝わるんでしょうか。翻訳で出たら海外の人は理解できるのでしょうか。昼間君はホームレスのクニさんに近づいて行きますが、その理由は、クニさんは「社会から外れた人」で、昼間君は「小学生としての社会から外れた人」というように感じていたからだと思いました。仲間外れにされていても、それを認めたくないという気持ちもあると思います。でも、昼間君はそのことを認めて、さらにクニさんを通して客観的に自分を考えようとしていたのではないかと思いました。

イバラ:私もとてもおもしろく読みました。ステレオタイプじゃなく、ひとりずつをリアルに描いてるのがいい。心の中の描き方もうまいですね。たとえばp172では「どの言葉にも嘘がまじっている。言葉は、レストランの前に飾ってある本物そっくりの合成樹脂のハンバーグステーキやオニオングラタンや焼きそばみたいだ」というふうに違和感を表現してます。おばあちゃんも立体的に描かれてて、さすがです。

レン:子どもたちを自分のところに引きこんではいけないと思って、離れたのかもしれませんよね。作者が、本当に子どもに向けて書いた本だなと思います。子どもや中高校生が主人公でも、彼らに読ませようというのではなく、著者が自分の思いの丈をぶちまけただけの本もあるけれど、これは今の子に手渡したい本です。これで救われる子はたくさんいると思います。子どもの頃の自分に、読ませてやりたいくらい。

アンヌ:子どもの心に寄り添うリアリティがあるということでしょうか。

イバラ:さまざまな人間を紋切り型やいい加減に描くんじゃなくて、それぞれが生きているそのままを個性的にしかもリアルに描ける作家って、そうはいないと思います。いい加減なものや、それらしいまがいものでは、子どもの心の中までは届かない。自己満足的に寄り添ったつもりのおとなも多いけど、この作家は本物を見せようとしてるんだと思います。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年5月の記録)


わたしの心のなか

『わたしの心のなか』 この地球を生きる子どもたち

シャロン・M・ドレイパー/作 横山和江/訳
鈴木出版
2014.09

アンヌ:冒頭から言葉のイメージが、美しい物語だと思いました。機械で話せるようになるという展開は、今の段階ではSFですが、やがては夢でなくなると思います。現在でも、ホーキング博士のように発声できる機械もあります。ただ、この物語のように、多くの援助や補助金を得て必要な人の手元に届くだけでなく、安価に手軽に届くといいなと思っています。実は最近、自閉症の方の意志疎通のための絵カードを、自閉症の子どもを持つ女性がスマートフォンのアプリとして開発した製品があるということを、ネット上で知りました。その話を友人にしたところ、携帯電話やスマートフォン等の情報端末の活用が障害を持つ子どもたちの生活や学習支援に役立つことを目指した、東大先端研究所の中邑賢龍教授の「魔法のプロジェクト」について話してくれました。スマートフォンと身近なテクノロジーの組み合わせによって、視覚障害のある高校生が音によって金環日食の研究ができたという話に驚嘆し、身近で手軽な製品で子どもたちの世界が広がっていってほしいと思いました。そんな時にこの物語を読んだので、主人公が言葉とコミュニュケーションを獲得していく過程にとても感動しました。ただ、普通のクラスに行ったら、子どもたちに、機械を使うことを不公平だと言われたり、付き添いの大学生の補助職員がいることにもずるいと言われたりする場面が多いのには驚きました。メロディが、最後に、あげると言われたトロフィーの安っぽさに笑うところや、そんなものをもらったから喜んだと勘違いするクラスの子どもたちに、背を向けて出ていく場面は痛快でした。人や音楽に関するメロディ独特の感覚、レモンイエローが溶けたり、パープルが漂ったりする場面はとても美しいと思いました。もしかすると、古代の人や自分が子どものころ持っていた、オーラのように色彩を感じる感覚かもしれないなと思い、ゆったりと広がる色のイメージを楽しみました。

ルパン:いちばん泣いたところは、11年間1度も言葉を発することができなかったメロディが、初めて機械の力を借りて家族に話しかけるところ。第一声が「ありがとう。」そして「愛してる」。ほんとうに感動しました。それから、置き去りにされたあと、学校でみんなにその理由を聞きますよね。あの場面は緊張感にあふれていてよかったです。メロディの誇り高く負けない姿勢が伝わってくるようで。それから、音楽や感情を色で表すところもいいですね。「きれいなうす紫色を感じる」のように。意地悪な子たちがステレオタイプなのがちょっと気になりましたが、その分、愛情深い人たちがクローズアップされているので救いがあってよかったです。『ピーティ』(ベン・マイケルセン 千葉茂樹訳 鈴木出版)は最後まで誰にも理解されない悲しさがありましたが、メロディは言いたいことを伝えられるようになって、読んでいてうれしかったです。

マリンゴ:障碍の種類は違いますが、物語の展開が、現在放送されているドラマ『アルジャーノンに花束を』(ダニエル・キイス 小尾芙佐訳 早川書房)に近いと思いながら読んでいました。『アルジャーノン〜』では、主人公の障碍が“回復”した後で、周囲との関係が悪化していきます。この本も、そういう部分があるので。とはいえ、この本は児童文学だし、ハッピーエンドになるのだと思ってました。なので、後半のとんでもない展開にびっくり。現実は甘くない……でも、主人公が立ち向かう強さを持っていることが伝わってきます。力強い読後感でした。

レン:とてもおもしろかったです。声で表現できなかったのが、言葉を得る過程の心の変化がよく描かれていて。それに、よかったのはまわりの人々の揺れが詳しく描かれていること。両親はこの子を愛しているけど、時々疲れたり、理解できなかったり。ただ愛しているというところだけを描いていない。隣のヴァイオレットや、インクルージョンクラスの補助についた学生の存在はとても示唆的ですし、特別支援学級の先生も人によってさまざま。友だちになったローズの二面性も、私はそうだろうな思いました。前にここで読んだ岡田なおこさんの『なおこになる日』(小学館)を思いだしました。子どもに手渡したいと思いました。

レジーナ:それまで、自分の気持ちを伝える術を持てなかった主人公は、機械の力を借り、自分の声を見つけ、人との関わりの中で成長していきます。メロディの活躍によりクイズ大会で優勝するのかと思いきや、チームメイトから置き去りにされてしまいます。障碍のある主人公の物語の中には、寓話のようなハッピーエンドのものもありますが、この作品はそうではありません。リアリティがあり、一筋縄ではいかない人生の中でやっていく、という主人公の姿勢が明確で、ハッピーエンドではないけれど、結末に救いがあります。とてもおもしろく読みました。

イバラ:私はほかの子がわざと電話しないところに、大きな悪意を感じてしまいました。周囲の目を気にする、というんだけど、そこがよくわからなかった。ほかの子にとっては、これで物語が終わってしまっていいんでしょうか。

つばな:たしかに良い本だし、大勢の読者に読んでもらいたい作品ですけれど、正直いって少々退屈でした。心の中を延々と書いてあるところが長すぎるような感じがしましたし、クイズの問題と答えのところも。アメリカの読者には、おもしろいのかもしれませんが。それから、登場人物の周りの意地悪な子どもたちの描き方も、ちょっとステレオタイプじゃないかな。 私の乏しい経験からいうと、障碍のある友だちに接することで、周囲の子どもたちは確実に変わっていくと思うけれど……。

イバラ:周囲の人が、主人公をどう受け入れてどう変わっていくかは描かれていないんですね。作品の質としてどうなんでしょう? シリアスなテーマを扱う作品は、ただ楽しいだけの作品より質も高くないとなかなか読んでもらえないという現状があるような気がします。

レン:戯画的かもしれないけど、子どもはそういうのを見て、自分ならどうしようと考えるのでは?

イバラ:私は人生の一部を切り取って手渡すという覚悟が作家にも必要だと思うんです。こういう作品って、作家の人生観がもろに反映されるでしょ。

つばな:登場人物を描くのに力を入れたので、そこまで書けなかったのかも。それから、この主人公はとても頭のいい子だけれど、そうじゃない子もいるのになと、ちょっと思いました。

イバラ:乙武さんの本のときにも、みんながこうなれるわけじゃない、という反発はありましたね。

ルパン:メロディを置き去りにして、代わりにほかの子が出たから勝てなかったんですよね。みんなはそれがわかって後悔したんでしょうね。9位のトロフィーなんていらない、と言ったメロディは毅然としていてかっこよかったです。ただ、メロディ抜きでも優勝していたらどうなったんだろう、ということがちょっと気になりますが。

レン:コンクールに関しては、予選大会のときにメロディに注目が集まって、彼女にとってもそれが本意ではないのに、みなとの間がぎくしゃくしてしまう。そこは、そうだろうなと思います。

イバラ:先日『みんな言葉を持っていた〜障害の重い人たちの心の世界』(柴田保之 オクムラ書店)という本を教えてもらったのですが、気持ちを表に出したり伝えたりするのが無理で、思考がないんじゃないかとさえ思われていた重度の障碍の方たちでも、コミュニケーションの方法が見つかれば、気持ちを伝えることができるんだそうです。

レン:『みんなの学校』は大阪市内の大空小学校を1年にわたって撮ったドキュメンタリー映画ですが、あの学校にはいろんな子どもが通ってましたね。私の子どもの小学校にも車いすの子が通ってました。でも、担任の先生がその子だけに手をとられることができないので、お母さんがずっとつきっきりでした。

パピルス:登場人物の設定やストーリーが良い意味でも悪い意味でもシンプルでわかりやすく、さっと読めました。クライマックスで妹が交通事故に遭いますが、あそこは無くても良かった気がします。とってつけたようで、映画化でも狙ってるのかな?と勘ぐってしまいました。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年5月の記録)


クララ先生、さようなら

『クララ先生、さようなら』
ラヘル・ファン・コーイ/作 石川素子/訳 いちかわなつこ/挿絵
徳間書店
2014.09

つばな:とてもおもしろい本で、読んでよかったと思いました。なによりも、おとなも子どももいろんな人が出てきて、それぞれが生きること、死ぬことについての考えを述べているところがいい。知らない人のお葬式に出て、式のあとのコーヒーとケーキをちゃっかりごちそうになるおばあさんとか。こういう人、山本有三の『路傍の石』にも出てきますよね。最初は、涙なしでは読めない悲しい物語なのかなと、ちょっと警戒したんですが、どんどんおもしろくなりました。クララ先生にお棺を届けにいった子どもたちが、坂道で遊んでしまうところなんて、「ああ、子どもって!」と思ったり、「本当は、行きたくないから、先延ばしにしているのかも」と思ったり……。私がとてもいいなと思った箇所の一つです。それから、それこそ片足を棺桶に突っこんだようなおじいちゃんが、棺桶を作ることでまた生き返る。ひとりの死が、ひとりを生きかえらせるというところも、深い味わいのある作品だなと思いました。

マリンゴ:実は、クララ先生のパートナーであるマインダートさんに一番感情移入しました。亡くなる前の数時間を独占したい、という気持ちがとてもわかります。子どもが来てクララが喜んだ、という満足感と、自分が最後に言いたいことを言えなかった、という残念な気持ち、その二つを一生抱えていくんじゃないかと、物語が終わった先まで想像しました。わたしが今おとなだから、そう感じたわけで、小学生の頃に読んでいたら、まったく違う感想になっていたと思います。そういう意味でも、読みごたえのある作品でした。

ルパン:ずっと「死を前にした人にお棺をプレゼントしていいのか!?」と思いながら読み進め、最後の最後で泣きました。ご主人のマインダートさんの「きみの旅のためのものだよ」というせりふにすべて収斂された気がします。「たったひとつの人生」ということはよく言われますけど、「たったひとつの死」ということばはあまり聞かれないですよね。死は誰にでもやってくるけど、ひとりひとりにそれぞれの死があることを思い出させてくれる不思議な魅力の物語だと思います。ただ、すばらしいんだけど、子どもに手渡すのには勇気がいりますね。何歳くらいの子が対象なのでしょうか。どこまで理解できるだろうかと思うと安易に手渡すのがこわい気もします。私のなかではまだ結論が出ていません。

アンヌ:西原理恵子さんのテレビ番組(NHKBS「旅のチカラ」)で、ガーナで、とても派手で色々な形の棺桶を作るところを見たことがあるので、国によってはいろいろな棺桶があるのだろうと思っていましたが、オランダではまっ黒なのですね。主人公は自分が夢で黒い棺桶が嫌だと思ったのに、先生がそう言ったと思い込んで棺桶を作るという展開に、もう一つ納得がいかないところがありました。普通の人が棺桶をプレゼントするなんてと怒るのは理解できるし、作る楽しさやおじいさんのたくらみとかはおもしろかったのですが、納得できないところが後を引いて、わくわく読めませんでした。

イバラ:子どもが担任の先生の死をどうとらえて、それをどう乗り越えていくかを描いています。現実を子どもにも隠さず見せるという文化なんですね。日本の作家は棺桶をプレゼントするとは書けない。こういう作品は、違う価値観や世界観を日本の子どもに紹介するという意味があると思います。子どもが先生を大好きだったことも伝わってきます。主人公ユリウスのお母さんについても、単なる事なかれ主義ではなく、死から子どもを遠ざけようとする理由が書かれています。そういう意味で、キャラクターも平板じゃなくて立体的。いい作品だと思いました。

パピルス:おもしろく読みました。先生が「死」と向き合う中での言葉がジーンと響きました。でも、お母さんが子どもを亡くした気持ちに共感できず、途中話についていけませんでした。挿絵自体は良かったのですが、一面ところどころにすべて挿絵のページがあり、余計かなと思いました。

イバラ:私はこの本の挿絵はすばらしいと思います。シリアスな重い内容を、温かなやさしい挿絵がうまく中和している。

パピルス:先生が自分の病気を「モンスター」と表現してますけど、小学4年生くらいの子には病名を言ってもいいんじゃないかな?

レジーナ:クララ先生は、「奇跡が起きるなら、自分ではなく、病気の子どもに起きてほしい」と言い、子どもたちは水着になって授業を受けます。こんな先生だったら好かれるだろうな、と読者は思うし、子どもたちが先生のことをどれほど大切に思っているかが、しっかりと描かれています。だから棺桶をプレゼントするという突飛なアイディアも、読み手が納得できる形に収まってるんでしょう。子どもたちを見守るおじいちゃんも、存在感がありますね。あえてカモではなく、ハトにパンくずをやる場面をはじめ、偏屈だけど人間味あふれる人柄が伝わってきます。エレナは思いこみが激しく、人任せで、もう少し魅力的だったら良かったのですが……。思い出のつまったリンゴケーキを、ひとりで食べたくないと思うマインダートさんに、胸がいっぱいになりました。人の死という厳粛な場に生まれる、独特のおかしみが描かれた場面もあって。たとえば、死者がリスに生まれ変わったと信じて、葬儀でヤシの実を墓穴に入れるなんて、ユーモアがありますよね。作者はオランダ生まれですが、オランダは世界で初めて安楽死が法律で認められた国です。死を描いたユニークな本も早くから書かれていて、ドイツもその影響を受け、ヴォルフ・エァルブルッフの『死神さんとアヒルさん』(三浦美紀子訳 草土文化)のような作品も生まれました。先日、ニューヨークで行われた、児童書の翻訳に関するパネルセッションの記事を読んだんですけど、この絵本は、米国で出版された当初は戸惑う人が多くいたものの、結果的に大きな成功を収めたそうです。死については、おとなも子どもと同じくらい知らないので、この作品のように、子どもが受け止める力を過小評価せず、子どもと一緒に考えていくような本がさらに増えればいいですね。

レン:とても興味深く読みました。日本だとなかなか書かれない作品だろうとまず思いました。暗いこと、ネガティブなことは避けられがちだから。でも、生があるところには死があります。うちの子どもが通っていた中学校でも、3年間の間に二人の先生ががんで亡くなりました。お通夜に行くだけでも年頃の子どもたちは考えるところがあるけど、こういうお話を通して死について考えるのは大事ですね。この作品では、おじいちゃんがおもしろいですね。だんだん元気になってきて。

つばな:子どもは死から遠いところにいると、ついつい思ってしまいますけれど、子どもも大人と同じように死や、つらい現実に直面しているんじゃないかしら。長谷川集平さんだったかな、子どもと大人は同じ現実に立ち向かっている同志だといっていましたが、そういう姿勢をこの作品にも感じました。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年5月の記録)


はじまりのとき

『はじまりのとき』 この地球を生きる子どもたち

タィン=ハ・ライ/著 代田亜香子/訳
鈴木出版
2014.06

きゃべつ:こんな重い内容の本とは思いませんでした。ほかの国で起きた戦争の伝えかたとして、こういう方法があるのかと興味深く読みました。基本的には、女の子の視点で身近なことだけを書いているので、読んでいると、その環境に身をひたした気持ちになります。食べ物や学校生活もきちんと描かれているし。細かいことですが、マージンの取り方が気になりました。横書きでもいいけど、やっぱり少し読みにくい。内容は新鮮でした。英語がわからないので馬鹿だと思われるというところとか、マイノリティーとして異文化に入りこんだときのギャップがうまく描かれていますね。ただ、文化を知らないために、読み解くことができないところも多かった。

ハリネズミ:散文詩ですべて説明されているわけではないので、わからないところもありますが、難民としてやって来た人が自分の言葉で語っているのがいいと思います。アメリカっていろんな立場の人がいて、ALA(アメリカ図書館協会)はマイノリティの人たちの文学もちゃんと認めて賞をあげて、普及させようとしているのがいいですね。白人でもいろいろな人がいて、ミセス・ワシントンや「カウボーイ」のようなまるごと善意の人もいれば、「カウボーイ」の妻のように途中までは白い眼で見ている人もいる。それも、ちゃんと書かれています。ただアメリカで出ている作品は、アメリカを悪く書かないですね。ベトナム戦争では、アメリカは枯れ葉剤をまいたり市民を大量に殺す北爆をしたりと、さんざんひどいことをしているし、南ベトナムのゴ・ジンジェムの政権は腐敗していてどうしようもなかったわけだけど、この本ではホー・チミンが悪者になっている。南ベトナムから逃げてきた難民の子どもの視点だから、どうしてもそうなるのかもしれませんね。

きゃべつ:助けてくれるのは、アメリカの船ですからね。

ハリネズミ:主人公の父親は、その腐敗政権で要職にあった人なんですよね。

ヤマネ:すずき出版の「海外児童文学」シリーズは、海外の子どもたちの姿を描いた重いテーマの内容が多いのですが、この本はまず表紙が美しくて、重い印象がありませんでした。ただやはり内容は、戦火のベトナムを逃れて難民としてアメリカにわたった家族のお話なので重いんですけど、横書きの日記風になっているので、それほど重く感じないで読めました。マララさんの手記(『マララ 教育のために立ち上がり、世界を変えた少女』道傳愛子訳 岩崎書店)でも感じましたが、ひとりの女の子として考えていることや悩みや喜びは変わらないということが伝わり、遠く離れた場所にいる主人公を身近に感じられるように思いました。またたとえば、自分の悲しい気持ち(涙)を、パパイヤの種が落ちる様子で表現しているところなど、文章が詩的で美しいですね。近年、こうした横書きの本が増えているように感じます。メールも横書きだから、今の子どもたちは横書きの方が読みやすいところがあるんでしょうか。

きゃべつ:ケータイ小説は横書きだったけど。

アンヌ:最初は、横書きのブログのような日記という感覚でスラスラ読めると思っていたのですが、ふとこれは詩なのではと気づいて、じっくり読み込んで、その美しさを味わって行きました。ベトナムについては、同じサイゴン陥落時を描いた『サイゴンから来た妻と娘』(近藤紘一著 文藝春秋社)しか知らなかったのですが、その中でベトナム人の特性として植物との強い親近性が描かれていて、印象に残っていました。この本にも植物の種が贈り物として描かれている場面があって、ああ、やはりと思いました。アラバマでのいじめの場面は、読んでいてつらく感じました。それと、この子が熟れていパパイヤを捨てた場面には驚きました。

ハリネズミ:私は、このパパイヤは象徴的な意味あいも持っていると思います。故郷を恋しがるようにその味を夢見ていたのに、もらったのが本物の味とはほど遠い乾燥パパイヤだとしたら、捨てる気持ちはよくわかります。でも、くれた人の善意を否定しているわけではないので、あとで拾おうとするんですよね。

アンヌ:主人公はかなり感性が研ぎすまれた少女で、勝ち気です。食べ物への感じ方も違うんでしょう。少年にいじめられると分かっていても、自分がわかっている答えを書いてしまうところとか、自分への矜持を持った少女だと思いました。3人の子どもたちをエンジニアと医者と詩人と護士にしたがっているお母さんは娘が弁護士に向いているなと思っているのに、詩人になるだろうなという予感で終わっていく章が、とてもいい感じでした。

ルパン:私もいいなと思って読みました。横書きだったので、手に取りづらい感じがしましたが、読み始めたら一気に読んでしまいました。難民の子どもである主人公が、プライドを忘れないところが気に入りました。物質文明のアメリカに来て、素直に喜べばいいところでも、食べ慣れていたものと違う、と思う箇所や、お祈りの場面や、ベトナムのものを大事にしていて、それを自分の感覚として持っているところに、好感が持てました。

レジーナ:3年前に全米図書賞をとった時、英語の試し読みで数ページ読んだことがあり、今回一冊通して日本語で読みました。詩は、実感として受け止められないと理解するのが難しいですが、この本は散文詩の形で自然に書かれていて、すらすら読めました。横書きなのが気になりましたが、日記だと思えばいいのかもしれません。アメリカで生のパパイヤが食べられないのは、この本の時代が数十年前で、輸送事情が今とは違うからですね。主人公は、ベトナムにいた時に隣の席の子をいじめたり、アメリカに来て悔しい思いをしながらも、いじめっ子に立ち向かっていったりする少女です。芯が強く、勝気なんですね。この本では、本人の努力と家族の理解があり、また息子をベトナム人に殺されても、主人公の家族に温かく接するミスェスゥ・ワシィントン、お金をもらってはいるけれど、お金だけのためだけではなく細々と世話をやいてくれるカウボーイなど、周囲に支えてくれる人がいて、主人公はアメリカの社会に溶け込み、作家として成功できましたが、これは非常に幸運なケースです。実際にはヨーロッパでも、言葉でつまずいた移民の人が学校をドロップアウトし、仕事に就けず、貧困の中でISに行ってしまう。一方でそういう人々がたくさんいることを、心に留めながら読みました。p166で、自転車のバーに座るというのは、自転車のハンドルとサドルの間ということでしょうか。

レン:おもしろかったけれど、散文でたたみかけるように事実を説明することがないので詳しいことがわかりません。子どもが読んで、なんのことかわかるのかなと思いました。右も左もわからない場所に放りこまれて、言葉ができないために馬鹿な子と思われたり、習慣の違いからからかわれたりする悔しさなど、イメージは伝わってきますが。かなり読者を選ぶ本だと思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年4月の記録)


ラ・プッツン・エル〜6階の引きこもり姫

『ラ・プッツン・エル〜6階の引きこもり姫』
名木田恵子/著
講談社
2013.11

レン:自分からは手にとりそうにない本だったので、今回読めてよかったです。ただ、この子自身が否定しているからでしょうけれど、いきなり状況だけ語られて、主人公にしてもレオくんにしても、家族との関係性が見えてこず、入っていけませんでした。事実の積み重ねより、だれかの説明で理由が語られてしまうことが多くて、はぐらかされた気分になって。現実感に乏しい感じがしましたが、登場人物と同年代の読者は主人公によりそって読めるのか疑問に思いました。私が苦手なだけかもしれませんが。

レジーナ: 主人公は、おとぎ話の主人公になりきり、自分の世界に閉じこもってしまう中二病です。きっと現実もそうなのでしょうが、主人公の暴力性の原因は、はっきりとはわかりません。自分でもどうしていいかわからない、モヤモヤとした中学生の気持ちを表そうとした作品ですが、火事の場面はご都合主義ですし、ほかにも矛盾を感じる箇所が多くありました。「自分の耳に聞こえるものだけを信じる」と言いながら、音楽プレイヤーを破壊していますが、音楽も「耳に聞こえるもの」ではないですか? 音楽を含め、現実逃避になるようなものは排除するということでしょうか。リモコンも壊していますが、主電源を入れれば、テレビは使えますよね? 母親が作ったお惣菜の味に、ずっと気づかないのも不自然です。心に問題を抱えた人の中には、自分のストーリーを作り上げる人もいますが、この作品も、人の心の中の、道理や理屈の通じない世界に分け入っていくようで、読むのに体力を使いました。p198に「よろめいたとたん、隣の601号室の窓を破ったのかその振動で、棚が倒れてきた。」とありますが、何が窓を破ったのでしょうか? 人がよろけた衝撃で、窓が破れるわけはないですし。もう少し、文章を練ってほしかったです。

きゃべつ:この本は、私が関わった賞の最終選考にも残りました。この本の閉塞感は、中高生読者にとってリアルなのではないかと思います。世界から疎外感を覚えて、自分だけが違う(特別な)存在と思いこんでしまうところなどが。でも、魔王が実際に何をしたのか、どうしてこうなったのか、もう少し説明が必要なのでは? p15に、妻は実の母親だと書いてあるけれど、その後で、弟を「妻の息子」と書いているので、後妻なのかと疑ってしまいました。リーダビリティはあるけれど、瑕疵もまた多い作品だと思います。最後のシーンで、レオが消防服を着て助けにいくのは、すごく不自然。そして、あれほどまでに家族を憎んでいた姫が、母親がずっと自分を気遣ってくれていたことに気づいた瞬間に、悔い改めるなんて単純、と思ってしまいました。

レン:グリムのラプンツェルのお話が、最初にもう少し説明されているといいですよね。

ルパン:こういう魔王みたいなタイプの変な人って、実際いるんですよね。そういう人が家族を持つとどうなるか……身近な実例と重ねて読んでしまいました。娘に「魔王」と呼ばれるこの父親が、一番、キャラが立っている気がします。

アンヌ:お父さんから、かなりの虐待を受けていると感じました。内側から、窓もドアも空けられない仕組みはひどいと思いました。お母さんが、鍵を架け替えたのに、ドアが開けられるようにしておかなかったのは、不自然な気がします。

ハリネズミ:お父さんは遠いアメリカにいるのに、お母さんは助けてあげないんですよね。

アンヌ:お母さんが作った料理だということに気づかなかったのは、最初のうちは寝てばかりで、あまり食べていなかったり、興奮状態でいたりしたからだろうと思ってあまり矛盾を感じませんでした。これに対して、少年が、他人に対して自分を開いて行く過程が、もう一つ釈然とはしませんでした。特に、火事現場では、運動もしていない体力のなさそうな少年が、棚をどけたり、姫を抱き上げたりするのは、あまりにリアリティがなさすぎると思いました。例えば、いつも隠していた左手で抱き上げるのはいいけれど、同時にその左手で姫とハイタッチするというのは、いくらなんでも無理だろうと思います。駐車場の少年をいじめる同級生に6階のお風呂場から水をかける場面も、いったいどんなホースなら水が届くのだろうと不思議に思いました。

レン:なぜホースが家にあるのかも不思議。

ヤマネ:名木田恵子さんといえば、講談社青い鳥文庫で出ている『天使のはしご』や『星のかけら』などが、小学校高学年の子どもたちによく読まれていて人気の作家という印象がありました。ただ『星のかけら』のあらすじを読むと、事件の連続でストーリーが激しい印象があったので、こちらの作品はどうなのかな?と思い読み始めたんでっす。思っていたよりもずっとおもしろく読めました。皆さんの指摘にもあるように破綻しているところもありますが、エンタメと思えばそれほど気になりません。おとぎ話のラプンツェルをモチーフにしていることもあり、主人公が登場人物を「魔王」「魔王の妻」「カラス男爵」など物語に出てくるような呼び名で呼んでいたところもおもしろかった。p20で、主人公が心理カウンセラーの肥満椙世さんに「告白していないことがある」とあり、それが何なのかずっと気になって読んだのですが、結局最後まで分からなかった。主人公がひきこもった決定的な原因があるのだろうと思っていたんですが、最後までそれが分からないままだったのが残念です。母親が、閉じられたマンションの部屋に、双眼鏡やお気に入りのティーカップを置いていったのは、娘に対する愛情ではないかと思いました。客観的におもしろく読む子もいるだろうし、何かを抱えている子にとっては、共感する部分があったり、何か救いになる部分があるのでは?と感じました。

アンヌ:全体に話がするするとほどけていかない感触でした。

ハリネズミ:私は、潔癖症の男の子にはリアリティを感じたんですけど、姫のほうは、どうなんだろうと疑問でした。父親が暴力をふるっていたためにこの子がおかしくなってしまったという設定だと思いますが、この子の独白には異常なところはほとんどないんですね。だから、父親が不在になった今は、すぐに立ち直れるんじゃないかと思ったんです。それに、長いホースでジャクを助けたり、自分でつくったロープでカラス男爵たちとも服やタオルを渡したり返してもらったりして、それなりのコミュニケーションを取れるようになってるわけですから、かなり立ち直ってるのに、メールができないという設定も不自然に思えます。
 実のお母さんが食べ物を持ってきたりしているのに、相変わらず窓もあかない、ドアも内側からあかないままなのも、不自然に感じました。それと、ホームレスのカラス男爵が姫からいい服をもらって単純に感謝しているように書いているのは、作者の人生観・世界観が浅いせいかな、と思いました。最後も安っぽいメロドラマみたいで、いただけない。作者には困難を抱えている子に寄りそおうという意図はあるのでしょうが、こんな物語では、救われないと思います。外側から猫なで声で何か言われている薄気味悪ささえ感じてしまいました。

花子:作品全体のパワーを感じました。ゲームのようなシチュエーションから始まって、ぐいぐい引き込まれます。中二病の気持ちで読んでいくと、おもしろいです。他人との関わり方もゲームみたい。だけど、お金持ちで何でも与えられ何でも可能なのが、非現実すぎて気に入りませんでした。作品の賛否はありますが、実際似たような状況で少女が友達を殺してしまう事件もありました。レオくんの成長譚も良いと思いましたが、火事は必要だったのか疑問が残ります

ハリネズミ:父親のDVについては、ノルウェーの絵本も翻訳されていますね。『パパと怒り鬼』(グロー・ダーレ文 スヴァイン・ニーフース絵 大島かおり・青木順子共訳 ひさかたチャイルド)という絵本ですが、ほかの家族が父親に脅える気持ちがよく出ています。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年4月の記録)


アラスカの小さな家族〜バラードクリークのボー

『アラスカの小さな家族〜バラードクリークのボー』
カークパトリック・ヒル/著 田中奈津子/訳 レウィン・ファム/挿絵
講談社
2015.01

レジーナ:昨年スコット・オデール賞をとった時から、興味があった本です。エスキモーや鉱夫という、文化的背景の異なる多様な人々との交流が、幼い少女の目を通していきいきと描かれています。さびれた金鉱の町での、心の浮き立つような日々の喜びが伝わってきました。温かな挿絵は文章によく合っていて、とても魅力的です。読者になるのは、小学校中学年から高学年の子どもでしょうか。主人公が幼いので、年長の子どもは共感しづらいかもしれません。大人が読み聞かせてあげれば、年少の子どもも楽しんで聞けると思うので、手渡す側に工夫が必要だと思いました。気温が上がると雪が降ることや、エスキモーの人が足を伸ばして座る様子など、知らないことも多くありました。以前、調べたところ、作者はアラスカ出身で、多くの本の中で、アラスカが誤って捉えられていることに不満をおぼえ、創作を始めたそうです。そう考えると、日本語版のタイトルにはアラスカという地名が入っているのが、いいですね。アービッドとジャックは同性愛者ではないかと考える読者もいたようですが、作者にそうした考えはなかったようです。ジャックの口調で「おいら」となっているのが、気になりました。ひと昔前のテレビや映画の字幕は、黒人の口調が白人に比べると荒っぽく訳されることがありましたが……。p250で、ウナクセラクがナクチルークの夫だと分かりますが、ウナクセラクの名前は、もっと前の箇所にも出てきているので、この説明がもっと早くにあれば、わかりやすいのではないでしょうか。p215で、「冬にぬれた服を着るほど最悪なことはないと、ボーはジャックとアービッドに教わっていました」とありますが、ジャックとアービッドから聞いて、ボーはちゃんと知っていたということなので、もう少しわかりやすい表現の方がいいように思いました。p31で、赤ん坊のボーが「顔の片っぽでにこっとした」とありますが、どのように笑ったのでしょう。それから、p253の「この人がだれかっていうのを調べるのが、こんなにたいへんだとは思わなかったよ」で、「この子」ではなく「この人」となっているので、これは父親について言っているのでしょうか?

アンヌ:この人というのは、男の子のお父さんのことじゃないですか?

ルパン:「よしきた」っていうくらい好きな作品です。最近使われなくなった「エスキモー」という言葉が出てくるのも、なつかしい気もちで読みました。小さいときに、そういう人たちがいるんだと思った、と思いをはせた言葉です。童心に帰って読みました。うちの文庫の子たちも、5、6年生なら読むと思います。地域の人たちがみんなでボーをのびのび育てているところがたまらなくいいですね。ラストシーン、みんなが別れてそれぞれに旅立つシーンでは、感情移入しすぎて、泣きたくなるほど寂しく思いました。

アンヌ:物語の中に食べ物が出てくるのが好きなので、このエスキモーのアイスクリームについて、早速ネットで調べたりしました。でも、物語の中でこの食べ物についての説明はあるのですが、実際に作ったり食べたりする場面はないので、注があってもいいのではと思いました。アメリア・イアハートの写真や初めて飛行機がやってきたとあるので、日本では昭和初期に当たる時期だな、と大人にはわかってくるのですが、子供の読者のためには、やはり注があってもいいと思いました。エピソードが盛りだくさんで、各章は濃いけれど、物語性において、何か物足りない気もしました。特に最後は、とてもあっさりと移住の話になるので。ここは、第2巻に続く期待を持たせる感じなのでしょうか。弟になる少年が喋らないのは、お父さんの耳が聞こえなかったからだけではなく、先住民だからその沈黙で民族性を表しているのかなと思いました。登場人物が大勢いるので、エスキモーの名前なのか、鉱夫の名前なのか、よくわからなくなって、混乱しました。

きゃべつ:いちばんかわいそうなのは、犬のドッグ。そのまますぎて。

ヤマネ:じっくり味わいながら読める作品でしたが、いまいちお話の世界に没頭できず、夢中では読めませんでした。見返しのあらすじのところに、ポーにちょっと変わった方法で弟ができるとあったので、それはいつ出てくるのだろうと思ったらかなり後ろの方でしたね。でもその弟になる小さな男の子が出てくるところから、先が気になってぐっとおもしろくなっていきました。アービッドとジャックがとてもいい大人で、愛情深くボーを育てている様子が良いですね。ボーがお母さんを恋しがる場面が全くないのが不思議だと思いましたが、地域全体で育てているから、寂しさを感じないのでしょうか。全体としてほのぼの温かい雰囲気に包まれていて、ボーがクマに襲われるところも、あまりハラハラせずに読めました。そうそう悪いことは起こらないだろうと思わせるような幸福感に包まれたお話なんですね。

ハリネズミ:私はとてもおもしろく読みました。テイストは、ローラ・インガルス・ワイルダーですね。でも、こっちはお父さんが二人。しかも一人のお父さんはノルウェーからやって来た人で裁縫がじょうず、もう一人のお父さんはアフリカ系で料理がじょうずというのがいいですね。それだけでなく、村には多様な背景や文化をもつ人たちが一緒に暮らしていて、助け合っている。生みの母に捨てられて二人のお父さんに引き取られたボーのことも、エスキモーをはじめとするみんなが助けてくれるんですよね。そのあたりはインガルス・ワイルダーと違って、新しい家族が描かれているし、先住民への尊敬もあっていいですね。私は暮らしをていねいに描いたこういう作品は大好きですが、若い人のなかには、ヤマネさんのように、事件が起こらないからつまらないという感想をもつ人がいるのもわかります。気になったのは、ボーが5歳なのに5歳とは思えない言葉遣いをあちこちでしていたりするところ。p48などは、もしおしゃまだから言っているのであれば、もう少し訳し方に工夫があればいいな、と思いました。絵がその風土ならではのことを伝えながら日本の子どもにもじゅうぶん受け入れられるので、とてもすてきです。書名はちょっと地味で、手にとってもらえるかな?

花子:(編集担当者):1920年代の話ですが、新しい地域社会、家族像が描かれていると思います。二人の父さんたちが娼婦の生み捨てた子どもを拾い、社会全体で育てています。国も言葉も違う人たちが、物のない時代に、円滑なコミュニケーションを取り社会を形成しているんですね。原書は子どもの書いたような短い文が続く厚い本だったので、挿絵を小さくしたり、改行を工夫したりしたものの、はやりボリュームが大きくなってしまいました。長いので対象を5、6年生以上としたんですけど、主人公は5歳で、現地のエスキモーと鉱夫の間で通訳のようなことをやったり、ラブソングも分からないなりに理解したところで話したりしています。小さな子にも読んでほしい本ですね。「エスキモー」という表記については、2巻目に著者が注釈を入れているので、それを本書に使用させてもらいました。自らを「エスキモー」と呼ぶ人たちがいる、とのことなので。文中のできごとはリアリティがあり、地名もバラードクリーク以外は、実在します。少し変わった感じの、温かいストーリーだと思います。

ルパン:読み終わったときには、ぴったりくるタイトルだと思いましたが、子どもは手にとりづらいかもしれませんね…。

きゃべつ:日本のいまの児童書にはない、ゆったりとした時間が流れています。もしかしたら、日本の児童書は、なにか盛り上がりがなければならないと、物語に起伏を求めすぎなのかも知れません。オラフの家に行く、というとても小さなできごとに、3章も使ってます。大人が読んだら、まどろっこしいところもあるかもしれませんが、子どものときの世界観って、これくらいの大きさだったよなあと懐かしくもなります。鉱山が閉まって、みんなが失業するシーンも、あまり暗くならないよう引き算されていて、好印象でした。名前の出し方は、翻訳物でなじみにくい名前ばかりが出てきて、登場人物も少なくない、というときには難しいですね。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年4月の記録)


シャイローがきた夏

フィリス・レイノルズ・ネイラー著 さくまゆみこ訳 『シャイローがきた夏』
『シャイローがきた夏』
フィリス・レイノルズ・ネイラー/著 さくまゆみこ/訳 岡本順/挿絵
あすなろ書房
2014

レジーナ:主人公が、犬を飼いたいとどれほど強く思っていて、シャイローのことをどれほど大切に思っているか。シャイローと心を通じ合わせていく過程が丁寧に描かれているので、最後にやっと犬らしくほえて喜びを表す場面が、胸につまりました。主人公の首筋に妹が顔をくっつけ、まつ毛をパチパチさせるのを「バタフライ・キス」と表現していますが、素敵な言葉ですね。岡田さんの挿絵は、温かでな物語の雰囲気によく合っていますね。いかにも西洋といった雰囲気に描かれていないので、日本の子どもも親しみやすいのではないでしょうか。

ハイジ:隠して飼うというのは、大変だけど、楽しかったのでは。ジャドが約束を守ってくれるかわからないのに、マーティがちゃんと働くところが、尊敬できました。

ルパン:私もそう思いました。最後に、ジャドも根はいい人だとわかって、読後感がとてもよかったです。

レン:ちょっと前に読んだので、細かいところを忘れてしまったのですが、いいなと思ったのは、男の子の気持ちに添って読めたところ。それと、大人の姿がくっきり描かれていること。ジャドも、両親も。大人の世界がきちんと描かれているのが、翻訳もののいいところですね。そして、日本の親子だったら、なかなかしないような会話が出てきます。英語圏だと、こういう会話を日常的にだれもがするのかはわからないけれど、自分の意見をきちんと言い表しています。いい意味で新しい世界を見せてくれると思います。

アンヌ:最初に読んだ時から、ラストのジャドの言葉にひかれました。善悪を決め付けるのではなく、曖昧さを許しているところが、意外でした。何度も読むうちに、もう、ジャドの気持ちになって読んでしまいました。普段は犬以外に誰もいない生活の中で、毎日主人公の少年と話す。すると、自分の子供時代の寂しさをつい口にしたり、虐待していじめるつもりが、水を用意したりするようになる。最後に、首輪を差し出す時のセリフには、シャドの代わりに泣きたくなりました。また、主人公の周りの大人たちの描き方も意外でした。狭い共同体の中で生きる大人たちは会話の仕方も独特で、直接話し始めるのではなく、回りくどく話しながら本題に入る。生活に困っている人のために、こっそりパイとかケーキを郵便ポストに入れてささやかな生活の援助をしようとする。なんだか白黒はっきり決めつけるようなところがなく、私自身のアメリカに対する偏見が、変わりました。

ヤマネ:とても好きなお話でした。主人公の男の子の気持ちになって読めるところが良いと思いました。シャイローを守るために、周りにどんどん嘘をついて苦しくなっていったり、お母さんに知られてしまってハラハラしながらも少しほっとするようなところなど、子どもの気持ちがよく描かれているので、読む子どもたちは主人公に深く共感しながら読めるのではないかと思いました。小学校高学年の子にぜひ薦めたいと思います。“日本の児童文学は、宗教と政治を書かない”と言われているようですが、p86で主人公の友達のお母さんが、普通の会話で、主人公に選挙の結果の話をしていて、このへんのところは日本の物語にはない要素だなと思いました。

ハリネズミ:私もとても好きな作品です。以前は同じ作品が『さびしい犬』(斉藤健一訳 講談社)というタイトルで出ていましたね。表紙に、ジャドと思われる人の顔にビーグルの胴体がついている絵が載っていて、私にはちょっと不気味でした。今回はイラストも変わって、原作のさわやかさがよく出ていますね。これはシリーズになっていて、続きがあるようです。日本ではまだ一巻目しか出ていませんが。映画化もされて、アメリカではとても人気がある作品のようです。約束はきちんと守るとか、自分でできることは子どもでもちゃんとやるとか、アメリカがもつ価値観の肯定できる部分を体現した作品だと思います。

アンヌ:いきなり主人公の少年がライフルを持って散歩し始めるのは衝撃でした。銃で撃たれたウサギの肉を食べるのもためらう性格なのに、ライフルを打つ練習をするのが日常というところに、銃社会を感じました。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年3月の記録)


机の上の仙人〜机上庵志異

『机の上の仙人〜机上庵志異』
佐藤さとる/著 岡本順/挿絵
ゴブリン書房
2014.06

ヤマネ:本を手にした時には、タイトルから漢字続きで難しい話かと思いましたが、読んでみたら、はじめの作家の大そうじの部分からおもしろく、ひきこまれました。少し読んでいくと小さい仙人が出てきたので、「コロボックル」シリーズのように小人が出てくるお話なのかなと思ってワクワクしました。異界のものがたくさん出てくるところがおもしろかったです。岡本順さんの絵は佐藤さとるさんが描く不思議な世界にとても合っていると思いました。

アンヌ:初めて読んだときは、再話かとがっかりしたんですが、2度目には、再話には、作者が物語のどこに感動し、自分の物語を構築したか、作者の秘密を見つけることができるような気がしてきて、できるだけ原典に当たって読み直していきました。この中で私が見つけられたのが、『小奇犬』と『侏儒の鷹狩』については『小猟犬』、『石持の長者』については、『石清虚』で、この二つは、最近の怪奇小説のアンソロジーにも選ばれていますし、私も子どもの頃に読んだことがあって大好きな話です。違いは、小さな犬が、原典ではただ残されるのですが、こちらでは、はしゃぎ切っていて仕方ないから預かるとか、リアリティのある感じになっています。さらに犬のねぐらが、どうも古くて表紙の読めない『聊斎志異』らしい本のようだ、とか、うまく変わっています。原典では、最後に寝台の上で主人公が寝返りを打ったとたん、子犬が紙のようにぺちゃんこになってしまうという終わり方なので、この『侏儒の鷹狩』のように、いつの間にか消えていく方がいいなと感じました。『石持の長者』は、岩の中の文字と、最後の方がごたごた話が続くのをすっきりと終らせているのが違う点です。原典では、狐や遊女の話が多いのですが、こちらでは、夫婦愛に変えてある物語が多いと思いました。特に、『衛士の鴉』と『侍女の鴉』の原典の『竹青』は、主人公には別の妻がいるので、鴉の妻が「私は漢水の妻でいい」といいと言ったり、子どもができたりいろいろあるのだけれど、こちらの二つの物語は鴉への変身と、空を飛ぶことへの憧れに物語をそぎ落としてあって、実にすっきりとしたものとなっています。最後まで読んだ読者が、中国にはこんな不思議な話があるんだと知り、世界が広がっていけばいいと思います。

ルパン:うまいなあ、と思いました。さすが佐藤さとる。小人を書かせたら天下一品ですよね。コロボックル世代としてはたまらなかったです。本家本元、真打出ました、という感じ。机の上の仙人が登場したとたん、小人が出てこないかとドキドキしながら引き出しをあけたあの頃の感覚がよみがえりました。ただ、「佐藤さとる」の名前がなかったらどうかなあ? ひとつひとつのエピソードが際だっておもしろいというわけではないですが、上質の小品を読んだという満足感はありましたね。ありきたりなお菓子でも、上手な人が作ると本当においしいじゃないですか。そんな感じ。昔話の再話の仕方もほんとにうまいし、安心して読めました。

ハイジ:仙人がほんとにいるみたいでおもしろかった。短編集のようで、ひとつひとつのお話が短いので読んでて飽きませんでした。恋愛の話はとくにおもしろく読みました。動物は、昔ながらの描き方なのかなあと思いました。

アカシア:表紙の書名にもふりがながないので、小さい子は読者として想定していないんでしょうね。コロボックルを子どもの時に読んだ大人に向けて書いたのかな?

レン:読者は中学生くらいからかもしれませんね。歴史を学校で習ってからじゃないと、時代の感じがわからないから。

レジーナ:長く語り継がれてきた力のある物語が元にあり、それが上手にまとめられていて、ぐいぐい読ませますね。舞台を日本に変えているので、日本の読者にも馴染みやすいのではないでしょうか。それぞれのお話に挿絵が添えられているのがいいですね。この本と『シャイローがきた夏』(フィリス・レイノルズ・ネイラー著 さくまゆみこ訳 あすなろ書房)、どちらも岡田さんの挿絵です。偶然ですが、一緒に見てみるとおもしろいのではないかと思います。

アカシア:これは昔出ていた『新仮名草紙』に加筆した本なんですね。原典も読みたくなりましたが、前の作品との比較もしてみたいですね。それと、どうせ創作の部分も入れるなら、この小さな犬をもっと登場させたら、もっとおもしろくなるのにと思いました。

アンヌ:最近出た佐藤さんの自伝的小説『オウリイと呼ばれたころ〜終戦をはさんだ自伝物語』(理論社)を読んだのですが、小人についていろいろな物語を探していたころに見つけた物語が体の中に残っていて、それを整理して書いておきたかったのではないかと思いました。

ルパン:名作の続きは、それぞれが心の中に持っているものですよね。百人が百通りの続きを持っているのがいいと思うんですけど。

*この後、「コロボックル」シリーズの続き(『コロボックル絵物語』 村上勉絵)を有川浩が書いているということについての話題で盛り上がる。

ヤマネ:佐藤さとるさんが、有川浩さんにバトンを引き継いだのは、中高生にとても人気のある有川浩さんに書いてもらうことで、今の中高生に「コロボックル」シリーズを読んでほしいという思いがあったのでは?

アカシア:『机の上の仙人』は、公共図書館に入っている冊数が少なかったですね。

レン:『聊斎志異』は、岩波少年文庫にもありますね(立間祥介編訳)。もちろん抄訳ですが。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年3月の記録)


太陽の草原を駈けぬけて

『太陽の草原を駈けぬけて』
ウーリー・オルレブ/作 母袋夏生/訳
岩波書店
2014.12

ハイジ:途中で終わっちゃった感じがしちゃって、えっ?て思いました。けっこう長く読んで来たのに、ここでいきなり終わるのか、って。あとがきを読まなかったらよくわからないところでした。あとがきにイスラエルのことが書いてありましたが、イスラエルではどうだったのかな、と思いました。あと、お父さんが死んだところをはっきり書いてもらいたかったです。戦争で殺されたのではないらしいのだけど、なぜ死んだのかよくわかりませんでした。

アンヌ:読み始める前には、悲惨な難民生活の物語だろうと思っていたのですが、バラライカの音が聞こえてくるような生き生きとした物語でした。特に、お母さんが魅力的で、子どもたちを守って食料を手に入れたりして生き抜くための手段が、音楽だったり、タロットカードの占いや薬草の薬づくりだったりして、魔女のようなところがおもしろかった。子どもたちも遊びながら働いていて、牛糞を拾ってきて乾かし壁上に積み上げて燃料にする。それだけではなく、そこへカッコウが巣を作り、そのヒナを手に入れて食料にする。思いがけない生活があって、とてもおもしろかった。ただし、お父さんという人については、いろいろわかりづらかったと思います。その頃のスターリン信望者の人たちのこととか、粛清とか、歴史的背景がないとわからないことが多いと思います。全体の印象としては、ゆっくり丁寧に書いてあるという気がするので、惜しいなと思いました。

アカシア:楽器が弾ける人とか、絵が描ける人は、どこへでも行って生活できそうですよね。

ルパン:歴史をよく知らないと、理解が難しいなと思いました。子どもたちは理解できるんでしょうか? お父さんはスターリンに心酔していて、お母さんは批判的なのですが、根拠がよくわからずどちらにも共感しにくかったです。でも、お母さんはなかなか魅力的ですね。私はタロット占いをしてもらって、気味悪いくらい当たったことがあるので、そのあたりは不思議なリアリティを感じました。

アカシア:私はフィクションっぽくないなあ、と思って読みました。フィクションならもっとメリハリをつけてもいいし、起伏を大きくしてもいいのに、それをしていない。ノンフィクションみたいな書き方ですよね。ところでお父さんもユダヤ人なんでしたっけ?

アンヌ:お父さんはポーランド人じゃないかと思います。p31の結婚の物語のところで、お祖父さんが土地持ちの資産家とあったので、ユダヤ人ではないと思いました。

アカシア:なるほど。この家族はポーランドから中央アジアに行くんですけど、そういえばシュルヴィッツの『おとうさんのちず』(さくまゆみこ訳 あすなろ書房)でも、確かユダヤ人の作者はポーランドから逃れて中央アジアで極貧の暮らしをするんでしたね。私はそっちも見ていたので、ああそうかと納得しましたが、そうでないと、どうしてそんなに遠くまで行くのかと不思議に思ったかもしれません。お父さんの死については、もう少し説明があってもよかったかな。スターリンの粛正ということを知っていれば想像はつきますが、知らないとここもよくわからないかも。あとね、後書きを読んで気になったのですが、ひとりでに紛争が起こっているわけではなくて、イスラエルが起こしているんですから、このような書き方でいいのかと疑問を持ちました。いちばんよかったのは、主人公の男の子が時には危険な目にあいながらも子どもらしく成長していく様子が、生き生きと描かれている点ですね。

ヤマネ:時間がなくてちょっと急ぎめで読んでしまったのですけど、急いで読める内容ではなかったのでもっと時間をとるべきだったと反省です。歴史や国のことなど知らないことがたくさん出てきたので引っ掛かるところも多くありましたが、冒頭に舞台が分かる地図があったので理解の助けになりました。一家は大変な状況に置かれているけれど、終始明るく描かれているのが良いなと思いました。主人公の男の子は、母親に外に出るなと言われても勝手に出て行ってしまったり、好奇心が旺盛で、とても子どもらしいと思いました。男の子が約束を破って外に出てしまったり他の人と関わってしまっても、食べ物を持ち帰ると家族が全く怒らず、喜ぶ場面に、食べるものに本当に困っていた暮らしぶりがうかがえました。牛糞のトルテやペチカがどんな感じなのかがなかなか想像できなくて気になりました。子どもたちに手渡すときには、子どもたちが読んで分からなかったところを大人がちゃんと答えられるよう勉強しなければいけないなあと思いました。

アカシア:ここに出てくるペチカは、ただの暖炉じゃなくて、オンドルみたいに上で寝られるようになってるんですね。

ルパン:私はまるっこい家を想像したのですが…それだと「中庭」がわかりにくいですね。挿絵があったらよかったのに。ペチカとかも。

レジーナ:日本語版で省略されている部分は、ドイツ語版で読みました。ドイツ語版は本文が280ページありますが、そのうちのp220以降は日本語版にはありません。主人公はイスラエルに行って、敬虔なユダヤ教徒をはじめて目にしたり、中東の食文化に馴染みがないのでオリーブの実を好きになれなかったり、冬にオレンジの実がなるのに驚いたり、様々な新しい経験をします。周りの人が、主人公は収容所から生還してキブツに来たと思う箇所や、スターリンや戦争に対して、キブツの養父母が異なる意見を持っているところからは、同じユダヤ人でも、人によって背景や政治的見解は随分違っていて、ひとくくりにできないことがよくわかりました。庭の手入れや動物の世話など、大人も子どもも役割を担い、何でも自分で作るキブツの生活や、村や家の描写も興味深く読みました。1947年のパレスチナ分割決議のニュースをラジオで聞いた人々は、喜びにわきますが、すぐに次の戦争が始まります。イスラエルに着いてハッピーエンドになるのではなく、それがまた新たな紛争の歴史へと続いていく。そういう想いが作者にあって、生まれた物語だと感じました。そう考えると、最後の部分は日本語版でもやはり必要ではないかと……。なぜ日本語版では削られたのか、みなさんのご意見をうかがいたく、今回みんなで読む本に選びました。それまで都会に住んでいたのに、文化も風習もまったく違う地にやって来て4人の子どもを育てるお母さんは、たくましいですね。バラライカを弾き、占いや薬草療法で稼ぎ、テルアビブではすっかり都会的な服装になります。家に押し入ろうとするブタの鳴き声で目覚めたり、言葉が通じない中で友情を育んでいったり、難民としての生活にも喜びや楽しみがあって、そうしたすべてを経験しながら成長していく姿に、子どものしなやかな力を感じました。普通の暮らしの尊さが丁寧に描かれているので、政治や戦争でそれが壊され、家や生活を失った時の痛みがひしひしと伝わってきますね。

レン:おもしろく読んだけど、物語として起承転結がないからか、最後を省略してあるからか、読後の満足感が今ひとつ。でも、一つ一つの描写は手触りがあって、どれも生き生きとして楽しめました。実感がある。主人公の少年が母親との約束を守れず、親の見ていないところで冒険をしたり、牛糞タルトの間からとったカッコーのひなを料理したら、弟が骨をしゃぶっていたり。多民族がいっしょに生きている感じが伝わってくるところもいいなと思いました。p157で、ムスリムの人とユダヤ人とで、服喪の習慣が同じようだと言うところだとか、p177で、お母さんのバラライカでロシア、ポーランド、ウクライナ、カザフスタンの歌を歌ったり、混ざり合っている感じが出ていておもしろかったです。お母さんのたくましさもよかったです。主人公もいろんなことを体験しながら成長していって、物がなくても工夫していくし。お話の筋を楽しむタイプの本ではないと思いましたが。最初に手ばなしてしまったクルマのことが最後に決着するというのは、いい仕掛けだと思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年3月の記録)


真夜中の電話〜ウェストール短編集

『真夜中の電話〜ウェストール短編集』
ロバート・ウェストール/作 原田勝/訳 宮崎駿/装画
徳間書店
2014.08

ajian:これはとてもおもしろかったですね。これだけおもしろいと「おもしろい」以上の感想が出て来なくて困ります。どれもよかったけれど、「吹雪の夜」が一番好きかもしれません。猛吹雪をようやく切り抜けたと思うと、今度は子どもが産まれそうで、たいへんな状況が次から次につづく。最後はホッとしますが……。吹雪のなか、火を焚く場面で、「男は臆病だからこそ命を危険にさらすことができるのだ」とあるじゃないですか。しびれますよね。こういう断定が、くさくならずに説得力を持っているのはどうしてなんでしょうね。ウェストールがそういうなら、そうなんだろうなあ、と……。ほかに印象に残ったのは「ビルが見たもの」でしょうか。目の不自由な人が感じる世界を詳細に、リアルに描いている。これもページをめくらずにはいられない展開です。そして短いなかに、寂しさや、うち震えるような怒りや、感情の濃密な部分が克明に描かれている。収録作がこれだけバラエティに富んでいるのもすごいですね。ゴーストストーリーも、ハートウォーミングな話も、ほんとうにどれもおもしろかった。

レン:先月、原田さんの朗読会に行きました。短編集ができるまでの話などもお聞きしましたが、それはこの本の後書きに詳しく書かれていますね。人間って、どこに行っても変わらない。ぶざまなことをしたり、いい加減だったりしながら生きているというのがうかびあがってきて、ひとつひとつの話がおもしろかったです。原田さんの訳は丁寧で、それでいて男っぽくてすてきでした。日本のオリジナルでこういう本が出るというのはいいですね。さすが徳間書店児童書20周年です。10代の心理がよく描かれているので、高校生に読んでほしいです。大人の外国文学への橋渡しにもなりそうです。

ajian:あ、あと好きだったのは「最後の遠乗り」です。主人公の最後の独白部分。「おれはこの先も、少しずつジェロニモから遠ざかっていく。そして、髪にカーラーをつけ、油ぎった熱い包みをかかえてフィッシュ・アンド・チップス屋から出てくるばあさんたちに近づいていくんだ。電気屋のショーウィンドウをのぞきこんでいる中年男たちに……」。中年に近づいている自分としては、この台詞、非常に身にしみて感じます。

レン:細部がリアルですよね。ちゃんとみんな体験してきた人なんだろうなと思いました。やわらかい羊のフンが、踏むとつぶれて靴につくところとか。線を引いておきたくなるような、いい言葉もたくさんありますね。p106に「夜中、ビルは眠れぬまま横になり、不安に思うことがある。世界じゅうの人たちがあまりに排他的になり、真の平和は日々遠のいているのではないかと……。」とか、今読んでもドキリとしました。

レジーナ:中学の時に、ウェストールの『海辺の王国』(坂崎麻子訳 徳間書店)を読みました。当時、中学生向きの読み物はあまり見つけられなかったのですが、この作品は甘いハッピーエンドで終わらせず、少年の成長していく姿をしっかり書いていて、とても心に残りました。すぐれた作家の中には、長編はすばらしくても、短編になると弱くなってしまう人もいます。ウェストールは、長編も短編も書ける作家ですね。それぞれの話は、登場人物の年齢も、置かれた状況も全く異なりますが、どれも人間の生きる姿を伝えています。特に好きなのは、「吹雪の夜」と「ビルが「見た」もの」。吹きすさぶ風や吹雪の激しさは、ロンドンの都会ではなく、まさにイギリスの北方の厳しい自然ですね。土地の描写に、力があります。p165に「革ジャンの背中のベルト」とありますが、革ジャンにベルトはついているのでしょうか?

アンヌ:「吹雪の夜」は本当におもしろく、イギリスの獣医ジェイムズ・へリオットの著作の中のイギリス高地の物語を思い出しながら、何度も読み返しました。

レン:私たちは、あまりに多くの情報にさらされて、感覚が鈍って、こういう観察眼を持てなくなっているように思いました。

アンヌ:ただこの短編集にあるホラー3篇は、他の物語に比べて、そんなに見事な出来だとは思いませんでした。最初の「浜辺にて」も、夢落ちで終わっているし、「真夜中の電話」も、ハリーが幽霊と20年も電話し続けているというのが少し納得がいきません。最初はいろいろ調べたというのに、メグのように引きこまれたりはせず、幽霊も手出ししないで、毎年繰り返していたのはなぜかとか、疑問が残ります。「墓守の夜」も、設定が、ピーター・S・ビーグルの『心地よく秘密めいたところ』(創元推理文庫)と、同じなので

アカシア:とてもよくできた短編集だと思いました。「真夜中の電話」だけでなく、ひとつひとつの話が、「生きること、死ぬこと」を考えさせますね。描写もリアルです。私はホラーとは思わなかったんですけど、「浜辺にて」では、アランも死んでいるのかと少し思っていまいました。バイクで疾走する場面とか、サマリタンが電話を受ける場面とか、屋根裏に潜んでいるお父さんを見つけた場面など、自然描写も心理描写も情景がありありと思い浮かぶように書かれているのがすばらしいです。翻訳もうまい。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年2月の記録)


さよならを待つふたりのために

『さよならを待つふたりのために』
ジョン・グリーン/作 金原瑞人・竹内茜/訳
岩波書店
2013.07

ajian:ジョン・グリーンは学生時代に、 病院付きの牧師として働いていたことがあるそうです。そのときの体験も元になっているらしい。

アンヌ:最初に読んだ時、とてもリアリティがあったので、誰か患者さんのブログを基にしたものなのかなと思いました。誰かが癌になったと聞くと、他の病気とは違い、もうその人は一つの橋を渡って別の世界に行ってしまったように思う人がいますが、この作品では、死というのはすべての人に訪れるものだということを最初に主人公の口から言わせていて、そこがとてもいいと思います。アイザックが、立ち去った恋人のモニカの車に卵をぶつける場面もとてもいい。たとえ、がん患者であったとしても、悟りきった向こう側の世界の人間などではなく、怒ったり恋をしたり、死ぬ寸前まで普通に生きているのだということを語っています。サポートがあれば旅行にも行けるし、病気になっても自分は自分なのです。死ぬのはみんな同じ。恋もするし、その過程に意味があるのだと言っている物語だと思えました。少し気になったのは、母親がモニカの死後も生き抜くために、社会福祉の学位をとってソーシャルワーカーになる勉強をしていることを、ヘイゼルが知って喜ぶところ。ここは逆に、ヘイゼルがあまりに自分の死後について物分かりがよすぎるのではないかと気になりました。もっとも、そのために、ダメになった親代表のヴァン・ホーテンの物語があるのかもしれないと思いました。

レジーナ:フリースローをしていて、なぜこんなことをしているのかと、ふと人生に疑問を感じたり、自分が病気になったことで、両親が悲しんでいるのに心を痛めたり、「自分の存在を覚えていてほしい」「生きた証を残したい」と願ったり、病を得た十代の少年と少女の感覚がリアルに伝わってきました。主人公は、アンネ・フランクの家でキスをした時、病気の身体にずっと苦しめられてきたけれど、この身体があるからキスができると気づきます。ひとりで背負わなければならないと思っていた苦しみを理解し、分かち合える人と出会えた幸せが伝わってきました。ただ、どうしてふたりが惹かれあったのかが、よくわかりませんでした。また関係が長く続けば、それだけいろんなことがあります。「死別したことで愛が永遠になる」というのは、ヤングアダルトのラブストーリーならでは、ですね。そういう風に感じるのは大人の読み方ですが。ようやく会えた作家は嫌な人間で、ふたりはがっかりします。うまく行き過ぎない物語展開や、酸素の濃縮機にフィリップと名づけるユーモアが、作品のおもしろさにつながっています。残念だったのは、「至高の痛み」がおもしろい小説だと思えなかったことと、ところどころ翻訳が読みづらいことです。p42の「酸素吸入が不足してるほど冷たくはない」は、「酸素が行き渡っていないと、手の先が冷たくなるけど、それほど冷たくなってはいない」ということでしょうか? p145の「アイザックがしたことだって、モニカに全然優しくなかったよ」は、「アイザックが視力を失ったことで、モニカだって傷ついた」ということでしょうか? p154の「オーガスタスはおじさんとおばさんのクッションの格言をうんざりしてても受け入れてる。か弱くて珍しいものは美しいって思ってるんでしょ」ですが、格言がか弱いのですか? 格言を刺繍したクッションを家中に飾る、そういう態度が女々しいということでしょうか? またp27で、お互いに夢中なアイザックとモニカを見て、主人公はなぜ「病院までラストドライブするときのことを考えてみて」と言ったのでしょうか。

アカシア:話としてはおもしろいし、こういう本を出す意味はあると思います。ただ私は共訳とか下訳ということに疑問を持っているのです。その作品世界をどう受け取るかは人によって違うので、一緒に訳している人の間に違いがあると(たいていあるものですが)、特に文学性の強い作品だとどうしてもぎくしゃくしてしまう。アメリカではベストセラーですが、シチュエーションだけが興味深いのではなく、原文では会話にもとても味があると思います。翻訳では、キャラクターとその会話がところどころ合っていないように思えて、ちょっと残念でした。

アンヌ:ヴァン・ホーテンは、ヘイゼルが感動するような娘の物語を書き上げたのに、その後アルコール中毒に陥ってしまい、成長しませんでしたね。

ajian:映画では、ヴァン・ホーテンを演じているのは、ウィレム・デフォーです。

アカシア:たとえばp85の「よかった」がぴちっとはまらないように思ったり、p97の「骨の間がばらばらになってしまう」もすっきりとはわかりません。わからない部分が多くて、止まってしまう。今風の言葉があるかと思うと、古い表現も出てきたりして、ちょっとアンバランス。そんなに無理に今風の言葉にしなくてもよかったのでは、と思ってしまいました。「サイテーの女」なんて訳されると、ガスのキャラクターが揺らいでしまう気がします。

ajian:とてもいい作品だと思うので、伝わりにくい部分があったとすれば、それは残念です。仕事でヤングアダルトの原書をいろいろ読んでいますが、ジョン・グリーンは際立って文章がいいです。今風の生きのいい会話が、テンポよくつづいていく。日本語版では、そういう今風の会話を成立させつつ、この子たちの知的レベルの高さも表現しなければいけない。そこに難しさがあるのかもしれません。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年2月の記録)


光のうつしえ〜廣島 ヒロシマ 広島

『光のうつしえ〜廣島 ヒロシマ 広島』
朽木祥/著
講談社
2013.10

アンヌ:この本を読み終えた後、最後に記載された「作中の短歌の出典」のところに、短歌の作者の方への問い合わせがあり、ああ、もう関係者の方々も亡くなられているのかもしれないのだなと気付きました。そして、この出典のところまで読んで、この本を読んだ意味が初めて分かるという気がしました。短歌が書かれたのは、戦後と1970年代。この物語の舞台は、戦後25年の1970年。それぞれの時代を、もう一度、さらに時が流れた現代から見直す必要性を感じます。作中におかれた短歌を読みながら、作者は、まざまざとこの物語にある光景を見たのだろうと思いました。短歌の意味をすくい取って物語とし、そしてその歌い手たちの心を救済する手段として、子供たちが絵を書く行為を物語の中で提案する。そういう形で、書かずにはいられなかったのではないかと思います。今、ちょうど、イスラム国の事件があったり、空爆が行われたりして、無辜の死こそが戦争の本質だと感じています。今、読む意義のある作品だと思いました。

レジーナ:広島生まれの被爆二世の方が書いていらっしゃるので、実感のこもった作品です。方言の台詞は、温かみがあっていいですね。主人公は、被爆者の子どもの世代です。自分たちは実際に戦争を体験したわけではないけれど、周囲の大人の多くが深い傷跡を抱えている環境で、子どもたちはしだいに、そうした人々の心に寄り添って生きるとはどういうことなのかを考えるようになります。ひとりで答えを出すのではなく、文化祭の絵をみんなで描き、友人たちと一緒に問題に向き合う姿が印象的でした。最後にみんなで灯篭流しをする場面もそうですが、人が引き起こした戦争で受けた傷を、少しでも癒せるものがあるとすれば、それはやはり他者と交わり、つながっていくことなのでしょう。声高に平和を叫ぶのではなく、ひとりひとりの小さな物語を通して、普通の生活や平和の尊さ、それを突然断ち切る暴力について読者に考えさせます。藤田嗣治の『アッツ島玉砕』に関しては、ちょうど数日前の新聞で読みました。記事には、芸術はときに、画家本人の思いから離れてひとり歩きをしてしまうと書かれていました。

レン:大変丁寧に書かれた作品だと思いました。杇木さんの『八月の光』は、当事者である四人の被爆者を直接描いていたけれど、これは自分が体験したのではない子どもが、親や祖父母の世代のことを知るという形で、体験していない子どもとヒロシマをつなぐ作品ですね。両方読むと興味深いです。未曾有の悲劇の中で想像を絶する体験をして、痛みを抱えた大人がたくさんいて、杇木さんはこの主人公の女の子の年代でしょうか。この子が感じていることは、作者の体験なのかなと思いました。子どもたちがかかわることで、悲しみを封印していた大人たちが心を開き、少しずつ前向きな気持ちを取り戻していく姿も印象に残りました。人為的な戦争という行為による死が、明日を奪い、思いを断ってしまう、そんなことを引き起こすのはやめてくれというメッセージ。美しい灯籠の場面のイメージにのせて、いろんなことを考えさせられました。
 登場人物の子どもたちが、身の回りにいる、一世代上で原爆を経験した人たちのことを、「知っているつもりで知らない」とよく言います。それから、その人たちに直接話をきくのではなく、その回りの誰かからきくという形で、それぞれ何があったのかを知っていきます。このあたり、非常にリアリティがあるというか、よくわかると思いました。祖父も入市被曝をしていて、原爆投下間もない長崎に入っています。おそらくすさまじい光景を見ていたはずです。でも、その時の話をあまり聞いたことがない。いま、長崎や広島で、ボランティアで被爆体験を語ってくださっている人のなかには、何十年も経ってからやっと話せるようになったという人もいます。それほど傷が深い。この作品の舞台になっている時代は、被爆二世が中学生という時代ですから、記憶は、よけいに生々しいものとしてあったでしょう。
 いまはそれから年月が経ってしまって、また別の意味であの時のことが伝わりにくくなっているのではないかと思います。おそらく私の子どもの世代では、直接お話をうかがうということは、もう無理になっているでしょう。起きたことを伝えていく手段は、できるだけたくさんあったほうがいいし、伝え方もアップデートしていかなくてはならない。そういう意味では、朽木さんよく書いてくださったなと、感謝のような思いがあります。
 語りにくい当事者の思いを代弁するように、ところどころに挿入される短歌がきいています。短歌や手記にたどりつけるように、こういうアプローチをしてくださったのは、有難いことだと思いました。
 読んでいて胸が衝かれるようになったのは、それぞれみんな、あの日以来、心残りがある人なんですよね。美術の吉岡先生は、変わった雰囲気の先生として登場して、色黒で歯が白くて、笑い顔が歯磨きの広告のようだといわれたり、最初はちょっと滑稽な印象ですよね。生徒が帰るのを、窓際でずっと見送ってくれるのも、ちょっと変わった人のように思われている。ところが、その見送りの理由があとになってわかる。滑稽だったイメージが反転する。こういうところは、読んでいて巧いなと思いました。

アカシア:同じ朽木さんの『八月の光』と一緒に読むといいな、と思いました。『八月の光』は被爆体験を実際にした人たちが主人公ですが、こっちはその次の世代の人たちがその体験をどう受け継いで自分のものとしていくか、という物語。ストーリーにも工夫があって、灯籠流しの時に声を掛けてきた年配の人はいったいだれなのか? 吉岡先生はどうしていつも窓からじっと見ているのか? お母さんはどうして何も書いてない灯籠をいつも流すのか? などの謎で読者を引っ張っていく。灯籠流しの美しい場面から始まって、最後も灯籠流しで終わり、主人公はその間に確実に成長している、という構成もうまい。朽木さんはご自身で被曝二世とおっしゃっていますが、だからこそリアルに書けることってあるんですね。この作品では、作者が子どもたちに伝えたいことも、かなり前面に出てきていますね。

レン:前にこの会で松谷みよ子さんの本をとりあげたとき、子どもの頃タイトルから、「戦争」ものだと思わずに読んであとでだまされた気がしたと言っていた人がいたけれど、これは最初から「広島」と構えて、未来を担う子どもに投げかけていますね。余談ですが、うちの母が「子育てで一つだけ絶対心がけていたのは、朝子どもを叱って送りださないこと」と言っていたのを、この作品を読んで思い出しました。戦時中を生きていた人だから。

ajian:登場する子どもたちは、身の回りの人たちがどういうことを体験したのか調べて、それをそれぞれ絵にするなど、ある意味で理想的な形で受けとって、引き継いでいるんですよね。実際そういうふうに持っていくのは難しいとしても、「重い」とかハードルを感じずに、どうやって引きつけたものか、ということは常々考えます。

レン:『はだしのゲン』(中沢啓治著 汐文社)は、子どもたちは夢中になって読みますよね。

ajian:『はだしのゲン』はおもしろいです。たんにサバイバルものとして読んだとしてもおもしろい。新しいアプローチは、これからもいくらでもあるべきだと思います。

レン:『さがしています』(アーサー・ビナード文 岡倉禎志写真 童心社)とか。数は少ないですけど。

アカシア:共同で教科書をつくりましょうという動きはアジアでもありましたよね。それに童心社の日・中・韓平和絵本シリーズの試みなんかも。

レン:こういう本を手渡していくのは必要ですね。

アカシア:京庫連(京都家庭文庫地域文庫連絡会)が、定期的に「きみには関係ないことか」というタイトルの、戦争と平和を考えるための児童書のブックリストを出してますよね。そういうのを参考にして、もっと平和教育をやらないと、政治家がどんどん変な方向に舵を切って、そのまま持って行かれてしまいますね。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年2月の記録)


さよならのドライブ

『さよならのドライブ』
ロディ・ドイル/作 こだまともこ/訳 こがしわかおり/挿絵
フレーベル館
2014.01

:アイルランドの話ですが、日本の幽霊奇譚にも似ているようでひきこまれました。病院に向かうところでおばあちゃんの死が予見されますが、4世代のいろいろな思いが最終的に統合されるのはいいなあと。p228で、タンジーがエマーに「謝りなさい」というと、お母さんに言われたのだからとおばあちゃんが素直に謝りますよね。この場面が好きです。

レジーナ:一年前、読んでいて、「死んでいくことはこわいし、後に残されることは悲しいけれど、生きることはすばらしく、さよならの後にも続くものがある」と感じ、非常に勇気づけられました。とても好きな作品です。真夜中のドライブでアイスクリームを食べる場面を始め、ひとつひとつの場面が印象的でした。親しくしていた友人が引っ越してしまったさびしさを、足を切断した人が、切った後も足があると感じるのにたとえていますが、細かな描写が的確で、引き込まれました。力のある作家です。自分の意見を主張する、溌剌としたメアリーは、反抗期に入りかけの年頃です。死に向かいつつある祖母を前に、メアリーや、母親や、兄たちが、戸惑ったり、自分の気持ちを素直に表せなかったり、病院に行きたくないと思ったり、それぞれの立場で悲しんでいるのが、よく伝わってきました。タンジーが、井戸に落ちかけたエマーを救ったように、亡くなった人がそっと見守りながら、さり気なく手を貸してくれるのは、ユッタ・バウアーの絵本『いつもだれかが…』(上田真而子訳 徳間書店)を思い出しました。タンジーの死は、幼いエマーの胸に刻まれ、ずっとその心にひっかかっています。グレイハウンドは、エマーにとって、タンジーの死と結び付いた忌まわしい存在で、長い間避け続け、見ないようにしてきたものです。でも、かつて住んでいた農家を訪ねたら、あれほど恐ろしかったグレイハウンドはもういない。原題の “A Greyhound of a Girl” には、「目を背けず、しっかりと向き合ってみれば、死もそれほど恐ろしくない」という意味が込められているのはないでしょうか。以前、訳者の方がおっしゃっていましたが、四人の女性の口調をかき分けるのに心をくだかれたそうです。

プルメリア:表紙や挿絵が気に入りました。この作品は3冊の中でいちばん読みやすかったです。登場人物によって活字が太くなっていたりするのもわかりやすかったです。おばあちゃんの幽霊は若いけれど、親しみやすく感じました。作品ところどころにユーモアがあります。おばあちゃんが病院のベットから車椅子に乗る時、「コケコッコー」といったりアイスクリームをもって煙突から出てくる場面など。四世代の作品はあまり読んだことはありませんが、世代や年齢が異なる4人ひとりの性格がよくわかりました。p53の「みょうちきりん」の意味が私にはちょっとなじみませんでした。

アンヌ:とにかく、挿絵が素晴らしいなと思って読みました。特に、p135にある家系図には助けられました。これがないと、4世代の母と娘の関係がこんがらがって来そうなところに描いてあったので。物語としては、まずタンジーという幽霊があまり納得のいく描き方がされていない気がしました。主人公である曾孫のメアリーや孫のスカーレットの前にさえ現れることができるのに、80年もの長い間、娘を見守っているだけで、何もしてこなかった。この幽霊は25歳の若い女性のまま成長できずにいたということなのでしょうか? 死についてもあの世についても、この世をさまよっている幽霊だから語れないのか、臨終寸前の自分の娘に、「大丈夫よ」と言える根拠が、最後まではっきりしない。タイトルについても、ある意味、一番面白い部分を語ってしまう題名になっていて、どうしてこう変えたのかがわからない。それから、メアリーのセリフでよく出てくる「なまいきいっているんじゃない、なまいきいっているんだよ、」の言葉のあやがよくわからなかった。幽霊が鏡に映らない時の「気味わるーい」のところも。メアリーの心の中の感じをすべて会話にしているのは、作者独特の表現なのでしょうが、そのたびに引っかかりました。

レン:いつ亡くなるかわからないおばあちゃんがいて、4人の女性それぞれの親子関係がある。訳すのがとても難しそうな作品だと思いますが、よく感じが出ていて、訳者がうまいなと思いました。好きだったのは、p94に出てくるエマーと母ちゃんの遊び、「ふんふん、わかったぞ。このキスしたのは……」というところ。その家族や親子だけの特別な言葉とか遊びってあるじゃないですか。そういう日常の生活が描かれていて、幸せ感がありました。筋じゃなくて、人間と人間の関係が描かれているところが読ませますね。

アカシア:今挙げられたようなところはとてもいいし、4世代の会話もおもしろい。女性4人で夜中にドライブして昔住んでいた家を見に行くという設定もおもしろい。でもね、同じ家族の4人だってことが原因なのか、細切れの時間の中で読むと人物に取り立てて強い特徴があるわけじゃないし、時間も行ったり来たりするので、途中で誰が誰だかわからなくなっちゃった。エマーがキリンのようにのっぽっていうのは、物語のあちこちに出てくるので、つかめたんだけど。p135の家系図がもう少し前にあったらよかったのに。それと、物語の基盤をなす設定に疑問を持ちました。タンジーが、アイスクリーム屋のドアを透明人間のように通りぬけて中に入り、でも出てくるときはアイスクリームを持って煙突から出てくるというシーンがあります。で、タンジーは「わたしはドアを通りぬけることもできたのよ。たぶん、なんというか実体がないから〜でも、アイスクリームは、ちがうでしょ。とけてしまうまでの何分間かはね。だから、アイスクリームを持ったままドアを通りぬけることはできなかったの」と言ってます。これ、変ですよね。たとえ手に持っていても実体のある物はドアを通りぬけられないなら、アイスクリーム代として持っていたお金も無理のはず。物語の中のリアリティがきちんと構築されていない。細かいですけど。それと、もう一つ気になったのは、ジェイムズのこと。姉のエマーのほうは突然の母の死に動揺し、死の間際にキスしてあげられなかったのを後悔しているとしても、結婚もして子どももでき、それなりに充実した日常を送ったように思えます。でもジェイムズはずっと「ジェイムズぼうや」と呼ばれていたせいで結婚もできないし、先に亡くなっている。タンジーは、うんだばかりのジェイムズがちゃんと育つかどうか心配じゃなかったのかな。死の間際にもあらわれていないみたいだし。どうせこの世にぐずぐずしているのだとしたら、ジェイムズの死の間際にもあらわれて言葉をかけてあげないと不公平だと思いました。

レン:「いやーっ」と言ってしまったことで、エマーのほうに悔いがあったから、幽霊を呼び寄せたのでは?

(「子どもの本で言いたい放題」2015年1月の記録)


かあちゃん取扱説明書

『かあちゃん取扱説明書』
いとうみく/作 佐藤真紀子/挿絵
童心社
2013.05

アンヌ:最初に題名を見た時から、最後の一文は予想が付いたのですが、そこまでどうたどり着くのだろうと楽しみに読みました。相手を観察し分析して対処法を決めていくという設定は、他人相手なら冷酷な気がしますが、家族それぞれを再発見するという物語になっていて、おもしろく、安心できる感じの物語でした。少し気になったのは、お友だちのカズ君のお母さんの話。子離れできない母親をやさしく成長させてやる男の子という設定は、ちょっと親の方にとって、都合がよすぎる気がしました。

レン:テンポよくおもしろく読みました。幸せなお話ですね。最後、お母さんが機嫌良くやっていたのが、実は自分のため、母ちゃんの方が一枚上手だったというのもおもしろい。地元の小学校でも、片親の家庭が結構多いのですが、そういう家庭の子でも楽しんで読めるかな。最初は、自分の得になることばかり考えていたのが、これまでと違う視点で相手を見るようになるところがうまく書けていると思いました。書き込みすぎない、シンプルさがいい。

アカシア:おもしろく読めは読めたんですけど、このお母さんは、家事、子育て、パートの仕事と大忙し。お父さんは、のんびりしていて1週間に1度食事をつくるだけ。この家庭のあり方は今の日本の平均的な姿かもしれないけど、この作者はそれを肯定しているような気がして、そこが気になりました。日本の女性は社会的な地位も低いし、いろんなことを背負わされすぎなんです。だから子ども向けの作家だったら、未来の社会はどうあるべきか、ということも頭に思い描きながら書いてほしいな、とちょっと思ったんです。だって、同窓会で韓国旅行に行くだけで、これでもかこれでもか、と家庭サービスをしないといけないんお母さんなんですよ。それをおもしろおかしく書くだけではちょっとさびしい気がしたんです。

レジーナ:冒頭の作文は、大人が子どもに似せて書いた字ですね。作文の内容は、4年生にしては幼すぎませんか? やるべきことを書いた表を作り、「やっていなくても、,をつけておけば、お母さんは満足するだろう」というのは、子どもが考えそうなことですね。

:自分がしょっちゅう子どもに言っているようなセリフが出てきて笑っちゃいました。「これは私の物語だ」と思える人が多いと大衆性につながる、という話を聞いたことがありますが、そういう意味で大衆的。とてもおもしろかったです。ただ、パティシエになりたかった夢を思い出すカズのお母さんのほうが類型的すぎ。やりたいことも忘れて子どもに関わってきたことが否定されて、子どもに「ヒマ」っていいきられちゃうのはせつないな。

レン:p106の「お母さんはカズのことを思って、わざわざ学校にとどけてくれたんじゃん」と気づくところで、カズくんのお母さんがきっかけになりますよね。

:そういえば、うちの子どももおもしろがっていました。

プルメリア:この作品を学級の子どもたち(小学校4年生)に紹介したところ、子どもたちは今順番に読んでいます。会話文が多く、字も大きくて子どもたちには読みやすい作品だと思います。最近子どもたちの読書傾向として、本を家庭に持って帰らない、家庭で読書しない、学校で本を読む子どもたちがふえてきています。家庭では塾やおけいこ事などすることが多く子どもたちが読書する時間がなくなってきています。この作品は子どもたちにとって身近な人物や内容であり、おもしろくすぐに読める本なので人気があります。主人公のお母さんは「私のお母さんと似ているよ」「ぼくのお母さんはもっとこわいかも」「料理をほめてもぼくのお母さんは変わらないよ」など自分の母親と比べて読む子どもも多く、「ラブリーなお母さん」では、女子は「かわいいお母さん」といっていましたが、男子はそのままラブリーについては気に留めず読んでました。カズくんのお母さんについて男子は「おやつを作ってくれる」「家にいてくれる」「いつもやさしくていいな」「家のお母さんもこんなお母さんになってほしい」、女子は「ちょっとしつこい」など思いが分かれました。子どもたちには読みやすく手に取りやすい作品でした。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年1月の記録)


落っこちた!

『落っこちた!』
ザラー・ナオウラ/作 森川弘子/訳 佐竹美保/挿絵
岩波書店
2014.09

アンヌ:ユーモアのセンスが合わない本というしかありませんでした。老人ホームに放火して燃やしてしまうようなおばあさん、という設定を面白いとは思えなくて、最初からつまずきました。最後も、それなりに家族が自分自身に合う仕事を見つかって幸せになり、ほっとした後に、新たな騒動を予感させる感じで終わる。この感じが、私の苦手な作家の誰かに似ているなと思っていたら、あとがきに、「ロアルド・ダールは最高の模範」という作者の言葉が載っていて、なるほどと思いました。

:構造は前作と一緒で、混乱の種がまかれるけれどどんでん返しで幸運がもたらされる形。しかし、やっぱり読みにくかったです。うーん、「町一番のすてきな家族」を装っていたのならおばあちゃんがかきまわすことにも意味がありそうですが、実際は本当にただのトラブル好き。マンガの「いじわるばあさん」みたいでした。好きなおじいさんと両想いになると意地悪しなくなるのも「いじわるばあさん」に似ていて、ちょっと安易でした。

レジーナ:主人公が、とんでもない状況に置かれているところから始まり、その理由を回想の形で説明し、最後にオチがあるのは、『マッティのうそとほんとの物語』(森川弘子訳 岩波書店)と似ていますね。ヘンリックが穴に落ちた時、ナーゼは、言われた通りにヨナスを連れてきて、得意気に穴に突き落とします。命じられたものを必ず取って来るようしつけられたのが、裏目に出てしまう――おもしろい場面です。金ののべ棒を探したり、地面の下に機関車が埋まっていたりするのは荒唐無稽で、子どもは楽しめるのではないでしょうか。最後は、主人公が、金ののべ棒を自分だけの秘密にする終わり方です。E. L. カニングズバーグの『クローディアの秘密』(松永ふみ子/訳 岩波書店)もそうですが、子どもは、何か秘密を持つことで、それまでとは違う自分になったように感じます。自分だけの秘密を持つことは、子どもの成長において、とても大切ですよね。おばあちゃんは個性が際立ち、あくが強いけれど、憎めない人です。先ほど、漫画の『いじわるばあさん』みたいだという話が出ましたが、私も同じように感じました。おばあちゃんがいなくなった後、主人公は、おばあちゃんをとても好きだと言っていますが、いつ頃からそんなに惹かれるようになったのか、その心の動きがつかめませんでした。翻訳は、ところどころ、よくわからない部分がありました。p27の「軽薄そうな灰色の毛糸の帽子」は、どんな帽子なのでしょう。p67に「ナーゼは二枚目のゴルトボンバー・デラックスの金色の包み紙を、穴からほりだしていた。」とあります。この書き方だと、チョコバーの包み紙を、すでに一枚、掘り出しているように読めます。「もみの木」の歌は、「もみの木、もみの木、いつも緑よ」となっていますが、私の知っている歌詞では、「いつも緑に」です。

アカシア:私は最初からリアルな話じゃなくて、荒唐無稽なほら話を楽しむようなテイストの物語だと思ったので、違和感なく読めました。おばあちゃんは家族を騙そうとしたり、もめ事を起こそうとしたりするんだけど、認知症でもないのに施設に入れられたってことが前提としてあるので、なんとなく恨めないし、おかしい。でも、まあ独特のユーモア感覚なので、日本のどの子も楽しんで読めますって、作品ではないでしょうね。1800円っていう高い値段だしね。

レン:最初からかなりつっかかりながら読みました。ハチャメチャなおばあちゃんがやって来て、家族が引っかきまわされて、お宝のことが新聞にのっちゃったり。ユーモアだろうと思いつつも、これがおもしろいのかな?という疑問がずっと消えなくて。おばあさんはかなり皮肉っぽい印象を受けたのですが、本当にこんな感じなのかな。外国語って、そのまま訳すと嫌みったらしく聞こえるじゃないですか。イメージしにくい描写もあって、たとえば75ページの「輪ゴムをおばあちゃんのあごの下にひっかけると、そっと上にあげて、大きくてしわしわの耳のうしろに、またひっかける」って、どんなことなんでしょう。

アンヌ:レンさんは、実際に日本語に翻訳なさる時には、別の言葉に変えてしまいますか?

レン:どういう行為を描いているか、イメージしやすいように多少書きくわえたりすると思います。それからp59 に「ヘンリックは目を見はった」とあるのですが、「目をみはる」というのは、驚いて目を大きく開くことですよね。秘密を話してやるよと言って手招きされて、驚くかなって。「目をきらきらさせた」とか「目を輝かせた」ということかしら。こういうことが、ほかでもちょこちょこ。それと、太字や大きな文字になっている部分がありますが、どうして書体を変えるかわかりませんでした。

レジーナ:原文では、イタリックということはないでしょうか。

アカシア、慧:原文も太字なんじゃない?

アンヌ:例えば、p96には、大文字で表記されている言葉と、太字で表記されている言葉があります。大文字は会話文が大声で述べられていることを表しているのかもしれませんが、太字の方はどうしてそうなのか、よくわからない。日本語としては、どちらも、表記を変える必要はないような気がします。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年1月の記録)