原題:MY DAD’S A BIRDMAN by David Almond & Polly Dunbar, 2007
デイヴィッド・アーモンド/作 ボリー・ダンバー/絵 金原瑞人/訳
フレーベル館
2011.10
版元語録:父と娘が母をなくした悲しみを乗り越え、「鳥人間コンテスト」を通じて信頼と愛情を確かめあう姿を、ユーモラスに描く。
プルメリア:挿絵がとてもすてきだなと思いました。場面によって文字が大きくなっているところも読みやすいな気がしました。お父さんは、お母さんが亡くなって落ち込んでいて、虫も食べちゃうというのが・・・。最後、コンテストに出場して元気になる。子どもがいつもお父さんに寄り添っていくのがいいし、鳥コンテストに出場する人達が発想豊かでかつユニーク、一生懸命努力する姿がいいなと思いました。最初は読んでいてどうかなと思いましたが、だんだんひきこまれて。お父さんが鳥コンテストに出場することで自分をとりもどしていくのかなと。登場人物がみんないい人っていうのもいいなと思いました。
レンゲ:こんなお父さんがいたら困るだろうなあと、ソフィーに同情しながら読み進めました。けれど、これまでのアーモンドの作品に登場してきた異質な者、普通という枠におさまらない人々と、このバードマンになったお父さんには、どこか共通のものがあって、ソフィーの人生も、やはりこのおかしなお父さんとのかかわりでより豊かになるのも感じられました。ただお話としてはハチャメチャで全然収束しなくて、読み終わってもすっきりしませんでした。ペロペロスースーというのも、ちっともおもしろくないし。
紙魚:読んでいて気になったのは、「ダンプリング」という食べ物。p55の初出で、「くだものいっぱいのダンプリングよ」という1文に突き当たったとき、これがどんな食べ物なのか、さっぱりイメージがつかめませんでした。たとえば、「くだものいっぱいの○○○○、ダンプリングよ」と、少しヒントが加えられていたりすると、もう少しその食べ物への期待が持てたんですが……。
アカザ:すいとんみたいなものよ。
紙魚:パパがどうしてこんなふうになっているのかわからず、この物語をどう読めばいいのか最後までわかりませんでした。充実した満足感は持てなかったです。いいなと思ったのは、章ごとの視点の移り変わりです。章ごとにパパがメインに描かれたり、ドリーンおばさんが描かれたりするんですが、散漫にならずに自然につながっていくのがうまいと思いました。このお父さんは、不思議な威厳もあると思うんですが、絵本『ガンピーさんのふなあそび』(ジョン・バーニンガム作 光吉夏弥訳 ほるぷ出版)のように、風変わりだけどやさしいまなざしを持ち得ているというふうに伝わってきたら、もう少し満足感が得られたのではと思います。
ルパン:『クロティ〜』を読んだあとにこれを読んだのですが、テーマなんだったっけって思うほど、違っていて…そのせいかあんまりお話に入りこめませんでした。ロアルド・ダールに似ている気もしたのですが。ファンタジーなのか、ナンセンスなのか、ブラックユーモアなのか・・・最後まで「?」でした。読みながら、この読書会で何て言おうかってことで頭がいっぱいになっちゃって。これがおもしろくないのはいけないんだろうかとか、よけいな心配ばかりしてました。なにしろ典型的日本人A型ですから。こういう素材で意味不明とかいったらつまんない女に見えるかなあとか、雑念全開でますますわけわかんなくなっちゃいました。このお父さん、お母さんが亡くなって精神的におかしくなっちゃったんだと思うと、どこを読んでも笑えませんでした。唯一キャラクターの中でよかったのは、コンクールがありますよって呼び歩く人。脇役がいいのはうまい作家なのかな、とは思いました。
アカザ:私は、アーモンドの作品が大好きで、たいてい読んでいます。でも、小さい子ども向けの作品を読むのは初めてなので、お気に入りの歌手が新しいジャンルに挑戦したときのファンのように、どうか成功してほしいと祈るような気持ちで読みました。最後まで読んでみて、着地に失敗しちゃったかなと残念な気持ちがしました。この話は、角度を変えてみると悲惨な話ですよね。トールモー・ハウゲンの『夜の鳥』(山口卓文訳 河出書房新社)を思い出しました。あっちが陰とすると、こっちは陽の書き方をしているけれど。お母さんが亡くなって、精神的なダメージを受けているお父さんを、リジーという子がそのまま受け入れて応援していくって話だと思うんですけどね。善意だけれど、応援のしかたが間違っているおばさんや、いい人だけど、あんまり力にならない校長先生や、得体の知れないミスター・プウプや、大人の人も大勢出てくるんだけど、いったいファンタジーなのかリアルな話なのか、作者の意図はどこにあるんでしょうね? 最初はミミズを食べてたお父さんが、最後にはおばさんが作ったダンプリングを食べるというところで、立ち直ったということを表現しているのかな? 大人向けの作品を書いている作家が子どもの本を書くと、よくこういうことになりますよね。小さい人たちは、ファンタジー的なものが好きだとか、ユーモアも散りばめなきゃとか、食べ物を出せば喜ぶだろうとか、いろいろなサービスを考えちゃうんでしょうね。
この人のYAは『火を食う者たち』(金原瑞人訳 河出書房新社)ではキューバ危機を、まだ邦訳のない『raven summer』は、アフリカの難民の少年をというように、10代の人たちの内的世界と世界的なできごとを結びつけて感動を呼ぶんだけれど、そういうところはこの作品には見られませんね。それから、後書きで訳者が、お母さんの死についてなにか述べているんだけれど、これはなんなのでしょうね? どこか見落としたところがあるのかと思って、もう一度読み直しちゃったわ。
トム:挿絵は現代的でコラージュも、とてもきれい。ただ、絵から読みとることと、物語から読みとることのあいだが微妙に埋まらなくて、ずっと宙にういたまま読み終わったのですけど。もしかしたらイギリスの人がたのしむナンセンスの感覚が私の中にあったらもうちょっと近づけたのか・・・物語は悲惨な話ですよね。陰の部分がとても悲惨でも、淋しさとか虚しさとか悲しさをそのまま差し出さない物語のスタイルと思いますが。悲しいときは、いっそ楽しく乗り越えようという。リジーがお父さんといっしょに鳥になって巣の中で卵を温めたりするところは、想像の遊び大好きな子どもがすっと入っていけるたのしい世界と思います。子どもがその気になれればですが。気になったのは、p57の文中でダンプリングの材料の中に卵が入っているのに、絵に卵がなくて・・・「たまごはどこ?」と聞く子どもが必ずいると思う。こういうところとてもよく見ている子どもがいるはず。それから、まぶしいほどに白いダンプリングって書かれていて、どんなにおいしそうなものかと期待するのですが、絵のダンプリングはややベージュ。パパを元気にするためのダンプリングなのだから言葉と絵と相まって思わず画面に手を伸ばしたくなるようだったらいいのに! あとがきに、「信じる心の大切さがしっかり伝わってきます」とありますが、あまり胸に落ちてきませんでした。
ハリネズミ:アーモンドさんってちょっと普通と違う不思議な人を登場させて物語を展開させていきますよね。でも、この人は特殊なんですって言わないで展開していくのがとても上手な人だと思うんですけど、このくらい年齢層が低い子が対象だと、それも難しいなと思いました。このパパは、変わってます。一方ドリーンおばさんは地に足がついている存在として登場するんだけど、ダンプリングを投げたりするから、子どもが読むと、どこに軸足をおいて読んだらいいか、わかりにくいだろうなと思いました。ずっと浮遊しながら読むのはむずかしいだろうな、と。年齢が高い読者対象なら、それもいいんですけど。この作品は、主にYAを書いてきた作家が小さい人向けに書いたけれど、あんまりうまくいかなかった例じゃないかと思いました。もう少しストーリーをくっきりさせていかないと、子どもの読者には難しいだろうな。たとえばp11でお父さんは「鳥人間コンテストに申込みをするんだ」って、何度も言いますよね。でもp24でプゥプさんが呼びかけても最初は聞いてない。もちろん実際にはこういうことはありうるけれど、小さい人のお話では、逆効果。飛ぼうとするイメージがくっきりしなくなっちゃいます。結局最後まで読んでも、様々なイメージがばらばらでまとまりのある物語には思えませんでした。同じように変わった親が出てくる物語にジャクリーン・ウィルソンの『タトゥーママ』(小竹由美子訳 偕成社)がありますけど、あっちは主人公に寄り添って読めるし、随所にユーモアがあって物語にもまとまりがあります。でも、この作品ではそうじゃない。期待はずれでした。
(「子どもの本で言いたい放題」2012年7月の記録)