日付 2012年09月27日
参加者 ハリネズミ、紙魚、サンシャイン、タビラコ、プルメリア、レン、レジーナ
テーマ 好きなことに夢中になる少女たち

読んだ本:

『鷹のように帆をあげて 』
まはら三桃/作    講談社   2012.01

版元語録:風を切って上昇気流に乗ってどこまでも高く飛んで…飛べない鷹と不器用な少女が翼を拡げる日はきっとくる。九州の空を舞台に、猛禽に心奪われた女子中学生が鷹の「帆翔」をめざす青春小説。


『海辺の宝もの 』
ヘレン・ブッシュ/作 鳥見真生/訳 佐竹美保/絵    あすなろ書房   2012.04
MARY ANNING’S TREASURES by Helen Bush
版元語録:メアリーは、ちょっと変わった女の子。学校は好きじゃないし、友だちと遊ぶのも嫌い。好きなのは、ひとり海辺を歩くこと。そして、とうさんから習った「変わり石集め」をすること!でも、そんなある日…。12歳の少女の世界的な大発見。世界初の女性化石採集者メアリー・アニングの数奇な運命をたどる伝記物語。


『図書室からはじまる愛 』
パドマ・ヴェンカトラマン/作 小梨直/訳    白水社   2010.06
CLIMBING THE STAIRS by Padma Venkatraman
版元語録:1941年、インド。お嬢さまとして育ったヴィドヤは、父親のけがで生活が一変、苦しみの毎日に。しかし、禁じられた図書室に忍び込んだことから、運命が変わっていく。愛と成長の物語。


『鷹のように帆をあげて』

まはら三桃/作 
講談社
2012.01

ハリネズミ:ちょっとここはどうなのかな、と思う点がいくつかありました。たとえば、不思議なおばあさんの登場は必要だったのだろうか、とか、同じクラスの根本舞子ちゃんが理央がリストカットをしているのではないかと疑ったり鷹を飼っているのを知らなかったりするのは不自然じゃないか、とか。小さな町という設定だと思うので、理央が毎日鷹を腕にとまらせて外を歩いていれば、すぐにみんなに知れ渡るんじゃないでしょうか? それから、死んでしまった遙ちゃんですが、その後は手袋が登場するだけで、理央が遙のことを思い出したりすることがないため、重い心の傷になっていることがあまり伝わってきません。でも、全体としては、とても好感を持っておもしろく読みました。理央が徐々にモコを知っていき、悩んだり、考えたり、工夫したりする姿がとてもよく書けています。しかも鷹なので単なるペットではなく、野性的な面も活かしていかないといけないということで、人間と動物との間の距離を考えるにもいいなあ、と思いました。鷹を飼ううえでどんな工夫をしていったかが具体的に書かれているので、読者も物語の中に入り込めます。会話が福岡弁でかわされているのもいいし、実在の石橋美里さんがモデルだという平橋さんもとてもさわやかですてきでした。

紙魚:きっと作者は、おばあさんは不思議な存在のままにしたかったのではないかと思います。理詰めではなく、どこかで何か、不思議な力が働いている物語にしたかったのではないかと。

タビラコ:さわやかな、いい作品だと思いました。なにより福岡弁で書かれているのが、魅力的。その地から生まれた言葉の力を感じました。魚住直子さんの『園芸少年』(講談社)もそうでしたけど、ものを育てていく過程が詳しく書かれているところがいい。これを読むと、ペットの犬やネコを飼うのが、なんだかやわなことに思えてきて。おもしろかったのは、鷹匠がカラスの被害を防ぐという社会的な活動をしていること。この作品を読むまで知りませんでした。ただ、冷凍のヒヨコを食べさせるところは平気だったけど、食用のカラスを輸入するというところで、ちょっと引いてしまいました。でも、よく考えれば猛獣や猛禽類を飼っている動物園などでは当然のことで、現場から遠いところにいる私のような人たちが気づかないか、気づかないふりをしているだけなのよね。そういうところまで、きっちり書きこんでいるところがいい。そういうところで引いてしまう私は、まだまだ修行が足りん!と思いました。

ハリネズミ:そういう部分を気持ち悪がる人はいると思いますが、この間私はゲイハルター監督がつくった「いのちの食べかた」っていうDVDを見たんですね。人間の食事が見えないところでとんでもないことになっているのが、よくわかりました。人間は、チャップリンの「モダン・タイムス」に出てくるようなことを、命あるヒヨコでも、牛でも豚でも野菜でもやってるんです。冷凍のヒヨコや生きたカラスを鷹に食べさせたりするのは、それに比べればずっと自然です。

レン:この女の子が鷹を飛ばせられるだろうかというのと、友だちの死を克服できるかという二つのストーリーにひきつけられて一気に読みました。さわやかで感じのいいお話。三人称だけれど、かぎりなく理央ちゃんの気持ちに近い書き方ですね。康太もいろいろな思いを抱えて物語を持っていますね。お母さんとのことや、だからこそお寺のことを一生懸命やるとか、この子の話でもうひとつ小説が書けそうなくらい。でも、これは理央ちゃんの話だから、あまりつっこまずに、さらっと流しているんでしょうね。理央ちゃんが、一つ一つ発見しながらやっていくのがいいですね。うまくいかなくて、人にきいてみると向かい風の方が飛びやすいと教えられるところなど、とてもいいと思いました。

レジーナ:昨年、まはらさんの『最強の天使』(講談社)を読みましたが、より完成度の高い作品に仕上がっていると感じました。「帆飛」というタカ特有の飛び方や、「向かい風が吹いていた方が飛びやすい」など、人の人生に通じるような細々とした要素が盛り込まれている作品です。康太にとっての向かい風が、養子として育った生い立ちというのは、エピソードとしては少し弱いようにも思いました。理央が友人の死を乗り越えるきっかけをくれるおばあさんの存在が唐突で、結末まで読み進めても、よく理解できませんでした。また平林さんの描写ですが、主人公のロールモデルとなる人物なので、もっと目の内に映るようにいきいきと描いてほしかったです。

プルメリア:すごくおもしろかったです。主人公理央が鷹匠を目指す過程と、亡くなった友だちへの思いがこの作品にあり、二つが平行しながら進行していくストーリーとして読みました。話題になっているおばあさんの言葉は、少年にとっては産みの母とのふんぎり、主人公には友だちとのふんぎりになっていると思います。お友だちが寺に来たとき、「こ、こ、こ」と言った場面、この子は康太のことを言ったと思うんですけど、理央には鶏の鳴き声に誤解されて、すぐ誤解は解けますが、かわいいな、と。お寺の日常生活が書かれていたのでお寺さんにちょっと親しみを持てました。お友だちにかえしてあげようと、鷹が手袋を持っていく場面、いい終わり方だと思いました。

サンシャイン:「鷹匠」の話というので興味深く読みました。小説の中の中学生と、実在する高校生の鷹匠の交流など、流れはいいと思いました。「鷹匠」というと思い出す作品があります。戸川幸夫の『爪王』(国土社)です。鷹と鷹匠の戦いなんですね。暗いところに1週間置いておいて飢えさせて、鷹匠が与える生肉を食べるかどうか。それが印象が残っているので、それとの関連でとらえると、現実の高校生の実話の方に確実に力があります。正直言って、フィクションのお話の主人公の方が、どうしても弱い。新しい友だちが出てくるけれど、同じ街の中のこととして、友だちが死んだことくらい、知っているだろうとか、街中で鷹を腕に乗せて歩いていたら、みんな知っているだろう、だから腕の傷を見て「リストカットしたの?」という質問も嘘くさい。結末の手袋が消えてなくなるあたりも、筆者にファンタジーの発想があるんだろうと思うんですね。ファンタジーよりも現実の話の方が圧倒的に力があると思います。

タビラコ:でも、フィクションがノンフィクションを超えることは、よくあることだし・・・。

ハリネズミ:私は、実在の高校生の石橋さんが、この物語では、平橋さんの中だけでなく、理央の中にも、かなりの部分、入り込んでいると思いました。平橋さんと理央と、二人が一体になっているような気がします。

レン:実際の鷹匠の女の子は強さがあるのでしょうけれど、誰にもまねできないような人のことを書いても、普通の中高校生は、あの人は別だと思ってしまうのではないかしら。でも、理央ちゃんが、何気ない出会いから新しいことをはじめ、自分なりに進んでいく姿は一般性がありますよね。そして、あきらめないでやっていく。これはこれなりに意味があると私は思います。優等生の物語というか、この人だからできるんだろうというのではなくて。

紙魚:作者のまはらさんは、この作品の前に、中学校弓道部を舞台にした『たまごを持つように』(講談社)、工業高校機械科を舞台にした『鉄のしぶきがはねる』(講談社)を書いていて、この『鷹のように帆をあげて』と同様、現実を取材したうえでフィクションを書きあげるという方法をとっています。3作とも、物語を読んでいるうちに、弓道、旋盤、鷹匠という知らない世界について、自然と知っていくという経過をたどります。どのくらい現実を注ぎこむのがいいのか、その塩梅は難しいと思うのですが、中学生の読者が読むには、難しくなりすぎず、自然に物語を楽しめるというようになっていると思います。それから、一概にはいえないかもしれませんが、それなりに年齢を重ねている作者が書く作品というのは、自分のことをわかってほしくて書くというよりも、他者に思いを寄せて書くという姿勢が強くて、安心して読めるような気がします。

レン:女性の書き手だと、4、50代で、子どものために書くんだという覚悟を持っているなという人を何人かあげられるけれど、男性だと60代以降はいても、それ以下だとすぐに思い浮かばないんですよね。売れると、大人の作品に行ってしまうのか。残念だし、これからどうなるのかと思います。

*この後、誰かが「絵本はいるけどね」と言い、一同、「そうそう」という会話がありました。

(「子どもの本で言いたい放題」2012年9月の記録)


『海辺の宝もの』

ヘレン・ブッシュ/作 鳥見真生/訳 佐竹美保/絵 
あすなろ書房
2012.04

レジーナ:今回課題となった3作品は心に残るものが多かったです。この作品は、はじめて知りました。最初は、「悪魔の二枚貝」と呼ばれていた貝が、後になって正式な名前が明かされるのがおもしろく、挿し絵もわかりやすかったです。福岡伸一さんの『生物と無生物のあいだ』(講談社)に、「石には生物の痕跡がないけれど、貝には命の名残りが感じられる」とあったのを思いだしました。この作品でも、主人公は父親の死を経験するので、大切な人の死を経た主人公が、大昔に命を宿していた貝を集めるということの意味まで含めて書いてほしかったです。そこまで描ききれていないのは、作者が科学者だからでしょうか。割ってみたら、隠れていた美しい模様が外に現れたり、何度も同じアンモナイトを見つけたり、人生そのものに重なるようなエピソードはたくさん埋まっているので、もっと掘り下げていれば、さらによかったのですが…。ジェーン・オースティンも、同じ場所を舞台にしているので、学生時代に英文学の授業で『エマ』を読んだときのことが、心に浮かびました。「かわいいメアリー」という訳には違和感をおぼえました。

プルメリア:今回の選書担当は私です。以前読んだ『メアリー・アニング: 物語化石を見つけた少女』(キャサリン・ブライトン著 評論社)がおもしろくて、恐竜の化石を見つけたことが主だったのですが、この作品は別で、佐竹さんの絵、表紙を見て、手に取りました。いろいろな化石の挿絵があり、各章のタイトルもすてき。挿絵から生活様式がよくわかるので、子どもにもわかりやすい本。主人公メアリーは、同年齢の友だちがいなくても平気な子で、大好きなお父さんの仕事を手伝う。石集めのその楽しさが伝わってくると同時に、お父さんから海のことを教えてもらい、海の怖さがいろんな場面から伝わってくる。化石を見つけたことだけではなく、周りの大人たちに助けられたり、同年齢の子と仲良くなったりすることもほほえましい。1965年に書かれた作品なのに、今読んでも読ませるのは、作品がいいからでしょうね。

ハリネズミ:物語としてはなかなかおもしろかったし、人々の生活感や思いは生き生きと伝わってくるし、海辺で見つかるものにも興味がわくと思ったんですけど、大きくひっかかったところがあります。それは、主人公のメアリーが、「宝物」だけで満足していて、自分は科学者になろうとは考えないこと。そのあたり、たとえば『ダーウィンと出会った夏』(ジャクリーン・ケリー著 斎藤倫子訳 ほるぷ出版)の主人公キャルパーニアの方がずっと魅力的だし、新しい。たぶんイギリスが階級社会であることが災いして、当時の労働者階級のメアリーは科学者にはなれなかったんだと思うんです。原文は見てないのでわかりませんが、実生活ではメアリーやその家族が使っている言葉と、学者やヘンリー・デ・ラ・ビーチやお得意さんの紳士淑女が使っている言葉は明らかに違うはずです。でも、そのあたりは訳文からはうかがえません。そうなると、日本の読者たちは、なぜメアリーはヘンリーと結ばれないんだろうなんて、不思議に思うかもしれませんね。

サンシャイン:興味深く読みました。作者は、メアリー・アニングという人物を知ってもらおうと思って、創作という形で書いたんだと思います。家族それぞれの化石への興味の持ち方が違うあたりとか、それぞれ書き分けられています。少し一般論になりますが、タイトルの原題は“Mary Anning’s Treasures”で、原題には固有名詞が出ているのに、日本語訳すると、固有名詞をはずして邦題をつけることが多い。もともとの原作は、個人というものを前面に出そうとしているのに、日本では個々人というようには見ていないのではないか。人間観が違うからでしょうか。例えば、邦題は忘れましたが、“Nathan’s Run”というのがありました。ネイサンは単なる主人公の固有名詞なんだけど、この本については、歴史上の人物なのだから、伝記に近いわけで、例えば副題に「メアリー・アニングの生涯」と入れるべきだと思いました。作者が、メアリーの存在を読者に知らせようと思って書いたわけだから。

ハリネズミ:東京ではそれほどカタカナ名前に抵抗はないのかもしれませんが、地方に行くとカタカナの名前が書名にあるだけで読まれないと聞いたことがあります。たとえば滋賀県の図書館のある館長さんは、とても工夫がじょうずで、転勤先の図書館をどんどん改革していくのですが、この間お話を聞いたときには、外国の作品、日本の作品と書架を分けると、子どもは日本の作品しか読まないので、童話や児童文学は日本のも外国のもいっしょにして著者の五十音順に並べたっておっしゃってました。それくらい、外国のもの敬遠されちゃうんですね。だから、なるべく多くの子どもに読んでほしいなら、書名や表紙のデザインは日本の子どもたちが手に取りやすいように工夫する必要があると思います。  ハリネズミ:鈴木先生は、欧米では個人にこだわるっておっしゃいましたけど、そうとばかりは言えません。たとえば、日本の絵本を翻訳出版するとき、欧米では主人公の名前を平気で自分の国の子どもの名前に変えちゃったりしますからね。アジアでもそういうケースがあります。

タビラコ:名前の持っているイメージまで翻訳で伝えるのは、とても難しいわよね。翻訳で越えられない壁のひとつというか……。たとえば、ハリポタの「ハーマイオニー(Hermione)」だって、とても古風な名前なのでイギリスの子どもたちのなかにも読めなかった子がいたとか。「ハーミ・ワン」と読んでいたそうです。

プルメリア:読めない子どもたちには、「毎日少しずつでも読むと、楽しく読めるよ」とすすめています。

(「子どもの本で言いたい放題」2012年9月の記録)


『図書室からはじまる愛』

パドマ・ヴェンカトラマン/作 小梨直/訳 
白水社
2010.06

レン:よくありがちな古風な話だと思ったけど、ヴィドヤが最後どうなるのかに惹かれて読みました。いちばんおもしろかったのは、インドでずっと暮らしていた作者らしく、インドの暮らしぶりとか衣服とか食物、家族の関係、社会の様子が書かれているところ。でも、物語には疑問も残って、事故のあとでお父さんの実家が移ったときに、なぜこのおじいさんはもっと早くにヴィドヤに手をさしのべてくれなかったのかなと。最後、大学に行かせてもらえてよかったですけど。

ハリネズミ:おじいさんは、日常の些末なことには気をとられない暮らし方をしてるから、気づかなかったんじゃないの?

レン:でも好きな場所もあって、たとえば最後にお兄さんが、お父さんの考えを理解しながらも軍隊に入るとこと。家族で理解し合いながらも進む道が違うというのはおもしろいなと。それから、図書館で出会ったラマンにノートをもらって、ノートを書き始めるp134の場面。どこにも持っていきようのない自分の気持ちを文字にすることで解放されていく感じが、よく出ていると思いました。でも全体的には、すごくおもしろいのかというと、そうでもないかな。真面目くさくて。この子があまりにもいい子だからか。苦労して苦労して、「おしん」みたいな雰囲気。大人向けに出されているし、日本だと高校生は手にとるのかなと思いました。

タビラコ:どうなることかと思いつつ、一気に最後まで読みました。食べ物や衣服の描写がとても魅力的でしたね。ただ、いちばんひっかかったのは、いちおうカースト制度に言及しているところもあるけれど、結局は恵まれた人たちの話なのでは?ということ。それはそれでいいのだけれど、もう少し社会全体を感じさせる、奥行きのある書き方をしてほしかった。それよりなにより、タイトルが気になって……。

レジーナ:私もそう思いました。映画のタイトルにありそうですよね。

タビラコ:この「愛」って、なんなんでしょうね? 階段を上がったらすばらしいものがあったということだから、本に対する愛なんでしょうけれど、思わせぶりで、ずるい。

レジーナ:非常に深く読むとすれば、自分の人生を丸ごと受け入れる「愛」なのかとも思いましたが・・・。

ハリネズミ:この本は、出てすぐに読んだんですけど、主人公が好きになれませんでした。今回、みんなで読もうということになって取り出してきたんですけど、内容をほとんどおぼえていなくて、もう一度読み直しました。第二次大戦の影響を受けつつあるインドの状況はわかるし、お金持ちのインド家庭の様子もわかる。表紙とカバーが違うなど、本づくりにも工夫がある。でもやっぱり、私は主人公のヴィドヤに好感を持てませんでした。だってね、自分のせいで父親が大けがを負ってしまったという自責の念があると言いながら、父親のことを始終気にかけるわけでもなく、平気で「脱け殻」と言ったり、「いっそ死んじゃってくれてた方がよかった」なんて言うんですよ。それにヴィドヤは、保守的な伯父に対してリベラルな自分の家族の方がいいと思ってはいるけど、カースト制度そのものに根本的な疑問を抱いているわけではなく、ちょっと生活のグレードが下がると不平ばかりこぼしています。ビクトリア駅でおじさんの荷物をクーリーに運ばせる場面がありますが、白人の少女から自分がクーリー呼ばわりされると、かんかんになる。自分はもっと上の階級なのだと、主張しているだけのようにとれます。登場人物はすべて類型的で、ひとりひとりが一定の役割を持たされている感じ。恋人のラマンにしても、ハンサムで優しいという以外には、人物像が浮かび上がってきません。生きている存在として迫ってこないから、インドを舞台にしたハーレクイン・ロマンスみたい。それに、ヴィドヤが好きになる本にしても、タイトルは出てくるけど、どんなふうに影響を受けたかは出てこないので、表面的です。今回の3冊の中で、いちばん残念な本でした。

レジーナ:ヴィドヤは、 M.M. ドッジの『銀のスケート』を読んでいて、記憶をなくした父親を持つ主人公と自分を重ねているんですけど、本との出会いを通して、自分の問題をどう受け入れていったかは、書かれていないんですよね。

プルメリア:映画のパンフレットみたいな表紙。インドの本を初めて読みましたが、インドからイギリスを見る視線が出ているなと思いました。おばさんのいじわるな言葉をはねのけながらたくましく生きていく様子が、わかりやすく書かれている。最初の場面で、お友だちにお父さんが非暴力運動に関わっていることを話してしまうシーンがあります。この時代に他人に話すことは絶対にいけないことなのに、いつお父さんの正体がばれるか、すごく心配で、読み進めるのがこわかったです。その友だちとは別れるのだけど、少女の浅はかなひとことに、どきどきしました。図書館は2階で、女の人は行ってはいけないから、入れないのかな。利用者が少ないのはもったいない。おじいさんが本を集め、自分の子どもである(少女の)お父さんも利用したのでしょうが、いろんな文化的なものがあるのに、図書館を広めないのは、読む人がいないからでしょうか。

レジーナ:昔の王族のように、読むための本ではなく、権力の象徴や財産としての本なのでしょうか。

レン:家の中でも、男の人は行ってもいいけれど、女の人が行けないところがあると書かれていますよね。

プルメリア:女の子でも学問の志を持てる時代かな。少女は、学びたいという気持ちがあって、大学に行きたいという気持ちを持っている。

ハリネズミ:この家族は、いちばん上の階級ですからね。

プルメリア:身分制度で?

ハリネズミ:だから、図書室を一般の人たちにも開放しようなんて、ありえない。食事のお皿だって、下の階級のメイドさんが洗った後、もう一度家族の者が洗い直してるんですよ。身分差別だけじゃなくて女性差別もあるから、女は2階には行けなかったのよね。

タビラコ:男の人の上に登っちゃいけないってことかしら。それだったら、平屋にすればいいのね(笑)。

プルメリア:最近、テレビでインドの暮らしが紹介されていましたが、インドは、階級が、今でも残っていました。

レジーナ:原題の“Climbing the Stairs”を見たときに、マリア・グリーペの『エレベーターで4階へ』(山内清子訳 講談社)を思い出しました。これは、スウェーデンを舞台に、母親が住みこみの家政婦として雇われたことで、主人公もその屋敷で暮らすようになり、生まれてはじめてエレベーターに乗って、新しい世界を知っていく物語です。『図書館からはじまる愛』も、階段を上がった先にある図書室で、新しい世界に触れる点に意味があるので、「愛」という大きな概念でまとめてしまった題名には、違和感があります。裕福に育った少女が、食べるのに困らない環境で、意地悪な人々と暮らすという設定は、『小公女』のようですね。最後の方のp240で、平和や愛についてのタゴールの言葉に触れていますが、この1節だけでも、とても深い内容を表しているので、主人公の人生と重ねて、作品の中でもっと使うこともできたのではないでしょうか。イギリスとインドの問題を考えたときに、ロザムンド・ピルチャーの“Amita”という短編が思い浮かびました。登場人物のひとりで、裕福でハンサムな青年が、家族の反対を押し切って、フランスとインドのハーフの女性と結婚するのですが、青年は、その経験を通して、人間性を深め、成長していきます。『図書館からはじまる愛』も、ヴィドヤが変わっていく様子が描かれていればよかったのですが…。p36のヒンズー教の説明は興味深かったです。

サンシャイン:本を買う前に、インターネットであらすじを読み、すっかりお父さんが死んでしまうと思ってしまっていたら、読んでいて、お父さんは死なないんだと気づき、人間というのは、最初の思い込みにけっこう限定されちゃうもんだなと思いました。怪我をして、口もきけなくなったお父さんを家族で抱えながら、という展開は、予想もしなかったので、お話としてはよくできていると思いました。結局、お父さんが生ける屍になってしまったのは、自分が原因だと主人公が思っていて、それを人になかなか言えずに心の中に抱えているわけです。主人公のお嬢さんにとって、重い心の負担。『兵士ピースフル』(マイケル・モーパーゴ著 佐藤見果夢訳 評論社)という物語で、弟が、自分のせいでお父さんが死んでしまったと思っているけれど、人には言えなくて、兄が殺される直前にやっと言える。兄さんから、「お前が殺したんじゃなくて、とうさんを殺したのは木なんだ」と言われて弟が救われるという話がありましたが、パターンとしては似ている。物語の最後で、「お前のせいではないよ」と言われることで救われる。

ハリネズミ:ヴィドヤは、苦しんでいるというより、かっとなって言い返すという反応しかしてないから、共感しにくいですよね。

タビラコ:お父さんが非暴力運動をしていることを、学校で友だちに打ち明けてしまうところが不思議だったんですけど……。

サンシャイン:インドにおける抵抗運動というのは、朝鮮における抵抗運動や、フランスのレジスタンスとは形が違うのか? 私は、素直に、戦争中のインドはこうだったのかなと、受け取りました。お祭りがどうだとか、描写が細かかったものですから。主人公うんぬんよりも、当時のインドの姿はそうだったのかなと読みました。戦争に行くお兄さんに会いに行くときに、インドの庶民の場に行ってしまいますよね。歴史小説っていうと変ですが、戦争中のインドの現実の姿はこういう感じだったのかとイメージができました。

レジーナ:ドキュメンタリーみたいですよね。

サンシャイン:題名はあまり感心しませんでした。

レン:男女差別があって、女性はスポーツもできず、外国にも行かれない、この時代のインドで、普通の女の人のようには生きたくない女の子の話だというのはわかりますよね。

レジーナ:お医者さんになるという道を選ぶまでの心の動きを、読者が納得できるように描いてほしかったです。

プルメリア:少女が『銀のスケート』を読んだときに、父親を治すためにお医者さんになりたい予感がしました。

ハリネズミ:お父さんのこと、死んじゃえばいいなんて言っているのにね。取ってつけたみたい。よく作家が、書き始めると勝手に登場人物たちが動き出すって言うじゃないですか。この作品は最初に図式があって、最後までその図式どおりにしか人物が動いてないんじゃないのかな。

レジーナ:フィクションではありますが、家族の歴史を記録したドキュメンタリーのような作品を書きたかったのかもしれませんね。

サンシャイン:お兄ちゃんが、父親が考えていた非暴力ではなくて、必要な時は戦わなければだめなんだという考えを持ったのは、いかにもアメリカ的ですね。

タビラコ:アメリカ人の読者には、受けるでしょうね。私は、同じ抵抗運動をあつかったものとしては、リンダ・スー・パークの『木槿の咲く庭』(柳田由紀子訳 新潮社)のほうが、ずっとよく書けていると思ったけど。

ハリネズミ:これはアメリカ讃歌みたいな終わり方ですね。作品としての迫力がさらにそがれてしまっているように感じます。

(「子どもの本で言いたい放題」2012年9月の記録)