ヒーラ:こういう方たちがいたのだという驚きでした。絶望的な話ですね。この本自体が終戦10年後に書かれたということは、著者がアメリカ人に現実を伝えようとした趣旨の本なのでしょう。こういう本がアメリカで戦争10年後に出されたことに価値があると思います。悲劇的偶然ですが、2度被爆し、それでも生き残った方々に取材して、証言をもとに書かれているわけで、文章自体も非常によくできていると思います。アメリカ人の目からみた日本人観がところどころ出てくるのも興味深かったです。広島で被爆した経験をもとに、3日後の長崎で対処のしかたのアドバイスができて、その瞬間には命を落とさずにすんだ方々もいたというのがせめてもの救いですね。

メリーさん:2度も原爆の被害を受けてしまった人たちがいたとは知りませんでした。その点では、後世に伝えるという意味で、今回読めてよかったなと。ただ文中、日本人名がカタカナなのは気になりました。加えて、ところどころにアメリカ人の日本人観が強く出ていて「東洋人は」とか「日本人は」という部分や「原爆は使うべくして使われた」などというところ、これはこのままでいいのかなと疑問でした。外国人の著者が日本を扱ったノンフィクションは、日本人にはない視点があっておもしろいものがたくさんありますが、原爆がテーマの場合はもう少し考える必要があると感じました。この本を今出す意味はどこにあるのか。当時こういうことを取材していたアメリカ人ジャーナリストがいたということを取り上げ、その中で彼の記録について具体的に触れる、というやり方をするという方法もあったのではないかと思いました。

レジーナ:長崎の被爆が広島ほど知られていないことに対する複雑な想いは、二重被爆という問題の中でくっきりと浮かび上がったように思います。土産物として被爆者の写真が売られていた当時の状況など、初めて知ったことも多くありました。その一方で、日本人について少し不自然な描写がいくつかありました。たとえばビジネスにおける紹介を日本特有の習慣だと説明していますが、アメリカでも仕事のために人に紹介してもらう状況はあるでしょうし、聞き手のアメリカ人が知らないと思って、その人のために話したことが、そのまま記録されてしまったのかもしれません。被爆者を見た日本人が、死者を会津白虎隊になぞらえているのにも違和感がありました。聞き手のアメリカ人の頭の中に、お国のために戦って死ぬ日本人像がはじめにあって、それにつながる感想を強引に引き出したような……。キリスト教国であるアメリカが長崎に大きな被害をもたらしたことを皮肉だと感じていると書かれていましたが、本当にそう考えていた長崎の人は、どの程度いたのでしょうか。原爆が、戦争を終わらせるための手段として、使われるべくして使われたという記述に表れているように、広島・長崎の被爆の問題をアメリカの視点から見た作品です。デリケートな問題なので、客観的な視点をよく考えた上で、子どもに手渡していくことが必要だと思いました。

みっけ:後ろの解説に山口彊(つとむ)さんの話があるし、ちょっと前に二重被曝を扱った映画のことも新聞で見たりしていたので、そういう流れのなかでこの本を出そうと考えたのではないかと思いました。そのときの新聞記事の様子から見ても、日本では、二重被曝のことをきちんと取り上げた本などはほとんどないような気がします。そんな中で、終戦から10年という時期にアメリカ人がこれを書いたということはとても重要なことだから、翻訳を出す意味はあると思います。ただ、一つにはアメリカ人がアメリカ人の視点で,アメリカ人に向かって書いている本であることからくる違和感というか、限界がある気がします。また、終戦の10年後に書かれているという限界も。さらに長い年月が経ったとき、つまり40年後、50年後にどうなるかということは、当時わかっておらず、どうしても表現が楽観的になっているとか。これは、原爆そのものを初めて人間に使ってみた、いわば人体実験のような側面もあるわけで、その前はまったくどういう影響が出るかがわからなかったから、しかたないといえばしかたないのかもしれないのですが。しかし、たとえばここに好意的に出てくるABCCについても最近、原発関係で資料隠しをしていたという報道があったりするわけで、そのあたりのギャップは何とかする必要があると思います。その意味では、版権などの関係で可能かどうかわからないけれど、たとえば、作者のトランブル自身に関して、なぜこの本を書いたのかといったことまで含めた調査に基づく文章をまとめて、それを枠としてそこにこの翻訳を埋め込むとか、そういう形が望ましかったのではないかと。あるいは、翻訳の前か後に、作者自身についてのきちんとした調査結果などをまとめたものをつけるべきだったと思います。人名をカタカナにしているのは、たしかに読みにくいけれど、アメリカ人が取材して書いているという距離感を出すには、このほうがいいのかもしれません。漢字に直すとそこが薄れてしまうから。また、アメリカ人の視点で書いていることもあり、まだ10年しか経っていないということで、原爆についての論議は深まっていないから、日本人が言っているという奇妙な発言も嘘とは決めつけられないと思います。でも、作者はジャーナリストだから、自分が見たいもの、読者に見せたいもの、読者が見たがるものを拾う傾向は当然あるはず。だから、そういう状況を客観的に書いたものを付け加えたほうがいい。そこがクリアできれば、こういうものを出すことは大事だと思います。それと、かなり重い話なので、むしろこれくらいコンパクトな方がいいのかもしれない、とも思いました。

なたね:原爆についての本は、ずっと出版しつづけ、読みつづけるべきだと思っているので、この本のことを知って本当によかったと思っています。淡々と書いているけれど、当時の人々の暮らしや考え方が想像できるし、戦時とはいえ、そういう日常が突然断ち切られてしまった理不尽さが胸に迫って・・・。名前がカタカナで書かれているせいか、三菱重工グループの人たちとハタ職人の人たちの、どなたがどなたなのかわからなくなってしまうことがありましたけど、新婚早々で妻を失った平田さんの話は忘れられません。ただ、なぜ10年後に二重被爆のことを、このジャーナリストが書いたのか、単にジャーナリストとしての興味からなのか、それとも別の理由があるのか、そういった背景をとても知りたいと思ったけれど、いまそれを調べて書くのは難しいのかもしれないわね。ただ、子どもに手渡すときには、いまみっけさんがおっしゃったことも含めて大人からの解説が必要で、このままポンと渡すことはできないと思いました。大人は、そのあたりを意識して読めますけどね。p97に長崎のキリスト教徒の被爆に対する考え方として「日本の犯した罪があまりに大きく、激怒した神をしずめるには原子爆弾による何千人ものキリスト教徒の死が求められ、その結果、戦争が終わったのだという主張」が挙げられています。すべての長崎のキリスト教徒がこんなふうに考えていたとは思えませんが、アメリカのキリスト教徒はこう考えることによって納得していたのかと、あらためて憤りをおぼえました。東北大震災を天罰だと口走った前の東京都知事のようで……。

プルメリア:二重被爆については初めて知りました。戦争を扱った作品として『絵で読む 広島の原爆』(那須正幹作 西村繁男絵 福音館書店)は出版されたとき話題になり、よく読まれていましたが、最近はあまり手に取られていません。子どもたちが自分自身の問題として、平和とはどういうことなのかを考える6年の国語の教科書に「平和のとりでを築く」(光村図書)があります。この作品のように外国の人が広島の原爆について書いたものを読む機会は今までありませんでした。この作品からは原爆を受けた場所や傷を負った人の状況が異なり、また傷を負って大変な状態にもかかわらず肉親を捜しまわる必死な心情がひしひしと伝わり、そんな人間のたくましさを改めてすごいと感じました。時間が流れ、戦争は過去の出来事の一つのようにとらえられている現実の中で、今の子どもたちは戦争をゲーム感覚でとらえている傾向があります。命、死と向き合うこと、戦争について考えることはいつも必要だと思います。低学年だと『おこりじぞう』(山口勇子作 四国五郎絵 新日本出版社)や『ランドセルをしょったじぞうさん』(古世古和子作 北島新平絵 新日本出版社)、中学年からだと『ひろしまのピカ』(丸木俊作・絵 小峰書店)などを読んだ子どもたちは、戦争の悲惨さから今の生活、平和について考えます。この本は体験がそのままリアルに書かれているので、中・高校生には直球で伝わると思います。

クモッチ:今回選本を担当し、翻訳ものの児童書ノンフィクションはあまりないのでは?と思いましたが、伝記などけっこうあることがわかりました。この作品については、タイトルから分厚いものを想像していたのですが、コンパクトで手にとりやすい形だなと思いました。二重被爆という事実が日本であまり取り上げられてこなかったのは、当事者の日本人として、それぞれの体験があまりにも悲惨なので、そのような視点が生まれなかったのではないかと思います。調査をしている第三者になって初めて、「二か所で」という視点が生まれたのではないでしょうか。そういう意味では、新しい視点としておもしろいと思いましたが、やはりこれは資料として読むべきものだと思います。資料の一つとして、日本人が新しい作品にまとめられればよかったのかもしれません。

ハリネズミ:広島と長崎のことはこれまでにもたくさん読んできましたが、困ったことに、悲惨な描写の連続には「またか」と思ってしまう自分がいるんですね。私のような読者にとっては、むしろアーサー・ビナードが広島の原爆資料館の資料をもとにしてつくった写真絵本『さがしています』(岡倉禎志写真 童心社)なんかの方がずっと伝わってくるものも大きいと思いました。『さがしています』からは、生きているひとりひとりの日常がぶつっと断ち切られてしまったことの理不尽さが強く伝わってきます。でも、この本は個々の人間の日常の営みみたいなものはあまり書かれていなくて、悲惨な部分だけが書かれているので、子どもに何が伝わるんだろうと、疑問に思いました。アメリカの人たちに原爆の悲惨さを伝えるとか、二重被爆者がいたという事実を日本の大人にも伝えるという意味はあると思いますが、子どもに伝えようとするなら、もう少し工夫が必要かもしれません。名前がカタカナで書かれているのも、リアリティから遠ざかる原因になっているかもしれません。他の方もおっしゃっていましたが、もう少し本作りの工夫があるとよかった。日本の人が日本人を取材するなら、語り口をそのまま生かすとか、方言を生かすなどしてリアリティを増す工夫ができますが、これは通訳を介して聞き取ったものが英語で書かれ、それをまた日本語にしているので、リアリティを積み上げるための細部が削り取られて平板になってしまっている。そこが残念です。

シア:児童文学ということで軽い気持ちで読み始めたのですが、悲惨な内容をリアルに書いていて驚きました。中高生向けなら、内容的にもちょうど良いのではないでしょうか。『黒い雨』(井伏鱒二)の子ども向けの本という感じですね。夏休みの感想文でよく『黒い雨』が取り上げられますが、今の子どもたちには難しいので、この本くらいが手頃だと思います。でも、アメリカ人ジャーナリストが聞いたせいなのか、登場人物がカタカナで書かれているのが読みにくくて、気になりました。とくに「ドイ ツイタロウ」さんは、本文では空白もないからどこで切るのかわからなかったですね。おかげで名前を覚えにくく感じました。だけど、本のテーマとしてはとてもいいと思うので、夏休みに中高生が読むのはいいのではないでしょうか。感想文を書きやすいのでは。

なたね:もともと子ども向けに書かれた本ではないですよね。

シア:「原爆乙女」の話も出てくるので、興味を持っている子どもならば読めるのではないかと思います。一般市民がなぜ戦争の代償を払わなければならなかったのか、自分は関係ないと言わずに、子どもが考えてくれる本だと思います。教師としてすすめやすい本ではないでしょうか。ジェームズ・キャメロン氏が関わる映画化の企画があるようなので、ぜひ実現して欲しいと思います。

なたね:新藤兼人監督の『原爆の子』は、戦後すぐに作られたこともあって、とてもリアルだし、子どもが主役の一人なので、今の子どもたちも見る機会があればいいと思うのですが……。

ヒーラ:読み直していて気づいたんですが、注釈は訳者がつけたもので、当時の著者がつけたものではないですね。訳注と断っていないのは問題ではないでしょうか? 防空壕についての記述などを見ると、明らかに訳者の注ですよね。訳者がこの本を通してぜひ伝えよう、伝えようと思うあまり(その情熱はよく理解できます)、その辺がごっちゃになってしまっていますね。この本を今、この時代に読んでもらいたいという思いがあるのなら、冷静に、当時の著者の記述と現在の訳者が必要と思う記述を明確に区別すべきでしょう。2刷以降改定するともっとよくなりますね。このままだと中途半端だし、本への評価を下げてしまいます。

ハリネズミ:そこは本作りとしてまずいですよね。資料としてなら資料として価値のあるものに仕上げたほうがいいし、日本の子どもたちに読ませようとするなら、それなりの工夫をしたほうがいい。たとえばABCCがその後やってきたことなども書いておいたほうがいいし、本書の最後には広島の新聞記者の「ただし、日本がもし先に原爆を手に入れていたらどうしたか。アメリカに落とさなかったとは思わないでください」という言葉がしめくくりとして出てきますが、これもごく一部の人の意見のように思えるので、注を入れるなら入れたほうがいい。どこに視点を置いて本作りをするのか、ということが、定まっていないのかも。この本は区の図書館に入っている冊数がわずかでした。子どもには難しいという判断なんでしょうね。

(「子どもの本で言いたい放題」2012年11月の記録)