日付 | 2011年12月22日 |
参加者 | メリーさん、ajian、ダンテス、プルメリア、アカシア、うさこ、宇野、三酉 |
テーマ | 自分と向き合うとき |
読んだ本:
梨木香歩/著
理論社
2011
版元語録:やあ。よかったら、ここにおいでよ。気に入ったら、ここが君の席だよ—『君たちはどう生きるか』の主人公にちなんで「コペル」と呼ばれる十四歳の僕。ある朝、染織家の叔父ノボちゃんがやって来て、学校に行くのをやめた親友ユージンに会いに行くことに…。そこから始まる、かけがえのない一日の物語。
原題:OK, SENOR FOSTER by Eliacer Cansino
エリアセル・カンシーノ/著 宇野和美/訳
偕成社
2010.11
版元語録:つい、うそばかりついて、学校にも行かない少年ペリーコ、村にただひとりのイギリス人フォスターさん。ふたりの出会いは、ペリーコの世界を大きく変えていく。一九六〇年代スペイン、海辺の村を舞台にえがかれるだれもが共感する、みずみずしい成長の物語。スペイン実力派作家のアランダール賞受賞作。
原題:TOUCHING SPIRIT BEAR by Ben Mikaelsen, 2005
ベン・マイケルセン/著 原田勝/訳
鈴木出版
2010.09
版元語録:15歳の少年が引き起こした傷害事件。過ちから立ち直ってゆく少年の成長を描きながら、犯罪にどう向き合うかを考える意欲作!
僕は、そして僕たちはどう生きるか
梨木香歩/著
理論社
2011
版元語録:やあ。よかったら、ここにおいでよ。気に入ったら、ここが君の席だよ—『君たちはどう生きるか』の主人公にちなんで「コペル」と呼ばれる十四歳の僕。ある朝、染織家の叔父ノボちゃんがやって来て、学校に行くのをやめた親友ユージンに会いに行くことに…。そこから始まる、かけがえのない一日の物語。
メリーさん:「裏庭」や「西の魔女が死んだ」など、梨木さんの作品は大好きでよく読んでいるのですが、今回はちょっと残念でした。著者の世界である植物や、個性的な登場人物が出てはくるのですが、それが生きておらず、むやみに理屈っぽくなっている印象を受けました。戦争についての記述も何だか鼻につく。本文中に、ある児童書と出版社について書いてあるのですが、説得力のある議論になっていないように感じました。自分の頭で考える、というテーマを書くにしても、同じ素材で、いつものように物語を書いたらもっといいものになったのでは?と思いました。
ajian:いつになったらおもしろくなるのかなと思っていたけど、最後まで面白くなくて……。もし何か世間に対して言いたいことがあるなら、レポート用紙一枚ぐらいの文章にまとめて来てくれませんかという感じです。色々なことが詰め込まれたまま未消化になっていて、言い方は失礼なんですけど、できのよくない持込原稿を読んでいるみたいで、読み通すのに苦労しました。
作品中で、理論社の<よりみちパンセ>のなかの、バクシーシ山下の本が、名前は伏せたまま、わかる人にはわかる形で批判されていますが、参考文献にもあがっていないですね。こういうことを、相手にとどかないところで吠えていても、あまり意味がないんじゃないでしょうか。鳥を食べる先生の話にしても、批判の仕方が短絡的というか、批判の対象として取り上げるものの取り上げ方が、フェアじゃないと思います。作家の気に入らないものを、あえてゆがめて書いているようで……。
コペル君の言葉遣いも、作品中で「子どもにしては生意気だとよくいわれる」と一応言い訳はされていますが、それにしても難しい。作家の作品ではあるけれど、少なくとも、子どもに向かって書かれた児童書ではないですね。巻頭に掲げられた言葉から、個人と群れというのが一つのテーマなのだと推察されます。流れに流される弱いところは、だれにでもありますが、そんなことは大前提なのであって、そこを見詰めて傷ついていたってしょうがないでしょう。その上でどうするか、ということが大事なんであって。もとは連載だそうですね。あるいは、連載中に気に入らなかったことを色々いれてみたということなのかも? まとまりがあんまり感じられず……。
ダンテス:この本は、割合楽しんで読めました。3点、話したいと思います。一つ目。この本には様々な要素が織り込まれています。まず自然、植物の知識など、博識というべきものです。自然とともに生きるという梨木さんの姿勢の表れでしょう。とても私は追いつきませんが。登場人物の少年も土壌生物についての興味がある。確かに変わっている少年でしょうが、その手の中学生もいますよ。で、それなりに私から見るとリアリティがあると感じられます。屋根裏にある戦争前の書物を読みこんでいるという話。インジャの話ですが、だまされて身体も精神も傷つくという話。それから良心的兵役拒否のこと。命の授業については、一時はやりました。たまたま研究会でそれをやっている人の発表を聞いたことがありますが、非常にいやだった。子どもがどうして生まれたかを赤裸々に説明し、「お父さん、お母さん、セックスしてくれてありがとう」と言わせる。それはおかしいでしょう。デリカシーがなさすぎます。鶏を食べる というところについては、先生が生徒の家から鶏をもらえると誤解していたという設定でしょうか。この作品に出てくる先生は、二番煎じで最初に本気で実践した人のまねをしただけ。こういう先生もいそうです。そして、オーストラリアのアボリジニについても。色々な要素を盛り込みすぎかもしれませんが、そこをプラスと見るかマイナスと見るかで本への評価が変ってくるのでしょう。私 にとっては、それなりにおもしろかったです。
二つ目は、この本の題名を見て、吉野源三郎の『きみたちはどう生きるか』がベースになっているのは間違いないと思って、本当に久しぶりに読み返してみました。戦前に書かれた本で、検閲とか厳しい時代に軍部から文句を言われない範囲で、自分の考えを持つように、人としてあるべき姿ということがきちんと書かれている。梨木さんの、吉野さんの本への評価、褒めていること・・・オマージュとでも言うべきでしょうか。あるいは、吉野さんの本を受けて、では現代の若者はどう生きるべきか、それを伝えたかったの でしょうか。
三つ目は、インジャの話。よりみちパンセの中の一冊の本についての話を、数日前にある司書さんから聞きました。読書界では結構話題になったんですか。梨木さんが理論社に喧嘩をふっかけた、なんていう話も聞きました。よくわかりません。一方インジャが自然の中で癒されようとしている、という設定もわかる。ゆるいつながりの仲間としてこれ から生きていけるのかなあという希望を持たせた終わり方になっていると思います。
アカシア:ある中学校の先生が「この本はとてもいい本ですね」と言っているのを聞きました。ダンテス先生も評価しておいでです。どうも学校の先生たちはこういう本がお好きなようですね。私はあまりおもしろくありませんでした。というのは、作家が自分を感受性の強い若者と同じところに置いて、感受性の鈍くなった者たちに向かって説教しているような気がしたからです。それに、どこにもユーモアがない。ユージーンの担任がかわいがっていた鶏を学校で殺して食べるという設定は疑問でした。こんな先生が本当にいるとは思えなかったんです。それに、そこでユージーンの気持ちを推し量れなかったとコペルが自責の念に駆られる場面も、なんだかなあ。出てくる子どもたちに勢いがなくてどの子も老成してる。嫌な気分になりました。
ajian:結局この子たちって、梨木さんの言いたいことを言ってるだけなんですよね。
プルメリア:名前がコペルくん、ということで、吉野源三郎さんの作品を思い出しました。視点がすごくおもしろく世界が広がっていったので、今も心に残っています。梨木さんは、すごく好きなんですが、よもぎだんごが出てくるのは、無理っぽいかな。鶏のことについては、今はありませんが何年か前、テレビニュースで「命をいただく」というテーマで小学校の学級で育てた鶏を子どもたちが食べる放送がありました。数年前に学級で豚を育て子どもたちの意見で内容が展開していく映画『ブタがいた教室』を見たことがあります。これは、『豚のPちゃんと32人の小学生 命の授業900日』(黒田恭史著 ミネルヴァ書房)『豚のPちゃんと32人の小学生〜命の授業900日』(ミネルヴァ書房 2003年)を原案とした日本映画です。鶏とは設定がちがいますが、梨木さんは育てた鶏を食べることはおかしいと思って作品に入れていったのかな。学校は最近、食育に植物を育てて食べる内容も含むようになっています。また人間であれば、おじいちゃんおばあちゃんからつながっている命の授業も取り入れています。教育界も波がありますからね。p273〜274は子どもたちに向けたメッセージとして読みました。
うさこ:『りかさん』『蟹塚縁起』など、梨木さんの作品は結構好きなほうです。これはタイトルが哲学っぽくて、どんな内容なのか興味を持って読み進めました。でも、読み終わった後で、感想が出てこない自分がいたんです。コペルくん、ユージンは中学生で一人暮らしだし、隠れているインジャの設定はありえないと思い、ここらあたりとても違和感がありました。主張と批判が繰り返し出てくる本でもあるな、と。よりみちパンセの引用の部分もかなり異質な感じがありました。理論社から出ている本を批判できたのは、理論社から出す自分の本の中だからできたことなのでしょうか。いいなと思ったのは、「自分の頭で考えろ」というところかな。鶏のところは、あまりにも作りすぎている気がしていましたが、今、現実にもありえると聞いて、それを練りこんだのかなと思いました。
宇野:「鶏を連れていくところまでしか読めていなくて、すみません。ここまで読んで思ったのは、こんなのありえるのかなあということ。こういう生き方もありと思えばいいんだと、ずっと自分に言い聞かせようとしたんですけど、違和感が消えませんでした。私の知っている中学生とはあまりにかけはなれているから。主人公もユージンも。その一方で、好きではないのに、このあとこの子たちがどうなるかを知りたいという気持ちが強くなって、最後までつきあって読みたいと思うのは、作者のうまさでしょう。テーマは、どんなふうにぶれないで自分を保っていけるか、ということでしょうか。戦争の時に洞穴に隠れていた人のこと、おばあさんが山の植生を守るところ、いろいろな話題が出てきて、これがどうおさまるか、最後まで読んで確かめたいです。
ajian:著者には批判したいことがおありなのでしょうが、それにしても短絡的で浅いと、みなさんの意見を聞いていて改めて思いました。バクシーシ山下の件なんて、ポルノなんてやっているいかがわしい連中で、いやだというぐらいの浅さ。鶏の件も、生徒の家で飼っていたペットを勝手に食べるなんて、そんなの悪いに決まってるじゃないですか。だから? っていう。
アカシア:子どもって、意外と先生の裏表を見てるから、コペル君だってよほどのぼんやり君じゃないかぎり、こんな担任の先生好きにならないと思うけどなあ。
ダンテス:生徒のうちからからもらってきた、くらいの認識だったんじゃないですか。もちろん誤解していたんでしょうけど。
プルメリア:学級で鶏をひよこから飼ってみんなで世話をし、ひよこが具合悪いと心配し、そして最後に食べるということです。テレビで見ましたが小学校で行っていたようです。今は行っていないと思いますが。
メリーさん:たぶん、そこまで深く考えていないですよね。話題がころころ変わるのも、元が連載だったからではないかと思います。それでは議論は深まらない。やっぱり小説を書けばよかったのではないかと思いました。
ダンテス:この作品の底流に常に流れているのは、無意識的全体主義に対する警鐘でしょうか。それに気をつけろということはずっと貫かれていると思います。
ajian:無意識的全体主義に気をつけろという、それ自体は、わかるし、共感もするんですけどね。でも、そういうことなら、2行でまとまりますよ。
三酉:私も、登場人物のだれにもシンパシーを感じなかった。ヒトラー・ユーゲントまで登場していろいろ盛りだくさんで、何しろ主人公はコペルくん。しかしどうしてコペルくんなのか、最後まで分からなかったです(吉野源三郎さんの『君たちはどう生きるか』は、たしか中学校の校内放送で流していたと記憶しています)。タイトルが「僕は、僕たちは…」と、「僕」だけじゃないところはいいなあと思ったんですけど。
(「子どもの本で言いたい放題」2011年12月の記録)
フォスターさんの郵便配達
原題:OK, SENOR FOSTER by Eliacer Cansino
エリアセル・カンシーノ/著 宇野和美/訳
偕成社
2010.11
版元語録:つい、うそばかりついて、学校にも行かない少年ペリーコ、村にただひとりのイギリス人フォスターさん。ふたりの出会いは、ペリーコの世界を大きく変えていく。一九六〇年代スペイン、海辺の村を舞台にえがかれるだれもが共感する、みずみずしい成長の物語。スペイン実力派作家のアランダール賞受賞作。
メリーさん:著者が日本に来たときに、講演を聴く機会に恵まれました。冒頭の切手の話、訳者の宇野さんから届いた手紙がきっかけになったと著者が話していたのを覚えています。物語は、歴史的背景をふまえつつ、主人公と彼の身の回りがきちんと描かれている。人は皆、様々な側面があって、真実は多面的だということが書かれていることに好感が持てました。主人公が偽札事件に巻き込まれていき、ちょっとミステリーの要素も。よく読むとイスマエルがタイピストという伏線もきちんとあって。とてもおもしろく読みました。
プルメリア:フォスターさんとペリーコの話なのかなと思ったら、違っていました。イスマエルさんがとてもおもしろい人で、フォスターさんとも仲良しという設定、おもしろかったです。ペリーコの葛藤がいろいろな場面であるのだけれど、ストーリーがゆっくり進むので、とても読みやすかったです。フェルミンさんもやさしい。素敵な大人がとてもよかったです。署長さんも最後のほうでよくなってくる。ただお父さんは最後まで冷たくて、気になりました。子どもたちはどのように読みとるのかなと思いました。
アカシア:写真を撮るということがただシャッターを押すだけではなく、そこに写す人があらわれるのだとか、久しぶりにイスマエルの家を訪れたビスコーチョとイスマエルとのやりとりとか、よく描けているなあと思いました。ただ、イギリスとかアメリカの児童文学を読みすぎているせいか、違和感を感じるところもありました。書き方の文法が違うというか。たとえば、この本ではかなり早い時期に偽札作りの犯人はポルトガル兄弟だということが読者にもペリーコにもわかってしまう。でも、その後署長がフォスターさんやイスマエルを疑ってどうこうするということがペリーコの視点でずっと書かれ続けるので、だれてくる。それからイスマエルは文字が読めない・書けないというふりをしているのだから、ドアに「洗い場にいる」なんていう張り紙をするのは変です。またお父さんがペリーコを置いて漁に出てしまいますが、その期間もある箇所では数週間と書いてあるかと思うと、二週間もあり、一週間と書いてある箇所もある。現実には発語している人が違えばそういうことはあるけど、作品の中では統一しておいたほうが読者は戸惑わない。それからフォスターさんと会ってペリーコが英語で話したと言っているのですが、ほかの英語の部分はルビになっているのにここはなっていないので、何という言葉をペリーコが言ったのかわかりません。ペリーコが偽札を手に入れたのは4時だと書いてありますが、どうしてすぐにお父さんのためのお金を払いにいかないのかな? もう役所は閉まってるのかな? など、読んでいてちょっと落ち着かない部分がありました。
ダンテス:一年前に来日したカンシーノさんに直接お会いして、サインもらいました(とサイン本を見せる)。少年の主人公は父子家庭であまりかまってもらえなかったのが、フォスターさんとの出会いで、世界が広がっていく話です。同年代の女の子との微妙な関係などよく書けています。スペインフランコの独裁政権の時代の話とあとがきにありましたが、割合のんびりしていて、そういうもんだったのかなと思いながら読みました。そういう時代ではあったけれど、希望が表現されていて、明るいイメージを持ちました。気になったのは、クジラの出てくる最後のシーン。エフレンが写真に一緒に入る。ここをどう考えたらいいんでしょうか? 筆者の前向きな姿勢の表れでしょうか。
ajian:最後の皆で写真を撮るシーン、僕は、こういうところが定型から外れている感じがして、おもしろいなと思いました。地味でゆっくりしている小説ですが、少年がフォスターさんに出会って、成長している様子をていねいに書いてあるのがいいです。時代や地域についてあまり詳しくないので、そこだけ読んでも味わえました。べジータって、女の子の名前なんですね。
宇野:ベジータというのは、ベーリャ(きれいな)という形容詞に示小辞がついた形で、「かわいい子」「きれいな子」という意味があるんです。
ajian:それから、イシュマエルという名前、これは『白鯨』にも出てきますが、あまり一般的な名前ではないとどこかで読んだことがあります。
宇野:だから使ったのかも。
ajian:作中にちらっと出てきて、作者も好きだというヒメネスの『プラテーロとわたし』は最近復刊されましたね。
宇野:みなさん、私がいるので遠慮したのか、ひかえめに言ってくれたようで(笑)。アカシアさんから指摘のあった、イスマエルがメモを貼っておくシーンなどは、訳すときに私も、これでいいのかと思って、作者に問い合わせました。ご本人はまったく気にしていなくて、確かに英語圏の作品とは文法が違うと感じるところがありました。けれど、この話は最初に読んだときから、お父さんにかまわれず、ネグレクトされているようなペリーコが、自分で自分を納得させながら生きる道を探るところ、まわりの大人がそれとなく助けてあげるところが好きで、日本の子どもにも紹介したいと思いました。最後までお父さんはろくでもないんですけど、それはそれでリアリティがありますよね。主人公は写真やフォスターさんやイスマエルと出会って、何とか生きのびていく……それがいいなと。時代はフランコ独裁下の難しい時代。作者自身が育った時代が、こんなふうだったのでしょう。あるインターネット書店のサイトのレビューで、ペリーコに時代のことをもっとはっきり話すべきではという意見があったんですけど、私はそれはできなかったのだと思っています。物語の中では、だれとかはフランコ側、だれとかは反フランコとは決してだれも公言しません。口に出してしまうと、だれがだれを傷つけることになるか、いつ自分が報復されないともわからない時代だったから、そういうことは表だっては決して口にされない時代だったのだと私は理解していますし、当時の子どもだって、そういうことは敏感に感じとっていたはずです。あと、私はこれは和解の物語だと思っています。カンシーノは人は責めないんです。権力側の怖いエフレンも、ときどきこっけいなところがあったりと多面的に描いてます。人は完璧ではないからね、と著者はおおらかです。最後のクジラの前で写真を撮るところは、ふたつに分かれてしまったスペインの葛藤の中にありながらも、赦しあえる未来のスペインを示唆しているようで好きなシーンです。
(「子どもの本で言いたい放題」2011年12月の記録)
スピリットベアにふれた島
原題:TOUCHING SPIRIT BEAR by Ben Mikaelsen, 2005
ベン・マイケルセン/著 原田勝/訳
鈴木出版
2010.09
版元語録:15歳の少年が引き起こした傷害事件。過ちから立ち直ってゆく少年の成長を描きながら、犯罪にどう向き合うかを考える意欲作!
うさこ:すごい話だなあと思って読みました。好きな作品です。サークル・ジャスティスという試み、制度を知らなかったので、罪をおかした人に再生のチャンスを与えてくれるこういう仕組みは、人間に対する深いまなざしがあっていいですね。文章も力強い。描写などとてもリアルで情景がありありと浮かんでくるところが多かったです。島でスピリットベアにやられて、骨が折れて体を動かせず、ミミズやねずみを食べたりするところ、描き方がリアルすぎてぞっとしたくらい! 毎朝の冷たい水浴びなども、この作家の表現力はすごさが随所に感じられました。父からの暴力の被害者でもあり、ピーターへの加害者でもあるコールの更生を助けるカービィ、古老など大人の存在もよかったです。
プルメリア:長い作品ですが、止まらないで一気の読むことができました。最初クマとの戦いで野生の生き物に対して大きな力を感じ、次に自然との闘いで自然の力を感じ、ピーターへのつぐない、家族との絆、更生する気持ちなどコールの心情が周りの人たちに助けられながら変わっていく。無人島で小屋を燃やしてしまうところは反発。いろいろなことに向き合いながら、だんだん変わっていく。ピーターが自殺をはかったところは、大丈夫かなと思いました。水浴びをしないと落ち着かない。水浴びをすることで強くなっていく。内容と表紙の白いクマがマッチしているんだなと作品を読み終わって思いました。
アカシア:私は『ピーティ』(鈴木出版)を読んでベン・マイケルセンってすごい作家だと思い、この本も出たときにすぐ読みました。今回は時間がなくて読み返せなかったんですけど、物語の中のリアリティをどこまでも追求する作家だな、という印象です。コールの悪さ加減も半端じゃなく書いています。後半はちょっと甘いかもしれないけど、YAなので1つの理想の姿を描きたかったんだと思います。アメリカでは犯罪を犯した子どもに対していろいろな選択を用意してるんですね。この本に出てくるのはサークル・ジャスティスですけど、ポール・フライシュマンの『風をつむぐ少年』(片岡しのぶ訳 あすなろ書房)は、少女を車でひき殺してしまった少年に対し、アメリカ大陸の四隅に犠牲者の女の子代わりの「風の人形」を立てるという業が課せられて、少年はその過程でいろいろな人々に出会って成長していきますよね。収監か放免かではなく多様な選択肢があるのが、すごい。
ダンテス:読み始めて、とにかく15歳という設定なんだけれど、15歳とは思えない悪い奴ですよね。家庭にもめぐまれず、すぐキレる。ピーターをぼこぼこにして、身体的傷だけじゃなくて、脳にまで損傷を与えてしまうし、警察でも反省の色なし。大人をなんとかだましてやろう、という徹底的に悪い奴を最初に登場させて、この子が変わっていくのを、 嘘くさくなく、読者である私をどう納得させてくれるのかなと思いながら読み進めました。そういう意味ではしっかり物語にひきこんでくれましたから、いい作品であると評価します。結果的に、宗教性を感じさせる自然の力もあるんだけれど、古老の2人の力も大きく働いて、この子が変化・成長したことが腑に落ちます。 ピーター自身も被害者であって、自殺未遂を繰り返してしまう状態であったのを、救う方向に持っていっているのがすごい話だなと思いました。ちょっと気になったのは、腕や足がかなりダメージを受けていたはずで、傷を負っている描写が後半になると減ってしまって、普通に行動しているように読めてしまうのがどうかなと思いました。作品全体としては、犯罪の加害者だけでなく被害者の癒しというのがテーマでしょう。
ajian:先住民族の儀式や、スピリットベアとの不思議な交流もおもしろいですが、何よりも主眼は、加害者が、被害者とどう向き合うのか、ということだと思います。現代の裁判のシステムでは、それがうまくなされていないという指摘と、対案としてジャスティスサークル、という試みがあることを興味深く読みました。ただ、物語自体は、ややご都合主義的なきらいがなきにしもあらずで、とくにコールが更生していくくだりや、ピーターがコールの存在を受け入れていく過程は、ちょっと甘いかなと思いました。コールはちょっとものわかりがよすぎますよね。にもかかわらず、印象的な場面が多々あり、作者の筆力を感じます。
自分がおもしろいと思ったことを羅列していくと……たとえば、ダンスで動物と同化し、その動物について理解する、というくだり。うまく踊れたときというのは、リズムと一体化していて、意識が集中し、かついろいろなことを忘れて、自分から離れてしまえる状態。あの高揚感、忘我状態のなかで、自分から離れて別のものになるという感覚までは、ほんのもう一歩なんじゃないかという気がして、全然知らないことなのに、よくわかる!と思ってしまいました。それから、スピリットベアに会おうと、雨にうたれて自分を無にしようとする場面、ここもおもしろかったですね。雨が額から頬にしたたるのを感じ、ついで周囲の世界へと、感じる範囲が広がっていく感覚。座禅のワークショップに参加したとき、香港から来たお坊さんに、意識を外へ外へ向けろ、と言われたことを思い出しました。よく書けている本や文章というものは、読者の体験や思い出とつい響き合ってしまうものですが、この本もそうだと思います。裁判にしてもそうなんですが、近代的なシステムではすくい上げられないような軋轢であったり心であったりを、この本では「ダンス」であったり「トーテムを彫ること」という、一見なにも関係のないような行為を通じて、いやすことを描いていると思います。それが不思議と納得出来るのがおもしろいです。
まったくの余談ですが、自分がこれまで怒りをコントロールして来たか、殴りつけた相手と向き合って来たか、というと非常に心もとないものがあります。何か、コールの姿は、ここまで極端ではないにしても、あまり他人事とは思えませんでした。今更どうしようもないですが、エドウィンのように、コールのように、別の形で返していくしかないのだろうなあと……。
三酉:私の感想はあんまりよくないんです。『ピーティ』の作者だと聞いて、あちらはすごくよく書けていると思ったんですね。でも、これはこんなに甘い話でいいのか、と。サークル・ジャスティスはいいと思うんですけどね。でもその制度のすばらしさにほれこむあまり、作品がゆるくなったかな、という気がしました。作者はサークル・ジャスティスで感激して、ひいきの引き倒しをしてしまったと思う。それとたぶんこの取材の過程で、孤島一人で暮らすというのを実地に体験して(たぶんヴィジョン・クエストなのだと思いますが)、すごい感激した、それもあってここまで書いちゃったんじゃないかと思います。
アカシア:私は15歳という年齢ならあり得ると思って読みました。この作家は、クマも飼ってたんですよね。
三酉:『ピーティ』同様、夢というか、「お話」であっていいのだけれど、「お話」の出来が悪いと思うんですよね。
アカシア:私も作品としては『ピーティ』の方がよくできていると思ったんですが、こっちの方が課題図書になったんですね。
メリーさん:私はとてもよかったです。とくに前半部分、主人公が瀕死の重傷を負うところ。クマに相当痛めつけられて、もう死んでしまうかというところで、心から生きたいと願う主人公。どん底に落ちて初めて、世界はなんと美しいのかと感じる心。極限の状態まできて、ようやく世界が見えてきた、そんな描写が圧倒的でした。後半は多少ご都合主義に陥っているきらいはあるけれど、毎日を祝いの日々にするという部分、日常をいつくしみ、自分の視点で楽しいものにしていこうというところは、どん底を経験した人たちだからこそ言えることだなと共感。一気に読んでしまいました。
三酉:だんだん思い出してきて、もうちょっとポジティブに言うとね、6ヶ月後っていって、内部的な葛藤のようなものがもっと書きかれていると、もっとよくなった。
ダンテス:最後の10ページくらいのところ。ピーターは、コールに仕返しするわけです。そのときにコールは自分は反撃しないと決めていて、ピーターがある意味気の済むように仕返しをする。そこで初めて両者対等になって、そこからが本当のスタート。二人の関係改善が暗示されて物語が終わります。今の法律では、被害者自身の手で加害者に仕返しすることは認められていないわけです。
ajian:その反撃しない場面、コールが急に「おれという人間は大きな輪(サークル)の一部なんだ」とか言い出して、ちょっと「どうした?」って感じですよね(笑)
(「子どもの本で言いたい放題」2011年12月の記録)