ひるね:これは、読むのに苦労した。後半は、もうとばしとばし。英国ファンタジー好きというか・・・。そういう人向けなのかしらね。需要があって供給があるわけだから、読む人がいるんだったらいいとも思うけど、ときどき文章がわからなくなるところがあるの。土曜日に始まったのに、知らないあいだに日曜日になっちゃってたり。文章を、もっと磨いてほしい。やさしい言葉とむずかしい言葉が無造作に出てくるんだもの。絵本や幼年童話はいいものを書いている作家なのに、長編となると、またちがうんだなと思ったわ。それに、登場人物がどうも好きになれなかったの。女の人ばかりなんだけど、みんな似てるし。描きわけようとしてるのは、わかるんだけどね。とくに嫌だったのは、主人公のお母さん。働きもせず、近所づきあいもせず、ビデオ三昧していたくせに、引っ越して、ちょっとインテリの女性と知り合ったとたんに豹変したりして、ヤな女! インターネットで、誰かが「10代の女の子が、大人の女の人もいろいろ考えているのを知って成長していく話」って書いているのを見たけど、「どこが?」と思っちゃった。

ねねこ:登場人物に、温度が感じられないのよね。女たちにリアリティがないの。頭の中で状況だけつくってて、生きている人たちの体温が伝わってこない。読んでいくうちに、だんだん嫌な気分になってきちゃった。主人公の爽子も気持ち悪い。15歳なのに、おばさんたちの自己肯定的な井戸端会議も嫌にならないなんてヘンじゃない? 気色わるいよ。どうしてみんなこの作品を褒めちぎるんだろ? 力作とかいって。

ひるね:力作っていうのは、厚さのことじゃないの?

ねねこ:たしかにボリュームはあるけど……(厚さ2.5センチ、336ページ)。爽子って、すごーく作りあげたいい子、数十年前の少女って感じ。

愁童:困りますね、こういう作品は。日本の児童文学の衰退の象徴! 「11月の扉をあけると、そこには荒涼たる児童文学の冬の世界がひろがっていた」ってなところかな。どうして、文章がうまいとは思えないのに、評判いいのかねえ。「何ということもない素振りで、電話のお礼を閑さんにのべて部屋に戻った爽子は」なんて出てくるんだけど、お礼をのべるって、何ということもない素振りでできるの?なんて、毒舌吐きたくなる。それに、爽子は中学生なのに「お礼をのべる」なんて表現されちゃっていいの?「こうべをたれる」とかさ、古い言葉が突然出てきたりして、新しい言葉と古い言葉が混在していて、バランスがとれていない。どうもこの作者、さわやかな人じゃなさそうな感じ。「学校をさぼったら、いい点をとっても、いい成績はもらえない」なんて発言、うちの近所のヤなおばさん連中みたいな物言い。日本語の問題点も多々あるよ。「ちょっと憮然とせずにはいられない」なんて出てくるんだけど、「憮然とする」って言葉、おわかりいただいてないんじゃない? それに「解放されてるなあ」なんて言うか? 「なにものかがやってくる」って「なにもの」って見てんじゃねーか? とか。耿介がノートを見つけてくれたいきさつだって、妙だよ。お母さんに自転車の乗り方を教えるなんて、健全な中学生男子のやることかあ? まったくシュークリームみたいな、つくりものなんだよ。もう気持ち悪い。じんましんが出るほど、気持ち悪い。

ひるね:地に足がついていないとか、体温が感じられないと批判されるのを予想しているのか、言い訳してるところもいっぱい出てくるわね。朝ごはんの場面とか。「今日は洋風だけど、和風のときもあるのよ」、なんて。「十一月の扉の向こうでは、みんな品よくみごとにふるまいました」となってるけど、私、実は登場人物がみんな死人でしたっていうオチかと思いながら読んでいたわ。

ウォンバット:「月刊こどもの本」(2000年4月号、児童図書出版協会)の「私の新刊」のコーナーで、高楼さんがこの本について語っているんだけど、なんだか言い訳と開き直りに思えちゃって。「結局、これは三十年前の中学生の物語だ。だが、マスコミがどんなに中学生の変貌ぶりを叫ぼうとも、こういう少女は常にいるものなのさとうそぶきながら、今の物語として書いてみた」なんて。

ねねこ:『時計坂の家』(リブリオ出版)のほうが、作家としての一所懸命さが感じられた。こういう作品が評判になるって、よくないよね。ちゃんと批評もしないと、作家のためにもならないんじゃないかな。

愁童:幸せですよね。文章にはひっかかるけど、お話はつまずくところが全然なくて、すいすい進んじゃって。

ウォンバット:私は乙女チック好きから抜け出せない質だから、すてきな洋館とかね、設定はいいなと思うところが、あったの。しかーし! 中に出てくるお話は許せん! ないほうがよかったと思う。だってまるっきり真似でしょう。『たのしい川べ』(ケネス・グレーアム著、岩波書店)や『クマのプーさん』(A.A.ミルン著、岩波書店)の影響を受けているというのはいいけれど、そこで自分を瀘過して、新しい世界を構築しなくちゃだめだと思う。真似だったら、オリジナルを読んだほうがいいでしょ。とくにロビンソンの手紙は、ひどい。「ち」と「さ」をまちがえてる手紙なんだけど、これ「ぼくてす。こぷたてす」のパロディでしょ。これは「プーさん」に対する冒涜だわ。このあたりで、もう心底嫌になって「ドードー森の話」は飛ばして読んでしまった。

オカリナ:高楼さんの作品は好きなのも結構あるし、この作品も世の評判はとてもいいんですけど、私は楽しめませんでした。不幸なというか、作者にとって不本意な形で出版されちゃった本なのかな。改行の処理もばらばらだったりするから、編集の人がちゃんと見たりしてないのかも。「週刊新刊全点案内」(1998.1.6日号〜1999.3.30日号、図書館流通センター)に連載していたのをまとめたものなんでしょ。毎回締切に追われて書いていて、手を入れるひまもなく1冊にされちゃったとか。この「ドードー森の話」は自分が小さい頃に書いた話なのかしら? もしそうなら、高楼さんのファンの人には、ああ、この作家は、こういうところからスタートしたのかっていう興味はわくと思うんだけど、肝腎の物語自体はあまりおもしろくない。もう一つ気になったのは、恋愛の部分なんだけど、耿介との疑似恋愛はまったく外側のかっこよさを問題にしてるだけ。『スロットルペニー殺人事件』の舞台になっている100年前の時代ならいざ知らず、こんなんでいいのかな。

ねねこ:この作品自体が、高楼さんにとっての「ドードー森ノート」なんじゃないの?

オカリナ:作家が「人間」と向き合ってないように思います。耿介にかぎらず、登場人物みんなに言えることだけど、おたがいのつき合い方が表面的なのね。「共生」を描くというのなら『レモネードを作ろう』(バージニア・ユウワー・ウルフ著 こだまともこ訳 徳間書店)みたいに、ちゃんと衝突して、それからつき合い方を探っていったりするところを書いてほしかった。

ひるね:ファンのためだけに書いてるって感じ。

ねねこ:「品がいい」をやたら強調してるのがハナにつく。

オカリナ&ひるね:登場人物が生きている人として感じられない。死んだ人はみんないい人っていうけど、死人じゃないかぎり、こんなのありえないな!

愁童:大人が、いかにこの世代、中学生に無関心かってことだよ。

オカリナ:現実は、もっともっとキビシイものなのに。

愁童:『ビート・キッズ』(風野潮著、講談社)のほうがずっと健康的。

ねねこ:『ことしの秋』(伊沢由美子著、講談社)の対極かも。

ひるね:でも、『十一月の扉』のほうが好きっていう子もきっといるわよ。大人の本なら葛藤がありそうな設定なのに、なあんにもないのよね。

ねねこ:理想の世界を描いたんじゃないの? 葛藤の部分は何ひとつ描かれてないんだけど、葛藤がなければ成長もないよ。

ひるね:キロコちゃんの話もどうかと思ったけど。どっちもリアリティがない。絵本には、けっこういいものがあるのにね。

オカリナ:やっぱり、ぶつかりあいを描いてこそ、作家だと思うけどな。

ねねこ:『ココの詩』(リブリオ出版)のときも思ったことだけど、形でいく人なのかな。

愁童:このごろの児童文学作家は、趣味的な世界に走る人が多いね。梨木香歩とかさ。

ねねこ:しかも、ちょっとかたよってる。柏葉幸子は「プーさん」や「マザーグース」や宮沢賢治や、いろんなものを読んでいて、それが自分の土着のものとうまくミックスされて、独自の雰囲気をかもし出していると思うけど。

愁童:そんな中で、森絵都は今の時代を意識してて、そこでチャレンジしていこうという心意気が感じられる。ちょっと違うよ。

ひるね:この作品を読んで「児童文学とはこういうものか」と思われたら、嫌だな。

愁童:登場人物をもっときちんと描いてほしい。

オカリナ:おままごとの世界みたい。でも、そこがいいんでしょうか。

(2000年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)