吉岡忍/著
理論社
1999.09
<版元語録>「ぼうず、今度は一人でこいよ。一人ずつだ」 少年と少女の夢想にしのびよる世の中の影。子どもたちの現実に響きわたる死者たちの声。世界への視線から生まれた九つの連環小説集。
ねねこ:この短編集は、出来のいいのとそうでもないのがあるんだけど、あえて承知でこういう構成にしたのかなと思いました。吉岡忍の全体を見せたかったのかな。好きなものは好き、嫌なものは嫌で、それで結構! って姿勢なのかも。私が特によかったのは「鹿の男」と「子どもは敵だ」。東京国際ブックフェアのときに、オランダの生物学者が「子どもに学ぶことなんてない。動物を擬人化したり、子どもは純粋だなんて思い入れをもちすぎるのもおかしい」って言ったのが、とっても印象的で気持ちよかったんだけど、それを思い出した。「子ども=聖なるもの」というのは、幻想なんだっていうことを、あらためてつきつけられた感じ。子どもも、大人と同じようなずるさをもっていて、大人と同じようにこの世界で生きのびようとしてるのよね。吉岡忍の作品は、アジアや地球のレベルで考えようという、日本にとどまらないグローバルな視点をもとうとしているのが、日本の他の作家との違いかしら。でも、子どもはどうなのかな、こういう作品って。表題作の「月のナイフ」は、よくわからなかった。状況描写がわかりにくくて。あと、連環小説ということで、あえて最初に近未来小説の「旅の仲間」をもってきたのは、失敗だったかも。ここで挫折しちゃう読者もいるんじゃない?
カーコ:私は読むには読んだんだけど、考えてみる前に、流さんに貸しちゃったので・・・えーと、どうだったっけ。あ、そうそう、私は自分の子どものこともあって、10歳くらいから14〜15歳って、どんなふうに成長していくものなのか、興味をもってるところなんだけど、この作品は、現代の子どもの抱えてる問題がたくさん出てきて、キーワードが目にとびこんでくるような感じ。生々しすぎて、今ひとつのれなかったんだった。ノンフィクションの作家がフィクションを書くと、こういうふうになるのかな。
H:好き嫌いが別れる作品でしょう。試みとしては、おもしろいと思うけどね。作者の気持ちもわかる・・・が、もう一歩先まで行ってほしかったって気もする。「月のナイフ」で、きらきら光ってキレイな先生の産毛が、幻想とまじっていく場面とか、あと、どっちも意味がなくて、どっちだかわからないようなことを書いたりしてるところ、こういうところは評価したいね。子どもの文学にこういうことを書くって、これまでになかったと思うから。子どもからは「自由な感じがした」って、手紙が来たりするんだけど。とくに好きだったのは「鹿の男」かな。でもなー、やっぱりハナにつくとこはあるんだよな。学級委員的な臭さっていうか、リーダー臭さ。誠実なのは、わかるんだけどね。世代的なズレを感じる。この作品、不統一な短編集って話がさっきあったけど、作者個人のこだわりがあって、最後のところにすべてが重なるようにできてるんだよ。まあ、最初の作品としては、いいんじゃないかな。
ウォンバット:私は、この作品は、読んでいやーな気持ちになっちゃって。問題意識はわかるんだけど、困った事態をつきつけるだけつきつけといて知らんぷりされちゃうみたいで、感じ悪かった。あとに残されたのは、どうにもならない無力感だけ。唯一好きだったのは「子どもは敵だ」。
H:ぼくも。
ウォンバット:ここにでてくる「言葉」っていうものの定義と、言葉のもつ危うさは共感をおぼえた。この作品は、おもしろかったな。
モモンガ:私も、最初の「旅の仲間」を読んで、こんなのがずっと続くのはつらいなと思ったんだけど、他はまた違ってた。こんなふうに、違った雰囲気のものが1冊になった短編集って、珍しいわね。やっぱり大人と子どもは違う。子どもは、自分の居場所を選べないし、自分が選んだわけではない場所に、ずうっといなくちゃいけないでしょ。閉塞感があるよね。そういうことを考えさせられたんだけど、子どもの目で読んでおもしろいと思える作品ではないかな。なるほどなーと思うところは、あったけど。この装丁は好き。
愁童:ぼくも「旅の仲間」は、拒絶反応。読むのがつらかった。なんだか、作為が目立っちゃって。もっとシャイであってもいいんじゃないの?「その日の嘘」は、タイトルが断罪してる。こんなの書いてどーするんだ?! 何をねらったんだか、よくわからん。ぼくの不登校ムードをくつがえすほどのパワーはなかったね。
オカリナ:私は、半分までしかまだ読めてません。実は、ここにくるまでの電車の中で読もうと思ってたんだけど、疲れて爆睡してしまいましてね・・・。
一同:(笑い)
オカリナ:私は吉岡さんと同世代のせいか、言いたいことがわかりすぎちゃう気がしたの。書いていることは世間的に見れば直球のスローガンじゃないんだろうけど、それでも言いたいことがあってそれに引きずられて書いてるっていう意味ではスローガンみたいに見えてきちゃう。誠実なのはわかるんだけど、もうちょっとセーブしたほうがよかったんじゃないかな?
H:スローガンさえ気にしなければ、おもしろいところはあるんだけど、すけて見えちゃうんだよな。作為が消えきらないっていうかさ。吉岡さんには、問題意識そのものを疑えっていうところがあるんだよね。グロテスクなものの中にも美しいものがあるかもしれないっていうテーゼのたて方も、大人から見たらウザいよね。
オカリナ:酸性雨の影響を受けた湖の水は、その中で生きてる物がいないからとってもきれいに澄んでるっていうことなんかは、すでにあっちこっちで書かれてるわけだから、そんなに新しい視点とも思えなかったし。
愁童:「鹿の男」の描写力には、可能性を感じさせるものがあるけどね。
オカリナ:装丁とか、本の感じはいいよね。
ひるね:私も、だいたいみなさんと同じ。「旅の仲間」は別としても、他のはもう恥ずかしくて読めなかった。最初に意見ありきで、それを創作であらわそうとしてるみたい。それなら、ノンフィクションで書いたほうが、よかったんじゃないかしら。
H:吉岡さんは、「ノンフィクションとフィクションのあいだを書きたい」って言ってるんだよ。
ひるね:「月のナイフ」は表題作だし、書きたかった世界なのかなという感じはするけれど、残念ながら作品として熟していない。惜しい! ナイフに拒否反応をおこす大人を戯画化してるんだけど、突然男が川を流れてきたりして、ナンセンスっていうかシュールな方向にいっちゃって、ラストは、メルヘンの世界でセンチメンタル・・・。もっと書きこめば、おもしろい作品になったんじゃないかしら。これは子どものモノローグの形をとってるんだけど、どう見ても大人の語り口でしょ。違和感があるわね。これからも「ノンフィクションとフィクションのあいだ」をどんどん書いていってほしいけど。
カーコ:「あいだ」ねぇ・・・。
ねねこ:何か提示するものがなきゃ、書いちゃいけないの? 文学って、そういうものじゃないと思うけどな。
流:私も、最初の「旅の仲間」は、息が苦しくなっちゃって、読むのがつらかった。自分が感じたことを書いたっていうのは、よーくわかったけど。
H:「旅の仲間」で、カマしてるんだよね。わかるか、わかんないか。メディアの臭みっていうのかさ、一般の人はこうなんじゃないかって設定した上で話してるって感じ。
流:なんか、予定調和。私は、時事問題を書くってことに対するアレルギーもあってね。この作品、子どもはどう読むんだろ?
(2000年07月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)