『第八森の子どもたち』
エルス・ペルフロム/作 ペーター・ファン・ストラーテン/絵 野坂悦子/訳
福音館書店(福音館文庫も)
2000.04
原題:DE KINDEREN VAN HET ACHTSTE WOUD by Els Pelgrom(オランダ)

<版元語録>第二次大戦末期のオランダ。ドイツ軍に町を追われた十一歳の少女ノーチェは父親とともに、人里離れた農家にたどり着く。はじめて体験する農家での暮らしに喜びを見いだすノーチェだったが、その平穏な日常を戦争の影が静かに覆っていく。農家のおかみさん、その息子エバート、脱走兵、森に隠れるユダヤ人一家。戦争の冬を懸命に生きる人々の喜びや悲しみが、少女の目を通して細やかにつづられる。オランダの「金の石筆賞」を受賞。

:私は、期待が大きかっただけに、ちょっと残念だった。厚さ2.8センチ、総ページ数 424ページものボリュームなんだけど、こんなにたくさんの文字が必要な内容かしら? というのは、私、アウシュビッツに行ったことがあるんだけど、そのときものすごいショックを受けたのね。もちろん、訪れる前から大虐殺のことは、知識として知ってた。人体から作ったせっけんとかね、残酷なことはいろいろ知ってたつもりだった。だけど、実際にその場所に立ってみて、ここで人間が3年間暮らしていたという営みを見せられたとき、それまで知っていると思ってた「ホロコースト」との間に、ものすごいギャップを感じて愕然としたのね。そして、この隔たりを埋められるものはなんだろうって考えたとき、「それができるのが、文学だ!」と思ったの。人間の営み、その瑣末な日常と、大きな歴史のうねりとを重ねあわせること。それこそが、戦争を題材とした文学に求められているものじゃないかと思うのね。その点、この作品はシチュエーションはきちんと設定されているんだけど、その先の、大きなところまで結びついてないでしょ。そこがちょっと不満。11歳の女の子ノーチェの視点で人間の営みを地道に追っていくという、作者の一貫した姿勢には好感をもったんだけど……。
ドイツ兵にしても、「ドイツ兵=下品で野蛮」というふうに描かれているけど、本当はそればかりじゃなかったと思うのね。ドイツ兵の中にもいい人、悪い人がいたはずだから。「これは自伝ではなくフィクションです」とペルフロムは言ってるって、訳者あとがきにも書いてあるけど、成長した大人が子ども時代を振り返って書いているわけだから、ドイツ兵をステレオタイプに片づけてしまうのは、まずいんじゃないかしら。あと、訳について、ひとこと。野坂さん、だいぶうまくなってると思うけど、ところどころひっかかるところがあった。たとえば「おねえちゃん」。「おねえちゃん」というからには、ノーチェより年上なのかと思わなかった? 本当は7歳だから、ノーチェより「おねえちゃん」のほうが年下なのよね。もともとクラップヘクの人間関係は、ちょっとややこしいんだけど、よけいに混乱しちゃった。それから私には、子どものいきいきとした感覚がいまひとつ感じられなかったな。オビによると、松岡享子さんは絶賛してるんだけど……。

愁童:ちょっと前に、自分の学童疎開体験を話してくれって、近所の中学校に頼まれて、しゃべったことがあるんだけど、その時、当時の小学校があった区役所編纂の「集団疎開児童だった区民の座談会」みたいな資料を読んだら、「集団疎開には林間学校みたいな、うきうきした感じもあった」なんて、なつかしがっている人も多くてさ。そういう感覚と同じようなものを、この作品に感じたね。ペルフロムもあとがきで、村をなつかしがってる。「疎開=悲惨」みたいな図式ってあるけど、確かに当時を生き延びた人にとっては悲惨=100%じゃない面はあって、だから生きてこられたんだと思うけど、作品として子どもたちに伝える場合、こういう視点からっていうのはヤバイんじゃないかな。この作品、いろんな出来事に対する作者の痛みが感じられない。例えば隠れていたユダヤ人一家がいなくなったときも、出来事としてさっと流れていくだけで、主人公の衝撃みたいなものは伝わってこないよね。

モモンガ:心の痛みは、ぜんぜん伝わってこないよね。「おねえちゃん」が死んだところも・・・。

ひるね:p404で、おばさんたちが「あの子は、死んでよかったのかもしれないよ」ってしゃべってるのを、ノーチェが立ち聞きしてしまう場面。なんだかのんきな感じになっちゃてる。息子死配慮があるとよかったのに。

愁童:こんなことじゃ、「民族と戦争」について考えるのはちょっと難しいね。

ねむりねずみ:いろいろとおもしろい話は出てくるんだけど、さてそれから・・・って思ったところでぷちっと切られちゃう感じがして、私もちょっと物足りなかったな。まあ、子どもの視点で描いているからと言われれば、なるほどと思わなくもないけれど・・・。たとえば、掃除したばかりの廊下を汚されたくないウォルトハウス夫人が、ノーチェに「出ていっておくれ!」っていうのと、ユダヤ人のメイアー一家が連れ去られたことが、同じ重さで描かれちゃってるでしょ。これはちょっと問題だと思うなあ。たしかに子どもの感覚っていうのは、そういうところがあるかもしれない。子どもの頃って、台風が来てもイベントのひとつのように思って、わくわくしたりしなかった? 事態の全体像をつかんでないから、そのときどきの珍しいことを楽しめちゃう。そういう感覚はたしかにあるだろうけど、でも、それだけじゃね・・・。どーんと胸に迫るもののある作品とは、受けとれなかった。こういう状況の中、子どもがどう生きていたかということを描くには、成功していると思うけど、そのもう一歩先まで描いてほしかったな。

オカリナ:主人公ノーチェは11歳でしょ。大状況と日々の自分のことに対する感覚の間に差があるかもしれないけど、11歳だったらこんなもんじゃないかと思うな。「子どもの視点で描いた」というのなら、これはこれでいいんじゃない? 私が興味深いと思ったのは、オランダという場所。1944年のオランダでも、田舎にいけばこういう暮らしがあったのよね。そして戦禍の中でも、こういう遊びをする子どもたちがいた、と。それはいいんだけど、いかんせん長すぎる! 今の子どもたちに読んでもらうためには、もっと刈りこんでもよかったかもしれない。坦々と進む叙述は、読書力のない子だと、ただだらだらしてるっていうふうに思われちゃうんじゃないかな。あとタイトルなんだけど、「第八森」ってなんだろうと興味しんしんだったのに、ただ詩があって、ユダヤ人がかくれててっていうだけだったから、拍子ぬけしちゃった。

モモンガ:それに『(第八森の)子どもたち』っていうわりには、「たち」というほど子どももたくさん出てこない。

ひるね:イギリス版のタイトルは『時が凍りついた冬』。そのほうが、ストーリーにはあってるかも。

:たぶんこれは、さんざん悩んだ末、解釈を加えないほうがいいんじゃないかということで、原題をそのまま日本語にしたんじゃないかしら。

オカリナ:色とか匂いとか、五感をフルに活用して書いてるのは、おもしろいなと思ったけど、「民族」「戦争」という視点から見ると、ちょっと不満がある。なんだかいい人ばっかり出てくるでしょ。全体に明るく、太陽的。そして「そこに立ちはだかる悪」=「ドイツ兵」という図式。ドイツ兵は、「劣っているもの」として描かれてる。作者は、子どものときそう思っていたかもしれないけど、この作品は大人になってから書いたものなんだから、そのへん、もうちょっとなんとかすればよかったのに。そうしたら、陰影も生まれて、長所がもっと引き立ったんじゃない?

:人間洞察に、深みが足りない。もう少し工夫すれば、この裏に大きい歴史のうねりがあるということを知るための、大事な入り口になる可能性はあったのに。

モモンガ:歴史を知ってる大人が読めばわかるけど、子どもにはわからないものね。

ウォンバット:私は今回のテーマ「民族と戦争」というのは全然意識しないで読んだんだけど、おもしろかった。というか、意識しなかったから、おもしろかったのかも。ノーチェたちの暮らしぶりもおもしろかったし、「ああヨーロッパなんだなあ」と思ったの。オランダ語とドイツ語って似てるんでしょ?

オカリナ:んー、ドイツ語と英語の間みたいな感じかな。

ウォンバット:ノーチェのお父さんはドイツ語がよくわかるし、クラップヘクの人たちも、なんとなくだったらドイツ兵の言うことがわかる。やっぱり陸つづきだから、距離的に近いっていうだけじゃなく、言葉もよく似てるのね。そういう土台の上で起こった戦争だったってことが、よくわかった。

モモンガ:私はこの本、とっても読みにくくて。なかなか物語世界に入っていけなかった。なんでだろと思って考えてみたんだけど、これは小さい子向けの文体でしょ。私は、書評や表紙の雰囲気から、なんだか先入観があって、もっと大きい子向け、高学年向けの重いものなのかと思ってたのね。そうじゃなくて、小さい子の視点に徹してるんだということがわかってからは楽しめたけど、そこまでちょっと時間がかかっちゃった。小さい子って、大きいことにはこだわらず、小さな喜びをみつけていくのよね。でもねー、小学校低学年の子がこの本を読むかなと思うと、「おもしろそう」って自分から手をのばしてこの本を読む子は、少ないだろうと思うな。もうちょっと文章を少なくして、読者の対象年齢もあげて、中学年向けにしたほうがよかったんじゃないかしら。

ウンポコ:ウンポコは、いつものようにun pocoしか読めなかった。読みたいという気にならなかったんだよね。ペルフロム自身は「この作品は自伝ではなくフィクションだ」と言ってるって、訳者あとがきでわざわざことわってるけど、物語性がないでしょ。p100に到達する前にダウンしちゃったね。もう、苦労して読むのはやめようと思って、やめちゃった。訳文は読みやすかったんだけどね。ぼくは気にいった作品は、声に出して読んでみるの。そうするとまたよくわかるんだけど、この訳文は、ぼくと呼吸がぴったりあった。この訳者、いい人! と思ったね。

モモンガ:わかりやすい訳よね。

ウンポコ:時間があれば、もう少し読めたんだけど……。でも、ウンポコだから、un poco読みさ!

ひるね:私は、ひるね読みで 270ページ。ローラ・インガルス・ワイルダーの『大草原の小さな家』のシリーズのオランダ版と思って読んだら、おもしろかった。

オカリナ:たしかに似てる部分はあるけど、『大草原の小さな家』は、もっとストーリーに盛り上がりがある。この作品も、フィクションなんだから、もっと起伏をつければよかったのに。

ひるね:そうね。それに、はじめ、人間関係がわかりにくかったの。最初、ノーチェとエバートが橇遊びをするシーンではじまるんだけど、それがけっこう長いでしょ。こういう形で入ったら、小さい読者にはわからないんじゃないかしら。それと、翻訳によくあることなんだけど、ノーチェの視点で語られていたものが、突然別の人の視点に変わったりするでしょ。結核のテオとかね。視点が、大人の男の人のものに移ってるのに、口調がノーチェのまま、11歳の女の子のままになっているのは、違和感があった。「ですます調」も難しいわね。ノーチェが主人公だから、こういう語り口にしたのかな。読者対象も原書にあわせたんだと思うけど、日本向けには、オランダよりもう少し対象年齢をあげて、てきぱきと訳したほうが、おもしろかったんじゃないかしら。あと、自分の経験した戦争を描こうとするとき、「なつかしさ」というのも、曲者だと思う。最後の場面、クラップヘクを離れてアムステルダムにいったノーチェが、クラップヘクでのことを「すばらしい生活だった」というふうに、回顧してるんだけど、それもちょっと問題よねぇ・・・。たしかに、なつかしさというのはあるんだろうけど、こうはっきり言ってしまうのは、どうなんだろう。アミットの『心の国境をこえて』と比べてみると、実際ナディアよりノーチェのほうが、ずっと緊迫感のある暮らしをしてるはずなのに、全然そんな感じじゃない。書き方によって、こうも変わってくるものかというのが、よくわかった例。ノーチェは11歳ということなんだけど、もっと幼い子のような感じだし。

モモンガ:ノーチェの台詞、ちょっと子どもっぽすぎるよね。

ウンポコ:やさしく書いてあって、ぼくは好感がもてたけどな。

ひるね:訳者あとがきによると、翻訳期間約5年っていうことだけど、編集者がずいぶん手をいれて、時間がかかったのかしら。「ですます調」より、「〜だ調」だったら、もっとよかったかも。

モモンガ:もっとしまったかもね。

オカリナ:この半分のボリュームだったら、よかったんじゃないの?

ウンポコ:翻訳する人はさ、この作品は「ですます調」でいこうとか、これは「〜だ調」がいいとか、すぐ判断できるものなの?

オカリナ&ひるね:すぐ判断できるものと、そうじゃないものがあるよね。迷ったときは、両方やってみることもある。

ひるね:特別なものをのぞいて、小学校2〜3年までは「ですます調」、それ以上は「〜だ調」のほうが、しっくりくるんじゃないかしら。

:人間って頭の中で考えるとき、「ですます調」では考えていないのよ。

愁童:「ですます調」は、終わったことを言うときに使いたくなるんじゃないかな。作者の中で完結してしまった過去を語る文体。だから切実感や緊張感に欠けるんだよ。

ウンポコ:そう言われててみると、手紙は「ですます調」で書くね。

ひるね:あら、今の若い子のメールは、「ですます調」じゃないでしょ。

ウンポコ:ぼくは、メールも「ですます調」だなあ。「ですます調」でないと、乱暴な口調だと思われるような気がしちゃって。

ねむりねずみ:子どもの視点と、文体にもズレがあるよね。

モモンガ:ノーチェの視点で語られているのは、子どもには読みやすいと思う。でも、子どもの視点と大状況を両立させるのは、難しいことよね。といっても、本当にこの作品を楽しめるのは、大人じゃない?

オカリナ:この本、「売れるか売れないか」といったら、そんなに売れないと思うの。でも、オランダ政府は外国でのオランダの本の翻訳出版に助成金を出してるんだって。この本もそうだと思うんだけど、売れなくてもいい本なら出せるっていうのは、うらやましいわね。

(2000年09月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)