『壁のむこうの街』
ユーリ・オルレフ(ウーリー・オルレブ)/作 久米穣/訳
偕成社
1993-03
原題:THE ISLAND ON BIRD STREET(英語では)by Uri Orlev, 1981(イスラエル)

<版元語録>父さんが強制収容所へつれていかれたあと、ぼくはハツカネズミのスノーと、くずれかけたアパートで暮らしていた。アパートの壁のむこうはポーランド人街で、むかいの建物の窓に見える少女の横顔をながめながら、ぼくは、いつかその子とスケートをするのを夢みていた。第二次大戦のさなか、ポーランドの廃墟でひとり生きぬいた少年の物語。世界各国で紹介されたイスラエルの作品。

アサギ:途中、自分の意志で読むのやめたの。私、専門柄、こういうものをいっぱい読んでるんだけど、食傷ぎみ。でも、子どもたちにはいいと思う。『シンドラーのリスト』を見たときも、「私はもういい、でも若い世代にはぜひ見せたい」と思ったのね。若い世代があまりに過去について無知だから。あの映画そのものにはいろいろ問題があると思ったけど(「やっぱ、ハリウッド」って)、それでも「スピルバーグ」の名につられて、ふだんならああいう作品を見ようとしない若者が見に行ったから、それはそれで評価してるの。その意味で、こういう作品も子どもたちには読んでもらいたい。私は年のせいか、シリアスなものがだんだんつらくなってきた

ブラックペッパー:映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』なんかもそう。見終わって後悔したもの。

トチ:山中恒さんが講演で、「今の子どもに戦争をどう伝えるか」、「どうしたら戦争を被害者の立場ではなくてホール(whole、全体)として伝えられるか」ということを語っていましたが、私もこの3作を、そこのところを気にしながら読みました。ドイツ兵は徹底的に悪者にしているけれど、その他の人々はいい人と悪い人を分けずに、行動で描いているところはいいなと思った。つらくて読めないというところもないし、最後も大団円がくるわけではないところもいい。壁の向こうの女の子もユダヤ人だったことを知るなんていうところも、経験した人でなくては書けないでしょうね。人間の描き方がステレオタイプじゃないところは、『小さな魚』(エリック・C・ホガード作 犬飼和雄訳 冨山房)なんかと、共通している。被害者の側からだけ書いても、描き方によって、一面的じゃなくてホールとして伝えられるんだなと思いましたね。

愁童:今月の課題のうちでは、ぼくはいちばんよかった。今の子には『ロビンソン・クルーソー』みたいな冒険もの感覚で読めて、案外説得力あるんじゃないかな。

ペガサス:オルレブが来日したときの講演会を聞いて、今でも印象に残っているのは、「いちばん書きたかったところは、子どもというのはどんな状況におかれても、楽しいことを求めるということだ」と言っていたこと。戦争は悲惨だし、この物語は本当に彼の体験したことで、そのことは重いけれど、ささいなことにも楽しみを見出す子どもの姿が描かれているのが、この本のいいところだと思う。

ブラックペッパー:今回、テーマが戦争と聞いて、気が重くなっちゃったんだけど、これとウェストールの『弟の戦争』はおもしろかった。主人公が大人になっていく様子がきちんと伝わってきた。こういう機会がなければ読まない本だけど、読んでよかったなと思いました。最後、お父さんとは再会できないだろうと思っていたんだけど、うまくさっぱり出会えて、無理なく感動させられました。ただし表紙はいや。あと、この子は12歳って設定ですけど、幼いところもあったりして、どうなんでしょうか。

紙魚:戦争の物語って、小さい頃からなかなか読めなかったんです。それは、小学校とかで読まされて読書感想文とかを書かされるじゃないですか。自分から進んで読むというよりは、読まなくちゃいけない本というような印象。必ず、感想文の最後に「だから戦争はいけないと思います」でしめくくるような。にもかかわらず、この本はけっこうひきこまれて読みました。たったの半年たらずのことなのに、主人公の男の子がみるみる成長していくのがビリビリ伝わってくる。部屋をつくったり恋をしたりなんてところも、おもしろかった。

:私は、これまで戦争ものと障害者ものにはケチをつけちゃいけないと思ってたのね。でも、この主人公は、たくましいじゃない。楽天的だったり、恋をしたり、サッカーをしたり。自分もくっついて体験しているような気がした。戦争ものでいい本ありませんかときかれると、「火垂るの墓」(『アメリカひじき・火垂るの墓』 野坂昭如作 新潮文庫)とかになっちゃいがちなのよね。平和教育って言われるけど、実際の子どもたちは、戦時中でも遊んでた、悲しくてつらいだけじゃなかったって聞きました。どんなときにも楽しいものを見つける子どものたくましさを感じましたね。

アカシア:子どもはどんな状況でも楽しいところを見つけるっていう部分では、たしかに共感したけど、この本のバックにあるものは好きになれないな。まずp6に「さいわい私の伯母は、パン屋をしておりましたので、毎日わたしにパンをくれました。その伯母の店の前の歩道に、少年がじっとうずくまっていて、とうとうそこで死んでしまったこともありました」ってある。その時代に生きていくというのはたいへんで、ぎりぎりだったのはわかるけど、作家として「さいわい」っていうのはどうかと思いますね。p23にも、貯蔵室のドイツ兵をやっつけるのに、「うしろからやればもっとかんたんだろう。そんなことをするのは紳士的ではないかもしれない。でも、すべての掟を最初にやぶったのはドイツ兵だから、かれらにたいしてはこっちも正々堂々とやる必要はないと、いつか父さんは、ぼくにいった」という箇所がある。p26では、「頭のおかしいやつが指導者にえらばれたらどんなことになるかを、ほかの人たちが知るように歴史のページにのこしておかなきゃ。…そうすれば、子どもたちでさえ武器をもつよう、おしえなくちゃならない時代があったってことを、のちの世の人もみとめるだろうからな」と、ポラックじいさんが言う。このあたり、過去のある時代の被害者という意識が強すぎて、今だってヒットラーはいなくても無理やり兵士にさせられている子どもがいっぱいいるという事実が、この作家の視野には入ってないのかな、と気になる。それに、お父さんやユダヤ人のお医者さんは、「友だちや家族をすくうため、国をまもるためなら、敵の兵士を殺してもいい。それは勇敢な行為なんだ」って、この子に教えてるのね。とうとう出会ったお父さんにピストルを返す場面でも、この父子が気にしているのは、人を殺したという部分ではなくて、引き金を引く手がふるえたかふるえなかったか、ということになっている。
そりゃあ、あのナチス支配下のユダヤ人社会ではこれが現実だったのかもしれないけど、体験談ではなく、フィクション作品で今こう書かれると、かなりヤバイという気がします。戦争なんて、だいたい自衛っていう名目で行われてるんだし、どんな手を使ってでもビン・ラディンを仕留めるって言いながら民間人を誤爆しているブッシュに行き着く。自分は正義、相手は悪という前提が平和をつくり出すことはない。私は、感動的に書かれているだけに、この本はよけい子どもに読ませたくない、と思ってしまいました。片方の側からだけ書いて、戦争をホール(whole)にとらえることなんて、できないのでは? それから、リアリティに関しては、男の子が縄ばしごを始終使っているのに一度も見つからないなんてありうるのかとか、お父さんはいったいこの間どこにいっていたのかなど、疑問が残りました。

ねむりねずみ:これの前に『砂のゲーム』(ウーリー・オルレブ作 母袋夏生訳 岩崎書店)を読んだときに、ユダヤ人はひたすら被害者という姿勢を感じたんです。この物語も、ロビンソン・クルーソーなんだなとか頭ではわかるんだけど、感動として迫ってこなかった。たとえば、ロバート・キャパ(ユダヤ人)の写真展に行ったときに、彼はとても厚みのある戦争の写真を撮っていて、その一方で建国直後のイスラエルの写真を撮ってるんだけど、彼にとってはイスラエルの建国が文句なしにプラスなんだっていうことがよくわかった。そのとき、あっと思っちゃって、そういうスタンスを感じると、ちょっと待てと思っちゃうんですよね。子どもらしさの点でいっても、ネストリンガーの作品『あの年の春は早くきた』(上田真而子訳 岩波書店)のほうがよく書けてると思う。これは、なんか、いい人はいい人で、悪い人は悪い人っていう感じがした。本当に生きるか死ぬかっていう状況になると、相手を殺すか殺さないかってなっちゃうのかもしれないし、ずっと追われて放浪を続けてきたユダヤの人にとっては、こういうふうな形になってしまうんだろうけど、でも・・・。

アカシア:極限状態のときはこうなってしまう、という書き方には思えなかったのね。自分だって加害者になるかもしれないという視点が欠落してるもの。視野が広がるような書き方をしてないじゃない。

トチ:それは難しいところよね。たとえば、『少年H』(妹尾河童作 講談社)みたいに、あの時代に思っているはずがなかったこと、今だからこそ言えることを、子どもに思わせたり、言わせたりすると、嘘になるし・・・。

アカシア:『アンネの日記』みたいなノンフィクションは、その時代に見えたことだけが書かれてても当然なんだけど、これは創作だから、いろいろな方法がとれるはずでは? お父さんはお医者さんとは違う考えの大人を登場させたっていいわけだし・・・。この本を読んでいると、ブッシュがだぶって見えてくる。

ブラックペッパー:私はブッシュと同じとは思わないけどな。読んでるときも、ストーリーにどっぷり、になっちゃって、ぜんぜんそういうことは思い浮かばなかった。今言われてそういう見方もあるのかと、ハッとさせられた。でも、たしかに切り捨ててしまったのは悪いことかもしれないけど、だからこそ物語が骨太になっててぐいぐい引きこまれて読んだというのもあると思う。不十分な描き方なのかもしれないけれど、こういうほうが物語性は生きてくるのでは?

アカシア:だから恐いんじゃないかな。

トチ:戦争って、もうこういうかたちでは、創作として書けなくなってきてるのかも。だから『弟の戦争』のような作品があらわれたんでしょうね。

ペガサス:今、戦争の話で、子どもが読んでも大丈夫な本って、少ないよね。

:オルレブさん自身みたいに、強烈な経験をしてしまうと、被害者意識がどうしても前面に出て、ホール(whole)で書くのって難しいんじゃないかな。『あのころはフリードリヒがいた』(ハンス・ペーター・リヒター作 上田真而子訳 岩波書店)なんかは、ドイツ人の子どもの目で書いてるからまた違うけど。

アカシア:ナチス支配下のユダヤ人の悲劇は、もちろん書かれるべきだけど、そればかりが評判になったり、日本でも山のように翻訳されたりするのは、どこか胡散臭い。今だって、世界のあちこちでいろいろな戦争の被害を受けている子どもたちがいるのに、そっちからは逆に目をそらさせことになるような気がするんですよね。

ペガサス:書き方が問題。ピストルを撃つとき手がふるえなかったことを誇りに思ったというのは、本当にそういう気持ちだったのもたぶん事実ではあるけれど、それを感動的に書いちゃってるのが問題なのよね。前書きとかで、作者のことが出てきちゃうから、一面的にとらえられがちでしょ。

アカシア:戦争のことって、事実としてはちゃんと知っておかないといけないんだけど、日本の子どもの本では原爆とかナチスとユダヤ人というようなところだけがフィーチャーされて感動的に語られることが多いからみんな知ってて、ほかの部分についてはあんまり知らないという現状ですよね。そうじゃなくて、今を考える材料にしないと、意味がない。

(2002年01月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)