『海へ帰る日』
小池潤/作
理論社
2001.08

<版元語録>陸に残るか、海へ帰るか、ぼくらは未来を選択する。加速する地球温暖化——そして、謎のドリンクTEST CASEに託された人類の運命は? ——少年たちの生命力がはじけるスペクタクル・アドベンチャー

すあま:これはSFですが、アイディアがおもしろいという本。最後がどうなるのかが気になって読んで、最後いろいろ納得がいかなくなる。続編でも作ってくれなきゃ気がすまない。海に帰るってことについても、周囲の人の理解がありすぎる。ともかく不条理に思える部分が多すぎるんだけど、なぜか最後まで読んでしまった。

トチ:その最後が、なんとも苦しい。ずいぶん前に某社のベテラン編集者に、「君、作品がまとまらないからといって、警官を出しちゃいけないねえ」と、きつーく叱られたことがあったけど、そのときのことを思い出した。まだ作品として完成してないのでは?

紙魚:アイディアはおもしろかったんだけど、これこそ能天気な物語。細かいところがすべて、えーっそんな軽々しくていいのかな、と思うんだけど、最後まですらーっと読めてしまった。だいたい、いきなり海で生活しなくちゃいけないって言われて、これだけの不思議なことが起こったら、相当悩むと思うんだけど、あっさり家族も理解しちゃうし、最後には、なんとしてでも海に帰そう! なんてみんなで力を合わせちゃう。えっいいの? と思わずにはいられない。昔NHKでやっていた、SFのテレビドラマになんとなく似ていました。

ねむりねずみ:ぱーっと読めちゃうけど、それは最後が気になるから。途中で生まれた謎や、これってどうなっちゃうんだと思ったことにケリが付かないままのことがたくさんあって、それが気になった。研究所の正体とか、超能力を持った子たちが悪のりして大騒ぎになるところとかね。地球温暖化っていう大きな問題がテーマみたいな顔をしているけれど、なんかただの道具立てっていう感じで、ぐっとくるわけじゃない。全員が、どんと投げ出された運命にひたすら馴化していくっていう感じですね。

アカシア:私は変なドリンク1本で人間の体質が変わっちゃったっていいし、テレパシーが出てきたって、未来研究所が出てきたっていいじゃん、いいじゃん、エンターテイメントなんだもん、と読んでいったんだけど、最後はやっぱりお手軽すぎましたね。あと、アイデアがおもしろいんだから、もう少し細部のリアリティを大事にすればよかったのにね。

紙魚:それに、装丁がわかりにくかったな。物語のイメージが、装丁に着地してないと思う。

:この本、何かに似てるなって思ったんだけど、私も眉村卓さんの『なぞの転校生』のテレビドラマを思い出しました。あれ、大好きだったんですよね。

ペガサス:私は、この本こそノンフィクションかと思って読んでしまったので、変なことが起こりはじめるとき、ちょっとぞわぞわ感を味わえました。子どもたちの描写も細かく書いてあるのでらくに読んでいけたけど、途中から、なんなのこれ、なんでみんな止めないの? ねえなんとかしたら? っていう感じになってきた。あと、主人公の家族がいい家族で、お父さんや弟が理解をしてくれていいなと思っていたのに、なんで止めないのぉって感じ。

アカシア:でも、止めたらこの子は死んじゃうじゃない。

ペガサス:そうね。その設定自体が変なんだから、そのなかでやっていくしかないのね。写真家のお父さんから写真を教えてもらって、写真に興味をもっていくところなんかよかったんだけど、写真が結局なにも生きてこなかったのは残念。写真というのは現実を映すものなので、非現実的なできごとに反して、何か小道具としてもっと生かされるのかと期待したのに。

ブラックペッパー:いろいろと不思議が残る作品ですが、私は文体について、ちょっとひとこと。なんかオヤジ度の高い文体だなあと思ってしまって・・・。今ふうの言葉をたくさん使っているところが、ハナにつくというか、「がんばって使ってます」という空気を感じてしまった。しみや皺を隠そうとしてたくさんファンデーションを塗ったら、よけいに弱点が目立っちゃったというべきか。今ふうの言葉を使うのはいいんだけど、その一方で、同級生のことを「遠山少年」といったり、あとたぶん中学校では、代数っていわないと思うんだけど、「苦手の代数で」とか、今ふうでない言い回しがするっと出てくるから、そのギャップに「若ぶってるの?」と、だんだん疑いの眼差しが生まれてきちゃってね。たぶん作者は、独自の言語感覚をもってる人だと思うの。そこここにこだわりが感じられて、それはとてもよいことだと思うんだけど、私とはちょっと合わなかったみたい。たとえば「ワンショットグラス」は「ショットグラス」だと思うし、「高層アパート」もちょっと変。「マンション」って言葉、使いたくなかったのなと思ったけど、「高層」だったら、ふつう「アパート」とはいわないのでは・・・。「マンション」って言葉、私も好きではないから気持ちはわかるけど。
それから、雷太が超能力を使って、見知らぬおばさんにアイスを買わせる場面。まず、p80の14行目「おばさんはラウンジのまわりにある店の1つに、ゆっくりと進んでいった」とあるので、ふむ、ここはきっと対面方式で売っているソフトクリームかアイスクリームね、と思ったの。私のイメージとしては、ソフトクリーム。でも、p81の1行目「おばさんは両手に二本のアイスクリームを持ち、佑也たちのすわっている席のほうへ進んできた」とくるでしょ。2本のアイスクリーム? ということは、棒アイスだったの? と、私はちょっと迷う。私のなかでは、アイスの仲間で1本2本と数えるのは、棒アイスだけだから。棒アイスというのは対面方式で売っているのではなくて、まあ、対面方式で売っているところもなくはないけれど、その多くは、包装された状態でコンビニなどで売っているもののことね。コーンに、あっカップでもいいんだけど、その場でかぱっと入れて手渡される、対面方式売りのアイスの仲間だったら、ソフトクリームにしてもサーティワンにしても、私だったら「1こ2こ」とか「1つ2つ」と数える。1本2本とは数えない。そしてたぶん、ここは棒アイスではないはずなのね。この「アイスクリーム」は、p81の12行目「アイスの一本を佑也に渡し、自分のクリームをペロリとなめた」というところから推測すると、むきだしだったと思うし、それにp82の11行目に「アイスのコーン」とあって、コーンの上にのってるアイスということがはっきりするから。となると、棒アイスではなくて、ソフトクリームかアイスクリームだと思うんだけど、ソフトクリームだとしたら「アイス」とはあんまり言わないような気がするし、アイスクリームだとしたら「クリーム」とはあんまり言わないと思う。結局ソフトクリームなのかアイスクリームなのか、私にはわからない。もどかしい気持ち・・・。
まあ、ほんっとにささいなことなんだけど、こういうようなことって案外大事なのではないかと思うのね。こういうことの積み重ねで物語の雰囲気ってできていくと思うから。あと、超能力をもつ子どもたちが力を合わせて物体移動させたりするあたり、『アキラ』(大友克洋作 講談社)とイメージが重なりましたね。

アカシア:私はやっぱりリアリティの希薄さが気になりましたね。防犯カメラをつぶすところがあるけど、透視できるならカメラそのものを躍起になってつぶさなくても、後ろの線を切るとか、どっかのスイッチをオフにするとかでいいんじゃないか、とか。異常な現象について会ったこともない人に説明するのに、電話じゃ無理にきまってるじゃん、とか。近眼の人が眼鏡をかけていて、その目が他人が見て大きく見えるとかね。これ逆じゃないですか?

愁童:これを読んでね、コミックの世界にいる子どもたちに児童文学を広げていこうとする編集者の意欲を改めて感じました。着想は、すごくおもしろかった。でも文章でやる以上は、編集者がしっかりチェックしてほしいと思いましたね。たとえば、「地球温暖化の現象が顕著に始まって」とか「なにをいいはじまった」とか。「花火は極彩色」のルビを「ごくさいしょく」とつけているとか。『家なき鳥』の訳文とくらべて見劣りしちゃ悔しいじゃない。作家なんだから。

アカシア:会話も月並みだし、だらだら続いていくしね。

愁童:翻訳ものの文章にひっかかるのは、ある意味当然だけど、作家の文章が翻訳家に負けちゃあシャクじゃない。昔は、『声に出して読みたい日本語』(斎藤孝作 草思社)みたいな文章は、たくさんあったよね。もうちょっといい日本語で書いてほしかったな。せっかくのおもしろいストーリーなんだから・・・。

アサギ:私は整合性って気になるんだけど、エンターテイメントはね、たとえば『旗本退屈男』なんか、洞窟に押し込められたときとは違う絢爛豪華な衣装を出てきたりするんだけど、気にならないのね。昔の映画っていい加減だったわよね。

トチ:いい加減さなんて気にならないほどのおもしろさっていうか、かえっていい加減さを楽しむってこともあるしね。

アカシア:そこまでおもしろがらせてくれれば、まあいいかってことになるんでしょうけど。

(2002年02月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)