ねむりねずみ:すごく安心して読めた。冒頭の「すぐりがうまれたとき……」の運び方はなるほどなあと思わされたし、日本語もいいし、とても気持ちよかった。ガラスのうまを走らせたくなって壊しちゃうとか、そういう大人とは違った子どもの世界、日常と不思議の世界が入り交じっているような子どもの世界が、なつかしい感じでした。すぐに手を出してつまみぐいするところなんかも、いかにも子どもだなって思ったし。表現としても、「じゅうじゅういうねぼけ声」とか、面白いところがいっぱいあった。ただ一つ気になったのは、ガラス山で、すぐりの体が半分ガラスから全部ガラスになったでしょう、あれに特別な意味があるのかと思ったんだけど、ちょっと肩すかしだった。火の玉がおどりまわるところも日常を別の観点から見てるんだなって思って面白かったし、最後に「どうして、ぼくがここにくるってわかったの?」「それは、すぐりのおかあさんだもの」というのが、幼年期にぴったりなんだなあと思いました。

アカシア:『卵と小麦粉、そしてマドレーヌ』と争ってこっちが賞をとったのは、なるほどなと思った。でも、ずいぶん前に読んだせいか、イメージが弱くなっちゃってる。ガラスの馬を追っていくというのが縦糸なんだろうけど、あっちの話、こっちの話とばらけてしまう感じがして。久しぶりに林さんの絵を見て、また、いいなあと思いました。

カーコ:ほかの2冊を読んでからこの作品を読んだから、美しい日本語だなとホッとした。言葉が形づくっていくイメージが美しくて。特に、かめに12杯水を汲むところで、星がかめの中にたまるというのが好きでした。異界に入って、いろんな試練をこなしていくところは、『千と千尋の神隠し』を思いださせました。勇気を持ってがんばったら、目的を果たせるというところが。ただ、美しいのだけれど、どこか印象が弱い感じがして、それはどうしてだろうと考えたけれど、理由はわからなかったんですよね。

ペガサス:この作品は、林さんのカットに助けられているなあ。本当に子どものしぐさをよくとらえていると思う。だからとても良さげな感じがするんだけれど、どうも物足りない。なぜかというと、この子のガラスの馬への思い入れが、最初にしっかりと書かれていないから。ここまですごい冒険をするんなら、もっとこの子と馬とのエピソードを書くなりして、馬に対する思い入れが納得できないといけないと思う。足を折るというのも、ただ落ちただけで、そこにドラマがないのが弱い。それから、疑問が一つ。ガラスやまのかあさんは、結局おかあさんだったのか。

きょん:強烈な印象があるわけではないけど、美しい文体と、その世界にひかれた。正統派の児童文学って感じですね。ガラスの馬が突然走り始めたりするのが唐突で、すこし不満だし、ねむりどり、ガラスやまというのが、ちょっと古いかな。でも、読み進めていきやすい。ガラスやまのかあさんが出てくるあたりから引き込まれる。ひかれたところは、文体が読者の想像力を刺激するようなところとか、擬音の使い方。「ぎしぎしきしんで、戸はあきました」とか「火にあぶられて、じりじりぶつぶついっていました」など、うまく表現していくのが魅力的。でも、こういう文体だと、体験も想像力も乏しい子には、かえって難しいのかなあ? すぐりが、ガラスやまで跡継ぎになってくれないかと言われたとき、すぐにお母さんの顔が浮かびますよね。子どもの心の中にある支えがお母さんなんだということは強く表現されているけど、ちょっと正統派(素直)すぎて、気恥ずかしい感じがした。こういう作品を読むとあらためて、子どもが感じる世界は、そんなに変わっていないのかなあと思いますね。

ウォンバット:すっと読めた。ガラスって美しいイメージなので、美しいイメージの物語世界がひろがっているけれど、よくも悪くもゴールデンパターンかな。会う人会う人が、すぐりに課題を与えて、「あれやれ」「これやれ」と上から言うのが、ちょっと嫌でした。あんまり楽しい気分になれなくて。最後のところは、「それは、すぐりのおかあさんだもの」よりも、「ガラスのうまは、うれしそうにすぐりをみました」に、ぐっときましたね。

もぷしー:最初に読んだときは、急いで読んだせいもあって、イメージだけしか残りませんでした。でも、気になっていて、2度目を読み返す前に『もりのへなそうる』(渡辺茂男/作 福音館書店)を読みました。『もりのへなそうる』も、本来存在するはずのないものが、子どもの想像力を通して、あたかも存在するかのように描かれている世界。そう思って読み返すと、『ガラスのうま』の馬が突然動きだすというところについても、「子どもにはこう見えた」というのをシンプルに追っていくと、こうなるのかなと思えました。お母さんと子どもの結びつきが強いから、お母さんが読みたくなるお話。お母さんが幸せな気持ちで読めるから、子どもに読んであげたときに、いいお話になる。内容的に弱いようなところは、私も感じました。これは、子どもが「悪いこと(失敗)をしちゃった」と認識したとき、初めて自力で問題を解決しようとする、というお話でしょう。自分で問題を解決する中に、こわいこともあるし、やめたくなっちゃうときもあるんだけど、一つ一つ自分に課題を与えては、こなしていく。達成できたとき、最後に報告したい人、戻りたいところはお母さん。無理やり考えると、そんなところでしょうか。イメージとしてはきれいに読めたけれど、つっこんで考え出すと、火の玉はどうして二つだったんだろう(何を表しているのか)とかわからないことがあって、気持ちいいところには落ちつけませんでした。

愁童:今回の3冊の中では、これが一番透明感があって安心して読めた。ただ、ちょっと線が細い感じ。べつに目新しい作品ではないと思うけど、でもほっとする。若い人はどう読むのか、すごく関心があります。今の子が、どこまで読んでくれるか、この日本語として上品な、響きの良い文章を読んでくれるといいんだけど……。

紙魚:オーソドックスな幼年童話なんですよね。それも、自分の力で読み始めたばかりの、年齢の低い子どもたちへの物語。目の前の数珠を一粒ずつ追っていくと、いつのまにか、ぐるりとつながっていて、安定したまま、しぜんと物語を読み進めていくことができる。物語の先から、おいで、おいでと呼ばれるような、ていねいな物語はこびだと思いました。いきなり何か衝撃的な事件が起きて、物語が動いていくというような本が多いなかで、この本は、次の世界に行くまでの距離が短いので、本を読むことに慣れていない子どもでも、読みやすいのではないかしら。日本語も美しい。こういう本って、新作では案外出にくいので、野間賞の選考でも、幼年童話への評価という声があったようです。主人公のすぐりが、ガラスの馬を追って、ふしぎな世界へ入っていくのと同時に、読者も物語世界へすっと入っていくという、まさに物語の入口といった本でした。

愁童:『One Piece』(尾田栄一郎/作 集英社)や『クレヨンしんちゃん』(臼井儀人/作 双葉社)が大好きな子どもにも、作者の世界が通じてくれるといいんだけど……。文章はいいし、行間からにおい出てくるものもある。若い編集者はこういう本をどう考えているのでしょう。

紙魚:姪っ子(小一)に読ませても、さくさく読んでいましたね。

トチ:私もペガサスさんと同じように「なぜ、山のおかあさんがおかあさんになるのかな?」って思ったけれど、これは「ごっこ遊びの世界なんだ」と思ったら納得がいきました。「ごっこ遊び」ってこんな風にすうっと現実に戻ることがあるものね。たしかに完成度は高いし、美しい物語だと思うけれど、印象が薄いのは、善意にあふれていて、ワサビがきいていないから? 幼年童話にはワサビはいらないのかしら?「はかせ」が出てくるところあたりから、話の運びがちょっと苦しいかなと思いました。私の考える理想の幼年童話というのは、幼いころ読んだときは「楽しいな、面白いな」とだけ思って読んだ(あるいは聞いた)けれど、大人になって思い返したとき「ああ、こういうことだったのか」と感じられるようなものだと思うのだけれど、違うかしら?

アカシア:児童文学の向日性ってよく言われるけど、私は幼年童話には向日性やハッピーエンドが必要だと思ってるのね。年齢の高い子どもの作品は、また違うけど。小さい子どもにとっては、「ここはすてきなところだよ」「生きてていいんだよ」と、まわりの世界から言ってもらうことが、とても大事。小さいときにそういうメッセージを受け取ってないと、年齢が高くなったときに自分の足で外に向かって踏み出せない。だから、さっき気恥ずかしいという意見も出てきたし、ワサビが必要という意見もあったけど、私は「それは、すぐりのおかあさんだもの」と臆面もなく出てくるところが、いいんだと思う。これが必要なんだと思う。

トチ:フェアリーテールとかは、もっとこわいんじゃない?

アカシア:でも、昔話は象徴的なイメージを伝える語り口になっていて、怖いことも、具体的に描写してるわけじゃないですよね。

ウェンディ:遅れて来たので、まとめて感想を言います。『ガラスのうま』は、すらすら読めました。確かに完成度は高いし、こういうお母さんの書き方もあるなあと思いました。『アルテミス・ファウル』は、ぜんぜん子どもの作品とは思えなかった。中途半端というか、子どもにはわからない言葉や、大人しかわからないブラックユーモアがぽんと投げ出されていて、気になるところがたくさんあった。訴えたいことがたくさんあるんだと思うけど、羅列しても言いたいことは伝わらないのでは?

(2003年02月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)