:フライトニング・フィクションという、読者にエモーショナルなリアクションを起こさせるジャンルでは、デイヴィッド・アーモンドは非常に評価が高いのね。ポジティブなフライトニングをもってきてるんですよね。『肩胛骨は翼のなごり』(デイヴィッド・アーモンド作 山田順子訳 東京創元社)でもそうでしたが、この作品の中でも水かきのある少女とかグランパとか、ゴシック的な要素を読者が美しいものとして捉えられるポジティブな方向にもっていっている。心のなかにハッとさせる、現実とはちがう領域をつくっている。現実の中の非現実にリアリティがある。金原さんの訳もうまい。でもいっぱい難点はあって、たとえば親から遺棄された子どもたちの施設で働くモーリーが子どもの世界をわかっていないというあたり、単純な図式ですよね。子どもの世界を美化したロマン派の児童像を踏襲している。でも、難点はあっても、私は好きな作家です。

カーコ:ふしぎな読後感のあるお話。出てくる人もふしぎだし、お話もふしぎだし。おもしろいなと思ったのは、視点の置き方。一般の人々の中で生き難くて、筏にのって冒険に出る子どもたちは、最初、自分達対大人という世界で苦しんでいるのだけれど、グランパと出会って、グランパの目で、一般の人間や世界を見ることを迫られますよね。さらに、ヘヴンアイズの独特の視線が交錯する。自分だけじゃ気づかなかった視点で、ものを見ていくでしょう。ただ、誰にでも薦められる本ではありませんね。出会うべき子が出会ったら、印象に残る作品でしょう。

ペガサス:ひとことで言えば奇妙な読後感。なんで奇妙かっていうのは、カーコさんの話を聞いてわかった。『肩胛骨は翼のなごり』もそうだけど、ほかのどの作家にもない奇妙さにオリジナリティがある。子どもだけが体験することのできる、現実なのか非現実なのかわからない状況を描くのがうまいと思う。優しくてせつないというか……。文体も奇妙で、1文が短く、一見関連性のない文が次に来ることがある。はかない雰囲気を出しているのだろうか。意図的につくられているのかな。静かな心にしみる描写がところどころにあって、どんどん読む作品というよりは、合間合間に何かを見せてくれる物語。

紙魚:感想が言いにくい物語です。ともに筏で川をくだり、へヴンアイズと時間をともに過ごした感覚が残っているような不思議な体験でした。泥がまとわりつく感じとか、非常に体感的なんですよね。その筆力がすごいなと思いました。行間にとじこめられている匂いとか空気が、とても濃厚に感じられ、読後、その世界に包まれている感触が残りました。

せいうち:ぼくは、途中までしか読めなかったので、本質をつかめていなかったのが残念。

愁童:ちょっと方向は違うけど、宮沢賢治の作品の作り方に重なる部分があるような気がした。個性的な風景描写で、その中に登場人物の内面をさりげなく投影しちゃう。泥炭地の描写もいいね。

トチ:情景描写っていうより心象風景よね。

アカシア:このへヴンアイズは、『肩胛骨は翼のなごり』のスケリッグと同じような存在として書かれているのよね。でも、隔靴掻痒観というか、しっくりこない感じがあった。たとえばこの女の子の「だねだね」っていう口調が、すごく気になったの。スケリッグと同じイメージだとしたら、「だねだね」じゃなくて、もっと透明な存在を思わせる口調じゃないのかな? 奇妙な感覚ってしっくりくれば楽しめるけど、そうじゃないと読者の気持ちを遠ざけちゃうでしょ。原書で読んだらその奇妙な部分がもっと楽しめるのかな?

むう:原書を持っていたので、照らし合わせながら読みました。ひとつにはやはり「だねだね」口調に違和感を持ったのでそれを調べたり、あと何カ所か意味がよく掴めなくてそれを原書に当たったり。「だねだね」は、原書で言葉を重ねているところをそう訳しているみたいだけれど、ちょっと甘ったれた感じになってしまっている。出来事がどんどん起こってその勢いで読ませるタイプの本なら多少の不鮮明さがあっても大丈夫だけれど、イメージでつなぐタイプの本だと、一カ所不鮮明に訳したがために全体のイメージが不鮮明になることがある。この作品はぷつぷつと切れていながらつながっていくところに味があるタイプの作品。それがアーモンドの持ち味なんだと思うけれど。これを訳すのは大変だったと思う。
 それにしても、あとがきの「ハンカチの用意を!」というのはちょっと違うと思います。『肩胛骨〜』もそうだけれど、これもひゅうひゅうと寒い感じや、汚いものが書かれているにもかかわらず透明感を感じさせる作品であって、そこが、アーモンドらしい。ハンカチが必要になるような熱いものじゃない。この人が異形の者を使うのは、この世界、つまり現実とは違うという印なのかな。『肩胛骨〜』もそうだったけれど、聖人の書き方なんかもデリケートで、現実と非現実の間をたゆたうように行ったり来たりするところがほんとうにうまい。それと、いつも縁のところにいる者に目線があっているのがいい。ただし、最後の施設に帰ってからのところはどうなのか、よくわからなかった。あくまでもあくの強い主人公の目線で書かれているということからすると、ジャニュアリーの話よりも、モーリーンがヘヴンに慰められるところなんかがよかったと思う。ともかくすごい作家だと思う分、訳のことは気になった。

ペガサス:じゃ、ヘヴンのしゃべりかたは、舌ったらずなわけじゃないのね。

むう:うん。違うと思いますよ。

:よく考えてみれば、家出して向こう側に日常の世界が見えているわけですよね。ひょっとしたら違う世界に入っていくお話かと思ったら現実になったり、妙な世界にひきこまれたり、落ち着かない気分だった。泥のべたつく感じは、読んでいてすごく伝わってきた。グランパとヘヴンアイズの関係はどうなってるの? 痴呆症っぽいおじいさんが、ヘヴンアイズを拾ったってことなのよね?

一同:うんうんうん。

:妙な空気ばかりが残ってしまったわ。

ブラックペッパー:私はこの訳はひっかからずに読めました。ヘヴンの言葉もおかしいなとは思ったけど、読めちゃった。最後はどうなるかなんてことは気にせず読む物語。強く思ったことが2つあって、コンビーフとチョコレーはもうしばらく食べなくていいな(彼らがコンビーフとチョコばかり食べてるから)っていうことと、謎を解明したくなる気持ちが強いってこと。グランパとヘヴンアイズの正体はいかに?

すあま:夢に出てきてしまいました。最初、ジャニュアリーは「いまここにはいない」と書いてあるので、死んでしまうのかとずっと気になっていました。ジャニュアリーだけは馴染めないようなので心配してたのに、最後お母さんが迎えにきたので、なんとなく拍子抜けしてしまった。ヘヴンアイズは、カッパの女の子を思い描いてしまった。魚っぽい感じかな。でも、意外ときれいに収束してしまったのが、気になりました。ふしぎな世界の話って、もやもやとしたものが残るのに、水かき以外のことはきれいに片付いちゃった。超現実のようでリアリティがある話になってしまった。

トチ:アーモンドが書いているのは、『肩胛骨は翼のなごり』(ああ、なんて変な邦訳タイトル!)にしても、この作品にしても「奇跡の物語」なんじゃないかしら。普通だったら嫌悪感をもよおす人物や物体が奇跡を起こす。『肩胛骨〜』では、それが納屋にいるホームレスのような男だし、この作品では泥の中から出た死体というわけ。だから、最後にお母さんが現れるという個所も、私は「奇跡」と考えて感動しました。未訳の『カウンティング・スターズ』なんかも素晴らしいし、どの作品も文学的価値が高く、私は大ファンなんですけれど、ファンとしてはもう少し違うテーマのものも読みたいな。あと、この作品は一人称で、女の子の目から書かれているんだけど、心象風景の部分は高度に文学的な、大人の目で書かれているのね。女の子の子どもっぽい言葉と、心象風景の大人っぽい語り口のギャップが、訳すうえでとても難しいんじゃないかな。原文を読んでないからなんとも言えないけれど、そのギャップが訳を読んでいて少しひっかかりました。冒頭の女の子の言葉なんか、そんなに子どもっぽく訳さなくてもよかったのでは? ところで、「ヘヴンアイズ」ってなんなんでしょうね? 感動しながら読んだんだけど、非キリスト教国に生まれた私には、根っこの根っこまでしっかり理解できていないのかも。

(「子どもの本で言いたい放題」2003年9月の記録)