原題:AMERICA by E.R.Frank, 2001
E・R・フランク/著 冨永星/訳
日本評論社
2006.04
版元語録:心のなかで、人々のなかで、制度のなかで、少年は迷子になった。自分の居場所を見つけたいすべての人に贈る、セラピスト兼作家の「荒々しいまでに誠実」な物語、初めての邦訳。
愁童:おもしろかったです。文学作品としてはどうかと思うけど、翻訳者の仕事ぶりがおもしろかった。言葉の選び方や文章のリズムが巧みで、読み手が鬱や心身症を疑似体験させられるような感じに引き込まれてしまうのが印象的だった。後半でセラピー描写が前面に出すぎてくるのが惜しい。前半と同じようなパターンで物語が進んでくれれば、この翻訳者の文体で少年アメリカの内的変遷を疑似体験できるとてもユニークな翻訳書という印象で読了できただろうに、その点がちょっと残念でした。
ネズ:難しい作品だな、と思いました。こういうものをフィクションで書くのと、ノンフィクションで書くのとどっちがいいか、考えさせられました。主人公の生い立ちの部分はおもしろいけれど、私はセラピストの仕事というものをまったく知らないので、セラピストがどのように向かい合ったから、主人公が立ち直ったのか、そのへんがよく分からず、難しかった。こういう本は、同じような境遇にある子は絶対に読まないし、こういう境遇にない子は、自分とは違うと思って読まないのでは? 読者対象をどこに置いているのかしらね?
アサギ:解離性障害というのは、つらい現実から逃避するためのひとつの形だと言うこととは漠然と知ってましたが、こういうことなのか、と私は興味深かったですね。この本はアメリカの若者に人気があるとのことですが、どういう子に支持されてるのかしら?
驟雨:普通の子ですよね。作者は、普通の高校の本棚に置く本として作った。この作品は作者の2作目ですが、若い子からの反応がより鮮明なのは1冊目のほうだということです。
アサギ:少年犯罪は日本でも多発していますけど、罪を犯した子どもたちの更生はどうなっているのかと興味がありました。この本を読んで更生の可能性が感じられ、そこがよかったですね。翻訳は難しかったと思うけれど、とても読みやすかった。それから、こういう子どもたちって大きく見るとけっこう共通項があると思うのね。共通項があるということは、導くための一定の方法もありうることになりますね。むろん、人間は一人一人ちがった個性の持ち主だと言うことは大前提だけど……。それからあらためて思ったのは??この子は料理に関心をもったことがターニングポイントになったけど??好きなこと、得意なことがあるってこんなにも大切なんだということでした。
ミラボー:すごい本だと思った。転落していく過程がよく書かれていたし、ドクター・Bとのカウンセリングの過程が延々と続き、なかなか先が見えないんですが、最後には救われる。イタリックに字体を変え、主人公がふっと別のところに離れて、また戻ってくるというのがわかるように書かれてますね。作品としては最後に救いがあってよかった。訳すのは大変だったろうと思います。特にののしり言葉などは、日本語のほうが少ないので大変だったでしょう。
ウグイス:あまりにも生々しくて、つらくなるような描写が続く中で、一つとても印象に残ったのは、小さいとき、ハーパーさんから隠れると、「ほうら、見つけた! もしもし、あなた、そこにいるのが見えますよう」といって見つけてくれる。「それでおれは、金切り声をあげる。見えるっていうのはほんとうに気持ちのいいことだから。」(p29)というところ。誰からもちゃんと見てもらえない子どもの心情がとてもよくわかる部分でした。最後まで読むと、これが伏線になっていることがわかり、感動しました。
アカシア:フィクションかノンフィクションかという点ですが、作者はきっと、この子のような子と何人も接してきたのでしょう。でもこの作品では、そういう子どもたちの代表として「アメリカ」という少年をつくりだし、フィクション仕立てにしているわけですよね。内容はとても重いですが、読んでよかったと思いました。ただ、読者対象はどの辺なのか、作り手の側はどう考えたのでしょう?
驟雨:アメリカではこの本は若い人向けに出ていて、「自分たちと同じようなことに関心があって、同じような言葉(汚い言葉)を使っている子がここにいる」という読まれ方をしているけれど、それをそのまま日本に持ってきても、距離感があるから同年代では読めない。だから、読者対象としては、そういう虐待などを受けて苦しんでいる子たちを相手にする、たとえば福祉関係などの大人を想定していると思います。
アカシア:子どもの本ではないんですね。巻末に広告が載ってる夜回り先生(水谷修氏)の本は、実際に救いを求めている子が読んでますよね。これは、それとは違って、本当に問題をかかえている子には難しい。時系列が行ったり来たりするので、本を読み慣れていなければ読みにくい。少年アメリカがセラピストとやりとりをしている現在の部分と、過去を思い出す部分が交互に出てきますが、回想の部分の会話は、もっと子どもらしい言葉づかいにしてもよかったのでは? たとえば「書類」(p36)は、幼い子どもの言葉ではないから。ハーパーさんの言葉づかいも、もう少し統一されると人間像がつかみやすくなると思いました。この作品は、甘いところをすべて排除してきりっとしてるんだけど、その分、読者としては読みにくいかもしれない。それから、セラピストはいい人ではあるんでしょうけどこの本からは人間味が感じられなくて。職業柄仕方ないのかも知れませんが、すごく嫌な、少年アメリカでなくても蹴っとばしたくなるような人に感じられました。なので、主人公にも感情移入しにくいし、セラピストにも感情移入できない。
ネズ:セラピストがマニュアル通りにやっているので、こうなるのでは?
驟雨:本人の言葉をそのまま繰り返しながら、本人に自分の内面と向き合わせるというのが、このセラピストのアプローチだと思うんです。この子は、それまでにもいろいろなセラピストと対面してきて、大人との回路はほとんど遮断したような状態で自分を守っているから、たとえば親しみを前面に押し出すようなアプローチでは、この子にすればうさんくさいだけだということになる。だから、主人公とドクターBというセラピストとの会話は、普通の人との会話ではなく、そっけない感じになるのは仕方ないと思います。
アカシア:本人が言ったことをただ繰り返すセラピストを、私はマニュアル通りに応対するお役人みたいだと思っちゃったんです。
ウグイス:でも、少年アメリカにとっては嫌な奴なんだから、彼の感じ方で描くとこうなるんじゃないのかな。
アカシア:そういうのはあるかもね。でも、子どもの本だと読者は誰かに寄り添って読みたいのに、この作品はそういう人が誰もいない。
げた:図書館ではこの本は一般書にはいっています。時間の流れが行ったり来たりして、構成がむずかしくって、なかなか理解しにくいですよね。読みにくい部分もあるし、映画を見るように自分で映像をイメージしながらしっかり状況をつかんでいかないと、会話だけがどんどん流れていってしまう。ぼくも、少し前に戻って読み直したり、何日か時間をかけて読まなければなりませんでした。最終的には救いがあり、野菜を育てて、土の感触を得て前向きな生き方になっていくのが感じられて良かった。作者はまえがきで、これは「教訓話」じゃなくて「優れた物語」を作ろうとしたと書いているですけど、なかなか物語として楽しむところまではいきませんでした。セラピストの助けを借りながら立ち直っていく子どもの生き様を扱ったドキュメンタリーのような読み方しかできませんでした。
驟雨:イギリス版の原題はAmerica is Meで、アメリカ版ではAmerica となっています。イギリスでは、YAコーナーと一般書の場所に、どちらもたくさん並んでいました。万人受けするタイプの作家ではなくて、ツボにはまって熱狂的なファンがつくタイプの作家で、ああいいな、と思う人が何人かはいるという感じだと思う。アメリカでの若者の反応も、すっと入っていけてすごく感激したという感想もあれば、自分とはまったく違う世界だし、何でこんなものを読まなきゃなんないの、と不満を前面に出した感想とに分かれていました。デビュー作が圧倒的に若者の支持を得ているのに対して、こちらはもう少し年齢が上の人たちまでターゲットに含めているようなところがあります。私自身、問題行動といわれる行動をとる若者をどう書くかに関心があって、けっこうアメリカやイギリスのそういう本を読んでみたりもしているけれど、家庭内暴力の被害者、ドラッグ常習者などが転落していく過程はリアルに書けても、そこからある程度のところまで回復していくのを書ける作家はほとんどいないといっていいと感じていました。つまり、回復過程にリアリティがない本が多いのだけれど、この本は、その部分がかなりしっかり書けている。それは、作者のセラピストとしての経験があるからでしょうが、たとえば少年アメリカが小さいことが目に入るようになってくるといった変化が、ちゃんとポイントを押さえて書かれているので、リアリティがあるのだと思います。現実にこういう子どもたちと接している大人たちは、様々な迷いを抱えながら、とにかく子どもと向き合わなければならないわけで、そういう大人に読んでほしい本です。ひとつ不思議な気がするのは、原書は、「本があまり好きでない子ども向け」の本として、リストに入っていること。主人公の、ものすごくヒリヒリした感じを出しながら、でもどこかでは温かいものとつながっている感じは、同世代の子には伝わると思います。でも、日本語となると、表現の仕方がとても難しい。原書は、話し言葉がそのまま文になったような作品で、そのままでは日本語にならないという問題もあります。
ミラボー:主人公が予想する調書の文面が出てきて、この少年の育ってきた過程がわかるけれども、それとは別に実際に起こったことも書かれているので、それらを総合して読んでいけばいいのでしょうね。
驟雨:セラピストによるセラピーというのは、向き合っている子の影の中に、その子の過去がいっぱいつまっていて、それが必要以上にふくれあがっているのを、原寸に戻して、その子にも受け止められるような形に持って行くことだと思います。その意味で、たとえばブラウニングの、主人公を安心させておいてから根底から覆すという行為の残酷さをちゃんと理解して、主人公が、そういう人に対して敵意を持つのは当然なんだと支えてあげる。それでいながら、人を殺すようなことはいけないことだということも押さえる。そういうバランスを本人一人でとることは、ほとんど不可能に近いわけで、それを助けるのがセラピストなのだと思うんですね。セラピストという存在は、自転車の練習をするときの補助輪のような存在だと思う。ちなみに、この本はイタリアとドイツでも翻訳されていて、ドイツではYAの賞の候補にもなっています。
アサギ:私はセラピストの口調がそれほど嫌だとは思わなかったけど。
げた:最後の解説で、この本の最大の魅力はセラピストが解離した人格を統合に向けるプロセスをリアルに描いていることであると言っているから、セラピストはそもそも、そういうやり方をするんだなと思ったんですけどね。
ウグイス:エイダン・チェンバーズの『おれの墓で踊れ』(浅羽莢子訳 徳間書店)の構成に似てると思いました。あれも、現在の取調べの場面と、本当に起こったことの回想部分とが交互に出てくるでしょ。
ネズ:私も『おれの墓で踊れ』の最後の部分を思い出しました。でも、あれは警察官の言葉を借りて事実を述べているわけだから、少し違うのかもしれないけれど……文章の字体を変えているところは、原書ではどうなっているのかしら?
アカシア:それとスラングがたくさん出てくる作品は、同じ作品でもアメリカ版とイギリス版でかなり違う表現になっている場合があるけど、これはどうなんですか?
驟雨:書体を変えたのは、日本語版の工夫です。それから英語はこの本では、イギリス版もアメリカ版もほとんど変わっていない。なぜなら、この本は、アメリカという国についての話でもあるから。
げた:でも、アメリカでは読書に慣れていない子にすすめる本とはね。うちの高校生の息子にもすすめてみようかな。
ネズ:いつも自分で使っているようなスラングがいっぱい出てくるから、ラップを聞くみたいにすーっと読めてしまうのでは?
愁童:ぼくは、やはりセラピストが書いているという限界を感じちゃった。少年アメリカがよく見えてこない。この子の本体は何なのかが、イマイチわからないでしょう? ハーパーさんと暮らしたほうが幸せだったのか、あるいはブルックリンとのことは彼にどういう影響を与えたのかを書いて少年アメリカ像を読者の前に提示しようというよりは、こんな子にはセラピーが必要なんだってことが前面に出てきちゃってる感じがする。
驟雨:逆に、この子の本体が見えないということで、少年アメリカ自身が自分を掴めなくて混乱してる状況がくっきりと浮き彫りになる気がするけれど。
愁童:確かにそういう面はあると思うけど、フィクションとして書かれているという前提で読むと物足りない。鬱だの心身症で生まれてくる子はいないわけで、そんな普通の少年アメリカが、どんな対人関係で、どんな生育環境で育ってきて今セラピーを受けるような状態になっているのか、そこら辺がよくわからないのが残念。推察はできるけど、作者は、あまり明確には書きこんでないのがもどかしい。
ネズ:プライバシーがうるさいから、ノンフィクションでは書けなかったのかな?
アサギ:名前を「アメリカ」にしたっていうのは、きっとそういう意味があるのよ。
愁童:小説として読めば、こういうふうになったプロセスにこそドラマがあるわけで、そこがあまり書かれていないので、何となくセラピーPR本みたいな印象になっちゃうのが残念でしたね。
驟雨:むしろこの著者は、子どもをとりまく大人たちの状況、社会の状況に対する怒りが一つのエネルギーとなって、創作に向かっていると思うけれど。
愁童:セラピストと少年アメリカの対話の中で、少年像が透けて見えるような書き方があると読者はもう少し想像力を刺激されて、興味深く読めたんじゃないかな。
アサギ:セラピーというのはこういうものなんだな、ということはわかったわ。こういうふうに人間って変わっていくんだな、と。
ネズ:私の大好きな作品『地下鉄少年スレイク:121日の小さな冒険』(フェリス・ホルマン作 遠藤育枝訳 原生林)は、少年アメリカほどじゃないけれど、家族も友だちもいず、精神的に追い詰められていた少年がNYの地下鉄に逃げ込み、121日間の地下生活をするうちに、それこそ袖擦りあうだけの人々との関わりによって救われ、ついに地上に出るという物語なんだけど、今の時代、こういうのはまったくの夢物語で、セラピストの登場を待たなければ救われないということなのかしら?
アカシア:小説として出すのか、それとも一種のケーススタディとして出すのか、本の出し方がどっちつかずなのでは?
驟雨:こういう本を出すときに、すぐに思いつくのが、スキャンダラスな部分を強調したり、実話だぞ、という点をうたい文句にした売り方だけれど、そういうふうに扱うべき本ではないと思うし、そのあたりは難しいと思います。
アカシア:とにかく翻訳が難しいタイプの作品ですよね。少年アメリカの一人称は英語ならすべて「I(アイ)」ですむけど、日本語では逆に小さいときの回想まで「おれ」で通しちゃうと違和感が出てきてしまう。
驟雨:一人称の問題ももちろんあるし、あと、米国でよく使われている固有名詞を使ってる部分などは日本語にできないから、そこで読者との距離感が出てしまうということもあると思います。この著者は、英語という言語を非常にうまく活用して書いているので、そこを日本語に移すときの減速感は否めない。
愁童:主人公の不安定な気持ちがせっかくここまで伝わっているのに、最後が説得力に欠ける。ドクターと会話しているうちに、急に優しくなったり、ものがわかるようになるというのに、ちょっと違和感を持ちました。セラピストのどんな言葉が、どんな態度物腰が少年を癒し、変えたのかがイマイチ明確には書かれていないのが物足りない。
驟雨:でも、少年アメリカが一人でぽつんと孤立していて、まったく手がかりのない状態、自殺願望を持っている状態から、ようやく一筋の光が見えるところまで行く過程は、かなりよく書けていると思います。外界のいろいろなものと、内面の変化が呼応しながら進んでいくあたりは、様々な記憶がよみがえっていく順序とか、心の動きはかなりリアルですし。
愁童:作者はこの本の冒頭で「優れた物語を書きたかっただけ」って言ってるよね。でも最後の解説を読むと、セラピー事例としての捉え方がされていて、何だ、結局そう言うことだったのか、みたいな感じになってしまうんだよ。
ネズ:冒頭の作者の言葉にあるように、あくまでも物語として読ませるなら解説はいらなかったし、セラピストとか、プロを読者対象にすえるなら、冒頭の作者の言葉は違和感がある……。
ウグイス:セラピストというものに対するうさんくささが、この解説で惹起されてしまう?!
アカシア:あと主人公の少年自身の魅力が、もう少し出てくるとよかったね。
驟雨:少年アメリカの人柄はかなりよく出ていると、私は思いました。たとえば、セメントの四角い隅に靴跡があって、そこを踏んづけたらハーパーさんちのドアが開いて、「お帰り」といってくれたというところは、実は偶然なんだけれど、幼い子どもにはそう見えたりする。それに、ライザに対する好意があっても、ブラウニングのいたずらが始まると、どんどん混線して、逆にライザを遠ざけようとするのもリアルです。結果としては、人を殺すことになりながら、それでいて本人はとても素直なところ、感受性の強いところがあるというあたりも、うまく書けていると思います。
(「子どもの本で言いたい放題」2006年8月の記録)