『本朝奇談 天狗童子』
佐藤さとる/著 村上豊/絵
あかね書房
2006,06

版元語録:九郎丸というカラス天狗の数奇な運命が、細やかな筆致で描かれ、不思議な展開に息をのむ、壮大な歴史ファンタジー。ファン待望の新作。

うさこ:わりと厚みのある本だったけど、どうなるのどうなるのと先が気になり、つるつると読めました。特におもしろかったのは、作者のこだわりが見える、天狗の世界観。しきたり、階級、ルール、食事、術、住まいなどがきちんと構築してあったところ。九郎丸の脱いだカラス簑の様子とか、与平がカラス簑を焼くところとか、大天狗がヒョウタンの中にとじこめてしまった庭とか、縮地法とかは、とてもおもしろくて好きな部分でした。
でも、物語としては完成度が低いのかな、というのが読み終わったあとの感想です。途中はおもしろいのだけど、読み終わってみると、わりと平面的な物語というのかな、山あり谷あり、敵あり、迷いあり、悲しさ辛さ、喜び、達成感などはあまりなく、山場がなかったなあという印象です。完成度が低いと思った理由をあげると……与平が九郎丸に笛をしこむように頼まれて、天狗からあずけられることから物語は始まるのに、最後、笛の修業の件はうやむや。与平が九郎丸を人間に戻してやりたいというところや、九郎丸が本当の父親に会ったところも、九郎丸の気持ちはつかみにくかった。与平は大天狗との約束で、九郎丸を人間に戻す代わりに身元請負人になったけど、本当の父に会わせるまでで、最後は寺男となって、光明寺や円覚寺を行ったり来たりするだけ。与平の九郎丸に対する思いも伝わってこない。
与平、九郎丸、大天狗など、登場人物の外見や様子は書いてあるのだけど、気持ちや心の内のことはあまり書かれていないので、いまひとつ伝ってくるものが弱かったと思います。また、出てくる人物は、九郎丸にとって敵らしい敵はいなくて、一様にみな親切で好意的。ちょっと都合よすぎかなとも思いました。気になったのは、光明寺の高円坊=乱波(忍者)。忍びの者として伊勢方から光明寺に入っていたのに、あっさり身元をあかし、忍んでいたところの者たちと仲良くなり、忍者なのにと、ちょっと疑問でした。しかも、西安さまにほれこんで、こちら側に寝返るとかなんとかいっていたのに、結局、九郎丸の世話役を引き受け、従者のようなことをした、という終わり方で、登場人物のなかで一番芯の通っていない人物のように感じました。天狗と人との「因縁で結ばれる」というところ、もっと随所でこれがキーになるのかな、と思ったけど、そうでもなかった。結末は、歴史的な解説でばたばたと後片付けするように終わったなあ、と思いました。

アカシア:天狗の世界のあれこれは、とてもおもしろかったんですが、部分的におもしろいところがあっても……。連載の限界があるなと思いました。
まず物語の焦点がどこなのかわかりにくい。天狗が人間に笛を習いにくるというのはおもしろいので、ちゃんと習得できるのかと興味をもつのですが、いつのまにかそれはどうでもよくなる。与平が天狗に戻るための蓑を火にくべてしまい、命をかけて九郎丸を天狗から取り戻す決意なのだと思っていると、そうでもない。大天狗は九郎丸に与平の命を取りに行けと言うだけは言いますが、その日にはもう護法天狗が与平をさらってしまいますからね。九郎丸が父親と対面できるかどうかが山場かと思うと、父親は「おお、達者で暮らせ」というだけでまたすぐ別れてしまう。
つまり、読者は次から次へと肩すかしを食らわされていくんです。物語がどこで焦点を結ぶのか、それがあいまいなせいでしょう。それに、与平は九郎丸を天狗の手から取り戻したいと思っているけれど、九郎丸は天狗のままでいたいと強く思っている。それなのに九郎丸は、与平の意志を大天狗に伝えるという設定にもリアリティがありません。『だれも知らない小さな国』が好きだった私にとっては、ひどく物足りない本でした。

ねず:やっぱりうまいなあ……とまず最初に思いました。天狗の世界が生き生きと描かれていて、おしまいまでわくわくしながら読みました。けっきょく、佐藤さんの書きたかったのは、天狗の世界だけだったのでは? 私としては、こんなにおもしろい世界を見せてもらったので、それだけで十分という気持ちもするけれど、やっぱりこの世界のなかで繰り広げられる物語も読みたかった。でも、作者はもうお年なので、作品のなかの子どもたちが悲しい目や苦しい目にあうのが嫌だったんじゃないかしら? それでさらっと書き流してあるのでは? 出てくる大人たちもいい人ばかりだしね。
いちばん疑問として残ったのは、なぜ与平が九郎丸を人間に戻してやりたいと思ったのかということ。私くらいの年代だと、妖怪はかわいそうで、人間のほうがずっといいとすんなり思うのだけど、今の子どもたちは「人間より空を飛べる天狗のほうがずっといいじゃん!」と思うのでは? そのへんの作者の心のうちの説明があったほうがよかったのではと思います。

ミッケ:多少なりとも自分の知っているあたりが登場する作品の楽しみというのは、日本の物にはあるから、そういう意味でおもしろかったです。鎌倉なんかは、鎌倉幕府のすぐ後からだーっと一気に寂れていって、明治になってようやく違う角度から注目されるようになり、今ではそれなりに人気があるわけだけど、そういう寂れかかった時代の鎌倉を登場させているのも、リアルだと思いました。それに、天狗の世界もよく書けていたし。日本に昔からある豊かな世界を感じさせるし、古い時代の雰囲気がとてもよく出ていて。
ただ、そういう古い時代って、近代自我とは無縁で、庶民とは関係のないところで世の中が動いていくし、偉い人でも城をとったりとられたり、というかなり単純な構造なものだから、そのままだと、今にアピールする葛藤とかがなくて物語にならない。そういう意味で、食い足りない感じになったんだと思います。半分天狗になった九郎丸も、お父さんに一度は会うけれど、すぐにさようならとなるのは、当時だったらそうなのだろうし、与平が本人の意向も考えずに九郎丸は天狗よりも人間になったほうがいいんだ、と考えて行動に出ちゃうあたりも、当時の人らしいんだけれど、今の人間からするとなんか物足りない。とってもよく調べてあって豊かな舞台なんだけれど、そこで展開されるお話はあんまり迫力がない。天狗の館の話だとか、あと、九郎丸が半分焼けた天狗簑で大山に飛んでいく道中なんかは、ほんとうにわくわくしましたけれど。残念。

愁童:安心して読めました。日本では天狗という存在が昔から語り継がれてきているので、今の子にあらためてこんなお話を読んでもらうのは意味があることだな、なんて思いました。ただ、天狗は、今の子にとって昔ほど身近な存在ではないので、この題名だとちょっと手にとって貰いにくいんじゃないかな、なんて余計な事を考えてしまいました。

ウグイス:この読書会のための選書は、日本の作品を何にするかでいつも悩みます。天狗は動物ではないけれど、人間以外のものということで他の2冊と一緒に読んでもいいかなと思い、選びました。
まず日本語がわかりやすく、目に見えるように書かれています。日本の文化をきちんとした日本のことばで伝えるこのような作品を大事にしたいと思いました。会話にもリアリティがあり、特にせりふとせりふの間に、「〜と言いました」だけではなく、「身を乗り出して」「わらいたいのを我慢して」「まるで子どもをさとすように」というような文章をはさんで、状況が目に見えるようにしている。ユーモアのある書き方もいいですね。げらげら笑うということではなく、思わずくすっと笑いたくなるユーモアがちりばめられています。確かにストーリーのつめは甘いと思います。連載だったから、という難点もあります。
でも私がこの本で一番いいなと思ったのは、子どもを見るまなざしが温かい、ということです。それは、与平が九郎丸を見る目に一番現れているのですが、それは作者の思いでもあると思います。最近の日本の児童文学は、苦しい状況にある迷える子どもをこれでもかこれでもかと書く傾向にあるんですが、子ども本来がもつ純粋な部分を温かく見守る態度は、今の児童文学に欠けているかもしれないと思って、ほっとする感じがありました。愁童さんがおっしゃるように、この装丁や書名だと、子どもが自主的に手にとりにくいとは思います。

サンシャイン:楽しくは読めましたが、最後は話を締めくくるために無理矢理終わらせた感じです。篠笛は、日本で生まれた唯一の楽器らしいですよ。他の楽器はみんな、外国から来たものだとか。笛をきっかけにして人間と天狗の出会いがあるんですが、笛の話があまり出てこないんですね。結末で「篠笛のふき合わせを…」と書いてありますが、とってつけた印象です。本全体を貫く一貫性には欠けているかもしれない。それぞれの場面は楽しく読めたが、完成度は低いのではないでしょうか。

ねず:ひょうたんのなかに広がる世界とか、縮地法とか、とてもおもしろかった。子どもより、おじさん、おばさんの世代が好きな話なのかも。

愁童:今は天狗になじみのない子も多いから、そのおもしろさがわかるかなぁ。でも、九郎丸の天狗蓑の描写や手触り感などの表現はさすがだなって思ったですね。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年2月の記録)