げた:昔の版は堀内誠一さんの挿絵なんですね。堀内さんの絵も本当に「きかんぼ」って感じでいいけれど、酒井駒子さんの絵は、もう少しかわいらしさや深みというか、引き込まれる感じがあっていいですよね。酒井駒子さんの世界だなあ。いつも、うるさいと叱られる子どもたちが、静かに図書館でネズミを見ていたり、パンの耳がひきだしの中でかびだらけになっていたり、指輪騒動のお話では、指輪がおばさんのボタンにかかっていたなんてオチがあったり、また、ハリーのド派手なコートのことを「コートが叫んでいる」と表現されていることとか、とってもいじわるなおとうさんとおるすばんとか、一つ一つの挿話が楽しく読めました。子どももたちも楽しく読めるんじゃないかと思います。

小麦:このシリーズは、1巻目が出たときから好きでずっと読んでいます。なにがいいって、タイトルに違わず、きかんぼのちっちゃいいもうとが、本当にきかんぼなところがいい。わがままで、がんこで、やりたい放題。その突き抜けたきかんぼっぷりがこの本の魅力。私は一人っ子なんですけど、当然一人っ子の周りは大人ばかりで、その中でいつも自分だけが一番ちっちゃな子どもなんです。そんな状況でも、これを読んだら「ちいちゃいいもうとってば、しょうがないなあー」なんてお姉さんぶった気持ちになれる。いつもちっちゃい子よばわりされている一人っ子や末っ子が、普段なれないお兄ちゃんやお姉ちゃんの気持ちになって楽しめる本だと思います。ちっちゃな子が、自分よりもちっちゃな存在を見つけて、可愛がったり、世話をやいたりする、あの感じ。訳も、子どもがいかにも言いそうな言葉遣いになっていて、すごくいいと思いました。

ケロ:1巻から3巻まで私もおもしろく読みました。最初は、自分よりも小さい子のやることには、子どもは興味を持たないのでは?と思いましたが、娘に読んでやったらすごく喜んで、今日ここに持ってこようとしていたら、「返しちゃうの?」って心配しちゃって。挿絵も格調が高く、なにより妹がとてもかわいらしい。いたずらも、こんなかわいらしい妹なら、許せてしまうという感じ。この本は、作者やその妹が大人になった後に、ちっちゃい妹のことを思い出しながら書いているという設定ですが、へんに幼稚っぽく書いていない分、安心して読めるんだと思いました。おもしろかったのは、ハリーのお母さんが床を掃除するのに、新聞紙を敷くというエピソード。庭でやっていた遊びの続きが、ハリーはどんなところでもできてしまうんですね。子どもの想像力の豊かさを感じてほほえましかったです。

カーコ:エピソードは、確かにおもしろかったんですけど、私はこの語りになじめませんでした。冒頭の「わたしが小さかったとき、わたしよりもっとちいさいいもうとがいました」という文章で、妹なら自分より小さいに決まっているのに、とひっかかってしまいました。この内容なら、3人称で書いてもおもしろいと思うのに、作者がなぜわざわざ1人称の語りにしたのか、おねえさんの視点を持ってきたのか、自分では答えが出ず、みなさんの意見をお聞きしたいと思いました。

ネズ:この物語の「わたし」と「妹」だけは、名前が無いのよね。「自分にもこういう妹がいたら……」と思わせようとしている、おもしろいテクニックだと思いました。それから、気難しい靴直しのおじさんとか、目を細める女の子とか、おもしろい登場人物が大勢出てくるけれど、たとえば家族を失ってひとりぼっちになったから気難しいとかなんとか理由をつけずに、気難しいから気難しい。そういわれてみれば、幼い子ってこんな風にストレートに人間や物事を受け止めるんじゃないかしら。そのへんのところも、とても新鮮で、うまいなと思いました。
また、原書の挿絵はシャーリー・ヒューズ、日本語版は酒井駒子さんだけど、ふたりが描く子どもの頭の形ってそっくりね。おもしろかった。シャーリー・ヒューズは英国の国民的な児童書イラストレーターだけど、日本では絶対にだめなのよね。なぜかしら。
訳は上品だなと思いました。古めかしい言い方もあるけれど、昔ながらの言葉や言い回しって、児童書を通して次の世代に受け継がれていくのね。この本の訳にも「たいそう」というのが多いけれど、本をよく読んだり、読んでもらったりしている子どもは、作文に「たいそう大きな木でした」などと書くと聞いたことがあるわ。

ミッケ:形容詞も、たくさんついていますよね。ひじょうに原文に忠実な訳だなと思いました。だからちょっとぎこちなかったりもして。「わたしのちっちゃないもうとは」というのが繰り返し繰り返し出てくるんだけど、読み聞かせのリズムという感じでもないし、ちょっとうるさいなあと思ったり。内容は、書かれているのを読むと、「そうそう、子どもってこういうことをやるよね。やりたがってるんだよね」と思い当たるんだけれど、自分では考えつきそうにない展開が書いてあって、とってもおもしろかったです。子どもにはすごく受けると思いますよ。痛快だもの。トライフルを食べたあとで、食べ散らかしてそのまま逃げるじゃないですか。逃げおおせるのがポイント。あれなんか大笑いですよね。当然、おなかは痛くなるわけだけど。お父さんとの意地の張り合いなんかも生き生きしているし、たいへん楽しく読みました。この本の持ち味からいうと、今風にしすぎるのも妙だと思うので、基本的には、こういうお上品というかのんびりした感じでいいと思いました。

アカシア:これは、イギリスの子どもたちに読んでやって大うけした本なんです。原文は翻訳ほど上品じゃない感じがしましたけど。翻訳はたとえば60ページの「さて、そんなある日、クラークおくさんとよばれるご婦人が、わたしたちの家に、お茶によばれて、やってきました。」と、とても上品ですね。お母さんも子どもたちに対して、とてもていねいな言葉使いをしていて、たとえば126ページでは「今日の午後のお茶に、小さい女の子がきますよ。その子に、やさしくしんせつにしてあげてね。その子のおかあさんがお出かけのあいだ、おせわをたのまれたんですからね。」と言っています。エピソードは、どれも子どもをよく見たうえで日常生活の中の子どもをよくとらえていますね。お姉さんが語っているという設定は、自分にはお姉さんもお兄さんもいない子が読んだり聞いたりしても、お姉さんになった気持ちになれる、ということだと思います。原文のnaughty という言葉には「きかんぼ」というだけではなくて、「やってくれるじゃないか」っていうニュアンスもあるんじゃないかな。子どもたちはいつもDon’t be naughtyと言われているので、naughtyでありつづけるこの子には、「だめじゃないか」と諭す気持ちと同時に、爽快感も感じるんだと思います。

愁童:この作品あんまり好きじゃなかったですね。じんましんが出そう。子育ても終わった大人が過去を振り返って癒されるための本みたいな感じ。

アカシア:でも、私が読んでやった子は3歳〜7歳だったけど、すっごく喜びましたよ。パンの耳を食べないで隠しといたら、かびだらけで出てくる、なんてところまで普通書かないもの。

愁童:パンの耳がどうして嫌いなのかが書いてあると、あっ同じだなんて共感が深まる子もいると思うけどな。

ネズ:私は、そこはうまいと思った。子どもって、好きは好き、嫌いは嫌いですもの。

カーコ:これを読むと、お姉さんが大人になってから書いているみたいにとれるけれど、原文だとおねえさんの口調は、どのくらいの年齢の感じなんでしょう?

アカシア:訳が上品でていねいなので、大人の口調のようにとれるのかもしれませんね。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年5月の記録)