プルメリア:この作品から『ザ・ギバー〜 記憶を伝える者』(ロイス・ローリー作 掛川恭子訳 講談社/『ギヴァー : 記憶を注ぐ者』島津やよい訳 新評論)を思い出しました。マッチバンケットとかファイナルバンケットとか。自分の考えもセーブしなきゃいけない。こういう管理社会ってすごいなって思いました。カイは冒険心があり危ないことをするのがスリリングです。また生き方や考え方が魅力的、主人公がカイにひかれていくのがよくわかりました。今の社会とは違いますが、まったく違うわけではない気がします。いろんなことを考えさせてくれたこの作品に出会えてよかったと思います。

あかざ:3・11以降、書き手も読み手も、意識が完全に変わったんじゃないかと思いますね。『ザ・ギバー』を読んだころは、ディストピアは漠然と未来にあるかもしれないものだと思っていましたが、いまでは現実そのものじゃないかと感じています。この物語も、高齢者などの弱者切り捨てとか、情報管理とか、仕分けとか、読んでいるうちに今の日本のことを書いているようで……。もちろん作者の意図は別のところにあるのかもしれませんが。ただ、近未来の或る社会を描こうとしたのであったら、それほどしっかり構築されているとはいえない……。

シア:近未来物というより、現代物っぽいなって思いました。『トワイライト』(ステファニー・メイヤー著 小原亜美訳 ヴィレッジブックス)シリーズを読んでいて、その次に読む本と銘打たれていたんで読んでみました。カッシアたちと同じくらいの年代の子が、自由の本当の意味を考えてもらうにはいい本だなって思いました。ただ、一人称でぶつ切りの言葉が多いので、文章として読みにくく、そこは少しつらかったですね。全体として起伏にかけるのは第1巻だからでしょうか。果たして日本の子どもにはこれが読めて、そして売れるのかなと心配になりました。それに、装丁がいただけないですよね。カバーがないほうが素敵です。この挿し絵、考えているのでしょうか? 服も未来っぽくないですよね。いい雰囲気のシーンでも、この挿し絵でムードぶち壊しです。話のところどころに古典作品の引用があって、感動しました。本が失われていく社会というのは、『華氏451度』(レイ・ブラッドベリ著 宇野利泰訳 早川書房)を思い出しました。作者や主人公が文学的な物が好きで、こういう風に扱ってもらえると、読み手側、とくに若い子に好意的に受け入れてもらうようになるので、ありがたいなって思います。それにしても、女の子がカイを探しにいくというのは、アンデルセンの『雪の女王』みたいでいいですね。

ルパン:今日の3冊の中では、私は読むのが一番大変だったかな。全体のテーマとしては、新しいんですかね。『ザ・ギバー』は読んでいないのですが、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』を思い出しました。ちょっとわかりにくいところが多かったかな。エアトレインとか、あまりイメージが浮かんできませんでした。最後のあとがきを読んで、そうだったのか、って思ったところもたくさんあったし。「逸脱者」とか「異常者」とか、あまり具体的な説明がなくて、物語に入っていかれない部分もありました。おじいさんの最後も、どんな風に生き返るのか、とか。社会の仕組みそのものがわかりにくい、というのが足をひっぱっちゃったかな。ただ、読むのは大変だったけれど、続きは気になります。続編が出たらぜひ読んでみたいです。

みっけ:SFはあまり得意でありません。というのは、まったく新しい世界を舞台にしたお話は、書く側も背景を構築するのが大変だろうけれど、それにつきあう側もかなりエネルギーがいるので、あまり手に取らないんです。映画なんかで視覚的に見せられるのであればまだ楽なんだろうけれど、今自分がいる世界とはまったく違う世界を書いてある文字から立ち上げて頭の中に思い描くというのはそうとうエネルギーのいる作業でしょう? この作品は、どなたかがおっしゃっていたように、そのあたりにあまりエネルギーを使っていなくて、社会の仕組みこそ違え、舞台設定はほとんど現代と変わらない感じになっている。(ちょっと近未来的な乗り物は出てきますけれどね。)すべてを管理してすばらしい世界を作るというディスユートピアの話もあまり好みではないけれど、この作品は、ふたりの男の子の間で揺れる女の子の心に焦点が合っているのであまりディスユートピアに引っ張られず、それなりにさくさくと読めました。恋模様が結構丁寧に書かれているのがおもしろくて、つづきはどうなるのかな、と思いました。これは3部作の1冊目なので、ここには書かれていないことも、次の2冊で書き込んでいくのかもしれませんね。一見ソフトだけれど、実は恫喝も含めてかなり徹底した管理がなされている社会で、それ以外の状況を知らない人々が別に歯をむくこともなく暮らしていくというシチュエーションは、私たちが暮らす現代とかなり重なりますよね。こういう本は、課題にでもならなければ自分からは手に取らなかっただろうから、読む機会があってよかったと思います。

プルメリア:岡田淳さんが講演会で「子ども達は最初、本の背表紙、次は表紙、最後に厚さを見て本を選ぶ」と言ってらっしゃいましたね。

みっけ:これって、デビュー作なんですよね。だからやっぱりまだまだうまく書けていないところがあるんじゃないでしょうか。ひとつの世界をリアルに再構成するにはまだ力が足りないのでは?

ハリネズミ:『ザ・ギバー』は物語世界がきちんと構築されてて、読者もそこに入って行けたけど、この作品は、よくわからないところがたくさんあります。たとえば、管理する側が、わざとこの主人公を動揺させる仕掛けを設定するんだけど、なんでそんなことをするのか、わからない。だから謎ばっかりで世界に入っていけない。

みっけ:人工遺物を回収するというのは、人々の物語をうばっちゃうということなのではないかしら。ここに書かれている社会では、個人に固有なものはいっさい許されず、それをソフトな形で排斥しているんじゃないでしょうか。

ハリネズミ:文字は書けないという設定だけど、コンピュータでは文章をつくっているわけよね。だから筆記体は書けなくても活字体なら書こうと思えば書ける。だけど、だれも書かない。それはなぜなのかな? 詩をおぼえておこうとか何か意志があれば、人間は工夫するはずなんですよね。薬を飲まされて忘れるって設定かもしれないけど、この子は薬を飲まなかったりするわけだし。訳もしっくりこない。たとえばp445に「ベンチは石をくりぬいて作ったものだった。博物館の薄暗がりに何時間もいたせいで、冷たく固く感じられた」ってあるけど、どうして薄暗がりに長くいると、このベンチが冷たく固く感じられるの? 原文のせいか訳のせいかわからないけど、そういうしっくり来ない描写を延々と読まされてちょっとうんざりしてきました。

みっけ:この作品は、どちらかというとディスユートピアよりも恋愛に力点があるような気もします。恋愛は不自由で障害物が多いほうが盛り上がるから。オーウェルなんかは管理社会そのものを書こうとしていたけれど、この作者の力点は社会にはないのかもしれない。

レジーナ:ポプラの木の描写がとても美しく、私もはじめて英国でポプラを見たときに、「あの光っている木はなんなのだろう」と心うたれたのを思い出しました。テニソンの詩の引用も効果的でした。たきぎの墨で字を書いたり、本が燃やされた図書館の跡地にたたずむ場面では、土を耕したり、物語を分かちあうという人間の本質を想いました。「字を書く」というのは、自分の考えをあらわすことであり、ときには恥や痛みをともなう行為です。そうした身体に根ざした感覚を、人の生きる意味につなげようとする試みが、この本の根底にあるのではないでしょうか。

(「子どもの本で言いたい放題」2013年1月の記録)