ジラフ:同じモーパーゴの『モーツァルトはおことわり』(さくまゆみこ訳 岩崎書店)同様に、現在から過去にさかのぼって、丹念に語り起こしていくスタイルで、とてもよくできたお話だと思いました。同時に、本のつくりやボリュームにしては、内容とか、書かれている感情が、ずいぶん大人っぽいな、という印象も受けました。とにかく、上質の物語ということに尽きるんですけど、身近に子どもがいないので、どのくらいの年齢層の子どもにこの本を手渡せるのか、ちょっとイメージしづらくて、過去からたんねんに書き起こしていく、こういう、ある意味「大人っぽい」物語を子どもがどう読むのか、興味をひかれました。p35で、ペティグルーさんが、夫のアーサーを亡くしたことを話す場面は、「ある日事故が起きて、終わってしまいました。(中略)まだあの人はずいぶん若かったのです」と書かれていますが、ちょっと抽象的で、これで子どもの読者にはっきりと「死」が伝わるかな、と思いました。あと、p71で、アイルランド人労働者がプッツン・ジャックに「自国の歌を教えていた」というくだりでは、わざわざ「自国の」という表現を使っていることに、ヨーロッパらしいアイデンティティの表明を感じて、はっとしました。

ルパン:私もいいお話だなと思いました。読み始めてしばらくは、ペティグルーさんが男の人だと思って読んでいました。日本語にすると性別がわからないんですね。列車のおうちはすごく素敵なんですけど、この絵がなかったら、船上生活者やトレーラーハウスみたいに思えるかもしれません。あと、ロバが乱入してくる場面がありましたが、その後どうなったかが気になりました。ペティグルーさんが教会で発表するところは、ぐっときました。それから脇役なんだけど、このお母さんはいいなあ。お母さんが「あんな変わった人とつきあうな」と言ってしまったら、こうはならなかったわけで。重要人物だと思います。ところで、子どもに手渡すとしたら、横書きってどうなのかな。『カイト』も横書きだったけど、同じ出版社なんですね。横書きの本は、渡す年齢を考えてしまいますね。縦書きだったら、小学校高学年におすすめだと思いますけど、この装丁でも読むかなあ?

紙魚:私も縦書きに慣れてしまっているので、ちょっと読みにくい感じがありました。とはいえ、この本が横書きなのは、原書が左開きで、どのイラストも左から右へという方向で描かれているからだとも思います。この挿絵をそのまま使って縦書き・右開きにすると、挿絵の方向が逆になってしまいますよね。そう考えると、長い時間の経過を表現するには、横書きの水平ラインが有効に働く、横書きならではの利点もありそうです。
この本が刊行されたのは、2012年の11月。日本での東日本大震災後を意識しての刊行だったと思います。震災後、子どもの本がどう力を発揮できるかということを考えさせられましたが、あの時分、私の目が向いたのはやはり国内、東北のことで、原発を扱った翻訳書というのは、思い至りませんでした。遠いイギリスの地での物語が、日本の子どもたちに、どの程度、当事者意識を持たせるかはちょっとわからないですが、伝わるといいなあとは思います。日本の作家からも、こうした社会的な背景をもりこんだ作品が生まれるといいなあとも思います。

関サバ子:生活のディテールがよく書きこまれていて、主人公マイケルの思い出もディテールを感じられます。そのことが、“最悪”をより鮮明に浮かび上がらせると感じました。これは本当に個人的な希望なんですが、ペティグルーさんには死んでほしくなかったです。こういうかたちで亡くなってしまったことが、悲しみを際立たせているのかもしれないですが……。なぜ著者はこのような結果にしたのか、なんとなく腑に落ちない感じがありました。横書きという体裁については、もしかしたら、子どもはすんなり読んでしまうかもしれません。絵と文章の位置関係もよいので、あまり違和感はありませんでした。60代くらいの人が回想した話なので、子どもがそれをどう受け止めるのか、難しいところもあるかもしれません。福島第一原発の事故のあと、ドイツが原発全廃を決めました。そのときに、「原発は倫理的に許されない」ということを言っているのが印象的で、本作もそのときと同じシンプルな人間性を感じることができて、とてもいいなあと思いました。声高すぎないし、かといって“したり顔”でもない。子どもがどう受け取るかわかりませんが、最善の見せ方のひとつという感覚があります。

きゃべつ:表紙が牧歌的で、絵としてとてもきれいだと思いました。話は明るいとはいえないけど、発電所ができる前の幸せな日々を表紙に選んだのだなと思いました。表紙が示しているとおり、この作品で作家が書きたかったことは、原子力のことではなく、郷愁や、子どものころの記憶だったのではないかと感じます。また、本のかたちと対象年齢についてですが、これを読ませるのだったら、小学校高学年、もしくは中学生だと思います。それくらいでないと、この物語の背景にある原子力についての問題などは分からないでしょうから。その場合、横書きだと手渡すのが難しい気がします。日本では横文字だと、どうしても携帯小説や大人が読む絵本の印象が強いですよね。

ジャベーリ:私はきゃべつさんとは違って、原発の稼働が終わった後も、結局、元には戻らないということを言いたかったのだと思うんです。ペティグルーさんの存在を通して、その人の住んでいた場所に起きたことを伝えたかったのではないかな。原発をつくる場所についても、ペティグルーさんのようなマイノリティーが大事にしている土地をターゲットにして、おそらくイギリス人の住んでいる場所には白羽の矢は立てないということも。つまりイギリス人にとって影響のなるべく少ないところを選ぶという話にしているのではないかと思うんです。原発というのは、40年経つと廃炉になって、コンクリートで囲うんだけど、もとの美しい自然に戻ることがないということを言いたいのではないかと思います。ペティグルーさんが愛した自然は戻らないと、ダイレクトに言っているのでは? 原発をつくると、営業停止になっても決して元には戻らないということが中心的な主題だと思ったんです。

関サバ子:この物語の原題Singing for Mrs. Pettigrewは、「ペティグルーさんに捧げる歌」という意味なんですよね。

アカザ:短編集に入っていたっていうから、もしかしたら、単行本にするときに書き直したのかもしれないわね。

ハリネズミ:このお話の題と短編集の書名が同じだから、これがメインの作品なんでしょうね。私は、ペティグルーさんがよく書けているなあと感心しました。今、日本の人たちが原発を取り上げると悲惨な事故抜きにしては書けないでしょうけど、この作品は、たとえ事故が起こらなくても、弱い立場の人の暮らしが破壊されるってことを言ってるんだと思うんです。ペティグルーさんは外国からやって来て夫を亡くし、村でも孤立している。でも、努力して自分なりの楽園を作り上げ、主人公のお母さんという友達もできた。そういう自分なりの幸福感や充足感を書いて、それが根こそぎやられてしまうことと対比してるんじゃないかな。だから郷愁とは違って、読者の子どもたちに対してはもっと考えてもらいたいというメッセージが込められていると思います。それから横書きに関してですけど、教科書も今は国語以外みんな横書きなので、子どもたちはあまり抵抗感がないのかもしれません。原著は読者対象がもう少し下かもしれないけど、日本語版はルビを見ると小学校高学年くらいからを対象にしているのかな。

アカザ:すばらしい作品で、感動しました。なぜ、日本でこういう作品が出ないんでしょうね? ぜひ、大勢の子どもたちに読んでもらって、話しあってほしいと思いました。昨年の夏にイギリスに行ったとき、汽車で隣の席になったドイツの大学生とずっと原発の話をしていたんです。日本では事故のあと原発を再稼働しはじめて、これからもそういう動きになっていると話したら、「どうして日本人は怒らないんですか?」と言われました。ドイツでは、小学生のときから原発はいずれ無くしていかなくてはならないものだと繰り返し教えられるし、自分もそういう教育を受けてきた、と。日本でも、今からでも遅くないから、この作品のように原発は廃炉になっても自然を破壊しつづけ、けっして元通りにはできないんだということを、いろいろな形で、いろいろな作品で教えていかなければと思います。私自身は、ぜひとも子どもに伝えておかなければという作者モーパーゴの熱い気持ちを感じたし、けっして郷愁を描いた牧歌的な作品ではないと思うけど、もしそういう感じを読者に与えるのなら、モーパーゴが上手くなりすぎちゃったのかもね。ペディグルーさんの人柄や暮らし方など、本当に心に染み入るように書いていますものね。ただ、子どもには難しいなと思ったのは、村の人たちが原発反対から賛成に変わっていき、ペディグルーさんと主人公の母親だけが残されていく過程があっさりしすぎていて、なぜそうなるのかが分からないのではと思いました。原発でも沖縄でも、ある地域の人々の犠牲の上に成り立っているという現実を、手渡す大人が少しフォローしたほうがいいかなと思います。ペディグルーさんをイギリス人ではなくタイ人にしたり(事実、そうだったのかもしれませんが)、原発の下請け労働者のアイルランド人が自国の歌をうたう場面を書いているところにも、目に見えない差別を作者が意識して書いているのだと思えて、いっそう深いものを感じました。訳はなめらかで、とても良くできていると思いましたが、あとがきで主人公が故郷になかなか戻れなかったのを「声をあげなかった子どものころの自分を後ろめたく感じているから」と捉えているのは疑問に感じました。原発の問題は大人の問題であり、けっして子どものせいにはできない。こう書いてしまうと、作品が矮小化されるように感じました。

レジーナ:モーパーゴは、自身の問題意識が作品に強くあらわれる作家ですね。子どものころの思い出を語る形式の物語は、さまざまな作家が書いていますが、それを原発と結びつけた作品は初めて読みました。本の形態ですが、横書きであることに、何らかの意図があるのでしょうか。P6に「『昔はふりかえるな』ということわざ」とあり、同じページの後ろにまた「同じことわざ」とありますが、「同じことわざ」という表現が不自然に感じられました。このことわざは、聞いたことがありませんが……。

アカザ:日本語にすると、ことわざって感じではないわね。

レジーナ:ことわざというより、歌でしょうか?

プルメリア:放射能についてはていねいに書かれていませんが、いい本だなあと思って、学級の子ども達(5年生)に紹介しました。手に取る子どもはいなくて紹介が悪かったのかなと思い、近くにいた男子に「読んでみない。」と手渡しました。読み終わった後「どうだった?」ときいたら、「わからなかった」って。むずかしい本かなと思い全員の子どもたちに「今住んでいる市に原発があったらどうする?」と聞くと、「災害とか地震があったらこわい。」とか、「遊ぶ場所がへるのでいやだ。」とか「大きな建物はうっとうしい。」などの答えがもどってきました。「原発ってどういうものなの?」と聞くと、「電気をつくるところ」との答え。原発について知識がない子たちにとっては、わからずにすらっと流れてしまったり、内容を補足しないと作品の意図が伝わらない本なのかもしれません。大人の読みと子どもの読みの違いに気づきました。

レジーナ:チェルノブイリの原発の事故を扱った作品には、『あしたは晴れた空の下で : ぼくたちのチェルノブイリ』(中沢晶子作 汐文社)がありましたね。

関サバ子:放射能は、目に見えないですものね。

紙魚:この本は、書かれていないところが多いので、行間から読み取らなければいけない分量が多いですね。

アカザ:だから、いろいろな形で読まなければだめなのよね。ドイツでも『みえない雲』(グードルン・パウゼバング著 高田ゆみ子訳 小学館)のような作品がずっと読まれてきたっていうし。

ハリネズミ:ドイツはずいぶん前から、原発に限らず環境教育には熱心だし、ゴミの分別収集も早くからやってましたね。

アカザ:日本では、原発の危険性については教えまいとしてきたから。

関サバ子:自然のなかで過ごす気持ちよさを知らない人が読んでも、伝わらないかもしれませんね。あの気持ちよさは体感で得るものですし、それが楽しいと思えるまでには、ある程度の時間が必要な気がします。もちろん、レジャーで自然豊かなところへ行って、瞬間的に楽しいということはあります。これはあくまで私の経験に基づいた感覚ですが、それだけでは、心も体も開いていく気持ちよさまではなかなか体感できないような気がします。ですから、子どもたちの身体感覚によって、このお話の受け止め方は違うような気がしますね。「ここの自然? 別になくなってもいいよ。森や海はほかにもあるわけだし」という感性だと、厳しいですよね。あと、このテーマは原発だけでなく、いろいろなことにあてはまりますよね。理不尽に土地を追われた人は世界中のあちこちにいるわけで、そういう想像力を広げられる余地があるのは、とてもいいなと思います。

(「子どもの本で言いたい放題」2013年2月の記録)