日付 2000年12月21日
参加者 ウンポコ、愁童、ねねこ、ウォンバット、ひるね、
ねむりねずみ、紙魚、ウェンディ、裕、アサギ、
モモンガ、ジョー
テーマ 少女の成長物語(その2 日本&ドイツ編)

読んだ本:

『象のダンス 』
魚住直子/著   講談社   2000.10

<版元語録>わが子に無関心な「仕事ニンゲン」の両親のもとで、幼い頃から自立を強いられ、心の危機を抱えて15歳になったミスミ。ある日、町はずれの崖の上で、かりっとした果実のような黒い瞳をもつ、タイの少女チュアンチャイに出会った―。『非・バランス』『超・ハーモニー』に続く、3年ぶり、待望の新作。


『波紋 』
ルイーゼ・リンザー/著 上田真而子/訳 赤木範陸/画   岩波少年文庫   2000.06

<版元語録>谷間の僧院に移ってきた少女は、僧院の静寂のなかで生きる人々と、自然とともに生きる人々の双方から、数え切れない思い出をもらう。鋭い感性ゆえ、愛することも憎むことも一際激しい少女の青春の記録。


『象のダンス』

魚住直子/著
講談社
2000.10

ねむりねずみ:私はこの本、図書館で借りられなかったから、がんばって立ち読みしてきた。どうも、後味がよくないのよね。深澄がめがねを数えるのとか、タイ人の女の子チュアンチャイとの出会いの場面なんかは、とってもうまいと思う。でもね、どっかひっかかるんだな。ナゼだ?! と考えてみると、私はやっぱり、あのラストが嫌なの。深澄は「あぁ、チュアンチャイも、やっぱりお金だったんだ」って、裏切られた気持ちでいたのに、象のダンスを踊って、仲よしして、ハイおわり、でしょ。それでいいの? と思っちゃう。感情的な部分でとりあえず仲直りみたいなのでいいのかな。ほんとうはチュアンチャイにとってのお金の大切さと自分にとってのお金の大切さとの違いとかに展開していくべきのような気がするし、少なくともそこへ向かってのヒントくらいほしい。でないと上っ面だけになってしまう気がするから。

ウェンディ:私は、今読んでる最中で・・・。今読んだところまでのことでしか言えないけど、ちょっとひっかかったのは、全面的に支えてあげなくてはいけない人の存在。他人に必要とされることによって、自分が変わっていくというのは、ちょっとどうかなと思う。というのは、深澄は、どうしようもない状況に追いこまれているチュアンチャイと出会って、「私がなんとかしてあげなくちゃ」という気持ちになるわけだけど、そういう出会いって、だれにでもあるわけではないでしょ。・・・と思いながら、読み進めてるとこでーす。

モモンガ:魚住さんはやっぱり、今の子どもの冷めた感情をうまくとらえる作家ね。描き方もうまいと思う。でも、後味が悪いのよね。とくに、親との関係。大人はわかってくれないとつきはなす、今の子どもの感情はよくわかるけれど、あまりに冷たすぎる。後味悪すぎ。私、ふだんは主人公の子どもの気持ちになって読むんだけど、今回は、親の気持ちになって読んじゃった。もうちょっと歩みよってくれたっていいのになぁと思いながら・・・。

ウンポコ:まあまあ。お刺身食べて、後味よくしてよ(忘年会を兼ねているので、食事しながら話しています)。

ひるね:私も、2時間ほど前に読みはじめたの。今、深澄が、売春しようとしたチュアンチャイの身代わりになろうとするあたりまできたところ。ここまでの感じはよかったわ。『超・ハーモニー』(講談社)は、人物が類型的だと思ったんだけど、今回は、ひとりひとりがよく描けてる。これは三人称で書かれているけれど、実質、一人称みたいなものだと思うのね。深澄のひとり語りだと思えば、この母娘関係の描き方だって、そんなにひどくはないんじゃない? たしかに母親との関係は冷たいけれど、子どもの目から見たら、こんなふうに見える親って存在すると思うし、チュアンチャイの母娘関係はあたたかで、深澄はそこに惹かれてもいるわけでしょ。それで相殺されていると思うから、私は、深澄と母の関係に対して、そんなに反発は感じなかった。援助交際についても、嫌な感じを抱いていたんだけど、こういうとらえ方もあるって知ることができて、よかったと思うわ。

アサギ:私はけっこう好きだった、この作品。乾いた感じがうまく出てると思う。「男の子と簡単に関係をもつ女の子なんて、とんでもない!」って、つねづね思っていたんだけど、これを読んで、「ああ、こんな感じなのかなー」と、少しわかった気がしたわ。深澄のお母さんって、ずいぶんよね。冷たい母娘関係も、この母だったらしょうがないわよ。たしかに、親の描き方はちょっと雑なところもあって、類型的に思える部分が、なくはなかったけれど。それより、ラストが気になったわね。チュアンチャイを帰国させることにしたのは、少々安易。最後、どうまとめるんだろうと思いながら読んでたんだけど、そうよね、帰らせちゃえば簡単よね、と思った。でも、全体としては、少女の気持ちが非常によく描けている作品ね。

ジョー:私はもう、うれしくてしょうがなかったの。久しぶりに読んだ子どもの本だったから。これもまた、魚住さんらしい世界よね。女の子の心の動きが、よく描けている。どこがどう成長したってわけではないんだけど、女の子の一定期間の心の動きが、うまく描けている。文章も読みやすかった。深澄の両親も類型的かもしれないけれど、こういう親もいるでしょう、きっと。魚住さん、またこういう作品たくさん書いてね。期待してます。

紙魚:まず、言いたいのは、とても魅力的な装丁だということ。センシティブな年代の女の子にとっては、なんとも心惹かれる、お洒落なつくりの本だと思う。自分が少女のときに手にしたかったのは、まさにこういう本。深澄は,両親や美大生に裏切られ、チュアンチャイにも裏切られても、クールによそおってる。だけど,実際は心の中に熱いものをもっている子だと思う。構成はちょっと難しいところもあるけど、自分自身のことをまだとらえきれていない十代の女の子の姿が、とてもよく描けていると思う。

ウォンバット:私は最後まで読むには読んだんだけど、最後のシーンのあのポーズが、象のダンスだったということに、ねむりねずみさんの話を聞くまでわかってなかった……。今、その事実を知って愕然としているところ。なんなんだろうなー、これって」と、思っていたの。魚住さん、ごめんなさい。出直してきます。

アサギ:珍しいわね。ウォンバットさん、いつもは気がつくほうなのに。

ウォンバット:私、へんなことには目ざとく気づくタチで、この美大生、鈴木孝はいまに悪いことをするよするよ、気をつけて、深澄! と思ってたら、案の定・・・。でも、いちばん大事なところがわかってなくて、ほんとお恥ずかしい。もう1回読まなきゃね。だけど、うまくできてると思うけど、2回読みたいって感じではなかったのよね。

ウンポコ:魚住さんって、今いろんな状況におかれてる子どもをするどく描く作家だと思ってるんだよ、ぼく。この作品も、たしかに状況がよく描けている。でもね、手ばなしで感心できないんだな。同世代の読者にとっては、胸に迫るものがあると思うけど、ぼくはどうも、古いタイプの読み手みたいでね。作者の価値観にうなずけるかどうかで、読んじゃうんだよね。これは、読みおわったとき、なんだかとっても寂しかったの。愛のない関係とか、チュアンチャイに刺激を受けるっていうのも、もう、寂しーって感じで。もうちょっとなんとかしてほしいっ! と、いらだちが残った。文章は、読みやすかったけどね。テレビドラマを見てるような手軽さもある。まぁ、複雑な思いが残る作品だね。

ねねこ:うーん。どの意見もわかるな。テレビドラマ的というのも、わかる。それは、「映像的」ということだと思うんだけど。魚住さんの情景描写は、とても映像的だから。中学生を主人公にしている作品では、『非・バランス』(講談社)『超・ハーモニー』につづいて3作目だけど、いちばんよく出来ていると思った。母娘関係については、深澄のお母さんは、カリカチュアっぽくされてるんじゃないかな。南の島に9歳の子どもをおきざりにするなんて、あんまりだーとは思ったけど、これに近いことをする親はいそう。深澄は冷めてるわけじゃないのよ。小さいときから、親にラブコールを送るたびにシャットアウトされてきて、傷つきながら、それでもまだラブコールを送ってるわけだから。だけど、そんな深澄以上に、過酷な状況におかれているのよね、チュアンチャイは。彼女のことを知って、深澄の世界は急激にひろがっていく……。

モモンガ:でも深澄は、親との関係では報いられることがないでしょ。そこには救いがない。親だったら、口では批判的なことを言ってたって、子どもの思いに、もうちょっと敏感になるべきだと思うわ。カリカチュアされてるにしても。

ウンポコ:うーん。でも、今ああいう親ってきっと実在してるよね。あそこまでではないにしても、似たようなことはする親はいそう。リアリティを感じたな。

ひるね:そうね。この作品は、深澄の視点で描かれているでしょ。子どもの目から見ると、ああいうふうに見える親って、存在すると思うわ。

ねねこ:私は、「チュアンチャイも実はお金だった」という意見とは反対に感じたのね。お金では解決できない何かが残ったという印象。タイの少女の世界を知ることによって、自分だけの現実に閉じこもっていた窓が開けていく感じがとてもよくわかった。経済的には豊かな日本の女の子深澄が、まだ発展途上というか、貧しい、アジアの国の少女と出会って、生活のこと、親子のこと、そしてお金のことに対しても、新たな視野が開けたんだと思うの。持っていたお金のことを言いだせなかった、チュアンチャイの悲しみを理解することが、深澄にとってはたいへんな成長だったということなんじゃないかしら。

モモンガ:「お金」っていうものを考える、いいきっかけにはなるかもね。ほら、深澄が100円ショップでフォトフレームを買って、自分で撮った写真を売ろうとするでしょ。

ウンポコ:ねぇ、あんな写真、売れるの?

モモンガ:え? 売れなかったでしょ。

ウンポコ:そうじゃなくて。制服の友だちの写真の方。美大生が売ろうとしたヤツ。

一同:売れるよー。

ウンポコ:えっ、だれが買うの?

ウォンバット:マニア。

ねねこ:人気あるのよ。そういう趣味の人には。ところで、お母さんの台詞「百万円稼ぐのが、どんなにたいへんなことなのか、あなたにはわからないでしょ」っていうの、この人らしいなと思った。

ウンポコ:やっぱり魚住さんは、確実に「今」を描く作家なんだな。これは、まさに2000年の作品だと思う。今、この時代に、この人がいたほうがいいっていうかさ、この時代に、「今」を描いてほしい作家だね。

モモンガ:1作目、2作目と比べて、どんどんうまくなってる。

一同:(うなずく)

ひるね:戦後すぐだったら、違う環境の子ども、たとえば裕福な家の子と貧しい家の子を書こうとしても日本国内でできたけど、今は、外国人をつれてこないと、描くことができないのよね。

アサギ:さっきの、ひるねさんの「この作品は、三人称で書かれているけど、実質は一人称小説」っていうのを聞いて、なるほどと思ったわ。「子どもの視線」と思えば、この親子関係も納得。

ひるね:子どもと親の性格があまりにも離れていれば、こういうことも起きるわよ。

愁童:最初の場面、タイ人の女の子の登場の場面なんだけど、ここ、位置関係がおかしくない? ぼくはここ、よくわからなくて何回も読み返したんだよ。その結果、やっぱり位置関係がヘンだと思った。

モモンガ:私、このシルエットの少女が深澄なのかと思っちゃった。

アサギ:私はここ、よくわからなかったけど、追及せずに進んじゃったわ。

ウォンバット:私も。ま、いいかと思いながら、ずんずん読み進んでたら、大事なところも読みとばしてた。

ねねこ:読者の視点と、深澄の視点にズレがあるから、位置関係って難しいのよ。私は、矛盾はないと思ったけど。

愁童:この最初の夕陽の場面のイメージ好きなんだけど、位置関係の描写みたいな部分、ない方がよかったんじゃないかな。読者が勝手にイメージをふくらませる余地を与えてくれた方が親切だと思うな。

ねねこ:でも、そういうふうに書きたかったんじゃない、作者は。

ウェンディ:私は、位置関係をちゃんと確認したわけではないけど、自分で勝手にイメージをふくらませて、映像的だと思ってた。

ジョー:読者に、あるイメージを与えるだけでも、じゅうぶん価値アリだと思うわ。

愁童:深澄がケガして入院してる場面のお母さんの豹変ぶり、ぼくにはちょっとわかりにくかった。リアリティに欠けるような気がするんだけど。急に泣いたりしてさ。

ねねこ:そうかしら。私は、その不安定さにこそリアリティがあると思うけど。深澄に髪をひっぱられても、されるがままになっていたというところなんて、とくにリアル。だらだらとした描写っていわれるけど、高村薫に比べたら、大したことないでしょ。こういう、描きこみ方に、ぐっとくる読者もいるのよ。

ウンポコ:では、このへんで、『象のダンス』の対局にあるしつこさ、『波紋』にいってみよう。

(2000年12月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


『波紋』

ルイーゼ・リンザー/著 上田真而子/訳 赤木範陸/画
岩波少年文庫
2000.06

紙魚:今回読む本は2冊だったんだけど、先に『波紋』を読んでおいて、ほんとよかった! おかげで『象のダンス』は、楽々だった。この2冊は、またぜんぜん違う本ね。『波紋』は、シークエンスにくぎって、こうだったこうだったと、驚くほど緻密に描写してるんだけど、自分のことをふりかえってみると、子ども、というか、10代のときって、至近距離のものしか見えていなかったと思うのね。「予測」ってものができてなかった。でも今は、多少なりとも成長したから、枠組みの中でものをとらえるのが、ちょっとはうまくなってる。だから、建物の描写にしても、今だったら、全体像を頭においてその部屋の一部を想像するっていう読み方ができるけれど、中学生のときだったら、大枠なんて考えずに、その部屋にぽーんととびこんでいたと思う。リンザーって、非常に筆力のある作家よね。大人になって、この作品を書いたわけだから。子どものころの目線を失わず、ここまで描ききるというのは、大変なことだと思う。それでね、つい自分のやってきた仕事、「編集」について振り返ってしまったんだけど、私はもう、子どものころの目線を失っちゃってるんじゃないの? って思えてきて、反省しながら読んだの。あと、気になったのは、この本を読むのはどんな人たちなんだろうかということ。『象のダンス』と『波紋』の読者層って、重なるのかしら。読者の中で、どんな心の動きがあるんだろうか、とかね。だってこれは、中学生のあいだで「この本、おもしろかったよ」なんて、話題になりそうな本ではないでしょ。『象のダンス』は、友だち同士で「これ、おもしろかったから、読んでみる?」なんて会話が成り立ちそうだけど。『波紋』読者の生態は、いったいどうなんだろう・・・というふうに、読者層がたいへん気になる作品でした。

アサギ:私も『波紋』を先に読んでたから、『象のダンス』は楽だったわぁ。これは、密度の濃い物語ね。電車の中で、とびとびで読んだりすると、すぐ筋がわからなくなっちゃう。最初の「僧院」なんて、雰囲気がよく出てて、ほんとすばらしいんだけど、読むのに疲れた。「見知らぬ少年」も、主人公が野性的なものに憧れる気持ちがよくわかる。確かな筆力を感じたわ。あとね、「エリナとコルネリア」の章は、映画「制服の処女」の世界だと思った。

ウォンバット:えっ? 知らない。いつごろの映画?

アサギ:1930年代。あら、もちろんリアルタイムで観たわけじゃないわよ。ウーファという映画会社の全盛期だったのね、このころって。その後、ナチの台頭で、ドイツ映画はだめになっていくんだけど・・・。「制服の処女」は、カトリックの女子寄宿学校を舞台にした映画で、やっぱり偽善的な校長が出てきたりしてね、雰囲気がこれととてもよく似てるの。

ひるね:そう、似てるわね。「制服の処女」って、戦後、リメイクもされてるわね。ロミー・シュナイダー主演で。あら、私もリアルタイムではないのよ。念のため、言っとくけど。

アサギ:それにしても、この本を読む子どもって、いるのかしら。この主人公と同じ年代の子どもが読むかどうかは、疑問だわ。大人は読むかもしれないけど、現役の子どもには、ちょっとね・・・。濃密、緻密な描写で、ていねいにていねいに描いているから、まさにその場面が目に浮かんでくるんだけど、でも、読むのはたいへんよね、こういう作品って。私は、全体としては「おもしろい」というより「勉強になった」というか、「興味深い」という感じだったわね。

:すごくドイツ的な作品。あとがきを読んだら、そういう読み方もできるのかと思ったんだけど、ナチに文学で対抗しようとした、という姿勢にハッとさせられた。このあいだ、シンポジウムに参加するためにウィーンに行ったんだけど、そのときも考えさせられたのね。やっぱりウィーンも、ナチの支配下にあったわけでしょう。そういう戦中戦後の難しい時代に、文学者がどんなふうに発言してきたか、政治から一歩ひいて、文学にしかできない方法で表現しようとしていたことがあったという事実を、今になって、振り返ることができるようになった。リンザーも、少女の心の中の複雑で入りこめない意識を描いているようだけど、実は非常にポリティカルなのよね。それで、投獄されたりしていてね。そういう複雑な意識がバックグラウンドにあるんだけど、作品の作り自体は、とてもクラシカル。主人公をわかってくれる大人、あの「叔母さま」とかね、そういう人が、ちゃんと存在している。そういうところ、現代の読者からしたら、陳腐に見えるかもしれないわね。体制に対する意識も、ちょっとついていけないかも。私は今回、『象のダンス』は読んでないんだけど、総じて日本の作品って、ファジーでふわふわふわぁって感じでしょ。読みこむ必要がない。でも、この作品はずっしりと書きこんでるから、しっかり読みこまないとだめ。とっても重厚な作品よね。
私は『悪童日記』(アゴタ・クリストフ著、堀茂樹訳、早川書房、1991)を思い出したの。雰囲気がとてもよく似てると思って。私はこういう世界、非常に好き。読者については、翻訳作品としては問題あるかもしれないけど、ドイツだったら、この作品を読む子どもって、いると思う。たしかに、日本の子どもには、ちょっと難しいかもしれないけどね。

アサギ:私、リンザーって、日本でいうとだれだろうって考えてみたんだけど、思いあたったのは、三浦綾子。ま、根拠のない、独断だけど。ほら、純文学ではなくて、主流では認められていないんだけど、熱狂的なファンがいて・・・というあたり、文学界での立ち位置、そのズレ方が、三浦綾子! と思ってね。

ひるね:とても耽美的な作品よね、これ。こういうのって好きな人は好きだけど、嫌いな人はもう生理的にだめよね。ぱっと意見が分かれそう。私はといえば、どうも「美しい」というより、「気味が悪い」と いうほうが先に立っちゃって。好きか嫌いかといったら、嫌いの部類。まず、ユーモアがないでしょ。「ゆとりがない」というのかしら。 だれかが松田聖子のこと、「恋はするけど、愛せない人」って言ってたけれど、この主人公もそういう性格の女性だと思うわ。

:聖子は、体温が低いって感じ。

ねねこ:えー、体温じゃないと思うなー。自己愛の問題じゃない?

ひるね:「エリナとコルネリア」の章は、少女漫画好きにはいいかもしれないわね。ちょっと私には、ついていけない感じだけど。あと、花の名前がたくさん出てくるでしょ。そうそう、それで、日本名とカタカナがごちゃまぜなのが、気になったの。とくに、これだけは言っておかなくちゃと思ったのは「日本アネモネ」。「日本アネモネ」って、「秋明菊」のことよ。「秋明菊」のほうが、だんぜんポピュラー。「貴船菊」とも、いうんだけどね。

モモンガ:この本、私にしてはめずらしいことなんだけど、読めなかったの。いつもカバンに入れていて、電車に乗るたびに開いたんだけど、どうも眠くなっちゃて。

ウォンバット:これ、電車の中では無理かも。

ウンポコ:「祖父」の章を、先に読んでくれればよかったのに。

ひるね:あの章は、体温が感じられるわよね。

ジョー:私は「森のフランチスカ」まで。軽井沢の木かげで、一日じゅうのんびり読んだら、堪能できるであろう作品。日本語も、難しい言葉を使ってるでしょ。さすが岩波書店! という印象。そして、ドイツ的。

アサギ:私も、ドイツ的だと思う。

ジョー:背景にある、民族的なものがよくわかる。異文化を知るとっかかりとしては、よいのでは? たいへん美しい作品だし。

ねむりねずみ:ドイツって、ボリュームのある作品を書く作家が多いよね。私は、一時期ドイツものに凝っていた時期があったの。ヘルマン・ブロッホとか、ギュンター・グラスとか読んでたんだけど、久しぶりにそういうドイツ的な雰囲気が感じられて、なつかしかった。日本語でだって難しい、観念的な世界に入っちゃってるんだけど、その手応えもまた、よくってね。ドイツものにハマる前は、フランスものを読んでたの。ドイツとフランスって、ほんと違うでしょ。雰囲気が。ドイツものって、個人の心理になだれこまず、視野を広くもって 物語世界に入っていくから、どーんとしたものが感じられる。この作品もまた、そういうドイツの骨太な感じを強く受けた。すっごく読みにくいんだけど・・・。最近は「すらすら読める系」ばかり読んでいたから、久しぶりに、アタマ使って読んだって感じ。クラシックな僧院の様子と、思春期の少女の心の動きのアンバランスなところも、とてもよく表現してると思う。ところで、この作品の対象年齢は、いかに? どういう人に、人気あるの?

モモンガ:岩波少年文庫ファンって、たっくさんいるのよ。

ひるね:ファンにとっては、「待望の作品」って感じじゃないのかしら。

ねむりねずみ:ヘルトリングもドイツっぽいと思ってたけど、これとはまた、違う雰囲気。

モモンガ:岩波少年文庫、ドイツ、上田真而子訳の3拍子そろってるんだもの。迷わず買っちゃうっていう人、いるわよ。

ひるね:いわゆる子ども向けの文学、「児童文学」ではないかもしれないけどね。

ねむりねずみ:挿絵がモノクロなんだけど、ぼやーっとしちゃってよく見えないのが、残念。せっかくムードのある絵を使ってるのにね。カラーで見たかったな。

ひるね:あら、わたくしは、絵はなくてもよかったと思ったけど。

ねねこ:少なくとも、キャプションはいらなかったわね。

アサギ:リンザーの作品、日本では『噴水のひみつ』(ハンス・ポッペル絵 前川康男・高橋泉訳 佑学社)が有名よね。

ウェンディ:私は情景描写が続くのって、どうも苦手なんだけど、「波紋」の章の“聖なる泉”の描写は、そのひとことひとことから風景がわきあがってくるようで、とても好きだった。

アサギ:私も! あそこの描写、すごく好き。詩のような美しさがある。

ウェンディ:そういえば、私、いちばん最初に担当した本が、リンザーの『なしの木の精スカーレル』(遠山明子訳 福武書店)だったの。久しぶりに、もういちど読み返そうと思ってるんだけど。

ウンポコ:さて、次は愁童さんだ。絶賛の弁が聞けるかな?

愁童:ちなみに言っとくと、ぼくも「制服の処女」はリアルタイムではないんだけどさ、ぼくたちの高校時代ってのは、ヘッセブームだったんだよ。この本にも、ヘッセに似た雰囲気を感じたね。今どき読もうとすると少々しんどいけど、なつかしかった。重厚で、綿密な描写。糸を織るように心情を描いている・・・。わが青春時代には、そういう本をたくさん読んだものだけど、今の子どもに、読めるかねぇ。

:この本、Tさんが担当したんでしょ。あとがきに書いてあるけど。Tさんらしい本よね。

愁童:と、いうと?

ねねこ:Tさんって、トラディショナルな本を多く手掛けてる編集者でしょう。やっぱり、この本は「岩波少年文庫・ドイツ・上田真而子訳」で成立してる本だと思う。出版社によって、それぞれ「合う本」って、あると思う。たとえば、ミヒャエル・エンデの作品は、最初、講談社からいくつか出たんだけど、岩波書店ではうまくいった。それってつまり、エンデは岩波向きというか、岩波の本が好きな読者にうまく届いたってこともあると思うんだけど。この本、風邪でぼーっとした頭で読んでると、眠くなっちゃうね。なんかこう、たゆたう感じで。今の子どもには、ちょっと難しいかも。『象のダンス』が「映像的」だとすると、この作品は「感覚的」。少女の感覚が、よく描けてる。具体的には、よくわからないところが、いろいろあるのよね。主人公の両親とかさ。この祖父も、なんだかよくわからない。

アサギ:この祖父、唐突に「仏教徒で」なんて出てくるけど、何をしてた人なのかは、まるっきり不明。

ねねこ:全体にキリスト教の教養がないと、物語世界に入っていけないでしょ。もどかしいような感じは一種、自虐的な楽しさでもあったんだけど。でもやっぱり、それぞれの民族の歴史の違いというか、民族的なものの中で蓄積されてきた表現描写の違いというのを、意識しちゃったな。日本人がずっと慣れ親しんできた描写とは、テンポが違うでしょ。だって、ほら「春はあけぼの」のたたみかけの心地よさとは、基本的に違う。だから、読むのがたいへんといえば、たいへん。でも、苦労して読んだ甲斐はあって、その点、「ハリー・ポッター」とは違ってた。「時間、ソンした!」とは、ぜんぜん思わなかったもんね。あとね、「オフィーリア」の絵(ジョン・エヴァレット・ミレー作)を思い出したの。

ねむりねずみ:あ、あの女の人が仰向けで水に浮かんでいる絵! よくわかる、その感じ! 印象的な絵だものね。

ひるね:オフィーリアをタイトルにもってきてる本、あったわね。そうそう死と少女を語った『オフィーリアの系譜 あるいは、死とて女の戯れ』(本田和子著 弘文堂)というおもしろい本があるけれど、『波紋』もその本のリストに加えられるといいと思ったわ。

ねねこ:神沢利子さんの「いないいないばあや」の世界にも似た印象。それにしても、この主人公、頑固よね。

愁童:最後のほうでさ、あの男の子たち、レネとゼバスチアンとずっと楽しく遊んでいたのに、突然主人公がすっと冷める場面、あったよね。こないだまで夢中でやっていた遊びなのに、「こんどこそという期待にみちて試してみるのだが、すぐに飽きてやめてしまった」というあたり。女の子の、そういう心の成長の過程が、よく描けていると思ったな。

:たしかにそうね。でも、男の子の読者は、こういうの読まないんじゃない?

ひるね:わかんないわよー。ほら、ヘッセだって……。

アサギ:でも、ヘッセとは、抱えているものが違うからね。

ウォンバット:私はこの作品、タイトルがいいなあと思って。とってもインパクトがあるでしょ。『波紋』って。今回読む本に決まる前から、気になってたの。このタイトル。池波正太郎のエッセイを思い出してね。どんな話かというと、「俺は、小説を書くことにした。タイトルはもう決まってるんだ。それは『断崖』というのだよ」っていう友だちが出てくるのね。で、正ちゃんは「うむ、いいタイトルだ。がんばれよ」っていうんだけど、その友だち、タイトル決めただけで、ぜんぜん書かないのよ。それで、せっかくいいタイトルなのに、惜しいっていう話。この『波紋』ってタイトルを見たとき、その話が頭に浮かんだの。ま、内容とはなんにも関係ないんだけど。言いたかったのは、言葉のもつイメージ、『波紋』っていう言葉のもってるイメージが、『断崖』と同じくらい強烈で、うっわー、読んでみたいという気持ちを、非常にそそられたということなの。だけど、これって、大人の感覚だと思うのね。子どものとき、たとえば私が中学生だったら、『波紋』っていわれても、ピンとこなかったと思う。今の一般的な中学生も、『波紋』っていわれたって、「なんのこっちゃ」じゃないかな。さっきから読者対象の話がいろいろ出てるけど、タイトルからも、どんな読者に向けて作られた本なのか、いまひとつわからない感じ。ところで内容はというと、最初のほう「僧院」「百合」の章は、文字をいっしょうけんめい追いかけるんだけど、つるつると表面だけをうわすべりするようで、物語の中にぜんぜん入っていけなかったの。でも、3章の「見知らぬ少年」で、外の世界、いけないとされているものへの憧れとか、盲目的に従ってきた戒律への反抗心が頭をもたげるところとか、テレーゼへの憎しみや人形のエピソードがつぎつぎ出てくるでしょ。そこで、それまでが嘘のように、主人公の感情の動きにぐいぐい惹きこまれて、物語世界にすぽっと入っていけたのね。そうしたらその先は、もうどっぷり楽しめた。「エリナとコルネリア」の章も、女子校のエスな雰囲気が、とてもよく伝わってきて、わかるーって感じ。これは恋ではないと思うんだけど、だれかにモーレツに憧れる気持ちとか、モーレツな嫉妬とかって、その対象が男であれ女であれ、10代のころにはよくあることだなぁと思いながら読んだ。

ウンポコ:ぼくは「恒例ウンポコ読み」だけど、おもしろかった。これは、一種の私小説だと思ってさ。で、私小説には、「和食の私小説」と「洋食の私小説」があると思うわけ。これは「洋食の私小説」だな。ぼくは、この作品の出版された年、1940年生まれなの。1940年ごろって、大人は子どもの成長にいっさい関知しない、というか、大人が子どもと無関係に生きてた時代だと思うんだ。大人の存在感が大きい。この作品には、そんな時代性を感じたね。とりわけ、祖父の存在が気になった。なんというのかな、謎めいてるでしょ。バガボンドでさ。

ねねこ:このおじいちゃん、「明治生まれの男」って感じ。あの庭を歩く場面、とってもよかったわ。

ウンポコ:あの建物の描写なんかも、めくるめく感じで、想像の世界を刺激されるよね。子どもの想像力のすばらしさも、感じたな。めずらしくウンポコは、主人公に寄り添ってみたのだった・・・と。

アサギ:さっき、ひるねさんがこの作品には「ユーモア、ゆとりがない」って、おっしゃったでしょ。ちょっとそこにもどりたいんだけど、その「ユーモア、ゆとりのなさ」こそ、「ドイツ的」ってことだと思うのね。本来的なドイツ文学の書き方だと思う。どういうことかというと、距離をおかないっていうことなの。映画にも同じことが言えるんだけど。「ラン・ローラ・ラン」や「ノッキング・オン・ザ・ヘブンズ・ドア」とか、このごろは今までのドイツ映画とは、ちょっと違った感じのものが登場してるけど、対象とのあいだに距離をおかないというのが、本来的なドイツ映画の特徴なのね。「ドイツ文学らしいドイツ文学」もそれと同じで、「自分自身」と密着してるから、ゆとりもないし、客観性やユーモアは生まれにくい。

ひるね:前にここで読んだ『朗読者』(ベルンハルト・シュリンク著 松永美穂訳 新潮社)は、またちょっと違ったわね。

アサギ:あれは、純文学というより、エンターテイメントに近いから。基本的に、ドイツの作家って「オレは書きたいものを書く。読みたい者は読めッ!」って姿勢なのよ。フランス文学との大きな違いは、「観客を意識してるかどうか」という点。とても対照的だと思うのね。ドイツ文学とフランス文学って。ドイツ文学は距離をおかないぶん、主人公が読者の状況と合うと、この上なくぴったりきて、「これは私のもの!」となって、ハマっちゃうのよ。だから、独文好きってオタクが多いのよね(笑)。昔、青春ものっていうと、ヘッセとかカロッサとか、ドイツ文学がとてもよく読まれたのも、ひとつにはそういうことだと思う。

ねむりねずみ:本国ドイツでは、どうなの? たとえば、ギュンター・グラスの『ブリキの太鼓』(高本研一訳 集英社)は?

アサギ:あーら、ギュンター・グラスの好きなドイツ人なんて、いないわよ。彼はポーランド北部のダンチヒ生まれで、テーマは何かと言えば、「マイノリティ」。『ブリキの太鼓』は別格だけど、その他の作品は、多くのドイツ人にとって、「わからん」って感じじゃない? でも、いいのよ。さっきも言ったけど、「読みたい者が読んでくれれば、それでよし。あとはもうどうだっていい」っていうのが、ドイツ文学だから。

ひるね:久しぶりに外国の文学を読んだって感じがしたわ。

アサギ:50年前の作品だしね。学習によって、当時の雰囲気はよくわかりましたわって感じ。だけど、おもしろかった? っていわれると、ちょっと違う。

ねねこ:この前、久しぶりに二葉亭四迷を読み返したら、何だか妙におもしろかった。『波紋』よりは、ずっとずっと前の小説で比べものにはならないかもしれないけど。若いころはちっとも理解できなくて、「なにこれ、ヘンなの」と、思ってたんだけど。田山花袋の「蒲団」なんかも今読んだら、とっても新鮮! そんな自分に驚いてしまった。

ウンポコ:考えてみれば、日本の近代はみんな私小説だね。

ねねこ:どんなに外国ものに慣れてきたといっても、先祖から代々受け継いできたものって、やっぱり根強いのかも。遺伝子に組みこまれていた感覚が、年齢とともにあらわれてくるのかしらねぇ。

(2000年12月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)