『天のシーソー』
安東みきえ/著
理論社
2000.06

<版元語録>なんの約束もなしにこの世に生まれたことが、たよりなくてしかたがないときがある。―大人と子供のはざまの時間。不安と幸福が隣り合わせだった。大人と子供のはざまの時間を切りとる安東みきえ待望の単行本。

ペガサス:この作品は、おとなになってから子ども時代を振り返ったときに、よみがえってくる、何か割り切れない感情、いわれのない不安といった感覚をうまく綴っていると思う。なんてことない小さなことだけど、非常に鋭いところを拾いあげてみせる手腕を感じたわ。でも、子どもの目で素直にというよりは、あくまでも、おとなになってしまった者の目から冷静に分析して、感情をおさえて淡々と書くという手法を、非常に意識的にとっていると思う。表現には、これはおとなのものだな、と思わせる視線が多々感じられた。6つのエピソードから成り立っているけれど、最後の「毛ガニ」がいちばんよかったかな。どのエピソードも、明解な答えが出ないまま、割り切れなさを残して終わっているけれど、それでも好感がもてるのは、子ども時代ってそういう割り切れないことがあるものだっていう感覚が、読み手の側にあるからだと思う。そうそう、今回は姉妹というテーマだったけど、姉妹というのは小さい時分には、母親の前で常にライバルで、結構生々しいところがある。家の中ではいやでも一緒にくっついている存在だけれど、いなくなると思うと、とてつもなく不安になるという関係が、よく描かれていると思う。

ブラックペッパー:読んでみておもしろかったけど、どうしてか、淡々としていて薄味という感じだった。きれいな文章だから、するするっと読めちゃったせいかもしれないけど、もうちょっとコクがあってもいいかなと思った。描かれている子どもの遊び方がなんだか昔っぽい。私が子どもの頃とは違ったので、作者自身が自分の子ども時代を書いたのかなと思った。今の子どもたちが読んだら、へだたりを感じるかも・・・。ずいぶん前に読んでから貸してしまって、その後時間がたってしまったので、薄味がより薄味になったみたい。最初の「ひとしずくの海」の中で、目かくし道の場面が好きだったんだけど、なにかで作者が「実際に小さいときやっていた遊びです」と書いてあったのを読んで、ちょっと醒めちゃった。

ねねこ:私は読むのは3回目なんですが、この本は、何が書いてあったか忘れやすいですね。最初に読んだときにはなかなかいい、2回目に読んだときにはそこそこいい、という具合だったんだけど、3回目に読んだときには、評価が下がりました。どうしてかというと、偽善的な匂いが鼻についてきたからなんです。例えば、「毛ガニ」で毛ガニをかわいそうだから返してあげなければと思う部分とか、「天のシーソー」でサノの後をつけていって、シーソーをして仲直りする部分とか。あやまりたいという気持ちがあったら、逆に後なんてつけられないんじゃないかしら。おとなの目で子どもを描いていて、主人公のみおという少女には、感覚的に違和感を感じました。p59の「仕事ってのはきちんとかたをつけなきゃ」とかp75の「ちいさい相手だからという理由で、ウソをいってはいけないときめていた」という箇所などには、作者の安東さんが思う「よい子」というのを感じる。その「よい子」ぶりが、3回読むうちにいかにも作られたもののような気がしてきました。「ひとしずくの海」の目かくし道などはいちばんいいと思ったけれど、佐藤さとるさんの短編に似てたり、「マチンバ」が『夏の庭』に似ているというのも評価が下がった点。この作者は、児童文学をいろいろ勉強しているんでしょうね。

ペガサス:私も作為的なものを感じたんだけれど、今回は好意的に受け取ったのよ。おとなから
子どもを見るという手法で、あえてそうしたのではないかと・・・。

ねねこ:どうも淡いスケッチのような、きれいだけど遠い感じなのね。後で出てくるパンテレーエフとはまったく違う。

オイラ:2回読んだのだけど、2回目のほうが評価は高かった。確かにストーリーはどういうのだったか忘れてしまったんだけどね。「この表現、すてきだなあ」という再確認ができたから。この人は比喩がいいんですよ。たとえば、「ローラーブレードをころがして、子どもたちがミズスマシのように鋪道の上をすべっていく」というところなんか、向田邦子作品のような心地よさで、比喩がとってもいい。「毛ガニ」の中での、「カーテンのすきまからのぞき見た」「夜中の町が月光に照らされて」「まるで海の底」に思えたところなんて、スケッチが絶妙だよね。鋭い表現力をもった新人が出てきて、うれしさを感じた。常々いい短編集を作りたいと思っているんだけど、なかなかその思いにこたえてくれる作家がいないんですね。この人はいい。中でも「毛ガニ」がいちばんよかった。他のに比べてストーリーもいい。

スズキ:エピソードの中では、「毛ガニ」が印象的でした。それから当然のことではあるんですけれど、短編集というのは1冊なんだということを実感しました。いろいろなスタイルを持つ物語を、どんなふうに並べるかということが効果につながるんですね。全体的に結論がなくて、もやもやが残ったけど、最後に「毛ガニ」でしめくくられたので結べたという感じ。みなさんからは、けっこうおとなの視点で描かれたという話が出ていますが、私もたとえば小学校高学年あたりで読んだらついていけなかったと思う。あまりにも表現がすばらしく、美しすぎて、作家自身の匂いがしないのが気になりました。大人の視点を貫くという手法もあるのだなあと勉強にもなりました。

アサギ:私はねえ、結論からいうと、この本は好きです。ペガサスさんが言ったように、自分の子ども時代が描かれているようだった。だけど、これが今の子どもに受け入れられるのかというと疑問。文章はうまいし、表現がいいところもたくさんある。なかでもストーリーのおさまりがいいのは、「毛ガニ」ね。姉妹の感じもよく伝わってくる。だけど、表現がよくても忘れちゃうのよ。印象に残らないの。表現力、文章力があるのに、ストーリー性が弱いのよ。なんとか最初の「ひとしずくの海」と最後の「毛ガニ」の両方でしめているという感じ。ねねこさんが言ってたように距離感を感じてしまうのは、おとなになってから子ども時代をふりかえって書いているからじゃないかしら。だから躍動感がないのよね。子どもには受け入れられないかも。

トチ:作家のYHさんに、私の作品について「表現とか形容をブラッシュアップするのもいいけれど、そんなことばかりしていると、せいぜいエセ安房直子的な作品を書いただけで終わってしまう」と言われて、ずしんと心に響いたことがあるの。読みやすいし、うまいし、感じはいいけど、マチンバにしろハーフの兄弟にしろ、どの人も主人公の人生にふらりと交錯して通り過ぎただけなのよね。どの人も本当の意味でコミットメントしていない。サノたちは、この主人公のために存在していたのではないかと思うくらい。ねねこさんが偽善的と言ったけど、「毛ガニ」の中での母親の描き方が共感できない。いただきものの悪口を母親自らが言うなんて。うちでは、子どもの前でいただきもの悪口を言ったりはぜったいしない。この部分は猛烈に腹が立った。すぐ煮て食べて感謝しなきゃ。それに、あの運転手はぜったいに食べたにきまっているわよね。

オカリナ:食べた方がリアルだけど、作者はきっとそうは思ってないはず。そこが困るとこ。

トチ:腹立たしいのは、名簿の話もそう。文章や表現はいいけれど、いらいらするの。前に魚住直子さんの『超・ハーモニー』(講談社)を読んだ時も言ったけど、どうして日本の児童文学の母親像ってステレオタイプなのかしら。元気で小太りか、病弱で美しいかのどちらか。母親像の貧しさったらないわ。どうして、動いているカニくらい始末できないのかしら。小動物ごときを怖がってキャーキャー騒いだり。

愁童:オイラさんが好きっていうのはよくわかる。まー、ぼくも好きなんだけど。この会の最初の頃に、ねねこさんが「この読書会は日本の作品に厳しすぎる」と言われたけど、確かに日本の作品に対しては評価が偏ってるかも。好きなものでもなんだか文句言いたくなっちゃうんだよな。日本人は花鳥風月が好きだけど、この本、確かに描写はうまいんだよね。情景描写がうまくて、場面も残る。読んでいるときは気持ちがいいんだけど、なにか足りないんだ。結局のところ、人なんだよね。この本はしゃれているし、スマートだし、読後感もいいんだけど、登場人物にかける執念がないんだ。おとなとして子ども時代を振り返るのも文学のありかただけど、児童文学として子どもに読ませる覚悟があるなら、こういう書き方はどうかな?「針せんぼん」の姉妹の描きかたには違和感をもったけど、でも帰り道でミオが妹のヒナコ会うところなんかはうまい。出だしの「ひとしずくの海」のマンガ本のお金について姉妹げんかするところも、子どもの神経をうまく書いている。こういうところをふくらましてきちんと書いてくれれば、もっといいんじゃないかな

オカリナ:2回読んで、最初はよかったんだけど、2回目読んでみて、腹が立ったの。腹が立ったっていうのは、自分の中に、こういう世界を心地よいと思う気持ちがあって、そこから抜けださなくちゃって思いもあるからなんだけど。いちばんまずいのは、現実がとらえきれてないところ。唯一ちゃんと書けているのは、妹とのやりとりで、あとは登場人物と真剣にかかわっている感じがなくて、ほかの人たちはみんな背景とか飾りみたいになってる。文章はいいし、こういう心象スケッチって、私もとても惹かれるんだけど、下手すると自己陶酔的なセンチメンタリズムで終わっちゃう。主人公が出会うのは、自分より弱い立場の人ばかり。再婚家庭だったり、一人暮らしのおばあちゃんだったり、父子家庭の幼い子だったり(しかも母親が外国人)、体が不自由な人だったりね。まわりの人たちを上から見て思いをかけ、そういう自分を美しく描いてるって気がする。まわりの人を、無意識的に健気とかかわいそうという対象にしちゃってる。それに、中3の女の子が小4の女の子と手をつないで、「目隠し道」なんてするかな? もっと幼い年齢ならわかるけど?

ブラックペッパー:そうよねー。でも、昔はやったのかも・・・というか、作者はやってたわけだけど。

オカリナ:この作家はやったかもしれないけど、リアルに想像しにくい。「サチねえちゃんがうちに帰れなくなったときには、あたしがつれていってあげるよ、目かくし道で。だから帰ってきて。きっとまた帰ってきて」「涙がつたってくちびるをぬらした」というところなんか、センチメンタルとしか思えなかったけどな。

ねねこ:私も3回目に読んだとき、何となく美しいイメージにごまかれていたんじゃないかと、自分に腹が立っちゃった。

オカリナ:それに「マチンバ」で、最後、おばあちゃんがピンポンダッシュを好意的に受け取っていたということがわかるでしょ。好意的にとるから美しい話になるんだけど、リアルな状況ではまずありえないよね。このおばあちゃん、ぼけてるわけじゃないんだし。

トチ:本当にうまい作家の作品は、たった1行だけで、とてもたくさんのことを言っているのよね。例えば『テオの家出』(ペーター・ヘルトリング.著 平野卿子訳 文研出版)で、テオがパパフンフンに「おじいさんのうちの家族は?」ってきく場面があるでしょう。するとパパフンフンは一瞬だまってしまうの。そこのところのだった1行の描写読んだだけで、それまでのパパフンフンの人生が読者の目の前にぱあっと広がるのよね。

オカリナ:そうそう。さっきローラーブレードの比喩がうまいって話がでたけど、ローラーブレードは水すましのようにはならないんじゃない?

トチ:あめんぼと水すましって、関東と関西で言い方がちがうのよね。

オイラ:水すましっていうのは、足がすらっと長くて、ぴょーんといくのでしょ。(オイラの勘違いでした。ハズカシイ!)

ブラックペッパー:水すましとあめんぼの違いはよくわからないんだけど、ローラーブレードはアイススケートみたいに、縦一列にローラーがついてて、シャーッシャーッとすべるように進んでいくやつのことでしょ。トンッスー、トンッスーというのはローラースケートかも。

アサギ:ところで、さっきの「マチンバ」の話に戻るけど、私は子どもたちのいたずらを好意的に受け取ったのは、そう思いたいほどおばあちゃんが孤独だったからかと思ったわ。

オカリナ:いくら人のいいおばあちゃんでも、ピンポンピンポンあれだけされて、そう思うかしら? 私には、おばあちゃんがお菓子を用意して待ってたなんて書くことが、年寄りをバカにしているようにも思えるんだけど。「針せんぼん」の父子家庭の兄弟の話にしたって、リアリティがぜんぜんないの。お父さんが風邪をひいたからおばあさんのところに預けられてた5歳と3歳の男の子が、随分前にミオと約束したのを思い出して、寒い日に長い道のりを歩いてミオの家に来るのね。それも、親の人形を紙粘土でつくってそれに色づけするからっていうことで、よけい哀れな感じなんだけど。で、ミオの方は約束をすっかり忘れてて、そのまま幼児たちを帰しちゃうんだけど、この子たち、すぐ近くの家にいるお父さんのところには寄りもしないで、また遠い寒い道をおばあちゃんの家まで帰ったという設定なのね。それで、この子たちの哀切感を出そうってことなのかもしれないけど、子どもってそんなもんじゃないでしょ。3歳と5歳の子どもがけなげに会いにいくっていう設定も、嫌らしい感じがして・・・。いい加減にお姉さんぶってるミオの同情なんか、木っ端みじんにするくらい、小さな子だってエネルギーもってると思うのよね。リアリティのない美しさにだまされちゃいけないんじゃないかな。それから、「天のシーソー」でサノが、帰り道お父さんの前を知らん顔して通りすぎるところがあるでしょ。「カタン、オレのしたことが重い? コトン、あたしのしたことが重い?」って、サノは自分の行為を悪いと思ってるっていう設定なんだけど、あの年頃の男の子が、親を避けるのはあたりまえじゃない?

アサギ:お父さんの前を知らん顔して通り過ぎたのは、貧しさが恥ずかしかったってことよね。

ねねこ:シーソーの話は、ミオがサノにあやまろうと後をつけていって、「あたしたちがわるい。ぜったいにわるい」と言うところが、嫌だった。

ペガサス:子どものときには、ああいうことってあやまろうと思わないはず。うしろめたさや罪悪感は感じていても。

オカリナ:おとなが子ども時代を回想して郷愁にひたるのはいいとしても、子どもにそれを押しつけちゃいけないでしょ。

ペガサス:おとな向けか、子ども向けか、わかりにくい体裁なのよね、この本は。それにしても、子どもはあやまろうとなんてしないわよ。

ねねこ:悪いとは思うかもしれないけど、本当に悪かったと思えば思うほど、そう簡単に言えないのが人間じゃないかな。

:技巧的にシーソーを使って、罪が重いというイメージを出そうと、そっちが先行していたんじゃないかしら。作者はそう深くは考えていないかも。

ペガサス:そこに問題があるかもね。

ねねこ:その象徴が「毛ガニ」よね。今さら海に帰っても、毛ガニは生きられないでしょ。

オカリナ:お道具箱につめてわたしちゃうなんて。

愁童:でも、この作家は才能あると思うよ。「マチンバ」の最後の方で、妹のヒナコがぱくっとチョコレートを食べちゃうあたりなんて、よく書けていると思うし、「天のシーソー」で、シーソーをこいでいる描写などもうまいしね。

オカリナ:私もうまいとは思うの。でも、スキルがあって内容がないとしたらもったいない。

愁童:ぼくは、『バッテリー』(あさのあつこ著 教育画劇)は好きじゃなかったけど、兄弟の描きかたは、この作品に較べたら、はるかにいいと思う。うまい下手はともかく、作者が伝えたいと思ってる人物象がきちんとあるもの。

:男の兄弟と、女の姉妹は根本的に違うとは思いますが。

ウェンディ:私は今日ばーっと読んだんだけど、昔の子どもってこんなだったんだと思いました。今の子どもたちに読んでもらえるとは思いにくい。他の学年の人と交じってドッジボールするなんていうのも懐かしい感じ。でも、昔だってこんないい子はいなかったのではないかな。古きよき時代を振り返っての、いい子ども像が描かれているよう。記憶の中の物語というところでしょうか。

紙魚:読んでみて、なんだかこの感じ何かに似ていると思って考えてみたら、そうそう、昔小学校で読んだ、道徳の教科書みたいでした。小さい頃は、この子のどこがいけないのか、どういうところがやさしいのか、この事件を通して気持ちはどのようにかわったのか、などという設問に答えるのはとっても嫌だった。この本は、設問として傍線が引かれるであろうところが見えかくれしていて、好きになれなかった。

:私はまず、なぜ名前がカタカナなのかが疑問。この本は、情緒的なものをコアにしているけれど、情緒的なものに流されないように書いている。ノスタルジーというよりは、ロマン派的子ども像といった感じで、子どもをふりかえるというよりは、理想的な子ども像を構築しているのではないかしら。ハーフの兄弟の面倒を見たりするところは、決してリアルじゃない。シーソーがカタン、コトンというのもやめてほしい。皆さんから出てきた、偽善的、薄味といった印象を私ももちました。ただ、言葉にならないものを言葉にしていく、メッセージにならないものをメッセージにしていくという点で、短編というかたちをうまく使っているとは思う。「毛ガニ」がいいと言える人はえらいと思います。

アサギ:そういえば、カタカナで名前を表記するのは、川上弘美なんかもそうよね。彼女なんか、苗字もカタカナよ。

ブラックペッパー:『少年と少女のポルカ』(藤野千夜著 講談社)もそうだった。

オカリナ:カタカナで表記した方が、記号的になるからね。

ねねこ:作品の中で、憐れみをかけている相手は、漢字で表されているみたいね。

アサギ:カタカナの方が、観念的だからかしら。

ペガサス:それにしてもヒナコっていうのは、カタカナが似合わないと思わない?

一同:そうねえ。

オイラ:いろいろ批判的な意見が出ているけど、表現がうまいという点で、それだけでも評価したいな。確かにストーリーは弱い。人生観には共感しにくい。重松清のように、著者の強い人生観を見せつけるというような面は薄いけれど・・・。

オカリナ:もしかしたら、私も子どものときは、こういうの好きで読んだかもしれない。でも今は、子どもが読むものだったら恐いなと思う。「毛ガニ」なんか特に。

アサギ:「毛ガニ」がだめだっていう人も多いけど、私は寓話的な感じがしたので、気にならなかったわ。

トチ:オイラさんが言ったように「登場人物の人生観を見せつけるというような面が薄い」というわけではないと思うのよ。作者が薄くしようと思っても、濃くしようと思っても、自然にあらわれるものだと思うの。表現がうまいから、なんだかいい声の人のつまらない話を聞いている感じも・・・。

ねねこ:この作品は、悲しみの底が浅いように感じるの。作者の人生の幅が感じられない。どうも頭で書こうとしてる気がする。

ペガサス:表現と内容(人生観)のギャップに気づいちゃうと、もうそこで読み進められなくなるのよ。こういう人は、ファンタジーを書いたほうがいいわ。

オカリナ:ファンタジーだって、世界観がないと書けないでしょ。

一同:(うなずく)

トチ:命の大切さが感じられないしね。カニに対してかわいそうだわ。

愁童:でも、日本人は本質的にこういう本は好きなんじゃないかな。

ペガサス:表現がうまいだけじゃ、子どもは読まないわよ。

トチ:いや、子どもだってうまい表現っていうのを好んだりするわ。吉田弦二郎みたいのを好んで読んだりするわよ。

ペガサス:でも、おとなは表現がうまいってだけで楽しめるからね。

アサギ:たしかにこの人、表現うまいわよ。私、翻訳するときに使おうと思ったところいくつかあったもの。

:では、元気があるうちに、そろそろつぎの本に・・・。

(2001年01月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)