日付 2001年9月20日
参加者 トチ、裕、モモンガ、愁童、オイラ、コナン、オカリナ、
ウォンバット、羊、スズキ、紙魚
テーマ 子どものころ好きだった本

読んだ本:

イーヴ・ガーネット『ふくろ小路一番地』
『ふくろ小路一番地』
原題:THE FAMILY FROM ONE END STREET by Eve Garnett, 1937(イギリス)
イーヴ・ガーネット/作 石井桃子/訳
岩波書店
1957

<版元語録>ふくろ小路一番地に住む、子だくさんのラッグルス一家の物語。長女がお客さんの洗濯物をちぢませてしまったり、ふたごの男の子たちが少年ギャングに入って冒険にのりだしたり、下町の家族はいつもゆかいな事件でにぎやかです。
リンドグレーン『やかまし村の子どもたち』
『やかまし村の子どもたち』
原題:ALLA VI BARN I BULLERBYN by Astrid Lindgren 1947(スウェーデン)
アストリッド・リンドグレーン/作 大塚勇三/訳
岩波書店
1965

<版元語録>やかまし村には、家が3軒きり、子どもは男の子と女の子が3人ずつ、ぜんぶで6人しかいません。でも、たいくつすることなんてありません。ひみつの手紙をやりとりしたり、かくれ小屋をつくったり、毎日楽しいことがいっぱい!
エーリヒ・ケストナー『点子ちゃんとアントン』
『点子ちゃんとアントン』
原題:PUNCTCHEN UND ANTON by Erich Kastner, 1929(ドイツ)
エーリヒ・ケストナー/作 高橋健二 or 池田香代子/訳
岩波書店 
1955

<版元語録>お金持ちの両親の目を盗んで,夜おそく街角でマッチ売りをするおちゃめな点子ちゃんと,おかあさん思いの貧しいアントン少年.それぞれ悩みをかかえながら,大人たちと鋭く対決します―つぎつぎと思いがけない展開で,ケストナーがすべての人たちをあたたかく描きながらユーモラスに人生を語る物語.


ふくろ小路一番地

イーヴ・ガーネット『ふくろ小路一番地』
『ふくろ小路一番地』
原題:THE FAMILY FROM ONE END STREET by Eve Garnett, 1937(イギリス)
イーヴ・ガーネット/作 石井桃子/訳
岩波書店
1957

<版元語録>ふくろ小路一番地に住む、子だくさんのラッグルス一家の物語。長女がお客さんの洗濯物をちぢませてしまったり、ふたごの男の子たちが少年ギャングに入って冒険にのりだしたり、下町の家族はいつもゆかいな事件でにぎやかです。

愁童:この本って、当時は教科書みたいに読んでたんだけど、今回読んで、時代が変わっちゃったなと思ったね。石井さんも、イギリスの下層階級を書いた児童文学の初まりだって書いてるけど、今、下層階級のユニークな子どもが書かれてると言われてもピンとこない。時代のなごりがあったときにはよかったんだけど、今の子どもには無理なんじゃない? こんな変わっちゃった感想をもつとは、自分でも意外だったな。訳の問題もあるけど。

オイラ:原著が出版されたのって、ぼくが生まれたときより前なんだよね。実は飛ばし読みしちゃったんだけど、昔のよき時代らしい、貧しさのなかの良さ、おふくろの存在感、子どもたちの豊かな行動。貧しいからこそ、子どもたちが生き生きと動きまわってるというのがとってもよく出てる。リンドグレーンの『やかまし村の子どもたち』でも思ったんだけど、今のゲームばっかりやってる子は、どう読むんだろう?

ウォンバット:この本、好きだったのに存在をすっかり忘れていたので、今回久々に読むことができてうれしかった。「あー、こんなにいい子がいたじゃないの。忘れててゴメン」と思いました。一か所すごーく好きな場面があって、それはジョーがウィリアムの口に自分の指をスポンと入れるとこなんだけど、そこを読んだら、この本を読んでたころのことがパーッと蘇ってきてね。この「スポン」がカタカナなのもちゃんとおぼえてて感慨深かった。さっき、愁童さんから今の子には受け入れられないんじゃないかというような話が出てましたが、私は無理とは思わないなー。たしかに今回の3冊は古いけど、別の世界のことを知るおもしろさってあると思うから。

愁童:さっきオイラさんも言ってたけど、貧しい時代の子どもの豊かさというのは、ぼくも感じるんですよ。職業による階級なんてのも、昔の日本にもあったしね。しかも学校ではそれがぐちゃぐちゃになって存在してたんだな。そういうセンスで書かれてるんだよね、この本は。今の日本人の感覚からすると、古いアパートにいて、お母さんが夜働いてるなんてのも、あんまりないように思っちゃうけど、実際は多い。だから、それが原因で、ひけめがあったりいじめられたりってこともある。でも、一億総中流って言われれば、子どもたちもそういうもんかって思うじゃない。とすると、今の子どもたちにすっと受け入れられるとは思えないな。

ウォンバット:うーん。でもね、自分とかけ離れていれば、かけ離れているなりに、時代小説を楽しむのと同じようなヨロコビがあると思うの。異世界のように感じながら読むのもまたよし、と思うけど。

モモンガ:当時は、外国の児童文学が今ほどなかったから、はじめての外国のようす、という感じでおもしろく読んだというのもあるわよね。

ウォンバット:パンを食べたというところも、どんなパンなんだろうと思ったりして。

オカリナ:この本は絶版になってるから手に入りにくいんだけど、図書館なんかで借りて若い人たちと読むと、みんな一様におもしろいっていうのよね。ほとんど女の子なんだけど。ここには、ひとつの家族の理想のかたちっていうのがあるのかなと思います。子どもたちは学校や親に一挙手一投足を監視されているわけじゃないし、自分でいろいろ試しては失敗するっていうのがおもしろいんですよ。それと、ここに書かれてる子どもたちは、親が働いている姿を身近に見て育ってるから、家族の基本的なつながりがある。石井桃子さんの訳もそんなに古くないし、エピソードがおもしろいから、この本は復刊してほしいなと思ってるの。

オイラ:やっぱり大家族っておもしろいじゃない。今の若い人がおもしろいっていうのも、その辺じゃないかな。

愁童:出版された当時は理想的な児童文学と言われて、それなりの現実感をもって読んでたんだけど、自分の子ども時代と重なるっていうのとは違う。今読んでみると、現実感がないんだな。

トチ:ここに描かれているのは、物質的な幸せよね。ケーキをもらってうれしいというような、わかりやすい幸せ。同じ時代なのに、ケストナーの『点子ちゃんアントン』のほうは、物質的にみたされてるだけじゃ幸せじゃないって書かれてて、ここが新しいところよね。

オカリナ:うーん、物質的な幸せが描かれているっていうよりは、物がないから、ささやかな物でも幸せになれるってことが描かれてるんじゃない? その辺はローラ・インガルス・ワイルダーの「大草原」シリーズと同じだと思うけど。点子ちゃんは家庭的に幸せではなかったけど、ふくろ小路の子どもたちは家庭的には幸せなのよ。

トチ:でも、雨にぬれちゃって、お金持ちの家に行ってフランネルを着せてもらうなんてくだりは、物質的な幸せが描かれていると感じましたね。

モモンガ:子どもには、そういうのがわかりやすいのよね。

愁童:帽子買ってもらうじゃない。でも、海に流されちゃって。結局返ってくるんだけど、ここらへんは、昔の家では非常にリアリティあったんだよね。

モモンガ:帽子のところで、みんなと違う古い紺のをかぶっていかなくちゃならないなら、もう生きちゃいられない、っていう気持ちは共通よね。

一同:うんうん(とうなずく)

オカリナ:たしかに自分の体験と重なるからおもしろいっていう本もあるけど、私は子どものとき、自分とはうんと違う人生を送っている人のことを読んでみたいっていう気持ちが強かったの。状況や人物が目の前にうかびあがるように生き生きと書かれてれば、実体験とは重ならなくても、おもしろく読めるんじゃないかな。

:兄弟が多くて、両親が働いていてっていう状況に自分を重ねる一方で、今の子どもたちにどう読まれるかなって疑問をかかえながら読んでました。図書館の仕事をしていたとき、『ふくろ小路一番地』は印象にないんだけど、『やかまし村の子どもたち』と『点子ちゃんとアントン』はいっつも貸し出し中でした。学校図書館で実際にいつも読まれてる本なんです。実生活で制約されてる子どもたちが、気持ちを一緒に遊ばせることができる本なのかなって思ってはいました。

紙魚:この本、昔、確かに読んだはずなんだけど、全然覚えてなくてびっくり。たぶん子どものときは、主人公の子どもたちに自分を重ね合わせて読んでたんだけど、今読んでみると、おかみさんに感情移入してたりってことがありました。小さいときは、このお母さんのこと、なんとなく邪魔だなあって感じてたと思うんですよ。お母さんがいい人だって思うようになったのは、大人になっちゃったってことなのかな。いいくだりがあるんですよね。「赤んぼのことでは、若い男は信用できない」なんてとこ、うんうんなんてうなずいちゃったりして。

オイラ:今のお母さんはあまり怒らないから、こんなふうに生き方を正そうとして怒るお母さんに、子どもは憧れるかもしれないね。

:イギリスの文化がハイカルチャーからローカルチャーに移行する時点で出てきた画期的な作品ですよね。労働者階級に光があたって、読み手も広がっていったんですね。下層の人たちの生活のバイタリティやリアリティが描かれ、ユーモアもあるっていうことで、時を超える価値をもっているんだと思うの。私は帰国子女で、最初英文で読んで、そのあと邦訳で読んだんですが、ふしぎとギャップがなかったんですよ。そういうのはなかなかありません。非常に好きな作品でもあるし、評価したい作品です。現実感覚が遠ざかったとしても、時をこえたリアリティはぜったいにあるはず。これは今回の3作を通して言えることだと思います。

オカリナ:バイタリティやユーモアは充分感じられるけど、労働者階級のリアリティが描かれているかどうかという点は、イギリスではいろいろ反論がありますよね。だからイギリスでは、今の子どもに薦める本のリストにはあんまり入ってこない。

トチ:私は、大人になってから読んだので、子どものとき読んだらどれだけ熱中したかわからないけど、作者の位置、視点が、労働者階級に立ってなくて中流とか上流から見ているのが気になるところ。これくらいの古さのものって、難しいのよね。もっとずっと古い作品だったら、「この時代だったら、作者がこう書くのも無理はない」と思うことができるけれど。やっぱり、私はひっかからずには読めないっていうところが、どうしてもありますね。

愁童:若い頃炭鉱にいたとき、白いヘルメットとかかぶって東大生がくるんですよ。おばさんがおにぎりなんかで歓待するんだけど、実際には、彼らは帰ってから一流会社に入っちゃうんだよね。産学共闘っていうのは幻想なんですよね。今読むと、この本にもそれと似たような違和感がありますよね。ただ、以前「こだま」の同人で薦められて読んだときは、おもしろかったから、こういうふうに書かなくちゃって思いましたよね。

トチ:その頃、日本でも柴田道子さんの『谷間の底から』なんかがもてはやされてましたよね。

オカリナ:柴田さんの作品は、またこれとは違うと思うのよね。普遍的なバイタリティというところで、私はこの作品は評価はできると思うの。イギリスでは階級によって、食べるものも、話し方も、行く学校も違うけど、日本ではそう違わない。だから、日本の読者の方が「労働者階級をきちんと書けているのかいないのか」という問題に目を奪われずに、大家族のにぎやかな暮らしや、子どもの視点におもしろさを見いだせると思うの。ただし、小説家が落としたお金をお父さんが届けたとき、小説家は「ひとりあたま五シリングで、一生の望みをとげ、これほど幸福になれるとは・・・五シリングで! なんてことだ! ラッグルスさんをあわれんだらいいのか、うらやんだらいいのか」と思ったって書いてあるんですけど、この辺は作者の視点が小説家の側に立ってるような感があって、ちょっとざわざわっときますよね。

モモンガ:この本は、貧しい労働者階級を書いてるんだけど、当時は、悪いお金持ちを貧しい人が見返すという類の物語が多かったですよね。でもこれは、貧しい側がちっとも卑屈じゃない。お父さん、お母さんは非常にまっとうな考えをもってるし、貧しいとか貧しくないとは関係ない、普遍的なよさを持ってる。あとはね、私はこの本で、子どものかわいさってものを理解することができたんです。だからこの本、今でも好き。それに挿絵がとてもいいの。挿絵にどの場面かっていいうキャプションがついてるのもいいわね。あとね、(手もとの画集を見せながら)私はイギリスの画家サージェントの「カーネーション、リリー、リリー、ローズ」の絵が大好きで、長女のリリー・ローズの名前の由来がこの絵からきているとわかったとき、それはそれはすごくうれしかったの。

オイラ:そうそう、この本には「待って得た喜び」っていうのが書かれてるでしょ。映画のとことかね。僕らの子どもの頃ってたくさんあったんですよ。帽子を、さんざん待ってやっと買ってもらっても雨の日には絶対かぶらないとかって、本当にあったんですよ。お金がなくてね、ハチに三十何箇所もさされても、病院に行かない。かわりに祈祷するところにいって、お米でおまじないしてもらうっていう生活なんですね。懐かしい場面がたくさんあったなあ。

紙魚:今の幼児だって、大人から見ればたいしたものでないのに、待っても待っても、ぜったいこれじゃなくちゃだめなんだっていう強い気持ちがあると思うな。

オカリナ:3歳くらいまではそうだけど、それが小学生にあがったころから変わってくる。

オイラ:このところぼく、実感してるんだけど、やっぱり家庭かな。そういうのって、家庭によって違うんだよね。

(2001年09月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


やかまし村の子どもたち

リンドグレーン『やかまし村の子どもたち』
『やかまし村の子どもたち』
原題:ALLA VI BARN I BULLERBYN by Astrid Lindgren 1947(スウェーデン)
アストリッド・リンドグレーン/作 大塚勇三/訳
岩波書店
1965

<版元語録>やかまし村には、家が3軒きり、子どもは男の子と女の子が3人ずつ、ぜんぶで6人しかいません。でも、たいくつすることなんてありません。ひみつの手紙をやりとりしたり、かくれ小屋をつくったり、毎日楽しいことがいっぱい!

コナン:ああ、こんな時代があったんだなーと思いました。今回は初参加なので、このくらいです。

:リンドグレーンは、冒険小説としてのおもしろさがあるんですね。映画化されたりするのも、やはりその要素があるからでしょう。

紙魚:幼い頃、リンドグレーンと名のつくものは、片っ端から読んだんですけど、そのなかではやっぱり『長くつ下のピッピ』が最高に好きだった。もう何度くりかえし読んだことか。今回『やかまし村』を久々に読んでみて、「〜のつもり遊び」とか、男の子をちょっと嫌う気持ちとか、いろいろな細部でどうしてこの人はこんなに子どものことをよく知ってるんだろう! と感激してしまいました。秘密のほら穴の章の最後「そこは、わたしたちの秘密です。わたしたちは、だれにも、ぜったいに、ぜったいに、ぜったいにおしえません。」というくだりも大好きです。秘密の場所をわざわざ「おしえません!」と公言する気持ちはとってもよくわかります。大人だったらあえて言わないことですよね。物語のなかに出てくる大人たちも、子どものやりたいことを決して否定しない。大人と子どもの関係性を説くことなく、子どもの世界のまま物語が動いていくところもすばらしい! でもどちらが好きだったかときかれれば、『ピッピ』ですけど。

オカリナ:『やかまし村』は幼年童話よね。それに大して『ピッピ』は、自分で読む本という違いがあるんじゃないかな。

モモンガ:図書館では、まず『ピッピ』を薦めてみる。これは、たいていどの子も好きになる本だから。それで、リンドグレーンをもっと読みたいというようだったら、次は『やかまし村』を薦めます。

:幼児のまわりの生活に輝きをあててますよね。まだ自分の世界が外のものではなくて、身近にあるという子どもたちには、もってこいの物語。

スズキ:子どもの日常が描かれていて、エピソードのオチが笑えますね。6人子どもが出てくるんだけど、1人ずつの特徴があまり浮かびあがってこないから、ひとかたまりに見えちゃう。絵も、似たように描かれてるし。とにかくかわいらしいお話だし、ぜひ子どもの本棚に置いておきたい本なので、訳を見直してもらって、感情移入しやすいように改訂してほしい。

モモンガ:そうね、確かに個人個人っていうよりは、男の子対女の子ってかたまりなのよね。

オカリナ:私もリンドグレーン・ファンなんだけど、『ピッピ』よりもっと好きなのは、『やねのうえのカールソン』とか『ミオよ、わたしのミオ』。どの作品が好きかっていうのは、はじめて読んだ年齢もあると思う。私は大人になって読んだから、『やかまし村』については、そうそう子どもの頃こうだったよね、という感想になっちゃうのね。さっき裕さんが冒険の要素って言ったけど、この『やかまし村』の子どもたちの行為を冒険と思えるのは、小学校低学年までじゃない? それ以上の年齢だと、冒険物語としては物足りなくなってくると思う。

ウォンバット:私は、リンドグレーンはあんまり印象ないんです。今のオカリナさんの話で、私も読むのが遅かったのかもと思いました。1回読んだんだけど、いまひとつ愛着がもてず、そのままになってた。だけど、今回読んでみたらおもしろくて、とってもよかった! ちょっと話はずれますが、ちょっと前テレビで、江川紹子さんがリンドグレーンに会いにいくという番組をやってたの。大好きだったんですって、「ピッピ」や「やかまし村」。それで、この村へ行って牛を追ったりするんだけど、もう作品世界そのものという感じの、とても美しいところでした。結局、リンドグレーンさんは高齢だから会えませんということになって、お花とお手紙をお付きの人に託すというところで終わったんだけど、江川さんの思い入れが伝わってきて、とってもよかった。私、前から江川紹子さん好きだったんですけど、身近に感じられてますます好きになってしまいました。

コナン:北欧のものを読むと、日本とはちがう感性があるなと思いますね。

オイラ:ぼくはね、リンドグレーンという人は、なんてやさしいまなざしをもっているのだろうと思いました。まず舞台設定がとてもいい。子どもに創意工夫をさせる舞台設定をしているのが実にいいでしょ。子どもたちが生き生きとしてる。訳文にもぼくは感心してしまったんですね。声をあげて読んだら、気持ちがいいんですよ。オーソドックスな「ですます調」の気持ちよさを久々に感じましたね。しかも、いちばん最後の1行にぐいぐいとひっぱられました。「夏だって、冬だって、春だって、秋だって、いつもたのしいことがあります。ああ、わたしたちは、なんてたのしいことでしょう!」大人とは違うなー。ぼくだって、子どものときはこういうこといっぱいしたんだ。干草に寝たりね。なんとか、子どもたちにこういう世界をとりもどしてあげたいと思いましたね。

オカリナ:そうそう、クリスマスの場面でも「わたしは、たのしいクリスマスがむかえられると、ちゃんと自信がありました」って、子どもが言ってるのね。大人にしっかりと守られてるからなんだろうけど、子どもが安心して楽しんでいる感じが伝わってきますね。

オイラ:ぼくはね、大人に読ませたいと思いましたね。

愁童:今日の3冊のうち、『やかまし村』を最後に読んで、ほっとしましたね。ほかの2冊には、世代の相違を感じてたから、大塚勇三さんの訳でホッとしたんですよね。リンドグレーンの目線にもね。『ふくろ小路』なんかは、理論が先に立ってるんだよね。それに比べて、『やかまし村』は、子どもと同じ高さの目線で素直に書いてるって感じがしたね。戦後2年目に書かれてるんだけど、向こうでは子どもの位置がきちっと認識されてたんだね。オイラさんといっしょで、女の子が部屋をもらうなんてとこも感動的。あの年代で自分の部屋をもらうというのはこういうことなんだよね。

モモンガ:こんな訳文って、そうないんじゃないかな。むしろ私はそれが好き。「つまり、こうなんです」「なんてたのしいことでしょう」というような、独特の訳文。一つ一つの文が短くて、子どもの思考に合っていて。

オカリナ:でも、「〜しちまいます」なんていうところは、時代がかってるかな。

:モモンガさんが『ピッピ』より『やかまし村』が好きっていうのは、どうして?

モモンガ:なにしろ好きでくりかえし読んだのよ。私は冒険小説というよりも、子どものこまこました、ちまちました世界の喜びがかかれてるところに、ひかれたの。見開きの絵のなかに、3軒の家が並んでいて、ここでの毎日の暮らしが描かれる。そしてこの本も、子どものかわいらしさがたっぷり味わえる。子どもだけの、子どもらしい世界がある。この本って、私が子どもの本に関わろうと思った原点かもしれない。リンドグレーンは、まさにこの物語と同じような子ども時代を過ごしてて、その頃のことをこと細かに記憶してるんだって。彼女の言葉に、こんなのがあるので読みますね。「二つのことが、わたしたちきょうだいの子ども時代を幸福なものにしました。安心と自由です。おたがいに愛し合う親がいつもいるということは、わたしたちにとっては安心を意味するものでした。必要なときにはいつでもいてくれるけれども、かれらは危険を伴わないかぎり、わたしたちが自由に幸福にまわりのすばらしい自然の遊び場を巡り歩くのを許してくれました。もちろんわたしたちは時代の伝統として体罰を受けたり、母の厳しいしつけを受けましたが、遊びに関しては自由で、監視を受けることはありませんでした。そして、わたしたちは、遊んで遊んで遊びました。『遊び死に』しなかったのが不思議なくらいでした。」(『アストリッド・リンドグレーン』三瓶恵子著 岩波書店より)

オイラ:さっきの『ふくろ小路』の方は、灰谷健次郎さんの視線に似たものを感じない?

一同:あー、そういえば。

愁童:話は戻るけど、『ふくろ小路』のなかで、奨学金もらって農業やりたいっていうところあるじゃない。あそこで、奨学金もらって農業? ってひっかかったんだよね。こんなちっちゃい子が、農業やりたいっていうのは子どもの発想じゃないんじゃないかな。

ウォンバット:単に、街の子だから、そういう暮らしに憧れてるのかと思ってた。

愁童:普通なら、勉強してもっと物質的に楽な生活をしたいっていうのが当時の考え方なんじゃないかな。

オカリナ:この時代って、化学肥料とか農業機械の研究なんかが進んで、新しい近代農業に希望が持てたんじゃないのかな? 『やかまし村』と同じように、アーサー・ランサムなんかも、遊んで遊んでっていう子どもを書いてますよね。でも、『やかまし村』も『ツバメ号とアマゾン号』も、登場する家庭はお手伝いさんがいるような余裕のある家庭で、だからこそ子どもは幸せを確信できるし、子どもらしい子ども時代が保証されてたのかもしれない。『ふくろ小路』と単純に比較することはできないと思うのね。それに、私は『ふくろ小路』についても、子どもの目線に立って描かれていると思ったけどな。

愁童:日本では童心主義っていうのがはびこった時期があって、そんなとき『ふくろ小路』みたいのが登場したもんだから、これこそ児童文学だってもてはやされたんですよね。少なくとも大人の側には、労働者の生活に光を当てるっていう意識があったのは確か。

:宮崎駿さんが「今の時代、遊びが欠落していて、想像力がなくなると言われてるけど、そうじゃないんじゃないか」って言ってるんですね。彼の作品のなかには、飛ぶシーンが多く出てきます。宮崎さんがめざしているのは「身体性の回復」なんですって。『やかまし村』にも、それに通じるところがあるんじゃないかな。

愁童:『千と千尋の神隠し』に、たとえば階段をのぼる子どもが出てくるんだけど、1段目を右足で2段目を左足っていうんじゃなくて、右足を1段目においたら左足もその同じ段にまず置き、それからまた右足を2段目にかけるっていう姿を、宮崎駿はちゃんと描いてるんだよね。あの映画見て、今の児童文学の作家が失ってしまった身体的リアリティが、ここにはあるなと思ったね。たとえば今のゲームなんて、どんな高い階段でも、昇るのも降りるのもとんとんとんってすましちゃう。児童文学も、それに近くなって「身体性」が消えちゃってるんだよな。

(2001年09月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


点子ちゃんとアントン

エーリヒ・ケストナー『点子ちゃんとアントン』
『点子ちゃんとアントン』
原題:PUNCTCHEN UND ANTON by Erich Kastner, 1929(ドイツ)
エーリヒ・ケストナー/作 高橋健二 or 池田香代子/訳
岩波書店 
1955

<版元語録>お金持ちの両親の目を盗んで,夜おそく街角でマッチ売りをするおちゃめな点子ちゃんと,おかあさん思いの貧しいアントン少年.それぞれ悩みをかかえながら,大人たちと鋭く対決します―つぎつぎと思いがけない展開で,ケストナーがすべての人たちをあたたかく描きながらユーモラスに人生を語る物語.

:ケストナーは、大人と子どもを対等に描こうとしているし、時をこえるものをかならず描いていくという点では評価はしてるんだけど、私は感覚的にどうも合わないんですね。

トチ:ケストナーは子どものときにいちばん好きな作家だったから、きちんと批評できないかもしれないけれど・・・現代のものと比べて、文学の形としては古いかもしれないけれど、作家の立っている位置に現代的なものを感じたわ。お母さんの誕生日のエピソード、子どものときはアントンがかわいそうと思ったけれど、大人になった今読んでみて、お母さんの気持ちに共感できるものがあって、新鮮な感じがしました。訳については、高橋訳が頭にこびりついているために、池田訳はなんだか饒舌な感じね。良い悪いは別にして、初めて読んだ訳でその本のイメージができてしまうってこと、よくあるわよね。

モモンガ:子どもの頃に読んだときは、ケストナーの作品って独特な雰囲気を感じてた。著者が、私は君たちの味方だよって顔を出すところが、ほかの本とは違う感じを受けたの。好きで端から読んだわけでもないんだけど、楽しく読んだ。後になって、ケストナーがマザコンといわれるほど、お母さんとの結びつきが強くって、母と息子の緊密な関係があったということを知ると、なるほどと思ったりして。あと、「点子ちゃん」っていう名前の訳がすばらしいと思うのよねー。これ以外には考えられない! 日本でもロングセラーになってる秘密のひとつだと思う。

愁童:ぼくにはね、ケストナーっていうのは、なんとなくへへーっとひれ伏さなければならない存在に思えちゃうんだよな。大人が顔を出すのは、嫌だな。著者の声を出すんじゃなくて、作品のなかで勝負しろよと思っちゃうんだよね。映画の方観ちゃったら、これ読む子いないんじゃないかな。以上!

オイラ:高橋訳もいいじゃない。ケストナーの力で読ませるんだろうけど。彼は、子どもの本の書き手として何が大事かときかれて、子どもの頃のことをどれだけ覚えてるかだと明言している。核心をついていると思ったし、ディテールが豊かに描かれてるから、読んでて子ども時代の感覚を思い出すところがいっぱいあった。

コナン:あたりまえのことをあたりまえに書いてる感じですけど、子どもの頃を思い出しました。最近、入社2年目で、子どもの頃を思い出すという機会が増えましたね。

ウォンバット:やっぱりケストナーって大きな存在で、今新しいものを読むときにも一つの基準になっている作家だと思うんですけど、私も愁童さんと同じで、作者がいちいち顔を出すのが、ちょっとね・・・。押しつけがましくて嫌。点子ちゃんのキャラクターも好きだし、お話はおもしろくて物語部分はとってもいいんだけど。点子ちゃんと楽しくやってるところにおじさんが出てくると、さーっとさめちゃう。じゃまされたって感じ。「もうおじちゃん、勝手に近寄ってこないでー」と言いたい。そもそも前書きもきらいだった。

オイラ:その部分、ぼくはユーモラスに感じたの。

こだま:大人の書き手が登場すると、子どもの読者が安心するってことはあるわよね。

オカリナ:そうかな?

モモンガ:私は、作られたお話を大人が楽しませてくるって感じがしたな。

愁童:作られたお話ってわりには、点子ちゃんのキャラクターはよく書けてるよね。

オカリナ:私は子どものときに読んで、自分が点子ちゃんみたいな子じゃなかったから違和感を感じたの。この子って、饒舌でおせっかいでしょ。リアリズムの話って、自分と違うタイプの強烈な個性の子が主人公だと入っていけない場合があるじゃない。それに、高橋訳だとユーモアが感じられなくて、おもしろくなかった。歯を抜くときに犬が動いてくれないなんていうエピソードは楽しかったんだけどね。おじさん(ケストナー)が顔を出すところは、うるさいなって思ったわね。アントンがお母さんの誕生日を忘れてて自責の念に駆られるとこなんか、私はアントンがかわいそうでたまらないのに、ケストナーは「考えなしに逃げだして、お母さんをおいてきぼりにするのは感心しない」とか「人間は分別を失ってはいけない。耐えしのばなければならない」なんて、最後に付け加えてる。ヤな感じ。おまけに、登場人物の中でどの人がいい人間で、どの人が感心しないかってことまで、作者が顔を出して言っている。それに、『ふくろ小路』を同時に読んだから階級っていうのを考えちゃったんだけど、階級の低い女中の「でぶのベルタ」なんか、「てんでだめな人だけどがんばりました」っていう書き方よね。それに、貧しいアントンとお母さんは最後には点子ちゃんの家に丸抱えになるんだけど、「この結末は正当で幸福です」ってケストナーは断定してるのよ! 思春期前の男女二人の子どもの友情っていう部分は、じょうずに描かれてるけどね。
映画は、今の時代に合うようにシチュエーションを変えてましたね。映画と原作の違いは、(1)原作ではアントンと点子ちゃんの通う学校は別で、点子ちゃんは私立の女子校に行ってて、自家用車で送り迎えされてる。映画では二人は同じ学校に通っていて、同じことを見聞きしている。(2)点子ちゃんのお母さんは、原作では専業主婦だけれど、映画では第三世界の子どもたちを援助するボランティア団体の役員。(3)点子ちゃんの家庭教師は、原作では悪漢の婚約者を持ったドイツ人だけれど、映画ではフランス人で、悪漢の婚約者はイタリア人のウェイター。(3)原作では家庭教師が点子ちゃんに乞食の真似をさせるけど、映画では家庭教師がイタリア人と遊んでいる間に、点子ちゃんが一人で地下鉄の駅で歌をうたってお金をかせごうとする。(4)アントンのお母さんは、原作では派出婦だけれど映画では元サーカス団員で今はウェイトレス。(5)アントンの家では、原作ではお母さんの誕生日を忘れてたことがきっかけだけど、映画ではお父さんを捜しにいく。(6)いじめっ子は、原作では点子ちゃんの家の門番の子だけど、映画では点子ちゃんやアントンと同じクラスの子。(7)結末は、原作ではアントンのお母さんが点子ちゃんの家の使用人になるけど、映画では点子ちゃんのお母さんが失礼な態度をわびてアントンのお母さんと友だちになる。
訳に関しては、高橋さんのは「よござんすか」とか「大いにおもうしろうござんしたね」なんていう部分が古いし、全体に堅い感じで、私は好きになれないな。新しい訳にしてよかったと思う。

オイラ:高橋訳にも、池田訳にも同じ雰囲気があるのは、ケストナーの文体が軽快なせいだよね、きっと。

愁童:アントンがお母さんの誕生日を忘れてて家出するってとこは、どうも腑に落ちないな。

オカリナ:アントンとお母さんが再会したときの喜びようを見た点子ちゃんが、自分の家庭と引き比べてさびしい思いをするっていうところ、映画ではとても重要な場面だったけど、原作では書かれてないのよね。

:私は点子ちゃんに魅力を感じたんですよね。私は子どものとき、普通にしなさいとか、ちゃんとしなさいって、しょっちゅう大人に言われたんだけど、どういうのが普通なのかよくわからなくて、コンプレックスになってたんです。大人になっても、普通にしなくちゃ、ってずっと思ってて。でも、この本読んだら、点子ちゃんて私と同じじゃないですか。なんだ、私だってあれでよかったんじゃないかって、はじめて思えたんですよ。で、自分の言葉でしゃべれるようになった。そういう意味でも、『点子ちゃん』はすごく好き。

スズキ:映画を見にいったら、子どもたちがすごくかわいかったんで、これは読まなくちゃと思ったんです。実際読んでみたら、アントンが誕生日さわぎで家出しちゃうところが、思ってたアントンと違う。もう少し天真爛漫でもいいのにって思いました。原作では、アントンがあまりにもいい子の見本みたいで、鼻についたんです。点子ちゃんにはキャラクターとしての魅力がありました。名作は敬遠してたけど、ケストナーは思ったより気軽に読めたという感じです。

紙魚:幼稚園の本棚にあったんですよね。いちばん上の左端に石井桃子さんの『ノンちゃん雲にのる』と並んで。棚の低い方には、園児でも読める絵本があって、年齢があがるにつれて徐々に上の方の棚に手を伸ばしていくんです。だから、『点子ちゃん』を読むっていうのは、私の憧れでもあったんですよね。象徴的な本でした。読んでみたらおもしろいんだけど、ケストナーが、時々口をはさんでくるところは、じつは読みとばしていました。子どものときって、物語の部分とそうじゃない部分を交互に読むのって、苦手でした。注を読むのだって、リズムがくるってだめだったくらい。

オイラ:ぼくはユーモアを感じて、ああ、ケストナーおじさん、はいはいって感じで読めたけどな。

オカリナ:19世紀だったら、子どもの本に教訓臭っていうのもわかるけど。20世紀なんだからさ。

モモンガ:教訓臭っていうより、ユーモアなのよ。

(2001年09月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)