日付 2007年2月22日
参加者 愁童、ねず、ミッケ、ウグイス、うさこ、サンシャイン、アカシア
テーマ 動物プラス天狗

読んだ本:

『ウサギが丘のきびしい冬 』
ロバート・ローソン/著 三原泉/訳   あすなろ書房   2006.2
THE TOUGH WINTER by Robert Lawson, 1954
オビ語録:きびしい冬になると聞かされても/子ウサギのジョージは、初めてのことにわくわく!/しかし、おそろしい寒さは、もうすぐそこまで迫っていたのです……。/たくましく生きる動物たちを/あたたかく描いた動物物語の傑作!


『シルバーウイング〜銀翼のコウモリ1 』
ケネス・オッペル/著 嶋田水子/訳   小学館   2004.11
SILVERWING by Kenneth Oppel, 1997
オビ語録:世界14か国で翻訳された心が元気になる動物ファンタジー/「禁断の太陽が見たい!」/小さな翼でコウモリのシェードは冒険の旅へと飛び立った


『本朝奇談 天狗童子 』
佐藤さとる/著 村上豊/絵   あかね書房   2006,06

版元語録:九郎丸というカラス天狗の数奇な運命が、細やかな筆致で描かれ、不思議な展開に息をのむ、壮大な歴史ファンタジー。ファン待望の新作。


『ウサギが丘のきびしい冬』

ロバート・ローソン/著 三原泉/訳
あすなろ書房
2006.2

愁童:おもしろいんだけど、擬人化が過ぎるんで、子どもの読者は読んでいるうちに人間の話だかウサギの話なのか、こんがらかって来ちゃうんじゃないかな。だいぶ昔に評価が高かった『ウォーターシップダウンのウサギたち』(リチャード・アダムズ著 神宮輝夫訳 評論社)と比べると作者の姿勢が対照的ですね。『ウォーターシップダウン〜』の方は、自然の中で生きる野生のウサギの生態に感情移入して読めるように書かれているけど、こっちはウサギがベッドでふとんかぶって寝てるわけだから、そんなに寒けりゃ、ストーブかエアコンで暖房すれば? なんて思う子もいるんじゃないかな。

みんな口々に:これって、原著が出たのが昔なんですよねえ……1954年ですもん。

ミッケ:この作者は、『はなのすきなうし』の画家で、『はなのすきなうし』が大好きだった人間としては、かなりわくわくして読みはじめたのですが、なんというか、さすがに時代がかっているなあ、という感じでした。いかにも、『ウォーターシップダウン〜』なんかが出てくる前の作品、という感じ。でも一方で、こののんびりした感じはいいなあ、と思わないでもない。こういうのんびりした感じは、今の作品には決してないから。お話としては特にぐっとくるところがあるわけではなかったけれど、訳はとても滑らかで、よく工夫してあると思いました。それから、後ろの方で主人公のおじさんにあたるウサギが、お父さんウサギがしょっちゅう吹聴している遙か遠くのグリーングラスという地方にあこがれて、そこに行ったつもりになって戻ってくるんだけれど、じつはちょっと下の庭師の家までいっただけだった、という作りは、とてもおもしろかった。愁童さんがおっしゃったように、ひじょうに擬人化されていて、たとえば、野ネズミが冬が厳しくなって大挙して移住していくところなんかは、シネスコの黄色みがかった西部劇の映画を観ているような感じでした。あと、ちょっと説教くさいところもありますね。

ねず:たしかに古めかしい本ではあるけれど、わたしはそれなりに楽しく読みました。良くも悪くも、この物語の特徴は擬人化された動物の世界と、リアルな人間の世界の両方を並行して書いていることですよね。前に取り上げた『天才コオロギ ニューヨークへ』(ジョージ・セルデン著 吉田新一訳 あすなろ書房)もそうでしたが、人間の世界と動物の世界を切り替えるときのテクニックがうまいと思いました。そのふたつの世界の間に位置しているのが、ペットである犬と猫で、これは全然しゃべってもいない。どっちつかずの、アホみたいな、かわいそうな位置にいるというのもおもしろいと思いました。だいたい、どうして子どもって動物を擬人化した物語をすんなりと受け入れるんでしょうね? 研究している方もいるかもしれないけれど、いつも不思議に思います。この物語のクリスマスの場面、アメリカにいるウサギはみんなクリスチャンなの?などと突っ込みたくもなりますが、光と食べ物がふんだんにあふれたこういう場面を読むと、小さい子どもたちはとっても幸せな気分になれるのでは?

アカシア:私はこの作品はもの足りませんでした。動物を擬人化すること自体はいいんですが、この作品は擬人化の度合いが一つの作品の中で統一されてないんですね。たとえばp.47では、ウサギのアナルダスおじさんが、ネコを助けられないかと母さんウサギに持ちかけられて、「自然のおきてに反しておる。そうだろう? いつからネズミとウサギが、ネコをたすけるようになったのだ? (中略)そうだ、わしは自然のおきてに反するようなまねは、したくない」と言うんですが、その一方ではウサギとキツネが仲良く話したり、キツネがたくわえている七面鳥の肉をノネズミが取りにいったりする。p.16-17の文章と絵にしても、父さんウサギはステッキをついて丘をのぼってくるのですが、ジョージーぼうやは擬人化されずにぴょんぴょんはねています。どうもご都合主義な感じがして、いただけません。また、この作品には物語の核がないんですね。ドラマティックな山がない。大人が昔風ののんびりした物語をなつかしむにはいいかもしれないけど、子どもにとってはわくわく感が足りないと思います。
良かったのは装丁(桂川潤さん)と、翻訳です。読みたいという気持ちにさせる美しい装丁だし、翻訳は、たくさん登場するキャラクターの特徴をうまくつかんで会話などの口調も訳し分けていますね。おかげで原文よりおもしろく読めるのではないでしょうか。
ああ、それから、野生の動物たちが人間に依存して暮らしているという設定も、私は嫌でした。

愁童:そうなんだよね、そのとおり!

ミッケ:いってみれば、人間に餌付けされてるんですよね。

愁童:動物のリアリティが感じられないよね。今は学校でウサギの飼育係なんてのをやってる子もいるから、そんな子は、ウサギは水が苦手なのを良く知っているし、p.54あたりの話や挿絵なんか見ると、「ありえなーい!!」ってなことになるんじゃないかな。

ウグイス:わたしは、動物の擬人化物語はとても好きなんです。この作品は、1950年代に書かれていることと、アメリカのコネティカットの田舎を舞台にしている、というのがポイントですよね。農場で暮らす子どもにとっては、いつも目にするなじみの小動物が、自分たちの知らないところで実はこういう暮らしをしているのか、と想像する楽しさがあると思うんです。そして、ユーモアも50年代らしく、大変おだやかで、ゆるやか。この時代ならではの良さが感じられるけど、今の子には退屈かもしれない。一見読みやすいけれど、物足りないでしょうね。装丁がすてきで、面白そうだなと思って期待したんだけれど、その割には、引き込まれるというところまではいかなかったわね。物語の核がないという意見に私も同感です。作家が身近な動物に愛情を注いで、楽しみながら作ったという感じ。

ねず:読み聞かせに使ったらどうかしら。

一同:う〜ん、どうかなあ。

愁童:日本にだって、野生のウサギを身近に見ながら生活している地方の子がいるわけで、そういう子にとっては、ウサギが籠に食べ物を入れて持ち歩く描写なんか読まされるとシラケるんじゃないかな?

ウグイス:動物が人間のように描かれているのはいいと思うの。そこがおもしろいんだから。

アカシア:作者は動物の生態を伝えるためにこれを書いたわけじゃないし、擬人化そのものが問題なんじゃないのよ。子どもは、擬人化されている動物物語は、そういうものとしてちゃんと理解するからね。ただ、一つの物語の中での世界の構築の仕方に揺らぎがあるから、まごついちゃう。

ウグイス:動物が、子どもには見えないところで実は人間くさいっていう、そこの齟齬がおもしろいんだと思う。

ねず:人間と動物の見ている物が違っている、そのずれのおもしろさがユーモアになっているのよね。でも、『天才コオロギ ニューヨークへ』では、人間も動物もそれぞれが、それなりに外側の厳しい世界にさらされていたけれど、この物語の動物は囲われているからね。

アカシア:50年前と違って今は自然が失われてしまったから、これよりは『ウォーターシップダウン』を勧めたいっていう愁童さんの気持ちは、私もよくわかります。今の子どもにまずこれを手渡したいという気持ちにはなれない。

愁童:お話はとても可愛らしいとは思うけど、この本からは、自然に対する畏敬とか、自分とは異なる生き方をするものに対する冷静な観察眼や思いやりは育ちにくいんと思うんだよね。

ねず、ウグイス:人間が動物のパトロン的なのよね。

うさこ:動物ファンタジーの難しさを感じました。内容としてはおもしろい。でも、人間はふつうで、動物の方だけファンタジーというのが中途半端な感じで。ぎくしゃくしてる。ファンタジーとしての枠が確立されていないから、混乱するんですよね。人間世界と動物世界に距離があるのはわかるけれど、物語世界として練れていない。ウサギの世界の中でも矛盾があって、ファンタジーと生態がごちゃごちゃ。たとえば、p.171の絵なんて、ジョージやノネズミはリアルな姿なのに、おじさんとお父さんは足を組んで肘掛け椅子にすわったり、パイプをくゆらしたりしてファンタジーの世界に入ってる。p.40-41もそう。一枚の絵の中にリアルな要素とファンタジーの要素が同居すると、え?という感じになります。絵もお話もかわいいけど。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年2月の記録)


『シルバーウイング〜銀翼のコウモリ1』

ケネス・オッペル/著 嶋田水子/訳
小学館
2004.11

ミッケ:コウモリが主人公だなんて、おもしろいなあと思って読み始めたんですが……。たまたまちょっと前にコウモリのエコーロケーションシステムについての科学の本を読んだりしていたので、その影響でちょっと乗れなかった部分があります。というのは、エコーロケーションシステムというのは、音波を送ってその跳ね返りで物体までの距離を判断するから、実は裏側がどうなっているかはわからない、前面しかわからないはずなんですよね。だから、人間が見ている世界とはかなり見え方が違うはずなんじゃないかと思うんです。ちょっとシュールな感じかな。この本ではその感じがあまりなくて、ちょっといい加減だなあ、と思ったんです。そう思っちゃったもんだから、その後もなんかいまいち乗れない部分があって……。歌なんかをじょうずに使っていることや、空を飛んでいるときの描写なんかは、うまいなあと思う部分もあるんだけれど、全体としては、ふーん、なるほど、なるほど、という感じでした。動物と鳥の戦争の間で……というのは、ヨーロッパではイソップなんかでおなじみだから、なるほどそれをうまく使っているのね、というふうに、ちょっと引いた感じで読んじゃった。あと、今回読んだ3冊の中では、いちばん日本語に引っかかりました。「彼」とか「彼女」とか、もうやめてくれ〜という感じ。それも、この物語に乗れなかった大きな原因だと思う。

アカシア:空を飛ぶ部分はとてもうまく書けてるし、ストーリーラインの作り方も、あちこちに謎を置いていくなど、うまい。でも、作品世界には私も入り込めなかったんです。その理由の一つは、主人公のシェードが、ひとりよがりだったり、優越感にひたってばかりいたり、戦争好きだったりして、共感のもてるキャラじゃないという点。これは原文の問題ではなく、欠点があっても魅力的な主人公に訳し切れていないという訳の問題かもしれませんが。
もう一つは、物語の作り方がいい加減な点。たとえば、「こだまの洞」というのがあって、そこには何百年も前から代々の長老が歌った歴史が半永久的にこだましていて、洞の中に入るとそれが聞こえてくるという設定です。シェードとフリーダはそのこだまを聞くわけですけど、洞の中で二匹でべらべらべらべら会話している。すると、当然そこでしゃべった言葉も半永久的にこだまして、大事な歴史の邪魔をすることになるはずでしょう? こんないい加減な物語でいいんですか!! まじめに読んでたら、馬鹿みたいです。途中でほかの銀翼コウモリに会っても、仲間の群れを捜しているはずのシェードが話しかけさえしないのも不自然です。
それから、三つ目は訳の問題。たとえばp.11に「シェードがはじめて飛び上がり、翼をばたばたさせて空中に浮かんだあと、ぶざまに墜落したときは、群れのだれもがおどろいたものだ。これならだいじょうぶ、生きていけるだろう。」とありますが、どういう意味? p.119の終わりの方ではシェードとマリーナが笑ってますが、なぜおかしいかが伝わらない。19章に出てくるプリンスとレムスは同一キャラですが、すぐにはわからない、などなど、ひっかかるところがずいぶんありました。私は、単に情報やストーリーラインを伝えるだけでなく、味わいとか余韻も本の要素としてほしいと思っているので、それまで伝えるように訳してほしいです。

ウグイス:細かいことは気にしなかったので、どんどん読めて私はとてもおもしろかった。コウモリに興味があるせいもあるけど、コウモリになって飛んでいる気持ちになれて楽しかったんです。1章ずつが短く、必ずその章で何かおこり、章末に、次へつながる文章があって、先を読まずにはいられなくなる。長い物語を読みなれない子どもでもひっぱっていく力があるんじゃないかな。単純にひっぱられて楽しく読みました。いろんなコウモリの特徴もおもしろかったし、ものを見る方法も、食べるものも興味深い。科学的に正しいかといえば、違う種類が恋人同士になるというのはおかしいけれど。コウモリは、不思議な生き物。ありきたりの動物でないものの世界を見せてくれる作品としてもおもしろい。シェードのキャラクターに感情移入できないという意見がありましたが、これは3巻ものなので、1巻だけでは中途半端だということがあると思います。3巻目はシェードの息子が主人公になって、1巻目で語られなかった部分も明かされていくんです。

愁童:おもしろく読んだ。コウモリの生活環境によって行動様式や主たる食物が異なっていて、それらが物語に登場する個体のキャラクターや体の大きさに影響していることを、さりげなく書いていて、説得力があると思ったな。主人公のコウモリがカブトムシを捕らえて食べるところの描写なんか、微妙な感覚までうまく表現されていて、好感を持って読みました。母コウモリから地図を伝達されているという設定も、超音波を使うコウモリの生態の説明がきちんとされているので読み手は想像力を刺激されて、コウモリの情報伝達手段に神秘的な魅力を抱かされてしまったりして、うまいなと思った。

サンシャイン:キャラクターの名前ですが、バテシバとか、レムス・ロムルスとか、何かを思い出させる名前です。バテシバは旧約聖書のダビデと関わった人。レムス・ロムルスはローマ建国の時に登場します。綴りが一緒なら、西洋の人は何か一定のイメージを思い浮かべるんでしょうか。

愁童:輪をはめているコウモリが、次は人間になれるというところは、人間中心主義的な感じで、ちょっぴり引っかかったですね。

ミッケ:それは、輪をはめているコウモリをほかのコウモリが仲間はずれにする、仲間はずれにされると、どうしても同類同士が集まって、選民思想で自分たちを支えるしかなくなるということで、リアリティがあるというか、納得できると思いますけど。

サンシャイン:コウモリは太陽を見てはいけないという戒律があって、フクロウがそれを厳しく監視している。主人公はそれに反発して、自由な世の中、広い世界を求めるけど、多くのコウモリにはもうそれを打ち破っていこうという意欲もないーーこういう話の作り方はおもしろいなと思いました。

愁童:母コウモリから伝達されている地図の情景で、実際にオオカミの耳のような山の間を飛ぶシーンなんか、うまいなぁと思いました。

アカシア:空を飛ぶ話は、この会でもいろいろ読みましたが、その中ではこの作品がいちばんうまく書けているようには思ったんです。でもね、ファンタジー世界の中のリアリティがお粗末なのが嫌だったんです。

愁童:同感。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年2月の記録)


『本朝奇談 天狗童子』

佐藤さとる/著 村上豊/絵
あかね書房
2006,06

うさこ:わりと厚みのある本だったけど、どうなるのどうなるのと先が気になり、つるつると読めました。特におもしろかったのは、作者のこだわりが見える、天狗の世界観。しきたり、階級、ルール、食事、術、住まいなどがきちんと構築してあったところ。九郎丸の脱いだカラス簑の様子とか、与平がカラス簑を焼くところとか、大天狗がヒョウタンの中にとじこめてしまった庭とか、縮地法とかは、とてもおもしろくて好きな部分でした。
でも、物語としては完成度が低いのかな、というのが読み終わったあとの感想です。途中はおもしろいのだけど、読み終わってみると、わりと平面的な物語というのかな、山あり谷あり、敵あり、迷いあり、悲しさ辛さ、喜び、達成感などはあまりなく、山場がなかったなあという印象です。完成度が低いと思った理由をあげると……与平が九郎丸に笛をしこむように頼まれて、天狗からあずけられることから物語は始まるのに、最後、笛の修業の件はうやむや。与平が九郎丸を人間に戻してやりたいというところや、九郎丸が本当の父親に会ったところも、九郎丸の気持ちはつかみにくかった。与平は大天狗との約束で、九郎丸を人間に戻す代わりに身元請負人になったけど、本当の父に会わせるまでで、最後は寺男となって、光明寺や円覚寺を行ったり来たりするだけ。与平の九郎丸に対する思いも伝わってこない。
与平、九郎丸、大天狗など、登場人物の外見や様子は書いてあるのだけど、気持ちや心の内のことはあまり書かれていないので、いまひとつ伝ってくるものが弱かったと思います。また、出てくる人物は、九郎丸にとって敵らしい敵はいなくて、一様にみな親切で好意的。ちょっと都合よすぎかなとも思いました。気になったのは、光明寺の高円坊=乱波(忍者)。忍びの者として伊勢方から光明寺に入っていたのに、あっさり身元をあかし、忍んでいたところの者たちと仲良くなり、忍者なのにと、ちょっと疑問でした。しかも、西安さまにほれこんで、こちら側に寝返るとかなんとかいっていたのに、結局、九郎丸の世話役を引き受け、従者のようなことをした、という終わり方で、登場人物のなかで一番芯の通っていない人物のように感じました。天狗と人との「因縁で結ばれる」というところ、もっと随所でこれがキーになるのかな、と思ったけど、そうでもなかった。結末は、歴史的な解説でばたばたと後片付けするように終わったなあ、と思いました。

アカシア:天狗の世界のあれこれは、とてもおもしろかったんですが、部分的におもしろいところがあっても……。連載の限界があるなと思いました。
まず物語の焦点がどこなのかわかりにくい。天狗が人間に笛を習いにくるというのはおもしろいので、ちゃんと習得できるのかと興味をもつのですが、いつのまにかそれはどうでもよくなる。与平が天狗に戻るための蓑を火にくべてしまい、命をかけて九郎丸を天狗から取り戻す決意なのだと思っていると、そうでもない。大天狗は九郎丸に与平の命を取りに行けと言うだけは言いますが、その日にはもう護法天狗が与平をさらってしまいますからね。九郎丸が父親と対面できるかどうかが山場かと思うと、父親は「おお、達者で暮らせ」というだけでまたすぐ別れてしまう。
つまり、読者は次から次へと肩すかしを食らわされていくんです。物語がどこで焦点を結ぶのか、それがあいまいなせいでしょう。それに、与平は九郎丸を天狗の手から取り戻したいと思っているけれど、九郎丸は天狗のままでいたいと強く思っている。それなのに九郎丸は、与平の意志を大天狗に伝えるという設定にもリアリティがありません。『だれも知らない小さな国』が好きだった私にとっては、ひどく物足りない本でした。

ねず:やっぱりうまいなあ……とまず最初に思いました。天狗の世界が生き生きと描かれていて、おしまいまでわくわくしながら読みました。けっきょく、佐藤さんの書きたかったのは、天狗の世界だけだったのでは? 私としては、こんなにおもしろい世界を見せてもらったので、それだけで十分という気持ちもするけれど、やっぱりこの世界のなかで繰り広げられる物語も読みたかった。でも、作者はもうお年なので、作品のなかの子どもたちが悲しい目や苦しい目にあうのが嫌だったんじゃないかしら? それでさらっと書き流してあるのでは? 出てくる大人たちもいい人ばかりだしね。
いちばん疑問として残ったのは、なぜ与平が九郎丸を人間に戻してやりたいと思ったのかということ。私くらいの年代だと、妖怪はかわいそうで、人間のほうがずっといいとすんなり思うのだけど、今の子どもたちは「人間より空を飛べる天狗のほうがずっといいじゃん!」と思うのでは? そのへんの作者の心のうちの説明があったほうがよかったのではと思います。

ミッケ:多少なりとも自分の知っているあたりが登場する作品の楽しみというのは、日本の物にはあるから、そういう意味でおもしろかったです。鎌倉なんかは、鎌倉幕府のすぐ後からだーっと一気に寂れていって、明治になってようやく違う角度から注目されるようになり、今ではそれなりに人気があるわけだけど、そういう寂れかかった時代の鎌倉を登場させているのも、リアルだと思いました。それに、天狗の世界もよく書けていたし。日本に昔からある豊かな世界を感じさせるし、古い時代の雰囲気がとてもよく出ていて。
ただ、そういう古い時代って、近代自我とは無縁で、庶民とは関係のないところで世の中が動いていくし、偉い人でも城をとったりとられたり、というかなり単純な構造なものだから、そのままだと、今にアピールする葛藤とかがなくて物語にならない。そういう意味で、食い足りない感じになったんだと思います。半分天狗になった九郎丸も、お父さんに一度は会うけれど、すぐにさようならとなるのは、当時だったらそうなのだろうし、与平が本人の意向も考えずに九郎丸は天狗よりも人間になったほうがいいんだ、と考えて行動に出ちゃうあたりも、当時の人らしいんだけれど、今の人間からするとなんか物足りない。とってもよく調べてあって豊かな舞台なんだけれど、そこで展開されるお話はあんまり迫力がない。天狗の館の話だとか、あと、九郎丸が半分焼けた天狗簑で大山に飛んでいく道中なんかは、ほんとうにわくわくしましたけれど。残念。

愁童:安心して読めました。日本では天狗という存在が昔から語り継がれてきているので、今の子にあらためてこんなお話を読んでもらうのは意味があることだな、なんて思いました。ただ、天狗は、今の子にとって昔ほど身近な存在ではないので、この題名だとちょっと手にとって貰いにくいんじゃないかな、なんて余計な事を考えてしまいました。

ウグイス:この読書会のための選書は、日本の作品を何にするかでいつも悩みます。天狗は動物ではないけれど、人間以外のものということで他の2冊と一緒に読んでもいいかなと思い、選びました。
まず日本語がわかりやすく、目に見えるように書かれています。日本の文化をきちんとした日本のことばで伝えるこのような作品を大事にしたいと思いました。会話にもリアリティがあり、特にせりふとせりふの間に、「〜と言いました」だけではなく、「身を乗り出して」「わらいたいのを我慢して」「まるで子どもをさとすように」というような文章をはさんで、状況が目に見えるようにしている。ユーモアのある書き方もいいですね。げらげら笑うということではなく、思わずくすっと笑いたくなるユーモアがちりばめられています。確かにストーリーのつめは甘いと思います。連載だったから、という難点もあります。
でも私がこの本で一番いいなと思ったのは、子どもを見るまなざしが温かい、ということです。それは、与平が九郎丸を見る目に一番現れているのですが、それは作者の思いでもあると思います。最近の日本の児童文学は、苦しい状況にある迷える子どもをこれでもかこれでもかと書く傾向にあるんですが、子ども本来がもつ純粋な部分を温かく見守る態度は、今の児童文学に欠けているかもしれないと思って、ほっとする感じがありました。愁童さんがおっしゃるように、この装丁や書名だと、子どもが自主的に手にとりにくいとは思います。

サンシャイン:楽しくは読めましたが、最後は話を締めくくるために無理矢理終わらせた感じです。篠笛は、日本で生まれた唯一の楽器らしいですよ。他の楽器はみんな、外国から来たものだとか。笛をきっかけにして人間と天狗の出会いがあるんですが、笛の話があまり出てこないんですね。結末で「篠笛のふき合わせを…」と書いてありますが、とってつけた印象です。本全体を貫く一貫性には欠けているかもしれない。それぞれの場面は楽しく読めたが、完成度は低いのではないでしょうか。

ねず:ひょうたんのなかに広がる世界とか、縮地法とか、とてもおもしろかった。子どもより、おじさん、おばさんの世代が好きな話なのかも。

愁童:今は天狗になじみのない子も多いから、そのおもしろさがわかるかなぁ。でも、九郎丸の天狗蓑の描写や手触り感などの表現はさすがだなって思ったですね。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年2月の記録)