日本児童図書出版協会で出している月刊誌「こどもの本」に、2017年の5月号から2018年の4月号まで「子どもの本に見る新しい家族」というタイトルで、従来型ではない多様な家族を描いた子どもの本について連載していました。もう一度手を入れてから自分のウェブサイトに掲載しようと思ったのですが、コロナ禍で資料が置いてある東京にも戻れず、手を入れる時間もないので、とりあえず誤植や舌足らずのところだけを訂正し、基本的にはそのままこちらに転載します。


子どもの本に見る新しい家族⑤

母子家庭のがんばるお母さん

 

ひとり親家庭を描いた作品も最近では多くなってきた。その中でも、今回は母子家庭が登場する作品を見てみたい。何度も操り返すようだが、私が読んでおもしろく心にも残った作品を取り上げる。

 

絵本の場合

『かあさんのいす』表紙コルデコット賞銀賛を受賞したアメリカの絵本『かあさんのいす』(原著 1982/ベラ・B.ウィリアムズ作・絵 佐野洋子訳 あかね書房 1984)では、祖母、母、娘(ローザ)の女3人家族が、大きなびんに小銭を貯めている。ウェイトレスとして働き疲れて帰って来る母親のために、すてきな椅子を買うための貯金である。一家がそれまで住んでいた家は家財ごと火事で丸焼けになってしまっている。とうとうお金が貯まると、3人はバラの模様がついたビロード地の椅子を見つけて買い、幸せと満足感にひたる。この絵本の母親には悲愴なところもなく、近所にもこの一家を応援しようという人々が大勢いるのが、心強い。

『かあさんのいす』続編表紙続編の『ほんとにほんとにほしいもの』(原著 1983/あかね書房 1998)では、ローザが自分の誕生日に、どれにしようかとさんざん迷ったあげく、びんに貯めたお金でアコーディオンを買ってもらう。シリーズ3作目の『うたいましょうおどりましょう』(原著 1984/あかね書房 1999)では、病気の祖母を励ますために、ローザが肌の色の様々な友だちと楽団をつくって演奏し、空っぽだったびんにまた演奏の謝金を入れることができる。『ほんとにほんとに〜』では、母と子で鏡を見て百面相ごっこをする場画もあるし、どの店でもいったん買うと決めたものを土壇場でやめるというローザに対して、母親はいらだったり怒ったりすることなく笑い出す。

シリーズの3作をとおして、この労働者階級の3人家族がどんなにお互いを愛し合っているか、毎日を楽しんでいるかが伝わってくる。ウィリアムズは、東欧からの移民の親から生まれ、子どもの時に父親不在の期間を体験し(刑務所に入れられていたのではないかと、後にウィリアムズは推測している)、自らも離婚しているが、そうした体験から生まれたこの3冊の絵本が明るくて楽しいのは印象的である。

 

ジャクリーン・ウッドソン『かあさんをまつふゆ』表紙(さくまゆみこ訳)

同じくコルデコット賞銀賞のアメリカの絵本『かあさんをまつふゆ』(原著 2004/ジャクリーン・ウッドソン文 E.B.ルイス絵 さくまゆみこ訳 光村教育図書 2009)にも祖母、母、娘の女3人家族が描かれているが、戦時中ということもあって絵もそう明るくはない。母親は娘のエイダ・ルースに確かな愛の言葉を残して、シカゴに出稼ぎに行く。エイダ・ルースは何度も手紙を送るが、母親からは手紙もお金も届かない。そんなとき、小さな迷い猫がやってきて家に住み着くことになり、この猫を媒介にして祖母と孫娘の気持ちの揺れや時間の経過が表現される。孫娘にとっては寂しい時間が流れるが、それだけではなく広い視野をもつ祖母から教わることもある。最後の場面には言葉がないが、確かな足取りで家に向かっている母親の後ろ姿が描かれている。

 

『アンナの赤いオーバー』表紙戦後のアメリカの母子家庭を描いた『アンナの赤いオーバー』(原著 1986/ハリエット・ジィーフェルト文 アニタ・ローベル絵 松川真弓訳 評論社 1990)では、母親が金時計やネックレスやティーポットなど大事なものを一つずつ代金がわりに手渡して、ヒツジの毛を刈ってもらうところから始め、1年かかって娘にすてきなオーバーを調達する。そのちょっと大きめのオーバーには、母親の愛情と時間がたっぷりこめられていることが伝わってくる。また、既製品をただ購入するのとは違って、さまざまな人々の時間と手と心がかかわって一着の衣服が出来上がって行く様子もわかる。

 

『おかあさん、げんきですか。』表紙日本絵本賞大賞を受けた『おかあさん、げんきですか。』(後藤竜二文 武田美穂絵 ポプラ社 2006)に登場するのも母子家庭で、母の日に小学校4年生の息子が学校で書いた手紙が絵本になっている。「わかった?」と何度も言わないでほしいとか、部屋を勝手に片付けないでほしい、というのがその内容なのだが、その手紙の文章からこの子の母親に対する愛情と成長がはっきりわかり、ユーモアもたっぷりで、何度読んでもあきない。最後のページは、お母さんがこの息子の手紙を読んでいる場面で、それまでのマンガっぽいちょっと怖いお母さんと違ってリアルなお母さんが登場している。

 

どの作品も、母子家庭の大変さを売り物にすることなく、それはそれとして母子の愛情が豊かに描かれているのがいい。

 

読み物の場合

『怪物はささやく』表紙映画が公開されて話題になった『怪物はささやく』(原著 2011/シヴォーン・ダウド原案 パトリック・ネス著 池田真紀子訳 あすなろ書房 2011)の主人公コナー(13歳)も母親と二人で暮らしているのだが、ガンにかかった母親は自分の余命が長くないことを感じている。その不安が息子に伝わるのか、コナーの前にイチイの木の姿をとる怪物があらわれる。この怪物が、コナーの潜在意識を表に引き出す役目を果たす。それによって死ばかりを見つめていたコナーはようやく生の方向にも目を向け、母の死をのりこえて進むことができるようになる。この作品の場合、コナーは母との愛着関係が強く、頼りない父親にも意地悪な祖母にもすがることができないと思っているので、よけいに孤立感が深く、不安や恐怖も強い。シヴォーン・ダウドはイギリスの女性作家で、自らもガンに冒されて2007年に死去し、その遺稿をアメリカ生まれのネスが完成させてカーネギー賞を受賞した。

 

『レモネードを作ろう』表紙次に家庭小説の伝統があるアメリカの二人の作家を取り上げる。ヴァージニア・ユウワー・ウルフのゴールデン・カイト賞を受けた『レモネードを作ろう』(原著 1993/こだまともこ訳 徳間書店 1999)には二組の母子家庭が登場する。一つは、14歳のラヴォーンの家庭。父親は死去して母親が働いて家計を支えている。ラヴォーンは貧困から抜け出すために大学に行こうと、ベビーシッターをしてお金を貯めようと考える。シッターを頼んできたのはジョリーという17歳のシングルマザー。幼い子二人を抱えているが、路上で暮らしていた経験も持ち、子どもの父親はわからない。ジョリーは安い賃金で働いているが、雇い主のセクハラにあって仕事も辞めざるを得なくなる。しっかりと将来を見すえているラヴォーンと、母親らしくなく、生きる術もわからずにいる極貧のジョリー。この二人のティーンエージャーは、最初は仕方なく付き合うのだが、やがでラヴォーンはジョリーから母親の強さを学び、ジョリーは自立するためにラヴォーンの手を借りることになる。最近アメリカでは韻文のような文章で書かれたYA小説が多く出ているが、これはその先駆けでもある。

『ジョージと秘密のメリッサ』表紙ジョージと秘密のメリッサ』(原著 2015/アレックス・ジーノ著 島村浩子訳 偕成社 2016)の主人公ジョージ(小4)も母子家庭で、母親と兄と一緒に暮らしている。ジーノは、トランスジェンダーの作家で、ジョージも見た目は男の子だが、内面は女の子という設定になっており、母親にその部分をわかってもらいたいとは思いながら、打ち明けられずに苦しむ。以下は、ジョージがようやく打ち明けたときの母子のやりとりである。

「・・・でも世の中はふつうとちがう人にやさしいとはかぎらない。ママはとにかく、あなたに必要以上に苦しい道を歩んでほしくないの」
「男の子のふりをするのはほんとうに苦しいんだ」
ママは何度かまばたきをした。
もう一度目をひらいたとき、涙がひとつぶ、ほおをつたい落ちた。
「つらかったわね、ジージー。わかってあげられなくて、ほんとうにごめん」
ママはジョージをひきよせると、ぎゅっとだきしめた。(P188-189)

親が一人しかいないという不都合をすでに子どもに背負わせている母親は、それ以上の負担を避けるほうが世の中をうまく渡っていけると考えていた。しかし、子どもが思い切って打ち明けると、すぐにその隣に立つ道を選択しているのは見事である。ジョージを真っ先に理解する友だちのケリーも、父子家庭の女の子である。自分もなんらかの社会的ハンデを持っている人のほうが、他者に寄り添う共感力が強いと著著は考えているのかもしれない。

 

岩瀬成子も、よく母子家庭を登場させるが、その中身は作品によって違う。たとえば『ぼくが弟にしたこと』(理論社 2015)に登場するのは男の子二人と母という家庭で、母親は老人ホームで働いていて、帰宅して夕飯の支度をしてからまた週4日はコンビニの夜勤に出かけていく。別れた夫は暴力をふるう男で、離婚の理由については「あのまま家族でいると、それぞれのいいところが失われてしまうような気がしたから」と母は子どもに説明し、「逃げたんじゃない。3人で新しく出発したんだよ」と言っている。世間体をとりつくろうことなく、必要なことは子どもにきちんと話し、仕事も子育てもなみなみならぬ努力でがんばっている。そのため息子たちも、心に波風が立つことはあっても、父親がいたときよりは今の方が安心という気持ちも持っている。

岩瀬成子の3作 表紙

同じように低賃金の仕事を掛け持ちしている『マルの背中』(岩瀬成子著 講談社 2016)の母親は、娘との二人暮らしだが、夜帰ってこなかったり、娘の亜澄に「死のうか」と不用意に言ったりする。亜澄は、父親にも弟にも会えない寂しさがあり、心の中にはもっと強い波風が立っている。

だれにもいえない』(岩瀬成子著 毎日新聞社 2011)の千春の家族も母子家庭だが、一緒に幕らしている叔母が、千春のことをよくわかっていて、母親より近い距離からアドバイスしたりする。岩瀬が書く物語は、外側の事件より子どもの内面に重きを置いている。そんな子どもたちの心のひだを「育てている」のは、孤独な時間なのかもしれない。そういう意味では、子どもに目を光らせる親の数が少ないというのも、あながち悪いことではないのかもしれない。

 

2016年の国民生活基礎調査を見ると、日本では、ひとり親世帯の就労率は世界的に見ても高いのに、貧困率は実に50パーセントを超えていて、主要国最悪のレベルにある。なので、岩瀬が書くように、日本の母子家庭の母親は安い賃金の社事を掛け持ちしなくては生活が成り立たず、ベラ・ウィリアムズの描く母親のような心の余裕もなかなか持てない場合が多いのではないだろうか。

(日本児童図書出版協会「こどもの本」2017年9月号掲載)