日本児童図書出版協会で出している月刊誌「こどもの本」に、2017年の5月号から2018年の4月号まで「子どもの本に見る新しい家族」というタイトルで、従来型ではない多様な家族を描いた子どもの本について連載していました。もう一度手を入れてから自分のウェブサイトに掲載しようと思ったのですが、コロナ禍で資料が置いてある東京にも戻れず、手を入れる時間もないので、とりあえず誤植や舌足らずのところだけを訂正し、基本的にはそのままこちらに転載します。


子どもの本に見る新しい家族④

問題を抱える親、大人になれない親

 

日本の親子関係は、血のつながりが他の国以上に重視されているように思われる。血を分けた親が子どもを育てるのも、子どもが実の親を敬うのも当然のことであり、そうでない場合は、白い眼で見られたりする。しかし、そうしたステレオタイプな考え方が、子どもをかんじがらめにしてしまうこともある。

評論家の芹沢俊介氏によれば、親になるには2度の覚悟が必要だという。最初は子どもが生まれた時の「生物学的な親として」、そして次は「何があっても受け止めるという〈受け止め手〉として」。いくら血がつながっていてもその覚悟ができなければ、子どもの存在は危うくなってしまう。

今回は、絵本や児童文学に登場する困った親について考えてみたい。断っておくが、私はケーススタディとして作品を取り上げているのではない。すぐれた文学作品を通して子どもたちが社会へも目を向け、さまざまな立場にある子どもたちと手をつなぐことができるようになってくれれば、と思うのである。また私が読んておもしろかった作品だけを勝手に紹介している点もお許しいただきたい。

 

自分で自分を救えない親の場合

『パパと怒り鬼』表紙ノルウェーの絵本『パパと怒り鬼〜話してごらん、だれかに』(原著 2003/グロー・ダーレ作 スヴァイン・ニーフース絵 大島かおり&青木順子訳 ひさかたチャイルド 2011)には、家族を愛していないわけではないのに虐待し、暴力をふるう父親が登場する。主人公の男の子ボイは、いつも父親の一挙手一投足をうかがっており、身体的にも極度に緊張している。そして、父親が怒り鬼に支配されてしまうと、

ぼくのせいかもしれない。もっといい子になるよ。もっとお利口になるよ。どんなことでもするよ。ごめんなさい、ゆるしてよ、パパ

と思うのが、切ない。怒り鬼の炎を消すことはだれにもできず、家族は荒れ狂う父親の暴力に耐えるしかない。嵐が過ぎ去ると、父親は泣きなから、もう2度と暴力はふるわないし、いい父親になると約束するのだが、その約束は守られたことがない。母親は、家族が壊れそうになっていることを、ひた隠しにし、幸せ家族を偽装する。

最後はボイが思い切って王さまに手紙を書いた結果、父親の治療の道が開けるという展開だが、その部分はノルウェーならではのことだとしても、こういう状況に陥った子どもの気持ちを、この絵本はリアルに表現している。

『ノックノック:みらいをひらくドア』表紙(さくまゆみこ訳 光村教育図書)アメリカの絵本『ノックノック〜みらいをひらくドア』(原著 2013/ダニエル・ビーティー文 ブライアン・コリアー絵 さくまゆみこ訳 光村教育図書 2015)の表紙には、息子を抱き上げた父親の背中が描かれている。実体験に基づいて作られた絵本なので、この息子は作者のビーティーで、抱いているのは実の父親である。父親はイクメンで、幼い息子をかわいがっていたが、息子が3歳の時に投獄される。息子の心には大好きな父親の不在という穴がぽっかりあいてしまう。ただ、この父親は変わらず息子を愛していて、ある日メッセージを送ってくる。それをもらって自分なりの道を見いだした著者が、幸せな家庭を築いているらしいことが後半部分からうかがえるのがいい。この絵本を作ったのは、投獄だけでなく、離婚や死などさまざまな事情で親の不在を体験している子どもたちに寄り添おうとしてのことだとビーティーは述べている。

ジャクリーン・ウィルソン『タトゥーママ』表紙イギリスの読み物『タトゥーママ』(原著 1999/ジャクリーン・ウィルソン著 小竹由美子訳 偕成社 2004)については、この連載の第1回でも触れた。マリゴールドという名の母親は、「ろくに働きもせずに生活保護のお金で暮らし、飲んだくれたり男をひっぱりこんだりする、精神状態の不安定なタトゥーだらけの未婚の母」(訳者あとがきより)で、親の覚悟をもって子どもに接することができない。父親の違う二人の娘(スターとドルフィン)は、家出をしたり、反発を感じたり、もうやってらいれないと思ったりする。しかし世間的にはできそこないの母親ではあっても、娘たちは母親の愛情を確信し、下の娘ドルフィンは最後にこう述べるのだ。

わたしは、マリゴールドを見つめた。わたしのタトゥーのあるお母さんを。マリゴールドはほんとうに、わたしとスターを愛しているんだ。わたしたちにはそれぞれのお父さんがいて、これからも顔を見せるかもしれないし、見せないかもしれない――でも、わたしたちにはいつもお母さんが、マリゴールドがいる。頭がおかしくても、いいお母さんじゃなくても、かまわない。マリゴールドはわたしたちのものだし、わたしたちはマリゴールドのものだ。わたしたちは三人家族。マリゴールドとスターとドルフィンなんだ。

ひとい母親なのに、娘からこう思われるのは不思議だと思う人もいるだろう。しかし、なるほどと読者を納得させるだけの筆力をウィルソンは持っているのである。

以上見てきたように、ダメ親でも子ともを愛している場合や、本人の力でもとうにもならない弱点を抱えている場合は、作著も親を糾弾したり、むやみに突き放すことはしないようだ。

 

覚悟ができない親からダメージを受ける子ども

 次に、親になる覚悟ができなかった親と、それによつて大きなダメーンを受けてしまう子どもを描いた作品を見てみよう。

アン・ファイン『チューリップタッチ』表紙イギリスの読み物『チューリップタッチ』(原著 1996/アン・ファイン作 灰島かり訳 評論社 2004)は、子どもの内面で起こる大きなドラマをとでもリアルに描いた傑作だ。語り手のナタリー(小学校高学年〜中学1年生)は、親が忙しくてなかなか目を向けてもらえない間に、近所の少女チューリップと仲良くなる。チューリップは嘘つきだし行動は破壊的だ。でも、それが何ものにもとらわれない個性やスリリングな創造性にも見えて、ナタリーはひきつけられる。

チューリップの父親も〈怒り鬼〉に支配されているのか、「突然、狂ったようにおこって、その怒りをチューリップにぶつける」し、母視は「いつもびくびくしていて、何も気づかないふりをしている」。父親は、身体的な暴力のほかに、子猫殺しをチューリップに命じるなど心理的な暴力もふるっている。その影響か、学校でチューリップが描く絵には、

憤怒と軽蔑がこもり、紙の上には暴力の渦があった。どこもかしこも暗く猛り狂っていて、見ている者を飲みこみ、引きずりまわさずにはおかない力があった。

それでも、ナタリーにはチューリップが必要だった。自分も心に空洞を抱えるナタリーはこう思っている。

あたしがなんの問題も起こさず、大人の言いつけを守り、いい子でいるあいだに、チューリップがあたしの秘密の命を生きていた。あたしが机の前におとなしく座っている、と先生の目に映っているときに、別のあたしはチューリップといっしょに丘にいて、はかの子たちが行列して教室を出入りするのをながめていた。(中略)ママが(弟の)ジュリアスを探して、あたしには目もくれずに通りすぎるときに、あたしの中には、チューリップもかなわないほど激しく怒り狂う、別のあたしがいた。

近所の人たちもチューリップに居場所がないことはわかっているが、打つ手がない。チューリップの中で鬱屈した怒りや不安は、どんとんふくれあがっていく。

アン・ファインはナタリーの目に映ったものを通して物語を進めて行くが、明らかにチューリップに寄り添って書いている。そしてダメ親が不安と恐怖の渦巻きのような環境しか子どもに提供できない場合、子どもは底知れぬダメージを受けてしまうことや、周りの「いい人たち」がその子を落ちこぼしていく様子を冷徹な目で描いている。

また、子どもがいくらダメージを受けていても、実の親がいる以上、他者が救いの手を差し伸べるのは至難の業だということも、ここには描かれている。

『小やぎのかんむり』表紙小学館児童出版文化賞をとった市川朔久子の『小やぎのかんむり』(講談社 2016)にも、チューリップの親と同じような親が登場するが、アン・ファインが心の奥深くまで探るような書き方をしているのに比べると、そこまで深くは描かず、読者の想像にゆだねる書き方をしている。ある意味でこうした書き方は、日本の児童文学の特徴の一つかもしれない。

中3の夏芽は、夏休みに山寺のサマーキャンプに行き、それまで周辺にはいなかった人々と触れあううちに、壊れかけていた自分を取り戻していく。夏芽の父親も、気に入らないことがあるとすぐに暴力をふるう自分勝手なダメ親である。そのせいで夏芽は摂食障害に陥っているし、父親に殺意まで抱いたことで強い罪悪感をもっている。しかし、山寺の住職のタケじいは夏芽に言うのである。

「親子は、縁だ。あんたとこの世を結んだ、ただのつながりだ。それ以上でもそれ以下でもない。(中略)愛とか絆とか、そこに意味を持たせようとするから、なんだかおかしなことになる。――そんなもの、運がよければあとから出てくるもんだ。ないものをあると仮定するからゆがむ。苦しむ。はじめからありはしないのに」

そして、夏芽は悪くない、と断定したうえで、こうも言う。

「(父親を)『許してやれ』とか言う連中には関わるな。あれはただの無責任な外野に過ぎん」

紋切り型の常識的な愛情論をふりかざす人たちを、タケじいは、すばっと切り捨てている。

ほかにも、たとえばノルウェーのトールモー・ハウゲンは『夜の鳥』(原著 1975/山口卓文訳 河出書房新社 2003)で心の病を患う父親と、そのせいで大きな不安にさいなまれる息子を描いているし、梨屋アリエの『スリースターズ』(講談社 2007)の3人の少女たちの背景には、それぞれとんでもない(でも、その辺にいそうな)親が存在している。また、いとうみくは『カーネーション』(くもん出版 2017)で、実の娘をどうしても愛せない母親とその娘の葛藤を描いている。

血のつながった親が愛情たっぷりに子どもを育てることができれば、それに越したことはないのだろうが、それが不可能な場合はどうしたらいいのか、そういう子どもにはどう寄り添えばいいのかを、作家たちは考えているのである。

(日本児童図書出版協会「こどもの本」2017年8月号掲載)