日本児童図書出版協会で出している月刊誌「こどもの本」に、2017年の5月号から2018年の4月号まで「子どもの本に見る新しい家族」というタイトルで、従来型ではない多様な家族を描いた子どもの本について連載していました。もう一度手を入れてから自分のウェブサイトに掲載しようと思ったのですが、コロナ禍で資料が置いてある東京にも戻れず、手を入れる時間もないので、とりあえず誤植や舌足らずのところだけを訂正し、基本的にはそのままこちらに転載します。


子どもの本に見る新しい家族⑥

父子家庭はどう描かれてきたか

 

先月は母子家庭を取り上げたので、今月は父子家庭が描かれた作品を取り上げてみたい。

 

絵本の場合

『パパと10にんのこども』表紙フランスの絵本『パパと10にんのこども』(原著 1997/ベネディクト・ゲッティエール作 那須田淳訳 ひくまの出版 2000)では、バパが家事と10人の子どもの世話を一手に引き受けており、子どもたちを学校に連れていったあとは、自分も会社に行く。仕事から帰ってくると10人をお風呂に入れ、ご飯を作って食べさせ、歯磨きをさせ、お話を開かせ、キスをして「あ―あ、くたびれた」と言う。パパは、たまにはひとりになりたいと、夜中にこっそり船をつくって、おばあさんに子どもの世話をたのみ、海に出てつかの間の休暇を楽しむ。そして10日も眠り続けた後に戻って来る。そして今度はその船に10人の子どもを乗せて、もっと大きな冒険の旅に出るのである。リアルな父子家庭というよりは、寓話的な絵本といえよう。

『おやすみアルフォンス』表紙スウェーデンの絵本『おやすみアルフォンス!』(原著 1973/グニッラ・ベリィストロム作 やまのうちきよこ訳 偕成社 1981)も、父子家庭を描いた古典的な絵本。4歳のアルフォンスは夜なかなか眠れずに、何度もパパを呼ぶ。やさしいパパはそのたびに アルフォンスにお話をしてやったり、歯ブラシやジュースを持ってきたり、ジュースをこぼしたシーツをとりかえたり、おまるを持ってきたりと大奮闘。しかしパパは、ぬいぐるみを探しにいった時に、とうとう疲れて眠り込んでしまう。父子家庭を取り上げたどちらの絵本も パパの大奮聞とそれによる疲労を描いている。アルフォンスの絵本には続編(『パパ、ちょっとまって!』『アルフォンスのヘリコプター』『ひみつのともだちモルガン』)もあり、スウェーデンではだれでも知っている人気シリーズになっている。

イギリスの作家に日本で絵をつけた絵本『おかあさんどこいったの?』(原著 2011/レベッカ・コップ作 おーなり由子訳 ポプラ社 2014)と、ひぐちともこの『4こうねんのぼく』(そうえん社 2005)は、どちらも母親の死去による父子家庭を描いている。『おかあさんどこいったの?』に登場するまだ幼い少年は、死を理解できずに、母親を捜したり、腹を立てたり、自分のせいでいなくなったのかと思ったり、ほかの子をうらやましがったりする。『4こうねんのぼく』に登場する少年は、高速瞬間移動型ロケットを発明して、4光年前の地球を見ると亡くなった母親が見えるのではないかと考える。子どもが喪失感を抱えているのはどちらも同じだが、乗り越えていく段階も描かれる『おかあさんどこいったの?』の方が絵本としての出来はいい。ただし、どちらも母親を、家事の担い子としか描いていない点が残念だ。

『おかあさんどこいったの?』と『4こうねんのぼく』の表紙

イギリスの国際アンデルセン賞4家アントニー(アンソニー)・ブラウンの絵本『すきですゴリラ』(原著 1983/山下明生訳 あかね書房 1985)に描かれる父子家庭では、父親が多忙で娘ハナになかなか注意を向けない。朝食の席でも親子の間を父親の新聞が壁となって隔てている。父親はハナが登校する前に出勤し、夜は家でも仕事をするので 娘が話しかけようとしてもいつも「いそがしいから、いまはだめ」と言う。ハナが暗い部屋の隅で、テレビを見ながらひとりで食事『すきですゴリラ』表紙をしている場面や、べッドの端の格子細工のせいで、寝ているハナが檻に閉じこめられているように見える場面もあり、絵からもハナの孤独感がひしひしと伝わってくる。ゴリラが大好きなハナは 誕生日にゴリラがはしいと父親にねだるが 夜中に目をさまして見つけたのは、ちっぽけな箱に入ったゴリラのぬいぐるみ。でも、そのゴリラがぐんぐんと大きくなり、ハナを動物園や映画館やレストランに連れていってくれ、一緒にダンスも踊ってくれる。こんなに楽しかったのは生まれて初めてだ、とハナは思う。

この絵本がすばらしいのは、最後の場面である。夜の間のできごとを父親にも教えてあげようとハナが階段を駆け下りると、テーブルの上には他にもいくつか誕生日プレゼントが置いてあり、ゴリラの絵がついたバースデーカードも用意されている。そして父親が言うのである。「これから どうぶつえんに いくなんて、どうかな?」(日本語版では、これが父親の台詞だということがわかりにくいので、娘からの提案だと思う読者もいるかもしれない)。ふだんは忙しい父親がこの日だけはなんとしても娘を楽しませようと張り切っている様子が伝わってくる。

 

読み物の場合

ジャクリーン・ウッドソン『レーナ』表紙(さくまゆみこ訳 理論社)読み物に描かれる父子家庭の父親は概して頼りない。アメリカの国際アンデルセン賞受賞作家ジャクリーン・ウッドソンの『レーナ』(原著 1994/さくまゆみこ訳 理論社 1998)には、二つの父子家庭が登場する。一つは、アフリカ系のマリー(12歳)の家庭で、母親は失踪しており、父親は大学の教員で裕福でもある。もう一つは、白人のレーナの家庭である。父親は臨時雇いをしており、母親はガンで亡くなっている。プアホワイトの父親はレーナとその妹のディオンに性的な虐待を行っている。レーナとマリーは母親不在という共通項で友だちになり、レーナはだれにも言えないでいた父親からの虐待についてマリーにだけ打ち明ける。最初はレーナが「(父親が)愛しすぎている」という言葉で表現するので、父親にもっと抱きしめてもらいたいと思っているマリーには理解できない。

思春期の娘をもつ点では同じだが、マリーの父親は娘との身体的な接触を必要以上に避け、レーナの父親は娘を死んだ妻がわりに性的な対象としている.ウッドソンが従来型の白人・黒人家庭とは逆にこの二つの家庭を描いていることにも注目しておきたい。

 

ジル・ルイス『白いイルカの浜辺』表紙(さくまゆみこ訳 評論社)イギリスの作家ジル・ルイスによる『白いイルカの浜辺』(原著 2012/さくまゆみこ訳 評論社 2015)では、主人公の少女カラの母親は環境活動家で、ソロモン諸島に調査に出かけたまま行方不明になっている。難読症をもつ父親は、妻の不在という現実を受け容れることがなかなかできず、仕事もうまくいっていない。カラ自身も難読症で学校にとけこめず 自分を閉ざす傾向にあるのだが、脳性麻痺の少年と友だちになることから、少しずつ未来に目を向けることができるようになる。カラの、父親に対する信頼感は途中で揺らぐが、最後は二人で母親の死を受け入れ、次の一歩を踏み出す。

私は父さんにもたれかかり、海を見わたした。外海はおだやかで波もほとんど立っていない。トルコ石のように青い。波打ち際には小さな波がよせている。
「二人で新しい舟をつくろうな、カラ」父さんが言って涙をぬぐった。「おまえと私で、舟をつくってセーリングに出よう」
私は父さんの手をにぎって、目を閉じた。(p287)

 

アン・M・マーティン『レイン』表紙

アメリカの作品『レイン』(原著 2014/アン・M・マーティン著 西本かおる訳 小峰書店 2016)の主人公であり、語り手でもあるローズは、アスペルガー症候群を抱えていてクラスにもなじめず、同音異義語にこだわっている。母親は病死しており、父親は娘を愛していないわけではないが不器用だし、娘の特異性をちゃんと理解していない。最後にはこの父親はローズとも気の合う弟のウェルドンに娘を託す決心をする。理解のないひどい父親だと非難する読者もいるだろうが、著者は娘を手放す場面で父親をこんなふうに描いている。

「さあ 行け」バパはそう言ってから、ほんの一瞬、わたしを抱きしめた。もうずいぶん前から、抱きしめられたことなんてなかった。ほほがふれたとき、パパのはほがぬれているのを感じた。パパはすぐに体を離して前を向いた。あごがぶるぶるふるえている。(p224)

またウェルドンにも、兄であるローズの父親について

「きみのパパはいつも正しかったわけじゃないけど、いつだってきみのことを大事に思ってたんだよ」
「たぶん、ローズはぼくと暮らすほうが幸せだと思ったんだろうな」

と、言わせている。それもあって、私には父と娘の別れの場面が非常に切なく思え、辛いなからも正しい選択をしたこの父親はそれなりに見事だと思うのである。

 

『世界がぼくを笑っても』表紙日本で父子家庭を描いた作品といえば多くの人が思い浮かべるのは、今江祥智の『優しさごっこ』(理論社1977)だろうが、ここでは『世界がぼくを笑っても』(笹生陽子著 講談社 2009)を取り上げたい。頼りない教員と中学生をめぐる物語が、生徒同士のネットのやりとりも交えなから北村ハルトの一人称で描かれている作品だ。ハルトは、8歳の時「うちにもサンタさん来てくれるかな」と父親にきくが、父親はサンタのネット予約に必要だと言って息子に500円を出させ、馬券を買ってすってしまう。ハルトが2歳の時に母親は家出をし、その後離婚しているのだが、教師が家庭訪問に来ると、父親は「中学2年生にもなって、みんなと仲良くできないようじゃ、天国にいるおがあさんにも申しわけが立たんぞ、まじで」などとほざいて、妻を死んだことにしてしまう。ハルトは、久しぶりに母親に会った時、ここぞとばかりに父親のことを悪く言う。

「子どものころは、ずいぶんとひどい目にあいましたけど。いえ、なぐられたりはしてません。なんていうかこう、精神的な意味での虐待みたいなものが、たびたびあったりなかったり。もちろん、いまは昔とちがって、やられたらやり返してます。親父もそろそろ年なんで、あと少しでオレの天下です」

ハルトは父親をクソ親父とののしりながらも、心底憎んでいるわけでもないらしいのが、作品からは伝わってくる。『優しさごっこ』の父親とは対照的な、子どもにまったく気を遣わない父親ではあるが、そんな父親にも人間としては愛すべき側面があることを、成長したハルトはすでに認識しているのだろう。

ちなみに、今回取り上げた父子家庭を描いているのは、アンソニー・ブラウンと今江祥智以外はすべて女性である。

(日本児童図書出版協会「こどもの本」2017年10月号掲載)