日本児童図書出版協会で出している月刊誌「こどもの本」に、2017年の5月号から2018年の4月号まで「子どもの本に見る新しい家族」というタイトルで、従来型ではない多様な家族を描いた子どもの本について連載していました。もう一度手を入れてから自分のウェブサイトに掲載しようと思ったのですが、コロナ禍で資料が置いてある東京にも戻れず、手を入れる時間もないので、とりあえず誤植や舌足らずのところだけを訂正し、基本的にはそのままこちらに転載します。


子どもの本に見る新しい家族⑦

「外から来た親」はどう描かれてきたか

 

「外から来た」とは、非血縁という意味である。日本人の多くは、家族は何よりも血縁が大事だと思いがちだ。子どもの本にも、そうした家族観が反映されている場合が多い。しかし、英米の児童文学の作家たちは、そうした家族観がとりこぼしてしまう子どもたちがいることに、かなり早い時期から気づいていたように思う。たとえばアメリカのシャクリーン・ウッドソンは1994年に『レーナ』(さくまゆみこ訳 理論社 1998/連載の第6回でも取り上げている)の中で、父親から性的虐待を受けているレーナに

「血のつながりなんて、事故みたいなもんだよ。親族は血がつながっているんだから愛さなくちゃいけないって、みんな言うけどさ」(p110)

と言わせているし、イギリスのアン・ファインは、血のつながらない多様な家族が登場する『それぞれのかいだん』(灰島かり訳 評論社 2000)という作品を1995年に発表している。日本では、それから20年以上たった2016年に、市川朔久子が『小やぎのかんむり』(講談社)で「親子は、縁だ。あんたとこの世を結んだ、ただのつながりだ。それ以上でもそれ以下でもない」という台詞をタケじいに語らせて、追い詰められていた主人公を救った(連載の第4回を参照)。

今回は、子どもの本に描かれる血のつながらない親、つまり継父や継母を取り上げてみたい。

 

◆昔話の影響?

グリム昔話では、「シンデレラ」にしろ「白雪姫」にしろ「ヘンゼルとグレーテル」にしろ、継母は、子どもをいじめたり、亡き者にしようとする悪い存在として描かれている。ただし、グリム昔話の初版では継母ではなく母(実母)という言葉が使われていた。昔話に登場するのは、もともとシンボルや象徴としての存在で、現実をそのまま語っているわけではないからそれでもいいのだが、グリム兄弟は、虐待するのが実母では、いくら物語でも子どもたちが悪夢にうなされるかもしれないと考えて、継母に変えたのである。

日本の昔話にも、「米福粟福」「落窪物語」「鉢かづき」「手なし娘」のように、継母が子どもをいじめる話がたくさん伝わっているし、スラブの昔話「12のつきのおくりもの」(マルシャークの『森は生きている』でも有名)も、ロシアの昔話「バーバ・ヤガー」も、ネパールの昔話「プンクマインチャ」も、子どもが継母に虐待される話で、絵本にもなっている。

私たちが、血のつながりのない継母や継父に、好感を持ちにくくなっている理由の一端には、こうした昔話の影響もあるのかもしれない。

しかし、児童文学作品の場合は、どうだろう? たしかに非血縁の親が子どもを理解しない存在として登場する場合もあるが、継父や継母=意地悪(ちなみに昔話には継母はよく登場するが継父が登場することは少ない)というステレオタイプを突き崩すような秀作もいくつも書かれている。

たとえばパトリシア・マクラクランの『のっぽのサラ』(原著 1985)は、子どもたちが、継母(候補)と心を通わせていく物語だが、これについては連載の第1回に書いたので、そちらをご覧いただきたい。

 

◆『800番への旅』の父親

カニグズバーグ『800番への旅』表紙アメリカの作家E.L.カニグズバーグが書いた『800番への旅』(原著 1982/岡本浜江訳 佑学社 1987、小島希里・他訳 岩波書店 2000・2005)の主人公マックス(愛称ボー)の両親は離婚している。マックスは母親と暮らしているのだが、母親が再婚することになり、そのハネムーンの間息子は父親のウッディに預けられる。父親は各地をまわり、お客をラクダに乗せてお金を稼いでいる。きちんとした生活が好きで上昇志向もある母親の影響もあり、最初のうちマックスは久しぶりに会った父親を批判的にながめ、周囲の一風変わった人たちのことも冷ややかに見ている。しかし、徐々にマックスも父親のよさを理解し、社会から外れた人たちのたくましい生き方に触れて成長していく。

ところがこの作品には、物語の最後の方に読者をあっと言わせる展開が用意されている。ある女性がマックスに、「(ウッディは)あんたのことも、まるで自分のほんとの息子みたいに愛しちゃったのね」と口をすべらせるのだ。問いただしたマックスは、ウッディが実父ではなかったという事実を知って衝撃を受け、狼狽し、困惑し、どういう態度をとればいいのかと思い悩む。しかし間もなく「ただ、ウッディの息子ボーであることを楽しめばいい」と考え直す。最後の場面では、帰宅するマックスをウッディが車で飛行場まで送っていく。

 それからおしりをすべらせて ウッディに近づいた。ウッディはハンドルを持った片手を放して、ぼくをひき寄せた。
ぼくは空港に着くまでのあいだ、じっとよりかかっていた。

この場面からは、マックスの血のつながりなどを超えたウッディヘの信頼と愛情が感じられる。実母が息子を置いて旅に出てしまったことを考えると、象徴的な場面でもある。ちなみに、800番とはアメリカの無料通話の番号で、ここではウッディの周囲にいる無名の人たちをさしているようだ。

 

◆『ベーパーボーイ」の父親

ヴィンス・ヴォーター『ペーパーボーイ』表紙同じくアメリカの作家ヴィンス・ヴォーターの『ペーパーボーイ』(原著 2013/原田勝訳 岩波書店 2016)にも 血のつながらない父親が登場する。舞台は1995年のメンフィス。吃音を抱え、周囲とのコミュニケーションがうまくない主人公ヴィクターは、夏休みの間友だちのかわりに新聞配達をすることになり、配達先できまざまな人に出会って世界を広げ成長していくというのがメインストーリーである。そこに、自分の出生証明書の父親の欄に「不明」と書いてあるのを見てしまったヴィクターが、思い悩むというわき筋が入ってくる。

どうしてもわからないことがひとつある。だれかよその男の人とお母さんのあいだにぼくが生まれたのだとしたらなぜぼくはお母さんよりお父さんといるほうが好きなんだろう? ばくはお母さんと話すよりお父さんと話すほうがずっと好きだ。お父さんはぼくがひどくどもることを全然気にしていないように見える。(p119)

ちなみに、ヴィクターは話す時は吃音を防ぐために息継ぎをしょっちゅうするのだが、それとは対照的に、文章は息継ぎのカンマなしで書くため、訳文も読点なしになっている。

また 出張から帰ってきた継父とキャッチボールをしている場面では、ヴィクターは、こう考えるようになる。

出生証明書の父親欄は「不明」だったかもしれないがぼくから見れば今こうしてワイシャツ姿でネクタイの先をボタンのあいだに突っこんでキャッチボールをしてくれている背の高い男の人こそが父親だ。びかぴかだったお父さんの革靴は花壇に入ったボールを拾ったものだから泥だらけになった。この人はいつだってぼくのためにこの世のほとんどどんなことでもする気でいる。でもよく考えてみるとそう思わなきゃならない義務なんてない。(p268)

物語の最後では、ヴィクターは「お父さんとお母さんにぼくが生まれてきたいきさつがどうであれ二人の子どもでいられてうれしい」(p278)とはっきり述べている。家族にとっていちばん大事なのは、血のつながりではなく、一緒に過ごす時間の質だという価値観が、この作品には明確に表現されている。

 

『十一月のマーブル』が伝える血縁と非血縁

『十一月のマーブル』表紙戸森しるこの作品はどれも(今のところ、表題作のほかに『ぼくたちのリアル』と『理科準備室のヴィーナス』)、生きることは複雑であり、だからこそおもしろいということを伝えている。デビュー作の『十一月のマーブル』(講談社 2016)は、6年生の主人公波楽(はら)と、自分の性に違和感を持つ親友レンの間に通う繊細な愛の物語とも言えるが、その一方で非血縁の家族の物語でもある。

波楽は、「かあさん」とは血がつながっていないことを最初から承知していて、自分が産んだ娘と波楽を差別しない継母に尊敬の念さえ抱いている。しかし、生母の再婚相手の井浦凪と出会ったことから、波楽は「とうさん」とも血はつながっていなかったという事実に気づいてしまう。妹を含めた一家4人のなかで、波楽だけが血のつながらない家族なのである。波楽は悩みながらも、自分を生まれた時から育ててくれた「とうさん」と、4歳から育ててくれた継母を自ら親として選びとり、自分と顔がそっくりの凪には「凪さんのこと、すごく好きだ」と言いつつ、こうも言う。

「ほんとうの父親がだれかなんて、ぼくにはもうどうでもいいことなんだ。だってぼくのとうさんは、柴田航太郎ひとりだけだから」

波楽は、血縁より、一緒に過ごした時間が長く、自分を愛してくれている非血縁の家族を選びとり(ちなみに生母は亡くなっている)、継母には思い切って「弟はほしくない」と、これまでは言えなかったわがままも言うようになる。その場面では、血縁へのこだわりが逆の意味で顔を出しているのもおもしろいところだ。

ぼくは今でもかあさんをひとりじめしたいって思ってる。血がつながっていないぶんだけ、よけいに気持ちがつながっていなきゃって、どうしても思ってしまう。
血のつながりが関係ないなんて そんなのうそだ。(p169)

血縁へのこだわりが顔を出すもう一つの場面は 航太郎が(妻を略奪した)凪と縁を切らなかった理由について、凪が波楽に語るところである。凪は、いずれ「血のつながりのある相手が、どうしても必要になることもある。たとえばきみが重い病気にかかったとき、ぼくがきみにしてやれることがあるかもしれない」からだろうと推測している。このひと言で、航太郎の波楽に対する愛と、それを察することができる凪の優しさの両方を、うまく表現しているのが見事だ。

ほかにも継母、経父が登場する作品はあるが、ここに取り上げた作家たちの家族観に、私は共鳴している。家族は血縁で縛るものではなく、一緒に過ごす時間の豊かさを大事にするほうがいいと思うからである。

(日本児童図書出版協会「こどもの本」2017年11月号掲載)