月: 2015年1月

2015年01月 テーマ:おかあさん、おばあちゃん、ひいおばあちゃん

日付 2015年1月22日
参加者 アンヌ 慧 レジーナ アカシア レン プルメリア
テーマ おかあさん、おばあちゃん、ひいおばあちゃん

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かあちゃん取扱説明書

アンヌ:最初に題名を見た時から、最後の一文は予想が付いたのですが、そこまでどうたどり着くのだろうと楽しみに読みました。相手を観察し分析して対処法を決めていくという設定は、他人相手なら冷酷な気がしますが、家族それぞれを再発見するという物語になっていて、おもしろく、安心できる感じの物語でした。少し気になったのは、お友だちのカズ君のお母さんの話。子離れできない母親をやさしく成長させてやる男の子という設定は、ちょっと親の方にとって、都合がよすぎる気がしました。

レン:テンポよくおもしろく読みました。幸せなお話ですね。最後、お母さんが機嫌良くやっていたのが、実は自分のため、母ちゃんの方が一枚上手だったというのもおもしろい。地元の小学校でも、片親の家庭が結構多いのですが、そういう家庭の子でも楽しんで読めるかな。最初は、自分の得になることばかり考えていたのが、これまでと違う視点で相手を見るようになるところがうまく書けていると思いました。書き込みすぎない、シンプルさがいい。

アカシア:おもしろく読めは読めたんですけど、このお母さんは、家事、子育て、パートの仕事と大忙し。お父さんは、のんびりしていて1週間に1度食事をつくるだけ。この家庭のあり方は今の日本の平均的な姿かもしれないけど、この作者はそれを肯定しているような気がして、そこが気になりました。日本の女性は社会的な地位も低いし、いろんなことを背負わされすぎなんです。だから子ども向けの作家だったら、未来の社会はどうあるべきか、ということも頭に思い描きながら書いてほしいな、とちょっと思ったんです。だって、同窓会で韓国旅行に行くだけで、これでもかこれでもか、と家庭サービスをしないといけないんお母さんなんですよ。それをおもしろおかしく書くだけではちょっとさびしい気がしたんです。

レジーナ:冒頭の作文は、大人が子どもに似せて書いた字ですね。作文の内容は、4年生にしては幼すぎませんか? やるべきことを書いた表を作り、「やっていなくても、,をつけておけば、お母さんは満足するだろう」というのは、子どもが考えそうなことですね。

:自分がしょっちゅう子どもに言っているようなセリフが出てきて笑っちゃいました。「これは私の物語だ」と思える人が多いと大衆性につながる、という話を聞いたことがありますが、そういう意味で大衆的。とてもおもしろかったです。ただ、パティシエになりたかった夢を思い出すカズのお母さんのほうが類型的すぎ。やりたいことも忘れて子どもに関わってきたことが否定されて、子どもに「ヒマ」っていいきられちゃうのはせつないな。

レン:p106の「お母さんはカズのことを思って、わざわざ学校にとどけてくれたんじゃん」と気づくところで、カズくんのお母さんがきっかけになりますよね。

:そういえば、うちの子どももおもしろがっていました。

プルメリア:この作品を学級の子どもたち(小学校4年生)に紹介したところ、子どもたちは今順番に読んでいます。会話文が多く、字も大きくて子どもたちには読みやすい作品だと思います。最近子どもたちの読書傾向として、本を家庭に持って帰らない、家庭で読書しない、学校で本を読む子どもたちがふえてきています。家庭では塾やおけいこ事などすることが多く子どもたちが読書する時間がなくなってきています。この作品は子どもたちにとって身近な人物や内容であり、おもしろくすぐに読める本なので人気があります。主人公のお母さんは「私のお母さんと似ているよ」「ぼくのお母さんはもっとこわいかも」「料理をほめてもぼくのお母さんは変わらないよ」など自分の母親と比べて読む子どもも多く、「ラブリーなお母さん」では、女子は「かわいいお母さん」といっていましたが、男子はそのままラブリーについては気に留めず読んでました。カズくんのお母さんについて男子は「おやつを作ってくれる」「家にいてくれる」「いつもやさしくていいな」「家のお母さんもこんなお母さんになってほしい」、女子は「ちょっとしつこい」など思いが分かれました。子どもたちには読みやすく手に取りやすい作品でした。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年1月の記録)


さよならのドライブ

:アイルランドの話ですが、日本の幽霊奇譚にも似ているようでひきこまれました。病院に向かうところでおばあちゃんの死が予見されますが、4世代のいろいろな思いが最終的に統合されるのはいいなあと。p228で、タンジーがエマーに「謝りなさい」というと、お母さんに言われたのだからとおばあちゃんが素直に謝りますよね。この場面が好きです。

レジーナ:一年前、読んでいて、「死んでいくことはこわいし、後に残されることは悲しいけれど、生きることはすばらしく、さよならの後にも続くものがある」と感じ、非常に勇気づけられました。とても好きな作品です。真夜中のドライブでアイスクリームを食べる場面を始め、ひとつひとつの場面が印象的でした。親しくしていた友人が引っ越してしまったさびしさを、足を切断した人が、切った後も足があると感じるのにたとえていますが、細かな描写が的確で、引き込まれました。力のある作家です。自分の意見を主張する、溌剌としたメアリーは、反抗期に入りかけの年頃です。死に向かいつつある祖母を前に、メアリーや、母親や、兄たちが、戸惑ったり、自分の気持ちを素直に表せなかったり、病院に行きたくないと思ったり、それぞれの立場で悲しんでいるのが、よく伝わってきました。タンジーが、井戸に落ちかけたエマーを救ったように、亡くなった人がそっと見守りながら、さり気なく手を貸してくれるのは、ユッタ・バウアーの絵本『いつもだれかが…』(上田真而子訳 徳間書店)を思い出しました。タンジーの死は、幼いエマーの胸に刻まれ、ずっとその心にひっかかっています。グレイハウンドは、エマーにとって、タンジーの死と結び付いた忌まわしい存在で、長い間避け続け、見ないようにしてきたものです。でも、かつて住んでいた農家を訪ねたら、あれほど恐ろしかったグレイハウンドはもういない。原題の “A Greyhound of a Girl” には、「目を背けず、しっかりと向き合ってみれば、死もそれほど恐ろしくない」という意味が込められているのはないでしょうか。以前、訳者の方がおっしゃっていましたが、四人の女性の口調をかき分けるのに心をくだかれたそうです。

プルメリア:表紙や挿絵が気に入りました。この作品は3冊の中でいちばん読みやすかったです。登場人物によって活字が太くなっていたりするのもわかりやすかったです。おばあちゃんの幽霊は若いけれど、親しみやすく感じました。作品ところどころにユーモアがあります。おばあちゃんが病院のベットから車椅子に乗る時、「コケコッコー」といったりアイスクリームをもって煙突から出てくる場面など。四世代の作品はあまり読んだことはありませんが、世代や年齢が異なる4人ひとりの性格がよくわかりました。p53の「みょうちきりん」の意味が私にはちょっとなじみませんでした。

アンヌ:とにかく、挿絵が素晴らしいなと思って読みました。特に、p135にある家系図には助けられました。これがないと、4世代の母と娘の関係がこんがらがって来そうなところに描いてあったので。物語としては、まずタンジーという幽霊があまり納得のいく描き方がされていない気がしました。主人公である曾孫のメアリーや孫のスカーレットの前にさえ現れることができるのに、80年もの長い間、娘を見守っているだけで、何もしてこなかった。この幽霊は25歳の若い女性のまま成長できずにいたということなのでしょうか? 死についてもあの世についても、この世をさまよっている幽霊だから語れないのか、臨終寸前の自分の娘に、「大丈夫よ」と言える根拠が、最後まではっきりしない。タイトルについても、ある意味、一番面白い部分を語ってしまう題名になっていて、どうしてこう変えたのかがわからない。それから、メアリーのセリフでよく出てくる「なまいきいっているんじゃない、なまいきいっているんだよ、」の言葉のあやがよくわからなかった。幽霊が鏡に映らない時の「気味わるーい」のところも。メアリーの心の中の感じをすべて会話にしているのは、作者独特の表現なのでしょうが、そのたびに引っかかりました。

レン:いつ亡くなるかわからないおばあちゃんがいて、4人の女性それぞれの親子関係がある。訳すのがとても難しそうな作品だと思いますが、よく感じが出ていて、訳者がうまいなと思いました。好きだったのは、p94に出てくるエマーと母ちゃんの遊び、「ふんふん、わかったぞ。このキスしたのは……」というところ。その家族や親子だけの特別な言葉とか遊びってあるじゃないですか。そういう日常の生活が描かれていて、幸せ感がありました。筋じゃなくて、人間と人間の関係が描かれているところが読ませますね。

アカシア:今挙げられたようなところはとてもいいし、4世代の会話もおもしろい。女性4人で夜中にドライブして昔住んでいた家を見に行くという設定もおもしろい。でもね、同じ家族の4人だってことが原因なのか、細切れの時間の中で読むと人物に取り立てて強い特徴があるわけじゃないし、時間も行ったり来たりするので、途中で誰が誰だかわからなくなっちゃった。エマーがキリンのようにのっぽっていうのは、物語のあちこちに出てくるので、つかめたんだけど。p135の家系図がもう少し前にあったらよかったのに。それと、物語の基盤をなす設定に疑問を持ちました。タンジーが、アイスクリーム屋のドアを透明人間のように通りぬけて中に入り、でも出てくるときはアイスクリームを持って煙突から出てくるというシーンがあります。で、タンジーは「わたしはドアを通りぬけることもできたのよ。たぶん、なんというか実体がないから〜でも、アイスクリームは、ちがうでしょ。とけてしまうまでの何分間かはね。だから、アイスクリームを持ったままドアを通りぬけることはできなかったの」と言ってます。これ、変ですよね。たとえ手に持っていても実体のある物はドアを通りぬけられないなら、アイスクリーム代として持っていたお金も無理のはず。物語の中のリアリティがきちんと構築されていない。細かいですけど。それと、もう一つ気になったのは、ジェイムズのこと。姉のエマーのほうは突然の母の死に動揺し、死の間際にキスしてあげられなかったのを後悔しているとしても、結婚もして子どももでき、それなりに充実した日常を送ったように思えます。でもジェイムズはずっと「ジェイムズぼうや」と呼ばれていたせいで結婚もできないし、先に亡くなっている。タンジーは、うんだばかりのジェイムズがちゃんと育つかどうか心配じゃなかったのかな。死の間際にもあらわれていないみたいだし。どうせこの世にぐずぐずしているのだとしたら、ジェイムズの死の間際にもあらわれて言葉をかけてあげないと不公平だと思いました。

レン:「いやーっ」と言ってしまったことで、エマーのほうに悔いがあったから、幽霊を呼び寄せたのでは?

(「子どもの本で言いたい放題」2015年1月の記録)


落っこちた!

アンヌ:ユーモアのセンスが合わない本というしかありませんでした。老人ホームに放火して燃やしてしまうようなおばあさん、という設定を面白いとは思えなくて、最初からつまずきました。最後も、それなりに家族が自分自身に合う仕事を見つかって幸せになり、ほっとした後に、新たな騒動を予感させる感じで終わる。この感じが、私の苦手な作家の誰かに似ているなと思っていたら、あとがきに、「ロアルド・ダールは最高の模範」という作者の言葉が載っていて、なるほどと思いました。

:構造は前作と一緒で、混乱の種がまかれるけれどどんでん返しで幸運がもたらされる形。しかし、やっぱり読みにくかったです。うーん、「町一番のすてきな家族」を装っていたのならおばあちゃんがかきまわすことにも意味がありそうですが、実際は本当にただのトラブル好き。マンガの「いじわるばあさん」みたいでした。好きなおじいさんと両想いになると意地悪しなくなるのも「いじわるばあさん」に似ていて、ちょっと安易でした。

レジーナ:主人公が、とんでもない状況に置かれているところから始まり、その理由を回想の形で説明し、最後にオチがあるのは、『マッティのうそとほんとの物語』(森川弘子訳 岩波書店)と似ていますね。ヘンリックが穴に落ちた時、ナーゼは、言われた通りにヨナスを連れてきて、得意気に穴に突き落とします。命じられたものを必ず取って来るようしつけられたのが、裏目に出てしまう――おもしろい場面です。金ののべ棒を探したり、地面の下に機関車が埋まっていたりするのは荒唐無稽で、子どもは楽しめるのではないでしょうか。最後は、主人公が、金ののべ棒を自分だけの秘密にする終わり方です。E. L. カニングズバーグの『クローディアの秘密』(松永ふみ子/訳 岩波書店)もそうですが、子どもは、何か秘密を持つことで、それまでとは違う自分になったように感じます。自分だけの秘密を持つことは、子どもの成長において、とても大切ですよね。おばあちゃんは個性が際立ち、あくが強いけれど、憎めない人です。先ほど、漫画の『いじわるばあさん』みたいだという話が出ましたが、私も同じように感じました。おばあちゃんがいなくなった後、主人公は、おばあちゃんをとても好きだと言っていますが、いつ頃からそんなに惹かれるようになったのか、その心の動きがつかめませんでした。翻訳は、ところどころ、よくわからない部分がありました。p27の「軽薄そうな灰色の毛糸の帽子」は、どんな帽子なのでしょう。p67に「ナーゼは二枚目のゴルトボンバー・デラックスの金色の包み紙を、穴からほりだしていた。」とあります。この書き方だと、チョコバーの包み紙を、すでに一枚、掘り出しているように読めます。「もみの木」の歌は、「もみの木、もみの木、いつも緑よ」となっていますが、私の知っている歌詞では、「いつも緑に」です。

アカシア:私は最初からリアルな話じゃなくて、荒唐無稽なほら話を楽しむようなテイストの物語だと思ったので、違和感なく読めました。おばあちゃんは家族を騙そうとしたり、もめ事を起こそうとしたりするんだけど、認知症でもないのに施設に入れられたってことが前提としてあるので、なんとなく恨めないし、おかしい。でも、まあ独特のユーモア感覚なので、日本のどの子も楽しんで読めますって、作品ではないでしょうね。1800円っていう高い値段だしね。

レン:最初からかなりつっかかりながら読みました。ハチャメチャなおばあちゃんがやって来て、家族が引っかきまわされて、お宝のことが新聞にのっちゃったり。ユーモアだろうと思いつつも、これがおもしろいのかな?という疑問がずっと消えなくて。おばあさんはかなり皮肉っぽい印象を受けたのですが、本当にこんな感じなのかな。外国語って、そのまま訳すと嫌みったらしく聞こえるじゃないですか。イメージしにくい描写もあって、たとえば75ページの「輪ゴムをおばあちゃんのあごの下にひっかけると、そっと上にあげて、大きくてしわしわの耳のうしろに、またひっかける」って、どんなことなんでしょう。

アンヌ:レンさんは、実際に日本語に翻訳なさる時には、別の言葉に変えてしまいますか?

レン:どういう行為を描いているか、イメージしやすいように多少書きくわえたりすると思います。それからp59 に「ヘンリックは目を見はった」とあるのですが、「目をみはる」というのは、驚いて目を大きく開くことですよね。秘密を話してやるよと言って手招きされて、驚くかなって。「目をきらきらさせた」とか「目を輝かせた」ということかしら。こういうことが、ほかでもちょこちょこ。それと、太字や大きな文字になっている部分がありますが、どうして書体を変えるかわかりませんでした。

レジーナ:原文では、イタリックということはないでしょうか。

アカシア、慧:原文も太字なんじゃない?

アンヌ:例えば、p96には、大文字で表記されている言葉と、太字で表記されている言葉があります。大文字は会話文が大声で述べられていることを表しているのかもしれませんが、太字の方はどうしてそうなのか、よくわからない。日本語としては、どちらも、表記を変える必要はないような気がします。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年1月の記録)