ねむりねずみ:私はこの本、図書館で借りられなかったから、がんばって立ち読みしてきた。どうも、後味がよくないのよね。深澄がめがねを数えるのとか、タイ人の女の子チュアンチャイとの出会いの場面なんかは、とってもうまいと思う。でもね、どっかひっかかるんだな。ナゼだ?! と考えてみると、私はやっぱり、あのラストが嫌なの。深澄は「あぁ、チュアンチャイも、やっぱりお金だったんだ」って、裏切られた気持ちでいたのに、象のダンスを踊って、仲よしして、ハイおわり、でしょ。それでいいの? と思っちゃう。感情的な部分でとりあえず仲直りみたいなのでいいのかな。ほんとうはチュアンチャイにとってのお金の大切さと自分にとってのお金の大切さとの違いとかに展開していくべきのような気がするし、少なくともそこへ向かってのヒントくらいほしい。でないと上っ面だけになってしまう気がするから。

ウェンディ:私は、今読んでる最中で・・・。今読んだところまでのことでしか言えないけど、ちょっとひっかかったのは、全面的に支えてあげなくてはいけない人の存在。他人に必要とされることによって、自分が変わっていくというのは、ちょっとどうかなと思う。というのは、深澄は、どうしようもない状況に追いこまれているチュアンチャイと出会って、「私がなんとかしてあげなくちゃ」という気持ちになるわけだけど、そういう出会いって、だれにでもあるわけではないでしょ。・・・と思いながら、読み進めてるとこでーす。

モモンガ:魚住さんはやっぱり、今の子どもの冷めた感情をうまくとらえる作家ね。描き方もうまいと思う。でも、後味が悪いのよね。とくに、親との関係。大人はわかってくれないとつきはなす、今の子どもの感情はよくわかるけれど、あまりに冷たすぎる。後味悪すぎ。私、ふだんは主人公の子どもの気持ちになって読むんだけど、今回は、親の気持ちになって読んじゃった。もうちょっと歩みよってくれたっていいのになぁと思いながら・・・。

ウンポコ:まあまあ。お刺身食べて、後味よくしてよ(忘年会を兼ねているので、食事しながら話しています)。

ひるね:私も、2時間ほど前に読みはじめたの。今、深澄が、売春しようとしたチュアンチャイの身代わりになろうとするあたりまできたところ。ここまでの感じはよかったわ。『超・ハーモニー』(講談社)は、人物が類型的だと思ったんだけど、今回は、ひとりひとりがよく描けてる。これは三人称で書かれているけれど、実質、一人称みたいなものだと思うのね。深澄のひとり語りだと思えば、この母娘関係の描き方だって、そんなにひどくはないんじゃない? たしかに母親との関係は冷たいけれど、子どもの目から見たら、こんなふうに見える親って存在すると思うし、チュアンチャイの母娘関係はあたたかで、深澄はそこに惹かれてもいるわけでしょ。それで相殺されていると思うから、私は、深澄と母の関係に対して、そんなに反発は感じなかった。援助交際についても、嫌な感じを抱いていたんだけど、こういうとらえ方もあるって知ることができて、よかったと思うわ。

アサギ:私はけっこう好きだった、この作品。乾いた感じがうまく出てると思う。「男の子と簡単に関係をもつ女の子なんて、とんでもない!」って、つねづね思っていたんだけど、これを読んで、「ああ、こんな感じなのかなー」と、少しわかった気がしたわ。深澄のお母さんって、ずいぶんよね。冷たい母娘関係も、この母だったらしょうがないわよ。たしかに、親の描き方はちょっと雑なところもあって、類型的に思える部分が、なくはなかったけれど。それより、ラストが気になったわね。チュアンチャイを帰国させることにしたのは、少々安易。最後、どうまとめるんだろうと思いながら読んでたんだけど、そうよね、帰らせちゃえば簡単よね、と思った。でも、全体としては、少女の気持ちが非常によく描けている作品ね。

ジョー:私はもう、うれしくてしょうがなかったの。久しぶりに読んだ子どもの本だったから。これもまた、魚住さんらしい世界よね。女の子の心の動きが、よく描けている。どこがどう成長したってわけではないんだけど、女の子の一定期間の心の動きが、うまく描けている。文章も読みやすかった。深澄の両親も類型的かもしれないけれど、こういう親もいるでしょう、きっと。魚住さん、またこういう作品たくさん書いてね。期待してます。

紙魚:まず、言いたいのは、とても魅力的な装丁だということ。センシティブな年代の女の子にとっては、なんとも心惹かれる、お洒落なつくりの本だと思う。自分が少女のときに手にしたかったのは、まさにこういう本。深澄は,両親や美大生に裏切られ、チュアンチャイにも裏切られても、クールによそおってる。だけど,実際は心の中に熱いものをもっている子だと思う。構成はちょっと難しいところもあるけど、自分自身のことをまだとらえきれていない十代の女の子の姿が、とてもよく描けていると思う。

ウォンバット:私は最後まで読むには読んだんだけど、最後のシーンのあのポーズが、象のダンスだったということに、ねむりねずみさんの話を聞くまでわかってなかった……。今、その事実を知って愕然としているところ。なんなんだろうなー、これって」と、思っていたの。魚住さん、ごめんなさい。出直してきます。

アサギ:珍しいわね。ウォンバットさん、いつもは気がつくほうなのに。

ウォンバット:私、へんなことには目ざとく気づくタチで、この美大生、鈴木孝はいまに悪いことをするよするよ、気をつけて、深澄! と思ってたら、案の定・・・。でも、いちばん大事なところがわかってなくて、ほんとお恥ずかしい。もう1回読まなきゃね。だけど、うまくできてると思うけど、2回読みたいって感じではなかったのよね。

ウンポコ:魚住さんって、今いろんな状況におかれてる子どもをするどく描く作家だと思ってるんだよ、ぼく。この作品も、たしかに状況がよく描けている。でもね、手ばなしで感心できないんだな。同世代の読者にとっては、胸に迫るものがあると思うけど、ぼくはどうも、古いタイプの読み手みたいでね。作者の価値観にうなずけるかどうかで、読んじゃうんだよね。これは、読みおわったとき、なんだかとっても寂しかったの。愛のない関係とか、チュアンチャイに刺激を受けるっていうのも、もう、寂しーって感じで。もうちょっとなんとかしてほしいっ! と、いらだちが残った。文章は、読みやすかったけどね。テレビドラマを見てるような手軽さもある。まぁ、複雑な思いが残る作品だね。

ねねこ:うーん。どの意見もわかるな。テレビドラマ的というのも、わかる。それは、「映像的」ということだと思うんだけど。魚住さんの情景描写は、とても映像的だから。中学生を主人公にしている作品では、『非・バランス』(講談社)『超・ハーモニー』につづいて3作目だけど、いちばんよく出来ていると思った。母娘関係については、深澄のお母さんは、カリカチュアっぽくされてるんじゃないかな。南の島に9歳の子どもをおきざりにするなんて、あんまりだーとは思ったけど、これに近いことをする親はいそう。深澄は冷めてるわけじゃないのよ。小さいときから、親にラブコールを送るたびにシャットアウトされてきて、傷つきながら、それでもまだラブコールを送ってるわけだから。だけど、そんな深澄以上に、過酷な状況におかれているのよね、チュアンチャイは。彼女のことを知って、深澄の世界は急激にひろがっていく……。

モモンガ:でも深澄は、親との関係では報いられることがないでしょ。そこには救いがない。親だったら、口では批判的なことを言ってたって、子どもの思いに、もうちょっと敏感になるべきだと思うわ。カリカチュアされてるにしても。

ウンポコ:うーん。でも、今ああいう親ってきっと実在してるよね。あそこまでではないにしても、似たようなことはする親はいそう。リアリティを感じたな。

ひるね:そうね。この作品は、深澄の視点で描かれているでしょ。子どもの目から見ると、ああいうふうに見える親って、存在すると思うわ。

ねねこ:私は、「チュアンチャイも実はお金だった」という意見とは反対に感じたのね。お金では解決できない何かが残ったという印象。タイの少女の世界を知ることによって、自分だけの現実に閉じこもっていた窓が開けていく感じがとてもよくわかった。経済的には豊かな日本の女の子深澄が、まだ発展途上というか、貧しい、アジアの国の少女と出会って、生活のこと、親子のこと、そしてお金のことに対しても、新たな視野が開けたんだと思うの。持っていたお金のことを言いだせなかった、チュアンチャイの悲しみを理解することが、深澄にとってはたいへんな成長だったということなんじゃないかしら。

モモンガ:「お金」っていうものを考える、いいきっかけにはなるかもね。ほら、深澄が100円ショップでフォトフレームを買って、自分で撮った写真を売ろうとするでしょ。

ウンポコ:ねぇ、あんな写真、売れるの?

モモンガ:え? 売れなかったでしょ。

ウンポコ:そうじゃなくて。制服の友だちの写真の方。美大生が売ろうとしたヤツ。

一同:売れるよー。

ウンポコ:えっ、だれが買うの?

ウォンバット:マニア。

ねねこ:人気あるのよ。そういう趣味の人には。ところで、お母さんの台詞「百万円稼ぐのが、どんなにたいへんなことなのか、あなたにはわからないでしょ」っていうの、この人らしいなと思った。

ウンポコ:やっぱり魚住さんは、確実に「今」を描く作家なんだな。これは、まさに2000年の作品だと思う。今、この時代に、この人がいたほうがいいっていうかさ、この時代に、「今」を描いてほしい作家だね。

モモンガ:1作目、2作目と比べて、どんどんうまくなってる。

一同:(うなずく)

ひるね:戦後すぐだったら、違う環境の子ども、たとえば裕福な家の子と貧しい家の子を書こうとしても日本国内でできたけど、今は、外国人をつれてこないと、描くことができないのよね。

アサギ:さっきの、ひるねさんの「この作品は、三人称で書かれているけど、実質は一人称小説」っていうのを聞いて、なるほどと思ったわ。「子どもの視線」と思えば、この親子関係も納得。

ひるね:子どもと親の性格があまりにも離れていれば、こういうことも起きるわよ。

愁童:最初の場面、タイ人の女の子の登場の場面なんだけど、ここ、位置関係がおかしくない? ぼくはここ、よくわからなくて何回も読み返したんだよ。その結果、やっぱり位置関係がヘンだと思った。

モモンガ:私、このシルエットの少女が深澄なのかと思っちゃった。

アサギ:私はここ、よくわからなかったけど、追及せずに進んじゃったわ。

ウォンバット:私も。ま、いいかと思いながら、ずんずん読み進んでたら、大事なところも読みとばしてた。

ねねこ:読者の視点と、深澄の視点にズレがあるから、位置関係って難しいのよ。私は、矛盾はないと思ったけど。

愁童:この最初の夕陽の場面のイメージ好きなんだけど、位置関係の描写みたいな部分、ない方がよかったんじゃないかな。読者が勝手にイメージをふくらませる余地を与えてくれた方が親切だと思うな。

ねねこ:でも、そういうふうに書きたかったんじゃない、作者は。

ウェンディ:私は、位置関係をちゃんと確認したわけではないけど、自分で勝手にイメージをふくらませて、映像的だと思ってた。

ジョー:読者に、あるイメージを与えるだけでも、じゅうぶん価値アリだと思うわ。

愁童:深澄がケガして入院してる場面のお母さんの豹変ぶり、ぼくにはちょっとわかりにくかった。リアリティに欠けるような気がするんだけど。急に泣いたりしてさ。

ねねこ:そうかしら。私は、その不安定さにこそリアリティがあると思うけど。深澄に髪をひっぱられても、されるがままになっていたというところなんて、とくにリアル。だらだらとした描写っていわれるけど、高村薫に比べたら、大したことないでしょ。こういう、描きこみ方に、ぐっとくる読者もいるのよ。

ウンポコ:では、このへんで、『象のダンス』の対局にあるしつこさ、『波紋』にいってみよう。

(2000年12月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)