『だれが君を殺したのか』
イリーナ・コルシュノウ/作 上田真而子/訳
岩波書店
1983.05
原題:DIE SACHE MIT CHRISTOPH by Irina Korschunow 1978(ドイツ)

<版元語録>君の死んだ日、ぼくは警察によばれた、ただ一人の目撃者として。あれは事故だったのか、それとも自殺か。みなぼくに問いただそうとした。だけど本当のことは、わからない。ぼくは、君の死の真の意味をさぐろうと思う。

トチ:最初のうちは、若者の死に至る悩みがえんえんと書かれていて、これって今の若い人にはわかるのかしら、ちょっと遠いかなとも思って読み進んでいるうちに、クリストフが失踪したあとでいわゆるホームレスの事件が起こるところで、ドーンと今につながった。今でもじゅうぶん読み応えがあるし、将来も読みつがれていく作品だと思う。最初、古いなあと感じたのは、訳文のせいかも。「床をともにした」という表現のところで、思わず笑っちゃった。80年代には、まだこういう言葉を使っていたのね!でも、「床をともにする」人がいても救われないというクリストフの痛ましい孤独は、大人の私にもわかるし、今の若い人も身にしみてわかるんじゃないかしら。細かいことだけど、「マタイ受難曲」のような有名な曲は、ことさら「マタイ伝による云々」というようなていねいな訳し方をしなくてもいいと思うのよね。岩波の翻訳ものって、「わからないでしょうから、教えてあげる」というようなところとか、官能的なところをぼかして訳すというような過剰な配慮が感じられるんだけど、私の偏見でしょうか?

ウエンディ:私がいちばん最初にこの本を読んだときは、まだ主人公たちと近い年齢だったんですね。そのときは、私の言いたいことをよくぞ言ってくれたと思ったんです。大人になることの難しさ、若いゆえの純粋さとか潔癖さとか。それを描くための1つ1つのエピソードどはすごいと思う。クリストフをどんどん追いつめていく描写がすごくうまい。クリストフが死んでしまったところから始まって、マルティンが彼のことを思いだしつつ悩みつつ、ショックをのりこえていく構図だけど、数学マイヤーも、実はそういう苦しみをのりこえてきたんだということはうまく書かれていますよね。でも、ほかの登場人物たちは、どこかしら都合よく描くための道具にされている気もしました。床をともにしたウルリケでさえも。あと、コルシュノウにしては、大人がステレオタイプかなという気はしました。そこが不満といえば不満かな。時間がいろんなところに飛んでいて、ちょっと読みづらいところが気になったけど、それは訳の問題かもしれない。逆に、映画になったりしたら、効果的かもしれない。

紙魚:読みすすめていくと、はしばしに突き刺さるような鋭い感覚が描かれていて、次々波が押し寄せてくるようでした。限りなく絶望的でぬかるみにはまっていくようでありながら、ページを読み進める力はぐんぐんわいてくるという感じ。この本は今は絶版なのかしら。なかなか手に入らなくて、結局借りたんです。品切れなのかな? ネットでも流通してなかったし。もし、今出回ってないのだとしたら、とてももったいない。時代は変わっても、この本を読んで、救われた気持ちになる人は絶対にいると思う。絶版にしないで、出してほしい本です。クリストフやマルティンのように、親に対して何も答えたくないとか、学校や社会の事柄も受け入れたくないとか、自分にとって優秀だと思う人にひかれていくところなどは、だれでも必ず通りすぎることだと思うんです。1つ1つのエピソードを読みながら、自分自身の過ぎ去りし日のことをすくいあげて、かみくだく作業がしぜんとできました。この主人公は、クリストフにもなれず、でも大衆にもなれないという葛藤の中に生きているんですね。こういう行ったり来たりしている若者ならではの感覚がきちんと描かれていると思う。どっち派でもなく、何に関しても行ったり来たり。この年代の人に共感を呼ぶのではないかしら。
ところで、私はドイツの教育制度というのは、帰国子女の人からよくできていると聞いていたんです。マイスター制度があったりして、けっして知識偏重の社会ではないと。でもこれを読むと、日本と同じようですよね。子どもが苦しんでいる。彫刻家だったけれど、今ではスイッチを売ってるお父さんが、彫像をたたき割るシーンなどもぐっときましたね。常にマルティンは、クリストフは正しかったのか、章ごとにと問いかけているんですけど、実際はクリストフのことを正しくないと思いつつ、クリストフにひかれている。自分に対しても他人に対してもいつも問いただしていて、大人になると生きることの辛さとか弱さとかを受容できるのに、けっして受容できない若さをうまく表現しているなあと思います。ぐらっときたシーンを挙げだしたらきりがないくらい。ただ、マルティンがちょっとずつ大人になっているなあと思ったのは、p198の「もっとしょっちゅう笑えばいいのに、母さん」という言葉。こういうことって思っていてもなかなか言えないことなんだけど、お母さんに対して言葉に出して言ったときには、胸がつまってしまいました。

愁童:作者が女性のせいか、ぼくにはちょっとクリストフの描かれ方に違和感がありました。ドイツのものには、こういう繊細な少年がよく登場するけど、クリストフのように、金権に反抗したり、公害に反対したり、意識が外へ向かう少年と、自殺する少年のイメージがどうもしっくりこなかった。まあ父親との関係なんかから、意識を外へ向けざるを得ない少年の絶望感みたいな読み方がほんとかなとも思うけどね。自殺するほど追い込まれながら、公害に怒ってみせるなんてできるのかな、なんて思ってしまったら、どうも気持ちが盛りあがらなくなった。少年2人の、それぞれの両親との葛藤はうまく書かれているね。迫力があった。

オカリナ:力のある作品ね。今の若い人たちも、中学、高校時代には同じような気持ちを感じていると思う。でも、そういう部分に寄り添うような作品が少ないのは残念。クリストフが死んだのには、あるひとつの絶対的な理由があるというよりは、いろいろ要因があって、それらが積み重なっていったからだと思うのね。お父さんとの不和は要因の一つだけど、それだけが突出してるわけじゃない。ドイツにだって日本にだって、こういうお父さん、まだいると思うし。ウルリケの妊娠騒ぎも要因の一つで、ウルリケ自身は、クリストフに妊娠したと言ってしまって、実はそうじゃなかったことは告げてなかったから、原因の半分は自分じゃないかと思ってる。教師の無理解もあるけど、この年齢の子どもなら、こんなふうに教師を見てる子は結構たくさんいると思う。他にも、村に急にお金が入ってきたけどみんなお金の使い方を知らないから、大人の愚かな部分見せつけられるとか、浮浪者の事件のこととか、そんなもろもろのことが、いろいろ重なりあってるよね。あたりまえの人間にはなりたくないと抵抗しているクリストフ。それは、主人公のマルティンにも共通している姿だと思う。愁童さんは、意識が外へ向かうのと繊細なのは矛盾するっておっしゃったけど、この子たちは積極的に政治にかかわって公害反対運動をしたり、金権体質に抗議したりしてるわけじゃなくて、本能的に嫌だ、ノーと言ってるのよね。だから矛盾はないと思うの。上田さんの訳は、ほかの作品より硬い感じがしましたね。こういう心理的状況に陥ってる中高生を次の段階に行けるよう助けてくれるような本だと思うけど、この文章だと難しいかもしれないな。

トチ:原文は、もっとユーモアをもって書いていたところももあるんじゃないかしら。すべてがこう硬かったわけでもないと思うのよ。

愁童:先生のあだ名のところなんかは、なかなかおもしろかったよね。ああいうところが、他にもあるのかもしれない。たとえば、マルティンのお父さんがスイッチを売っているという設定や、新しいスイッチを得意げに説明する箇所なんか、おもしろいよね。

トチ:そうそう、軽いところもあるから、重いところもあっていいのよね。知人に、読書会を主催しているお母さんがいるの。その会に中3の子が何人かいるんだけど、いい本を読んだときに、いいとは絶対言わないんだって。自分がほんとうに感動した本のことは言わないらしいの。たしかに子どものときって、感動したことを言葉にはしないわよね。この本は、今の時代につながるところもあるので、違うかたちで出していかなければいけない本なのではないかな。

ウォンバット:よかったという意見が多いなか、言いにくいんですけど、私には、少々りっぱすぎる感じの本でして・・・。内容も苦くて、読んでいるうちに、しかめっ面になっちゃいました。なかなか読み進められなくて、行ったり来たりしてしまって。全体の色はダークで、限りなく黒に近いグレー。能天気なところが、ちょっとくらいあってもよさそうなもんなのに、そういうのも全然なくて、気を抜くところがない。あー、とにかく読みおわってよかった、と思ってしまいました。ねえ、結局、自殺かどうかはわからないんでしょ。

ペガサス:ちょうど風邪をひいていたせいもあるけれど、これを読むとよけい頭が痛くなってしまって。やはり、みんなが言っているように文体が古いのよね。上田さんご自身はそんなに硬い感じの方ではないのに。この本を今の子どもが読みとおすのは、ものすごく大変なのではないかな。それから、内容的には、エイダン・チェンバーズを思いだしちゃったわ。マルティンがお母さんに「何になりたいの」ときかれても、わからない。でも「こうなりたくない」ということだけはわかっている。それってほんとうに青春の悩みよね。父親の挫折とかが目前にあったりね。でも私には、クリストフが何に悩んでいるかは、よくはわからなかった。クリストフがそんなに魅力的には伝わらなかったわ。

ウエンディ:マルティン側から見た目線で書いてるから、すべてがわかるわけじゃないのでは?

オカリナ:私にはクリストフの悩みがよくわかったの。もしかしたら、読む方がどういう体験をしてきたかによって、どの程度共感できるかが違うんじゃない?

ほぼ一同:(うなずく)

トチ:クリストフが抱いていたのは、群集になりたくないって気持ちよね。ところで、黒い本(1983年初版)の方の群集っていう字がまちがっていたのが、ショックだったんだけど。

一同:えーっ! ほんとだ。

オカリナ:文体のことを言えば、同じような年齢の子ども同士の会話でも、この本で書かれているのと、斉藤洋の本では、ずいぶん違うわね。

ねむりねずみ:私は読んでみて、あードイツって感じだった。訳は確かに時代がかっていると思う。でも、学生だったころの同級生が抱えていた問題とも共通していたし、違和感はなかった。若いときって、現実とのつながりがうまくもてなくて、自分を思いっきり持ち上げたり、かと思うとやたら貶めたりするんですよね。そういうところもうまく描かれていて、すごくおもしろかった。暗さにも迫力があるし。途中、この状況からどうやって抜け出すのかなって思っていたら、マイヤー先生が出てきた。ちょっとあれって感じもしたけど、こういう終わり方しかないかなとも思った。ドナウの風景もきれいに描かれていたし。自分自身のことも振り返ってみて、クリストフみたいな人が生きるか死ぬかというところに立たされるのは、何か大事件のせいじゃなくて、細かいことの積み重ねの結果だと思う。私自身は、そういう若い人に、生きるほうに分岐していこうよと言う立場にいたことがあるので、その辺の感じはすごくよく伝わってきた。まあこういうくぐもり方は、ある意味若さゆえの甘えなんだけど。クリストフについては、親との関係が大きいかなって思った。それと社会との関係の中で、この若さだと人生に対して粘り腰になれないんで、はじけてしまったともいえるんじゃないかな。若い世代の人たちからすれば、大人はしょせん大人でしかない。そこをどう「大人」という一言でくくられないようにするか、現場で若者と向き合っている人たちのそういう大変さについて考えてしまいました。大人がいくらがんばっても生身の人間、他者だからこそ若者の心に入っていけないっていう場合もあって、そんなときに本と向き合ったほうが素直になれたりする。そういう意味で、本は若い人が生きていく上で大きな助けともなりうるなあ、とあらためて感じました。

チョイ:ところで、さっきの『ルーム・ルーム』では、生きなくちゃいけないといいつつ、『だれが君を殺したのか』はまた違った内容だし、いったい今回の本選びはどういう主旨なんでしょうね?(一同笑う)私は、この本で16、17歳の頃の感覚がよみがえりました。2年くらい前に、高校のときの日記が出てきて、読んでいたら、やっぱり私の近くにクリストフみたいな子がいるんですよ。現実と折り合いがつかなかったり、高圧的な親がいたり、いろんな状況がこの本と重なっていて、16、17の時ってこうなんだなあと、しみじみ実感。7、80年前に書かれた有島武郎の長編『星座』なんかにも、まさに同じことが書かれていたりするし。若い人たちがどうやって生きていくかという問題は、ずっとく繰り返されるんだなと思いました。今回、「あの子は弱かったのよ」と言うバールのおかみさんや、マイヤー先生など、つい大人の言葉に共感する自分に気づいて、時の流れを感じてしまいましたけど。この本はずっと持っていて、何度か手放す機会もあったのだけど、なんとなく気になって捨てられない本でした。確かに暗いかもしれないけれど、青春時代には必要な本だと思います。どうしようもないその時期の感覚を共有できる本があって、また生きていく力につながっていくんじゃないかな。

アサギ:今回の本選びは、テーマは完全に後づけなのよ。それぞれ読みたいものを持ちよって、それらを並べてみて、それじゃあ10代だねっていうことだったの。斉藤洋さんの本が読みたいというところもあったし。この本の原題は、「クリストフのこと」っていうのね。もともとコルシュノウという作家は、幼年文学を中心に書いていて、10年くらい前に児童書とは縁を切ると宣言して、それからは一般向けのものを書いているの。この本は、当時、ドイツで評判になったんです。やっぱり読んでいて、自分の青春時代を思いだしたわね。確実に時代というものを越えていると思う。クリストフの嘲笑的なところは、ぎりぎり精一杯だけど、他を見下していることで、かろうじて自分を保っているというところ。確かに親の描き方はステレオタイプだけど、実際にそういう人はいるので私はいいかなと思った。むしろ、数学マイヤーがステレオタイプに感じたわ。過激に学生運動をやった人で、いかにもありそうという感じ。ここはありふれていて、平凡と感じてしまった。マルティンのお父さんが、現実と妥協しながらスイッチを売っているというのも、ステレオタイプかもしれないけど、この年になっちゃうとね、どんなものを読んでも、読んだことがあるように感じるのよ。若い人が読めば説得力があるんじゃないかしら。

チョイ:農家のおばさんが「あの子は長生きできないと思った」というのが、うまいわね。おばさんが生命力を見ているあたりも、人物像がくっきりしている。本当のところはわからないけど、私はクリストフは自殺だと思う。人が死ぬっていうときは、いろいろな要素がつまっているも思う。さっき公害というのは違うんじゃないかって意見もあったけど、私は違うとは思わなかった。どちらにせよ、原因はひとつでは言いきれないはず。音楽を愛していても救われないというのがあったり、数々の要因が投げだされていて、そういう総体が彼を追いつめていくさまが描かれている。

アサギ:前に、彼女のインタビューを読んだことがあるんだけど、たしか息子さんの友だちが自殺しているのね。そのときに、なんとかしてこの難しいときを生きのびてほしいと思って書いたらしいの。その試みは、成功していると思う。私はみんなが言うほど暗いとは思わなかった。マルティンは強く生きていくだろうなあとも思うし。この本を読んで、生きていく力を得る子はいるんじゃないかなあ。作者の志は達成されていると思う。考えてみたんだけど、マルティンとクリストフは実は1人で、マルティンは自分の中ののクリストフを殺して生きのびたとも読み取れるわね。そうやって生きのびる子もいるんじゃないかしら。

一同:(ふーむとうなずく)

アサギ:コルシュノウは今でも文壇で活躍しているんだけど、もう児童書は書かないと宣言しているの。彼女は常に、自分の子どもとの関係で作品を書いていたのね。幼年童話にしても、自分の子どもに聞かせたくて書いていたのよ。『ゼバスチアンからの電話』(石川素子・吉原高志共訳 福武書店)もそうだし。でも、児童書の世界から去ってしまったのは残念よね。

ペガサス:アサギさんのクリストフとマルティンは1人だったという考え方は納得できるなあ。なんだかいろいろ言葉にならなかったことが、すとんと落ちた感じ。マルティンはクリストフのことをわかっていたのねと思いながら読んだしね。

チョイ:マルティンがクリストフと違うのは、他者を理解しようとするところじゃないでしょうか。いろいろな外界の重圧の中で、生きていける力になるかならないかは、ここが分かれ道になったんだと思う。マルティン自身もクリストフが生きのびられないことはわかっていたのかも。

(2001年02月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)